二月一日 月曜日
第二場 病院
消毒液の濃い匂いが神経を磨耗させることもなく、並ぶ医療器具やボンベ、バルブ類も何ら感慨を与えなかった。それらの延命装置は、ベッドに一人の少女を横たわらせたまま、しかし稼動中のものは一つもない。それは、目の前に広がる器具の全てが栞にとっては何ら効果しないことを、背理的に示していた。これだけの施設があって、医師や看護婦が沢山いて、栞を救うものは何一つ存在しない。
先程までベッドに寄り添い、激しく涙していた栞と香里の両親は、医師の説明を嗚咽に肩を震わせながら聞いていた。死亡、手続き、葬儀……聞きたくもない言葉が耳から耳へと素通りする。俺はそんな姿を、部屋の隅に立ち遠巻きに眺めていた。何を考えるでもなく、悲しみに暮れ涙するでもなく、ただ存在するだけの存在だった。何故、こんな所にいるのだろう……何故、こんな所にいるのだろう……何度も自問してみるが、答えは出ない。
ドアを挟んで反対側には、香里が一人で佇んでいた。表情を凍らせたまま、やはり涙を流さず栞のいるベッドを凝視している。彼女がそこに何を見ているのか、俺には感じとることができなかった。もしかしたら、目がそこに向いているだけで何も見ていないのかもしれない。何故、こんな所にいるのだろう……俺はもう一度、そのことを思い出そうとした。
香里に声をかけられてから病院に到着するまでの記憶は、ひどく不明瞭で断片的だ。俺は何もしていないから、きっと香里が動き回ってくれたのだろう。加速度的に拡大するサイレンの音も、まるで他人事のように聞こえた。チョコレート・クッキー色のストールと薄紅色のカーディガンが、搬送される栞の上に被せられていた。不似合いな色のコントラストだけが鮮明な記憶として残っている。救急士の怒声の中で、香里は栞の右手を包み込むようにして握っていた。サイレンの音が五月蝿いなと思いながら、微動だにしない栞をずっと見守る俺と香里。からから、からから……担架の車輪音が、リノリウムの床との摩擦で乾いた音を立てる。俺と香里はその後を全速力で追った。医療室に灯るランプ、しかしそれも長くは続かない。もう手遅れだということを、医者の方でも察していたのだろう。残念ですがとお決まりの前置きの後、淡々と述べられる残酷な事実。でも、感情は錆び付いたように動かなかった。泣くことも、悲しむことも、嘆くことも、苦しむこともできない。ただ客観的に侵入してくる事実だけを、脳に集めるだけの作業。無機質な自分、殴り付けてやりたい程に冷静な自分。俺は周りを顧みる余裕すらなく、不条理な感情を抱いたまま立ち尽くしていた。
栞と香里の両親がやって来たのはそのすぐ後だった。寸分違わぬ説明を受けた後、口元を押さえて泣き崩れる母親。ぐっと歯を噛み締め俯き、それでも涙を抑え切れない父親。同じことを言われた筈なのに、大事な人を失ったという事実は同じなのに、どうしてこうも違うのだろうか? 一層のこと、みっともなく涙を溢れさせ、思い切り叫ぶことができたなら、どれだけ楽だったか。
一仕切りの興奮が治まった後、ようやく栞の両親が俺の存在に気付いた。母親の方は泣き腫らした目で俺を見た後、枯らせた声をどもらせながら訊いてきた。
「あの……あなた、は、どなた、ですか?」
どう答えようか一瞬迷ったが、ここで無理に曲解したり誤魔化したりする必要など微塵もない。そう思い、俺は素直に全てを話すことにした。自分の名前、栞との出会い、積み重ねられる時、やがて聞かされた残酷な事実……栞は不治の病に罹っていたということ。栞の頑張る姿を見て一つの決心をした……それは最愛の少女に残された時間を、全てをかけて埋めて行くということ。たった一週間だけ普通の少女として扱って欲しい、悲しいまでの強い決意には悲愴など微塵も感じられなかった。だから、俺もその思いに精一杯報いようとした……いや、ただ栞と一緒にいることが楽しくて、嬉しくて……ただそれだけだったから……最後まで頑張れたこと。最後の夜、最後の思い出のために公園へと向かい……そこで栞が倒れてしまったこと。そして……本当はもっと話したいことが、話さねばいけないことが沢山あった筈なのに、声に出せない。そして最後に……俺はほとんど聞き取れないほどのトーンで言った……栞はもう……。
