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目覚まし時計が鳴るより早く目覚めた俺は、軽く伸びをしてそのまま名雪の部屋へと直行した。
苦労の末名雪を叩き起こし、やっとの思いで朝食を口にする。
それは秋子さんがいた頃とは比べ物にならないくらい質素で、毎朝変わり映えのしないメニューであったが、名雪があの調子だから無理もない。
「ジャムおいしい……」
夢現つといった表情のままの名雪が、もごもごと咀嚼しながら時折思い出したように呟く。
「祐一もジャムつけて食べればいいのに」
俺はその誘いを慎んで遠慮させてもらう。
名雪は秋子さんがいなくなってから、前にもましてよく眠るようになった。
平均すると一日あたり十八時間といったところか。
つまり起きている時間は6時間程しかないわけで、そのうちの少なからぬ時間はこうして忘我状態のままなのだから、まともに覚醒しているのは正味3時間強といったところだろう。
もはや猫以上、こうなるとナマケモノそのものではなかろうか。
前にこんな推測をしたことがある。
名雪がよく眠るのは、悲しい現実を封じこめてしまいたいがためではないかと。
現実を夢の世界に置き換えてしまうことで、弱く脆い心を外に晒すことを恐れ、檻の中にしまいこんでいるのではないかと。
だとすると俺と同じだ。
かつて月宮あゆという少女を、名雪への酷い仕打ちを、この街のもろもろの記憶を一つの匣の中に封じこめた俺と…。
がらんとした食卓には、俺と名雪の他にも二つの席が埋まっていた。
一つはけろぴーの席。
ベッドからこの食卓への行脚は毎朝恒例のものとなっている。
そしてもう一つはカエル柄のパジャマ。
主人を失ったパジャマは力無く椅子に凭れ掛かり、くすんだ色合いだけが声高に時間の移り変わりを歌い上げている。
それは何かに固執しているかのようにも取れて、俺の心をぎりぎりと締めつけた。
名雪はのろのろとした足取りで汚れた食器をキッチンへと運ぶ。
俺は耐え難い衝動に駆られるように、椅子からたつと名雪を背後から抱きしめた。
「…いたいよ……祐一…」
食器をあわや落としそうになりながらも何とかこらえた名雪が、言葉のうえでは非難してみせる。
俺は憐れなほどに動揺を隠そうともせずに顕わにしたまま、名雪を向き直らせて唇を奪っていた。
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「今日はあの人来てないんですか?」
人懐こいその看護婦は、今日も今日とて俺に対して柔和な笑みを綻ばせて俺に話しかけてくる。
俺は一瞬、意味を取りかねて少し狼狽したが、
「ええと、名雪のことですか…?」
とすぐに合点がいった。
それにしても、美汐の母然り、この看護婦…坂本春菜さんという名前なのだが…にしても、名雪と顔を合わせたのは五回にも充たないというのに、随分よく覚えているものである。
それだけ名雪が人目につく容貌の持ち主だということだろうが…。
「今日はつれてきてませんよ。あれで夜行性なんですから」
無論でまかせである。
「へえ? そうなんですか?
でも本当に綺麗な方ですよね…。
美汐ちゃんも綺麗だけど、名雪さんは何て言うか…うーん、言葉が思いつきませんね。
私憧れてしまいます」
幾分人より小振りの顔が華やいだように綻ぶ。
文句無しに可愛い部類に入る女性だが、童顔に加えて華奢で全体的にもボリューム不足を否めない体躯。
それがマッチしてはいるのだが、坂本さんにとってはそれが却ってコンプレックスなのだろう。
そんなことを考えていたせいか、無意識に視線がやましいものを含んだそれになっていたらしい。
坂本さんが頬を紅潮させて、
「そのぅ……そういう目で見られると……恥ずかしいんですけど…」
と弱弱しく抗議する。
身をよじるように照れる姿が何とも可愛らしいのだが、俺もその辺りでやめておいた。
「ところで……前から疑問に思っていたのですが…美汐ちゃんとは恋人同士…なんですか…?」
「いや、違います…。恋人は、名雪ですから」
「え……そうなんですか……?…」
そう言って坂本さんは少し落胆の色を見せる。
まさか俺に気があるわけ……ないよなあ…。
「でも驚きました。お二人が恋人同士だったなんて」
「そんなに意外でしたか?」
「いえ、まあ仲がいいな、とは思ってましたけど。お二人ってどことなく顔立ちが似ているから、相沢さんのお姉さんかと思っていたんです。水瀬というのは今の姓で」
これまで名雪と似ていると言われたことはなかったから、軽い驚きを隠せないでいた。
女の直感、という奴か…?
「驚いたな…鋭いですね。俺達親戚なんですよ。名雪が俺の母方の従姉妹なんです」
「…道理で…それで、もしかして結婚の予定とかあるんですか…?」
俺はつい吹き出しそうになって、寸でのところでこらえたものの、たまらず咽てしまう。
「結婚ですか…? 当分の間は考えていませんよ」
「そうなんですか? まあ確かに相沢さんは若いでしょうけれど…名雪さんは…その…待っていると思いますよ…?」
俺はきょとんとして、
「ハハハ。やだな坂本さん。名雪は俺と同い年ですよ」
「え!? そ、そうだったんですか?! すすす、すみませーん…」
坂本さんはコントロールを失ったように慌てふためいて、その仕種が可愛らしいので少し放っておく(笑)
「いいですよ。別に。名雪に言いつけたりしませんから」
「ぐしゅ…ホントですね…?」
「心配しなくてもいいですよ」
そう念を押して、
「結婚しない理由は、そういうことじゃないんですよ。
何と言ったらいいかな……出来ないというか…」
「出来ないって…」
怪訝そうな顔の坂本さんを目の当たりにして、俺は驚くくらいに自然な口調で、
「喪が、明けてないんですよ。そのせいです」
坂本さんが気まずいことを聞いてしまったという自責の念に襲われる前に、俺は名雪の話題へと移行する。
ここで全く別の話題を振ってしまうと、却って気を使わせてしまうだろうという判断からだった。
坂本さんは俺ののろけ話にも理想的な聴衆でいてくれたが、やがて時計を見て血相を変えて弾かれるように飛び出していった。
一人になって…正確には美汐と二人なのだが……俺は長嘆息を漏らし、窓に自分の姿を映しじっと黙視した。
自分でも驚いていた。
あんなにも嘘がすらすらと口をつくようになっていたとは。
虚偽に固められた会話、それが構築していく隣で、俺は冷静に半身を硬質化に委ねて呆けていただけだった。
緩く瞼を鎖して、
「これが大人になるってことかな」
とわざとらしく呟いてみる。
額にかかった髪がうっすらと潤いを帯びていて、俺は少しだけ安堵した。
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