--The End Of The Brightness--
ある特定の点があって、人はそこを指差して"かくかくの日、かようかようの時間、しかじかの場所で、こういうことから、事が始まった"と言えるものだろうか?
私は世間一般に評される『良い子』というやつだった。勉強は学年でもトップクラスだし、運動だって無難にこなせる。両親や教師の言うことだって、素直に聞いてきた。他人を困らせたりすることがないという点においては、模範的な『良い子』だと自覚している。私は『良い子』で無ければならなかった。姉だから、迷惑を言って両親を困らせたりしてはいけないのだ。
私には妹がいる。甘えん坊で体が弱くて、何をするのにも半テンポずれており、手間のかかる子。けど、妹は皆に愛されている。我侭を言っても、困らせることをしても誰も文句を言わなかった。仕方の無い子だなと頭を撫でられて、見逃されるのが積の山だ。
私が初めてそのことを不公平だなと思ったのは、四歳の頃だった。以前にもそういう感情を剥き出しにしたことはあったのかもしれないが、記憶に残っているのはそれが最初だった。妹ばかりを気にかける両親の気を引こうと、母の袖を引っ張ったり、父の周りをうろついたりと、幼稚な振る舞いをした。どうしても思い通りにならないことに腹を立てた私は、床を転がり回り大声で不平不満を喚き散らした。その姿を見て、父は諭すように言った。
「香里、お前はお姉さんだから我侭を言ったらいけないよ。それに栞は体が弱いんだから、仕方が無いだろう?」
そんなことを言われても、四歳児の私にそんな理屈なんて通用しなかった。散々喚き散らして怒鳴り散らして涙を流して、かっときた父に殴られて、更に大声を張り上げて……その後のことは全く覚えていない。目が覚めたのは夜も更けてからだった。隣には、父も、母も、いなかったのだけは覚えている。
それからも何度か我侭を言って両親を困らせたりしたが、その度に『お前は年上なんだから』『お前はお姉さんなんだから』と諭されて、納得するしかなかった。いや、子供が親に逆らっても無駄だっただけに過ぎない。いつだって、親は子供を都合の良いように扱う。本人にはその気が無くても。
その内、私は年上なのだから我侭を言ってはいけない、妹は手間が掛かるから仕方ない、自分がしっかりしていなくてはいけないと思うようになった。両親は妹のことで精一杯なのだから、誰にも迷惑をかけないようにと。
だから、勉強だって頑張った。どんなに難しい問題でも決して聞かず、独力で解決した。風邪を引いて体調が悪い時でも、栞の体調が悪ければ我慢して一人で堪えていた。タチの悪い苛めにあった時も自分一人の力で解決したし、あの時だって……。
私は人に負担を掛ける存在であってはいけないのだと言い聞かせて来た。でも、それだけじゃない。確かに幼い頃から両親に植え付けられた義務感のようなものはあったけど、そんな強迫観念だけで長い間やってこれた訳じゃない。それは結局、私が栞のことを好きだったから……あの子の性質は実の姉である私にも例外ではなかったから。あの子はいつも素直で、すれたところが無くて、私の義務的な好意とは全く掛け離れたところにいた。
――私ね、お姉ちゃんのようになりたいな。
――今は無理かもしれないけど、元気になったら。
――一緒に遊び回ろうよ。
――二人で沢山楽しいことして、へとへとになって帰ってきて。
――そのことを家族で囲んで楽しく語り合って。
――きっと、今の生活よりもずっとずっと楽しいんじゃないかな。
ある日、栞は自分の夢を話してくれた。とても安っぽい夢、でも栞にとっては、それすらも一番星の彼方の如く、手を伸ばしても届かないほどの儚く遠い夢だった。私は「大きくなったら、栞も元気になれるから、その時は一緒に遊ぼうね」と心からの笑みを浮かべて栞の頭を撫でてやった。栞はくすぐったそうにしながらも、目を細めてその感触を楽しんでいた。大きくなれば栞の病気も治る、私はそう信じていた。
中学二年の冬、栞は生まれて何度目かの入院をした。体の調子が悪くて入院することはあったけど、少し養生すれば良くなる……現に今までだってそうだったから、私は何の心配もせず栞の帰りを待つことにした。早速、明日にでもお見舞いに行ってやろうと気楽に構えていた。歯車は順調に回っていると、その時まで何ら疑うことをしなかった。
