相沢家家族会議、或いはKanonエピソード0


相沢家十二月某日、ダイニングにて。

「転勤?」

突然の親父の言葉に、俺は素っ頓狂な声を上げた。

「でも、何でこんな時期に?まさか親父、会社で何かやらかして左遷……」

「そんな筈ないでしょう」

俺の言葉を遮って、母が厳しく言い放った。

「でも、急だって言われればそうなんだろうけど……」

母はそう言って、ちらりと親父の方を睨む。親父は親父で、その視線を巧みにずらすと、空咳をした。

「うむ、実はだな……」

酒気を帯びた親父の話は回りくどくて、長ったらしい。俺は半分くらい聞き流していたのだが、大雑把に言うとこうだ。

親父は今度、海外の新しい支店の支店長に抜擢されたらしい。それで急遽、海外への長期出張が決まったそうだ。

……なんか、本当に大雑把だな。

「で、母さんはどうするんだ?」

「勿論、付いて行くわよ。何しろ、この人一人じゃ心配だから」

なんだかなというような言われようだが、親父は家では全く頼りない。会社ではどうだかわからないが。

「それで、祐一はどうするの?」

「どうするって?」

「つまり、母さん達に付いて行くかどうかっていうこと」

そうか、一応両親の進退は俺にももろにかぶって来るということだな。

俺は取りあえず考えてみた。

確かに海外というのもいいかもしれない。だが如何せん、俺は語学が堪能とはお世辞には言えない。

それに今更、外国に憧れるようなご時世でもない。いこうと思えば何時でもいける。

それよりも今の俺には、やってみたい事があった。

「いや、俺はこっちに残るよ。今更外国に憧れるような年齢でもないし」

「そう、か」

俺の言葉に、親父は寂しそうな呟きを漏らす。その様子を見て、俺はほんのちょっとだけ心が痛んだ。

しかしそれも一瞬の事で、俺の心はある計画の方へと向いていた。

「それよりも母さん、一つ頼みたい事があるんだけど」

「ん、何?」

母は訝しげな顔をする。

「俺、一人暮ししたいんだけど」

「却下」

ぐっ、一秒で却下されてしまった。

「やっぱりね、そんな事だろうと思ったよ。全く、お前のようなちゃらんぽらんなのを一人暮しなんかさせたら、こっちは向こうに行ってもおちおち眠ってられないよ」

なんともひどい言われようだ。だがあながち外れているとも言えないので、俺は反論出来なかった。

「で、実際の所はどうしたいの?」

「いや、でも、こっちに残りたいというのは本心で……」

俺はそれでも、最後の抵抗を試みる。そうすれば逆に呆れ顔で、

「じゃあ、祐一の言う通りにしていいから」

くらい言ってくれると思ったからだ。

しかし、世の中はそれほど甘くなかった。

「ふーん、じゃあ親戚に頼んでお前を居候させてくれる所がないか探して見るから。本当は居候なんて、向こうに苦労がかかるから嫌なんだけどね」

こうして、俺の一人暮し大作戦は水泡に帰したのだった。

いや、まだ親戚の方で都合が悪いと言うことも……。

そんな事を考えていると、母は早速何処かへと電話をかけた。

「あ、もしもし、秋子?うん、わたし……うん、久し振りねえ。そっちはどう、元気でやってる……そう、ならいいけど。そっちは寒いから、風邪には気をつけてよ……もう子供じゃないって、ははは、まあそうだけどね。

え、うん、こっちも元気よ……家族三人ともね。それで私、夫の仕事の都合で急に海外に転勤する事になってね……そう、まあ仕方ないわね。

で、私の息子がね……そう祐一、あの子、外国に行くのは嫌だからってしぶるもんだから。でも、一人暮しさせるのも不安でしょう。で、そっちの方に祐一を置いてやってくれないかなと思って。

