二月十二日 金曜日

第十場 台所

 どうして、私のことそんな目で見ていたのかな?

 商店街で買って来た道具をキッチンに並べる。無骨な形の固形チョコレートがいくつも入った袋、チョコレートを流し込む金型にメッセージ用のホワイトチョコレート。手作りチョコレートなんて一度も作ったことないですけど、明後日はヴァレンタイン・デイだしやっぱり大好きな人には手作りのものをあげたいから。今日は心を込めて、一生懸命作ろうって心に決める。

 玄関に祐一さんと名雪さんがいたけど、今日は帰ってもらうことにした。だって、当日までチョコレートを作ってるのは内緒にしたいですから。まあ、ヴァレンタイン・デイは有名ですから祐一さんも分かってて何も言わなかったのかもしれません。

 それにしても、玄関ではどうして私のことをそんな目で見ていたのかな? 何だか私のこと、恐いものでも見るみたいに……それに私のことをお姉ちゃんの名前で呼ぶし、何だか変。もしかしたら、二人して私のことからかったのかな。だったら、ちょっと酷いな。お母さんはお母さんで疲れた様子だし、やっぱり私のことを変な目で見てる。少し休んだら良いのにって言ったら、大きく何度も首を振って大丈夫だからと連呼してた。そう言うけど、私はやっぱりおかしいと思った。私のことをちゃんと呼んでくれるのは、お父さんだけ。お父さんは「栞、帰ってきたんだな」と体を強く抱きしめながら言ってくれた。きっと、私が病院から帰って来てくれて嬉しいんでしょう。

 けどその夜、お父さんとお母さんは大喧嘩しました。私は二階から漏れてくる声を聞いていたから、全ては聞き取れなかったけど。

「だから言ってるだろ、栞が帰ってきたんだよ。香里の……」

「……なことある訳ないでしょ! こんなの変よ、絶対に変よ。それにあの娘はもう、この世にいないの。見たでしょ、薄灰色の骨の欠片になったあの娘の姿を……もう、いないのよ」

「でも、あの立ち振る舞いや仕草は栞だろ! きっと、寂しがってる家族を見かねて……」

「私は信じないわよ、香里が……ったなんて。香里、少し前からずっと変だった。妙に明るく振る舞って、必至で場を盛り上げようとして。あの娘、良い子だから私たちのことを必至で慰めようとしてたのよ。それなのにあなたったら何? そんな香里のことを慰めようとしないで仕事仕事仕事! きっと、そのせいで香里はおかしくなっちゃったのよ」

「だったらお前は……たのに、平気な顔して生活しているじゃないか! 寂しくないのか、まだたったの十日しか経ってないんだぞ。こっちは毎日毎日、胸が張り裂けそうでしょうがないんだ。仕事で気を紛らわせてなきゃ、頭が狂ってしまいそうだ」

「平気な訳ないでしょ。でも、私だって家事やら何やらでやることは沢山あるの。平気な顔してなければ、一日中この家で平然とした顔なんてしてられないわよっ! あなたはまだ良いじゃない、逃げる場所があるんだからっ! 私にはないのよ、そんな場所! 寂しいのよ……私だって……ずっと可愛がって、手間がかかって、けど太陽のような微笑と活力を与えてくれたあの娘がいなくなって。辛い時だってあったけど、いつも逆に助けられてた気がする。でも、悲しいなんていつまでもは言ってられないの。母が死んだ時も、祖父が死んだ時も私は沢山泣いたわ、気力を根こそぎ無くして数日は何もする気が起きなかった。でも、いつかは立ち止まるのをやめにしないといけない時が来るの……悲しんで何もしない時間は終わりにしなきゃならないのよ。歩き出さなくちゃいけないの。残酷な言い方かもしれないけど、私たちは生きてるんだから」

 何か分からないけど、母はその鬱憤を全て父にぶつけたようだった。すると、喧嘩腰だった父の調子が途端に穏やかになった。

「……すまん、悪かった。そうだな……確かに私は子供だ、大人の顔して何も出来てない……悲しい筈の妻や娘を慰めることすらできないんだから」

 それからは、大声を荒げての論戦は鳴りを潜めました。だから、その後の会話は途切れ途切れにしか聞こえません。ただ、病院がとか明日はどうするのとか、入院はという言葉がおぼろげに聞こえてきただけです。私は元気だから、もう病院に行く必要はないのに……そんなことを考えながら眠りにつきました。

