二月十日 水曜日
第七場 屋上〜百花屋
本当に、それで良いのか?
屋上に吹きすさぶ風が、全身を打つ。既に冷え切った菓子パンさえも、冷たく味気ないものへと変貌を遂げるかのような錯覚を覚える。太陽の威勢も、この季節この場には全く届いていないように思えた。寒さが特に、感覚として捉えられるのはいつも顔の部分だった。首から下は、まがりなりにも洋服やズボン、靴下といった防寒具に包まれているから寒風にあてられてもそこまでの寒さは感じられない。いつもは剥き出しの指先だって、手袋でガードされるから全身ほどではないにしても辛いとは感じない。しかし、顔は寒さを防ぐどのような防寒具も存在しない。いや、正確には耳当てや帽子などが当てはまるだろうが、それでも唯一、守られない場所がある。
俺はその部分を何度か手で擦ると、昨日同じ場所に感じた痛みについて思いを巡らせた。昨日の放課後、少しふざけてからかってみせただけの香里に、何故か怒りを込めて張られた一撃。それは俺に、怒りよりも先に呆然とした気持ちを抱かせた。いつもなら、俺の冗談なんて簡単にいなしてしまう香里が、感情のままに暴力を振るったから。まがりなりにも、平手という屈辱的な一撃を受けたのだ……怒りを感じなかったと言えば嘘になる。が、それよりも香里に暴力を振るわせるようなことを無意識に自分が行っていたということがショックだった。
何故、俺の児戯とも言える行動を冗談と取れなかったのだろうか? 昨日は、そればかり考えていたような気がする。香里の昨日の一挙手一投足を思い出し、そして煩悶する。風に踊る香里、昼食を切なそうな目で食べる香里、そして……それらを胸から打ち消し、掻き乱し、消去し、改めて考え始める。しかし、初期化した脳はより鮮明に彼女の姿を思い浮かばせるのだ。そして、その度に香里に心乱される自分を感じて溜息と嫌悪感を示すことになる。
自分はそんなに節操のない人間だったのだろうか? まだ、栞が死んでから十日しか経っていない筈なのに。栞より、その姉のことを考える時間の方が長くなっている。俺は本当に、栞のことが好きだった。それは被保護者としてのような曖昧な感情ではなく、恋情と愛情とをもって報われる関係を欲していた。二人で楽しく商店街を歩き回り、馬鹿みたいに騒いで、ちょっとばかり恥ずかしい愛の言葉を交わし、そして触れ合う体や唇からお互いの思いを感じ合う、そんな関係。胸が張り裂けるように痛い、しかし幸せな関係。心を中心として広がる思いが、切なく気持ち良かった。
そんな思いを体験したからこそ、今の気持ちも良く分かる。俺が、香里に同じ感情を感じつつあるのだということに。いくらそれを打ち消そうとしても、それはティッシュ・ペーパに浸透する水のように染み入ってくる。香里のことを考えるだけで、胸が俄かに高まるのを感じる。心拍数が向上し、顔が紅潮する感覚をはっきりと意図することができる。それが、恋かどうかと問われれば正確には分からない。しかし、何らかの特別な感情を香里に抱き始めているということは疑いのない事実だった。
だったら、栞のことを考える時はどうだろうか? とふと思い、俺は一つ一つの思い出を記憶の世界から汲み出した。すると、胸を掻き毟るような焦燥感と喜びが、そして涙を流しそうな悲しみと苦しみが徐々に湧き出てきた。決して、俺は栞のことを蔑ろにしている訳ではない……そのことは俺を安堵させた。しかし、別口から導き出される答えが俺の心を打ちのめした。
相沢祐一は、姉と妹のことを同時に好きになりました……つまりはそういうことらしいというのが、段々と整理されてきたのだ。だからこそ、最初の問いに繋がってしまう。俺はそんなに節操なしの人間だったのか? と。
倫理という観点からすれば即座に否定してしまいたいが、心の中に二つの思いが同居しているのもまた事実だった。そして、更に深く質問を自分に浴びせる。俺は栞と香里、どちらのことをより好きだと思っているのだろうか? 多分、今は栞の方だと思う。けど、これからもそうであるという自信はない。心というものはどんんなに留めようと思っても、隙間から零れ落ちていく。それと同じで、好きだったという気持ちも心から零れ落ち、そして自分の都合よい形に塗りこめてしまうだろう。あの恋は良い思い出だった、と。
