五七四年 厩戸皇子誕生

 

 

誰からも愛されて産まれる子供もいれば、

誰からも愛されず産まれる子供もいる。

この年の元日はそれを象徴する日となった。

 

 

 厩戸の見張りをしていた男は、その中から聞こえてくるうめき声にはっと目を覚ます。仕事の最中に、しかもこんな冬の夜に眠りこけたことなどなかったのだがと心の中で言い訳してから、男は得物である剣を構える。何しろ貴人の乗る馬が繋がれた小屋である。獣臭いが男の家よりも余程豪華であり、中にいる馬に少しでも傷が付こうものなら一生かけても償いきれないことは間違いなく、それ以前に責任を問われて下手をすれば命まで取られかねない。家族を抱える身でそれだけは勘弁して欲しいと、男は願うように中に入る。

 中が暗くて見えなかったらどうしようと思っていたが、月明かりは思いのほかよく小屋の中を照らしていた。耳をそばだてるとその声はどうやら最近、空となった房の中から聞こえて来るようであり、その正体を察して俄かに気恥ずかしくなる。

 男は音がしないよう息をつき、そして次には怒りが湧いて来る。情事なら他でやれと追い立てるつもりで改めて剣を構え、ふとあることに気付き、顔を微かに青くする。下男下女の逢瀬なら兎も角、やんごとなきお方たちが忍んでいるのだとしたら。下手に暴き立てればその場で殺されかねない。

 踏ん切りがつかなくてその場でまごまごしていると、女の声が更に大きくなり、まるで本当に苦しんでいるようだった。余程相手が酷いのかと眉を顰めかけたところで、男はあることに気付いた。まさかそんなことはないだろうと思ったが、もしそうだとしたら取り返しのつかないことになる。保身と父親の情でしばし葛藤したのち、男は剣をその場において駆け寄るように空の房に近付く。

 そこには両手で藁をつかみ、目に涙を浮かべながらも必死に耐えている女の姿があった。真っ先に腹部を見ると、肥満かどうか分からないくらいのしかしはっきりとした膨らみがあり、股の間からは水と血の混じった液体が滲んでいた。お産を間近に控えていることは間違いなく、しかも赤子が顔を出そうとしていた。どれくらい寝こけていたのかは分からないが、大した時間でないことは目覚めの感覚から分かる。ここに来るまでに長いこと耐え忍んで来たのかそれとも赤子が這い出すようにして産まれようとしているのか、どちらにしてもぞっとしない話ではあった。

 事情が事情であるため第一声をかけ辛く、局部から目をそらすことしか出来なかったが、少しするとこちらに気付いたらしい。一瞬期待を込めた表情をしたが、すぐに恐怖へと移り変わり、次いで小さく首を横に振った。助けてと訴えていることは分かったが、かといって一介の見張りである自分には如何ともし難いのだった。

「わたしにも勤めがある。見逃すわけにいかないというのも分かって頂けるだろうか?」

「いいえ、分かって頂きます」

 背後からか細い声が響く。その手には鉄製の高価そうな短刀が握られており、しかし全身ががたがたと震えている。人を殺そうだなどと考えたこともない様子であり、自分ならば瞬きほどの時間で取り押さえることもできるだろう。しかし月明かりから窺える衣装を見て思い留まった。どうやら彼女は身分の高い者に仕える女性であり、するといま正に子供を産もうとしている彼女も同様の可能性が高いか、あるいはやんごとなきお方に近いのかもしれない。

 火遊びが過ぎ、そして妊娠が体に出ない細身であったため誰にも気付かれず今日まで来れたのは幸運なのか不幸なのか男には判断できなかった。ただ粛々と任務に準じてどうにかなる件でないことは確かなようである。そして厩に横たわる女の一際大きな呻き声である。左右両隣の馬は引っ切り無しに響く声に興奮を高めており、いつ嘶き始めるか分からない。異例なことではあるが、一刻も早く産んでもらうしかないようだった。

「申し訳ないがここで済ませるしかなさそうだ」男の言葉に惚けている女に、馬を刺激しない程度に声を飛ばす。「清潔な布に赤子を洗うための湯だ」

 そう言って男は手を伸ばす。刀を寄越し、さっさと行けということだ。

「は、はい、今すぐ」女はすぐに刀を渡し、外に出たかと思うと湯気の立つ木桶と布を抱えて来た。最初からここで産むつもりで用意していたらしい。

「この刃は臍の緒を切るためのものだな。こんなに良い切れ味のもの、持ち出したと分かればことだぞ?」

「致し方ありませんし、この程度の厚遇、与えて頂かなければ困ります」

 刀を突きつけた時は怯えていたのに、今はやるべきことを弁えている様子だった。

「既に頭が少し出ている。取り上げ方は分かるか?」

「実際にやったことはありませんが見たことなら」

「わたしもそれくらいだ。一度目は仕事だったが二度目は立ち会うことができた。痛みを合図に赤子を外に出させていたような気がする」

「出産の按配はあの子が一番良く分かっていると思います。母がお産婆ですから……身分の高いお方の出産にも立ち会ったと聞いています」

 それで男にはここにいる女たちの素姓を俄に察することができた。王族や近しい実力を持つものに仕える下女なのであろう。ギリギリまで耐えて、最後には母に頼ろうとしたがその途中……つまりここで限界を迎えてしまったのだ。

 そこまでして隠す理由を考えると暗澹としたものを感じずにはいられないが、今は赤子である。

「それよりもこの場所をお借りしてもよろしいのでしょうか?」

「許可を得るつもりなどなかった癖に……これこれこういう理由であったと、後で取り成してもらえると助かる。その……」

「あなたはあくまでも仁義に則ってこの場所を貸した。忍び込まれてなし崩しというわけではない」

 嫌な奴だが、話が分かるならば御しやすい。男は頷くと見張りに戻る。男がいたらやりにくいだろうし男手が必要ならば声がかけられるはずだ。出産の立ち会いというのは落ち着かないものがある。それに正直なところ、血というものがあまり好きではないのだ。訓練でついた軽い傷から流れるくらいだったら大丈夫だが、矢傷や刀傷など見ただけでもぞっとする。月のものを始めとして、女はあれだけの血を流して、大人になれば何人の子供を産み、よく生きていられるなと思う。妻も数えにして十八で既に二人の子供を産んでなおピンピンとしており、女の生命力を体現しているといって良いだろう。

 皇を始めとして身分の高いお方達は複数の女を娶り、多ければ何十人と子供を産ませるそうだが、自分の度量では一人でも扱い兼ねるし表には出さないが尻にも引かれている。多少は武に秀でていようとも身分の低い自分にはお馬番が関の山なのだ。

 そんな自分だからここでできるのはせめて脆い盾となることくらいである。死にはしまいとたかを括り外に出ると大慌てしてかいた汗が冷たい風で一気に引いていく。耳をすませば遠くがやけに騒がしいものの近くからは特に足音など感じられない。それでも気を抜かずに立っていると突然、稲妻のような泣き声が厩の中から響いて来た。どのような素姓であれ、赤子が無事に生まれて来たというのは間違いなさそうである。

 それにしてもこの鳴き声では馬も癇に当てられようはずなのだが、まるで皆眠りこけているかのように静かである。優れた馬というのはおしなべて神経質であり、小さな音にも気を荒くするものである。必死に噛み殺したお産の声でも苛々していたほどなのだ。しかし馬が鳴かずとも赤子は泣き続けている。ただでさえその声は耳に入りやすく、気付かれるのも時間の問題だった。

 そんな心配に引きつけられたかのように、騒々しい足音が複数迫ってくる。さてどう言い訳するかと唇を舌で舐めながら待ち構えたが、しかしすぐに見回りがやって来たなどという生易しいものではないことが分かって来た。松明を右手に、剣をもう片方の手に持った隊長らしき男を始めとして、訓練を極めた精悍で隙のない振る舞いの者ばかりである。服装から察するに宮中の警護を担当する、しかも生え抜きの連中のようだ。

「あの、如何なる御用でありますか?」下手に出て訊ねても気にかける振りすら見せない。「言いたいことはおありと存じますが、まずはわたしの話を、ちょいとばかり聞いては……」

 松明を持った男は部下たちに頷きを寄越すと、見張りなどいなかったとばかり、無言で厩に入っていく。少しして中から女の金切り声、鈍い打撃の音に女の呻く声である。

 衛士のうち二人は、お産を終えたばかりの女を、まるで罪人のように押さえつけて連れていく。そして別の一人が、赤子を包んだ布をぞんざいに掴んで持っていく。そうして沙汰の有無すら告げず、彼らは無言で去って行く。男が再び厩の中に入ると、もう一人の女は崩れ落ちたままおそらくは屈辱と悔しさで身を震わせていた。

