第三幕 愛とか欲望とか憎悪というものは……

Love is Love, Love is Desirable, Love is Destrucible

でも、愛とか憎悪とか欲望というものは……みんな同じものじゃないのだろうか? 三つが一つで一つが三つなんだ。ぼくはエリーを憎むことができなかったが、グレタは憎む。彼女を憎むことがぼくには楽しいのだ。ぼくは心の底から彼女のことを憎む。

二月十五日 月曜日

第一場 商店街

 一日の授業も終わり、俺は少し前に出た香里の後を追って教室を出た。否が応にも高鳴る鼓動を深呼吸と紙みたいな自制心で辛うじて抑えつけると、下駄箱で靴を履き替える。が、今まで平気でできた靴の紐結びがまるで自分のものでないように覚束ない。まるで両手が俺の理性を離れ、これからの時間に浮かれはしゃいでいるようだ。確かに、俺はこれ以上ないほど緊張しているし、誰かが胸を触ったら死ぬんじゃないかって驚かれるくらい激しく波打っているだろう。顔だって、誰かが指摘できるくらい紅潮している筈だ。香里が、俺のことを一緒に帰りたいという理由だけで待っている。その事実を思い返しただけでも笑えないくらいに愉快になっている自分を感じる。

 そう、満足に結べない紐の原因は間違いなく焦りだ。流石に二人で一緒に校門をくぐっているところを見られたら目立つから……香里が以前の出来事から得た教訓はもっともだったが、俺は一分一秒と待てそうになかった。香里は余裕そうな笑顔で俺に手を振って見せたのに、俺はそれだけでも心がざわめいてしょうがない。朝、出会ったときから何度心を奪われただろう。何気ない笑顔や、勉強に一生懸命打ち込んでる素顔や、小さな口に少しずつ昼御飯を詰めていくその可愛らしげな動作が――昨日までそれに気付かないのが不思議なくらいだった――なんて可愛いんだろうか。香里が、俺のことを好きでいてくれると……聡明で美人で、冷たく見えるけど心の中は暖かくて優しくて、そんな女性の心の大部分が俺で占められていることがまだ夢みたいに感じられる。

 昨日、夕焼けの観覧車の中で交わした告白と、お互いが砕けてしまうかもしれないくらいのきついきつい抱擁。そして、人間が息をしないと生きられない生物だということをこれほど悔しく思ったことのない、長く長くお互いを求め合うようなキスの連続。

その感触――香里の少し乾いて荒れた、しかし言い得がたいほど淡く形の良い唇の感触――を自分の唇で直に感じられたという胸を何度でも焦がし得るような狂おしい感覚。それが昨日と通算で何度目かの復活を遂げ、俺は思わず指で唇をなぞった。

 信じられない。まだ、やっぱりあれが夢じゃないかという考えが頭から消えない。昨日、観覧車から降りた俺と香里は微妙な表情のスタッフに見送られた。やはり見られたのだろう、だが俺にとってはもうそんなことどうでも良かった。誰に見られても構うものか、そんなことを思ってしまうくらい俺の心は隣を歩く香里に奪われていた。

頬を淡く綺麗に染め、夢見がちな表情をしている香里の肩を俺は強く抱き寄せた。香里は天使のような微笑を浮かべて、頭を俺の左肩に預けてきた。そんな香里が可愛くて、ただ可愛くて一時でも離したくなかった。通じた思いが幻でないことを確かめるために、俺たちはそうやって遊園地を出た。マスコットのオブジェクトを後にし、少し歩いた電柱柱の影で俺は足を止める。香里は不思議そうに首を傾げたが、やがてその意図を察したのかおずおずと目を瞑る。その姿に、胸の動悸が更に高まった。どうして俺は、この魅力を今まで見逃し続けてきたのだろう。

自分の馬鹿さを嘲笑いながら、俺は再び香里の唇に自分の唇を合わせた。数秒間かのキスの後、唇だけが離れる。抱きしめあった身体は、しかし一寸とも離れようとせずにただお互いだけを慈しんでいた。懇願するような香里の瞳は更なるキスを求め、全てを捧げたくなるような脆い思いに俺は応えた。触れ合うより少し深いキスを何度かすると、角度を変えて少し深めに唇を合わせる。

「んっ……」と、香里の唇から悩ましげな空気が漏れた。

この感触が快楽を増長する麻薬を飲み干すように、一歩ずつ脳を侵していくようだった。今までより強く、お互いを重ね合ったキスに得られる痺れるような快感。溢れてしまいそうなのにそれを全く知らない愛情の一撃がひっきりなしに胸を叩く。その余りの感覚に耐えられず唇を離すけれど、必死で息を整えている香里の様子を見ていると、もっともっと香里と一つに繋がっているという証明が欲しくて強引にまた唇を重ねた。

お互いの呼吸は全て、更に快感を深めるような艶かしい空気にしか変換されなかった。頭はがつんがつんと、これ以上の感情が雪崩れ込んだら心が壊れてしまうと警告している。あまりの愛しさと快楽すらも、しかしお互いを引き剥がすカンフル剤とはなり得ない。観覧車の時と同じく息が続く限界までキスを続け、そして心惜しげに繋がった部分を離して息を整える。

「相沢君……」香里は、魅力溢れた瞳を嬉しいことに俺から一つも逸らそうとせず呟いた。「相沢君とキスしてると、愛してるって気持ちが溢れてきて、変になってしまいそう……」

「俺も……」香里の整った鼻筋が本当に美しいなと思いながら、心の動揺を隠すことなく言葉として伝える。「香里とキスしてるって考えるだけで、他のことが何も考えられなくなる。香里が好きで、愛おしくて、頭がパンクしそうだ」