それは悪いことではないのだろう。そして、人は生きていくためにそうならなければいけないのかもしれない。けど、今はその現実に耐えられなそうになかった。狂おしいほどの思いが、他の思いに侵食されていくという感情に耐えられないのだ。何より、香里はそんな俺のことを軽蔑するだろう。
実際、そうなのかもしれない。俺は妹の代わりを姉に求めているだけかもしれないのだ。昨日、香里はこう言った。私は栞の代わりにはなれないのか? と。俺はそのことを否定した。香里は香里でいて欲しい、代わりだなんて考えないでくれ、と。しかし、俺が香里に抱いているものは正にそれなのではないか? 俺は栞との思い出を最も強い形で共有でき、そして栞の面影を強く持つ香里を栞の代わりと考えているからこそ、恋情に似た感情が湧きあがってくるのではないのか……。
「俺は、もしかしたら最低の人間なのかもしれない」
早々ベッドに潜り込み、暗闇の中で悶々と色々なことを考えていた俺は、思わずそう呟いていた。
今日、この学校に来てから香里をずっと避けていた。今も、いつもなら四人揃って学食に向かう筈なのに一人こうして屋上で寂しく物足りない昼飯を食べている。湿気たカレーパンの、辛さと具の不揃いさが舌を刺激する。パック入りの珈琲牛乳を一口啜ると、残りのパンを一気に口の中へ放り込んだ。咀嚼しながらも、味覚とは全く関係のない事象に思いは飛んでいた。風邪から復帰してきた北川をダシに使うのは、もう限界だろう。あいつだって、俺の行動を不審に思ってるだろうし、そのうち香里の口からその原因を耳にするかもしれない。かといって、授業ごとにこそこそ逃げ回るのも性には合わない。一層、軽い調子で謝ってしまおうとも思ったが、一方でこの問題は冗談で片付けてはいけないと反骨を鳴らす自分がいるのも否定できなかった。
男だからとかそんなプライドではない。傷を与えたのなら、その理由を自分なりにはっきりさせて真摯に向き合いたいと思うのだ、美坂香里という女性とは。それが、俺が本当に最低な人間に落ちてしまわないために、今できる唯一のことだ。
だから、俺は屋上に来た。何となくではあるが、ここが始まりの場所であるように思えたからだ。しかし、刻一刻と過ぎる時間、緩やかに流れる雲に急かされても何の答えも浮かんでこない。自分が鈍感なことは分かっているから、心を察することなんて簡単にはできない。でも、今はそんな自分をもどかしいと感じるのだ。
「よぉ相沢、そんなところでなに黄昏てんだ?」思考に雑音のように混ざりこんでくる陽気そうな声。屋上の手摺にもたれ、ぼんやりと景色のある方へ目を向けていた俺に、北川は突然現れてそんな言葉を投げかけてきた。
「……何だ、北川か」
俺の言葉に、北川は明らかに動揺を示した。
「何だ、じゃないだろ。朝っぱらから、風邪で調子が悪いのに散々、話し相手に付き合ってやってる親友に向けて放つ言葉がそれか? 俺たちの友情は所詮、そんなものだったのか? 嗚呼」
やけに芝居がかった、悪く言えば道化じみた口調と動作でもって俺の無関心を責める北川。別に、そんな意味で言った訳じゃない。もしかしたら、香里かと思ったからそれよりプライオリティの低い北川という存在に向けてそう言っただけのことだ。決して、嫌いと言うわけじゃない。
「いや、悪りぃ。ちょっと考えごとをしてたから」
「……美坂のことか?」
いきなりの科白に、俺は思わず吹き出してしまった。動揺していることが丸分かりの表情をしながら、責めるような視線を返した。
「その線だと図星だな。全く、妙なところで子供っぽいな、お前は」
北川の言葉調子から、こいつは既に事情を知っていると判断する。だからこそ、俺も目線を更に険しくしてぶっきらぼうに言った。
「それで、北川は何しに来たんだよ。そのことで、俺に説教でもしに来たのか?」
険の入った言葉を、しかし北川は笑いながらあっさりといなしてしまう。手を胸の前で何度か振ると、馴れ馴れしく言い返してきた。