「すまない、俺では庇いだてすらできなかった」

 女は一瞬だけ男を厳しく睨みつけたがすぐに表情を消し、素早く立ち上がると埃を払う。気丈な娘だなと男は思う。この世の中では何とも生きにくいに違いない。

「いえ、場所を貸して頂いただけで十分です。それにわたしとて……」

「女房には言い訳を考えておくよ」どのような事情かは知らないが、最早一介の下女では庇い立てしきれないということだろう。下手すると辺境の警護に回されるかもしれない。「気にすることはない」

 女は深々と頭を下げ、何も言わずに去って行く。少しすると馬が皆、興奮したように嘶き始め、男はすぐに先までのことを夢のように打ち捨て、我侭ものどもを宥めにかかる。

 

 それから数日が経ち、男の下には何の沙汰も報告もなかった。直近の上司はどうやら事情を何も知らない様子であり、仄めかしたもののはっきりとせず、だからあの夜の出来事がまこと、やんごとなき出所を持つことが何となく察せられ、だから探りをいれてみたいと思いながらも、じっと堪えて任務をこなした。

 更に月が一つ巡った頃、夜の番を勤める男のもとに突如として訪問者があった。あの日、この厩から母娘を連れ去った衛士たちの隊長をしていた者であると気付き、男は即座に距離を取る。

「口封じに来たならばもっと早くに訪ねているよ」男は厳つい顔とは裏腹、親しげに話しかけてくる。「その様子だと先の件が、やんごとない事情から発したものであると理解しているようだ」

 肯定してしまえば立場が危うくなりそうだが、かといって誤魔化しても通じそうにはない。渋々頷くと、しかし相手は満足そうに男の全身を見定めた。

「頭が回り、かといってそれをひけらかさないだけの分別がある。身のこなしも評判に違わぬもので、訓練のみならず咄嗟の判断で行動できる。自分のものでもない厩を下々に貸し出すというのは少々頂けないが……」

 相手はそこで押し黙り、決意とともに男を見据える。

「率直に言おう。わたしはお前をさるお方の警護として推薦したいと考えている」

「さる、お方ですか?」その先を促すものの、相手からの返事はない。つまりここで察しが付かなければそれまでということだ。男はあの夜のことに関係があるのだという前提のもと、信用のおけるかつ、内部事情に清廉で垢の付いていない人材を求めているのだと推測し、然するに答えは自ずと定まった。「あの時の母親と赤子を守る役割でしょうか?」

「母親はいない。産後の肥立ちが悪く、間も無く息を引き取った。守るのは赤子の方だ」

 どうやら上手く的を当てたらしいと分かったが、相手の渋い顔が気になった。

「ここでのこと、他言無用と誓えるかね?」

「心掛けます」拷問にかけられるような事態にもなれば保証は出来かねるとの意味だったが、相手は察した上でそれを受け入れたようであった。「教えて頂けるのでしょうか?」

「いずれ嫌でも知れることだ、墓まで持って行けなどと重いことを言うつもりはない。だが周知の事実となるまでは知らぬ存ぜぬで通して欲しい」

 相手はそう前置くと、声を潜める。

「あの赤子は……大兄皇子の御子である」

 喉が詰まり、顔が青くなるのが自分でも分かった。身分は高くとも、宮中に出入りする豪族連中の誰かであると考えていたのだ。それに先日、皇子の子が産まれたことは大々的に周知されている。宮中だけでなく下々にも広く知らしめる、些か大袈裟とも言えるものであった。

「……一つお尋ねしても宜しいでしょうか?」大兄皇子の后が産気づいたのは日の落ちる前であり、無事に女子が産まれたのは夜明け前だと聞いている。あの赤子は間違いなく、后よりも早く、しかも相手の言葉が確かならば男子を産んだことになる。「わたしはその、相当危うい立場にいま立ってしまったのでしょうか?」

「そして最早抜けることは能わぬ」さもなくばとばかりに殺意を向けられれば、そんなことができないのは嫌でも分かるというものだった。「もちろん、禄は保証するし、相応しい立場を与えることも考えている。物騒なことにはできるだけならないよう、わたしとて働きかけるつもりだ」

「その、いえ……命を失うことが怖いというのではありません。ただ、もしもわたしが死出の旅へ出た時は妻子に末長く、せめて息子と娘が一人前となるまでは支えて頂きたく」

 相手はなんだそんなことかとばかりに息をつく。

「率直に言うがわたしは使い勝手の良い駒を求めている」

 使い勝手の良いとはまた率直な言い方だが、名前と身分を与えてやるから俺のために働けというのは、今も昔もない話ではない。男が勝手に、自分には無関係と除外していただけのことだ。と、そこで一つ気になることがあり、男は期待を込めて訊ねる。

「名前も変える必要があるのですか?」

「いや、そこまで徹底する必要はないし、先方もそこまでは強要しないはずだ。それにお前の名はわたしにとって縁起が良いのかもしれない。我が氏族は女子の産まれにくい家系らしくてな」

 相手が微かに笑んだのを男は見逃さなかったが、目くじらを立ててもしょうがないし、ここでじっと耐えるのも一種の試験かもしれない。

「追って正式な通達が行くだろう。おめでとうと言われるかもしれないが、だとしても皮肉ではないことだけは保証するよ」

 相手はそう言って、まるで散歩でもするように去っていく。荒唐無稽な物言いとあいまって、まるで現実感がなかった。だが更に月が一つ巡った時には、男の人生はそれまでのものとはまるで別になっていた。

 男は小野姓を得、小野妹子として、大兄皇子の私生児、厩戸皇子付きの護衛役となったのだった。

 

 

五八〇年 光の皇女、陰の皇子

 

 

  同じ父を持つ二人の子供が出会う。

  愛憎も恩讐もまだこの時はなく、

  ただ無邪気な子供と子供の姿があった。

 

 

 聡明であるというのは、必ずしも幸福であることを意味しない。その人物が微妙な立場であるならば尚更であるが、まがりなりにも皇位継承を有力視されている皇子の息子がそうであるというのは、かつての自分ならば思いもよらなかったであろう。諍いや小競り合いを繰り返すことはあっても、生まれながらに恵まれた衣食住を保証されているのだから、何だかんだで下々のものよりは余程ましであろうと考えたに違いない。

 しかし厩戸皇子付きの衛士となってから五年が過ぎたいま、全てではないにしろその考え方は大幅に改まってしまった。彼に与えられた乳母も世話係の下女もまるでそれが仕事であるかのように皇子にきつくあたるし、十分な広さの部屋を与えられているといっても宮中に急拵えで誂えられた離れであり、冬になれば隙間風がひゅうひゅうと吹く。さぞかし寒いし怖いだろうに、彼は薄い布一枚に包まって必死に耐えていた。二つ、三つの頃はびいびいと泣いていたが、そんなことをしても誰も助けてくれないとすぐに悟ったらしい。

 妹子にはそれが不憫でならなかった。彼には二人の息子に一人の娘がいるけれど、義父は彼らのことも実の孫と同様可愛がってくれるし、少なくとも子供たち同士は屈託なく仲良くしているからだ。自分が有用性を示し続ける限りという条件付きではあろうがそもそも立場の極めて悪い厩戸皇子を陰ながら支えているのだから、単に打算だけではないのだろう。少なくとも子供に大人のような辛辣さを真の意味で演じることはできないと妹子は考えている。

 しかして厩戸皇子は年例行事でさえ父と話すことままならず、兄弟姉妹と触れ合うのはもってのほか、義母からは恨み辛みの視線を向けられる始末である。存在するだけで力が生まれる家の血筋にしてもあまりの仕打ちであると妹子は考えている。しかし姓を得て一端の役職についたといっても……いや、だからこそ上に訴えれば一度で首が飛ぶ。もしかすると比喩なしにそうなるかもしれない。妹子にできるのは他の者みたいに辛く当たらないことくらいだった。それでも皇子にとっては嬉しいことらしく警護の最中にもやって来ては、下々の遊びをねだり上手く改良して一人でやり始め、それがまた不憫でならなかったのである。

 それにも飽きると厩戸皇子は大陸から流れてくる書物を読み耽るようになった。とはいっても誰かが読み方を教えてくれる訳でもなく、そこから何らかの叡智が得られないかと四苦八苦するのみであった。できることなら教えてやりたかったが、衛士として最低限の読み書きを習っている程度では異国の経典など歯が立つはずもないのである。それでもできる限りは教えてきたし、それで僅かばかりの知識を得られればそれを砂に書いて諳んじる。だがその度に失望するばかりであったのはその表情を見れば良く分かった。おそらく厩戸皇子は幼い頃から広まり続けてきた空漠を埋めたかったのであろうが、あまりにも幼くそして悲しいことに教師がいなかった。

