二月八日 月曜日
第二場 学校
この明るさがせめて十分の一でもあれば、と思う時がある。
流石に、週一回しか登校しないと周りも心配し出すようだ。週始めの最初の仕事は「大丈夫?」と尋ねてくるクラスメートたちに「ええ、大丈夫よ」と微笑んで見せることだった。ただ、一時的な特別扱いというのは何となく面映く愉快ではなかった。
その点、いつも声を突き合わせている相手だとこういう時も気楽で良い。珍しく、私より早く来ていた相沢君と名雪はようやくかいくぐったクラスメートのバリケードを抜けた私に、普段と変わらぬ調子で話しかけてきた。
「香里、久しぶりだな」
「……そう? 昨日も会った気がするけど」
「まあ、細かいところは気にするなって。学校では久しぶりってことだから。まあ、俺の言葉に冷静なツッコミが返せるんだったら、もう体調の方も万全だな」
言葉の返し方で私の健康状態を推し量る相沢君。若干、引っ掛かる言い方だが、彼なりに私のことを心配しているのだろうと、好意的に解釈しておく。
「香里、もう本当に体調は大丈夫なの?」続いて、名雪が心配そうに声をかけてくる。「熱っぽいとか、喉が痛いとか、気分が悪いとかない? もう完全に治った?」
「ええ、もう大丈夫よ」私は少し動転気味の名雪の髪を、緩く微笑みながら軽く撫でた。すると、まるで従順な仔犬のように大人しくなる。「心配をかけてごめんね、名雪」
「ううん、本当に大丈夫なら良いんだけど。ほら、香里ってちょっと無理するところがあるから……」
そうだろうか? 私は他人に指摘されるほどに無理をしているとは思わない。確かに……栞のことでは心を痛めていたが、寧ろ楽しようと考えていたのだ。逃避、厄介事の後回し。そう、決して無理なんてしていない。ただ、普段から真面目な部分だけを曝しているからそう見えるだけ……。けど、今の名雪にそんなことを言う気はないし、言ったところで場を濁してしまうだけだ。
「おい香里」軽い思索に耽っていた私を、相沢君の一言が現実世界に呼び戻す。「なんか、俺と名雪とじゃ接し方に雲泥の差があるように見受けられるんだが」
「単なる友人と親友の差よ」そうきっぱり言い切る。「それとも、相沢君も頭を撫でて欲しい?」
ちょっとからかってみせたつもりだった。相沢君が慌てふためく姿を見て面白がってみたい……私にしては珍しい悪趣味な行動。けど、相沢君は好色げな視線でいけしゃあしゃあと返したのだ。
「香里がそこまで言うなら、やってもらおうかな。同年代の女子に頭を撫でられるなんて、滅多にない体験だからな」
「えっ……?」狼狽するだろうとばかり考えていた彼の不意打ちに、今度は私が俄かに慌てる番だった。いや、確かに言い出したのはこちらなのだが。今は朝礼前でクラスメートの殆どが顔を揃えているし、そんなことをしたらどんな噂を流されるか分かったものではない。でも……焦慮の思考がその帰結を辛うじて押し留める。別にクラスの噂になることなど気にしたりはしない筈だ、私という人格は。冷笑を浮かべながら軽く頭を撫でてやって、完全な優位性を保つことは至極簡単なことだ。何故、故意に誤った筋道を立ててまで拒否しなければならないのか……。
真剣に考える私を見て、相沢君は息を吐き出すような笑い声を発した。「香里、そんなに悩むなって。冗談だよ、冗談」そして、私の肩を軽く二、三度叩く。相沢君の誤魔化すような言動は、私に何らの感情を抱かせない。ただ、怒りが……簡単に押し留められるような怒りの感情が僅かに浮かび、そして瞬時に消えた。
「そう……なら良いけど」
