幕間I 心ないわたしの手が……

Darkness Grows In My Mind

小さなハエ 夏の遊びをしていたおまえ
心ないわたしの手が おまえを払いのけた

 世界というものは結局、歯車が一つ欠けたくらいで狂ってしまうものではないのだ。

 私はその日も、一人で中学校へ向かっていた。本当なら栞が側に寄り添い一緒に登校した筈なのだが、冬の寒さが堪えたのか二月の末となる今も病院で療養している。

最近、私は栞の病室を訪ねていない。元気な栞を眺めるのは良いけど、症状をこじらせて弱々しく佇んでいる栞を見るのは正直辛いところがあった。清潔なシーツと温かそうな毛布に体をくるんで苦しそうに、けど穏やかな笑顔を向ける栞。そんな姿を見ただけで、思わず涙が出そうになってしまう。だけど、私は笑顔でいなければならない。例え、それが偽りに形作られていたとしても、悲観的な表情を現わしてはならないのだ。そう、心に言い聞かせている。

 でも、やっぱり辛くて何かの理由をつけ、なるべく栞のお見舞いを避けている私がいる。例えば、今日は風邪気味とか雨が降っているとかそんな些細な理由。とにかく、理由があれば良かった。そして――思った後にひどい自己嫌悪に襲われたけど――まだ時間はあるという自分勝手な楽観主義に基づいた逃避をしようと考えたこともあった。その度に、何故大好きなのに辛いのか……そのことを深く考えてしまう。そんなことはもう、とっくの昔に分かっている。それはきっと……大好きだからこそ辛いのだ。

 今日は……私は右手を目に翳しさんさんと輝く太陽に目をやった。雲一つない空は、地上の凍えるような大気と不協和音を奏でている。吐く息は白い微粒子の露となり、無限に大気へと拡散されていく。工事中の看板が前方に広がり、訳もなく掘り返されたアスファルトはただ国費の無駄遣いを燦然と露呈させていた。周りを行き交う生徒たちは皆、しかしそんなことには思いも馳せずに楽しそうな笑顔を浮かべて通り過ぎていく。きっと、私のように下らない事象にすら目を映さなければ心の平衡を保てない……そんな心理状態とは無縁なのだろう。

 私はもう一度、どこまでも続く蒼い空を見上げた。雀が二羽、まるで寄り添うかのように仲良く飛んでいた。天気も良い、体調は至って健康、だから私が五日ぶりに病室を訪れようと考えたとしても遮るものは何もない筈だった。それでいて、私はその考えを御破算にしてしまうような何かを心の奥底で期待していた。しかし、矛盾するようだけど、同時に栞を訪ねることを私は全く違うプロセスの中でやはり心底願っていたのだ。

 乖離的な矛盾が、余計に心を掻き乱す。いつのまにか私は、学校の正門の近くまで来ていた。正門には教育指導の教師らしき人物が二人、睨みをきかせている。そして、ちっぽけな服装規定に引っ掛かっている生徒を嬉々として問い質していた。勿論、私はそんなものに引っ掛かったことはないし引っ掛かる気もない。第一、これ見よがしに髪を染めてみたり制服を改造してみたりする人間の心理が分からない。そんなに目立ちたいのだろうか? 私なら真っ平御免だ。小学校五年の時、あの事件がきっかけでひどく苛められるようになってからは尚更だった。それとも、ああいうアウトローな目立ち方なら苛められるどころか脚光すら浴びるのだろうか。まあ、目立ちたいなら勝手にすれば良い。私には関係のないことだ。

 逡巡の後、金属探知のゲートに遥か劣った検問を通過する。腕時計を見ると、丁度予鈴五分前。計ったわけでもないのに、一人で登校するときは見事にこの時間で固定されている。それだけ変わり映えのないサイクルなのだろう。

 教室は既に、石油ヒータの蒸せかえるような熱気で満ちていた。朝の喧騒は弾むような勢いの片鱗を垣間見せ、それが新しい一日の始まりであることを鼓舞しているかのように見えた。私は窓際、前から三番目の席に着くと鞄を置いて一時間目の授業となる数学の教科書とノートを取り出した。そんなちっぽけな準備が済むと、恒例行事のように窓へと視線を移す。内室温と外気温の差異により、窓は結露で曇っていた。時折、雫が垂れ落ちるだけで何の変化もない灰色の光景を、私は朝礼で担任が訪れるまでずっと眺めていた。そこに何もないことは分かっていても……。