 そんな皇子に救いの手が差し伸べられたのは彼が数えで五つになったばかりの頃である。

 彼女の噂は離れとはいえ宮中にいれば否が応でも耳に入ったし、今まで遠巻きに姿を見ることもあった。だから豊里皇女が間近までやってきたとき、幼さをまるで感じさせない貫禄に面食らったものだ。鮮やかな金の髪に、まるで渡来の仏様のように彫りの深く美しい顔立ちである。彼女を模した仏像が作られたこともあると聞いた時は眉に唾をつける類のことかと思ったが、あながち嘘でもないのかもしれないと信じられるほどに整っていた。

 皇女は妹子を一瞥するだけで何も言わずその横を通り過ぎようとするが、いかなやんごとなきお方の娘であっても通すわけにはいかなかった。何より大兄皇子が二人の接触を避けたいと考えるはずだ。しかし声をかけて無礼だと言われるのもそれは困る。そこでまずわざとらしく注意を引こうと空咳をするが、皇女は一瞬だけ足を止めるものの意に介する素振りすらも見せない。

「貴女は大兄皇子の御息女、豊里様であられますね?」

「その通り。しかして下賤の者がわたしを諌めて追い返そうなどと、よもや考えてはおらぬだろうな?」

 大の大人でも舌を噛みそうな言い回しを淀みなく使い、侮りの顔を隠そうとしない。傲慢だがそれだけでは済まされない、膝をついて従わねばと思わせる力があった。それでも妹子は、言うことを聞かない子供を宥めるよう、仕方ないという調子で微笑みかける。

「許可のないものはお通しできません。わたしそのものは下賤でありましょうが、あなたのお父上の命を受けているからです」

 父の名前を出されるのが嫌なのか、皇女は子供のように不貞腐れ、頬を膨らませる。子供らしからぬ存在感ではあっても親を敬い、畏れる気持ちはあるらしい。皇女は暫く悩んでいたが、やがて良い案を思いついたのか、瞳を輝かせながら訊ねてきた。

「……なら、わたしが力づくで通ったことにすれば問題ない。そうじゃろ?」

「五つ、六つの子供にやられたとなればわたしは流石にお役御免でしょう。これでもわたしは一家の大黒柱であり、妻子の食い扶持を稼がなければならない身であれば尚更通すわけにはいきません」

「そんなの知ったことではない」頭の良い子供であるから情で訴えれば効くかと思ったのだが、返って来たのは実に素っ気なく残酷な答えだった。「通さないと言うならば無理矢理にでも行くだけじゃ」

 単なる子供ならば、体格差に任せて穏便に押しやるだけであったが、妹子は密かに身構え、相手が迫って来るなら素早くかわせるよう、体に力を込めた。この幼子が手練れの衛士をあっさりやりこめたという噂を耳に挟んでいたからである。

「ふむ、どうやらそなたは他の奴らと違ってそこそこできるらしい」そう言って皇女は無造作に掌を向けてくる。じりじりと空気を焼くような音と臭いに気付いた時には、全身を鋭い痛みと衝撃が駆け抜けていた。呼吸することさえ困難になり、足に力を込めなければ立っていられないほどだった。「しかし所詮、この力には抗いきれないか……」

 皇女はそのことをまるで悲しむように言ったが、すぐに機嫌を取り戻し、苦しみに喘ぐ妹子に向けて、歯を剥き出して笑った。

「心配せずとも父上の許可はとっておるよ」それを早く言えと口にしたかったが、舌が痺れてろくに声が出なかった。「お前はなかなか楽しい奴だった。また遊んでやろう」

 皇女はそう言い残し、皇子の部屋に入って行く。妹子は息を整えると、まだ若干ふらつくながらも、はっきりと声を出して皇女を制止する。

「正式な客人でしたら、案内するのがわたしの役目です」

「好きにすれば良い。わたしは兄に会えればそれで良いのだから」

 世間的には弟と称されるべきなのだが、皇女は繕う素振りすらも見せない。もしかするとその事実を知ったことが、彼女の興味を惹いたのかもしれない。

 戸が閉まっていたので、客人ですと声をかけてみたのだが反応がない。午睡を楽しんでおられるのかなと考えて躊躇するものの、このお転婆がすごすごと引き下がるわけもない。そっと戸を開けると、皇子は開いたままの経典を下敷きに眠っていた。見つけたのが信心深い者ならば、例えば蘇我の当主などであったならば大事になっていたであろうが、ここにいるのは仏様の教えなどまるで分からぬ無学な大人と小さな娘だけだ。

「ははは、何とも豪気な、流石は我が兄上!」いや、皇女は分かった上でこの状況を楽しんでいるようだった。「渡来の経典を枕にするとは!」

 皇女の言葉に引っかかるものはあったけれど、素早く駆け出して皇子の服をつかみ、揺らして起こし出したから妹子はすっかり慌ててしまった。聞き分けの良い子なのだが、無理矢理起こすとたまに酷くぐずってしまうのだ。今回は幸いにもゆっくりと目を開くだけだったが、眼前に見知らぬ子供を見つけ、うわあと叫びながら手を床について逃れようとした。その下に脆い紙が開かれていることもすっかり忘れており、妹子が気付いた時には派手な音を立てて破れていた。

 皇子はおそるおそる床から手を離し、大きく首を横に振る。厄介なことを仕出かしたとすぐに分かったのだろう。しかしそのことを口にする前に、皇女が火の付いたような笑い始めた。経典を敷いて眠るだけでなく破いてしまったことに特別な意味を見出しているに違いなかった。

 その笑いの前には、いかな経典破りと言えど些細なものとなり、皇子はようやく突然の来訪者に驚いたようだった。

「あ、貴女はどなたでしょうか?」

 皇子の質問に皇女はなおも笑い続けるだけだったが、皇子の不安そうな視線に気付いてようやく我に返ったらしかった。

「皆には豊聡耳と呼ばれておる。実に聞き分けの良い耳を持っておるということでの」皇女は耳朶をふにふにと触る。その仕草は何となしに子供らしかった。「豊里というのが本来の名前だ」

 えへんと胸を張る皇女を、皇子はまじまじとみやり、不意にはっと息を飲む。

「とよさと……すると貴女はわたしの姉上なのですか?」

「いいや、そなたがわたしの兄上なのだ」

「ですが、あなたが豊里であるならばわたしの姉上のはず。皆からはずっとそう言い聞かされて来ました」

「それは大人の都合に過ぎん」皇女はそう言って、皇子の言葉をさらりとねじ伏せる。「わたしが姉でお前が弟、その方が都合の良い奴らがいるのじゃ。でもどうせばれておるよ、わたしの耳はいついかなる時でも良く聞こえるのだから。そこかしこでひそひそと話しておるわ」

 そしてそれを理解できるだけの、大人じみた賢さを持っている。これで男に生まれたのならば、将来を嘱望されていただろう……否、皇子のためにはこれで良かったのだと妹子は密かに思う。男であったならば僅かでも早く生まれたことが、正しく致命的になっていただろう。

「それにしても、我が兄上なのだからきっと凄いことをやらかすに違いないとは思っておったが」皇女は腹を抑え、くくっと笑いを堪える。「仏の教えなど意にも介さぬおつもりとは」

「い、いや、これは違うよ。不幸な事故で、つまりそんなことをするつもりはなくて……」

「じゃが、仏の教えを読み取ったのじゃろ?」皇女はぱっちりとした瞳を一心に、皇子に向ける。「経典に書かれた文字を読んでいたのだから」

「い、いや、そうじゃないよ」皇子は必死で首を横に振る。「僕にはちっとも読めないんだ。なんとか読もうとしたけど無理で、そのうちにうとうとしちゃって、その……期待させてごめんなさい」

 その様子を見て皇女は若干鼻白んだようだったが、それでも皇子への好奇心は失っていないようだった。

「教えてくれる人が誰もいなかったのか?」

 皇子は不承不承頷き、すると皇女は胸を叩いてみせるのだった。

「ではわたしが教えてやろう」皇子は期待と不安交じりの表情を向け、皇女は嬉しそうにその右手をつかむ。すると僅かに、ばちんと低く爆ぜるような音がした。皇女が自分を倒したとき同じ音がしたことを思い出して皇子の様子を見るも、特に辛そうな様子は見受けられなかった。そしてそのことを皇女は不思議に感じているようだった。「……兄上は痛みを感じないのか?」