私らしくない。全く以って私らしくない行動だ。何故、私はあんな簡単なことすら出来なかったのだろうか。しかし、思考はそこで不意に遮られる。聞き慣れないしわがれた声に、私の耳と心が釘付けにされたからだ。振り向くと、そこには顔の下半分を覆う大きなマスクを装着した北川君がいた。目は僅かに虚ろで、皮膚全体がいつもより熱っぽく感じる。
「おっ、美坂……元気になったのか?」
本当なら普通にイエスと答えたいところだが、流石に病人から心配される神経は持ち合わせていない。私は目を細めると、北川君に尋ね返した。
「ええ、お陰様で。それより北川君、どうしたの? そんな大仰なマスクなんか着けて」
「ああ、いや……どうも今朝方から風邪気味なんだよ。まあ、症状が軽いから少し無理して出てきたんだが……ごほっごほっ」そこで一度、咳によって会話が中断される。北川君はすぐに二の句を繋いだ。「まあ、他の奴らに風邪をうつしたら流石にまずいだろ? それで鬱陶しいけど、こんなマスクをしてるって訳だ」
成程、いつもちゃらんぽらんにしている北川君にしては殊勝な心掛けだ。しかし、彼の考えは根本から間違っている。
「あのね北川君。風邪のウイルスって、マスクの隙間より遥かに直径が小さいの。だから、そんなもので鼻と喉を覆っても無駄なのよ。多分、さっきの咳で風邪のウイルスが教室中に蔓延したわね」
「えっ……まぢか?」
「まじ。ということで北川君」私は神妙な顔付きを作ってみせ、それから少し凄んで見せた。「名雪が風邪を引いたりでもしたら、ただじゃおかないから」
「うっ……」予想以上の反応をみせる北川君。こちらとしては、少しばかり風邪の恐さを知ってもらいたいだけだったのだが、どうやら逆効果だったようだ。
「香里……なんで俺の名前は出ないんだ?」
相沢君が抗議するが、私は次の言葉で一蹴した。
「だから、ただの友人と親友の差よ。それに、馬鹿は風邪引かないんでしょ?」
別に先日、風邪をひいた時の仕返しではなかったが、無性に相沢君を困らせたくなった。特に意味はないけど……そう思ったのだ。
「ひでえ……」
相沢君の言葉を無視して、私は北川君に向き直った。
「そんな状況なんだから、学校にいたって体調が悪くなるばかりでしょう。それに、わざわざ風邪のウイルスを他人に押し付け回るというおまけまでつくのよ。学校が好きな気持ちは分かるけど、今日は帰ってゆっくり休んだ方が良いわ。学校は逃げないんだから」
逃げるとしたら、生徒が学校から……という可能性の方が圧倒的に多いだろう。まあ、そんなことは放っておいても良いことだ。北川君は何らかの感銘を私の言葉に受けたらしく、ただでさえ熱っぽい顔を更に紅潮させて弁を振るい始めた。
「そうだな……確かに風邪はひき始めが肝心だって言うし」そのことを知ってるなら、最初から養生していれば良いのに……そう言いたくなるのを抑えて、私はその続きに耳神経を集中させた。「それじゃあ、今日は早退するわ。担任の方には、美坂の方から言っといてくれ」
北川君は弱々しく片手を上げると、背負った手荷物片手に帰路の途へとついた。その姿が完全に見えなくなったとき、丁度朝礼の開始を告げるチャイムが鳴った。
「あいつ、結局何しにきたんだろうな?」相沢君が不条理な北川君の行動に首を傾げている。「風邪だったら合法的に学校を休めるんだから、黙って寝てりゃいいのに」
「そうかなあ、わたしは北川君の気持ち、よく分かるよ」名雪は寧ろ、北川君に同情的な意見を寄せた。「学校って楽しいところだから。毎日、仲の良い友人に出会えてはしゃいだり騒いだりできるもん。それに、部活動だって楽しいよ。香里だってそう思うでしょ」
「あ、ええ……そうね」
