二月九日 火曜日

第五場 屋上

 螺旋の中から現れた彼女に、俺は間違いなく魅了されたのだ。

「全くもって、今でも信じられないな」

 俺と名雪は朝の登校路を、冬の冷たい空気を目一杯に受け止めながらゆっくりと歩いていた。吐き出される余りにも大量の白い息にはようやく慣れたが、やはりこの寒さだけは慣れない。これから更に冬は深まり、雪と共に猛威を振るうだろうと天気キャスタは話していた。だが、今俺が信じられないと述べたのはひりつく寒さが更にその脅威を増すことについてではない。名雪がなんと二日連続、歩いて余裕に通学できる時間に起床してきたのだ。一日ならば、睡眠時間を十分に取ったと納得付けることもできるかもしれない。しかし、二日連続というのは祐一が七年ぶりに水瀬家にやってきた日から今まで類のないことだった。その事実には、いつも揚々として動じない秋子さんの顔にさえ驚きの表情を浮かばせていた。彼女でさえそうだったのだから、俺なんかの驚きはその比じゃなかった。それが本当に名雪かどうか確かめようと頬を引っ張り、怒りを買ってしまったくらいだ。

「名雪が二日連続で定刻に起きるなんて」

「祐一、それ家に出る前にも言ったよ、それに食事中にも。いい加減、しつこいとわたしだって怒るんだからね」

 頬を膨らませ、険しい顔を作ってみせるが怒り慣れていないのだろう、その表情は恐いというより寧ろ可笑しさを俺に抱かせた。

「分かった分かった、じゃあ誉めてしんぜようぞ」

 あまりからかうと夕食の内容が危うくなるので、ここらで方針変換して素直に名雪の努力に対して賞賛の言葉を送る。しかし、名雪の機嫌は一向に戻らない。

「うー、今度は馬鹿にされてる気がするよ」合点のいかない様子で、俺のことを恨みがましくみつめる名雪。「そんなに私が早起きするのが意外なの? 精一杯、起きてるつもりなんだけど」

 精一杯頑張って起きた結果が、学校のチャイムとの全力を賭した競争に成り下がっているというのが偽らざる現状なのだが、今の様子だとかなりの紛糾が起きそうなので敢えて心の中に閉まっておく。「うんうん、名雪は頑張ってるよな、偉い偉い」

 わざとらしい笑顔を浮かべながら、俺は名雪の頭を二、三度軽く添える程度の強さで撫でた。

「今度は子供扱いされてるような気がするよ……」

 気の抜けた声で、やはり不満げな声を漏らす。だが、俺に撫でられた部分にそっと手を添えると次には機嫌よさそうな笑顔を浮かべていた。全くもって、訳の分からない奴だなと思いながら、名雪の機嫌が戻ったことに安堵を覚える。名雪は僅かにこちらへ身を寄せてくると、遠慮がちに白い吐息を大気へと疾らせた。

「でも、朝はやっぱりゆっくり歩いた方が良いよね」鞄を両手に持ってくるりと一回転する名雪。どこか雪にじゃれる犬のような仕草だった。「町の風景がじっくりと見られるから。流れる雲、隙間から漏れる太陽、太陽の光を浴びて宝石のように輝く雪。わたし、冬の町って大好きなんだよ」

 名雪につられて、俺も太陽の眩しさに目を細めながら空を仰いだ。連綿なる綿菓子のような白い雲に、健やかなる雰囲気を秘めた蒼。樹木に積もった雪はその光を浴び、銀色に輝いて見えた。時折、積もった雪が重力に従って地上に落下していく。鈍い音を立て、地上の雪と同化した新雪は更なる雪を求めて留まり続ける。自然と天空から地上へと動いた視線を元に戻すと、名雪が同意を求めるような目で俺を眺めていた。

「まあ、確かにそうだな」

見慣れないせいもあるのだろうが、雪の清潔なイメージは見ていてもなかなか飽きない。もっとも、生まれた時からずっと雪国で暮らしてきた名雪がそんなことを思えるのは随分不思議だなと思った。流石に十数年も雪と接していれば普通は飽きてしまうだろう。それでも明るく冬を受け止めることができるのは名雪の純粋さだろうか、それとも俺に少しでも早くこの街になじんで欲しいという名雪の心遣いなのだろうか、それはよく分からない。冬の朝の光景の美しさも、鈍感な俺にはいまいち理解できない部分もある。だが、これらの抽象的問題よりもより具体性と確信をもって言い切れることは取りあえず一つある。

