後編

 

改めて自己紹介をすると、私と長森さんは旅館に入った。

女将は私の顔を見て驚いたようだが、長森さんが事情を説明してくれると、途端に顔を綻ばせた。

「ええ、勿論構いませんよ。私もこんな雨の中に、女性を一人放り出すなんてこと、したくありません」

何度か頷いて見せる女将さん。その様子を見た長森さんは、私にウインクを一つしてみせた。

その後、私は仲居の一人に案内され、長森さんの泊まっている部屋へと向かう。

和室だが、入口にはドアと鍵がきちんと付いている。畳は張り替えて日が新しいようで、井草独特の匂いが、微かに鼻をくすぐった。

部屋は八畳ほどの広さで、中央にはテーブルが置いてある。テーブルには茶飲みときゅうす、新型の電子ポットが置かれていた。

どうやらセルフ・サービスということらしい。

ともあれ、二人くらいなら楽に泊まれそうな広さだった。

「元々は二人用の部屋なんだけどね、ここしか無かったから仕方なく使ってるんだよ。私、この辺りのことは良く知らないし、ここの人は親切だから……」

長森さんはそう言うと、バッグを探り出した。それから彼女は、タオルを取り出す。

「それは?」

「ん? ちょっと汚れちゃったし、先にお風呂に入ろうと思って。水瀬さんも歩き回って汗とかかいたでしょう? 今なら空いてると思うけど」

「うーん……そうですね」

言われてみれば、結構汗でべとべとしたりしている。

「じゃあ、入りましょう」

こうして私と長森さんは、タオルを持って浴場へと向かう。

お風呂は桧の板張りの大浴場で、バスタブも桧製。

湯は僅かに黄色く濁り、水とは明らかに異なった臭いを発している。長森さんの話に寄れば、腰痛とか肩凝りに効果があるらしい。

まだ五時を過ぎたばかりのせいか、お客は私たちの他には誰もいなかった。

徐々に溢れ出してくるお湯。

湯船に手を付けてみる。普通のお風呂より、少し温度が高いようだ。

浴場備え付けのシャワーで体を洗うと、足を湯船から出したりひっこめたりして、ようやく全身を湯船に沈めることが出来た。

「ふーん、水瀬さんって熱いお湯が苦手なんだ」

少し遅れてやって来た長森さんは、臆することなく湯船に身を埋めて見せた。

「少しだけ」 私は素っ気無く答えた。

「では、話して頂きましょうか。水瀬さんの野暮用とやらを」

長森さんの期待の眼差し。

そんな目で見られたら……話さないわけにはいかなかった。

「ちょっと、その……喧嘩したんです、恋人と」

私の告白に、何故か長森さんは驚いた顔をしている。

「実は……今月が結婚予定日だったから。大学を出たら結婚しようって、約束して……四年も待ったのに。それなのに、今日になっていきなり結婚できないなんて……」

思い出すだけで、悲しくなってくる。

少し気まずい沈黙が、二人の間に流れた。

「あの、やっぱりこういうのってみっともないですよね」

私は少し恐縮しながら言った。

長森さんは、何も反応しない……声も出さない。

すると不意に。

ぽろりと。

彼女は涙を流した。

それが唐突で。

余りに唐突だったから。

私はどうしていいか分からなかった。

「ど、どうしたの、長森さん」

「ひっく、ううん……いや、びっくりしちゃって」

彼女は涙目になった顔を温泉の湯で洗い流す。

「実は、私も恋人と喧嘩しちゃったんだ」

「え、本当……なんですか?」

私は遠慮気味に尋ねた。

「子供っぽいかもしれないけど、どうしても許せなかったんだ……私というものがありながら、浮気したんだから。そうでしょう? 結婚しようって、そんなことを私に言っておきながら、別の人と付き合ってたんだもん」