勿論、そっちの都合がよければで……えっ、了承?うん、ありがとう、恩に着るわ。で、いつからだって?そうね、取りあえず二学期はこっちに通わせて、三学期からって事で。

うん、荷物は宅配便で送るという事で、待ち合わせは取りあえず後日に決めて……勿論、そっちの都合のいい時間でいいから。いいのよいいのよ、あの子は少々待たせたって死ぬような子じゃないから」

何だか、とんでもない言われようだな。まあ、慣れてるけどな。

「でも、本当に悪いわねえ。そっちだって大変でしょう、年頃の男の子が増えて。しかも滅法手がかかる……えっ、名雪も喜ぶって。名雪ちゃん、うちの祐一と同い年よね。そういえば長い事そっちにも言ってないわね。

確か七年前だったっけ、最後に行ったのは。名雪ちゃんも大きくなったんでしょう。秋子似の可愛い子だったから、さぞかし美人になってるでしょうね。

そう、ううん、絶対そうだと思うよ。だとしたら、祐一に釘を刺しとかないとね。えっ、従兄妹だから?馬鹿ね、従兄妹同士なら結婚だって出来るのよ。

そう……それならいいけど。でも……」

それまで聞き耳を立てていた俺だが、長電話になりそうだなと直感すると、俺は自分の部屋へと戻った。

全く、どうして女は長電話が好きなんだろうか。

クラスの女子なんか、教室でべらべら喋ってんのに、夜も電話で話をするっていってたな。

何処にそんな沢山の話題が転がってるんだろう。

そんな事を、俺は漠然と考えていた。

いや、何故か先程の電話での事だけは頭からわざと外していた。

その理由はわからなかったけれど。

それから三十分ほどして、母が俺の部屋に入って来た。

「祐一、早速だけど居候先が決まったよ」

「秋子さんの所だろ。途中まで話してるの聞いてたから」

「そう、ならいいけど。取りあえず三学期からあっちの高校に通う事になると思うから。まあおいおい、部屋の整理とかしとくんだよ」

母はそう言うと、部屋から出て行く。

そして俺は、今まで避けて来た事について思いを巡らせ始めた。

そう、七年前までは割と頻繁に秋子さんの所にも出掛けたりしていた筈だ。

それがその時を境に、急に疎遠というか、お互いに行き来もなくなってしまった。

まあ、会いに行くきっかけがなくてなんとなく疎遠になってしまうのは、よくあることなのだろう。

そう、その筈だ。お互いにきっかけがなかった……ただ、それだけの筈だ。

それなのに、何かが胸にこびり付いて離れない。

まるで靴底についたガムのように、気持ち悪く俺の胸にまとわりつく。それでいて、そのもやもやがどこからやってくるのかは全くわからなかった。

俺はその感覚が嫌で、別の方向に考えを移す。

そう、従兄妹の少女、名雪とか言ったかな……確か三つ編みをしてたっけな。顔は……影絵のようにそこだけぽっかりと穴が空いたように思い出せなかった。

湯気の立つ、暖かいイメージだ。そして甘い匂い……でもそれは、本当に……。

白い雪、雪が降っていたかな。いや、どうだったかな。その光景さえも、もやがかかったように全く思い出せない。

七年という月日は、こうも人から思い出を奪うものなのだろうか。

それにしても、こうも思い出せないなんて……。

まあいい、向こうに行ったら嫌でも思い出すだろう。一月だから、きっと雪も積もっている筈だ。

雪が楽しみだなんて子供っぽいな、なんて俺はふと思った。

その日、俺は夢を見た。

内容は霧のようにもやがかかってほとんど思い出せなかった。

けど、それは多分悲しい夢だったんだと思う。

よくはわからないけど。

あれからあっという間に月日は過ぎて行った。

もしかしたら編入試験があるかもしれないと母は言っていたが、結局は内申で評価されるという事だった。

俺の内申は可もなく不可もなくと言ったところだったが、取りあえず編入は許可されたようだ。

主だった荷物は既に秋子さんの家に宅急便で送られてある。そして今、ここにあるのは置き去りにされた幾つかの家具、手荷物を詰めた鞄が一つ、財布にこの家の鍵、そして俺だけだった。

