エピローグ
〜真実は闇の中へ…〜

64 悪意の萌芽

七月二十一日、午後四時。
商店街から僅かに外れた、閑散とした喫茶店の中で『私』はある人物を待っていた。
時間に遅れるとは余り感心できることではないが、まあ良い。

「……すいません、遅れました」

『私』の側面から陰気な面を多分に含んだ少女の声が響いてくる。
美坂栞という少女だということは、『私』も既に了解済みだ。

「まあ、三分くらい許容範囲だよ。それで……覚悟はできた?」

「覚悟って……何ですか?」

「君の姉が、いかに君のことを嫌ってるかってこと」

『私』の笑みを含んだ科白に、栞は怯んだ様子を見せた。

「そんなこと……ないです」

「でも、内心ではそれを疑ってるんだろ? だからここに来た。そして、こちらには
君の期待に応えるだけの準備があるんだよ」

そう言って、バッグからテープレコーダを取り出す。

「それ、何ですか?」

「この中にはね、君のお姉さんの科白が入ってるんだよ。聴いてみるかい?」

『私』は挑発するように、ゆっくりと口に出す。
切り札はもっていても、すぐには曝け出さないのが心理戦での勝利の秘訣なのだ。

「えっと……」

「恐いんだろう? だったら聴かなくても良いんだよ」

栞はしばらくの間、逡巡の静寂を保っていた。しかし意を決して声を発する。

「いえ、聴きます。嘘だって証明するために」

その言葉を『私』は待っていた。決意が固いほど、圧し掛かる絶望感も強いのだ。

そして、テープレコーダの再生ボタンに手をかけ……録音された言葉が小さく漏れる。

『……そうよ、私は栞なんていなくなってしまえば良いと思ってた。死んでしまえば良いと
思ってたのよ。私は』

そしてテープレコーダを止める。『私』は顔面蒼白になった栞をじっと観察する。

「嘘です……嘘です……」

壊れたレコードのように、そんな言葉を繰り返す。
『私』は気が熟したと判断した。そして、ポケットから例の振り子を取り出す。

「嘘じゃないよ。これは真実なんだ。さあ、これを見て……自らの心に問うんだ」

振り子が揺れ出すと、栞の目が虚ろな瞳孔を揺らし始める。

「君は知ったよね。君のお姉さんは、君のことが大嫌いなんだよ」

「……お姉ちゃんは、私のことが嫌い」

「君はこんなにお姉さんのことが好きなのに」

「……そう、私はお姉ちゃんが大好き」

「ひどいよね。病気で苦しんでいた時は無視して、直ったら平気でお姉さん面するんだから」

「……そう、なの?」

「そうだよ。お姉さんは君のことが嫌いなんだ。それなのに表面はへらへら笑って」

「……ひどい」

「そう。君のお姉さんは酷い人なんだよ。そんな人間のこと、好きでいる必要なんてない」

「……じゃあ、どうすれば良いの?」

「憎めば良いんだよ。何なら、一層殺しても良い」

「……憎い、私はお姉ちゃんが憎い」

「だからね。殺しちゃえば良いんだよ、カッターナイフで」

「……分かった、殺しちゃえば良いんだね」

「そう。そうすればすっきりするさ」

かかった。

『私』はそう確信して、思わずほくそえんだ。普通の人なら催眠状態に陥っただけだろう。
しかし、『同じ魂の色』を持つ彼女なら生殺与奪を握るほどの暗示をかけることができる。
本当なら催眠マインドコントロールといって、長時間の刷り込みと精神的圧迫を必要とするら
しいが……まあ、そんなことはどうでも良い。

これは、計画の第二段階が完全に終了したことを意味する。あとは、蒔いた種を刈り取る時期を
慎重に選べば良い。そして、その時期は割と近いのではないか。『私』はそんな直感的な意識を
感じていた。あとは……ゆっくりと包囲を狭めていけば良い。

「じゃあ……私が手を叩いて三十秒経てば、君は私に関する全ての記憶を忘れることになる。
そして、この音を……」

私はカッターナイフの刃を露出させる時に発生する音を立てる。

「聞いた時に全ての本能を思い出す」

そして手を叩くと、『私』は感情を払い悠然と喫茶店を出た。後には呆気に取られた様子の美坂栞
だけが残されるだろう。

 

65 羽をもがれた天使

水瀬秋子はその日、真琴が入院していた病院を訪れていた。あの日、すれ違った少女の
ことがどうしても気になったからだ。あの時は確かめなかったが、今思うとあの街から姿を
消したのは大怪我を負ったからではないかもしれない。そんな考えが頭を過ぎったのだ。

しかし、そんな事故が起こればニュースなり新聞なりでそれなりの報道が成される筈だ。そ
れがないということは、ニュースになる価値もなかった事故ということになる。それに、七
月になった時分であんな焦燥した姿で入院していることはない。その矛盾が秋子を悩ませた。

或いは慢性的な疾患を抱えていて、入退院を繰り返しているということも考えられる。しかし、
僅かながら医学的知識のある秋子には分かるのだ。月宮あゆは間違いなく、健康体であった。