その晩、私は神妙な表情をした両親に呼び出された。普段なら夕食の献立が並ぶ時間、けど、今日に限っては調味料すら並んでいなかった。年季が垢と共に染み込んだ木製のテーブルに腰掛け、両親と向きあって座る。しかし、父も母も押し黙ったままなかなか話を切り出そうとしなかった。普段の私ならあっさりと問い質したに違いないが、今日はとてもそんな雰囲気ではなかった。父はおこりのように体を震わせ、じっと虚空の一点を凝視している。母は両腕でスカートを強く握り締め、まるで何かの責め苦に耐えるかのように口を紡いでいた。
空気が重たかった。圧し掛かるような沈黙が、八畳のダイニングに充満していた。唯一聞こえる時計の秒針の音が、重圧感を一層強める。それは、時だけが誰の意志とも関係無く無慈悲に進行することを暗に象徴しているからだろう。あの時にそんなことを考える余裕なんてなかったけど。陰鬱な雰囲気に飲まれ、ただどちらかが口を開くことを待つことしかできない状況。私はいつまでこの緊張に耐えれば良いのだろうか? そんな不条理な重圧に対する耐性の限界に達しようとした時だった。父は私を見据えながら座を正すと、初めて口を開いた。
「香里、これから私が言うことは……、本当ならお前も大事な時期だし、このようなことを言って余計な重圧を与えてしまうことがいけないことだとは分かっている。だが家族として、お前にも言わない訳にはいかないんだ。いいか香里、できれば冷静に聞いて欲しい」
長い前置きだった。明らかに父は、これから話すことを私に伝えて良いのか迷っている。私は自分や周りを冷静に見渡している自分を客観的に分析できた。大丈夫だ。今なら余程のことを言われない限り、顔色一つ変えずに受け止めることができるだろう。また、私はそのような術を長い間かけて習得してきた……自然に。
父は大きく息を吸い込むと、貯め込むことなくそれを吐き出した。それから大袈裟な深呼吸。そして、目を伏せながら口を開く。
「実は、話というのは栞のことなんだ」
眉が無意識にぴくりと動く。栞についての重大な話……脳裏にふと嫌な予感が過ぎる、しかも最悪の予感だ。私は敢えてそれを振り払う。が、次の言葉はちゃちな脳内武装など簡単に打ち崩してしまった。
「今日、私と母さんは栞の病状の進行について医師の話を聞いてきた。話によると、栞の病気の進行は思ったより早いらしい。このままでは大人どころか、もって三年くらいだと……」
目が眩む……そして意識の白濁。耳から混入した情報が、脳全体で侵入を拒む。しかし、その言葉が高圧的で絶対的であるが故に、意識の白濁も全てを消し去ることができない。脳裏に響く父の言葉は、その中の一言だけを繰り返した。もって三年……訳が分からない。栞の病気はそこまで悪いのか、第一、死に至る病だということさえ今まで知らなかった。父や母は、大きくなれば栞の病気も治る、だから大丈夫だと繰り返し言っていた。それがいきなりもって三年だなんて……きっと父や母は最初から嘘をついていたに違いない、欺いていたに違いないのだ。それは、娘を傷付けたくないという親の一人善がりの感情から生まれた憎むべき欺き、裏切りだ。私はテーブルに両手を叩きつけて、今すぐここから立ち去りたかった……それくらい激昂していた。怒りが頭を支配することなんて、ここ数年なかったことだ。けど、父は私が震えているのを衝撃と悲しみのせいだと勘違いしている。そこまで考え、心に悲しみという感情が見出せない自分に気付く。だとしたら、私は栞が死ぬことなんて悲しく思ってないのかな? そんな想像が心臓に針を立てるようにして胸を苛んだ。何て嫌な姉だろうという思いが奔流のように流れ出る。
父が「おい」と呼びかける声がして、私はようやく表層の表層だけを冷静に保つことができるようになる。同じプロセスで、私は悲しみが湧かないわけを必死で考えていた。自己防衛のための解釈を。けど、突然に虚しくなった。心を論理の衣で着飾ったとしても、膠着している状況が変わることはないのだから。