「いや、別にそんなことはないけど。何かしようとしたの?」

 皇女は慌てて首を横に振り、皇子から手を離す。そうして何かを掴むように指を曲げると、紫の糸状の光が指と指の間をか細く行き交っているのが見えた。

「母上からきつく言われておるのじゃが、わたしにはこのようなことができる。こんなに細い糸のようなものでも、触れると大の大人さえひっくり返すことができるのじゃよ」

 そう言いながら手を開くと表面が薄ぼんやりと紫色に光っているのが分かる。皇女はその手を皇子の胸に、無造作に押し付けた。だが皇子は微動だにしない。恥ずかしがってはいるようだが苦痛は感じていないようだった。

 少しすると皇女の目尻が少し緩み、そして皇子の血色が少し良くなったよう妹子には見えた。まるで力が触れた部分を通して伝わったかのようだ。皇女は深い息をつき、胸に当てた手をそっと離す。

「不思議だ、何だか体がぽかぽかする。頭も体も、動かしたくてたまらない!」皇子は先程までの狼狽が嘘のように素早く立ち上がる。「その手から力が流れ込んで来たんだ!」

「わたしは、とても落ち着いてるよ。さっきまではち切れそうで、無闇に気分が高揚して堪らなかったのに……」

 皇女は逆に先程までの不遜な態度がなりを潜め、年相応の子供に見える。父親が同じせいなのかは分からないが、皇女の力は皇子を害せず伝わるようだった。

「ずっとそうだった。まだ赤子のような頃からだ、わたしの深奥からは尽きることなくどんどんと力が溢れて来る。耐えられなくなると暴れて発散するしかない。でもこれからはそんなことしなくても良いのかもしれない」

 安堵するような表情からして皇女は己の力をあまり歓迎していない。それを解消してくれる皇子は皇女にとって救いそのものだったのだろう。

「よく分からないけど、わたしで力になれるなら協力するよ」皇子はらしからぬ自信をまとい、皇女にそう宣言する。「母上や父上が許してくれるならだけど……」

「兄上のもとに通わせてくれるなら癇癪はしないと言えば、止められはしないだろう」皇女はにっこりと皇子に微笑みかける。「それに父上は学を重んじるお方じゃ。息子に先生の一人もなく、経典を持て余しているのは良くないとも言っておった」

 その言葉を聞いて、皇子の顔がぱっと輝く。幽閉同然の身にされながらも、親に気をかけられているというのは嬉しいらしい。何とも健気な話だと妹子は思う。

「かといって表立てば角が立つ……その点、わたしなら誰も文句を言わないであろう」

 皇女は得意そうだったが皇子の顔は途端に曇ってしまった。それでも普段ならば押し隠してしまうのだが、皇女の力を得た影響だろうか。唇を震わせながらもはっきりと声に出した。

「……義母上が良い顔をしないのですか?」

 皇女はしかし頓着することなく首を横に振る。

「母上は優しいお方じゃ、父上以上に気を配っておるに違いない」

 妹子はその絶望的な認識に息を飲む。皇女は父である大兄皇子を始め、その動向を何となしに察しているというのに、母親の気持ちだけは理解してないのだった。

「そうか、なら大丈夫ですね」皇子は内心を隠し、控えめな笑みを浮かべる。「わたしからもお願いしたい。文字の先生になってもらえないだろうか?」

「それは、ええ、もちろんじゃ」皇女は嬉しそうに言うと、破れてしまった経典を指差す。「これは、まあ最初から破れておったことにしよう。渡来からの品物は兎角損傷が激しいらしいしの」

 そういって何か言いたそうな皇子を強引にやり込め、少しすると二人とも経典に心を奪われてしまった。これなら大丈夫だろうと判断し、妹子は見張りの場所に戻る。

 すると柱の影に下女らしき格好をした何者かがいて離れをじっと窺っているのが見えた。相手も妹子に気付いたのかさっと逃げ出したのだが、それが何とも怪しいのだった。もしかすると皇子の動向を探る役目を果たしていたのかもしれないが、それにしても今まで姿を露見することはなかった。あるいは皇女の挙動を監視していたのかもしれない。彼女は何しろお転婆であるし、噂に違わぬ力の持ち主であることも身に染みた。姿形が子供だからといって決してそのように扱ってはならない存在である。そんな皇女の動向を探る向きがあることは理解できたが妹子には結局、普段の役割を注意深くこなすことしかできなかった。

 

 大兄皇子の同日に生まれた二人の子が邂逅を果たしてのち、妹子の身辺は俄に騒がしくなった。それは豊里皇女と厩戸皇子が子供らしくはしゃぐ声だけでなく、その動向をやんわり探ろうと、衛士の仕事が終わったのち、自分より幾分か身分の高い者たちが食事や酒を振る舞ってくれるようになったのである。だが妹子はその大半を丁重に辞し、どうしても断れない場合だけ受けることにした。

 彼らは一様に、まずは豊里皇女の動向に探りを入れ、次に厩戸皇子との仲、そして二人の交友がどれほど周りに受け入れられているかを訊ねるのである。とはいっても妹子には大したことなど答えられるはずもない。皇子付きの衛士を勤めているのも所詮は成り行きに過ぎないし、義父もさしたることは教えてくれないのだ。それでも妹子に誘いをかけて来た者たちはそれなりに満足して帰りにはわざわざ見送ってくれるほどなのだから、お上の重要な情報が下に流れてくるなんて滅多にないのだろう。妹子は躍起になってそんなことを探るのは感心できないと思っていたが口には出さなかった。義父にそれを伝えたところ、良い心掛けだが口にするなと、苦笑いしながら言われたものである。

 

 そのうちにも時は過ぎ、三月もすると豊里皇女と厩戸皇子はすっかり子供らしい意気投合を見せていた。皇子が離れから出られないため外で遊ぶことは出来ないのだが、顔を近くして経典に取り組んでいるだけでも十分に楽しそうだった。皇子には言葉を理解する才能があったようで、まだ読めない、分からない言葉は多々あれど、少しずつ内容を理解し始めたようだった。もしかすると皇女の力を取り込んでいることとも関係があるのかもしれない。

 妹子は試しにもう一度だけあれを受けて見たことがあるのだけど、やはり全身に痛みが走り、胸が苦しくなり、体が震えて立ち上がることさえ困難になってしまった。やはり血の繋がりが関係するのだと結論付け、傍観することにした。皇女の力を受けることで、皇子の力が陽に進み出したからというのもあるし、皇女がお淑やかになるのは悪いことではないと考えたからだ。

 

 いつもの勤めが終わり、帰ろうとしたところで妹子は珍しく宮中で義父に呼び留められた。その後ろには高価な服や装飾品を身につけた男たちが何人かいたのだが、中央の人物を見て思わず目を瞠ってしまった。おそらくこの中で最も背が低く、腹が出ているのだが、それでいて動きは実に機敏であり、一挙手一投足からは重々しい威厳が感じられた。豊里皇女とは異なる意味で、人を使うことに慣れきっているようであった。

「すいません、わたしの義子を紹介させてください。厩戸皇子付きの衛士を勤めております、妹子と申します」

 小野の義父上が言うと、皆が妹子に注目する。中にはかつて、妹子から話を聞き出そうとしたものもいたが初対面の振りをし、畏れ多いといった調子で皆を見回す。すると腹の突き出た男が、気さくそうに近づいて来た。

「小野殿から話は聞いておる、勤勉で良い男子を迎えることができたと」男は妹子の顔をじろじろ見ると、愉快そうに笑んで見せた。「面構えが良いし、何よりもわたしのようなだらしのない体の男と相対してさえ、油断することがない」

 別段、心構えをしているわけではないのだが、あるいはと妹子は素直に胸のうちを口にする。

「高貴で油断ならぬ御子たちと長らく接していれば自然にそうなるものだと愚考いたします」

「なるほど、確かに」男は否定することなく豪快に笑う。粗雑だが何故か憎めない御仁だなと思った。「子供というものは油断ならぬものだ。大人の思惑を無視して逃れようとする。わたしの息子たちも乳母を手こずらせてばかりでな」

 妹子は控えめに頷き、すると小さく息をつく。

「如才もきく。大事な役目を勤めているのでなければ、是非うちに頂きたいものだ」

「はは、お戯れを」義父が追従の笑みを浮かべ、男も合わせるように笑う。「しかし息子に斯様なお褒めの言葉を賜り、光栄に存じます」

 男は大きく頷き、立ち話はこれくらいと目で訴える。周りにいるのは男のそうした仕草を理解できるものばかりらしく、妹子は男の名前を聞くも、他の相手との面通しも終えることなく、後に続く羽目になった。少しすると義父が機嫌良さそうにひそひそと声をかけてきた。

「馬子殿に大層気に入られたようだな」

 何度か姿を見たことがあったからそうではないかと思っていたが、やはり蘇我の殿様であったらしい。妹子は合点したとばかりに頷いたのだが、義父は高い評判を得られたことへの満足だと受け取ったようで、俄に眉を潜める。妹子は慌てて弁解した。