そして家は少なくとも何年の間かは無人になるわけだ。勿論、業者が定期的にメンテナンスするのだが。

だから俺は何の杞憂もない……筈だ。

俺はもう一度、ポケットに入った財布を確認すると外に出た。

そして最後に、我が家をじっと眺める。

「ここともしばらくは、お別れか」

特に深い感慨があった訳ではなかったが、思わずそう呟いていた。

……電車が揺れている。

足元から噴き出す温風の気持ち良さに、俺はうつらうつらしていたらしい。

ふと外を見ると、一面の銀世界だった。

時々、電車にぶつかる雪が列車の窓にぶつかり、水の粒に変わって行く。

トンネルを抜ければ一面の銀世界、なんて言葉はよく聞くが、転寝していて気付いたら銀世界なんて、風情も何もあったもんじゃない。

「次はーーー……」

そうして車掌が駅名を読み上げるのを聞いて、俺は二度驚いた。

「げっ、次の駅じゃないか」

もう少しで寝過ごす所だった。

俺は速度を緩める列車に急きたてられるように、荷物を棚から下ろす。

そして急ぐ必要もないのに、慌てて列車を駆け下りた。

「ふぅ、危ない所だった」

僅かに息を整える。その息は昼間にも関わらず、白い色を含んでいた。

まるで俺の記憶の中にあるこの町のように。

空はどんよりと暗く、風は身を切るように寒い。

俺は最悪の日に、この町との再会を果たしたらしい。

取りあえず、俺は待ち合わせ場所に向かった。確か、駅前のベンチだったな。

改札口をくぐり、駅前の時計を見ると午後一時を二分程過ぎている。

「まだ、来ていないようだな……」

雪の積もったベンチには、誰も座っていない。一瞬、女の子が座っているように見えたが、それは気のせいだったようだ。

とにかく、ここで待って見よう。俺はベンチの雪を手で落とすと、湿ったベンチに腰掛けた。

雪が降っている。

先程からどんよりと暗い雲は、せっせと白い雪を吐き出している。

ここに来て随分経つというのに、その勢いは衰える事を知らない。

それどころか、雪の密度は心なしか濃密になっているような気がする。

それに加えて突き刺さるような冷たい風

俺は駅前の時計を見た。

時刻は三時。

俺の記憶に間違いがなければ、もう待ち合わせの時間を二時間も過ぎている筈だ。

俺は居住まいを正すと、真上を見つめる。

最初は珍しかった雪も、今では鬱陶しいだけだった。

最早振り払う気すら起きない。

どうせ、払っても払ってもまた積もって来るのだ。

このままでは、雪に埋もれて見えなくなるかもな。

そうして慌てるいとこの少女の姿を、俺は思い浮かべた。

霞んだ思い出の底に微かに残る幼い少女……。

馬鹿馬鹿しい、俺はそう思い、何だか虚しくなって白い息が混じった溜息を付いた。

するとそれを上書きするかのように、一人の少女が唐突に俺の顔を覗き込んでいた。

そう、これが始まりだったのだ。

 

Continue to Kanon……


後書

どうも、前々から書こうと思っていたKanonのえすえすです。このえすえすのアイデアは、とある一つの思い付きから生まれました。

祐一の申し出を一秒で却下する母親。

勿論、秋子さんの了承と連動させています。

それでその母親ですが、ちょっと性格がきつくなってしまいました。

まあ秋子さんの姉だから、このくらいで丁度補い合えるのではないかと思い、このような性格になりました。

このエピソード0的な話は、きっと色々な人が考えていると思います。

ですからこれは、私のエピソード0と思ってくれれば幸いです。

この作品は、一応原作の設定を参考にしていますが、少し齟齬があるかもしれません。

まあその辺は、見逃してという事で。

あと、感想なんか送ってくれれば幸いです。


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