「嬉しい……」香里は少し間を置いて、俺の胸に顔を埋めてくる。それから何度も頬擦りをした。その感触がくすぐったくて、猫みたいな香里が可愛くて仕方なかった。「相沢君も私と同じくらい、私を愛してくれてる……嬉しい、嬉しいわ」

「そんなことだったら」俺は香里の頭を撫でながら、何も考えずにただ自分の考えだけを口にしていく。「いくらでも、香里が赤面してまともに俺の顔を見られないくらい、思ってる。愛してる、何度言っても足りないくらいだ。ああ、恥ずかしいこと言ってるんだろうな俺って。でも、香里に聞かれるんだったら全然構わない」

 香里は何も答えなかった。けど、従順そうに俺に頭を撫でられるがままにされているその姿を見てると言葉などなくてもその意志は何となく分かった。馬鹿みたいに、狂ってるみたいに寄り添っている俺と香里。でも、それを嘲笑う権利なんて誰にもないし、路上ではしたない真似をしてると思われても構わない。香里が、今の香里の感触を感じることが俺にとっては一番大事だった。

「行こうか」電柱の下の街灯が点いたのに気付き、俺はようやく抱きしめた腕を離さず促した。

「いや、まだこのままが良い」香里は首を振って駄々をこねる。

「でも、段々と寒くなるぞ」

「相沢君とこうしていたらずっと暖かいわ」

埒があかないと思ったが、そのうち俺も香里の意見に従っていた。「ああ、そうだな」

 ただお互いを抱きしめ、唇が冷たくなったなと思ったらお互いの唇でそれを温めあう……その連続。もう少し、もう一度……キスを重ねるたびにその決心は鈍くなっていく。ときには淡く、唇の表層だけを優しく触れ合わせる。胸には小さな針で刺したような痛みがひっきりなしに届き、痛みと共に離すのが嫌になっていった。そしてときには強く、お互いの唇を覆うような深いキス。ハンマーで殴られたような強烈な快感と、それ以上の何かがありながらそこに迫れない焦燥。キスをしている、それが十パーセントで、その対象が香里であるということが残りの九十パーセントだった。極論を言えば、キスは誰とだってできるがちっぽけな感情を最大限以上に引き出すようなキスのできる相手は香里以外にはいない。いや、香里以外には考えられない。たった一人の例外を除けば、それが真理の全てだった。

 もう、何回キスしたか覚えてない。覚えておくのも、野暮だと思った。その何度目かのキスを終えるとようやくお互いの身体が離れた。けど、肩に回された手だけは香里を包み込んでいた。

 駅までそうして歩き、流石に電車内では離れていたが、目的地に着いてから香里の家までは再び肩を寄せ合い密着して歩いていた。冷風が数多、俺を苛んでいるというのにちっとも寒くない。心も身体も温かくて、何もかもが幸せだった。

 だから、香里の家に着いたときこのまま別れてしまうのが悔しくて仕方なかった。まだ、全然足りなかった。香里の側で、その感覚を間近に感じていたかったのに。

「香里……」俺は改めて、香里を抱きしめる。「また明日、学校でな……それと今日は、凄く楽しかった」

「私もよ、相沢君」言葉を紡ぐだけで心溶けるような香里の言葉。その高く可愛らしく、少し抑え目の声でさえ気になってしょうがない。好きで好きで堪らない。俺にもどうしてここまで香里のことが想えるのか不思議でしょうがないけど、でも実際そうなってるのだから仕方がない。「とても楽しかったわ。そして本当に嬉しかった。相沢君が私のことをこんなにも好きでいてくれて、そして私がこんなにも相沢君のことが好きだって気付くことができて」

 そして、俺と香里は最後に決まりきっていたかのようにキスを交わし、そしてその日は別れた。香里は最後に、最後だけいつもの冷静そうな笑みを浮かべると最後に言った。

「これで丁度三十回目、ね」

 それが今日交わしたキスの総数だと、壊れた頭が気付くのには五分もかかった。途端に恥ずかしくなり、雪道を全力疾走で駆けていく俺。時計を見ると九時前、心配をかけたなと思いながらも家に戻ると秋子さんが台所でテーブルを枕にすやすやと眠っていた。その側にはラップにかかった夕食。

「何か、俺っていつも秋子さんを待たせてばかりのような気がするな……」そう言いながら秋子さんを背負う。彼女の身体は驚くほど軽く、そして華奢だった。この体躯のどこに、あそこまでのエネルギと笑顔が溢れているのだろうか……俺はそんなことを考えた。

「いつもいつも迷惑をかけてごめん、秋子さん」

 泥に浸かったような深い眠りの淵にいる秋子さんに向かって、俺はそんな言葉をかけた。それからラッピングされた食事を温め、胃にかき込んだ。居間に名雪はいないから、きっと既に眠ってしまったのだろう。そう判断して、俺は風呂に入ることにした。

 少し温めの湯船に浸かり、身体を解すと俺は他に何もせずベッドに横になる。はしゃいで疲れたのか、すぐに眠気が襲ってきた。香里との一日のことを、思い起こす余裕すらなかったのだ。

 昨日の出来事を思い出して、俺は思わず壁に頭を打ち付けたくなるほど恥ずかしくなった。冷静に考えてみれば、俺は何てことをしたのだろう。まず、観覧車のスタッフが見てるにも関わらず何度もキスを交わし、そして電柱柱の影になってるとはいえ、そこでも激しく抱き合い数え切れないほどのキスをした。あの感触が心地良過ぎたからこそ、俺は今それが夢だったのではないかと疑ってしまっている。実際、朝対面した時の香里の表情はいつもと殆ど変わらなかった。寧ろ、にこにこしながら抱きついてみせたのは隣にいた名雪の方だった。

