二月十八日 木曜日
第十六場 病院
香里の姿を見届けた後、俺は香里のいた病室に戻る。何も言われなかったが、両親や知り合いが尋ねてくるかもしれないからだ。もしかしたら、もう尋ねていて行き違いとなった可能性もある。だとしたらなおさら、病室を空にしておくことはできない。
無人の病室に入ると、足元の覚束ない来客者用の四脚椅子に腰掛ける。手持ち無沙汰が足にきて、無用な貧乏揺すりを始めた。滅多なことでは現れないが、今のような極度に落ち着かない状況に陥るとたまに出てしまう。そして容易に止められない。行儀は悪いが、誰も見ていないからと思う存分に音を立てた。秩序よく、かたかたと足が鳴る。
しばらくするとそれも疲れてきて、今度は立ち上がって部屋の中をうろうろする。とてもじゃないが、黙って待っているなんてできない。本当なら今すぐにでも名雪の病室に尋ねていきたいが、香里と約束した手前、それもできなかった。
時計を見ると既に一時少し過ぎ。良い加減、忍耐も限界のところにタイミングが良いのか悪いのか、香里の両親が入ってきた。
「あれ、君は相沢君じゃないか?」香里の父がフルーツの盛り合わせを抱え、疑問の声をあげる。「君もお見舞いに来てくれたのかい? って、香里? 香里がいないぞ、どうしたんだ? 相沢君、香里は何処に行ったか知らないか? 昼前に訊ねた時にはいたんだよっ」
香里の父の様子が目で分かるほど、狼狽の色で満たされていくのが分かる。その様子が伝染したのか、中くらいのボストンバッグを抱えた香里の母も辺りを見回し始めた。
「あら本当……ちょっと、香里はどこに行ったんですか? 隠してるとためになりませんよ」
二人して徐々に距離を詰めてくる。その真剣さにあてられ、俺は何とか説明するので精一杯だった。重病人に無理させたから怒られるかなと思ったが、案外に二人とも俺には寛容だった。
「そうなの、水瀬さんのお見舞いにねえ。いやね、その……香里があんなことになったでしょう? だから、また私や夫に隠れて危ないことをしようかと思って、そうしたらいてもたってもいられなくなって……でも、水瀬さんの所なら大丈夫ですね」
と、香里の母は正しく安堵のこもった息を漏らした。父親の方も、今まで微妙に見せていたぎこちなさの矛先を何とか収めている。だからこそ、あながち安堵できる状況になどにいないことを伝えることは憚られたし、香里は邪魔者を入れて欲しくないだろう。両親を騙すのは気が退けるが、こちらとしてはぎこちない笑顔で
「ええ、大丈夫ですから」
と胸を過剰にはって答えるしかなかった。
事態が一時収束したところで、ああそう言えばといった感じに香里の母親が口を挟んできた。
「ああ、そう言えば……」思った通りの出だしだった。「朝方、香里がでかけてしばらくたって、香里の知り合いっていう男の子が尋ねてきたんですけど、相沢さんは知りませんか? 何か色々と聞いていった後、名前も名乗らずに去っていったから気になって。ほら、最近ってそのストーカって言うのがいるでしょう? 爽やかそうな男性だったけど、やけに根掘り葉掘り聞いてくるし――聞き上手だったから思わず話してしまったけど――今思うと挙動も不審だったし。相沢さんのことも聞いてましたから……」
ストーカか……こんなことがあるのに、物騒だと俺は思った。出くわしたら、無言でぶん殴ってやりたいくらいだ。
「へえ……で、その男はどんなことを聞いてきたんですか?」
何気なく尋ねてみると、香里の母親は眉間に皺を寄せ思考を手繰り始めた。それから訥訥と特徴を語り始める。
「ええ、まあそれが少し変で……栞と香里と相沢さんの関係なんかをね、詳しく聞いてきたんですよ。まあ、その時は友人か何かだと思っていたから正直に答えたんだけど……そのことを聞いた途端、泡を食ったように黙り込んで、それからぺこりと一礼して――そういうところだけは礼儀正しかったわね――走って言ったんです。ね、今から考えると凄い変でしょう?」
確かに……何が目的か分からないだけに不気味さを覚える。
「それで……」俺は核心をつく質問を投げかける。「そいつの特長とか、雰囲気とか分かりますか?」
「さあねえ、私も余り知らないしずっと俯いてたから」少し考え込んでから、香里の母はぽんと手を叩いた。「さっきも言ったけど、基本的には爽やかそうな少年だったわ。制服は相沢さんの学校と同じで、笑うとちょっと猫っぽいところがあったわ。あ、それと前髪がアンテナのように二本、ぴんと立っているのが印象的だったけど」
