地獄で溺れるわけにはいかない・試読版

 

第一章 山に登るには準備がいる

 

 

 

 子供の頃というのは特定のもの、人間、言葉に対して奇妙な執着を抱きがちである。例えば価値のつかないものを必死で集めたり、目立ちやすい身体的特徴を面白がったり、ある単語を繰り返し大声で口にしたり。

 大人はとかくこうした振る舞いに顔をしかめがちだが、決して悪いことではない。子供特有の激しい知識欲、好奇心に端を発しているのであり、命の危険があるような行動や他人を傷つけるような言動は窘めるべきだが、基本的には子供の好きなようにやらせるのが良い。

 わたしが色々なものを指さしては豚のケツと声を上げる近所の子供を叱って泣かせたとき、父にやんわりと説教されたことがある。

 言いたいことは分かるが納得しかねるというような顔をしていたのだろう。

「蓮子だって昔は随分と騒々しいものだったよ」

 そんなわたしに父は恥ずかしい過去をつきつける。

「えー、そんなことあったっけ?」

「あったさ。三歳か四歳の頃だっけ、その頃の蓮子は犬の真似をするのが大好きだったんだ。家の中であろうと外であろうとわんわん、きゃんきゃん、あおーんと、みんなの前で披露していたよ」

 わたしはこめかみを指で押して過去の記憶を引きだそうとしたが、何も出てこなかった。まだ記憶補助が使えないからある程度は忘れていたとしても仕方のないことかもしれないが、同じ年頃の印象に残る出来事はそこそこ覚えているというのに、かつての悪癖だけ綺麗さっぱり抜けてしまうなんてあり得るのだろうか。

 でも、父はこのような時に嘘を吐く人ではない。子供だからと侮ることなく誠実に接するタイプである。だから信頼しているし、少しだけ苦手意識があるのだけど。

「子供のそうした悪癖は特別なきっかけもなくぴたりとやんでしまうことが多い。蓮子の場合も半年ほどで犬の真似をしなくなったし、いつものやつはやらないのかと訊いたら不思議そうに首を傾げられたよ」

 きっと忘却の優しい一側面だね。

 父はそう締めくくり、わたしはやはり納得できなかったが受け入れるよりほかなかった。

 その後、子供には厳しく叱って悪かったと謝ったが、その子はすっかりふてくされてしまい、わたしを指さして何度も豚のケツと連呼した。だが子供に対する腹立たしさはもはや湧いてこなかった。

 おそらくは父の話に一定の納得を示したのだろう。

 連呼される蓮子だなんて洒落にもならないな、などと考える余裕すらあったし、子供はひとしきり罵り終わると気が済んだのか、わたしの後を追いかけるようになった。適当に遊んでやると喜んでくれたし、理由はよく分からないが、わたしはその子に好かれてしまったらしい。

 子供の考えることはよく分からなかったが、父の話からしてわたしも同じ歳の頃には周りから同じように思われていたのだろうし、その子のことは理屈の通用しないものとして受け入れることにした。

 つまるところ小さな子供というのは怪談に出てくる不可解なものとよく似ているのだ。

 その日の夜、わたしは家から密かに抜け出すと、犬の遠吠えの真似をした。子供じみた振る舞いが何らかの怪異を呼び込むかもしれないと思ったからだ。

 しかし不思議なことは何一つ起こらなかった。

 否、そのときはそう考えていたのだ。

 

 

「メリーはさ、山登りって興味ある?」

「またいつものやぶからぼうが飛び出したわね」

 砂糖とミルクのたっぷり入った珈琲を一口啜ると、メリーは感心するように息をつく。まるでわたしの話より珈琲の味が大事だと言いたげだった。

「わたしたちの活動に沿うならたとえ火の中水の中、山の上でも海の底でも、宇宙の果てでさえ行くべき場所なの。興味というのは二の次かな」

「流石ね、わたしが言いたいことをはっきりと理解しているし、実に模範的な回答だわ」

「いい加減、蓮子とは付き合いも長いもの。それでどんな山に登るつもりなの?」

「東京の山よ。正月に帰省したとき、叔父や叔母と山に登った話を簡単にしたと思うけど」

「すると、例の送り犬が関係しているの?」

 メリーが先回りして訊ねてきたが、わたしは彼女の利発さに応えることはできなかった。

「どうなのかな、実はよく分からないんだよね」

 わたしは東京で山登りを趣味とする人たちが集うサイトの交流ページを表示する。

 二十一世紀半ばまでならば登山に関する情報はネットで無数に検索できたが、趣味の縮小によってリソースを割かれるべきでないと判断されたため、今では同好の士で情報を集約する必要が生じている。

 この手のミニマムコミュニティはいまや数多く存在しており、圧縮された領域に生き甲斐を求める者たちは自発的に情報を集めなければ置いていかれるしかない。かくいう秘封倶楽部も趣味としては押し潰されつつある。つまり登山家はわたしたちと同類であると言えなくもない。

