二月十三日 土曜日

第十二場 香里の部屋

 布団に寝転がり、二枚の紙切れを見つめる。それには、自己嫌悪と偽りと消せ得ぬ思いとが凝縮されていた。家に帰ってきてから何度もついたであろう溜息が、今も何処かへと消えていく。制服を着替える気さえ、起きなかった。鞄を机の上に放り投げ、ベッドへ体を預ける。服が皺になると一瞬思ったが、そんなことは今の感情に比べれば瑣末事だと思い、すぐに切り捨てた。

 私はこれから、どうしたら良いのだろう。また、分からなくなった。今日の朝までは、栞の代わりになって生きていくことがずっと正しいのだと信じてきた。栞になりきり、そう振る舞うことで皆が幸せになると思ってきた。いや、演じているなんて気持ちは一つもなかったのだ……ただ、もっと生きたいと願っていた栞の気持ちを叶えることができたらって、そう思ったら口調も心理も完全なる同期を取って無意識のうちになりきることができた、ただそれだけのこと。そしてまた、私はそれに抗うことをしなかった。

 皆、喜んでくれると思っていた。無様で汚く、醜い私なんかより栞がこの世界にいた方が余程ましだと思ったから。私は深く心の底で、今この世界には栞がいることが正しいのだと信じ、肯定し続けてきた。それを否定するものは皆、壊れて良いとさえ思った。だから、無意識のうちに鏡を恐れていたのだろう……否がおうに映し出される認めたくない真実を。私は今まで別の意味で鏡を恐れていた。醜い自分を映し出してしまうのではないかという妄想に近い感情で。しかし、あの時は真実の顔を映し出すのを恐れていたのだ。そして事実、鏡がその名前の持つ本分に従った反応を見せたとき、私をここまで怯えさせ容赦なく真実を突きつける鏡を本当に憎いと思った。今すぐ叩き壊さなければいけないと思った……そして今もなお無様に香里という姿をしている自分を強く憎んだ。罵倒を浴びせ、死ねと何度も怒鳴りつけた。

 とても気持ち良かった。深く胸を刺すような感覚もあったけれど、それ以上に脳を痺れるような快感が満たした。けど、結局それは自慰行為とどんな違いがあるというのだろうか。私のことを散々憎んでいる栞を想像し、体も心もズタズタに切り裂き生き地獄のような苦しみを与えられると考えた時、鼓動が無性に早く鐘つのを感じた。無数の傷を舌で弄ばれ、鮮血に染まった唇を私の唇に押し付ける様さえ私は頭の中で思い浮かべた。頭が白く染まり、これが事実だったらどんなに素晴らしいと思ったことだろうか……。

 今思えば、ぞっとするような想像を愉悦に還元することができた私の頭は、きっと狂っていたのだろう。そして、栞のことを汚してしまった……分かってる、本当は分かってるのだ。栞はどんなに辛い目に合おうとも、人を憎んだり罵倒したりする言葉を発する人間じゃないって。でも、あのスケッチブックを見た時、それを知ったのだ。栞にも、何かを憎みたい時がある、壊してしまいたいという衝動に駆られることがあるということを。

 そして、絶望した。栞は誰にも暗い気持ちを打ち明けず、それでも笑顔で一人のまま死んでいったのではないか? 本当のことを全て打ち明けられる人間なんて本当は一人もいなくて、孤独だったのではないかって。それ以上に、私が全てを打ち明けるに値しない人間であると栞に思われていたかもしれないと考えると、悔しさで胸が裂けてしまいそうだった。その相手は相沢君では絶対にないだろう。栞は彼に、自分のことを普通の女の子として扱ってほしいと言った。だから、辛いことがあってもその恨みつらみを相沢君に打ち明ける訳にはいかなかった筈だ。

 しかし、私は栞の一番身近にいた。だから、打ち明けて欲しかった。辛いこと、悲しいこと、苦しいことを全部ぶちまけて、素直に縋りついて欲しかった。栞の抱えた痛みを――例え自己満足と言われようと――分け合いたかったのに……。それができないで、何が家族だろう、そう思ってもらえないで誰が実の姉として誇れるだろう。笑顔だけ浮かばせて、遠慮させて、苦しんでることに何も気付かずに、悔しくて、悲しくて……そんな自分が大嫌いだ。

