藤流寺の朝は早い。
日の昇る前から容赦無く叩き起こされたかと思えば、お堂の拭き掃除に庭の掃き掃除であっという間に朝が過ぎていく。そこから更に朝食の準備、ここまで来てようやく先輩たちや団三郎を一人ずつ起こして回る。黙して頂くと食器の片付け、籠に放り込まれた着物の洗濯、それから日が真上に来るまでみっちりと読み書き計算の修練に励む。お経を読まされるよりは実用的だと思うが、辛いことに変わりはない。父にも文字は習ったけれど、一種類だけで話し言葉と直結していた。だが団三郎を始めとして、ここに来てからは話し言葉にしても難しい表現が多く漢字も入り乱れている。中には漢字だけのどう読むかすら見当の付けられないものや、そもそも言葉とすら分からないものさえ混じっていた。それらを土にひたすら書かされた。紙は高級品だから使わせてもらえない。それはまあ特に気にならないというより、できるなら使いたくないというのが本音だ。
何しろ色々な外的要因に弱い。適当に扱うとすぐに破れるし、湿気に弱く日光に当て続けると簡単に変質する。暗くて乾燥した倉の中にしまっておくと多少はましだが、すると管理に明かり……即ち火の類が必要になる。わたしは夜目をきかせることができるようになったからまだ大丈夫だが、人間なら失火を起こさないよう気を遣わないといけないだろう。また紙を冊子の体裁にするため遣う糊は鼠の格好の餌だし、紙自体を食べる紙魚という虫もいる。埃にも黴にも弱い。持ち運び、保存ともに便利だというのは分かるが、この弱さをもう少し何とかできないかなと思う。そのために旧い書物は定期的に新しい紙へと書き写さなければならないのだ。もっとも朝廷の資料や経典などを書き写すことがこの藤流寺を支えているのだから、紙が弱いことには感謝しなければならないのだけど、管理に四苦八苦することも確かだ。もっとこう無差別ではなく、大切なことを選別すれば良いのではと、わたしはかつて団三郎に提案したことがある。対する彼女の答えは「できる限り記録を残すことこそ、人間の強さの秘訣である」というものだった。正直いってわたしは今でも彼女の言うことを理解してはいない。強さとはこの身から湧き上がるものではないのか。しかしわたしがいくら力を見せても団三郎には伝わらない。何故ならば、一度も彼女に勝ったことがないからだ。
退屈な勉強が終わると、午後からは戦闘指南を受ける。といっても能力を使うことは許されない、素の組手だ。そのためにわたしは妖封じが編み込まれた道着を身にまとう必要があるのだ。体が締め付けられるようで好きではないのだけど、着ないと団三郎は稽古をつけてくれない。わたしは何としても彼女から格闘を学ぶ必要がある。
といってもこの一年は突きや蹴りをひたすら反復し、実践風の組手を行うことの繰り返しだった。最初のうちは明らかに鼻であしらわれ、彼我の実力差を毎日じっくりと噛みしめながら、比喩でなく土を舐めた。その甲斐あってか、ほんの一瞬だった組手の時間が最近ようやく少しだけ伸びてきた。だが同時に、これまでかなりの手加減をされていたことも分かってきた。そんなわたしの気付きを察したのかここ数日は攻めが一段階激しくなり、今日も今日とてわたしはひょいひょいと投げられ、下半身の弱さを掬われ、また顔以外のあらゆる場所に拳を打ち込まれた。妖力による肉体補助が得られないから、稽古の時は一発ずつの痛みが鉛のように残り続ける。団三郎は軽い一撃だというけれど、わたしが人間だったらとても耐えられなかっただろう。
指南を終えたわたしは地面にだらしなく転がる。団三郎はそんなわたしをいつものように、面白そうに眺めてくる。
「今日はなかなか良かったよ。これならばそこそこの手練れが相手でも一対一ならば何とか逃れることができるじゃろう」
わたしはうんざりとした顔をする。一年でその程度では進歩がなさ過ぎるように思えたからだ。
「そう悲観することもあるまいて。幼い頃から訓練を受けた大の男をいなすことができるならば十分に才能はあるといって良いじゃろう。とはいっても妖力を封じられた状態で、複数の人間を相手にすることはお勧めせんがの。儂でもそんな状況なら逃げるし、そもそもそのような術を食らわないよう気をつけるべきじゃ。あるいは武器を上手く使うか」そう言うと団三郎は木彫りの短槍を生み出して無造作に構える。だというのに攻め込める気がまるでしない。「槍は重くて妖力が封じられた娘の身では扱うこと叶わぬがこれなら軽くて小回りも聞く。体術と組み合わせることもできるじゃろう」
