情緒障害児に対する治療とカウンセリングに対する問題提起、その講演内容の一部抜粋。

 日本でも情緒障害に悩む子供は多く存在しますが、その殆どは社会不適格児として煙たがられ、或いは専門の教育施設も不足しているのが現状とされています。では一般的に、精神治療において先進国であると言われている米国ではどうでしょうか? これも日本と同じくらい、もしかしたら日本よりも酷い現状を伴っているのが事実です。情緒障害児の多くは精神安定剤を各病院や診療所から処方され、情緒障害の症状を抑制され無理矢理一般の児童と同じ教育を受けさせられているのです。しかも、これは国が積極的に推進していることなのです。

 このように人間性を欠いた方法が、今までの情緒障害児に対する最先端治療の一端を担っているのは本当に残念なことです。一部の幸運な例外を除けば彼らは皆、求めるものも与えられず、同年代からの苛めや両親からの虐待などを被るケースも決して少なくはありません。だが、彼らは決して劣っている訳ではないのです。ただ、真面目に物事に取り組む能力が先天的に少し未熟なだけなのですから。根気良い躾を施し、彼らに興味のある分野へと導くことができれば将来的には常人と同じ、或いはそれ以上の能力を発揮して仕事を行うこともできるのです。

 トーマス・アルバ・エジソンも幼い頃は情緒障害を有していましたが、母親の献身的な躾と教育によって発明という道に天才を発揮し、幾多もの技術を世に残しています。発明王という二つ名が示すとおり、非常に優れた人物であったことは疑いようがありません。これ以外にも、情緒障害児が意外な天才を示したという例は多く存在します。

 どうでしょうか? これでも情緒障害児を劣った者とみなし隔離や投薬治療による封じ込めを行うことが正しいと仰るのでしょうか? 私は現行の全ての治療に対して疑問を呈示し、こうして現在も研究と臨床を続けているのです(医学的専門知識が続くため中略)

『輝きは、君の中に』

--I wish your heart shineful--

 私も幼い頃は情緒障害児で、学校のクラスメートから酷い苛めを受けていました。馬鹿だ間抜けだ阿呆だ、挙句の果てには気違いだとまで嘲られた程です。教師も教師で私のことを随分と煙たがっているようでした。私さえいなければ全てが上手くいくと、そんな目で。敏感な私はそのことを感じ取っていたので、教師に相談することもありませんでした。両親は私のことを可愛がってくれましたが、それは耽溺に近い方法でそのために私はますます甘えと我を強くしていきました。

 そんなある日でした、私の両親が交通事故で死んだと連絡が入ったのは。最初はそのことの意味が分からず首を傾げていましたが、棺桶に二つ並ぶ両親の顔を見た時、直感的にもう二人とも帰ってこないのだと分かりました。私は火のように泣き、家中や近所はては町中を叫びながら走っていたことをおぼろげにですが覚えています。

 それから私は、筋としては親戚の何処かの家に居候することになったのでしょうが、私の性質のことは皆、知っていましたから誰も引き取ろうとはしませんでした。唯一、叔母だけが私のことを面倒見てくれると申し出てくれました。叔母はまだ三十前だったのですが、子供ができないことで結婚生活が破綻し、かねてから子供が欲しいとずっと願っていたそうです。

 けど、新しい土地と学校でも結果は同じでした。私はあいも変わらず同級生から苛めを受け、教師からはやる気がないと疎まれ始め、その様子を見ていた叔母も私という存在を扱うことの難しさを改めて認識したようです。叔母もまた母性の人でしたから、私を叱り飛ばすことはなく、ただ諦観の表情でこちらをじっと眺めるだけでした。私は、その目があまり好きではありませんでした。

 中学校に入ってすぐでした。私が母と並んで商店街で買い物をしていると、珍しい生き物が私の目に飛び込んできました。その時は、まだその動物が何であるかも分からず、ただ可愛さと物珍しさから叔母の袖を掴んでいました。叔母は、私が頼めば何でも買ってくれましたし、この時も数万円もする動物を躊躇することなく買ってくれました。

 その日から、私にとって彼女だけが友達でした。白く細い肢体をくねくねと動かし、最初は私が手荒く扱うのも手伝ってかよく逃げ出していました。が、そのうち私に慣れてきたのか眠っているときでも肩や首に纏わりついてきました。彼女の名前は私の口癖になりました。

 私は彼女から学ぶことが、とても沢山ありました。まず、ペットもご飯をあげないと死んでしまうということ。これまでの私には、そんなことも認識の埒外でした。彼女が弱り、倒れそうになった姿を叔母に見せると「お腹が空いてるのよ、ご飯はちゃんとあげた?」と少し厳しめに問い返されました。私が首を振ると、叔母は丁寧に餌のやり方を教えてくれました。

 それから、餌はきちんとやったし大好物のハンバーガーを二人で分けて食べたこともありました。次に、生き物は優しく扱わなければいけないということです。どんなに辛い時でも、自分が飼い主だって自覚はあったような気がしますから。そして最後に、どんなペットとも必ず最後は死別してしまうということ、これは本当にショックでした。そのことは今でも覚えています。