「思うところがあって登山家のコミュニティを定期的にチェックしていたんだけど」

 一方通行の仲間意識あっての行為だが、一月ほど前から俄にざわつき始めたのだ。

 情報を共有するとメリーは微かに目を細めた。

「酷くぼやけてるけど毛の生えた四本脚に見える。絶滅したはずのニホンオオカミ? とは随分と大袈裟なコメントだけど」

 ただの犬だろ、狼型の支援ロボットが上手いこと映り込んだのでは? などと返信がついており、投稿した本人も当初は狼と言い張っていたが否定され続けることで自信をなくしたのか、後半は明らかに語気が鈍くなっていた。

 最初の報告はそのような流れで否定されたが、それから十日ほど後に別の登山家がより鮮明な写真を投稿し、識者のチェックによってどうやら本当にニホンオオカミであるらしいことが明らかになってきた。

 だが、ニホンオオカミは絶滅して久しいはずだ。奥多摩から三峰山までを貫く山系では広く狼が祀られており、ゆかりのある土地であることは間違いないが、かつて麓に暮らす人たちや登山客を中心として山に入るものはそれなりに多く、もし絶滅せずに生き延びていたとしたらほぼ間違いなく発見されていたはずである。

 海外より持ち込まれた近縁種が野生化したのではという現実的な推測から山々におわす神の化身ではないかという突拍子のない説まで飛び交い、未だ納得のいく答えは得られずにいた。

 そんななか、新たな局面が発生した。今から三日前、奥多摩に向かった登山家が一人、行方不明になったのだ。

 あらゆる個人に追跡機能が内蔵された現代において、行方不明者の発見は容易である。プライバシー尊重のために普段はオフにされているが、当人に問題が発生したと判断されればオンになり、瞬く間に居場所を確定する。それに奥多摩では旧世紀の登山施設が一部生きているから、事故などが発生すれば救助はすぐにやって来るはずだ。

 それなのに今日まで、行方はようとして知れない。

「亡くなったのではなくいなくなった……これは確かにわたしたちが扱うべき事象のようね」

 行方不明とは生きているとも死んでいるとも確定していない中間の現象である。なんらかの境界を垣間見ることができるかもしれない。

「わたしもそう考えたの。ちょうど東京の実家に帰る予定だったから叔父さんに連絡してそれとなく話を聞いてみたんだけど、実際に行方不明は発生しているみたい。東京はちっとも動いてくれないから登山家仲間に声をかけ、登山道の周囲を中心に探索する予定だと言ってた」

「つまり行方不明になった人はまだ見つかってないと」

「うん。ただ、叔父はこうも言っていたの。登山家の中にはスリルを求めるため緊急時の通知機能をオフにする人もいるんだって」

「緊急時の機能をオミットなんてできないはずだけど」

「そこはこう、色々と抜け道があるみたい。叔父にはこのことは秘密にしておいてくれと言われちゃった」

 メリーは露骨に眉をひそめた。境界暴きという不良行為に手を染めているとはいえ、それ以外の点では規律を重んじるところも多いのだ。やり方を教えて欲しいと叔父に訊いたことは秘密にしておくことにした。

「通知機能をオフにしてから事故にあったなら単なる自業自得。でも、そうではなかったとしたら」

「わたしたちの問題ってわけね」

「ええ。境界を探り、可能であれば行方不明になった人を救助する。わたしの推測では叔父たちが探索しても、何も見つからないと思うけど」

「推測と言うけど確信してる顔だわ。その心は?」

「狼の目撃証言よ。事故にあったというだけでは説明がつかない」

「狼と行方不明は独立した問題であるかも」

「わたしの勘は関係した問題であると囁いている」

 メリーは再び珈琲を啜り、軽く息をつく。あなたの勘なんて役に立たないと言われたようだ。

「というわけで今回の東京では初日に登山用具を買いに行きましょう。叔父と叔母にしっかりレクチャーを受けたから、分からないことがあればなんでも訊いてくれていいのよ」

「ちょっと待って、その言い方だとわたしも東京に行くと決まってるみたいじゃない」

「あら、今年はメリーも実家に帰るの?」

 メリーは故郷や実家について非常に口が固い。相棒とはいえ語りたくないことを追求するのは避けるべきだと思ってこれまで深堀りしたことはないのだが、今日その謎が明らかになるのかもしれない。

 そのような期待をメリーは沈黙によって破った。質問をしたわたしが悪いと思わせるほどに。

「ごめん、意地悪だった」

 いや、実際に悪い。デリカシーがなさ過ぎた。

「いいわ、蓮子が唐突なのはいつものことだもの。今回も付き合ってあげる」

 メリーの笑みにわたしはほっと息をつく。彼女の不興を買うのは色々な意味で極力避けるべきだからだ。

「切符は二人分取ってあるから、メリーは旅の支度だけ整えれば大丈夫よ」

 新たな活動が決まったところで本日は解散となり、家に帰るとわたしは実家に連絡を入れた。

《今回も友人を連れて来るけど大丈夫?》

《問題なし》

《おっけーおっけーよ》

 父と母からそれぞれに返答があり、わたしは約半年ぶりの東京と、その西部に広がる山々に思いを馳せるのだった。

 

 

 去年と同じ手段で実家に帰ったのだから同じように出迎えられると思っていたが、父と母の表情は芳しくなく、おかえりの声も心なし暗かった。メリーが挨拶した時には明るく振る舞ったが、わざとらしさは否めなかった。