私は曖昧に名雪の言葉を肯定したが、どちらかと言えば相沢君の方を支持していた。名雪のように優しくて明るくて社交的な性格ならば、学校は天国のようなところだろう。けど人付き合いが悪く、優等生の仮面を被りながらいけしゃあしゃあとしている私にとって、学校とは必ずしも居心地の良い場所じゃない。相沢君も……いや、彼の場合は生来が不精にできているのだ。きっと中学校の頃は、病気の口実を必死に考えてその度に叱られていたに違いない。事実は分からないが、半ば確信していた。
「そっか? まあ、気の合う奴と馬鹿騒ぎできるってのは楽しいけどな。そう思わないか?」
どうしてそこで私を見るのよ……相沢君の視線に抗議しようと口を開いた時だった。担任教師の石橋が、建付けの悪いドアを開けて教室に入ってくる。やや眠たげな目をこすりながら教壇に立った。私の言葉は永遠に心の中へと封じ込められてしまった。勿論、朝礼がつつがなく終了して束の間の休みに入っても、そのことが蒸し返されることはなかった。
今日の一時間目の授業は古典だ。教師は定年間近、しかも淡々と自分の仕事をこなしていくだけの授業なので、殆どの生徒は不真面目さを露呈させている。相沢君は、みると二時間目の授業である英語の教科書を開いていた。奇妙なこともあるものだと感心を寄せてみるが、やがて今日は彼の列が当たることを思い出すとその興味も失せた。一方の名雪はと言えば、授業を真面目に聞こうとしている熱意は十分に認められるが、如何せん今は朝一番、微睡みの中に身を委ねている時間の方が多かった。私は、一応黒板に書かれたことを拾い上げてノートに書き写していた。しかし、物語の解釈には対して興味がなかった。
目減りするノートと共に進む日常。黒に白を混ぜ続けても白には決してならないが、白に限りなく近付く……そんな限りない日常の平板さ。時には胸に刺さった棘を自覚しながら、いつかは痛くないふりをして歩くことができるようになるのだろう。黒が目立たなくなるように。でも、今はまだ無理だ。
午前中の授業が全て終わると、私は名雪、相沢君と一緒に食堂へと向かった。今日は北川君がいないので、統制をとる人間がいない。行動も心持ち鈍重となる。
「うわっ……もう満席に近いな」相沢君が悲観の声をあげる。週始めだから学食は少ない筈だが、やはり緒戦の出遅れが響いている。教師もその辺の事情を慮って寛容になって欲しいものだ……というのは、何も私だけの考えではないだろう。「どうする? 戦力が足りないから席取りと注文が両立できないぞ」
辺りを忙しなく見渡す相沢君。その間にも、食堂におしかける学生はどんどん増える。このままでは、席が空くまでの間が大きくなってしまうことは間違いない。
「じゃあ……」私は少し考えた後、軽い代替案を示した。「私と名雪が席を確保して、相沢君は三人分の食事を確保したらいいんじゃない。メニューは盆に乗せてもかさばらない丼物限定ってことになるけど」
「そうだな、それしかないか……」
「えーっ、わたしAランチを楽しみにしてたのに」
相沢君と名雪は、言葉の不協和音を掻き鳴らした。
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ? うーん……じゃあ分かった、購買のイチゴアイスで手を打とう」
「あっ、それなら良いよ」苺という言葉を聞いた途端、意見を翻す名雪。「わたしはじゃあ……天丼とイチゴアイスね」
「わたしは麻婆丼と……バニラアイス」
何とも奇妙な、そして恣意的な組み合せだが、敢えてそこのところは深く考えないことにする。相沢君は一瞬、何のことか分からずこちらを見たが、すぐに合点が言ったらしくカウンタの方へと走って行った。