「俺がそんなことするたまに見えるか? いやな、たまには男同士で親睦でも深めないかって誘いに来たんだよ。お前は妙に女性とばかり行動してるから、たまにはこういうのも良いかなと思って」
少しばかり目を逸らしたのは気になったが、それも俺と香里の関係がぎくしゃくしているのを慮ってのことなのだろう。それに、まあたまには男同士というのも悪くないだろう。そう好意的に受け取ると、俺は軽く頷いてみせた。
「そうだな……それじゃ、今日はお前の好意に甘えるかな」
「おう、俺がとっておきのスポットを教えてやるから」
胸を張って、そう主張する北川。だが、その次には少し真面目な表情で新しい話題へ俺を誘った。
「それで話は変わるけど……これは俺の情報網から仕入れてきたものなんだが」情報網とは何なのだろう……俄かに疑問が湧いたが、敢えて追求しないことにする。「お前と美坂が抱き合ってるのを見たっていう話を聞いたんだが、その辺の真偽はどうなんだ?」
興味本位の笑みを固めた北川が、擦り寄るようにこちらに耳を寄せてくる。その問いについて、最初俺は何ら思い浮かぶところがなかった。しかし、すぐに一昨日の放課後の出来事が頭を過ぎる。確かに、あの光景を知らない人が見たら抱き合っているように見えるのかもしれない。しかし、それは完全なる誤解だ。
「あれは別に、抱き合ってたとかそういうんじゃない。バランスを崩したあいつが、たまたま側にいた俺に寄りかかってきただけなんだからな」
詳細は事実と完全に一致しないが、悩みを抱えた香里がたまたま側にいた俺に寄りかかってきたというのは本当のことだ。そして、無駄な脚色を加えてこの場を混乱させる必要はない。
「ふーん、まっそんなことだろうとは思ったが……」
軽口を叩いて見せるが、心なしか少し安堵の顔色を浮かべている北川。何が言いたいかはよく分からないのだが、何もなかったことを当然のように言われると少し腹が立つ。
「よし、じゃあ今日はとことんまで騒ごうではないか」
けど、妙にハッスルしている北川を見ると、まあ良いかとも思えるのだ。取りあえず、こいつは事情を知って納得しているのだから遠慮なく甘えることにした。
その考えが甘いということを知ったのは、商店街を歩く途中に北川が百花屋で談笑している名雪と香里の姿を目ざとく見つけた事実によってだった。
「そう言えば相沢、甘いものが食べたいと思わないか?」
「俺は、甘いものはあまり好きじゃない」
「そうか……でも、軽く摘めるものが欲しいと思わないか?」
「思わないから、さっさと先に行こう」
どうも変だ。まるで北川は、俺をこの場所に留めようとしている。正確に言えば、百花屋に俺をひきずりこもうとしているのだ。勿論、香里が店の中にいるのを承知済みで。窓から店内を見ると、ふと香里と目が合ってしまった。俺はわざとらしく目を逸らすと、強引にでもこの場所から離れようとした。しかし、お節介はもう一人いたのだ。
「あっ祐一、祐一も百花屋に寄ってくの?」
そう言って、名雪は俺の右腕をがっしりと掴んだ。そして北川にアイ・コンタクトを送る。その意図をすぐに察した北川は、反対側の腕をしっかりロックし、俺はまるで死刑台に無理矢理登らされる犯罪者のような格好を余儀なくされた。こうなると、幾ら抵抗しても空しいだけで、俺は百花屋に入らざるを得なくなった。
ベルの音が店内に響き渡り、無様な俺の姿が曝される。
「いらっしゃいませ、三名……いや、二名様ですね」
まだ新入りであろう、少し弱気そうなウエイトレスがおずおずと尋ねてくる。そんな言われ方をすると、こちらとしても「いいえ、違います」なんて言えず、また両腕を掴まれてる姿を店内の客に見られるのが嫌で、抵抗する気力を失ってしまった。
「分かった、もう逃げないから……だから、手を離してくれ。この格好じゃ、幾ら何でも恥ずかし過ぎる」
唯一の抵抗として小声で名雪と北川に訴えると、彼らは顔を見合わせた後、今度は前後に挟むようにして進みだした。これはどんなことがあっても、俺を逃がすまいという万全のシフトらしい。
まず先頭の名雪が窓際奥、香里の向かい側に座り二番目の俺はその隣に座ることになった。そして、北川が香里の隣に座る。