 次の日は、少し体がだるかったのとお母さんが休みなさいと何度もしつこく言うものだから仕方なく休みました。本当は祐一さんと、また一緒に昼食を食べたり遊んだりしたかったんですが。でも、明日会えるから良いと考えて、再びチョコレート作りに心を傾けます。まず、ジェラルミンの鍋に水をたっぷり張って火にかけて、湯煎用のお湯を沸かしましょう。それからチョコレートを包丁で細かく刻んでいきます。普段の食材よりも固く刻み難い感じはしましたが、五分もすると袋に入っていたチョコレートは皆、まばらな大きさで微塵に切り分けられました。ボウルにそれを放り込み、同時期に湧いてきた湯に浸けてしゃもじでゆっくりとかき混ぜていきます。最初は撹拌に手間取りましたが、段々とチョコレートが溶けてきたのか抵抗が少なくなってきました。

 完全に液状化すると、いくつも用意した金型に溶けたチョコレートを注ぎます。ハート型、星型、犬や猫などの動物の形をした金型など十個近くあるそれに、一つずつ丁寧に……そして愛情を込めて。

余ってしまった液体チョコレートは、興味があったので一舐め……けど、あまり甘くないとチョコレートという感じがしません。祐一さんは甘いものがあまり好きではないので、甘味を抑えたビター・チョコレートのブロックを買ってきたんですが、チョコレートならそれでも甘いと思ったのが間違いでした。残ったチョコレートには、砂糖をたっぷり加えてもう一度よく掻き混ぜ、それからボウルごと、金型と一緒に冷凍庫へと放り込みました。ボウルのチョコレートの方は、ヴァレンタインが終わった後に、私が食べる予定。ひんやり冷えたチョコレートって、アイスクリームとはまた違う甘さと美味しさがあってやっぱり好物だから。

チョコレートが固まるまでやることがなくなったので、洗い物を片付けてテレビを見ます。この時間は、私の好きなドラマの再放送をやっているので……終わった頃にはチョコレートも固まってる筈です。再放送のドラマって、結末が決まっているから安心して見られます。辛い結末なら見なければ良い、逆にハッピィ・エンドならその過程がどんなに苛烈でも恐くありません。最後には、幸せを得られるって……分かってるから。

 テレビを見ていると、途中にお母さんが一度だけ覗きに来ました。

「何を作って……そっか、明後日はヴァレンタイン・デイだったわよね」私と目線を合わせずに呟くお母さん。「じゃあ……火の元だけには気を付けるのよ……おり」

 そのまま早足で駆け出していき、そしてバタンと大きくドアが閉まった音がします。やっぱりお母さん、少し元気がないな……もう少ししたら、様子を見に行こうかな。

 ドラマの方は、いよいよクライマックス。好きな男性が、他の女性とキスを交わしているところを見て主役の女性が逃げ出すシーン……以前も見たけど、やっぱりどきどきします。大量の雨に降られ、傘の中の狭いスペースを共有する二人。唐突に奪われる唇と、切ない言葉。「好きよ……」涙を流しながら、強く胸に顔を埋めた。「本当に、大好き……」

そしてもう一度、愛の言葉をぶつける。狼狽する男性の前に現れる意中の女性……彼女は逃げる逃げる逃げる、目から流れているのは果たして、雨か涙か……。

 涙だ、と私は思った。私も今、泣いてるから。

 微かに流れた涙をティッシュ・ペーパで拭うと再び台所に向かいました。チョコレートは完全に固まっていたので、次はホワイトチョコレートで文字や絵を入れます。普通のチョコと同じように湯煎したホワイトチョコレートを少し冷まし、クリーム搾り器に入れて手作りチョコレートというキャンバスを雪のような白で埋めていきました。そして、最後のハート型チョコレート。月並みだけど、やっぱりこれだけは別だと思うから……残り少ないホワイトチョコにこう書いた。