「おはよっ、名雪……元気ないわね」

「うん……え、あ、ううん、そんなことないよ」

 名雪が少し落ち込んでるのを見て、香里はその顔を覗き込みながら笑顔のままで言葉をかけた。

「そう? やっぱり、大好きな名雪が元気がないと悲しいじゃない。困ったことがあったら、私にいつでも相談してくれて良いから」

 香里は名雪にずるずると引きずられるような――実際は二本の足はきちんと動いているのだが――ポーズで、密着したまま歩き始める。何だか、以前の香里では考えられない。いや転校してきてすぐの頃はそんなこともしてたから、これもまた香里の本性の一つなのかもしれない。何はともあれ、元気を取り戻せていることは俺の心を落ち着かせてくれた。が、次の言葉がそんな安心なんて吹き飛ばしてしまったのだ。

「あ、相沢君もおはよっ」

 まるで名雪のついでのような香里の挨拶。昨日、あんなに情熱的な言葉を交し合ったのに、外気に曝され凝固してしまったかのように冷たくドライな物言い。こっちは意識してしょうがないのに、香里は平然とした様子だった。昨日のことがまるでなかったかのような態度に、俺は引きつった笑顔で挨拶を返すことしかできなかった。

 学校に着くと、一足先に登校していた北川と顔を合わせた。途端に、ちょっとした罪悪感が湧いてくる。四日前には香里との仲を応援するなんて言っておいて、今俺は香里と付き合いだしているのだから。でも――心の中に弁解が入る――その時は、香里への思いさえ半信半疑だった。寧ろ、そんな思いは捨てるべきとさえ思っていたのだ。それがたったの数日で何という劇的な感情の変化、環境と関係の変化だろう。そこに、基本的には安穏としている俺の精神状況が対処しきれなかったのだ。かといって、自分のとった行動が裏切りであることに変わりはないけれど。

 でも、そんなことを考えてるのは俺だけかもしれない。すぐにでも謝ってしまうべきだったけど、腑に落ちない点が多過ぎて今日中には行動を起こせずにいた。ただ香里が昼休み、隙間をぬって一緒に帰ろうと囁いてくれたので、その帰り道にでも確かめてそれから次の行動を考えようと思っていただけだ。

 そう、靴紐を結べないくらいの焦りの中にはそんな思いも多分に含まれている。夢か現か……要は昨日のことがそれくらい、心に残る出来事であったからだろうけど、いつもならはっきりとした境界線があるそれらも今だけは区別すらつかない。香里はどんな顔をして、俺を迎えてくれるだろうか。何より、香里は俺を待ってくれているのだろうか? からかわれただけなのではないだろうか? ようやく靴紐を結び終えると、俺はダッシュで正門のところまで走っていった。

 辺りを見回すが、香里の姿はいない。不安に思い、きょろきょろと探していると後ろからぽんと肩が叩かれた。

「どうしたの? 私のこと探してた?」

 少し悪戯めいた笑みをたたえて現れたのは、勿論のこと香里だった。いや勿論というのは語弊で、予想しないところから出てきてびっくりというのが本音だ。

「あ、うん。まあ、姿が見えないから心配して」

 俺が慌ててそう言うと、香里はくすりと笑った。

「馬鹿ね、私が相沢君を置いてどこかに行くわけないじゃない」それから親しみのこもった声で繰り返した。

「本当、馬鹿なんだから……」

 二度も馬鹿と言われて憮然とした思いがあったのだが、香里は早足で歩き出してしまったので、俺は急いで追うしかなかった。何をそんなに急いでいるのだろうか?

「香里、今日はどこに行くんだ?」

対抗するように早足で歩き横に並ぶと、俺は香里に尋ねた。

「月並みだけど商店街巡りでもしたいと思ってる……でも、その前に……少し寄り道してかない?」

 その言葉と同時に、香里は細い路地裏へと身を翻した。何故、そんなところに行くのだろうと不審に思いながらついていくと刹那、全身を柔らかい感触が包み込んだ。

 改めて確かめるもなく、香里が俺に抱きついてきたということが分かった。いきなりの感触に戸惑う俺に、香里は切なげな声を漏らしながら更に抱く腕の力を強くする。

「ここなら、誰にも見られないから……」囁くその声には歓喜に震えそうなほどの甘えがたっぷりと含まれていて、俺はそれだけで頭が眩みそうだった。「ずっとこうしたかったの、今日学校で何度相沢君を抱きしめたいと思ったか分かってる? 実際に抱きしめようとして何度踏みとどまったのか分かってる?」

 分からなかった。あのポーカフェイスの裏に、今俺を抱きしめてるのと同じ感情が眠ってるなんて想像もできなかった。俺はまた、自分が夢の続きに迷い込んでしまったのかと疑ってしまった。目覚めてみると授業の真っ最中で、教師が睨んでいるようなそんな現実が待ち受けているのではないだろうか……という不安だ。

 でも、香里の言葉と肉感はとてもリアルに感じられる。昨日と同じ感触、そして爆発的に募る愛おしさ。

「それなのに相沢君ったら平気そうな顔してるから、私のことを本当に愛してくれてるのか心配になって……でも、口に出すと恥ずかしいから平気な振りをしてて」今まで俺が考えもしなかったこと、しかも浮かれて飛び上がってしまいそうなことを香里は臆面もなく口にする。「昨日のことが実は夢なんじゃないかって思うと恐くて堪らなくて……我慢できなくて相沢君の感触が知りたくて、本当はもう少し我慢するつもりだったけど耐え切れなくて……」

 言葉が積もるごとに増していく香里の手と、手持ち無沙汰になる俺の腕。あまりに驚きすぎて、そして緊張しきってしまって心と体が別々に動いているようだった。こんな可愛らしいことをされたら、何をしてしまうか分からないっていうのに。