「大丈夫なの? 香里」母が苦い表情をもってこちらを覗き込む。私は「ええ」と頷いて見せるのが精一杯だったが、なるべく冷静を装った。錯乱した様子を見せれば、父と母は絶対に続きを話してくれないだろう。そういう中途半端な過保護さが、私は嫌いだ。話す必要がない、或いは話すべきではないと思ったのなら、沈黙を守ってくれれば良い。だが、一言でも打ち明けたのなら、全てを話して欲しかった。それが私にとってどんなに苦痛なものだとしても。
「それで、栞にはどう話すの?」
病名や病状よりも何よりも、私にはまずそのことが気掛かりだった。死の病に罹っていることを伏せずに話すのか、それとも死の床まで秘密にしておくのか。私は一層のこと、栞に全てを話してしまった方が良いと思った。例えどんなに少なくても、全てを理解した上で残された時間を過ごす方が、栞にとっても皆にとっても有意義なのではないか。しかし、父の意見は正反対だった。
「栞には、話さない。話せば、きっと激しいショックを受けるだろうから。それは……忍びない」
父の声は檸檬の果汁を最後の一滴まで絞るかのような、腹に力のこもった、しかし低く細い声だった。確かにそれは正論だ。全てのことを率直に話せば、栞はきっとショックを受けるだろう。今まで大人になれば元気になれる、その言葉を繰り返して励まして来たのに、突然逆のことを言われるのだ。大人になるまで生きられない……と。私はふと、栞がかつて話してくれたことを思い出してしまう。「私ね、お姉ちゃんのようになりたいな」「今は無理かもしれないけど、元気になったら一緒に遊び回ろう」それは普通の人からしたら、夢でも何でもない現実。けど、栞にとっては永遠に届かぬ夢へと変わり果ててしまう。真実を伝えるということは、それだけの重みを秘めていた。
大人になったら……口癖のように、聞かされてきた言葉。でも、実際は大人になればなるほど死に近付くのだ。時間が流れれば流れるほど、残り時間は少なくなるのだ。私がこうやって、父や母と沈黙のまま何の意味もなく佇んでいるこの時間でさえ、栞に残された時間は減少していく。ダイニングには相変わらず、時計の秒針の音だけが響いている。それが栞の残り時間を如実に示しているようで、私は思わず耳を塞ぎたくなった。規則的で、無機質な音をこんなに恨めしいと思うなんて、今までの私からは想像もできなかった。
「だから香里も……妹の、栞の前ではつも通りに接してやって欲しい。暗い翳を見せずに、明るく接してやって欲しい」
父は私に深く頭を下げた。母は純白のハンカチを目元に当て、必死に涙を堪えていた。状況を分析することができる私は、きっと三人の中で一番落ち着いているに違いない。改めてそんなことを言われるまでもなく、私は既に仮面を被る術を知っている。それは両親や栞にだって、いつでも空笑顔で笑って見せることのできる空虚な仮面。だから、いつものようにやれる筈だ。ちょっとばかり寝起きの悪い栞を起こして、朝ご飯を急かしてやる。栞は食べるのが遅いから、私は待ち切れないふりをして家を出ようとするだろう。栞は「お姉ちゃん、置いていかないで」と拗ねた声で私を止めるのだ。私は「もう仕方がないわね」と微笑を浮かべてみせる。元々、栞を置いていくつもりなどない。そして二人で取りとめのない話をしながら、同じ学校に通う。いつものようにやってみせる自信は充分にあった。
けど……空虚や仮初めばかりに囲まれることになる栞は果たして幸せなのだろうか? 明るく話しかけたとしても、それはいつも嘘で、憐憫や同情の思いが奥底に秘められた笑顔が栞に向けられる。皆が自分に優しいと思っても、接する相手はその役目を持った仮面を被っているだけ。それは本当に栞のため? 本当は傷付くのが恐くて、仮面を被ることで少しでもその傷をやわらげようとしているだけではないの? 栞が可哀想だからと言って、論点をすりかえようとしているだけなのでは? 真実を伝えることでどんな崩壊が起こってしまうか分からないから、臭いものに蓋をするように辛い現実を先延ばしにしようとしているのではないの? 様々な疑念が頭に黒い渦を巻き、私の思考はその渦へと飲み込まれつつあった。
「それが、栞にとって一番良いと思うから……」