「あまり良くない時にお邪魔しちゃったかな」

 メリーも両親の様子に気付いており、二人に聞こえないようにこそりと耳打ちをしてくる。わたしも最初は夫婦喧嘩を疑ったのだが、どうやらそうではないらしい。

 憂慮すべき問題が二人の肩にのし掛かっているようだ。もしやと思い、登山家向けのミニマムコミュニティをチェックすると、新たな行方不明の報が投稿されていた。

「きっとこの件だと思う」

 メリーに情報を共有すると、いつになく真剣な表情を浮かべた。

「登山家四名が行方不明……蓮子の叔父さんと叔母さんもこの中にいるの?」

「名前も確認したから間違いない。叔父との通話内容とも一致してる。思ったよりも剣呑な事態のようね」

 一月足らずのうちに五人も行方不明になるような事案なんて少なくともわたしは遭遇したことがない。これまでにいくつもの修羅場を越えて来たが、これはもしかするとわたしたちの手に余るかもしれない。

「蓮子はこの件に探りを入れるつもり?」

 わたしの弱気を察したのか、メリーが問いかけてくる。そのために準備をしてきたのだし、メリーの登山用具を購入するため好事家の店に連絡済みだ。でも標高千五百から二千メートルに及ぶ山々を行くのは準備を万端にしてさえ容易ではない。今年の始めに叔父夫婦と奥多摩の山に登ったときも、半日に及ぶ山行が体に堪えた。携行食による常時のカロリー補給、下山後に嫌というほど蛋白質を取ったお陰で筋肉痛はあまり出なかったが、普段の判断力は発揮できなかった。

 叔父も登山に先んじて色々な教訓を話してくれた。山中では些細なきっかけで普段は考えられないような奇行に及ぶこと。人は自然の前だとかくも弱いのだということ。わたしたちの活動はその過酷さに耐えられるのか。

 頭の中をいつも以上に情報が駆け巡る。この状況下においてどのような行動を取るべきか、なかなかいつものように定まってくれなかった。

「どうしたの、いつになく弱気じゃない?」

 ぐずぐずしているとメリーが挑発するような言葉を投げかけてくる。珍しい行動で若干面食らったのだが、それで何故か冷静になれた。

 わたしは自分でも気付かないうちに酷く狼狽していたらしい。親族が行方不明になったのだから当然だが、特に心がざわつくこともなく冷静であると思っていたのだ。

「わたしも人並みくらいは親族への情があったらしい」

「そんなの良くある感情でしょう。なんとしても二人を助けたいからいつになく慎重になっていたというわけね」

 メリーはわたしが単純な臆病風に吹かれていたとは全く考えていない。その信頼の重さを肩に感じながら、これからの計画を話して聞かせた。

「手回しが良いのね。わたしの全身の寸法を無断で他人に渡していたのは問題だけど」

「登山装備は体に細かくフィットするのが大事だから。それにメリーのスタイルは完璧なんだから他人に知られて恥ずかしいことはない」

「わたしはデリカシーの有無を問うているのだけど、蓮子に期待してはいけなかったようね」

 しれっと悪口を言われたような気もしたが、ここは軽く受け流しておいた。

「では早速、お店に向かいましょう。いま車を呼んだから十分もしたら来るはずよ。この辺は僻地だから旧時代の送迎車と同じくらい待たなければいけないのが難点よね」

 かつては伝統的な町並みと最新の建築様式が入り交じる賑やかな場所だったが、現在では静かなことだけが取り柄である。東京府の中心は卯東京駅がある旧立川市とその周辺であり、崩壊の著しい東京東部は今に至るもさほど復旧されていない。旧史の研究を続ける派閥の人たちが定期的にやって来る以外だと、根本から折れてしまい朽ちていくだけのスカイツリーを見学に来る物好きが時折、ふらふらと訪れる程度だ。

「そのくらいなら待てるかな、誰かさんのお陰でね」

 メリーはつれない言葉を残し、家の外に向かう。中で待てば良いのにと思いながら、わたしはメリーの後を追いかけるのだった。

 

 

 叔父に紹介してもらった登山用品店はかつて神保町と呼ばれていた地域の片隅にあり、細々と商売を行っている。

 登山道具を販売する店はいまや両手で数えられるほどしかない。それほどまで稀少なのだから珍しい店構えをしていそうなものだが、見た目は普通のスポーツ用品店とさほど変わらない。かつて訪れた時には拍子抜けしたものだが、スポーツに使うものを居酒屋で売っていたら信用できるか、と返されて納得した覚えがある。

 店の入口近くには一人用のテントが張られており、登山服を身に着けたマネキンが焚き火を模したブロックの前に座って本を読んでいた。かつては日本各地の山やキャンプ場で見られた光景、今ではすっかり廃れてしまったアウトドアスタイルが再現されていた。

 これまでにも遠出をしたことはあるが、テント泊や自然の火を囲む経験をしたことはなく、わたしに負けないほど好奇心の塊であるメリーはそれらに目を奪われていた。

 わたしは所狭しと登山用具の並べられた店をぐるりと見回す。カウンターにもそれ以外の場所にも店主は見当たらないから、おそらくは奥の工房にこもっているのだろう。客がやって来たことはチャイムで伝わっているだろうし、すぐに姿を現すはずだ。