団三郎はもう一本の短槍を投げて寄越す。わたしは体を起こして受け取ると、団三郎のように構える。だが真似できていないことは明白だった。あらゆる部分に力が入り過ぎているのが自分でも分かる。拳から槍に変えただけだというのに、こうもままならないとは思わなかった。そしてだからこそ、団三郎はこれまでわたしに得物を持たせなかったのだ。つまりなかなかやるようになったという言葉はあながち嘘でもないということだ。
「どういう風の吹き回しなの?」そこまで言ったところで、わたしはぴんと来る。怒りと憎悪が胸の中をぱちぱちと躍り始める。妖封じの札がわたしの力を抑えようと負荷を強めてくるけれど、気にしない。「村を焼き払った奴らの行方が分かったの?」
「うんにゃ、特に意図はない。単純に腕が上がったから、あと強いて言うならば、ぬえがここに来てから明日で一年になる。ちょっとした贈り物というやつじゃ」
団三郎の答えに、爆ぜかけた気持ちが沈んでいく。代わりに浮かび上がってきたのは奇妙な感慨だった。もうそんなに経ったのか。身につけることが多過ぎてそんなことにさえ気付けなかった。
「お主自身の素養もあるが、一年でひよっこの尻から殻は取れた。これからは短槍の使い方、そして何よりも妖力と組み合わせた戦い方を覚えてもらうことになる」
「それはつまり、道着を脱いで戦っても良いということ?」
「それだと真裸じゃろう、破廉恥なことを言う」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
「妖封じのかかっていない道着なら用意しとるよ」団三郎は腹を抱えて笑う。からかわれたらしいが、割といつものことなので大概のことなら怒る気にもなれない。「では早速始めようかの」言葉と同時に笑顔が消え、次の瞬間には額すれすれに槍の切っ先があった。「戦場では親切に待ってはくれぬよ」
わたしは咄嗟に飛びのき、槍を構える。重心さえも上手く取れないまま振るってみるものの、手の甲を打たれてあっという間に武器を落とし、拾おうと伸ばした手に容赦無く追撃された。拳と異なる鋭い痛みに思わずうめき声が出る。打撃や蹴りの痛みはいなせるようになっていたが、その質が僅かに異なるだけで我慢できなかった。わたしは痛みについてまだまだ知らないことが多いらしい。団三郎はわたしの槍を蹴る振りをしてまたもや一気に踏み込んでくる。瞬きよりも早く喉の前で寸止めされた団三郎の槍に、わたしは情けなくも尻餅をつく。
「な、なんか術を使っただろ!」そうでなければ踏み込みの早さに説明がつかない。「わたしは封じられたままなのに」
「では道着を脱いで、かかってくるが良いよ」
団三郎の顔には一種の蔑みが現れており、だからわたしはまるで見当違いのことを口にしたのだと気付かざるを得ない。ただ修練だけで今の境地にまで辿り着いたに違いない。今のわたしでは毛一本にかすることすらままならないだろう。ここで怖気付いたまま打ち合っても埒があかない。だから……ここは挑発に乗ることにする。道着を脱いで、一糸纏わぬ姿になると団三郎は一瞬だが取り乱してたたらを踏む。その隙に槍を拾い、妖力を全身に馴染ませる。更には三対の蛇を背中から生やして手数を増やす。地面を蹴り、一気に団三郎との距離を詰めると必殺の気概で槍を繰り出した。これがもし受けられても、背中の蛇が押し寄せて団三郎を打つという二段構えの作戦だった。それなのに団三郎の槍はわたしの力をあっさり受け流し、同時に足を払われた。その結果どうなるかを予測はできても止めることはできなかった。わたしは自分自身の力で地面をどこまでもごろごろと転がり、寺の外壁に激突してようやく止まる。痛みに転がるわたしの横腹にどすんと鈍い痛み。わたしの意識はあっという間に刈り取られてしまった。
次に気付いたとき、わたしは宿坊の一室でうつ伏せで寝かされていた。無意識に妖力を抑えたのか背中の蛇はいなくなっており、わたしは落ち着かない態勢から仰向けになる。妖力封じのかけられていない薄手の作務衣だが、それでも横腹がずきずきと痛む。余程の一撃を加えられたらしい。