「こうやって、相沢君のことを憚ることなく抱きしめられるだけで凄く幸せ……どうしてこんなに好きになっちゃったんだろ」

 それは、俺だって同じことだ。もう、その一言が本日の限界許容値を簡単に崩壊させてくれた。曖昧だった体と心は一つになり、協力して香里を強く、強く抱きしめ返す。

「俺も、俺も抱きしめたかった」お互いの気持ちが通じ合っているのを良いことに、俺は香里に囁きかけた。「香里がすました顔をしてるから、昨日のことは全て夢か幻かと思ってしまいそうになってた」

 でも、もうそんなことは思わないで済んでいた。昨日のことが夢でないことを、香里は言葉以上のものをもって知らしめてくれたのだから。誰が、この現実を疑えようか。

「そう、だったの? ごめんね、だったら教室だからって気にすることなく抱きしめてしまえば良かった。愛してるって何度も言いながら、強く強く抱きしめてしまえば良かったのに」

「うっ、流石にそれは恥ずかしいかな?」冷やかされると分かっているので、それだけは絶対に避けたかった。けど、避けたいのはそんなシチュエーションだけで……。「でも、それ以外なら……こういう場所ならいくらでも抱きしめて良いから。いくらでも、キスして良いから。香里が望むならいくらでも応えてやる、香里が俺のことを求めてくれるんならこんな嬉しいことはないから」

「私も……」俺の言葉を受けて、香里がすぐ側まで顔を近づけながら言葉を返す。「相沢君が望むのなら、どんなに強く抱きしめても良いから。どんなに深くキスしても良いから。私が欲しいのなら、全部あげるから。私を殺したいって思ったなら、殺しても良いのよ」

 段々とお互いの言葉が情熱的になって来る。香里を殺すなんてそれこそ死んでも考えられないけど、キスや抱擁なら今すぐにでも思い浮かべることができる。今も熱烈にそれを求めている。その証拠に、俺と香里はゆっくりと顔を近付けあっていた。それは自覚と無自覚の狭間で、淡い口づけへと変わっていく。触れるだけで、すぐにそっと離すような初々しいキス。けど、それ故にお互いの感覚が明敏に感じられた。また、愛情のスイッチを入れるにはそれで充分過ぎるほどだった。途端に無言になった世界は、唇を合わせ離し、或いは溜息めいた息の音を漏らす以外の音を必要としなくなっていく。

 それしか知らないかのようにキスを、何度も執拗に、まるで鳥の餌をひっきりなしと啄ばむように互いの唇を味わっていく。ぴりぴりと軽い電流の走っている状態が永続的に続き、孤独が最も遠い場所へとその身を隠していく。最後にとびきり長いキスをすると、お互いの顔を相手の肩において息を整えた。等間隔でかかる香里の息が、それがかかる部分を通して震えるくらいの快感を与えてくるのが分かる。お願いだから、これ以上俺を狂わさないで……いや違う、もっと俺を、そう狂わせて欲しい。逃げる場所など何処にもないと、何処へ逃げたって香里の想いを感じられると思わせて欲しい。

 柔らかそうな耳朶が、すぐ目の前にある。舌を延ばせば確実に届くような、聴覚器官すら俺の興奮を呷る。唾でべとべとになるほど舐めてしまいたいという衝動を鬼のような自制心で抑えると、鋼のような精神力で香里と身体的な距離をおくことができた。

「じゃあ、そろそろ行きましょ。昨日のリベンジもしたいし、相沢君と一緒に商店街を歩きたいから、ねっ」

 香里はその腕を俺と絡ませ、ぴったりと身を寄せてきた。まるで磁石のS極とN極みたいに、離れようとしても引き合ってしまう。どちらがSかNかは関係なく、ただ俺も香里をいつでも身近に感じたいと思っていた。だから、絡めた腕を恥ずかしいと言うこともなくなく路地裏から表通りへと身を曝す。今初めて、俺と香里は恋人同士だと思うことができた。光に満ちたその場所を憚ることなく堂々と歩けることは、その先にある約束された幸せを確定しているかのようだった。

 商店街に着くと、俺と香里は真っ先にゲームセンタへと足を向けた。昨日のリベンジとはこのことだったのかと考えると、案外に子供っぽい様子の香里が微笑ましかった。

「どうしたの? 急に笑って」香里が不思議そうに首を傾げる。「何か、面白いゲームでもあったの?」

「いや、子供っぽくはしゃぐ香里が可愛いなと思ってさ」

「本当? その……子供っぽい私も、可愛いの?」冗談で言った筈なのに、香里はその言葉を真に受けて目を輝かせている。「はしゃぎ過ぎて落ち着きがないとか思ってない?」

 そんなわけなかった。澄ました顔の彼女も毅然として、魅入りそうになるほど綺麗だけど、こうして俺だけに見せてくれる今まで創造したことのない可愛さが嫌だなんて思うことが無理というものだ。俺はまるで親が子供にするように、何度か香里の頭を撫でた。

「いや、そうやって元気そうにはしゃぎ回ってる香里も良いと思うぞ、俺は。じゃあ、早速リベンジといくか」

 香里は「うんっ」と元気よく肯いた。それから昨日と同じパンチングゲームの筐体へと向かった。遊園地内のアトラクション施設より少し騒がしかったけど、俺の頭は既に筐体の奥のモニタへと釘付けになっていた。香里も同じようだ。コインを器用に放り込むと、早速昨日から続く格闘の第二ラウンドが始まった。

 結果から言えば、コンティニューを三度続けて第二面のボスを倒すのが精一杯だった。俺も香里も普段は運動をしていないので、数十分の運動だけでもう息が絶えてしまっていた。まあ、ひたすら夢中になってプレイし続けたということもあるだろうが。