最後の特徴で、俺には特徴の一致するある人物が思い浮かんだ。知り合いでそんな身体的特徴を持っている人間は北川潤という男子生徒以外にいない。と同時に、あいつが何で今更そんなことを聞いて回っているのか疑問に思った。しかし、考えてもぴたりと全てのピースが収まるような答えは出てこない。この場にいるのが何となく後ろめたく、落ち着かないこともあり、俺は一礼して香里の病室を後にした。最後に香里の父親が「本当に大丈夫か?」と尋ねてくる。俺は曖昧に肯き、胸に鋭い痛みが走るのを感じながら外に出た。そのまま、俺は病院内を歩き始める。
今まで冷静に見ることのなかった病院内だが、こうして見回してみると色々な人の姿をのぞむことができた。七十や八十過ぎの老人から壮年の男性、勢い余って骨折や事故を起こして入院している若者、それに年端もいかない子供もいる。空気はやや淀み、薬臭い感じは否めないが、それでも皆が様々な心情を抱いて病気や怪我と向き合っているのは分かった。
栞は……俺はふと考える。栞は長い期間、この病院に入退院を繰り返していた。そこで色々な症状、立場、年齢の人と触れ合い、話し合い、意気投合し、或いは悲しい別れも体験しただろう。その中には退院の可能性もあるし、死別という可能性もある。栞はどのようにして彼らと接したのだろう。心の底では羨望や不安を抱いていたのかもしれない。俺は栞の苦しみを少しでも和らげることができただろうか? 俺といて幸せだと思っただろうか? きっと、これから先、どんなに考えても答えは出ないだろう。それはきっと、心の中に灼きついた思い出やあの笑顔の中よりほんの僅かだけ見出せる種類のものに違いない。
内科、外科、産婦人科と、俺は色々な科の様子を見て回った。痛み止めが切れてうんうんと唸っている金髪の男性に向かい、大の大人がと女傑風の看護婦が必死に励ましている場面もあった。何か重い病に罹っているのだろうか? 寂しそうな視線を窓の外に向けながら、時折悪い咳をこほこほと漏らしている子供の姿も見た。今にも生まれると慌て、我を見失おうとしている若い夫婦を宥め、必死に分娩室に駆けて行くという一幕もあった。
時には生と笑いを生み、反面では死と悲しみを生んでいる。よくよく病院とは、特にこのような大病院は不思議なものだと俺は改めて思う。
病院を粗方回った後に、俺は一階のロビィに出た。外来の患者には悲愴感があまりみられない。もうすっかり常連なのか、老人のグループが薬の袋を持って談笑している。深い皺を更に際立たせ、ところどころ抜けた歯を惜しげもなく披露しながら、四方山話に花を咲かせていた。その姿に、俺は幼い頃亡くなった祖父の姿を思わず重ねていた。
祖父は、俺にとても優しかった。両親は祖父と離れて生活していたから、頻繁には会えなかったけど、祖父の家に行く度に美味しいものをご馳走してくれたし、お小遣いもくれた。そんな祖父が死んだのは、俺が五歳の頃……心筋梗塞だった。苦しまずに死んだのが唯一の救いだと母は話していたが、その時の俺には何のことか分からなかった。ただ、悲しいものだなってことだけを僅かに理解できた程度だ。何も知らず、よって何も傷つかなかった。だが、今となってはそのことを少し悔しく思える。祖父のことを懐かしくは思えるが、記憶に深く刻まれることはなかったからだ。
不意に熱い思いが込み上げ、俺は老人たちから目を背けると購買の方に向かった。入り口に差し掛かったとき、不意に建物の中をちらちらと覗いている人影を見た。俺と同じ制服を着たその人物は、間違いなく北川潤その人だ。あいつは、そのすぐ後ろに忍び寄り、事情を聞こうと息をまいている見回りの警官に全く気付いていない。俺はあの馬鹿と小声で呟きながら、外に出て丁度待ち合わせている風を装った。
「おう北川、待たせたな。じゃあ、さっさと中に入ろうぜ。外は寒いからな」
そう言うと、俺は北川の制服の袖を掴んでさっさとUターンする。北川は呆然としていたが、俺が颯爽と立ち去っていく警官を指差すと合点のいった表情をした。
「悪い、気をきかせちまったな」
北川が小さく頭を下げる。
「俺は身内から犯罪者を出したくなかっただけだよ」
澄ました顔でいうと、北川は「はは」と乾いた笑いを浮かべる。それから頬を二、三度掻き……今度は徐に頭を下げた。