 程よく中途半端な長さの朝礼が終わると、私は再び窓へと視線を戻した。太陽の登場と共に気温も上昇を図っているのだろう、結露はより早い速度で水滴を窓の桟へと滑らせていた。

 周りからは、昨日のドラマは何だったとか新しいゲームはどこまで進んだとか他愛もない世間話で飾られた音が流れてくる。私は別にそれが羨ましいとは思っていない。いや、既にそう思う神経が完全に磨耗したというのが正しいだろう。第一、私に声をかけてくる人なんていないし、私の方から混ざろうとしても拒絶されるだろう。実際、私は拒絶を受けるだけのことを行っているのだから。

 あれは中学一年の時だった。既に小学校の時の体験で所謂グループと言うやつに嫌気が指していた私は、だから入学式が終わって一年を過ごす教室に入った時もついとして座っていた。取り澄ましていた気など毛頭なかったけど、グループを作って徒党を組んでる女子からすればそう見えたらしい。一週間くらい経った朝の日、机に入れたままにしておいたノートにこう書かれてあった。

『澄ましてるんじゃないぞ、バカ女』

 丁寧にも五色で色分けされた、余りにも分かり易い中傷の文句だった。私がその文字を凝視していると、後ろの方からクスクスと忍び笑いが漏れて来た。馬鹿な奴ら……私は侮蔑の思いを隠し切れなかった。そんな態度では、自分たちがやりましたと告白しているようなものだ。もっとも、そちらの方が、都合が良かったが。

 私はまず、三流の中傷を下敷きを用いて丁寧に切り取った。そして、例の女子グループの所に赴く。そして、冷静に訪ねた。

「これ、書いたの貴女たちね」

 流石に、こうも早く対応されるとは思っていなかったのだろう。女子たちの反応は石のように鈍かった。が、しばらくして一人の女子が反撃に転じた。

「はあ? 何言ってるの、美坂さん。いきなりここに来てさあ、そんな言いがかりするわけ? 大体、どんな証拠があるのよ?」

 そう答えた女子は、周りの女子と比べて背も高く見栄えの良い姉御肌風な人物だった。成程、周りから乞われて自然とリーダになるタイプだと私は即座に分析する。

「そうよ、変な言いがかりはやめてよね」

 すると、意地悪さを全開にして周りからもそんなコールが漏れ始めた。こちらは強い人物に追従するしか知らない雑魚だ。私はグループの特性を完全に見切ると、リーダ格の女子の前にゆっくりと近付いた。そして……拳の尖った部分でそいつの鼻の頂点を思いきり殴り付けてやった。

 途端に嘲笑の空気は、混乱の極みへと昇華する。鼻という人体の急所を打たれて蹲るリーダ格の女子、何が起こったか分からずうろたえるだけの取り巻き、そしてそれを冷笑的に上から見下ろす私。それは、多対一なら簡単にやり込められるとタカを括って完全に裏切られた、哀れささえも感じられる失墜の縮図だった。

「ちょ、ちょっと……、何するのよ」

 完全に我を失った、耳障りな甲高い声で取り巻きの一人が抗議の一矢を向ける。私は胸の底が暗く淀むのを感じながら、それを押さえて冷厳と言い放った。

「先にやったのは貴女たちでしょう? だから、こちらもそれに見合う対価で報復した……それだけのことよ。それと言っとくけど、誰がこんなちゃちな文字を書いたかなんてすぐに分かるの。ノートに対する落書きは器物損壊罪にあたるわ、そうしたら警察は落書きの筆跡を調べるでしょうね。貴女たちも知ってるでしょう? 警察が調べればそれがあんたたちの筆跡だってことはすぐに判明するわ。貴女たち、少なくともこれを書いた人間は犯罪者として警察に連れていかれるわね」

 勿論、こんなものははったりだった。ノートの落書きや苛めなんて警察が取り上げる筈ないし、筆跡鑑定なんてする筈もない。第一、こちらも傷害罪なのだからそう言い返されたら元も子もないのだ。しかし、内心は罪の意識を持っているし即席で作られたとは言え脅し文句は彼女たちにとって最大限の威嚇となるだろう。案の定、彼女たちは口を噤んだまま何も言い返そうとしない。鼻の痛みがひいたのだろう、うめくのをやめたリーダ格の女子も私を憎々しげに睨み付けるだけで他に何もしなかった。