 そんな予想に反し、店主が出て来るまで十分近くもかかった。見るものが沢山あるからその程度は余裕で待てたのだが、姿を見せるなりすぐに平謝りされてしまった。

 前回訪問したときは陽気の塊みたいな態度だったのに、目の前にいる店主はずしんと形容したくなるほどの重苦しい表情をしていた。

「ごめんなさい、待たせちゃって。少しばかり立て込んでいたの」

 すぐに接客用の笑顔になったが、目の下には隈ができており、随分とやつれたように見える。どれだけ寝ていないかは怖くて訊くことができなかった。

「彼女が新しく登山を始める噂のメリーさんかしら?」

「マエリベリー・ハーンよ」

 わたしがそう言い直すと店主は小さく頷いた。

「そうね、初対面で愛称だなんて不躾だった」

「いや、別にわたしはメリー呼びで良いのだけど」

「ハーンさん、ちょいとこちらに来て頂戴な」

 店主はメリーの言葉を無視し、おめでたい猫のように手招きする。その仕草には抗しきれなかったようで、困ったような顔をして近付くとなすがままに採寸されていく。

「ふむ、事前に連絡のあった通りね。あまりに狂いなくてちょっと怖いくらい」

 メリーが横目でじろりと睨んできたので登山用具を物色する振りをする。叔父夫婦と一緒に選んだのは登山服、リュック、シューズ、ポールといった最低限の装備だけだが、欲しかったものは他にもある。ガスバーナーにクッカー、一人用の小型軽量テント、帽子などの装備に取り付ける超高集積の太陽光発電パネル、などなど。

 初登山なら盛り沢山過ぎて持て余すと言われたし、全部買うにはお金がとても足りなかった。倶楽部活動費として個人で貯めてはいるが、博物誌に続く二冊目の本を出す費用としてある程度はキープしておきたい。

 とはいえバイトを増やせば学業が疎かになる。わたしの所属する研究室は生半可ではとても単位などもらえない。なにしろ提出したレポートが血で染めた布のような有様で返ってくることが日常茶飯事なのだ。

 そのような理由が重なっての撤退だったが、ほどほどのガスバーナーとクッカーなら買えるだけのお金を用意して戻って来ることができた。

「着合わせするから彼女のこと借りてって良い?」

「そんなのいちいち許可を取らなくて良いですよ」

「そう? 必要なことだと思うけどなあ」

 そんなやり取りとともに二人の声が遠ざかっていく。わたしは棚に並ぶガスバーナーや燃料缶との睨めっこを繰り返し、ようやくこれだというものを決めるとカウンターに向かう。だが店主もメリーも姿が見えなかった。

「そういや着合わせするって言ってたな」

 少し覗いてみようかな、などと小さな悪戯心にくすぐられていると、二人が更衣室から出てきた。

 メリーは紫の登山服にトレッキング用のショートパンツを着ており、ミドルカットの靴を履いてポールを手にするその姿はどこかの雑誌に載っていてもおかしくないものだった。

「流石はメリー、歴戦の強者みたい」

 忌憚のない感想を口にするとメリーは心なし背筋と胸を張った。素っ気ないように見えて褒めると案外素直に喜ぶのは、やはり血統書付きの犬のようだなと思った。

「店主さん、いま着てるやつを一式ください。リュックも背負わせてもらったもので問題ありません」

「随分と気前が良いのね。宇佐見さんの友達だからあまりお金を持ってないと思っていたんだけど」

「蓮子は無駄遣いが多いですから」

 メリーと店主は交互に身も蓋もないことを口にして笑い合う。短い間に随分と仲良くなったものだ。

「そんなこと言うんだったらこれ買わないから」

 ガスバーナーと燃料缶を棚に戻そうとすると店主は慌てた様子で引き留める。といってもあまり本気ではなさそうだったが。

「良い景色の中で火を使って作る料理は格別よ。ハーンさんも食べてみたいよね?」

「そうですね、興味はあります」

 メリーは楚々としているように見えて意外と食い意地が張っており、大自然で火を焚いて作る料理に思いを馳せている様子だった。そんな顔を見せられては買わないわけにもいかず、カウンターに持って行きそそくさと決済する。それからいくつか他愛ない雑談を交わし、それぞれに荷物を包んでもらうとごく自然な調子で店を出ようとした。

 だが、そうは問屋がおろさなかった。

「ところで二人とも、念のために訊いてみるけど奥多摩に向かうつもりじゃないよね?」

 店主は先程までの人当たりの良さが形を潜め、悪戯を隠そうとしている子供を咎めるような視線を向けてきた。

「やっぱりそうなんだ、変だと思った。叔父さんと叔母さんが行方不明になっているのに、そんな事実はなかったかのように明るいんだもの」

 知っていて登ろうとしたら止められるに決まっている。だから素知らぬ振りを決め込もうとしたが、ばれないはずもなく。わたしは観念して無邪気に登山を楽しむ人の振りをやめた。

「言ったら止められると思って」

「そりゃ止めるでしょう。五人も行方不明者が出るって尋常じゃないよ。旧世紀ならともかくこの現代、科学世紀において、それは死ぬよりもよろしくない意味がこもっている。二人とも京都の大学に通っているならそれくらいは理解しているよね?」