布団から抜け出してゆっくり立ち上がると、良い匂いが漂って来る。差し込む光には赤みが強く、もうすぐ日が暮れるのだと分かる。それにしてもこの赤さは少しぞっとしない。何となく、わたしの村を焼いた火の色に似ている気がする。久方ぶりにそのことを、胸を燻る恨み辛みを思い出したからだろうか。
「おや、気付きましたね」わたしが目覚めたのに気付いて声をかけてきたのは、藤流寺に務める尼の一人である。わたしが来るまでは一番の下っ端で、わたしに炊事洗濯のいろはを教えてくれた。見た目はわたしより少し上だが年は百を超えている。その正体は十年ほど前にやって来た狸であり、刑部狸と呼ばれる四国を統べる妖怪狢の指示に従い、団三郎の補佐をしているという。性格は良くも悪くも能天気で、顔も体も団三郎よりふくふくとしたおっとり型の美人だ。その手には夕飯の乗せられたお盆があり、こちらまで匂いが漂ってくる。「元気があったら食べてくださいな」
そう言う彼女の目つきはわたしをほんのりと気遣っているようだった。仕込みは厳しかったけど根はお人好しで狸の癖に割と騙されやすかったりもする。だから一番の下っ端だったのかもしれないし、あるいは元々小間使いの役目に専念していたのかもしれない。
「いつ見ても厳しいですが今日は殊更ですなあ。儂にはとてもじゃないけど出来ません」ほんのり突き出たお腹を叩き、小さく息をつく。「団三郎の旦那……おっと今は女将ですが、ああした狸らしからぬ強さを身に着けておられる。その所以をわたしなどは知る術もありませんが、女将に鍛えられた妖はぬえだけでなく、この都界隈にはそれなりにいるそうで。一部では武術の神様として崇められてもいるそうですよ。だからこそ都の真ん中にある妖怪寺なのに安穏としていられるのでしょうが」
それだけではないだろうが、団三郎の力が一因となっていることはこちらとしても疑いようがない。何しろ妖力を全開にした攻撃さえあっさりいなされてしまったのだ。狸本来の戦い方も織り交ぜて来られたらと考えるだけでぞっとしない。
「とにかく十分養生なさってください。明日はわたしが雑用などは引き受けますんで」
「いいよ。この程度の傷なら一晩あれば治るって」今はまだ酷くずきずきするけれど、傷口に妖力を集中させれば容易いはずだ。「今晩だけ代わってくれたら大丈夫」
「怪我だけが理由ではありません。女将は明日、ぬえに都を案内したいそうです。明日でこの寺に来て一年でしょう? 労いたいこと、話したいこと、祝いたいことがあるみたい」
そういえば団三郎も同じことを言っていた。表側はもちろんのこと、裏側でさえ満足に巡ったことがないから外に連れ出してもらえるならばとても嬉しい。一度表に出ようとして団三郎にこっぴどく叱られてからは、近所へのお遣いを除いて外に出る用事を与えられなくなったからだ。然るに少しは信頼を回復できたということかもしれない。
「我侭を言ったり、色々なものをねだったりすれば良いですよ。明日なら余程のことでない限り、女将も聞いてくれるでしょう」
父の村を焼き、わたしを散々に汚した人間たちへの復讐でも? そう訊ねたかったけれど、ここで場を気まずくする必要もないし、訊くだけ無駄だということも分かっている。
「分かりました。精々困らせてやります」
彼女はからころとした笑い声を立てると、冷めないうちにと残して宿坊から出て行く。そのことを確認するとわたしはお盆の上に乗せられた料理を眺める。豆と雑穀の粥に麺の少量入ったすまし汁、青菜の漬け物といういつもより少しだけ豪華な献立だ。ここは人間の寺ではなく妖怪寺なのだから、始終仏の教えを守って暮らす必要もないと思うのだが、団三郎は用心に越したことはないという。でもここの狸たちはいざとなれば蔵を荒らす鼠を捕まえて腹の足しにしていることをわたしは知っているし、団三郎も黙認している。とはいってもわたしとて最早人並みに食事を摂る必要はない。それどころか食べても食べてもあまり満たされることがない。果物や菓子などの甘いものには強い満足感を抱くのだが、こうした普通の食事では胃が膨らんでも空腹感が続く。団三郎はそれに耐えることも修行だと言うけれど、わたしにはそうは思えないのだ。わたしに相応しい食べ物がこの世にはあり、それが何であるか大体検討はついている。だからこそ団三郎も我慢するよう説いているのだろう。確かにそれを食べることがどれだけの騒ぎを生み出すかはよく分かっている。その反面、これからもずっと食べずに耐えていけるのかという疑問もある。何れ団三郎に伺いを立てるべきなのだろう。