「じゃあ、私たちも席を確保しなくちゃね。行くわよ、名雪」
「うんっ」名雪の元気な声が、食堂の喧騒に負けず強く響く。「あっ、あの窓際の席、空いてるよ」
こうして、私たちはそれぞれの戦場へと散っていった。
五分後、漆色の丼三つ、それからイチゴアイスとバニラアイス二つを持った相沢君が、私と名雪の確保していた席にやってきた。
「ふう……何とか所望の品、買って来てやったぞ」
相沢君は手慣れた手付きで――水瀬家では皿並べ担当なのだろうか――丼とアイスを並べていく。その姿を見た何人かの生徒が軽く足を止め、首を傾げながら再び歩いて行く。確かに、冬のアイスは何の基準も持たない一般人を不思議がらせること相違ない。
「わっ、本当にイチゴアイスだ……」名雪は苺や、寧ろ桃色と言えるパッケージを、食い入るように見つめていた。「だったら、夏は毎日これをデザートにしようかな? Aランチと一緒なら、苺のデザートが二つ……」
名雪はうっとりとした表情を浮かべ、自らの想像を頭の中で形にしているようだった。相沢君はそれをやれやれといった調子で眺めていたし、私の表情も似たようなものだろう……鏡がないので実際にそうなのかは分からないが。
「あっ、でも祐一も香里もバニラアイスだよね。二人とも、イチゴにすれば良いのに。美味しいよ、イチゴアイス」
一度も食べていないのに、苺というだけで美味しいと断定する名雪。しかし、思考の大部分を割いているのはそのことではない。何故バニラアイスなのかという理由に対する答えを、私は上手く口にする自信がなかったのだ。内心の困惑を必死に抑えつけている間に、相沢君は淡々と答えてしまった。
「思い出の味だからな」決まり悪そうに鼻の頭を掻く相沢君。「栞と昼休憩に食べてたんだよ……中庭で。ここの購買で、二人分のバニラアイスを買ってな」
「そうなんだ……知らなかったよ」名雪は一瞬、悲しげな顔を見せたが、次には頬を僅かに膨らませ拗ねてみせた。「でも、それなら最初から言ってくれたら良かったのに。わたし、イチゴは確かに好きだけど、思い出の味の方がずっと良いよ。何だか、わたしだけ除け者にされたみたい」
「だって、名雪はイチゴが好きだからその方が良いかなって思ったんだよ。別に悪気はないって……それなら、購買でもう一個バニラアイスを買ってこようか?」
相沢君が名雪を宥めるように、そう提案する。しかし、名雪は即座に首を振った。
「いや、いいよ。イチゴのアイスは好きだし、二つもアイスを食べたらお腹を壊しちゃうから」
イチゴサンデーを何個も食べるくせにそれはないだろう……私はその言葉を喉の手前で飲み込んだ。
「じゃあ、私の分を半分名雪にあげるわ。その代わり、名雪のイチゴアイスは半分、私が貰う……それで良いでしょ」
私の言葉に、名雪は明るく「うんっ」と頷いた。それから、中身を交換するためにアイスの蓋を開ける。が、カップの中身は崩壊寸前の惨状を曝け出していた。
「わっ、大変。アイスが溶けかかってるよ」
蓋と木製のスプーンを持ったままうろたえる名雪。私のアイスの中身も見てみたが、やはり外周に近い部分がかなり溶けていた。食堂には強いヒータが利いてるから、冬といえどアイスは溶けてしまう。これは私にとっても盲点だった。
「えっと……じゃあ取りあえず、これが香里の分だね」
名雪はアイスを二等分すると、その内の一つをカップの蓋に乗せてこちらに渡した。まるで不恰好なオブジェのように、不規則でしまりのないアイスの塊。微かに漂う苺の匂いが先日名雪と食べた苺の味を喚起し、自然と食欲がわいてくる。私も二等分したバニラを名雪にあげたのだが、それからが大変だった。普段ならデザートとして食べる筈のアイスが、この状態ではゆっくり丼を平らげる間にも加速度を増して溶けていくのだ。私も名雪も相沢君も、主食を放ってまずアイスを食べなければならなかった。