しかし、何かが引っ掛かる。月宮という名字、何か……そう、秋子の頭に引っ掛かる何か
が存在しているのだ。それは、初めて会った時から感じていた。

七年前の事件。同性同名の少女が街外れの大木から墜落して意識不明の状態を負った。
彼女は一時、この街の病院に搬送されたが、あゆの新たな保護者――父方の祖父――
の依頼があってもっと設備が整った東京の病院へと輸送されたのだ。

もしかして、意識が戻ったのだろうか? そして、懐かしの街を訪ねて? 或いは再びの転居
かもしれない。あゆの保護者は現在、この街に住んでいるから。しかし、それでも矛盾は残る。
もし、そうだとしたらあゆ自身がそのことを話してくれて良いのだ。それに、ばったりと姿を消し
たのも変なことだ。

だとしたら、長期間の昏睡状態で記憶が部分的になくなったのだろうか? それなら事故のこと
を忘れていて、祐一のことを覚えているとしても辻褄があう。

いや、やはり駄目だと秋子は判断した。記憶がなくなっていたとしても、事故のことは病院の人間
が教えているに違いない。事故のことはやっぱり、話している筈なのだ。

推論の堂々巡りを繰り返し、結局は直接あの患者を訪ねることで疑問を解決しようとした。
秋子が病院に足を運んだ理由はそれだった。

その少女の素性は、あっさり過ぎるほど簡単に分かった。七年間の昏睡状態から目覚めた奇跡
の少女、名前は……月宮あゆ。

秋子はその説明を聴き、更なる驚愕の渦へと巻き込まれた。看護婦の説明によると、その彼女
が目覚めたのは今年一月三十一日の深夜のことであるというのだ。

だとしたら、自分が見た月宮あゆという少女は一体何者なのだろう? 昏睡状態にある少女が、
毎日ベッドから抜け出して?

いや、もしかしたら同性同名の別人ということも考えられる。秋子は看護婦に彼女の叔母であると
嘘をつき、月宮あゆの病室へと足を運んだ。

淀んだ消毒液と薬の空気が漂う廊下を歩き、一歩ずつ目的の場所へ近づく。

そして……その場所は今、秋子の目前にあった。

小さく息を吸う、そして大きく吐く。

目の前にどんな光景が広がっていても良いように。

「彼女、リハビリも大分進んで来たんですよ。あと十日くらいで退院できますから」

隣にいた看護婦が思わず口を挟む。となると……退院は八月五日だ。

「あの、入っても良いですか?」

「ええ、でも眠ってるかも」

看護婦がそう言うので、秋子はそっとドアを開ける。

その目に飛び込んで来た少女、顔は以前と比べて少し痩せこけていた。

髪の毛は以前より短く切られ、カチューシャは身に付けていない。

病院のベッドに静かに横になり、その目は虚妄なく天井を見つめている。

天使の羽は、勿論ない。

羽のもがれた天使……秋子が目の前の少女に対して抱いた第一印象がそれだった。
しかして、その容貌は以前に商店街で見たあどけない笑顔の少女、月宮あゆのものだ。

秋子は胸の中を巡る複雑な感情を隠そうとしないまま、ゆっくりとあゆに近づいた。
するとあゆの方もその姿に気付いたのだろう。ゆっくり秋子の方に顔を向ける。

「あゆ、ちゃん? 本当に……お久しぶりね、お元気かしら」

訪ねたいことは本当に沢山あった。しかし、今は目の前の少女の再会と無事を確かめる
ことが何よりも秋子の中で最優先されたのだ。

しかし、瞳の向こう側に映るあゆの目は秋子を映して何の憐憫をも抱いていなかった。
いや、むしろ困惑した表情を浮かべている。

そして、以前より僅かにしわがれた声で首を傾げながらこう言ったのだ。

 

「……おねえさん、誰?」

 

第五部 天使の消える街に続く……


あとがき

と言う訳で『吸血鬼の密室』の解答編をお届けしました。
もっとも、年末には既に完成していたのですが。

あなたの推理はどこまで当たっていたでしょうか? 殺人事件については、ナイフの位置に
気付けば自ずと犯人やその犯行状況は特定できたと思ったのですが。 
あとは秋子さんについてはった伏線を気づいてもらえたかな……というのが一番の関心事です。

既存のキャラクタに巧妙な伏線(がはれたかどうかは分かりませんが)をはって、新しい
側面を作るというのは御神楽のある事件を参考にしました。私の最も気に入っている事件
です。Kanonの設定を使っているのは、これをやりたかったというのが相当に強いです。

あとは、前回が事件一辺倒の話だったので、事件と日常生活の両方が描けるようにと
苦心したのですが、どうもその目論見は失敗したような気がします。

ともあれ最大の長編となったこの作品、最後まで読んでいただきありがとうございます。
解答〆切りの数日前まで解答メールが一通しか届かないという事態に相当な焦りを感じた
のですが、解答も何通か集まってこちらとしてはほっとしている現在です。

さて、残す所は最後の事件のみとなりました。最後のメインキャラ、あゆの登場です。
不気味に暗躍する『私』の正体とは? 祐一や舞の周辺で起きた幾つもの奇跡の原因は?
そして、あゆの引き取り先で起きる未曾有の連続殺人事件の真相は?

全てが明らかになる最後の事件、『天使が消える街』に乞う御期待下さい。
卒論や就職その他諸々で忙しいのは目に見えているので、公開は四月頃となりますが。

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