決して満足はできないものの、語るべきことは語ったと思う。栞の両親は、混在する情報と思考とのギャップに苦しんでいた。微かに震える体は微動だにせず、黙して語らない。やがて、栞の母親の様子が僅かずつだが変化して来た。泣き腫らした目が徐々に見開かれ、厳しく歪んだ口元と共に、険しい表情がこちらに向けられた。
「じゃあ……」溢れる感情に、声が途切れる。「あなたは栞が病気だということを知っていて、夜の公園に連れ出したって言うの? それがどんなに危険なことか分かってたんでしょう?」
胸を直接抉るような言葉が、俺を厳しく打つ。栞の母は一文節ごとに募らせていく激しい感情を、全て俺に向けている。それは、こちらとしても有り難かった。俺が欲しいのは責め苦……体中をズタズタに切り裂いて、苦痛の余り悲鳴をあげるような、そんな責め苦こそが、今の自分には相応しいのだ。
「あなたが連れ出したりしなければ、もっと栞のことをいたわってあげたら、栞は死なずにすんだかもしれないのに……」
「よしなさい」栞の父親が、重く響くような声で妻の言葉を留める。「相沢君の話を聞く限り、彼が責められる所以など全くない……そうだろう?」
「でも……」栞の母親は未だ納得せぬ様子で、俺と夫を交互に見た。「でも……」ともう一度繰り返す。だが、その目からぎらついた輝きは既に失せていた。
確かに公園へ行きたいと懇願したのは栞だった。だが、本当にそれで良かったのだろうか? 俺はドラマのような展開に酔いしれて、本当に栞のことを心配していなかったのではないだろうか? そんな思いが、俺の暗い心の巣に集いつつあった。栞のことを思うのなら、例え恨まれようとも彼女の身体を第一に考えるべきではなかったのだろうか? 死んでしまっては、一体何が残るのだろうか? 死……その一文字が深く心に染み付いて離れない。
「立場は違っても、彼が栞のことを真剣に思い、そして、真剣に悲しんでくれている。そのことは事実だろう。だとしたら、私たちはそれを詰って、踏みにじることをしてはならないと思う」
栞の母親は夫の方をちらりと見ただけで、何も言わなかった。多分、俺に対する態度を決め兼ねているのだろう。だが、それは当たり前のことだ。俺が栞の母親の立場なら、あのように叱責されても相手を詰り続けていたかもしれない。
「相沢君……だったね」栞の父親が、厳格な眼差しで俺を見つめる。その瞳には一切の曲解を許さない力があった。「一つだけ訊きたい……君は栞のことを、本当に大切に思っていたのか?」
思っていた……と答えたい。だが、今の俺にはそんな自信はなかった。悲しみの涙一滴すら流すことができず、心を凍り付かせている俺に……だが、言葉は思考と裏腹に飛び出していた。
「分かりません。けど、俺は栞を大切にしてやれたと信じたい。思うだけでなく、実際にそうできたと……信じたいんです」
それはただの独り善がりかもしれないけれど……そう心の中で付け加えると、栞の父親を見つめ返す。彼はしばらく堅い表情を崩さぬままに俺の方を見ていたが、刹那、表情を緩く崩した。
「成程、良く分かったよ。栞が何故、君のことを好きになったかを。そして何故、君との時間にリミットをつけたのか。栞は君を悲しませたくなかったのだろう。だから誕生日までという条件を付けて……だが、その誕生日に死ぬことはないだろうに……」
栞の父親は眉を強く歪めた後、俺に尋ねる。
「もう一つだけ訊かせてくれ。栞は……十六歳の誕生日を向かえることができたのか?」
「ええ」と、俺は力強く答えた。そう……確かに栞は無慈悲な死のタイムリミットを突き破った。だが、それは瞬間的なものに過ぎなかった。もし、誕生日まで生きられた……それが奇跡だとしたら、奇跡というのは何てちっぽけなのだろうか。
「そうか……」栞の父親はそう呟くと、涙の跡を新たなそれで湿らせた。そして、俺たちは医師に案内され、栞の眠る病室へと足を運んだ。栞の両親はシーツを強く握り締め、堰が切れたかのように涙と嗚咽とを漏らした。しかし、そんな光景を見ても、俺は涙を流すことなく、呆然と見つめることしかできない。そして、ふと気になって香里の方を見る。香里もまた、涙一つ流さず立ち尽くしている。香里も俺と同じなのかもしれない。
香里の姿をその目に映し、これまでのことを思い出した脳がようやく新たな回転を始める。今、俺はここにいるべきではない。ここにいれば、嫌でも栞の両親に負担をかけてしまうだろう。それに、この光景をこれ以上眺めているのも嫌だった。