 けど、私がとった行動は過ちだった。周りの人間だけを傷つけ、自分を傷つけているふりをして密かに私だけ快楽と自己満足を享受していた。栞が私を憎んでいると思うことで、記憶を改変することによって楽しようとした。現実に恨み言の一つも言って貰えなかった代償を、想像の世界でのみ果たそうとした。栞のためとか皆のためとか言いながら、実際には私にだけ都合の良い世界の構成、構築。私だけ良ければ、私だけ救われれば、苦痛から逃れられればとばかり考えていて、いつも誰かを傷つけてる。

 終わらない夜、終わりのない夜。光を見つけたかと何度も思ったのに、そこはまだ夜の続きで偽りの光に導かれて過ちを繰り返してばかり。でも、死ぬことも許されない、栞の代わりとなり栞であろうとしたことも許されない、なら私はどうやって生きていけばいいのだろう。何も考えずに無気力なまま……でも未だにのうのうと生きている私がそんな無駄な生を享受しているなんてますます許される筈がない。

「どうすれば良いの……」

 頬をうっすらと伝う涙に続いて漏れる声。誰かが、いつか私のことを救い出してくれるのだろうか、正しい道へと導いてくれるのだろうか。私の過ちを全て受け止め、それでも愛してくれる人が……本当にいるのだろうか。

 そう考えて、私の頭に浮かんで来たのは悲しそうな笑顔をたたえた一人の少年だった。相沢祐一、多分私の好きな人。そして……私は屋上での彼の言葉を思い出す、愛してるという言葉を。彼なら私を包んでくれるだろうか、許してくれるだろうか……そう考え、私は即座に首を振った。私は彼を拒絶したのだ、私に幸せになる権利がないという理由で。確かに、私には幸せになる権利などない。栞を差し置いて、しかも栞の好きな人と手を組んで一緒に歩いていくなんて決して認められてはならないことだ。それに、私は許されてはいけない、自分を許したりなどしてはならない。でも、罪人だからと何もせずに生きていくのはやはり無気力な堕落に満ちた生であるように思えてしょうがない。

 悲しいまでの堂々巡り、メビウスの輪を延々と辿り続けるような永遠に満ちた思考。進む道が一本ということは、ただそこに絶望しか待っていないということだ。私は結局、救われるもののなに一つない絶望の中で淡々と年を取り、朽ち果てていくしかないのだろうか。それ自体が愚かなことであることを知りながら。

 果てしなく冷めていく自分に涙も乾き果て、今はただ目を開けてうっすらと天井を眺めているのみ。脱力感のみが全身を支配し、緩慢なる眠りに身を委ねようかと考えていた時だった。遠慮がちなノックの音と共に「……おり、いるの」とか細い母の声が聞こえてきた。私の体に覚醒感が一気に蘇る。

 そう言えば、帰ってきてから母に一度も会ってなかったことを思い出し、慌ててドアを開けた。

「あ……お帰りなさい……気分は、どう?」

 ぎこちない言葉づかい、怯えた表情。こうして眺めていると、母は私が栞の代わりとなっていたことを決して喜んでいないことがよく分かる。それどころか、恐れ忌避しようとすらしている。全身から滲み出る戸惑い、しかし私は今までずっとそんなことにすら気付かずに滑稽な演技を続けてきたのだ。相沢君の言葉通りだった、私の振る舞いは人を傷つけることしかしなかった……。

「ごめんなさい……」そのことが急に居た堪れなくなり、私は思わず頭を下げた。「あんなことして、お母さんのこと悲しませて……」

 私の態度に、母はまごついた様子をみせた。しかし、次第にその意味を理解したのか今度は私の手を強く握り締めてきた。

「香里、なの?」私が大きく頷くと、瞳を潤ませますます強く手を握る母。「良かった香里、もう二度と戻らないかと思った……香里、香里……」

 握る手を離し、たまらず私の体を抱きしめる母。今日、こうやって抱きしめられるのは二回目だったが、今度はその温もりをちゃんと受け止めることができた。優しい声と匂いが耳と鼻に響き、暖かい心が満ちていくのが分かる。