 怒鳴りつけるのではなく、あくまでも諭すような口調であるのが心に痛い。メリーもいつになく項垂れているし、わたしもどう話を切り出して良いか分からなかった。

「それを除いても経験を積んだ登山家が万全の装備で挑んでなお、山中で連絡も取れない状況になるというのがおかしい。いま奥多摩は荒天の雪山にも似たレッドゾーンとなっている可能性が高い。奥多摩だけでなく、もっと広い地域において登山という行為に高いリスクが発生しているかもしれない。装備は買わせてあげるから、いま東京で登山をするのは控えて頂戴」

 店主の言うことは全くもって正しいのだろう。二次被害が現実のものとなったいま、三次被害の発生だけはなんとしても防がなければならない。だが、わたしたちは大人の説得であろうとはねつける必要がある。

 これまでも常識や決まり事を色々と無視してきたけど、それは二人だけの秘封倶楽部だったからだ。かつてはそれで良かったが、最近は少し考え方が変わっていた。同人誌の発行や例の酒場で同好の士と知を競い合わせることにより視野が広がったのかもしれない。相反する理は競わせて磨くべきだと思うようになった。

「行方不明者を救えるのがわたしたちだけだとしても駄目でしょうか?」

 だから正直にこちらの意図を伝えようとしたが、わたしの言葉に店主は不快げな表情を浮かべた。その意味するところを察したからだろう。もしかするとわたしやメリーと同じようなことをしていた過去があるのかもしれない。

「境に入りて界を侵す振る舞いは禁じられている。二人がそれをやろうとするなら、わたしは責任を持って止めなければならない」

 だとしてもこちらの行いを許すつもりはなさそうだ。むしろより頑なになったかもしれない。

「そうして誰も行方不明者を助けられなくなる」

 そんな店主をどう説得しようか悩んでいると、メリーが冷たく呟いた。

「それを除いてもあなたにわたしと蓮子を止める権利などない。わたしたちはどこにでも行く。たとえ宇宙の果てであったとしても」

 メリーは顔をあげ、店主と相対する。俯いていたのは弱気になっていたわけではなく、どうすれば相手を効果的にやり込められるかを計っていただけなのだ。

 その容赦なさにわたしはぞっとした。だがすぐに彼女にはそんな一面があることを思い出していた。

 少し前にも例の酒場で悪酔いして境界論議をふっかけてきた年輩の男性を酷くやりこめたことがあり、最終的にその男性は赤ら顔を真っ青にして酒場から出ていった。

 何もそこまでしなくても良いのにと言ったら、メリーは完璧に優雅な笑顔でこう言ったのだ。

「あの人は蓮子にとって不純物だから」

 メリーも割と酔っていたからそのせいだと結論づけたのだが、今のメリーは素面であの時と同じ表情をしていた。秘封倶楽部は絶対に揺るがないとでも言いたげに。

「前言撤回する。あなたたちには何も売らない」

「でも、既に買ってしまったのだけど」

「商取引は売買ともに承諾しなければ成り立たない。拒否することは可能なのよ。もちろんお金は全額返す」

 店主はメリーだけでなくわたしにも敵意を向けている。理を通そうとするのは悪手だったのだろうか。そんな弱気に駆られながら、わたしはなんとか食いつこうとした。

「すみません、メリーはこう見えてずけずけとものを言うんです。ほら、外国人だから」

 メリーが本当に外国人かは分からない。もしかすると京都生まれの京都育ちであるかもしれない。話を丸く収めるためにそういうことにしておいただけだ。

「良いことをしているなんて思っていません。でも悪いことでしか救えないものがある。そう考えているからこそ、ろくに眠りもせずに人事を尽くそうとしているんじゃないですか?」

 これは単なる勘でしかないが、かつてわたしたちのような活動をしていたことを、行方不明者の救出に活かそうとしていたのではないだろうか。

 心の底では他に方法がないのだと考えているからこそ、余計に刺々しいのかもしれない。単なる寝不足による不機嫌の可能性もあったが、わたしとしては店主の理知と情に縋るよりほかなかった。

 答えはしばしの沈黙と、海よりも深い溜息によってもたらされた。

「その通りよ。でもわたしにはできなかった。再び境界に関わるのだと考えるだけで怖気が走り、何もできなくなるの。そんな無為を繰り返していたらちょうどあなたたちがやってきた。これは天の配剤と言うのかしらね」

 彼女はわたしとメリーを交互に見てから「ついてきて」と口にする。どうやら奥の部屋で何かを見せてくれるらしい。わたしは少し戸惑いながら、メリーはいつもの調子で店主についていき、工具や材料が雑多に並ぶ工房へと足を踏み入れた。

 わたしの目は作業台の上に釘付けになった。金属製の狼がまるで生き物のように横たわっていたからだ。メリーも同じものに注目していたが、警戒心は湧かないらしく無造作に作業台のほうへと近づいていく。

「この子に注目するだけではなく、何かがあると察している。境に入り界を侵す活動をしているというのは嘘偽りではなさそうかな」

 うっすらと笑う店主にわたしは掠れた声をあげた。

「この狼は一体?」

「奥多摩を往く登山家を救助するロボットのうちの一体よ。随分と古い上にメンテナーがいないからどうしても細かい融通が利かなくてね。少し強引だけど外部からの命令をいくつか追加したの」