 私は鼻を小さく鳴らすと、自分の席に戻った。朝礼前と言うことで大多数のクラスメートがその光景を眺めていたが、みながみな何の反応を示すこともなく言葉を失ったかのように立ち竦んでいた。音が教室に取り戻されたのは、私が席に着いてしばらくのことだ。そこかしこから、私のことをひそひそと噂する声が聞こえて来たが、全て黙殺した。結局、このことは向こう側も教師に告げず、以降はちょっかいを出してくることもなくなった。

 現在の孤立は、恐らくそれが原因だろう。けど、私は孤立なんて左程恐くない。寧ろ、私は苛めを受けてる人間にこう言いたいと常々考えている。苛めを受けるくらいなら、相手の鼻っ柱を叩き折って孤立した方が余程ましだ、と。

「おい美坂、聞いてるのか?」

 そんな怒声が耳に届く。見上げると、数学の教師が私の席の目の前で苦虫を噛み潰したような表情をして立っていた。どうやら、つまらないことを考えている内に数学の授業が始まっていたらしい。

「あ、はい、聞いてました」

 勿論、それは嘘だった。相手もそれくらいは見抜いているようで、黒板を白墨で指差す。

「じゃあ、この黒板の問題を解いてみろ。授業を聞いてたんなら、これくらいは簡単に解けるよな」

 意地悪い言い方だ……と思う。聞いていないことを咎めたいのなら、頭を叩くなりなんなりすれば良い。私は甘んじてそれを受けるし、戒めとして受け止めるだろう。しかし、そのような周りくどいやり方をされると、素直に感銘を受ける気にはならない。

 私は黙って黒板を見る。そこには初歩的な二次方程式の数式が並んでいた。第一問から第四問まで、単に数値を変えただけの練習問題だ。私は即座に頭の中で暗算を開始すると、数秒後には答えを導き出していた。

「第一問はエックスイコール二とマイナス三、第二問は四とマイナス一、第三問はマイナス三とマイナス五、第四問は五と八……あと、余所見をしていたことは謝ります、すいません」

 最後の謝罪も方程式の解を述べるのと同じ口調だったため、数学教師は青筋さえ浮かべて精一杯の我慢をしながらこう言い返すのが限界だった。

「分かれば宜しい……以降は気を付けるように」

 これで、今年度中は数学の時間に余所見はできないし、敵を一人増やしてしまっただろう。だが、世間に迷惑をかける行動はしてないし、その範囲で自らのポリシィに従って行動しているだけのことだ。それで敵が増えるのなら、仕方がないと私は思っていた。さっきの問題の答えが正しいかどうかも告げずに、教師はさっさと次の問題に移っていた。

 午前中の授業は、こうして大局から見れば掻き消されてしまいそうな事態を内包して過ぎて行った。私は購買でパン、自販機でリンゴジュースをを買うと、教室に帰ってそれを黙々と食した。砂糖のごってりまぶしてある、喉だけは乾きそうな味気ない菓子パンとカレーパン……毎日のように胃に入るこれらは飽きることもなければ、格別美味しいと思うこともない。

 それから昼休憩が終わるまで、先日古本屋で購入した文庫本を読んでいた。本の題名は「忘れられぬ死」というもので、一人の美貌の女性の死を発端にした謎と葛藤を描いた推理小説だった。最初は淡々と読み進めていたが、ふと私は言いようもない疑問に囚われてしまった。一人の人間の死というものは、こうも感傷的で消せ得ぬものなのかというものだ。例えば……、そう、栞がこの世を去ることがあるとしたら、私は思い苦しむのだろうか?

 その想像を、私は慌てて打ち消した。余りにも不吉で……そして今の私は、この推論を推し進めることに耐えられないだろう。馬鹿馬鹿しいと精一杯の虚勢をはると、私は本と共に心の間隙を覆う闇を閉じ込めた。そして、間隙にセメントを塗り込めるようにして、六時間目の授業の予習に没頭した。

 五時間目は、週に一度の学級活動だった。通称学活と呼ばれるこの時間は、テーマを決めて班で話し合ったり課外活動をするなどの学業以外の活動に充てられる。今日は何かのディスカッションを行うらしく、ホチキスで束ねられた資料が前の席から順番に回されていった。題名は環境破壊と生命倫理……タイトルだけを見たらごく真っ当な内容だった。しかし、その中身は一方的な環境破壊の否定とその最も残酷な具体例が記されたものでしかない。明らかに、環境破壊は悪だと生徒たちに植え付ける恣意的に作られたテキストだった。