「ごめんね香里、今まで栞のことばかりかまけていて香里のことを考えてこなかった。香里は強い娘だから、少しくらい放っておいても大丈夫なんだなって、甘えてた。でも……虫が良過ぎると思うかもしれないけど、私は香里のことも大事なの。そして、気遣ってやらなくちゃいけなかったのよね。この前、相沢さんと話したとき、ようやく気付いたの」

 相沢君の名前がでたことに、私は少し戸惑いを覚えた。もしかしたら、母が今こうやって私を抱きしめてくれているのは彼の力でもあるのだろうか?

「香里のこと、もっと大事にしなければならないって思った。悩んでることがあったら、一緒に分かち合わないといけないって、そう思ったの。ごめんね、香里が自分のことあそこまで嫌いになるくらい苦しんでることを一つも気付いてやれなかった。それどころか、栞がいた方が余程ましだと思わせてしまってた。確かに栞がいないのはとても悲しいわ、今だって夜になると泣き出したくなるくらい。でもね、香里がいなくなって欲しいわけじゃないの。香里には側にいて欲しいのよ。家族だから、言わなくても大丈夫だと思ってた……けど、言葉にしないものが伝わる筈ないものね」

 言葉にしないものが伝わる筈もない、母の言葉はそのまま私にも跳ね返ってきた。そうだ、私も沢山のことを言葉にせずに溜め込んできたのではないのだろうか。本当は言わなければならないことだったのに、言わないで後悔してきたことのどんなに多いことだろう。

「でも、これだけは本当に知っていて欲しいの。私は香里のことを好きだから……大切な娘だと思ってるから」

 母の言葉。言葉にして伝わる思い。母は私のことを好きでいてくれる……それがとても嬉しいことなんだということを私は思い出していた。かつてはその喜びを知っていた……けど、いつからか私を好きでいてくれる人なんていないと拗ねてしまっていたのかもしれない。愛してくれる人がいることの大切さを忘れていたのかもしれない。母に抱かれていると、その思いばかりが強くなる。

 それは、幸せなことだ。けど……心の境界条件はやはり幸せであることを拒もうとする。私を好きでいてくれる、愛していてくれる人に囲まれて過ごすことがどんなに心地よくても、それを享受してはいけないという思いがあることも事実だ。

 最初から、そのことは選択肢から除外していた。いや、除外されなければならなかった。だからこそ、私の思考は一本道をぐるぐると回っていたのだ。

 相沢君が何度も言うように私らしく、美坂香里という個人を大切にして幸せに生きていく道。素直に笑い、素直に生きることのできる自分を育むこと。何度も何度も否定してきたのに、その選択の魅力さがどんどん増していくのが分かる。そうしたいと願っている。

 私は本当に、そう生きて良いの? 誰かに聞きたい。誰に聞きたいと願っているの? 誰に……。

「お母さん……」私はその言葉を無意識に口に出していた。「私、ずっと栞の代わりにならなければならないと思ってた。そうしないと、お母さんやお父さんの悲しみが癒せないと思ってた。それに……」

 相沢君……という言葉を辛うじて飲み込んだ。その代わりにといっては何だが、私はその続きの言葉を紡いでいった。

「お母さんが私のこと、好きだって分かったから……嬉しい……」

 私のこと、好きだと言ってくれた母。みっともなく涙を流す私を、母は泣き止むまで抱きしめてくれた。

 母が躊躇いながら下に降りると、私は再びベッドに寝転がり二枚の紙切れを見た。遊園地のチケット……もしかしたら相沢君は、私のことをこれに誘う気だったのかもしれない。いや、都合よく財布に忍ばせておくことができるようなものではないから、きっとそうなのだろう。机の上には、相沢君の財布が転がっている。きっと、私が張り倒した時にポケットから転がり落ちてしまったのだ。相沢君が屋上から去って行って、しばらくしてから落ちているのに気付いた。相沢君、私を愛してると言ってくれた相沢君……それはとても嬉しいことなのに、私は自分の都合だけで拒絶してしまったような気がする。彼のことだから、いつか私よりもよっぽど相応しい女性が現れると思う。いや、今だっているのに……もう、壊れたものが元の形に戻る筈なんてないのに、