「いえ、話には聞いていましたが、間近で人となりを見るのは初めてでしたので」

 義父は小さく息をつくと、そっと声を潜める。

「ああ見えて相当な野心家だ。故あって与しているが、あまり近づき過ぎないことだ」

「わたしは上の覚えが良くなりたいとは思いません。妻子を養えればそれで十分、それに過ぎたる野心や身分を弁えない行動はいずれ身を滅ぼしますから」

 妹子は厩戸皇子を生み、その日のうちに死んでいった女に思いを馳せる。彼女は父親が大兄皇子ではないと言うことを求められ、断固として拒むと棒で打たれ、最後まで貫き通したために生きていられなかった。妹子を抜擢した義父はかつて間人郎女の命を上から伝えられ、秘密裏に拷問を行ったのだ。妹子はその話を聞かされ、お上がいざとなればいくらでも残酷になれると知ったのである。そのことは豊里皇女の耳に入らないほど強固に、誰もが口を固く噤んでいる。権力とは時に陰湿に牙を剥くことを、妹子はあの時に学んだのだ。

「他の者なら信じられないが、お前は嘘は言ってないのだろうな。何を見たのかあるいは聞いたのか、知りたいものではあるが」

 妹子が大きく首を横に振ると、義父は分かったと言いたげに苦笑する。それでこの話はお流れのようであった。

 

 蘇我の殿様の屋敷ともなれば、ただ広いだけでなく趣があり、庭の木々もよく整えられていた。そして何よりも目を奪われたのは厩舎の規模であり、宮中にも匹敵する設備が整えられていた。

 馬は長距離の移動から畑仕事から役に立つ上、何よりも戦における効用が抜群である。馬を多く持っているということが氏族の力にも繋がってくる。蘇我氏は渡来の経典や仏像だけでなく、大陸の動物を入れることにも力を尽くしており、特に馬に執心を示しているという話は妹子も聞き及んではいたがどうやら本当であるらしい。先代である蘇我稲目の方針を息子である馬子が上手く継いでいるということだろう。

 場の雰囲気に上手く馴染めず、高級な料理や酒もそこそこに切り上げ、妹子そろりと厩舎へ向かう。辺りはすっかりと暗くなり、邸内の篝火もそこまではほとんど届かない。昔はもう少し夜目が聞いたはずなのだがと思いながら中を覗き込もうとして、ふと横からじっと見られているような気がした。続けてがさりと音がしたので慌てて振り向くと茂みが微かに震えているのが見えた。蘇我の屋敷に得体の知れないものが潜んでいるとは思えないが、渡来の凶暴な獣である可能性はある。身構えて茂みを睨みつけていると、向こう側から声が聞こえた。

「おい」何とか脅そうとは試みているが、子供らしい甲高さが隠しきれていない。皇女と異なり威圧感もなかったから、本当に普通の子供なのだろうと判断した。「お前は馬泥棒か?」

 相手は人間の子供だが、馬泥棒にされてはたまらない。ここは素直に立場を名乗ることにした。

「いえ、わたしはこの屋敷の主である馬子様に呼ばれたのです」

「なんだ父上の招待した者か、脅かさないで欲しいものだ」そう言うと声の主はおそるおそる茂みから出てくる。険しい目つきをしているのはまだこちらを不審に思っているからだろう。父上が招待したという発言からして彼女は馬子の娘であるようだったが、あの父親から生まれたものとは到底思えないほどの細身であった。豊里皇女も痩せてはいるが、彼女はそれにも増して、不安になるほど細っこい。「其方の名は?」

「小野妹子と申します」

「わたしは刀自古だ、まあ覚えておいてもそうでなくてもいい。わたしも覚えているかどうか分からないのだからな」

 傲慢な物言いだが不思議と嫌な気持ちにならないのは、子供らしい率直さのためだろう。皇子と年が近そうなことも手伝い、妹子は膝をついて刀自古に視線を合わせた。

「刀自古殿は普段からこのようなことをして、遊んでおられるのですか?」

「……あ、遊びなわけないだろう」刀自古は少し考え込んだのち、明らかに嘘であると分かる答えを返す。「み、見回りをしていたのだ。お前のような不審者がいないかどうかな!」

「それは衛士の仕事です。高貴なお方のなさることではないし、もしわたしが侵入者でしたら、貴女は下手すると害されていたかもしれない」口封じのため嫁入り前の娘にできることは色々あるのだ。「良いお心がけとは思いますが、お淑やかにされていた方が父上は安心なさるでしょう」

 妹子がやんわり諭すと刀自古は目に見えて機嫌を悪くする。然るに同じようなことを何度も言われたことがあるらしい。お転婆であることが分かれば、彼女がここにやって来た理由も何となく察しがつき、そこで妹子は攻め方を変えてみることにした。

「わたしは長らく馬番を勤めておりまして、ここではどのような世話がされているか気になって、ついつい足がこちらへふらりと向かったのです」率直に打ち明けると刀自古は分かりやすく機嫌を戻す。どうやら夜に紛れて馬を見にやって来たのは間違いなさそうだった。今日は宴会で、屋敷にいるものの注意はそちらに引きつけられており、どうやら馬番も警護に回されているのか見当たらない。その隙を狙おうとしたに違いなかった。「案内して頂こうと思いましたが、今は誰もいない様子ですし、どうしようかと考えあぐねていたのです」

「それだったらわたしが案内しようではないか」刀自古は針に食いつく魚のような反応を示した。何とも危ういが、そのつけ込みやすさが妹子には有難かった。「遠慮することはない。わたしも蘇我の家に生まれた女として客人の一人や二人もてなすなど、容易いことよ」

 そう言うと刀自古は迷いなく厩舎の中に入り、妹子も慌てて後に続く。成り行きではあるが、それならばと妹子は夜目を凝らして馬を見て回る。暗くて毛の色まではよく見えないが、どれも毛艶はよく、身は引き締まっており、伸び伸びとした顔をしている。言葉ばかりでなく、実として馬を大事に扱っている証左であり、妹子は感嘆の目でそれらをうっとりしながら眺めていた。

 そのとき、ぱちんという音と共に辺りが急に眩しくなる。光源を追うと刀自古が火のついた松明を手にしているのが見えた。獣脂の臭いが微かにするから火を付けやすく加工してあったのは分かるが、それにしても手足の細い子供にできることではない。

 刀自古は特に気にすることなく近付くと、妹子に松明を手渡す。

「火はあまり好きじゃないから持って!」

 火を付けたのは自分なのにと思ったが、子供らしく怖がっているからと茶化す気にはなれなかった。妹子は慌ててそれを受け取ると、地面に落として砂をかけさっと消した。

「何するのよ!  折角用意したのに!」

「夜に火を焚けば嫌でも目立ちます。お父様が叱りに来るかもしれませんよ」

 父の名を出すと刀自古は途端に肩を落とす。誰かが見てないことを祈りながら、妹子は続けて声を掛ける。

「それに火は馬が興奮します。折角の機会なのは分かりますが今日は薄暗い中で我慢してください」

 妹子がやんわり諭すと、刀自古は子供らしく項垂れてしまった。

「父上や兄上たちは好きなように乗れるのにわたしは慎みと節度を持った行動をしろと窘められるのよ。女に生まれたというだけで不公平じゃない!  わたしも馬が好きなのに!」

 刀自古の言葉は理解できるけれど、妹子にはどうすることもできなかった。彼女の家族ではないし、間接的に意見を言える立場でもないからだ。刀自古もそれに気付いたのか、それとも一頻り吐き出してすっきりしたのか、俯きがちになってしまった。

「暗闇でもしっかりではないにしろ見られたでしょうし、仲の良い兄弟に頼めば近くで見せてくれるでしょう……乗りたいと駄々をこねたりしなければ」う、と喉を詰まらせたような声を出したから図星だったのだろう。「わたしが乗せて差し上げられれば良かったのですが」

 割と本心からそう言ったのだが、刀自古は社交辞令のようなものと受け取ったらしく、小さく息をつくのみだった。

「あなたは気が利かないし、うるさい大人だけど、悪い人じゃないみたいだし、何よりおべっかを使わないのがいいわ。わたしそう言うの好きじゃないの。わたし自身が偉いわけじゃないのに」

 子供らしくない言い方に、慣れているというのに妹子はどきりとする。彼女も皇子には及ばないにしても十分に賢いし、どうやったかは分からないが松明に火をつける力を持っている。だが、蘇我の家に生まれたからにはいずれ誰か身分の高い相手に嫁入りしなければならず、つまりその賢さも力も結局は何の意味も成さないということだ。刀自古はそのことを正しくは把握していなくても肌で感じているのかもしれなかった。

 