「ああくそ……何でデザートから食べなくちゃいけないんだ?」
「何ででしょうね」
スプーンでアイスを口に運びながら、私はそれ以上の冷たさで相沢君に問い返した。元はといえば、相沢君がデザートにアイスと言い出したのが原因なのだが、不満そうな表情の彼はそのことを既に失念しているようだった。
「そうかなあ……わたしはあまり気にならないけど。だって、朝食はパンに砂糖やジャムを塗って食べてるし」
確かに、それは名雪の言う通りだ。私もパンに軽くバターと砂糖をまぶして食べるが、それをデザートとは思わない。主食かデザートか……そんなものは人の簡単な心構えで決まってしまう、そう言いたいのだろう。ただ、名雪がそこまで考えて言ったとは考えにくい。彼女としては、苺が食べられれば大満足なのだから。
「そうか? アイスが主食ってことはイチゴジャムを主食にするのと一緒だと俺は思うが。名雪は朝食がイチゴジャムだけで良いのか?」
「えっと……別に良いんじゃないかな」
名雪の言葉に溜息をつく相沢君。苺好きここに極まれりといった名雪に、とうとう追求の手を離したようだ。反論する気概もなく、黙々と残りのアイスを口に運び始める。
そんな二人のやりとりを見て、私は微笑ましい気分と……そして寂しい気分が同時に込み上げて来る。この明るさがせめて十分の一でもあれば、と思う。昨日……改めて体験した気まずさが切実にそれを求めていた。沈黙ではない、言葉を紡ぐ勇気を……。
「ん、どうした香里……変な顔して」アイスのスプーンを加えながら、考え事をしていた私の顔を覗き込む相沢君。「もしかして、アイスの食べ過ぎでまた腹でも壊したか?」
「……年頃の女性に、そんなことを聞くもんじゃないわよ」私は失われそうになった理性を辛うじて保つと、人工的に言葉を返した。それから、こう付け加える。「大丈夫……ちょっと冷たいのが歯に凍みただけだから」
咄嗟の言い繕いに、しかし相沢君は納得したようだった。「ふーん、香里でも虫歯になるんだ」
「悪い?」嘘を付いている分だけ、言い方が刺々しくなる。「私はそこまで完璧な人間じゃないわ。寧ろ……」そう、完全に見えるのは周りに見せかけているだけ。「綻びだらけの人間なんだから」
気まずさが場を支配したような気がした。空気が強張り、周りの音だけが妙に冴えた感覚で耳を通り抜けていく。不意にささくれ立つ感情を抑えることができない不思議。ぶつける必要のない感情を他人にぶつけてしまった時に起こる自己嫌悪。しかし、それも時間からすればほんの刹那的な……相沢君の声が聞こえるまでのほんの短い感情だった。
「別に、俺は香里が完璧な人間だなんて思っちゃいないぞ。見た目より愛嬌はあるし、俺のボケにも的確なツッコミを返してくれる……こんなこと、完璧な人間にはできない」
一縷の説得力もない弁舌を、しかし妙に力を込めてふるう相沢君。しかし、その言葉には心の中を優しく満たす何かがあった。その感情が何か、私には分からないけど……。
「私、相沢君の相方だけは真っ平ごめんだわ」最初の言葉は決まっていた。悲しげな視線を向ける相沢君に対して、私は自然と極上の笑みを浮かべることができた。何故か、微かに狼狽する彼。「それより、さっさとアイスを食べてしまわないと大変なことになるわよ」
「あ、ああ、そうだな」相沢君はカップに視線を落とすと、残りのアイスを掻き込み始めた。「ぐあっ、頭がキーンときたあ」