『私の愛する祐一さんへ』……出来上がった時は少し恥ずかしかったですけど、きっと喜んでくれますよね。勿論、お父さんにもあげるつもり。出来上がったチョコは、今度は冷蔵庫に入れました。冷凍庫に入れっぱなしだとチョコレートが固くなって、噛み砕くのに一苦労だから。それはそれで美味しいけど、食べるのに苦労するチョコレートってきっとヴァレンタインには似合いません。

 準備が終わると、私はお母さんの部屋に行きました。

「お母さん、調子はどうなの?」

 すると枕に顔を埋めていた母は、無理に浮かべていると分かる笑顔でこちらを向きます。

「……おり?」語頭を喉を鳴らして掻き消すようにして言い、それからお母さんは如才なく辺りを見回した。「え、ええ……ちょっと調子が悪いみたい、風邪でも引いたのかしらね」

「風邪引いたの? それで、大丈夫なの?」

「大丈夫……軽い風邪だから寝てたら治るから」

「じゃあ、夕食は私が作ろうか?」私が訊くと、母は首を振った。

「ううん……良いわ、そこまで辛くないから。それより……おり、昨日はお風呂に入ってないんでしょ、見たら汗一杯かいてるみたいだし、先に入ってきたら? 湯はもう沸かしてあるから」

 お母さんは力なく立ち上がると、少し覚束ない足取りで台所へ向かった。その姿がやっぱり心配だったけど「伊達に年は取ってないんだから、健康の管理くらい自分でできるわ」と強めに言われて、引き下がるしかありませんでした。それに、汗ばんだ肌は少し不快でしたし、お風呂に入りたいとは思ってました。

 部屋に戻るとバスタオルに下着を抱え、洗面所に向かいます……と、何故かそこで足が止まりました。恐い筈など微塵もないのに、ここで足が竦んで動かなくなる……昨日もそうでした。

「おかしいな」その不可解な疑問は、口に出すことでますます深まりました。私はこの洗面所の何を恐れているというのでしょうか?「お風呂も洗濯機も、綺麗になるから好きなのに」

 体が震える……全身が何者かの侵入を拒むかのように固く体と心を閉ざそうとしてる、不思議な感覚。でも、二日もお風呂に入らなかったら流石に汚いですし、祐一さんだって私のこと嫌いになっちゃうかもしれません。それは嫌です、だから、タオルを強く抱きしめて一歩を踏み出す……そこに恐いものなんて何もない筈。

 既に湯が沸いているためか、中に入った途端に湿度が大きく跳ね上がったのを感じます。洗濯機の籠には、ネットが一つだけぽつりと佇んでいた。洗面台には四つの歯ブラシが綺麗に並んでいる……その上方にあるのは鏡。でも、そこに映っているのは……私じゃなかった……お姉ちゃんだ。私は思わず、声を荒げて叫んでいた。

「お姉ちゃん、後ろにいるの?」

 反応はない……恐い、何で私はお姉ちゃんの顔をしてるの?

「答えてよ、ねえ……ねえっ!」

 どうしたの? 何で答えてくれないの? 酷い、お姉ちゃんまた私のことを苛めてるんだ。無視するだけじゃ、足りなくて私の存在すら否定しようとしてるっ。酷いよ、お姉ちゃん……。

「嫌い、お姉ちゃんなんて、嫌いっ」

 お姉ちゃんをなじる度に、心の中の何かが満たされていくような気がする。罵れ、もっと罵れ……私の口はなおも動く。

「あんな酷いこと言ってっ、あんなに冷たいこと言ってどうしてそんなに平然としてるの? 消えて、どっか行ってよ、この家にはお姉ちゃんなんていらないの。大っ嫌い、大っ嫌いっ!」

 ああ、気持ち良い……お姉ちゃんを侮蔑して、否定してやることがこんなに楽しいことだなんて思わなかった。頭がくらくらしそう、楽しくて思わず笑顔が出ちゃう……お姉ちゃん、何で笑うのっ!