 夜の厩舎は星と月のおこぼれだけではあまりに暗く当初の目的は果たせそうになかった。それに刀自古が徐々に夜を怖がり出していた。あるいは見知らぬ男が側にいることが改めて恐ろしいと感じているのか、どちらにしても潮時のようであった。

 厩舎を出ると灯りが少し離れた場所にあり、刀自古はいきなり背後に隠れてしまった。

「お前、そこで何をやっている!」鋭く高い怒鳴り声が聞こえ、妹子がそちらを向くと声の主は素早くこちらへ駆けてくる。手には松明を持っており、この夜の中誰かを探していたようだった。十歳ほどの男子であり、あと数年もすれば大人の仲間入りをするのだろうが、まだその顔には幼さが多分に残っていた。彼は後ろに隠れている刀自古を見つけ、大きな溜息をついた「こんなところにいたのか。出ておいで、叱ったりしないから」

 先程と違い、柔らかく諭すような声である。その調子からするに、刀自古の兄か、少なくとも血縁者であるようだ。その証拠に刀自古はおそるおそる妹子の背後から出てきて、男子のもとに歩いていく。

「こんな所にいたということは馬を連れ出すつもりだったな、無茶なことを。わたしが乗っているのを見ているだけでは満足できないのか?」

「だって兄上ったらとても楽しそうだったもの」

「刀自古も時が来たら乗せてやると前に言っただろう……父上は女らしく育って欲しいということだが、わたしはお前にそんなものは期待していないよ」

 男子が声を立てて笑うと、刀自古はむくれてしまい、それでも側から離れない辺り、慕っているのだなということがよく分かる。

「あなたは父上の客人でしょうか? 刀自古の世話を焼いてくれて有難うございます」

 特に世話を焼いたつもりはないのだが、そう思い込んでいるようだ。然るに平時は更にお転婆であるらしかった。

「世話をしたのはわたしよ、失礼しちゃうわ!」

「馬を見たいと思い、厩舎まで赴いたのです。しかし馬番がおらず、途方に暮れていたところこの子が現れたのです。ついお言葉に甘えてしまいました」

「なるほど、そういうことですか」目配せを寄越す仕草からして、刀自古に恥をかかせないよう作り話をしてくれたのだと考えたらしい。確かに一から十まで本当ではないが、日頃の行いはいざという時にこそ出てくるものだと思う。

「ときにお名前を伺ってもよろしいですか?」

「小野妹子と申します」

「ああ、小野の……病気で息子をなくされたのち、養子を迎え入れたと聞いております。武勇に秀でた方で、素晴らしい剣捌きをお持ちだと聞いたことがあります」

「ええ、わたしのことですが昔のことです。それに学はなく面白みのない人間ですから、代わりになれているかと言われると厳しいものがありそうです」

「面白みがないとはわたしもよく言われますよ。父のように豪胆ではなく、母の美貌もさして継いでない、真面目だけが取り柄だとね」

 男子はらしからぬ謙遜を見せたのち、大きく頭を下げる。

「失礼しました。名乗るのが遅れましたね……わたしは毛人と申します」

 毛人というのが馬子の長男であり、ゆくゆくは蘇我の家を継ぐかもしれない人物であることは流石に知っていた。それにしては父に比べて謙虚であるし、彼もまた刀自古に似てばねみたいに細い体躯をしている。大人になれば同じようになるのかもしれないが、今の毛人はぎょろりとした瞳に多少の面影が感じられるくらいだった。

「いずれ志を同じにすることとなりましょう。その時はよろしくお願いします」

 毛人の言葉は、共に王に仕えようとも取れるし、蘇我の尖兵として励んで欲しいとも取れる。妹子としては後者でないことを祈るだけだ。もしそうなら、彼は十にもならないうちから宮中の機微を察しているということになるからだ。

「では、わたしはこれで失礼します。刀自古も、きちんと礼を言いなさい」

「えー、だからなんでわたしが……」

「事情はどうあれ大人の手を煩わせたことに代わりはないからだ」

「そんなの不公平だわ。父上は下々の者を困らせても怒られないし、母上なんて……」

「刀自古!」毛人の顔つきが途端に険しくなる。「すいません、礼儀のなっていない子で」

 気のせいかもしれないが、毛人は母上という言葉で急に態度を豹変させたようだった。そういえばと、妹子は今更ながらに思い出す。馬子の細君は男なら誰でも振り返らざるを得ないほどの美貌の持ち主であると。その影響力は幼い実の息子にまで及ぶのかもしれない。そこまで考えて、妹子は己の思考の薄ら寒さに身震いしそうになった。

「兄上なんて大嫌い! みんな嫌いだ!」

 刀自古は鬱憤を吐き出すと闇の中を駆け出していき毛人はその後を慌てて追いかけていく。一人取り残された妹子はそろそろ宴会に戻ろうとして、思わずぞくりとした。闇の向こうにぎらぎらした殺気と獣のような唸り声を聞いたからだ。他に何か潜んでいるのかと目を細めて見ると、闇を縫うように人影がぬっと飛び出して来た。咄嗟にかわしながら足を払うと手応えがあり、盛大に転んだのが暗がりでも微かに分かったのだが、枯れ木を踏んだような音と、別の鈍い音がほぼ同時に響き、妹子は慌てて駆け寄った。骨でも折れていたらことだと考えたからだ。だがその前に人影はむくりと立ち上がり、するとそれが額にお札の貼られた、肌の色が異常に白い女だということが分かる。だがそれは留意する点ではなかった。その左手は奇妙に折れ曲がり、首はあらぬ角度で曲がっている。腕は兎も角、首の骨が折れれば人は当然のこと、犬や猫やもっと獰猛な動物でも生きてはいられないはずなのにだ。

「あらら、体が壊れてしまった。これはまた青娥に叱られてしまう」

 女は鈍く甲高い、不快感を催す声をあげる。その表情はぎこちないが何かを恐れているようであり、やがて怒りに傾いていった。

「かわさなければ苦しませず一息で食ってやったのに!  これでは手加減できんぞ!」

 女は素早く立ち上がると面妖なことに、青く輝く灯火を周りに展開させる。明るいのに、妙に闇に馴染んでいて、見ているだけで体が竦みそうになる。得物もないいま、逃げなければ殺されるだけだというのに足が震えて動けなかった。

「さあ、覚悟してわたしの臓腑に収まるが良い。なに、その身は我が肉となり、魂は腹の中で大事に飼ってやろう。だから心配することなど……」

 だがその先を言葉にすることはなかった。刃の短い刀が口に突き刺さったからである。もんどり打つ女を心配するよりも、妹子は周囲の気配を探るのを優先した。気配に気付けない遠方から狙われたならば自分も同様に危ういと踏んだからだ。

「こら芳香、その人はやめなさい。別に殺せるから死んじゃってもいいと思うけど、皇子のメンタルがとても扱いやすくなるんだから」

 芳香とは口に刃を打ち込まれても死ぬ様子を見せない怪物の名前だろうか。それをまるで下女のように扱うのだから、声の主もまずい相手であることは容易に察しがついた。

「すいません、貴方を襲うつもりはありませんでした。尸人の躾がなってなくて……」きょんしー、というのは聞き覚えのない言葉だった。そういえばその前にもめんたる、なる言葉を使っていた。もしかすると渡来の知識を有しているのかもしれないと、妹子は正体を推測する。「恭順の印に今から姿を見せますわ」

 背後から怖気をふるうような気配がいきなり現れる。芳香と呼ばれた怪人に警戒しながらそっと視線を向けると、先程と同じ青白い光が仄かに浮かび、女人の姿を照らしている。光の中心に赤子のような影があるのが不気味だったけれど、すぐそんなことは気にならなくなった。女人は心とろかすような笑みを浮かべたからだ。

「初めまして、わたしは霍青娥と申します。蘇我の当主様のご厚意で食客として置いて頂いております。ほら芳香、こちらへおいでなさい」

 青娥が声をかけると、芳香は首がほぼ後ろを向いているためか後ろ向きのようなよたよたした歩みで、しかし嬉しそうに近づいていく。青娥は口に刺さっている小刀を抜くと首を掴んで一気に捻じる。次いでその細く長い指が首にめり込んでいき、すると骨が完全に繋がったのか頭がぐらぐらしなくなった。

「驚きましたか? この子はまあ、一種の人形なのですよ。人の形を模した、人間の成れの果て、紛い物、魂のない器。道具としてはうってつけですわ」

 妹子には彼女の言うことがさっぱり分からなかったし、そもそも理解させるつもりがなさそうだった。

「なあ青娥、こいつ食っていいか?」

 芳香が何とも物騒なことを青娥に訊ねる。青娥は拳で軽く芳香の頭を叩き、妹子におっとりとした笑みを向ける。殺されるかどうかの瀬戸際であるのに、妹子はその表情に縛り付けられたように視線を動かすことができなかった。