「なるほど、だからこの子には全身に式が打たれてるのね。なかなか見事なものだわ」

 店主とのやり取りにも感情を揺らしていなかったメリーが突如として感嘆の声をあげる。わたしには式のなんたるかがよく分かっておらず、話の流れから何らかのプログラムであることが察せられた程度だ。むしろなんでメリーはそんなに詳しいんだろうか。付き合いはそこそこ長いが、わたしの相棒はどうやらまだまだ謎が多いらしい。

「ご明察。わたしは式神使いなの、といっても腕前は三流もいいところ。しばらくは正常に動いてたんだけど、今年の正月頃からしばらくふらりと姿を消して、ぼろぼろの姿で戻ってくるなんてこともあったし、それからはわたしの言うこともろくに聞かず眠ってばかり。どうにかこの子が上手く動くように調整を続けていたのだけど」

 だから目に隈を作っていたのか、などと合点していたら狼がうっすらと目を開ける。そいつはまるで寝ぼけているようにふらふらとした表情で辺りを見回し、くんくんと鼻を鳴らす。

 そして予告もなく作業台を下りるとわたしに近付き、うぉん、と元気よく鳴いた。

「この子、宇佐見さんに懐いてるみたい。式を打ったわたしにさえ塩をかけるようなやつなのに。犬に好かれる波長みたいなのがあるのかな?」

「それは分からないけど縁があるのは確かでして」

 気のせいだと思いたかったが、見れば見るほどそっくりというか間違いなく同一個体である。こいつは今年の始め頃にわたしの後ろをついて来たあの送り犬に違いない。

 そのことを話すと店主はわたしの前に座る機械の狼に探るような目を向けた。

「こいつに式を打ったのは群れから外れて一人で別行動していたからなの。故障はしてないし、プログラムも調べた限りでは正常だったけど、旧世紀の機械の論理的整合性なんてたかが知れていると思って深く追求しなかった」

 店主の視線にも機械狼はたじろぐことなくぱたぱたと尻尾を振るだけである。何も分かっていないのか、それとも分かっていて故意にとぼけているのかはその様子からだと全く分からなかった。

「よく考えればこいつには式も打てるのだし、なんらかの神秘が宿っていてもおかしくはないのか。宇佐見さんに懐いているのも理由があるのかもね」

「正月休みに叔父夫婦と奥多摩の山に登ったから、それが引き金だとは思うのだけど……」

 登山口から整備された山道を進み、休憩を挟みながら七ツ石山の頂まで四時間と少し。復路も含めると七時間に及ぶ登山行だったが、わたしの心に留まるような怪現象はなかったはずだ。

 記憶に深く残っているのは新七ツ石小屋や七ツ石山の頂から見える景色が綺麗だったことと、鹿が近くを通りかかったことくらいだ。無駄に刺激しない限り人を襲ったりはしないとのことだったが、完全に姿が見えなくなるまでは警戒心を拭えなかった。それほどまでに異質な生き物に見えたのだ。

「わたしの臆病さに目をつけられたのかな?」

 おそるおそる訊くと店主は首を横に振った。

「過剰に脅える必要はないけど、山に入る人は色々なものを怖れなければならない。野生動物もだし、厄介な毒を持つ虫や蛇も警戒しなければならない。天候が急変しやすいから空模様にも気を配る必要があるし、急峻な地形は人の侵入を容易に拒む。臆病なくらいでないと、すぐに足下をすくわれるのが山というものよ。もしも臆病さが原因だとしたら機械狼は宇佐見さんだけでなく、奥多摩の山に踏みいった全ての登山家に憑いていなければおかしい」

 叔父夫婦は飄々として足取りも軽く何かを怖れているようには見えなかったが、それはきっと多くの経験によるものなのだろう。あるいはわたしという初心者がいたから、怖れを表さなかったのかもしれない。

「だとしたら何が原因なんですか?」

「あの山で狼に憑かれるとしたらおそらく山岳信仰にまつわる何かを踏んだのだと思う。例を挙げると七ツ石山の頂に向かう途中に小さな祠があるのだけれど」

「そういえば山頂に向かう途中で一度、叔父夫婦が休憩以外で足を止めたような気がする。わたしは疲れていたから一緒には行かなかったけど、祠にお参りをしていたのかもしれない」

 山に存在する何者かに敬意を払わなかったから送り犬をけしかけられたのだろうか。本来の送り犬にあるデメリットが存在しないことは普通の人間ならありがたいのだが、境界暴きを嗜み怪異を求めるわたしにとってはまたとない嫌がらせとなる。山に巣食う怪異がそのことを理解していたなら、実に厄介なやつだと思った。

「祠にお参りしなかったのがまずかったのかな?」

「その程度なら問題ないはず。わたしだっていつもお参りするわけじゃないし。もっと冒涜的な、例えば祠を暴き立てて御神体に罰当たりなことをしたとかなら仕返しされてもおかしくないけど。別に咎めたりしないから正直に言っても良いのよ」