そんなことを考えながらぺろりと夕飯を平らげ、少しぼんやりしていると腹の痛みが徐々に和らいでくる。食器を取りに来る気配もなし、炊事場まで戻しに行こうと盆を持って立ち上がる。そのまま外に出た所でこの寺にあってはならない臭いに気付く。
「人間、それも男の?」かつて戦場で嗅いだ生臭さには程遠いけれど俄に忘れ難い野蛮さを感じる。「この寺って男子禁制だったよね」
狸が化けているから性別は分からないものの、少なくともわたしが寺にやってきてからは妄りに男を入れるべからずが戒律の一つとなっていた。稀にやってくる人間も女ばかりで、たまに顔が厳つく、香の匂いが強く、髭の剃り残しがある奴もいたけど、男が男らしくこの寺には近寄れないはずだ。どうにかして正体を確かめ、できるならばここから追い出さなければならない。わたしはお盆を床に置くと茂みや柱の陰に隠れながらゆっくりと臭いがするほうに近づいていく。
気配は殺していたつもりだったが、少しもしないうちに奥の堂から鋭い気配が放たれるようになった。隠密にはある程度自信があったのだけど、あっさり勘付かれたようだ。然るにこの先で待ち構えているのは相当の手練れに違いない。わたしは慎重さを殺し、無造作に奥の堂へ近付き、その前で仁王のように立つ男を認める。鎧兜は身につけていないせいか細く見えるけれど、身のこなしは流れるように自然でかつ無駄がない。動きの一つ一つが備えであり、また攻撃の準備でもある。顔は細く、その瞳はぎょろりとしているといっても良い。瞼が二重になっているからだろう。唇は薄く鼻は高い。何とも不細工なやつだった。
向こうのほうでもわたしを品定めしていたのか、ふんと鼻を鳴らし、露骨に視線を俯けた。どうせ貧相な体つきであると馬鹿にしたに違いない。人間に侮られるのは真っ平御免で、団三郎に仕込まれた礼儀なんて最初から捨て、食ってかかるように声をかけた。
「そこのお前、ここがどこか知ってるのか?」
「狢の女和尚を掲げる男子禁制の妖怪寺だということは聞いている」全て知った上でなお男としているわけだ。良い度胸だが同時に腹立たしさも感じる。「そこなお主は寺の下女か? 中では我が主と女和尚が会合中であり、誰も通すなと命じられておる」
「知ったことじゃないよ」威丈高に言われたせいか余計に胸がむかむかした。「その不細工な面を横に向けて、知らん振りでそこを通せば痛い目には合わせないよ」
わたしの言葉に男はぐらりと揺れる。心なし傷ついてすらいるようだ。武者だというのに何ともみっともない。
「聞こえなかったの? お前のことだよ柳のようにひょろひょろした体つきしやがって」
「お前には言われたく……」男はちいさく咳をすると、蝿を払うように手を動かす。「兎に角ここは通せない。痛い目に会いたくなければさっさと戻れ。今なら何も言わぬから安心するんだな」
「だからそれはこっちの台詞だよ。女形だからって舐めないでよね。わたしはやろうと思えばお前のこと、食い散らかしてばらばらにすることもできるんだ」
男の眉が小さく上がる。先の言葉がどうも、男の気持ちをつついたらしい。拳を上段に構え、控えめな中にも怒気のこもった声を向けると、わたしの背筋にびりびりとしたものが走る。
「ではやってみると良い、できるものならばな」
怒っているはずなのに気負いはほとんどなく、構えにも団三郎と同じくらい隙がない。わたしも応じて構えるけれど、迂闊に動くことができず、不動のままに時間が過ぎる。すると突然、男が微かな驚きを浮かべ、次いであっさりと構えを解いてしまった。
「何だよ、わたしのこと馬鹿にしてるの? それとも女に負けるのが恐い臆病者?」