「ああ、面白かった」

髪を翻し、額から緩く汗を流している香里。きらきらと光る水滴が頬を伝い、荒げた呼吸を共に吐くその様子に何とも言えない欲求が湧き上がる。が、それが何なのかを疲れた頭は覆い隠してくれた。ようやく不埒な想像を打ち消し、気まずさを隠すため率先して声をかける。

「おう、大分前のステージに進んだな。昨日よりは進めたんじゃないのか?」

「ええ、そうね。コンティニューを何回もしたってのが癪だけど」その辺りの物言いは、少しばかり負けず嫌いで頑固な香里らしい。「でもそうね、昨日に比べたら進歩したんだから喜ばなくちゃ」

 そんな言葉を素直に出すと、香里は次の瞬間には俺の手を取って動き始めていた。

「じゃあ、今度はCDショップにでも行かない?」

「えっ、でも他にもゲームは一杯あるし……もしかして香里、昨日のやつをやるだけのためにここに来たのか?」

「え、ええ。うん、相沢君がもっとゲームしたいって言うならいても良いけど……」香里は自分が正しいのか分からないといった調子で俺の顔を見上げた。「相沢君となら、どんなゲームでも楽しいって思えるから」

 流石にテトリスとかだとそうはいかないだろうが……愚にもつかない想像を打ち消すと俺は首を振った。

「いや、いいよ。ゲームセンタなんて、来ようと思えばまた来れるんだし。それよりも俺、香里の好きな曲を知りたいな」

 雰囲気的にはクラシックでも聴いてそうな感じだが、案外今風のアーティストの曲とか沢山聴いてるのかもしれない。

「そう……あまり有名じゃない人だから、相沢君は知らないかもしれないけど、そう言うのなら」

 香里は自分のことをまた一つ、俺に知って貰えることが嬉しくて堪らないという様子だった。騒音に塗れたゲームセンタを後にすると、今度は商店街一探し辛いという逆の意味で有名な一軒のCDショップへと足を運んだ。その探しにくさ故か店内は少し陰気で、看板からはそこが音楽の店かすらも判別できない。しかも少し細い路地に入り込んだ場所にあるので、全く初心者泣かせのスポットであるとしか言いようがない。この街の中には、商店街のCDショップを知らない人間が多いのではないだろうか。しかし、それでいて店内は厳然として結構な客で賑わっていた。最初は不思議だなと思っていたのだが、それは店内を見回すうちに納得できた。とにかくあまり広い敷地とは言えないが洋楽、邦楽と種類の方が驚くほど豊富だった。特に洋楽が充実していて、そういうのが好きな人間が好んで訪れているようだった。

 意外なことに、香里もその部類の人間であり、アメリカで現在人気のアーティストの曲を何枚か購入していた。曲は知らないけど、名前くらいは聞いたことがあった。

「香里って洋楽を聴くのか。そういや英語もぶっちぎりで一位だしな……もしかして聴いてる意味が分かったりするのか」

 少しの期待を抱いて尋ねてみたが、香里はあっさりと否定した。

「ううん、旋律は世界共通だけど何を喋ってるかは殆ど分からないわ。日本じゃ英語ができたって、リスニングができるわけじゃないから。私にとっては意味のない羅列よ、英語の曲ていうのは」

「じゃあ、どんなきっかけで聴くようになったんだ?」

 もしかして、どんなにか劇的な音との出会いがあったのかと思い、間髪入れずに次の質問をする。が、その期待も香里は悲しい表情と共に否定してみせた。

「別に。旋律が綺麗な曲っていうのは和洋変わらないから。私が洋楽を聴くのは、単に日本語の歌詞が聴いてるだけで辛いからよ。奇跡とか、永遠とか愛とか臆面もなく使う今の曲が……」

 ずきり、と胸が疼いた。そんな悲しい理由とは知らなかったのだ。

「あ、ごめん……やなこと訊いたか?」

 凄く不安になって……硝子のように脆い香里の心を傷つけてしまったかと思って心配にだったけど、香里は儚げな笑顔を浮かべそれでも明るく言ってみせた。

「ううん、最初はそんな理由だったけど今は楽しんで聴いてるから。他の人が知らない音楽の良さを知ってると、それだけで結構嬉しかったりするものよ」

「そっか……」そういうものなのかもしれない。「じゃ、俺にもお薦めの曲とか教えてくれよ。香里の好きな曲なら、俺も聴いてみたいしさ」

 そう言うと、香里は少し考え込むような仕草をする。それから俺の顔を覗き込みながら提案してみせた。

「それだったら、家に沢山あるから今日にでも貸してあげるわ。その代わり、ねえ……」それから、急に甘えた口調になる。「勿論、私を家まで送ってくれるわよね」

 それは、余りにも魅力的な選択肢だった。というか、別に香里に請われなくても最初からそうするつもりだったのだが。そのことはおくびにも出さず肯くと、香里は香里で嬉しそうな顔をして抱きついてくる。

「お、おい、店の中じゃまずいだろ」

「……そうよね。じゃあ、お店を出てから、ね」

 ずいと顔を近付け、ウインクしてみせる香里の仕草はまた小悪魔的で、俺は目も逸らせずどきどきするしかなかった。先程のようにして俺と香里はまた腕を組み、店の外に出る……刹那、香里の腕は俺の全身へと回された。というかまだ、入り口の前だ。

「あ、ちょっと、香里……」

「駄目よ、許さないから。離せなんて、嫌だから。外に出たら良いって言ったじゃない、それとも約束を破るの?」

 潤んだ瞳が、射抜くように俺のずるさを訴えている。というかその目は反則だ、何も反論できなくなるじゃないか。いや、反論する気力を奪われると言うべきか……まあどちらにしても最早抗う気など微塵もなくなっていた。