「食べるのも殺すのも駄目。近いうちに食べさせてあげるから我慢しなさい」

「……こいつは人食いなのか?」

「ええ、といっても普段は別のものを食べさせていますわ。生きた人間を食わせるのは道義上、どうかと思いますし面倒なことになりますから。精々が屍肉程度ですわ」

 死んだ人間を食わせるのも十分に道から外れているのだが、青娥に見られ続けていて妹子は思考さえもろくに回らないようだった。

「いつもは命令を破ったりしませんし、そもそもそんなことを人前で口にするようなはしたない子に育てた覚えもありません。理由があるはずなのよ」青娥は妹子の方に歩み寄り、顔を近づけて来る。「なるほど、力のある貴人の匂いを感じるわ。わたしでも食べてしまいたくなるくらい」

 舌を出し、唇を舐める仕草は蠱惑的で、妹子は息も出来ないくらいだった。

「妻子のいる身で、相変わらず初心な方ね」青娥は爪の長い人差し指で妹子の額を軽く突く。「では、今宵はこのくらいで。縁があれば、そう、きっとお会いできますでしょう」

 青娥はくすりと微笑み、妹子からすいと離れる。そして芳香を連れ、歩いて立ち去るのかと思えば地面にいきなり穴が空き、煙のように姿を消してしまった。

「何という……美しい女だ」口に出さなければ、心に留めただけではその気持ちに押し潰されそうだった。「あの女もきっと人間ではない」

 無意識に鼻を鳴らすと、微かに放置した死体のような饐えた臭いがして、妹子は思わず身を震わせた。

「おお、こんな所にいたのか」義父の声に妹子は大きく息をつく。今日はまこと、心臓に悪いことばかりだ。「どうした、恐ろしいものでも見たような顔をして」

「女と、出会いました」そこまで口にして、言うべきではなかったと今更に気付く。口止めはされなかったが、広く正体を知られたいとは考えていないはずだからだ。「いえ、その……」

「お前が面食らうようなら余程の者だが、布都様はお郷に帰られていないはずだ」布都というのが馬子の、美貌を誇る細君であることは知っていたが、あの禍々しさとそう、いかにも大陸風な顔つきは評判にそぐわないものに感じた。「どのような風貌であった?」

 そう問われ、妹子は俄かに返答に困ってしまった。美しい女であるということ以外の、ほとんど何も見ていないことに気付いたからだ。

「そうですね、髪は輪っかのように結ってありました。倭のものではない、かといって大陸風とも異なる……そう、鮮やかな青の服を着ていたと思います」

 その辿々しい説明で義父には誰のことか分かったらしく途端に渋い顔をする。

「馬子殿は渡来の占い師を囲っているという話を聞いたことがある。自らを死人占い師と名乗り、屍を模した人型を操ると聞いている」

「占い師、なのですか?」口にしてみて、あの曖昧で正体を悟らせようとしない振る舞いはらしいものであったなと思う。「それにしてはやけに若かったですし……」

 美しかったと口にしようとして、妹子は慌てて飲み込む。そんなことを口にしようものなら厳格な義父のこと、咎められるに違いなかったからだ。

「軽薄そうな風体でした。どちらかといえば芸人のように見えましたよ」

「大陸から来たのだから、この国と違うことも多々あろう。おっと、そんなことは今は良い。馬子殿がお前の話を聞きたがっておる」

 いつものお決まりだなと心の中で呟く。当主に話をするのだからもっと緊張しても良いはずなのだが、心は割と落ち着いている。先程のやり取りがよほど鮮烈で頭に残っているのかもしれないと思い、すると脳裏に青娥の美貌がまざまざと蘇ってくるのだった。

 妹子はそれを振り捨て、義父の後に付いていく。

 

 それからというもの、妹子は月に一度、蘇我の屋敷に呼ばれるようになった。皇子の動向を報告するなら義父を通して連絡するのが筋だと思っていたのだが、そのことを話すといたく気にいられたのだと言われた。特に目立つことはしなかったのだが、義父曰くそういうところが安心できるのだろうということだった。なるほどそういうものかもしれないとは思ったが、不相応な身分の者との付き合いというのは兎角疲れるものである。出世を目指してそういうことを積極的にこなしている者と自分は、同じ人間でも色々違うのだと思うしかなかった。

 そうして馬子と話す機会を持つうち、彼の人となりが妹子には徐々に分かって来た。彼は体格通りの豪胆な性格で振る舞ってはいるが端々に繊細なところが見て取れた。些細なところによく気付き、目端の聞く人物であり、そして彼ほどの偉い人物としては稀なことに貴賎問わず滅多に侮らないのだった。もちろん話の種として誰彼は駄目だ馬鹿だというし、政敵である物部守屋や中臣勝海などには辛辣そのものであり、義父のことを分かりやすいおべっか使いと暗に揶揄したこともある。

 だが駄目と言いながらもさりげなく良い点を持ち上げるし、物部守屋が戦の天才、中臣勝海が呪術に優れた相手であることは外さなかったし、何だかんだで義父には相当の信を置いているようであった。要するに酸いも甘いもありのままに受け止め、空想的な判断というものをほとんど持ち込まないのである。財務や貿易を主な生業としているのだから当然の資質であるかもしれないが、天才的な能力でもって部下を引っ張っていく守屋とは対象的であった。義父には話したことがなかったけれど、政争に持ち込めば馬子、戦争に持ち込めば守屋が勝つのではないかと妹子は考えていた。

 とはいえ、いくら思いを巡らせたところで妹子は一介の衛士に過ぎなかった。仕事の合間の思索などものの役にも立つことはなく、彼と関係のないところでおそらく策謀は通り過ぎていくのだと考えていたし、厩戸皇子と豊里皇女の和気藹々とした交流がその思いに拍車をかけるのだった。

 皇女は夏が来て秋が過ぎ、落葉とともに冬が訪れても頻繁に通ってきては、二人で渡来の言葉に挑み、追いかけっこや腕の引っ張りあい、ときには木の葉や木の実や虫の採集などに躍起になり、半日ほどかけて土の上に絵を描いて遊んでいたこともあったし、雪などは正にどんな形にでも加工できる格好の遊び道具となった。寒さが幾分和らぎ、雪の像が溶けてなくなる時には二人とも実に子供らしく残念そうな顔をしており、妹子はそれを見て密かに微笑ましいと思ったものだ。やがて宮中のごたごたに本格的に巻き込まれるかもしれないが、それはもうしばらく先になるだろうと考えていた。だがことは個人のささやかな願いを超えて早く進むものであることを妹子はすぐに思い知ることになる。

 

 新年を迎え、皆が一つ年を取り、祝賀気分もようやく落ち着いて来た頃である。いつもより少し遅れて豊里皇女が離れを訪れてきたのだが明らかに精彩を欠いており、足元がふらふらしていた。顔色が悪いのに火照っているようでもあり、微かな喘鳴の音も聞こえて来る。

「大丈夫ですか?お体の調子が悪いようですが」

「そうじゃな。何だかこう、体がふわふわする。まるで空を飛んでいるようじゃが、これは……」

 皇女の物言いに妹子はまさかと思いながら訊ねる。

「もしかして、お風邪を召されたことがないのですか?」

「風邪、これが? そうなのかー、これがかー」

「皇子も年に何度かは引かれます。豊里様と会うようになってからはなくなりましたが」

 妹子はあることに気付きそうになったのだが、その前に皇女が足をもつれさせ、崩れ落ちてしまった。妹子はその体を受け止めるのが精一杯で、しかもそうした途端、痛みと痺れが同時に襲いかかってきて妹子自身も倒れないようにするのでやっとだった。何度か彼女の力を受けてきたから耐えられていたが、このままでは押し潰されてしまいそうだ。

「豊里様、力を少しだけ、緩めて……」

「それが上手くいかぬ……痛い、体が焼けるようだ……」全身がほんのりと紫に輝き、妹子はいよいよ膝をつく。「た、助けて、あにうえ……」

 皇女の悲痛な叫びにも拘らず意識が持っていかれそうになる。助けを呼ぼうと口を開くことさえ出来ない。万事休すかと目を瞑ろうとしたとき、甲高く神経質な声が聞こえてきた。

「何をしているのです!」うっすら目を開けると、以前から離れの方を見張っていた下女が、鬼のような顔で立っていた。「娘を早く助けなさい!」

 娘という一言に、妹子はいよいよ混乱してきた。下女は皇女を妹子から引き剥がそうとしたが、しかし引っ切り無しに放出される紫の力によってそれさえもままならぬようであった。