「いや、奇遇だな。こんなところで出会うなんて」
わざとらしい笑顔を浮かべながら、飄々と香里や名雪に挨拶して見せる北川。その光景を見るに至って、ようやくこの邂逅が偶然でないことを俺は悟った。とんでもない道化芝居だ。そんな思いと共に腹立たしさが湧いてきて、俺は思わず呟いた。
「……謀ったな」
北川は目を逸らし、頬を軽く掻いていた。次に名雪の方を見ると、ただ四人が揃ったことが嬉しいらしく笑顔を皆に向けていた。どうやら、名雪はこの件には噛んでないらしい。そして、最後にそっと香里を覗きみる。視線を合わさぬよう、ゆっくりと。しかし、相手も同じことを考えていたのだろうか、逆に視線は強く交錯されてしまった。睨み付けるような一瞥の後、露骨に目を逸らす香里。その様子を見て、まだ怒りは収まっていないことを確認する。と同時に、否定できない感情がやはり胸を満たしていた。そのことに耐え切れなくて、俺は立ち上がりながら言い放った。
「俺、やっぱ帰る」
しかし、すかさず名雪と北川が宥めにかかる。
「まあまあ、折角だから四人で食べて行こうよ」
「そうだぞ相沢、食事は多い方が上手いのだ」
大勢でもまずい食事というのは存在するんだ、そう言おうとした俺の前に恐るべきタイミングの悪さでウエイトレスが注文を取りにやってきた。
「あの、ご注文の方は?」
「イチゴサンデー二つ追加」
「かしこまりました、お会計は一緒で宜しいですか?」
「いや、別々で」
数秒後、テーブルには水とお手拭が二つ増えていた。こうなると、最早逃げ出すことはできない。注文した品物を放って逃げるほど、俺は度胸が強くないのだ。
「そ、そう言えば北川君、風邪はもう大丈夫なの?」
名雪が言い繕うように言葉を挟む。
「ああ、二日も不在で心配させたと思うが今日付けをもって完全復活と相成ったわけだな」
空笑いばかりが虚しく響く。白々しい会話は、俺と香里の無口も手伝って場を重たくするだけだ。と、その空気に耐えられなくなった北川が、急に大声で喋り始めた。
「ああ畜生、折角の放課後なのに辛気臭い顔するなよな」そして俺の顔を強く見据えて一言。「大体な、ビンタ一発張られたくらいで何ウジウジしてるんだよ。元はと言えば、お前が大人気ないことしたからいけないんだろ。確かに反撃がビンタというのはやりすぎかもしれない。だが、先に手を出した方が謝るのが礼儀だろ。素直に謝っちまえよ、お前らがぎこちないとチーム全体の覇気にも関わるんだぞ」
俺の尊厳や人権など微塵も考えない、ぼろくそなけなし方だった。それに、北川の言い分は的外れもいいところだ。俺はビンタを張られたから拗ねて逃げ回っていたわけじゃない。自分の納得する答えが見つかるまで、態度を保留していただけだ。けど、ウジウジしているというのは当たっている。俺は、最低な人間であることを回避しようとして無様にウジウジとしているだけの弱い人間だ。俺は顔を上げて、香里の顔を見た。そこに潜む表情には、躊躇いとそして瞳の奥に映る悲しみがあった。俺が何も言わず、逃げていることを香里は嫌だと思っているのだろうか? そう考えると、今までの思いなんて関係なしに驚くほど素直に言葉が出た。
「そうだな。やっぱり先に手を出したのはこっちだから、俺の方から謝らないといけないよな。それに俺にとっては何でもないことでも、香里にとっては嫌なことだったのかもしれない。ビンタを張られても仕方がないことをしたのかも、いや、したんだろうな。香里が暴力に訴えるなんて、それはとてものことだろうから。だから……悪かった、香里」
そして、俺は唐突に理解した。香里が何故、あれだけの怒りを露わにしたのか。昨日の朝の屋上、香里は竜巻に自分を任せたあの行動を意味のないものだと言った。けど多分、香里にとっては他人に言えない重大な理由があったのだ。それが、俺の本当に意味のない行動で馬鹿にされたと思った。だから……そのことに気付き、俺は改めて他人の心を会せない自分が嫌になった。そして、こんな俺のことを香里は許してくれるだろうかと、不安げにその顔を見た。香里は俺から目線を逸らし、不機嫌そうに答えた。