「そんなに朝の光景が好きなら、もっと早起きしたらどうなんだ」

 この一撃は名雪の心をそれなりに打ちのめしたようで、少し肩を落としながら小さく呟いた。

「……うう、善処はするよ」

 政治家のような気の乗らない返答に大いなる不安を抱いたが、まあ二日もゆっくり登校できれば良い方だろう。そう考えてしまった俺は、名雪の生活スペースにどっぷり浸かっている自分を再確認してこれからの未来に少し、いやかなりの不安を抱いた。が、くよくよしたってしょうがないとすぐに割り切ってしまった。

「じゃあ、今日くらいはいつもよりゆっくり歩くか。時間は……」そう言って、時間を確認できるものを探した。すると近くの民家から、NHKの十五分ドラマの主題歌が聞こえてきた。「まだ大分あるから大丈夫だろ。今日で緩やかな景色も見納めかもしれないからな」

「何だか微妙に引っかかる言い方してない? 祐一」そう言ったものの、怒っている様子はなく寧ろ楽しそうだ。

 まばらに学生の姿が見える通学路を、俺は何か新しい発見を見つけるように忙しなく視線を動かしながら歩いた。生憎新しい発見はなかったが、余裕をもって登校できることの喜びは噛みしめることができた。できればあと一日、この状況が続きますようにと何かに向けての祈りを捧げ終わったとき学校の正門に辿り着いた。正門から見える時計は八時二十七分を示している。もしかしたら香里や北川がいるかと思って辺りを見回したが、目に届く範囲には見当たらなかった。

 下駄箱で上履きに靴を履き替え、階段を上っていくと僅かだが女子の制服を着た人物の残滓が上方に溶け込んでいくのが見えた。一瞬しか見ることを叶わなかったが、独特のウエーブがかかった髪形には見覚えがあった。勿論、ウエーブのかかった髪形をしている女子は校風が割と自由なこの高校では珍しいものではない。だが、その影の行き先が無性に気になった。彼女が屋上に向かっているように、俺には思えたからだ。しかし、こんな朝礼前の屋上に何の理由があって赴くのだろう……そこまで思考を進めた時、背筋に一本冷たい想像が走った。それは最悪の想像だが、俺の肉体と精神を揺り動かすには十分すぎるものだった。

「名雪、先に行っててくれないか。ちょっと用事があるから」

「あ、うん分かった。でも、もうすぐチャイムだから早くした方が良いと思うよ」

「分かってるって。すぐに追いつくから」

 心配そうな表情を見せる名雪に、俺は軽く手を振ってそう答えてみせた。躊躇いがちにその姿を視界から退場させると、俺は少し早足で階段を一段飛ばしで上っていった。心を俄かにざわめかせていた不安が、一人になると急激に膨らむ。すぐに、開けっ放しになっているドアのところまで辿り着くと息を一度整えた後、強く屋上を凝視した。

 そこは砂塵と枯葉が駆け巡る螺旋の支配する空間だった。渦を巻く風は美しい螺旋状の塊を生み出し、何かを中心にして力を奮っていた。永遠に続くかもしれないと思ったそれは、しかし刹那の輝きしか見せずに遠方へと遠ざかっていく。そして、徐々に中心にいた少女の姿が露わになっていく。髪や服を風と戯らませ、竜巻の中心から現れた少女は一瞬、風の妖精に見えた。無表情の中に僅かに漂う気品は、俺の心を捉えてやまなかった。そして、それが香里だと分かった後でも俺はその姿から目が離せなかった。螺旋の中から現れた彼女に、俺は間違いなく魅了されたのだ。

 だが、魔術の支配する時間もまた一瞬だった。乱れた髪形と服装を正そうとせずこちらを呆けた瞳で見つめる香里に、混乱した俺は思わず叫んでいた。

「香里! 何やってるんだ!」

 張り上げるような大声が届いたのだろうか、虚ろな焦点はやがて俺に向けて一点収束していった。何度か瞬きを繰り返すと、制服にできた皺を僅かに伸ばしてこちらに近付いてきた。「相沢君、どうしてここにいるの?」