「どうした妹子、あの声は一体……」

 背後から皇子の声が聞こえ、少しすると一気に体が楽になった。皇女の体に必死にしがみつき、皇子が力を吸い取ったからだ。妹子は残りの力を振り絞り、意識を失った皇女を抱え上げる。

「妹子、大丈夫か?」

「お前、豊里に何をしたのです!」事態が収まった途端、再び下女が甲高い声をあげる。「娘の力を、あっという間に取り込んで……自分のものに!」

「……母上?」

 その問いに対する答えは、乾いた音のする平手打ちだった。

「何が母上ですか、汚らわしい!」女の目は憎しみでぎらぎらと燃えており、妹子ですらぞっとするものだった。「母への仕打ちを恨んだのか、それでこんなことを……」

「違います、わたしはそんな……」

「誰かこいつを捕らえなさい! 豊里を害そうとしたこの怪物を! 一刻も早く……」

「母上!」皇子は張りのある声をあげる。子供とは思えない全てを従わせる圧に溢れており、度を逸した女の行動さえぴたりと止めてしまった。「そのお姿を衆目に曝されるおつもりですか?」その指摘に女はさっと顔を赤らめ、その機を逃すまいと皇子は畳み掛けるように言葉を続ける。「そこの衛士にいも……姉上を運ばせます。今は一刻も早く暖くして休ませないと」

 皇子の言うことが正しいと思ったのか、女はそれ以上は何も言わなかったが、去り際にふと振り返り、ぞっとするようなことを口にした。

「娘が死ぬようなことがあれば決して許さぬ。未来永劫呪ってやるぞ」

 ようやく静寂が戻っても妹子の肝は冷えっ放しで、積み重なった疑問で頭も上手く働かなかったが、腕にある豊里皇女の重みがすぐにやるべきことだけは思い出させてくれた。

「わたしはここから離れられぬ。事情の分かるものに姉上……妹を託して欲しい」

 妹子は言われてすぐに動き出し、幸いなことに豊里皇女の世話をしている下女が見つけてくれたので案内してもらうことができた。といっても妹子は奥まで入ることが出来ず、見張りの男性に託すことしかできなかった。

 離れに戻ると皇子は部屋の中に入ることもなく寒い廊下に突っ立っていた。促して室内に入れ、一息つくと妹子は少しだけ待ってみたが皇子は事情を話してはくれなかった。

「では、わたしは見張りに戻ります」

 そう言うと皇子は慌てて妹子を引き止めた。

「妹の力をあんなに浴びたのでは立っていることすらままならないはずだ。ここで座っていていいし……誰かがいてくれないと辛い」

 皇子は妹子の袖を掴み、唇をぎゅっと噛み締め、それでも耐えきれなかったのか、声をあげてわあわあと泣き始める。妹子は母親のように抱きしめることも、父親のように強い子なら泣くなと言うこともできず、木偶の坊のようにそのままでいることしかできなかった。

「母上は、わたしを、怪物と……」

「母上とは……間人様のことで御座いましょうか?」

 皇子は黙って頷き、鼻を啜る。そうしてただぽつりと、暗い声で言ったのだ。

「一人にして欲しい。縋ったり、突き放したりですまないが……」

 妹子はいえとだけ答えると外に出る。こんなとき、身分の差はあまりにも絶望的であると妹子は思う。

 

 翌日から妹子は衛士の仕事を外されてしまい、何かやることがないかと問えば臨時で武術指南の役目を得ることができた。鍛錬は欠かさず積んでおり、それでも体の使うところが違うのか、数日は体の痛みに悩まされることになったが、妹子にとってはそれすら有難かった。疲れてしまえば何も考えないで済むからだ。義父には何度もそれとなく訊ねたが分からない、あるいは言えないでやんわりとかわされてしまった。何やら好まざる事態が進んでいるというのは分かったが、それを垣間見ることすらできなかったのである。

 そうして月が一巡りし、そろそろ飯の種も心配しなくてはならないと再度、意を決して義父を問い質そうとしたのだが、向こうの方から逆に訪ねられ、続けてこう言われたのだった。

「衛士の仕事だが来週にも再開になるだろう。ただし場所は今までと異なる。蘇我のお屋敷から少し離れた所にあった別宅を急ぎ改装していたのだが、ようやく準備が整ったらしい」

「それはつまり、厩戸皇子がそこに越されるということなのでしょうか?」義父が重々しく頷き、妹子は思わず声を荒げていた。「それでは放逐、軟禁ではありませんか!」

「配流に処されなかっただけ有難い話なのだよ」義父は妹子の抗議に厳しく反論する。「正統な皇家の血筋を害したのだから。上に通して尽力をはかったが、これ以上はわたしの立場が危うくなる」

 もっと詰め寄ってやろうと考えていたが、義父は沈痛な面持ちを浮かべており、これ以上は何も言うことができなかった。

「間人様は温厚なお方だが、こと厩戸様のことについてだけは頑なに厳しい。大兄様もそんな間人様に強くは出られない。ましてや厩戸様は、こういう言い方は避けたいが過ちの子だ。余計に何も言えないのだろう」

 そう言われると妹子には返す言葉もなく、ただ粛々と受け入れるしかないのだった。

 その数日後、厩戸皇子を護衛する形で妹子は皇子のために急拵えで作られた館に向かったのだが、その様子を見て思わず声を失ってしまった。高い塀が巡らされ、出入り口は小さめの門が一つだけである。ぐるっと回ってみたが勝手口すらないのである。屋敷はそれなりに広くあったが最低限の人員しか置かないと持て余すくらいで、そうしたことで皇子に寂しさを味わわせようとしているようにも見えた。妹子には質素な木々も、壁や屋根の色まで含め、全てが皇子を苦しめようとしているようにしか見えず、立っているだけでも押し潰されそうだった。

 そんな中、皇子は気丈そうな顔で背丈の倍ほどもある塀をじっと見上げていた。だから大人の自分が情けない気持ちでいてはならないと、努めて明るく声を出す。

「独居という話を聞いていましたが、なかなか広くて井戸もかまども最新の設えです。案外、悪くない場所ではないですかね?」

「そうだな」皇子は妹子の方を向くと、苦笑を浮かべる。「わたしは大丈夫だよ。ただ、妹のことが心配だ。あの子の周りには出入りを検知する術がかけられているし、わたしの屋敷も同様だ。物部の当主が自ら名乗りを上げ、仕込んだらしい」

 物部の当主である守屋は傑物として名高く、種々の呪いにも秀でていると聞く。そんな人物の術であれば滅多なことでは破れないだろう。軟禁というよりは蟄居と呼ぶべき状況なのかもしれない。

「わたしは弱いだけの子供だ。大人の思惑の中では何もできないし、大切なものに手を差し伸べることすらできない。それは覚悟していたとはいえ少しだけ辛いものだ」

 本の影響か、それとも大人の都合に流される己に諦めを覚えたのか、皇子の喋り方からは辿々しさがほとんど消えていた。そして顔つきにはある種の決意のようなものが宿っていた。

「妹子、私を鍛えてくれ」唐突にそう言われ、咄嗟には何のことだか分からなかったが、皇子の弱々しい構えを見て、妹子はことを察した。「いざという時がもしかしたら来るかもしれない。その時に備えなるべく動けるようにしておきたい。衛士の仕事だけでもきついのに、稽古まで頼むというのは申し訳ないと思うのだが」

「いえ、それは構いません。わたしももっと体を動かしたいと常々思っていました」気のない嘘にも、皇子は嬉しそうに顔を綻ばせる。「ですが最初のうちは体が痛くなりますし、時には傷を作ることもありますが、それでもよろしいですか? 言っておきますが、万一身分を盾にするようなことがあればわたしはそれ以降、一切手ほどきはしないので、そのつもりでいてください」

「わたしは不幸な人間だから、これ以上はないと、これまで考えてきた。その甘さを捨て去りたいとも思っている。甘ったれることがあるかもしれないがその時は容赦無く叱って欲しい」

 妹子は小さく頷き、皇子は強く拳を握る。平気な振りをしていてもやはり内心では悔しいのだ。それは男らしい反応ではあったが、ささやかながらにも剥き出しにするのを見るのは初めてだった。豊里皇女の存在が、彼にそんな気持ちを植え付けたのかもしれない。それが良いことか悪いことかまでは、妹子には分からなかった。

 自分程度でも分かることがあるとすれば……妹子は自問自答し、体を震わせる。皇や父の後ろ盾を失った皇子はこれまでになく危ういということだ。そのことを察したから皇子は護身の術を求めたのかもしれず、しかし子供の付け焼き刃が通じる相手でもない。自分がこれまでにも増して皇子を守らなければならない。

 妹子もまた拳を握りしめ、口に出すことなく新たな決意を固めたのだった。