「最初からこの家に、お姉ちゃんなんていらないの。最初から、私とお母さんとお父さんだけいれば良かった。私がこんなに苦しんでるのに、何でお姉ちゃんだけ平然と元気でいるの?」もっと言ってやる、今日こそは全ての憎しみをお姉ちゃんにぶちまけてやる。「お姉ちゃんが死ねば……死んじゃえば良かったのに。ねえ、私の代わりに死んで、ねえ、死んでよ」

 そして、拳を握り締めた私は……鏡を殴りつけた。

「死ねっ、死んじゃえ!」鏡はひび割れ、そして砕け散り、拳に激痛が走る。けど、私はやめない。私の苦しみを、思う存分知らしめてやるから。お姉ちゃんがいなければ皆、幸せだってこと、叩き込んでやるんだから。「いつも張り付いたような偽りの笑顔しか浮かべてないくせに、自分が一番私のこと分かってるって顔しないでよ。愛する気なんてないくせに、愛してるって嘘つかないで」何度も何度も、拳は鏡を砕く……けど、お姉ちゃんの姿は消えない。「偽善者、人間の屑!」そして最後に一番大声で「この、人殺しっ!」

 砕けろ壊れろ、偽りのものなんて全部壊れてしまえば良い……醜い、汚いものは全てなくなってしまえば楽になれる。

「何やってるの、香里!」

 お母さんがお姉ちゃんを怒鳴る。ほら、やっぱり悪いのはお姉ちゃんなんだ。「ふふふふ……」良い気味、良い気味だよ、お姉ちゃん。それが嬉しくて、笑いが止まらない。「ふふ、あははっ……」私は落ちていた鏡の欠片を踏み躙った。そこに映っているお姉ちゃんを消すために……。「あはははっ、お姉ちゃんが消えちゃった!」

嬉しかった、あんなお姉ちゃんが……いや、お姉ちゃんなんて呼ぶことさえおこがましい気がする。あいつでいいや、あいつって呼んで今度から馬鹿にしてやるから。そう想像すると、また楽しい気分になった。

「香里、何てことを……」お母さんは泣いてる、どんな酷いことをしたのかな? おね……いや、あいつは。「どうして、こんなことをするのよ……」

 酷いね、お母さんのことあんなに泣かせてるよ……酷いね。

 私は血の滴る拳を見た……そんなに怪我は深くない。でも、床に散らばった鏡は片付けないといけない。そう思い、掃除機を取りにいく。

「香里っ、聞いてるの!」

 まだ怒られてる。反省するって言葉、知らないのかな。

「……折角、ヴァレンタインのこと考えて楽しみだったのに、台無し」私はささくれだった心を落ち着けようと、祐一さんの顔を思い浮かべた。そして、チョコレートを照れながら受け取る姿、そして触れるような軽いキスを越えて甘く深いキスを……。

 ドラマの場面に私と祐一さんを重ね合わせた、恥ずかしい想像を赤面しながら慌てて打ち消すと、掃除機を持って砕け切った鏡を全て吸い取った。お母さんは膝をぺたりとフローリングの床に付け、ただ泣き続けてた。全く、あいつなんていなくなっちゃえば良いのにね……。

「お母さん、元気出して……」

 何度も慰めの言葉をかけたけど、お母さんは泣くことを止めなかった。そして、また部屋に戻っていった。とても心配で、しばらくその場に立ち尽くしてたけど、やがて私にはどうしようもできないことだと理解できてきた。何だか、とてもやるせない感じ。

 仕方なく風呂に入り、久しぶりに早く帰ってきた父のために夕食を作った。お母さんは気分が悪いからと言うと、お父さんは心配そうな顔をしていた。料理を作っている間にお母さんの様子を見に行ったのか席を一度立ったが、戻ってくると険しい中にも深い悲しみを称えた表情を浮かべてた。あいつのことについて、何かと聞いたからだろう。包丁を握りしめながら、私は愚か者を殺すことが何故罪にならないのだろうと、歯痒い気持ちで一杯だった。

 食事が終わると、今日は早く眠ることにした。今日は嫌なことがあったけど、明日は楽しい日になると思うから。今日という日を、早く追い出してしまいたい。

 明日が今日よりも、幸せな日でありますように。

 私は、心からそう祈った。

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