「はあ、仕方ないな……」そう言いながら、俺はまた香里の頭を撫で始めた。こうしてると、香里の艶やかな髪の毛の感触を楽しめるし、何より自分が限りなく優しくなれるように思える。「知らなかったよ、香里がこんなに甘えるタイプだったなんて」

「そう、みたいね。私も気付かなかったわ」香里は一瞬、毅然とした口調を見せたがすぐにとろけるようなそれへと転化していく。「でも、こうしたいって思うのは相沢君だからよ。相沢君じゃなかったら、誰彼ところ構わず抱きしめたいとか、甘えたいなんて思わないから。相沢君が好きで好きで堪らないからよ」

 男が言われたら、鼻を高くして増長しそうな言葉を何の躊躇いもなくかけてくる香里。それにしても、香里にここまで情熱的な一面があるなんて……昨日までは考えもしないことだった。それが俺のことを好きなせいだからとのぼせあがりそうになるのを必死に抑えて、代わりに強く抱きしめる。マシュマロのように柔らかく弾力のある女性の身体が、傲慢な思いを簡単に打ち砕いてくれた。俺だって、口にすれば香里のこと有頂天にさせるくらい完全に参ってるのだ。

「ん、俺も凄くどきどきしてる」そう言って、更に香里の耳朶を引き寄せるようにして抱きしめる力を強くする。「何枚も重ね着してるから聞こえ難いかもしれないけど……分かるか?」

「ええ、聞こえるわ」香里は耳を俺の胸にくっつけた。「凄く早く打ってる、眩暈がしそうなくらい鼓動が波立ってるのが分かる」

「香里を抱きしめてるから」柔らかい声で囁く。「柔らかくて愛らしくて気持ち良い、香里の身体を抱きしめてるからこんなにどきどきしてる。香里が可愛いから、もう耐えられないくらい綺麗だから」

 お互いに甘過ぎる言葉を囁きあったあと、俺と香里はお互いを激しく見合わせた。

「ねえ、相沢君」香里が声をかける。

「ん、どうした?」俺が答えると香里は顔を赤らめながら言った。

「ここでキスして」

「馬鹿、人が見てるだろ」

「見られてたら、嫌?」少し考えた後、俺は首を振った。

「いや、嫌じゃない……」

 ゆっくりと、香里の唇が俺の唇を侵食していく。こんなにキスをしてれば飽きてしまいそうだが、この感触と気持ちには、飽きるとか嫌になるとかそういう類の単語が接続されることがない。微塵に切られて海の底に放り込まれている。きっと、この行為に口笛を吹かせはやしたてる人間がいなければ、俺と香里は何度でもキスを続けていただろう。

「ひゅー、すっげぇ」

「へえ、美男と美女でいいなあ……」

 周りからのひそひそ声に我を取り戻した俺と香里は、そこから逃げるようにして路地裏を抜け、手を繋いだままで商店街へと出た。流石に冷やかしをくらってまでキスを続けるようなことは恥ずかし過ぎてできない。今までの行動が恥ずかしくないかと言えば、それもそれで疑問なのだが。

「ほら、やっぱり人に見られたぞ」

「でも祐一、俺が求めたらどこでもキスしてやるって言ったのに、実際はそうしてくれないじゃない」

 香里が微かに頬を膨らませて、俺に抗議する。まあ、言ったことには言ったけど人前で堂々とキスするなんてやっぱり理性的に恥ずかしいとは思うのだ。

「でもな、流石に、んむっ……」

何事かを弁解しようとする前に、香里の唇が素早く俺の唇を塞ぐ。というか、ここは俺の記憶が確かならば商店街のど真ん中の筈なんだが……やばくないか?

「か、香里」唇を離すとすぐに、俺は重く息を漏らし、香里の身体を離した。「さっきより大勢の人が見てるぞ」

「そう? 私は全然構わないけど、相沢君が言うんだったら。じゃあ行きましょ、もっと人気のない場所に。そこで沢山、キスして貰うから、ね。恋人同士なんだからそれくらい当然でしょ」

 香里は俺の手を強引に取り動いていく。既に夕暮れが近付く空で、決して少なくない人間に話の種にされながら、俺と香里は商店街を歩いた。羞恥心と、香里の手の感触が俺の顔を赤く燃やし尽くさんばかりに染まり、香里は交互に俺と前とを見ながら隣を歩いていた。香里とキスをするのは構わないが、あんなことを言ってしまった後で弁解がましい気分でもあるが、やはりキスはムードのある場所で二人きりの方が良い。

 そんなことを考えながら、俺は香里の家までの道程を歩いていく。人通りがめっきり少なくなったところで、香里は俺に尋ねてきた。

「ねえ、こうやってたら私たち、恋人同士に見えるわよね?」

 かなり真剣な香里の表情。けど、俺は商店街でいきなりキスされたお返しで少しばかりからかってみた。

「さあな、もしかしたら仲の良い兄妹って思われてるかもしれないぞ」

 だが、その手の類の冗談は今日の香里には絶対に言ってはならないものだと改めて気付かされるのに時間はかからなかった。

「むー……じゃあ」香里は次の瞬間、腰の上辺りにがばっと抱きつき頭を俺の身体に預けてきた。「これだったら、絶対恋人同士に見えるわよね。こんなにぴったりくっついてるんだもの」