どこかから、父の声が聞こえる。栞のためにできること、残り時間の少ない栞に、私がしてあげられる最も良いこととは何だろう。仮面を被って優しく接しつづけること? 何かが壊れてしまうことを覚悟で、全てを打ち明けること? 理性の八十は打ち明けることを推奨している。しかし、残りの二十がそれを否定する。そして、その二十は強固な二十だった。それがみせる映像は、激しく滂沱し全てを教えた私を激しく責めたてる栞の、憎しみと呪詛に満ちた思念だった。涙から覗く顔は苦しく歪み、込み上げる吐き気を必死に抑えている。止まらない震えを抑えるように両手で体を抱きかかえ、食い込んだ爪は栞の白い肌に鮮血の噛み痕を残していた。
栞は私とは違う。そして、人間は他の誰かとも僅かに違う。微妙なずれがあるのだ。例え双子であっても、そこには個性がある。私にとって最良と思える手段が、栞についても最良であるとは限らない。そして、残りの二十が私にあのような映像を見せる限り、栞に全てを打ち明けることはできない。
「少し考えさせて……」私は辛うじてそう答えるのが精一杯だった。
「そうか……」その気持ちは父にも伝わったのだろう。伏目がちな表情で、ただそれだけを言った。
それからは、何の会話もなかった。父は黙ったままで、母も流れる涙を抑えて、やはり声すら立てない。私は沈黙に耐えかねて、思わず立ちあがった。その行為を咎める者は誰もいない。私はダイニングから離れると、二階の自分の部屋へと向かった。今はとにかく一人になりたい。覚束ない足取りで一歩一歩階段を登る。二階に上がってすぐ見えてくるのが栞の部屋だ。私とお揃いで買ったネームプレートの片割れが、栞の部屋であることをひっそりと主張している。その隣が私の部屋。入ると、私はすぐに鍵を卸した。そうすることで、ようやく一人になれたという実感が湧いてくる。鍵というものは、自分に反するものを排除し、中にいるものに安堵感を与える。セキュリティという名の心の壁。個人主義の近代社会で、最も普及し工夫されたアイテム。
私はこの部屋で唯一ファンシーな、ベッドの縁に腰掛けた。それは母が買ってくれた、動物柄の入ったベッドカバーのせいだ。栞の部屋にはその姉妹品で、古今東西の魚や多足類がプリントされたベッドカバーが使われている。栞の部屋にはそれ以外にも、抱え切れないほどの人形や壁を覆う芸能人やアニメのポスタ、少女漫画等が所狭しと並んでいる。正に典型的な少女の部屋だ。比べて私の部屋は、そのような類のものは一切ない。机には明日持って行く教科書とノートが既に選別されて置かれていた。本棚を占めるのは、殆どが教科書と参考書、それに小説。漫画の類は、栞がお薦めだからと言って貸してくれた十二巻セットの少女漫画だけ。もっとも一巻だけ読んで、本棚の最下段に収めてあるのだが。ポスタも貼ってなければ、可愛らしい小物で彩られている訳でもない。きっと知らない人がいれば、整頓された男の部屋だと思うに違いない。だが、私には居心地の良い部屋だ。
赤褐色の豆電球のみが光る部屋で、私はただ虚空だけを見つめていた。考えることを排除しようとするけれど、生来の思索癖がそれを許さない。闇が支配する時間にしてはやけに明るいと、この時も素早くそんな思いが煽動された。それはカーテンが閉まっていないせいだった。そこから漏れる隣家の灯火と月明かりが、部屋を僅かに照らしている。窓から外を眺めると、欠損の無い月が黄白色の光を満遍なく闇へと振り撒いているのが見える。ふと、私は栞も病室の窓からこの月を眺めているのかなと考えた。二人を隔てるものは、無慈悲なる月の光。そして二人を繋ぐものも同じ月なのだ。綺麗な月だと素直に思った。そして、無性に悲しくなる。何故、栞は側にいないのだろう。私は二人でこの月を見たいのに。ぼやける視界と共に、手の甲に触れるのは涙の一雫。頬を伝う鬱陶しい感触すら忘れて、私は涙を流した。それは、栞のために本気で流した初めての涙だった。カーテンを閉める。これ以上月を眺めていると、悲しさと苦しさで頭が変になってしまいそうだった。
結局、その日は一睡もすることができなかった。目を瞑っても、溢れる思索がそれを許しはしなかった。その夜はまるで終わり無き夜のように、長い、長い夜だった……。
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