「俺はお前を侮っていないし、女子供から老人に至るまで、命じられれば家族にすら手をかけるだろう」男の声は淡々としており、嘘偽りのないことをしかと示していた。「だがね、力試しをしたいのに相手が手負いでは意味がない」
男は自分の横腹を指で差す。わたしの体調を見抜いただけで有利に立ったと思われるのは心外で、わたしは構えを整え直そうとしたのだが、一度意識すると上手くいかない。
「謀ったわね! 動揺させるようことを言って!」
「本当に問題のない怪我ならば俺の言葉如きで乱されはすまいよ」
反論しようとしたが、体のほうは正直でいつもの構えが取れない。つまり今のままではこいつには勝てないということだ。悔しいけれど矛を収めるよりほかなかった。構えを解き、胡座をかいて地面に座ると男はわたしを見てにやりと微笑みさえした。
「激しやすいが引き際を弁えている。余程良い師匠に恵まれてるな」
その一言だけで、わたしの中に渦を巻いていた気持ちが収まっていく。男は師匠を認めることでまたわたしも認めてくれたと分かったからだ。融通が利かないけど悪い奴じゃない。人間の男だけど、わたしはこいつを憎んだり、八つ裂きにしたいという気持ちにはならないだろう。
「そっちこそ人間のくせにやたら目が利くじゃん。そういうの誰に教えてもらうのさ」
「それはですね、わたしがみっちり仕込んだのですよ」奥の堂からよく通る低い声がし、次いで貴族の衣装を身に着けた男が姿を表す。そいつは見張りをしていた男の肩を叩き、次いでわたしに満面の笑みを向けてくる。あまりに完璧で少々胡散臭いくらいだ。「なるほど、嬢ちゃんが団三郎さんの虎の子というわけですね」
歳のほどは男をしていた頃の団三郎より少し上だろうか。体つきは見張りの男に似て痩躯、ただし頬はふっくらとしており、目は切れ長の一重、見事な口髭と顎髭に、ぽってりとした唇という実に分かりやすい美男だ。結った髪には白が目立ち、顔には深い皺が浮いているけれど、今でも女性にもてるのだろうなと思う。暮らし向きの良さが全身から滲み出ており、おそらく相応な身分の人間だ。そして相当の変人に違いない。真っ当な貴族は裏側の街にある妖怪寺にお供一人だけを連れて訪れようなどとは決して考えないはずだから。
「よろしければ、お名前をお聞かせ願えませんか?」彼はまるでわたしを同じ身分の可愛い娘みたく扱う。でもわたしは自分が可愛くないことを知っている。人にしろ妖にしろ、男はみなふくよかで胸もお尻も大きな女が好きなのだ。いっそのこと見張りの男みたくはっきり態度に示して欲しかった。「おや、どうしましたか? ご機嫌斜めのようですが……ははあ、さては逢瀬を邪魔されたから拗ねてしまったと見える」
男は見張りに視線だけを向け、団三郎がわたしをからかう時のように口元を歪める。
「俺……わたしは職務を忠実に全うしておりました」
「彼は猪早太と言いまして、身の回りの世話や警護を担当しておるのですよ」男は何も聞かなかったかのように見張り……猪早太の紹介を始める。どうやら我が道を行く性格らしい。「わたしはそんなもの、必要でないと口を酸っぱくして言ったのですがね」
「何をおっしゃいます。摂津源氏の長たるものが供も付けず一人歩きなど一族郎党の沽券に関わること。できるならばわたしよりも腕が立ち、また眉目秀麗な供をつけて頂きたく」
「顔は兎も角、腕でお前に敵うものはそういないでしょう。それに若い内から見聞を広めておけば将来役に立つと思いますよ」
「わたしが居らねば朝に一人で起床することすら叶わぬではないですか」
「斯様に面倒見も良い。男ながらに料理もできる、風呂焚きも上手く、寝所の世話もそつない。床が上手いかどうかは分からぬが精力も旺盛じゃろう。顔の美醜には取りあえず目を瞑ってもらえれば、これほどの物件はないと思いますがいかがですかな? 今からでも気さくに早太とでも呼んでもらえれば……」
「おほん、うおっほん」奥の堂から団三郎のわざとらしい咳が聞こえてくる。「不良在庫を娘に押しつけるのはやめて頂きたいものじゃな」
「優良だと思うのですがねえ」男はあまり真面目でない笑みを浮かべ、当の猪早太といえば二人に散々なことを言われたのかすっかり肩を落としていた。「おっとそう言えば名乗り忘れてましたね。わたしは摂津源氏の棟梁を務めております、源頼政というものです。以後お見知りおきを」