「じゃあ、俺は家に戻ります」
それだけを言うと、栞の両親に一礼して部屋を出る。最小限の明かりしか灯っていない廊下は、厳寒のせいもあって非常に冷たい。物理的な寒さだけでなく、人の心を冷たく保つ圧迫感が身を包む。履いている靴が床と擦れて、静寂の廊下に驚くほど強く響いていた。その音に混ざり、明らかに俺の靴音と異なる足音がこちらに近付いて来る。振り返ると、僅かに白い息を漏らし息を整える香里の姿があった。
「帰るの?」僅かに名残惜しげな声が、廊下に響く。
「ああ。俺がいたら、香里の両親に負担をかけるだろうから」
それが本心の半分。もう半分は、心に閉まっておいた。
「そう」素っ気無い様子で相槌を打つ。「でも、帰りはどうするの? ここから相沢君の住んでる家って、結構遠いと思うけど」
あっ……と声をあげそうになるのを辛うじて堪える。ここから離れることばかり考えていて、すっかり失念していた。
「タクシーでも呼ぶしかないんだろうな」他に選択肢は思い浮かばい。「香里、公衆電話はどこだ?」
「ここからだとロビーが一番近いわよ。けど、夜中だから電源が通じているかは保証しかねるけど。場所は分かる? 良ければ付いていってあげる」
「ああ、頼む」俺は素直に香里の申し出を受ける。三十秒もしない内にその電話は見つかった。電話は目立つ所にあり、香里が案内しなくてもすぐに発見できただろう。タクシー会社に電話をかけると、俺は病院を出て入口に立つ。隣には依然として香里がいる。
ちらついていた雪は微小の粒子を除いて姿もなく、その分際立った寒さと風が俺と香里を薙いでいた。空は相変わらずの分厚い雲で隠れ、星一つ見えない。香里はそんな空を寂しそうに見上げると、ポツリと呟く。
「今日は、月が出ていないみたいね」
「……香里は、月が好きなのか?」
尋ねると、香里は小さく首を振った。
「さあ、分からないわ。でも……月を見ていると時々思うのよ。夜を眩しく照らすあの光なら、私の願いもかなえてくれたんじゃないかって。結局、駄目だったみたいだけど」
香里は空から視線を離すと、コンクリートの階段に積もった雪を軽く蹴飛ばした。粉雪は宙に舞い、風と共に消える。妙に子供っぽい仕草で、それが逆に香里の心情を表しているように思える。それからしばらく、俺と香里はただ隣り合ったままに意味のない時間を過ごした。
「なあ」俺は沈黙を濁すように、わだかまっていた思いを香里にぶつけた。「俺は、栞のために何かしてやれたのかな?」
香里は俺の方を見ると、僅かに目を細める。それから、寒空に息をついてみせた。
「相沢君、そういうのってね、結局人に訊くんじゃなくて、自分で答えを出すものよ。でもね……」
香里はそこで一旦言葉を切ると、口元に微妙な含みを浮かべた。
「ヒントならあげられると思うわ。栞が相沢君について、私に話してくれたことがあるの……聞きたい?」
「ああ」と即答した。栞が俺のことをどう思っていたか、それを第三者の口から聞いてみたいと思っていたからだ。
「まあ、色々なことよ。一緒に中庭でアイスを食べたこととか、お弁当を一生懸命作ったこととか、ゲームセンタで遊んだこととか。そのどれをも、栞は本当に楽しそうに話していたわ。そして、最後にこう言ったの。私が最初に愛せた人が、祐一さんで本当に良かった……ってね。だから相沢君、貴方はもっと自分に自信をもって良いと思うわ。栞のために、本当に大切なことをしてやれたのだから」
「そうか……」俺は、栞が自分のことを本当に好きでいてくれたことに安堵の感を覚えた。そして、俺の問いに対する答え……結局、香里は答えを教えてくれたも同然だった。もしかしたら香里は香里なりに、こちらを励まそうとしてくれたのかもしれない。さっきだって、わざわざ追いかけて来た。俺は茫然自失として他人を思いやることすらできないのに……。
「香里、有り難うな」俺は小さく頭を下げる。
「礼なら、貴方のことをあそこまで過大評価してくれた栞に言うのね。私はそのことを伝えただけだから」
香里は両腕を胸の下で組むと、揶揄の言葉を返した。
「確かにそうだな」俺は生来の癖で、そんな憎まれ口を叩いてしまう。だが、香里は平然とそれを受け流してしまった。
再び静寂の帳が降りる。タクシーの走行音が近付くまで、俺と香里はずっと黙って時を埋めていた。ブレーキを軋ませる音がして、それからドアが開く。
「それで相沢君、明日はどうするの?」
