プロローグ 白の失墜

この幻の何であるかと言ったとしても、
真相をそう簡単には尽くされぬ。
水面に現れた水沫のような形相は、
やがてまた水底へ行方も知れず没する。

(ルバイヤート/オマル・ハイヤーム)

−1−

僕の家は、白い家だ。

壁も、カーテンも、テーブルも、お皿も、食器も、洗濯機も、テレビもみんな白。

ブラウン管まで白だから、テレビを見ることが出来ない。

あれでは、ただの箱だと僕は思う。

お父さんは白が好きで、何でもかんでも白にする。

白じゃないところがあると、お母さんやお手伝いの人を責めたてる。

だから、お手伝いさんはすぐにやめていく。

今は、うちに来るお手伝いの人はいないから、今では僕と弟が掃除をしている。

お母さんはお父さんに叱られた後、いつも僕と弟を部屋に連れて行く。

そして、ひどく叱るのだ。

「あんたたちがちゃんと掃除しないから、私が怒られるじゃないか」

そうして、掃除はちゃんとしろとか、頬を打ちながら言って来る。

だから、お父さんが帰って来る前の日は、いつもより念入りに掃除をする。

お父さんは仕事が忙しいので、余り家には帰って来ない。

帰って来ると、いつもよっぱらいのように目をトロンとさせて、必ず怒っている。

この前なんか、包丁を振り回して、殺してやるとか言って叫んでいた。

僕と弟は恐くて、二人で僕の部屋の机の下でがたがたと震えていた。

狼とこぶたの話に似ていると、僕は思った。

僕と弟がこぶたで、お父さんは狼なのだ。

 

「ねえ、うちのお父さんとお母さんって変なの?」

弟は、ある日そんなことを聞いて来た。

僕は、正直言ってびっくりした。

「普通の親は、子供を殴ったりしないのに」

僕の家の親は普通じゃないと思う。

普通の家なら、料理だってお母さんが作ってくれるし、

困ったことがあったら助けてくれる。

友達の家のお母さんは、他人の筈の僕にもお菓子をくれる。

殴ったり、掃除を押し付けたりという家は、聞いたことが無い。

だから、僕の親は変なのだと思う。

けど、まだ6つの弟に話すのは早すぎるような気がした。

だって、余りにも残酷なことだから。

 

弟は気が弱いから、小学校では苛められている。

だから、僕は弟と一緒にいることが多かった。

上級生が隣にいれば、苛めたりはしないと思ったからだ。

家でも親に酷いことをされて、学校でも酷いことをされるのは可哀想だと思ったから。

僕が、弟を守ってあげなくてはいけない。

 

7月に入って、五年生の僕は林間学校に行くことになった。

一泊、山の向こうの旅館に泊まる。

僕は楽しみだったが、弟が酷い目に合わないか心配だった。

弟は僕に向かって言った。

「大丈夫だよ、一日くらい」

精一杯の笑顔を浮かべながらの弟の言葉。

本当は休もうと思っていたけど、弟がそう言うなら言っても良いと思った。

でも、それは間違いだったのだと思う。

そして、その時が、僕が弟の笑顔を見た最後の時だったのだと思う。

 

僕が林間学校から帰って来ると、一番に飛びこんで来たのは、

僕のお母さんが殺されたということだった。

弟も重傷だと言う。

僕は急いで、病院へといった。

そこでは何か難しそうな機械を一杯付けて、苦しそうな弟の姿があった。

それから、警察の人にも話を聞かれた。

僕が早く犯人を捕まえて下さいと言うと、警察の人は悲しそうな顔をした。

家に戻ると、警察はいなかった。

台所では、見たことも無いような赤が、白い床を染めていた。

 

今日は、今まで生きて来た中で一番嫌な日だった。

お父さんが、家の近くの森の中で自殺してるのが発見された。

自殺するのに使った包丁は、お母さんと弟を刺した包丁だった。

それに、他にもお父さんはいけないことをしていたらしい。

麻薬の密売。

人を苦しめる、いけない薬だと、授業で習ったことがある。

今日は、お母さんの葬式だけど、来た人たちは僕のことを指差して、

色々と悪口を言った。

その夜、弟の容態が急変したとかで、僕は一人で自転車に乗って病院へ行った。

でも、面会謝絶とかで弟には会えなかった。

 