 私の推測通り、担任教師は幾つかの事例を簡潔に説明していった。環境破壊とは如何に悪かを切々と説いてみせるのだ。それだけなら別に聞き流していれば良かった。一方的な価値観から世界を睥睨した三流の論理なんて、私には関係ない。だが、次の言葉だけは許せなかった。

「私たち人間もそれ以外の生き物も……」教師は言葉を発する。「立派な天寿を全うする権利があるのです」

 天寿を全うする権利? 何でそんな権利があるって分かるの? 世の中には天寿を全うできないと宣告された人間も大勢いるのに。私の大好きな、本当に大好きな妹も……そんな権利から見放されているのに。それが生物にとって健全だとさも言い張って、それを私たちに押し付けようとしている。じゃあ……、私の妹は不健全だって言うの? 何でそんなことを言うの? 何で……。

「ふざけないでよ!」

 私は思わず席を立つと、大声でそう怒鳴り散らしていた。周りの生徒たちがざわめきたつが、私は気にしないで言葉を続けた。

「天寿を全うする権利? そんなものある訳ないじゃない。先生、本気でそんなものがあると思ってるの? だったら、何で事故や殺人で死ぬ人がいるの? 何で望みもしない病気や老いで命を無くす者が大勢存在するの? 教師面して、愚かなことを私たちに吹き込まないで……冗談じゃないわ、ふざけないでよ。だったら今、私が先生を殺してあげましょうか? 生きる権利なんて、狂った人間のほんの僅かな匙加減で微塵もなく踏みにじられるってことを、教えてあげましょうか?」

 口調は独善的で、頭の中は理路整然という状況から余りにも程遠い。けど、私は叫ばずにいられなかった。例え、どんな反撃を受けようともこれだけは言わずにいられなかったのだ。それに対して、相手の教師が見せたものは最も単純な反応……つまり怒りだった。

「美坂! 何だ、教師に向かってその口は!」

 その返答に、私は憎悪に膨らんだ心が急速に萎んでいくのを感じた。もしかしたら、この問いに納得できる答えを返してくれるかもという期待は完全に打ち砕かれてしまった。静まり返った教室、冷め切った心、愚かな教師、それ以上にきっと愚かな私。全てが嫌になり、私は荷物も持たずに教室を駆け出したのだ。

「おい美坂、どこに行くんだ!」

 背後から教師の叫び声が聞こえるが、私は無視して廊下を全速力で駆け抜けた。正門を飛び出し、アスファルトの道路を蹴り付け、全てが見えなくなる場所まで、体力が尽きてしまうまでがむしゃらに走った。そして、気付けば小高い丘の入口付近まで来ていた。足場の悪い竹林を抜け、ぬかるみに足を取られながらも私は必死で丘を踏破していく。茶色く色褪せた草の生え並ぶ小高い丘の頂上、そこは真冬にしては妙に温かい風の通り過ぎる場所だった。

 そこは誰もいない、私だけの世界だった。見下ろせば隣町やその向こう側まで見渡せる、見晴らしの良い場所。この街で最も空に近い場所。柔らかな草のクッションに、仰向けになって寝転ぶ。その心地良さに、私は思わず涙した。それは留まることなく、流れるままに頬を濡らす。ここなら泣いたって、誰も咎めることはない。誰も心配することはない。だから、憚ることなく泣いた。

 この世界を手にいれたことによって、私は一時的だが心の平衡を取り戻すことができた。一人で泣ける場所を見つけたから、栞と相対しても笑顔を保つことができた。丘は悲しみを吸い取ってくれる、私にとっては聖域と言える場所だった。

 けど……、やっぱりそれも偽りのものでしかなかった。泣くだけ泣いて悲しみを追い払っても、それは悲しみの原因を心から追い払うことにはならなかった。それどころか、私の知らないところでどす黒い感情が徐々に育ってきていたなんて……それが決定的な破壊を生み出してしまうことになるなんて、その時の私には分からなかったのだ。

 私はただ「お姉ちゃん」と呼んでくれる栞に、それに変わらぬ笑顔で答える力が欲しかっただけなのに……。

――――――新たな幕、そして照明――――――

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