「あ、ううん……私だってその、少しやり過ぎだったからお互い様よ。ただ……」
「ただ?」
俺は思わず尋ねていた。彼女が今、何を思っているのか知りたいと思ったから。しかし、香里は俺に目を合わせようとはしなかった。
「……少し大人気なかったかなって。こっちこそ、ごめんなさい」
「あ、うん……」もっと重大なことだと思ったから少し拍子抜けだったが、香里も俺のことを許してくれたようだった。それだけでも喜ばなければならない。「まあ、大人気なかったのは俺もだし。今度からは、悪戯も種類を選ぶようにするから」
それからわざとらしく微笑むと、照れ隠しか頭を二、三度掻いた。その言葉は、本心から来たものだ。何気ない冗談も、時として人を傷つけるということを知ったということを香里にだけは理解して欲しかった
「ご注文の品、イチゴサンデー四つです」
その時、ウエイトレスがイチゴサンデーを盆に乗せてやってきた。覚束ない手つきでそれらを置き終わると、注文はこれで以上かと質問してから空の盆を両腕で抱えてこの場を離れていった。
「まあ、こうして仲直りもできたことだし、これからは楽しく間食タイムと行こうじゃないか」
北川が取り成すように場をまとめる。先程までは憎たらしく思っていたのに、問題が解決してしまうとこいつの配慮に途端に感謝の気持ちが湧いてくる。我ながら現金だと思いながら、しかしそれも良いなと思った。
しかし、香里はそうではないようだった。俺が香里の方を向くと巧みに視線を逸らし、会話もどことなくぎこちなかった。時折、怒りにも似た表情をぶつけてくるに至って、まだ香里は俺のことを許してくれてないことを悟った。だが、それも仕方ないことかもしれない。香里の真剣を、俺は冗談の竹刀をもって返してしまったのだ。一日では許容し得ないほどの屈辱を感じたとしても不思議ではない。イチゴサンデーを食べている間も、俺はそのことばかりが気になって仕方がなかった。
香里を傷つけたという事実が、万力で握りつぶすように心を苛む。あの憂いを帯びた瞳を眺めるたびに、心が辛くてしょうがない。しかし、その思いを告白し得ぬことも、また消し去ることもできない。少なくとも、今はまだ。
百花屋を出ると、夕焼けの中を俺と北川は二人で歩いていた。
「今日は、ありがとうな」
胸に宿る思いを留めたまま、俺は北川に向けて素直に感謝の言葉を述べた。すると北川は、頬を掻いて恥ずかしげに言った。恐らく、照れて顔を染めているのだろうが黄昏は全ての赤を隠していた。
「気にするなって、俺だってその……下心ありだからさ」
下心……北川の科白に、背筋を軽い戦慄が走るのが分かる。
「香里だって、些細なことがきっかけで悩んでいるのは嫌だと思ったから。俺は、美坂にはいつも元気でいて欲しいから」
そんな、まさか。まさか……。
「まさか北川、お前、香里のことが……」
掠れる口から辛うじて漏れ出るその質問。北川は僅かに躊躇した後、大きく肯き返した。
「ああ。俺は美坂のことが……好きだ」
その言葉は、明らかな衝撃を俺に与えた。だが、それで良いのではないかとふと思った。少し頼りないけど、別に不似合いって訳じゃない。そうだ、俺はただ諦めてしまえば良い。ただ栞への思いを抱えて、今は生きてれば良い。北川の気持ちは、今の俺の状況に極めて好都合だ。そう、その筈なのだ。
「そうか……なら、俺も応援する」
それが今日、北川と交わした最後の言葉になった。俺は、一人になると思わず空を眺めた。一羽の烏が夕暮れ時の空を駆け抜けていく。それに従うように、何十羽という烏が遠方の山へと消えていく。彼らの全てには、七つの子が待っているのだろうか……柄にもなくそんなことを考えた。
そして、先程のやり取りを心の中に巡らせた。あいつなら、北川なら何も文句をいうことはない。俺はあいつを応援すれば、それだけで最低の人間というレッテルから解放される。難しく考えることはない、それが最善の方法なんだ。それに、香里は俺のことを嫌っている。無神経な俺のことを蔑んでいる。どうせ望みなどないのだ。
けど、それでも……俺の心の奥底からの問い掛けは止むことはない。何度も何度も、こう問い続ける。
本当に、それで良いのか? と。