「いやいや、この期に及んで隠したりしませんって」

「本当かなあ、わたしに内緒で山に登ろうとしていたし、演技慣れしてるし、これまでにも虎の尾を一度ならず踏みつけたことがあるよね?」

「それは……否定しません」

「なるほど、そう答えるならば奥多摩の信仰にけちをつけるような真似はしてなさそうね」

 婉曲的な回答だったがそれである程度を察してくれたらしく、店主はようやく疑いを解いてくれたようだった。

「普通の狼ならともかくレスキュー用に開発されたこの機体は人語を理解するし、話すこともできるはずなのよ。何かが憑いてるなら尚更のこと。そろそろ黙りをやめて何を企んでいるか話してくれないかな?」

 そう問いかけるも機械狼は足を使って器用に耳の後ろを掻く仕草をするのみである。

「とぼけているのか、それとも本当に理解していないのか、どちらにしてもこの子が宇佐見さんに懐いているという事実に変わりはない。そして京都での話が事実ならこの子には魔を祓う強い力がある」

 店主はそこまで口にするとしばらく無言で考え込んだのち、わたしの方を向いた。

「山で行方不明になった人たちを探すつもりならこの子を連れて行って頂戴。人を容易に隠し、行方不明にするような怪異から宇佐見さんやハーンさんを守ってくれるに違いない」

 そう言われ、わたしは目の前にいる機械の狼をじっと見下ろす。かつて秘封倶楽部の活動を散々邪魔してくれたが、今回は役に立ってくれるのだろうか。

 だが機械狼は欠伸の動作をするばかりで、とても頼りになるようには見えなかった。

「本当に大丈夫なんですか、これ?」

 疑いの目を向けるわたしを他所に、メリーが屈み込んで機械狼に視線を合わせる。金属の頭を本物の犬を扱うように撫でると、機械狼は尻尾をぱたぱたとさせた。

「お手」

 メリーの差し出した手に機械狼はちょこんと前足を乗せる。

「おすわり」

 機械狼は手を下ろし、背筋をぴんと伸ばして座る。

「あなたは山坂に生まれ、人を呑む境より蓮子やわたしを守ってくれるかしら?」

 その質問に機械狼は大きく「うぉん!」と鳴いた。

「どうやら大丈夫みたいよ」

 本当かよと思ったが、疑うと守ってくれないかもしれないのでじっと黙っていた。というかこいつはわたしに懐いたんじゃないのか?

 むらむらと対抗心が湧き、わたしはメリーと同じように屈み込むと頭を撫でてからお手の仕草をする。そいつは後ろ足だけで器用に立つと、右前足をわたしの手ではなく頭に乗せた。

「こいつ! なんてことを!」

 慌てて立ち上がると機械狼は僅かにバランスを崩したが、すぐに立て直してメリーの背後に隠れる。悪戯に成功したとでも言いたげだ。

「これで懐いてるって言えるの?」

「そうね、懐いているというより……」

 店主は悪戯っぽい笑みとともにこう言った。

「仲の良い姉妹、って感じね」

 そのことを肯定するように機械狼は短く「わん」と鳴く。どうでも良いことだがこいつ、犬なのか狼なのかはっきりして欲しい。

「服や靴の微調整もあるから明日もう一度ここに来て頂戴。携行食や飲み水、その他諸々用意しておくから。宇佐見さんは以前に購入した登山用具一式を持ってくること。奥多摩へのアクセスが良い宿を用意するので着いたら早めに就寝、夜中になったら車を呼んで日が昇る直前にちょうど登山口に着くように。夏場だから日は長いけど山道を歩いていると案外時間は早く過ぎるから、日の位置にも気を配るように。それから……」

 そこまで話してから店主は口を閉じ、心なし申し訳なさそうに目線を下げた。

「ごめんなさい、あまりくどくど言われるのも嫌よね。要点をまとめたデータを用意するから登山を開始するまでに目を通してもらえると助かるかな」

「大丈夫です、しっかり読んでおきます」

 わたしがそう言うと店主は小さく息をつく。境界暴きに一家言あり、わたしたちのような存在を認め難いと考えてはいるようだが、基本的には面倒見の良い心配性なのだろう。あまり迷惑をかけたくはないが、生憎とそうは言えないのが現状だ。

「でも、そんなに悠長な予定を立てて大丈夫でしょうか。もっと早く助けに行ったほうが良いのでは?」

「それで三次遭難が起きたら目もあてられないでしょう? それに行方不明になった人たちはみな、水や食料を多めに持ち込んでいるし、サバイバル術を心得ている。事故ではなく境の先に足を踏み入れていたとしても、しばらくは持ち堪えるはずよ」

 登山家としての屈強さと経験を信じるしかないというわけだ。説得されてもなおもどかしさは消えなかったが、焦っても良いことは何もないというのは理解できた。

「明日もよろしくお願いします」

 わたしはメリーともども頭を下げ、店を後にする。かしゃかしゃと音がするので振り向くと、機械狼は当然のようについて来ていた。そいつはわたしがメリーより前に出ようとするとさりげなく制し、わたしと並ぶように歩いた。まるでメリーが群れの主であり、わたしは下っ端仲間とでも言いたげだ。

「この犬だか狼だかにわたしが人間様だと思い知らせる方法はないかしら」

「わたしより強いところをこの子に見せれば良いんじゃない?」

 メリーはボクサーのように脇を固め、ジャブを打つ真似をする。出会って間もない頃はそのふわふわした見た目に騙されていたが、運動神経は決して鈍くないし、持久力はかなり高い。拳闘を嗜んでいたとしても不思議ではないが、どちらにしろ強さを競うつもりはなかった。