 朝、起きると今まで動いていたものが冷たく横たわり動かなくなっているのです。私はそれが死だということは、両親の例で学習していましたから彼女のお墓を作ることにしました。両親も棺桶に入れられ、荼毘にふされた後、お墓の下に埋められたからです。けど、一人では上手く穴が掘れません。本当に困って泣いていたところを、私は二人の人物に救われたのです。

 その二人は、今の私の人格を形成するのに最も影響を受けた人たちでした。一人は長森瑞佳というしっかりそうな女性で、少し叔母に似ていました。もう一人の方は、折原浩平という人で……と、別に他人行儀に述べる必要はありませんよね。未来の私の夫との初めての出会いでした。

 二人は私が、みゅーと呼んで可愛がっていたフェレットを埋葬する手伝いをしてくれました。そして泣きじゃくる私を、優しくあやしてくれたのです。よくよく考えると、私の周りには優しい人はいましたが、本当に苦しい時に助けてくれる人は誰もいませんでした。

 それから色々とあり、私は何故か浩平や瑞佳の通う高校に同行することになりました。その高校は、生徒が一人や二人増えても咎められないという今から考えても非常に珍しいところで、私は制服を借りてそこで奇妙な学校生活を始めました。そう言えば、制服を借りていた七瀬という女性の髪を引っ張ってよく困らせていました。

 その生活で、性格には浩平によって私は初めて父性というものに触れました。自らを戒める厳しさ、協調心、自重心、そのような一人前の大人に必要な精神を築く支えとなって浩平は色々と尽力してくれました。もっとも、その試みはどれも、あまり上手く行きませんでしたが。けど、世の中には助けのある時とない時がある、せめてない時には自分で頑張ろうと少しだけでも思うことができるようになりました。

 けど、その生活も二学期が終わるまででした。三学期になってからは、また学校に通ったり通わなかったりの繰り返しでしたが、浩平とだけはよくあって色々なところに行きました。それは所謂、デートだったのでしょうが、私にあまりそのような自覚はありませんでした。けど、ある出来事があってから私は浩平に求められていることを知りました。私はあんなでしたから、求めることはあっても他人から求められることはなかったのです。

 浩平が私を求めた時、私もまたもっと頑張らなくてはならないという気がしました。彼と一緒でいるためには、それが必要なのだと痛切と感じたのです。そしてある雨の日、私は一匹の子犬を見つけました。激しい風雨で弱った子犬を、私は必死で助けました。浩平が傍にいることは感じていましたが、何故か彼に頼ってはならない、この仔の飼い主は私が探さなければいけないと思ったのです。そして、飼い主を探し出してその子のことを励ましたとき、私はまた私もやればできることが分かって励まされるような感触でした。

 それからすぐ、浩平とはある事情で別れなくてはなりませんでした。けど、私はその後も一人で今度は私の通うべき学校に通いました。勉強は面倒だし、クラスの子は痴呆だの知恵遅れだのと蔑まれ酷い言葉をぶつけられましたが、友達ができてからはどんなに辛いことでも我慢できるようになりました。そのうち、クラスの子たちも私を仲間として認めてくれました。

 そうなると欲がでるもので、私は浩平と通った学校に今度は自分の力で通いたいと思うようになりました。今まで勉強をして来なかった私は、本当に苦労して、それこそ何度教科書を投げ出そうかと思い、けどすんでのところでそれを留めて頑張りました。みあも、私をいつも励まし、分からないところは丁寧に教えてくれました。

 その甲斐もあって、私は高校に合格することができたのです。卒業式のその日、再開した大事な人と一緒に、私は高校に通うことになりました。浩平は、私が高校にうかったことに心底驚いていましたが。そこで私は、自分と同じように情緒障害で悩んでいる人間が大勢いることを知りました。そして、私はそれらの人の役に立つ人間になりたいと思いました。

 大学に入るのは、高校に入るのよりもっともっと大変でした。けど、浩平やみあや色々な人が教えてくれたことが私をこの世界に導いてくれました。好きなことは楽しいことばかりじゃない、それゆえの辛さや苦しみも同時に纏わりついてきます。私は、その辛さや苦しみを耐える力を、輝きに変えることができる人間に少しは近づけたと思います。けど、今でも投げ出してしまいたいこと、叫んで放り出してしまいたいことが一杯あります。

 その度に、抱きしめ或いは励ましてくれる存在のいることの何と心地よいことでしょう。叱咤し、前に進むことを教えてくれる存在の、何とありがたいことでしょう。だから、こう願わずにはいられません。かつての私であった子供たちが、皆このような存在に巡りあえることのできますように、そして輝きが君の中にありますように。この言葉を結びとして、話をしめたいと思います。

T医科大学医学部精神治療学科児童心理学専攻
医学博士 椎名繭


あとがき

これを読んで、最初の方で誰の話か分かった方はいるでしょうか?

ああ、やっぱり私はこういう話を書くのが好きだ。

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