「明日って?」明日、何かがあっただろうか? 香里の質問に、俺は思わず首を傾げた。
「栞の葬式」香里はなるべく感情を漏らさぬよう、素っ気無く言った。俺は驚嘆の声をあげることを辛うじて堪える。
「貴方には全てのことを見届ける権利があるのよ。でも、決して義務じゃないわ。拒否することもできる……」
「いや……」少し考えた後、そう答えた。「行く。もっと辛くなるかもしれないが……俺は行かなきゃいけないと思う」
「そうね」香里は俺の意思を肯定する。しかし、抑揚がこもっていないので、本心までは分からなかった。
「じゃあな、香里」俺は別れの挨拶をすると、タクシーに乗り込んだ。水瀬家までの住所を言うと、タクシーはすぐに走り始める。俺は一度だけ病院の入り口を振り返った。窓からは、雪すらも退け静かに佇む香里の姿が見えた。
水瀬家に着くと、玄関の明かりはまだ灯っていた。ドアにも鍵は掛かっておらず、すぐ中に入る。
「お帰りなさい、祐一さん」タクシーのエンジン音を聞きつけたのだろうか、秋子さんが入口で俺を出迎えてくれた。「寒かったでしょう? 熱い紅茶でも出しましょうか?」
秋子さんは、こんな時間まで連絡一つ寄越さず外を出歩いていた俺を、咎めることもなくいつもの温和さで接している。その気遣いと、恐らく今まで眠らずに待っていてくれたのであろう忍耐に、恐縮の思いを込めて深く頭を下げた。
「すいません秋子さん、心配をかけて」
「私は良いのよ」秋子さんは目を細めると、ゆっくり首を振った。「それよりもその言葉、後で名雪に言ってやってくれないかしら。名雪、今日は日が変わる直前まで起きて、祐一さんのことをずっと待っていましたから」
いつもの名雪なら、遅くとも午後十時には眠ってしまう筈だ。だから、俺のことを心配に思ってくれていたことがよく分かった。すぐに頷くと、秋子さんは軽く微笑んだ。
「じゃあ、私は紅茶を淹れて来ますから。ブランディを数滴加えると心が静まりますし、よく眠れますよ」
秋子さんはまるで夕食の準備でもするかのように、軽い足取りで台所に向かった。きっと、秋子さんは俺がどんな状況かを知っているのだろう。詳しいことは知らずとも、その慧眼を以って見抜いているに違いない。そんなことを考えながら、後についてダイニングに向かう。
数分後、湯気のこもるティー・カップとテーブルを挟んで、俺は秋子さんと向きあって座っていた。紅茶の香りと僅かに加えられたブランディのアルコールが微妙に混ざり合い、不思議な雰囲気がダイニングに満ちている。「どうぞ」と秋子さんに薦められ、一口啜った。上品な味が胸に広がり、身体と心を僅かだが温めてくれる。
「祐一さんはいつも珈琲しか飲まないけど、たまには紅茶も良いものでしょう」
秋子さんも紅茶を一口啜る。
「そうですね」これは社交辞令でなく、秋子さんが淹れてくれた紅茶は本当に美味しかった。「ところで秋子さん、何も聞かないんですか? こんな時間に帰って来た俺に対して」
「聞いて欲しいんですか?」逆に秋子さんは訊き返してくる。「今の祐一さんを見ていると、そうは思えません」
確かに……今は事情を説明するのも億劫だった。何をするにも気力が沸き起こらない。
「今はゆっくり休んだ方が良いですよ。事情なんて、祐一さんが元気になればいくらでも訊けるんですから」
「……ありがとうございます」
俺は再び、深く頭を下げた。秋子さんの染み入るような配慮に対して、何よりその優しさに対して。時間をかけてゆっくり紅茶を飲み干すと、「じゃあ、今日は休みます」と述べてダイニングを辞そうとした。すると背後から秋子さんの声がかかる。
「祐一さん、それで学校の方はどうしますか?」
学校……どうやら俺の頭からは、そんな簡単なことも抜け落ちていたらしい。俺は少し考えたあとに、迷いながら答えた。
「今日と……明日は休みます。それと……事情は全員が揃ってからでお願いします」
「了承」お馴染みの文句がダイニングに響く。「学校と名雪にはそう伝えておきますから」
その言葉を最後に、今度こそダイニングを出る。名雪を起こさないように(もっとも、ここで大声を張り上げたところで名雪が起きてくるかは甚だ疑問だが……)そっと階段をあがる。一ヶ月分の年季が刻まれた部屋に戻ると、枕に顔を埋めるようにしてベッドに倒れ込んだ。しばらくぼーっとしていたが、やがて押し寄せる睡魔の波は、俺を眠りの縁へと誘った。