 どうやら香里は、俺がここにいることが不思議でしょうがないようだ。だが、その思いは俺だって同じだ。何故、朝のこんな時間に屋上に出て出現した竜巻に身を任せていたのだろう。先程過ぎった最悪の予感も手伝って、詰問口調で俺は香里に問うていた。

「それはこっちの科白だ。俺は僅かに香里の姿が見えたから、心配になって追って来たんだ。そしたら、竜巻に身を任せている香里を見つけて……なあ、何でこんなところにいるんだ?」

「どうして、って言われても……」香里は大きく首を傾げ、俺の質問に答えようとしていた。その仕草からは、誤魔化しや正当化の意思は感じられず、ただ自分の仕出かしたことの不思議さを探求しているように見えた。「教室に向かおうとしていたら、たまたま屋上から空気が流れてくるのに気付いて。それで不意に気になって屋上に出てみるとたまたま竜巻が現れたの。それで、竜巻に飲み込まれたらどんな気分になるのかなと思って実行してみただけよ。変に思うかもしれないけど、本当にそれだけなの」

 確かに変な話だった。屋上のドアが空いていることなんて、大概の人間は無視する筈だ。そして竜巻が起こったら、大抵の人間は避けようとする筈だ。何か、しっくりこない部分がある。嘘をついているとは思えなかったが、全て本当のことを述べているとも思えない。合点がいかない俺は、なおもしつこくそのことを尋ねた。

「でも……ドアが空いてるからって屋上にでるのは変じゃないか。普通なら、ドアを閉めて終わりだろう? 香里、お前本当はどうして屋上に出たんだ?」

 真摯な俺の様子にも関わらず、香里はきょとんとした表情を崩さなかった。が、言わんとしたことを理解したのか途端に皮肉げな苦笑と一瞥を向けた。

「相沢君、もしかして私が自殺する気だって思ったの? だったらそれは冤罪よ、私は自殺する気なんてないもの。でも、自分の行動が変なのは認めるわ。変だけど……だからといって全ての行動を完全に理由づけて話すなんて誰にもできないんじゃないの? ほら、理由もないのに急に壁を殴りたくなったり大声をあげたくなったりするじゃない。でも、後から考えて理由を明確には答えられないでしょ。それと同じで、本当に意味のない行動だったのよ」

 それから、僅かに暗い翳を表情に落として一言付け加えた。「相沢君にだって、経験あるでしょう」

 香里に言われ、俺は意味のない行動について頭を巡らせた。そしてすぐに一つの事象に辿り着く。あれは俺が小学校四年生の頃だった。特に意味はなく、強いて言えば軽い悪戯心から俺はあるクラスメートのスカートをめくった。勿論、女の子のスカートだ。してやったりという気分が胸の中を満たしたが、帰りのホールムールでその女の子にそのことを暴露された。そして、クラスメート――主に女子を中心にして――による糾弾大会が始まった。小学校の頃は、そんな理不尽なやり取りがまかり通っていたのだ。俺はやったことなので罪を認めたが、どうしてやったのかということに付いてどうしても答えることができなかった。何となくやりたかったからと正直に答えたが、教師もクラスメートもそのことを認めようとはしなかった。もっと邪な理由がある筈だと俺を責め立てたのだ。その内面倒臭くなって、俺は女子のパンツが見たかったからと適当な理由をでっちあげてもうしませんと頭を下げた。それでようやく皆が納得し、魔女糾弾裁判にも似たホームルームは幕を降ろした。

 彼らは俺の行動に意味を見出そうとしたが、俺にとっては大した意味をもたない行為だった。他にも色々と瑣末なことが思い出されて、整理するのに苦労したくらいだ。こうして思い返してみると、そんな下らない行為はいくらでも見つけ出せる。それは、俺がつまらないことばかりしてきた人間だからかもしれないが、それでも香里の言いたいことは理解できた。人間は時として、訳もなく意味のない行動を取りたがるものなのだと。しかし、以前の……こちらに転校してきて一週間しか経ってなかったとしたら俺は香里の言うことを信じなかっただろう。飄々として優等生で、そして理性でもって我が道を行く知的な人間だと捉えていた頃の俺ならば。しかし、今の俺はその言葉を受け入れることができる。