 突然のことで俺はよろけてコンクリート塀に身体をぶつけてしまった。運良く、壁にもたれたためか転ぶことがなかったのは幸いだった。

「あ、相沢君、大丈夫?」途端に香里が抱きしめた腕を離して慌てた様子で声をかけてきた。「いきなり寄りかかって来られたらびっくりするわよね、もしかして、重かった?」

 俺は即座に首を振った。俺がバランスを崩したのは狼狽したのと運動もしない脆弱な身体能力のせいだ。第一、腰に手を回してみたけどウエスト回りは凄く華奢で、それに反比例してボリュームのあるヒップが艶かしく見える。顔を見据えると、ずっと思い悩んでいたせいか初めて会ったときに比べるとやつれていた。肌も少し乾きがちだし、唇も荒れて乾いていた。きっと、あまりビタミンの摂取できる食材を口にしてないのだろう。その全てに潤いを与えたいけど、今の俺にできるのはただ乾いた唇に俺のそれを重ねて渇きを満たしてやることだけだった。そっと唇を離すと、俺は香里の頬を丁寧に撫でる。

「そんなことない、これ以痩せたら本当にぶっ倒れるかもしれないからな。それより、ちゃんと栄養と睡眠を取ってるのか? 肌も少し荒れてるし、唇も乾いて……綺麗な顔が台無しになるぞ」

 俺のキスと唾液で僅かに湿った唇。それがあまりに艶やかで香里のぽーっとした視線と共に、脳髄を砕くほどの感情が一気に溢れ出してその続きは更なるキスへと一直線に求められる。香里は愛おしそうにそれへ応じ、先程よりもたっぷりと湿らせた唇で俺はたっぷりと香里の唇を潤してあげた。端から端まで、舐めるようにして唇を動かし、漏れる吐息と共に唇を離す。

 香里は唇の外に僅かに漏れ出た唾液を指で掬うと、それを小さな赤い舌でぺろりと舐めた。それから、香里の両手と顔が俺の方に近付いてくるまで三秒もかからなかった。

「やっぱり優しいのね、相沢君って」香里はまたしても、俺のことを目を潤ませながら誉めてくれる。「私の身体を気にかけてくれて、今一番して欲しいことをしてくれて……ねえ、相沢君は私のこと綺麗って言ってくれるけど、相沢君だって人のこと言えないわ」

 香里は、更に顔を近づける。吐息が顔を擽るほどに届き、夢見心地な感覚は一層強まってきた。

「中性的で綺麗な顔立ちをしてるし……目つきはちょっと悪いけど鼻の筋なんか整っててとても格好良いのよ。肌だって女性のように滑らかだし、その唇だって……」

 そしてその唇が、今までのキスとは変わらないというのにひどく魅力的に思える。覆い被さる唇とそれに比例する快感の加速度は、今までで一番強かった。そのままの体勢でいることに耐え切れず、唇は合わせたままで角度を変えてキスを続ける。お互いの口から漏れ出した唾液が口元を急速に濡らし始め、ひっきりなしに音を立てている。それでも、何かが足りない……。

 そんなことを思いながら、ただ息を隙間から漏らしては唇を離さない。その呼吸は段々と荒々しくなり、もっと強い呼吸をと思って大きめに開けた口からはみ出した舌が偶然、同じタイミングで差し出された香里の舌へと僅かに触れた。途端、電気の走るような爆発的な快感が身体全体へと走り、そのあまりの感覚の強さに二人とも反射的に顔を離してしまう。

「あ、えっと……」祐一はお互いの舌が触れ合ったことによる気まずさと、その快感をもっと求めたいという欲求に板挟まれ、しどろもどろと声を出すことしかできなかった。「その、ごめん香里」

「う、うん」香里も先程の感触に驚いたのか、戸惑いの表情を浮かべている。「でも、その、変な感じ、しなかった?」

 変な感じとは何だろう。もしかして、香里の舌の感触がどうだったかと訊いてるのだろうか。

「いや、変じゃなかった。何か、変というかその、無茶苦茶気持ち良かった。一瞬だけだったのに、快感が全身を駆け抜けるみたいで……まるで電気が走ったようだった」

「そ、そう……」

ちょっと露骨に言い過ぎたのか、香里は少し顔を赤らめる。でも、今まで香里だってそうだったからこれでおあいこだろう。

「でも、相沢君……あれってその、実際にはならなかったけど、ディープキスなのよね」

 その言葉が、情けないことに俺の胸を更にハンマーで殴った。単純なキスシーンならともかく、ディープキスの場面はドラマでもそんなに見たことがない。だが、知識としては知っている。唇を深く合わせ、お互いの舌を絡めあうように貪るキスのやり方。前の学校で実際にやった友人曰く、無茶苦茶気持ち良いキス……らしい。確かに、それは本当のようだった。

「あ、うん。まあ、そういことになるな」開き直ったように言うと、俺は軽い気持ちを装って香里に尋ねてみた。「……してみるか?」

「……相沢君は、したいの?」

「……香里こそ、どうなんだよ?」

 そんな言葉をかけあった後、俺と香里は顔を見合わせる。少しして、ほぼ同時に肯いた。

「……したい」

「……私も」

 僅かに恥らう香里の姿が、決意を早めた。俺は素早く顔を寄せると、吸い寄せるようにして香里の唇を奪った。重ねると言うより、奪ったという言葉が適切な重ね方。それから、意を決して舌を香里の口の中へと進めようとする。けど、香里はまだ躊躇っているのか歯を固く閉じたままだった。俺は一度、二度と香里の歯を舌でノックする。すると、おずおず防壁が開かれる。その小さい隙間に舌を挿し込み、香里の舌を探り当てた。

 ざらりとした無数の味覚器官が、その時だけは快楽を最大限に引き出す装置であるかのように、触れた部分から恐ろしいまでの昂揚感が満ちてくる。やっぱり、その感覚が恐くて一瞬だけ唇は空気を挟んでその距離を置く。が、次の瞬間には快感とそれに乗じる思いが欲しくてより深く、そして今度は躊躇うことなく舌を絡めていく。そんなことを何度も繰り返していくうち、もう快感が恐いなどとは思わなくなってきた。ただもっと相手の唇と舌が欲しくて、どうすればもっともっと一つに絡め合わせることが、相手の感覚と愛情とを得ることが、自分の感覚と愛情とを伝えることができるかと無意識に考えながら、ただお互いを貪っていく作業に没頭するしかできなくなっていた。