 でも、それでも伝えたい。今まで胸の中に潜めてきた自分の思いを、愛してるってこと、好きだってこと、綺麗なもの、汚いもの、醜いもの、全て相沢君に伝えたい。そして、それでも私は幸せに生きて良いのか……それを本当に聞きたい。

 私は何度か深呼吸した後、躊躇う自分の心を叱咤し、ようやく一階の電話のところまで辿り着いた。そして、名雪の家へとダイアルする。しかし、急に頭が真っ白になって一度は電話を切った。

 今更になって湧いてくる躊躇に、自分が嫌になる。けど、ここで臆してしまってはこれから一歩も前に進めないだろう。だから、今度は強く一つずつダイアルを押していく。そして響き渡るコール音と、それ以上の緊張感、圧迫感。三コールの後「もしもし」と尋ねてきたのは男の声。いきなりと思いながら、私はできるだけ冷静に話そうとしていた。

「あ、私……」それから数秒のブランクの後、自分の名前を告げる。「香里ですけど、相沢君はいますか?」

「相沢は俺だけど……っていうか、ここに男は俺しかいないって知ってるだろ」思ったより明るい、しかし自嘲的な響きのする口調。「で、何のようなんだ。別にフォローならいらない……」

「違うの!」フォローという言葉がでてきて、私は思わず大声でそれを遮る。今の会話の流れが続けば、きっと相沢君は電話をすぐに切ってしまっただろう。「あ、その……話し辛かったの学校では話せないことだから……あの、今日財布を落としたでしょ」

 違う、言いたいのはそんなことじゃない。

「ああ、じゃああの時に落としたのか……だったら、名雪に預けといてくれたら良いから。じゃあ、他に用事がないなら……」

「やめて、切らないで。私の話を聞いて……お願い」必至に途切れそうな絆を、電話線に立脚した脆弱な絆を留めようとする。「私、我侭だった。自分の都合だけ考えて、相沢君の気持ちを踏みにじって。相沢君はいつも、私に思ったことを話してくれるのに、私は誤魔化してばかりで……今日も……」

 支離滅裂な内容だということは分かっている。話してる私にだって、何を言いたいのか頭で全然整理できていない。

「だから、私のことも伝えたい。私がどう思っているのか聞いて欲しいの。迷惑だと思うかもしれないけど、けど相沢君には全部知って貰いたいのよ」

 それで、相沢君に嫌われても罵倒されてもと心の中で付け加える。

「あんなこと言った後で、虫が良いって分かってる。でも、私にも一度だけ機会が欲しいの。だから……明日、会って欲しい。嫌だっていうなら諦める、都合が悪いならいつまでも待つから」

 長い静寂が、胸を強く押し潰す。拒絶されたらどうしよう、そのことばかりが頭の中を駆け巡って離れない。けど、相沢君から返ってきたのは肯定の返事だった。

「分かった。香里が望むのなら……」それから、ゆっくりと尋ねてくる。「で、場所はどうするんだ?」

「場所は……」少し考えた後、私は例のチケットのことを思い起こした。「明日、相沢君が私を誘おうって思ってた場所。そこに午前十時に……じゃあ、今日はありがと、じゃあね」

 場所と時間だけ言って、私は電話を切った。これ以上話していると、頭がどうにかなってしまいそうだった。早鐘のように鳴り続ける胸を静めるため、私は部屋に戻って何度も深呼吸する。気恥ずかしさで部屋を何度も歩き回りながら、それでも確信に満ちた思いだけは強固だった。

 明日こそ、私の思いと生き方を決める最も重要な日の一つになるだろうと……そんな思いだ。

[PREV PAGE] [SS INDEX] [NEXT PAGE]