「香里の言い分は分かった。何となく屋上に上がって、竜巻に身を任せたいと考えてしまうことがあり得るということもな。だからその……変なこと言って悪かった」

「ううん、私だって変なことしたからお互い様よ」皮肉ではない微笑を浮かべ、更に何か口にしようとする香里。しかし、その言葉はチャイムによって掻き消されてしまった。「相沢君、早くしないと遅れるわよ」

「ああ、そうだな」急き立てるように響くチャイムの音に、俺は慌てて階段を駆け下りた。香里もその後に続き、チャイムが鳴り終わったところで同時に教室へと駆け込む。危ないところだった。

 二人して息を切らしている様子を、名雪が怪訝そうに眺めていた。

「祐一も香里もそんなに急いでどうしたの?」

 だが、息を整えるのに精一杯で説明するのが非常に難しいことなので俺は何も答えなかった。その内、担任の石橋がやってきたのでそのことは話題から消えてしまった。ホームルームが適当に進行する中、俺はようやく熱を冷ました頭脳で屋上での出来事を思い返していた。螺旋の中を舞うようにして立ち竦む香里、風が去りその残り香を纏ったその一瞬。その顔が目に焼きついてどうしても離れなかった。それから、俺はちらと頬杖をついて体力の回復を待っている香里を見た。その顔はいつもの香里の端正で理知的なものと変わらなかったが、何故か直視することができなかった。わざとらしく視線を逸らすと、無理矢理に思考の方向を捻じ曲げる。

 何故、香里は竜巻の中に身を投じようと思ったのだろう。意味がないと香里は言っていた。しかし、全く意味がないとも言い切れない。俺は、香里が何かで自分を傷つけたがっているのだと考えた。彼女は今でも栞のことについて強く悔い、そして罪の意識を吸血鬼に突き立てる杭のように強くそれらを心に穿っている。確かに、俺が香里の立場なら同じように己の行いを悔いただろう。だが、それにしては香里の苦悩の度合いは余りに強すぎるようにも思えるのだ。何がそこまで思い悩ませ、絶望の淵に誘うのだろうか。そして、栞の影を執拗に追い同化を求める動機とは何なのだろう。

 午前中の授業と、食事の時間と午後の授業の時間を全て足して考えてもその答えは見つからなかった。そして、いつの間にか香里のことばかりを考えている自分に気付いた。俺は香里のことをもっと知りたいと思っている。それは何故か?

 きっと、同じ苦しみを抱く香里の心を理解したいと無意識のうちに考えているからだ。決して……俺は愚にもつかない考えを慌てて打ち消すと、帰り支度をしている香里の方を見た。今朝の印象が薄れているのか、顔を直視しても平気だった。要するに、不思議な螺旋が見せた一時的な感傷だったのだと強引に結論づけると、俺は薄っぺらい鞄を持って教室を出る。それからドアの影に隠れ、香里の出てくるのを待った。無防備なその横顔に、俺は思いきり「わっ!」と大声をあげた。

 余程衝撃が強かったのだろう、思わず全身を震わせて鞄を落としてしまう。それから如才なさげに視線を這わせた後、俺の姿を確認すると憎々しげな瞳に炎を燃え上がらせた。

「相沢君っ! いきなり何するのよっ!」

 半ば本気で怒っている香里に向けて、しかし俺はあくまで冷静にこう言ってのけた。

「別に意味はない」本当に、深い意味はなかったのだ。「ただ、香里が怒るところを見たかった」

 鋭く頬を張る音が廊下に響く。それから、わざとらしい足音が規則よく遠ざかっていく。俺は頬に受けた部分を擦りながら馬鹿なことをやったなと溜息をついた。痛みが徐々に引き出すと、次に考えたのは、次の日香里にどう声をかけようかということだった。が、やはりいくら考えても良い方法は思いつかなかった。世の中には複雑に絡んだ螺旋のように難しいことばかりだと思いながら、俺は帰路についた。その間、頬の痛みはずっと続いていた。

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