私は心の中で馬鹿と呟くと、先程から会話のない名雪の方を見た。既にカップの中身は空だった。視線に気付いたのか、名雪は緩慢な動作でこちらを向いた。その仕草からは、陸上部部長の機敏さなど微塵も感じられない。
「香里、イチゴの方残してるけど食べないの?」
「食べるわよ」開口一番の平和な会話に、私は思わず苦笑を抑えなければならなかった。「苺が好きだからって、見境もなく食べてると太るわよ」
「大丈夫、食べた分は運動してるから」ちょっとした揶揄のつもりだったのだが、名雪はにっこりと微笑んでそう切り返した。「でも、香里って運動しないのにスタイルが良いよね。何か秘訣とかあるの? それともダイエットしてる?」
逆に尋ねられて、私は少し困ってしまう。別に特別な食事制限やダイエットはしていない。普通に食べて、普通に学校に通って……それだけのことだ。大体、脂肪細胞というのは二度の成長期の時に集中して生成されるものだ。少なくとも、第二次成長期の時は明らかに、常人より少ない栄養摂取状態だった。だから、いくら食べてもその影響が表面上には出て来ない。しかし、長々と説明するのは面倒だったし、会話の流れにも則さないだろう。だから、私は極めて無難な言葉を返しておいた。
「そうね、あまりお腹一杯になるまで食べ過ぎないことかしら」
「ありきたりだなあ」確かに、奇抜を求める相沢君にとっては面白くないだろう。が、わざわざ話を面白くする義務はない。
「そう? 私には単一食品の摂取や絶食によるダイエットをやる方が余程異常に思えるけど」
「うん。やっぱり、食事は楽しまなきゃ駄目だよ」
名雪が最後にそうまとめる。けど、何気なく言ったその言葉が私には痛かった……。
放課後、私は確かに憂鬱を抱きながら校舎を出た。何かに脅えるような私を追いたてるように、晴天の空は雲一つない。放射冷却の影響だろうか……大気は凍てつき、吐く息は未だに白く拡散される。典型的な真冬日の一例、その気候すらも私から選択肢を奪う。
「香里」後ろから声。振り向けばそこに彼はいた。「どうしたんだ? そんな辛気臭い顔して」
「何でもないわよ……って言いたいところだけど、ちょっとね」
最初はいつものように、あやふやな言葉を返してしまおうと思った。しかし、今の私にはそれを行う気力すら減衰していた。明らかに、以前は私の胸の中に通った固い一本の筋。その筋が揺るんでいることが身を持って感じられる。一人で悩む、苦しむ……それが辛いのだ。ただ、その苦しみから逃げようと思っている訳じゃない。苦しい思いを相談でき、時には分け合えればという感情。虫が良過ぎるだろうか。でも、今の私はきっと弱い。人に頼らねば平衡を保てないほどに……弱い……。
「香里?」再び、相沢君は私の名前を呼ぶ。その声が私には嬉しくて、辛い。「何があったんだ? そう言えば、食堂でも暗い顔してたけど、何か関係があるのか?」
鈍感なようで、見てるところは見てるのね……。
私は相沢君に視線を寄せると、苦笑を浮かべた。
「静かなのよ」
静寂の恐怖は、いつのまにか私を包んでいた。
「静か?」
「だからね、昨日は色々と計画を立てたの。前に鉄板を囲んで四人でお好み焼きを食べた時、凄く楽しい食卓だったわ。だから、その真似をして昨日もそうしたの。けど、静かなの。私がどんなに頑張っても、誰も笑ってくれない。誰も楽しいと思ってくれない。ただ、時々ぎこちない表情を浮かべるだけなの。どうして? 栞にできたことが、どうして私には何一つできないの? やっぱり、私じゃ駄目なのよ。もう、分からない……どうすれば良いの?」
私はあの夜の、雪降る晩のあの夜のように……。
相沢君の制服を掴み、思わず叫び散らしていた……。