僕がソファで眠っていると、お医者さんの人が僕を起こしてくれた。

どうやら、峠は超えたらしい。

弟に会えるのは二、三日後だというので、僕は午後から授業に出た。

でも、先生は僕の顔を見てとても迷惑そうな顔をしていたし、

上級生の子がお前の父さんは気狂い野郎だとか言って苛めて来たので、

楽しい日じゃなかった。早く、弟が元気になるといいな。

 

病院から、弟が面会できるほどに回復したというので、僕は病院に向かった。

けど、弟は事件のショックで言葉が喋れないらしい。

でも、僕が来ると嬉しそうな顔をした。

元気そうで安心した。

けど、次の瞬間、弟の顔は奇妙に引きつっていた。

後ろを向くと、時々僕の家を尋ねて来る男の人の姿が見えた。

その人は、僕から怪我の様子とかを聞くと、すぐに帰っていった。

何故か、弟はずっと、恐い顔をしている。

何かあったのかと聞いても、何も答えてくれなかった。

 

次の日、弟が死んだ。

点滴用のチューブに、間違って消毒用の薬を入れたのが原因らしい。

担当だった看護婦の人は、そんなことは絶対に無いと言っていた。

結局は事故で片付けられたようだ。

でも、僕は弟の脅えた顔が気になって、

次の日、病室に来ていた男の人の家を尋ねてみた。

驚いた。そして、腹が立った。

あれ程、腸が煮え繰り返ったことなんて、初めてだった。

余りに腹が立っていて、ほとんど言っていたことは記憶に無いが、

二人が協力して親と弟とを殺してしまったのだということは分かった。

弟がいきなり死んだのは、あいつが点滴用のチューブに、

毒を混ぜたからだったということも……。

僕はすぐにでも怒鳴りこんでやろうかと思ったけど、

大人では子供には勝てないし、とぼけられたらそれで終わりだ。

 

僕は天外孤独の身になった。

親戚の人は皆、僕を引き取るのを嫌がったので、僕は施設に行くことになった。

ここから遠い場所だ。

でも、どんなに遠く離れていても、僕はあのことを忘れない。

そして、大人になったらあの二人を殺してしまおうと心に強く誓った。

 

−2−

こんなことになってしまったけど、私はあなたに会えて本当に良かった。

本当なら、あなたと幸せに暮らしたかった。

けど、遠い昔、私に課した盟約を覆すことは出来ないのです。

努力はしました。

けど、その度に弟の縋るような、脅えるような目が私の脳裏を過ぎるのです。

復讐なんて不毛だと分かっているけど、

それでもやるしかありませんでした。

私は、三人もの人を殺めた恐ろしい人間です。

どうか、私のことは忘れて、

あなたはあなたの幸せを掴んでください。

そして、私もそれを心から望みます。

それが、最後の願いです。

 

−3−

今、入ったニュースです。

仙台市○○病院で起こったニトロ・グリセリンの大量盗難事件ですが、

数日前に自殺した同病院の医師であるXX氏の遺書から、

彼がこの盗難事件にも関与していることが分かりました。

遺書によればこの人物は、若い頃は将来を渇望された医師でしたが、

病院内での権力争いに破れ、以来、出世とは縁遠い生活を送っていたと述べており、

自分を陥れた医師たちへの復讐のため、犯行に及んだというようなことが書かれていました。

ニトロ・グリセリンは、高性能火薬の原料となる物質で、医療現場では主に、

心臓用の薬として使われている物質です。それを用いて犯行を実行に移す予定だったが、

思い直した後に自ら命を絶ったという算段が強い模様です。

なお、警察では未だ行方の分からぬニトロ・グリセリンの捜索を続けると共に……。

[SS INDEX] [NEXT PAGE]