「相沢、すまない」と、彼は率直に何の嘘もなく言ったように思えた。「昨日のは、本当に言い過ぎた。何も知らないのにあんなことを言ってお前のこと踏みにじった」
北川は頭をあげると、俺の目をじっと見つめる。その姿勢を見て、北川が学校を休んでか早引けしてまでそのことを言いに来たのだと悟った。俺はまた、もう一発ぶん殴られるのかと覚悟してたから、思わず肩から気が抜けてしまった。
「ああ……」俺は視線を中空にはわせながら答える。「だったら、もう良いよ。最初に裏切ったのは俺なんだしな。いくら、心っていうのはどうにもならないって弁解したとしても、結局その事実は変わりっこないから。俺のことはな、別に罵ったって構わない。でもな、香里や名雪を悪くは言わないで欲しいんだ。そう約束してくれるのなら、あの時の言葉は俺の心の中に留めておく」
「……ああ、あれは自分でも本当に情けないって思ってる。ちょっとばかり、俺より相沢の方が悪いなんて考えて、絶対に言ってはいけないことを言っちまった」
北川はぎゅっと拳を握り締める。放っておけば、自分で自分を殴りそうなくらいにその顔は怒りで歪んでいた。
「俺は、美坂が暗い翳を引きずってるってずっと分かってたのに……結局、臆病さから何も言えなかった。香里に近付くために、相沢のことを利用したんだ。水瀬さんと仲の良いお前と一緒にいれば、美坂とも一緒にいられるってな。それだけでさ、俺は馬鹿みたいに浮かれてた。本当、俺は完璧に馬鹿だった。美坂が妹のことで苦しんでることなんて微塵も考え付かなかったよ。相沢がその妹と、香里のことを励ましながら、強く歩んでいることなんて想像もつかなかった。大切なものを失って、苦しんでいる美坂を励まし、力づけて、必死に前に進もうとしてたんて全然っ、知らなかったんだ!」
北川はぎりと歯を食いしばり、そして一つ深呼吸することでようやく言葉を続けることができた。
「俺は本当に単純なことしか考えてなかった。美坂とあんなにも仲良く話せるんだから、もしかしたらどうにかなる仲にだってなれるんじゃないかって勝手に夢想してた。俺は何も知ろうとしなかった。だから、何も苦しまなかった。けど、苦しいときに側にもいず身勝手なことばかり考えている男を好きに女性なんていないのに。俺、そのことを全部、美坂の両親に聞いたんだ」
そうか、と俺は思わず手を打ちそうになる。今日、北川が香里の両親を尋ねたのは昨日の香里の言葉が本当かどうか確かめようとしていたからなんだと、今になって気付く。
「美坂の母親は、相沢の話をするだけでとても嬉しそうに顔を綻ばせてたよ。栞にあんなに良くしてもらって、香里のことも必死で元気付けてくれて、今時あんなに良い男の子はいないってべた褒めだった。要領が悪くて不器用で、それでもとても強い人間だって。彼と香里が好き合っているなら、本気で応援したいって。このことを聞いて、俺は叶わないなって思ったよ。どうやったら、そんなに優しくなれるんだって……正直、相沢のことが羨ましくてたまらなかった。そんな良い奴と友達になれるかもしれなかったのに、俺は自分で台無しにしちまった……」
北川の体がぐらりと揺れる。その体にはもう、一片の力も残ってないかのようだった。
「立ってても疲れるから、どっかにでも座ろうぜ」
俺がそう提案すると、北川は黙って肯いた。俺たちは売店前のソファに腰掛け、ゆっくりと口を開いた。
「俺は……まあ、そこまで誉められる人間じゃないって」くすぐったい鼻をゆっくり掻きながら、俺は言葉を紡いでいく。「俺だってさ、他のことは何も考えてなかったよ。ただ、香里が苦しんでるから何とかしてやりたいって、それだけ思って動いてた。決して、思いやりがあるわけじゃないから。何だかんだ言ったって、香里に結構ひどいことも言ったしな。香里もさ、俺なんか掴むなんて下手なばばを引いたなあって、今でも少し思ってるくらいだから」
あんなに可愛くて良い娘が俺のことを好いてくれるなんて、これから先、もう二度とないと思う。それも、傷口を無理矢理広げて強引に俺の居場所を作るような、そんな下手くそなやり方だった。愛想を尽かして嫌われなかったのが不思議なくらいの、想いの形。それでも、俺はいつのまにか香里のことが好きになっていた。