「んっ……んむっ……」

ひっきりなしに漏れる香里の悩ましげな声も、恐らく同じように漏れている俺の悩ましげな声と混ざり合って興奮をどんどん高めていく。

「んっ……んっ……はぁ……んふぅ……んんっ!」

生存のために吐く息など最小限で、それすらも許さぬよう俺は離した唇を強引に押し付け、そして更なる荒々しさで舌を絡めあっていく。

「んっ……んんっ……ぅん……」

 もう、漏れる音なんて関係なくてただ舌のざらりと感触を激しくただ激しく感じあう。時間が経ってくるとただ舌を絡めあっているだけでなく、お互いの口内に押し入り受けては攻め、攻めては受けて、お互いの歯肉をなぞり合い、汚い部分を積極的に舐め合って綺麗にしていった。勿論、舌を舐めあい絡めあうことも忘れない。

「んっ……んくっ……んぅ……んんっ……んくっ」

何分……続けたなんて全然憶えてないけど、とにかくしばらくするとお互いの唾液が口の中に溜まり始めた。普通ならここで離してしまうのかもしれないが、俺にはそんな時間すら惜しかった。互いの唾液は二人分の口内の中でシェイカのように混ざり合い、そのカクテルはお互いが平等に飲み干していった。他人の唾液など普段なら汚いと思うものも、しかし積極的に嚥下していく。香里の一部を貪欲に取り込むようにして、更なる深いキスを求めていく。

香里の鳴らす喉の音が余りに扇情的で、俺は唾液を絶え間なく香里の口へと口移しでどんどん流し込んでいった。

「んくっ……んんっ……んむっ……んくっ……んふぅ」

俺の唾液を飲み干していく香里の様子に、脳なんて完全にスパークを起こしていた。もっと、もっとその音が聞きたかった。

 その音とは別に、唇と舌とは今までにないくらい激しくぴちゃぴちゃと鳴り続けていた。もしかしたら、蛞蝓が交尾するときにはこんな音を立てるのかもしれない。勿論、蛞蝓が交尾することなんてないから分からないだろう。だが今、頭を真っ白にしてしまうようなキスの嵐の中で絡み合う舌は蛞蝓とよく似ているように思えた。

 引っ切りなしに嚥下され、それでも溢れ出た唾液は顎からつうと首筋へ伝い、徐々に下着を湿らせていった。そうなってしても、俺には香里の唇を離すなんて思いは毛頭起こらない。強くかき抱かれていくお互いからまた、香里もそれを望んでいないことは明らかだった。香里が更に自分を求めてくれることにこの上ない悦びを感じる。最早限界と思われた舌の速度が、まだまだ激しく動くこともその感覚に拍車をかけた。

「んぐ……んっく……んっ……んんっ……」

お互いの唇はリップクリームを過剰に付け過ぎたかのように、ねっとりと潤っている。漏れる空気の音も唾液を嚥下する音も不規則で短周期、そして陰湿で過激なものへと変わりつつあった。それは、キスの気持ち良さにただひすら没頭している証拠だった。

「んくっ……んぐっ……んっ、んっ、んっ、んんっ……んむっ……んくっ……んんっ」

 一秒ごとに、自分が香里の感触にどんどん狂っていくのを肌身で感じる。普通のキスとは比べ物にならないほど吸着力が強く、そして離れられない。舌の先端を触れ合わせることでお互いの感覚と器官を高め、ぬちゃりと執拗に絡め合わせることで加速度的な快感へと進んでいく。それを何度も何度も、壊れてしまった機械のように繰り返す。シェイカはなおも激しく動き、唾液は絶えず嚥下され続け、或いは溢れさせどんどんと下着を濡らしていった。

 もう、いくら繰り返したか分からない、深い深い底なし沼のようなキスはどれくらい続いただろうか……やっとの思いで離れたお互いの唇はまるで蜘蛛の糸のようにつうと一本の糸を引いた。激しくミキシングされたその唾液は、その中央から徐々に垂れ下がり、十数秒の時間をかけてようやく水滴となって地面に落ちる。

 これがディープキスというものだろうか。崩れた理性の一角は、無意味にそんなことを考える。ドラマじゃ一分かそこらの出来事だけど、現実の恋人たちは皆、こんなに狂ったようなキスをしてるのだろうか? それとも俺と香里がただ狂っているだけなのだろうか。

「香里……」俺ははなおも息を整えながら、囁く。「俺もう、香里のことが欲しくて欲しくて堪らなかった。少しでも沢山、唇と舌を絡めてたいと思ってた」

「私もよ。もう、頭なんかすっかり変になっちゃって相沢君を求めることしかできなかった」

 交し合う言葉は多分に扇情的なのに、聞くのも語るのも全く気にならない。やがて呼吸と感情が落ち着いてくると、俺と香里は身を離した。それにすら、最大限の理性が必要だったのだが。そして、香里の家までの僅かな距離を歩いた。

「じゃあ……今日は帰るから」明日も、明後日も、その次の日もずっと会いたいと思いを込めて俺はそう言った。そしてその欲求も合わせて。「また……しような、さっきのやつ」

「ええ、相沢君が嫌と言っても許さないから」香里は素早く近付き、俺から唇を奪うとくるりと振り向いた。「じゃあ、また明日学校でね。来てくれないと……家まで押しかけるわよ」

 俺は呆然としながら、香里が家に入るのを見届けた。それから、ゆっくりと歩いて水瀬家への帰路につく。そうしないと、とても火照り興奮した身体を落ち着けることなどできそうになかった。

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