「明後日の朝から山に登るのだし、今から余計な体力は使わないほうが良いと思う。それに青瓢箪なんてついていたら折角の良い顔が台なしよ」

「ふむ、それもそうか」

 メリーは拳を解き、機械狼を挟んで隣に立つ。そいつはぴたりと立ち止まったが、メリーも足を止めて先に進もうとしなかった。

「狼さん、わたしたちは同じ山に挑むバディ、言い換えれば家族みたいなもの。家族に序列なんてものをつけてはいけないのよ」

 その言葉が通じたのか機械狼は細かな順列を気にしなくなった。融通が利かないというか堅物というか。機械狼の中に何かが宿っているとして、そいつは人騒がせな悪霊のようなものではなく、もっと別の存在に違いない。

「家族なんだからさ、わたしやメリーには正体を明かしてくれても良いんじゃないの?」

 機械狼はぷいとそっぽを向いた。それとこれとは話が別だと言わんばかりだ。

「駄目よ蓮子、親しき仲にも礼儀あり。誰にも明かしたくない秘密を無理に暴こうとすれば、秘密のほうから離れて行ってしまうものよ」

 まるでメリー自身のことを言っているようでどきりとしたが、表面上は鼻であしらった。

「境界を暴くということはそこにある秘密を暴くということよ。それを躊躇っていてはわたしたちのやっていることはおままごとに等しくなる」

「そうね、蓮子の言うことは正しい。だから窘めたけど、止めはしない。本当に必要だと思うなら」

 機械狼はそっとわたしを見る。金属製だというのにまるで生きているように瞳を潤ませていた。そう見えるような視覚効果を発しているのか、それともわたしの心がそう見せているだけなのか。どちらにしろどう答えるかは既に決まっていた。

「この子は叔父さんたちを助けるのに役立つ。それに怒らせると怖いから不興を買うのは避けたいところね」

 後者の理由はメリーにも適用されるのだが、ちらと表情をうかがっても満足げに頷くだけで気付いた様子はなかった。と思ったらいきなり柏手を打ち、わたしは不覚にも少しだけ驚いてしまった。

「そうだ、この子の名前を決めないと。こいつとかこの子では味気ないし」

「確かにそうだけど、勝手に決めて良いのかな?」 

 ごたごたとしていたせいで話し忘れたのではないかと思い、店主にメッセージを飛ばしたところ「好きなように名付けて良いよ、ものに名前をつける習慣はないから」と、素っ気ない答えが返ってきた。

「だそうよ、話を切り出してきたってことは何か良い案があるってこと?」

「ううん、名前がないのは寂しいなと思っただけ。でも、そうね……いくつかの候補が浮かんできた。ブラウン、プックル、チロル、ゲレゲレ……」

「どれもぴんと来ないなあ。お前はどう思う?」

 機械狼は首を四回、横に振った。どれも嫌だということなのだろう。こいつはやはり人間の言葉を理解してるし、やり方さえあれば話すことだってできるに違いない。

「どれも反対みたいよ」

「じゃあ、蓮子ならどう名付けるのよ」

「そうねえ……御嶽、大嶽、金櫻、三峯辺りかしら」

 ネットを調べたところ、奥多摩に由来のある狼の眷属の名前らしい。機械の体とはいえ奥多摩住まいだからどれか気に入るだろうと思ったが、三峯の名前を出した途端、急に吠え始めた。

「どうやら三峯と名付けて欲しいみたいね」

「ミツミネか、なんかミチザネみたいな名前」

 メリーは素っ頓狂なことを口にする。不満を表しているならゴッドファーザーとなる権利をメリーに譲るつもりだったが、同じ名前を再度呟いて納得した様子だった。

「ではミツミネ、これからよろしく頼むわね」

 機械狼はうおんと力強く鳴く。足取りも先程より堂々としており、狼の振る舞い方を思い出したかのようだ。

 名前も首尾良く決まったところでちょうどカーステーションに辿り着いた。機械とはいえ動物は乗車拒否されるのではないかと思ったが、ミツミネを乗せて普通に走り出した。

 送迎車のマニュアルを読むと軽い重量制限があるだけ。機械のペットを飼うなんて日常茶飯事だし、びくびくする必要はないのだが、ミツミネは特別品であり、わたしたちの知らない属性を持っている。陰謀論的なものの見方になってしまうが、わたしはそうしたものを検知する技術が密かに組み込まれている可能性が捨てきれないと考えているのだ。

 もっともそんなものがあるならわたしやメリーはとっくに検知され、危険因子扱いされていなければおかしいのだけど。

 そんなわたしの危惧も露知らず、メリーはミツミネの頭をわしゃわしゃして楽しんでいる。金属製だから毛並みを堪能することはできないのだが、そこは想像で補っているのだろう。

 そちらのほうが建設的な想像力の使い方に違いない。

 わたしはそう結論づけるとメリーを真似、ミツミネをわしゃわしゃする振りをする。同じことをやっているのに、こいつなにやってんだという顔を向けてきたのはうん……気のせいだと思いたかった。