「それでも、何もできないよりはましだ」と、北川ははき捨てるように言って立ち上がった。「じゃあ、俺はもう帰るから。本当は水瀬さんの母親の――昨日の放課後、担任に聞いたんだけどな――ことも見舞いたかったけど、俺がいたら何かと迷惑だろ? だから、邪魔者は消える」
北川は俺が声をあげる前にすたすたと立ち去っていく。俺は慌てて後を追い、肩を引っつかんでその場に留めた。
「秋子さんのお見舞いなら、追い返す訳にはいかない。あの人、一人でも人が沢山いて賑やかなのが好きだからな。それに……北川はどうか分からないけど、俺はお前のことが嫌いじゃないから。そっちさえ良ければ、また馬鹿な話したり変なやり取りしたりとかさ、そういうこともしたいなって思ってる」
北川はしばしの沈黙の後、「そうか……」と一つ呟く。ぐっと顔を伏せ、何かに耐えているようだったので、俺はまた北川に酷いことを言ったのかと思った。が、次の言葉を聞いてそれは間違いだと分かった。
「それは、俺の方こそ頼みたいくらいだ……」北川は、それこそ似合わないくらい真剣な口調だった。「美坂の両親の話を聞いてからな、漠然と思ってたんだよ。もしもう一度チャンスがあれば、今度は相沢と打算なしの友人でいたいって。下らないことを言い合ってさ、素直に笑い合えるような、そんな友人にさ……なりたいって」
そう言って、北川は照れ臭そうにそっぽを向いた。元々、こいつはこんなことを言うキャラクタではない。ようやく気付いたことだけど、見かけよりは余程シャイなのだ、この男は。
俺は、何となく笑いたくなった。何故かは分からないが、でも時には誰だって意味もなく笑いたくなるときがある。俺にとっては、今が正にそうだった。あんなに無茶苦茶に殴り合って罵り合って、そんな最低の関係から友情が生まれるなんてとても変だと思う。なんか、ベタな熱血ドラマみたいだ、でき過ぎてる。でもまあ、そういうのは得てして、過去の思い出を話し合った時、ああ私にも、俺にもあったってそういう話になりそうな気がした。
だから、別に気にしなかった。俺は北川に傷を与えられたが、俺もそれ以上の傷を与えた。これで収支ゼロって言ってまた笑い合えるなら……ちょっとくらいの諍いなんて簡単に水に流せる。自分は簡単なのか複雑なのかよく分からない。
「じゃあ……和解ってことだな」
俺は素っ気無く言うと、北川の意見を聞かずに秋子さんの病室へと歩き始める。それに最初は不満そうだったが、やがて後を付いてくるようになった。
秋子さんの部屋に入ると、名雪や香里はまだいなかった。俺は看護婦に頼んで三脚の椅子を追加して貰った。俺と北川は、香里の病室の椅子より更にたてつけの悪い椅子に座る。
「秋子さん、今回は俺の悪友を連れてきたよ」
と、そっと囁く。返事は多分、戻ってこないと分かっていたけど、それでも話しかけずにはいられなかった。
「初めまして、俺、北川潤と言います」
北川は、俺に態度を合わせて自己紹介をし……包帯や管に絡まれたその姿を眺めてその衝撃の強さにか、思わず本音を漏らした。
「……痛々しいな」
俺は無言で肯いた。それから、俺と北川はずっと黙って秋子さんの様子を見つめ続ける。脳波や心音を示すデジタル音すら、鬱陶しいとは思わない。ただ、秋子さんが心配で、早く目覚めて欲しいと、そう願っていた。時は遅いようで早く、一時間や二時間などあっという間に過ぎていく。
丁度、西日も翳り始めた五時過ぎ、眠気と涙から目を真っ赤に腫らしている名雪と、その手をしっかりと握っている香里がやって来た。どうやら、香里の方は上手くいったらしい。
異邦の来訪者に、微かに眉を潜める香里だったが、北川が毅然と頭を下げたのを見て、これ以上の追求をやめたようだった。
入れ替わりに、名雪が俺に向けて「ごめんね……」と弱った動物みたいな目を向ける。俺は首を振り、ゆっくりと微笑んだ。何も言わなくても良い、謝る必要なんてないとの思いを込めて。それで名雪は、少しだけぎこちない笑顔を返した。確かに身体は弱っているけれど、あの全体を覆うような棘や狂気は感じられない。その様子に、俺は心底ほっとした。
会話も殆どないままに、俺たち四人は並んで秋子さんのベッドの前に腰掛ける。そう、ゆっくりとだけど壊れかけたものは修復されようとしている。後は秋子さんだけなんだと、心の中で呟きながら俺はただ祈った。
もうすぐ夜が来る。だが、誰もこの場を離れようとするものはなかった。ただ皆が、秋子さんの目覚めを待っていた。