長森さんはそう言うと、握った拳を湯船に叩き付けた。

その顔は……怒りに震えている。

けど、それは割れた風船のように萎むのも一気だった。

「あ、ごめんね……愚痴っぽいこと言っちゃって」

「いえ、いいですよ。私だって、似たようなものですし」

「うん……あっ、それより水瀬さんってさ、大学出て今年結婚するってことは、今二十二歳?」

長森さんは明るい口調で私に話しかけて来た。けど、それが偽りのものだってこともわかる。

「あっ、ええ……そうですね」

「ふーん、じゃあ私より一つ下かあ。結構落ち着いてるように見えるから、私と同い年か年上かと思ってたけど……」

「そう……余り意識はしてないですけど」

私は最初から、長森さんのことを年上だと思っていた。

だから、会った時から丁寧語で話している。

再び会話が途切れる。

その沈黙が気まずくて、私たちはずっと湯船の方に目を落としていた。

しばらく経って、ようやく長森さんが口を開いた。

「ねえ、水瀬さん」

「ん?」

「私もね、今月結婚する予定なんだよ……いや、だったって言う方が正しいかな?」

「えっ、そうなんですか?」

「ねえ、水瀬さん」

「ん?」

「六月の花嫁が幸せになれるなんて、誰が言ったんだろうね」

「……うん」

私は曖昧に頷いた。

「六月は憂鬱な花嫁の祭典……」

そしてぼそりと呟く。

「ふうん、水瀬さん、上手いこと言うんだね」

「そうですか?」

「うん……そうだね、憂鬱な花嫁たちか……」

その言葉の余韻に浸っていると、浴場の扉が音を立てて開く。

どうやら他の客が来たようだ。

「じゃあ、上がろうか?」

「うんっ」

二人は一斉に立ち上がると、浴場を出た。

その直前、長森さんはぼそっと呟いた。

「水瀬さん、胸、大きいね」

私はそれを聞いてこけそうになった。

 

「ふーん、水瀬さんってお酒が飲めないんだ」

お風呂から上がった後、私と長森さんは歓楽街を歩いていた。

歓楽街と言っても、私たちが目指しているのは食事もできてお酒も飲めるという、パンフレットでも紹介されている有名な店だ。

ちなみに私がこんな所にいるのは長森さんの、

「今日は憂鬱な花嫁同士、ぱーっとやろうよ」

という一言があったことを追加しておく。

「飲めないって言うより、飲んだことがないというのが正確かな?」

「でも、そういう人に限ってお酒が強かったりするんだよね……あっ、あそこみたいだよ」

長森さんが指差した店は成程、普通の居酒屋やバーとは違って、独身女性でも気軽に入ることができるようなレイアウトだった。

店の中もバーと言うよりは洋食店というのが正しく、照明もかなり明るい。良い雰囲気だなと思ったが、それを打ち崩すようなすすり泣くような声が、カウンタ席から聞こえて来た。

「ううっ、ひどいです……」

「ちょっと、お客さん、大丈夫ですか?」

カウンタ席に顔を置く一人の女性を、店のマスタらしき人物が必死に宥めている。

「あそこには近付かない方がいいようね」

長森さんがぼそっと口添えする。

私も当然、そのつもりだったのだが……。

目が。

合ってしまった。

「あーら、そこのお二人さん、私と一緒に飲まない?」

しかも、声を掛けられてしまった。

こうなると……逃げられない。

私はまるで鬼に睨まれたかのように、席に付くしかなかった。

 

その女性は既に、ウイスキを半分以上開けていた。

勿論、吐く息も酒臭い。

まだ七時前なのに、こんなに酔っ払ってるなんて……。

「ふふふ、わたしのことは柏木ちゃんって呼んでね〜。」

とろんとした目で、妙なことを口走る女性。

どうやら柏木という姓らしい。

流石に柏木ちゃんと呼ぶわけにはいかないので、さん付けで呼ぶことにする。

「そう、水瀬ちゃんに長森ちゃんかあ……素敵な名前よねえ」

そう言いながら、再びお酒を呷る柏木さん。

この人のことが気になって、私はお酒を飲むことは愚か、満足に食事を取ることすらできなかった。長森さんも同様だ。

「ヒック……えーん、だってひどいのよう。食事がまずいってだけで、出て行けだの、離婚するだのなんて……横暴よう。ひどいよう。わたし、泣いちゃうよう」

既に涙をボロボロと流してないてるのに、泣いちゃうようと言われても困る。

結局、私と長森さんが止めた甲斐もなく九時近くまで飲んだ挙句……

「うっ、気持ち悪いよう」

「ちょ、ちょっと、この人吐きそうだよ。ど、どうしよう」

長森さんは慌てているが、それ以上に慌てているのは店のマスタだった。

「とにかくトイレに連れて行かないと。あの、トイレはどちらですか?」

店主が慌てて指差した方向に、私と長森さんは両肩を支えてトイレまで連れて行った。

そしてトイレの便器に顔を向けさせたと同時に……。

「うっ……うえええええええっ……ゲホッ、ガホッ……」

危機一髪だった。

私は咽ぶ柏木さんの背中を擦り、長森さんが口と鼻の周りを吹いてあげる。アンモニアと芳香剤と、酸っぱいような嫌気を誘う臭いとが混ざり合って、トイレは嫌な空気で満ちていた。

けど、そんなことを考えている暇はない。

私はトイレを汚したことを謝り、柏木さんの飲んだお酒の代金を払うと(彼女は財布を持っていなかった)店を出た。

まるで死人のような柏木さんを連れ、私と長森さんはようやく見付けたソファに腰を卸す。

「ふう……また、お風呂に入らないとね……」

額から汗を流しながら、長森さんが言った。

「水瀬さんは余り疲れてないみたいだけど……」

「私は陸上部に入っていたから」

「そっか……私は走ったりするのって苦手だな。すぐに息が切れちゃう」

彼女の肩は、未だに激しく上下している。

きっと、余り運動なんてしない方なんだろうと思った。

「それよりこの人、どうするの?」

長森さんが、柏木さんの方を見る。出すものを出したせいか、今は健やかな顔で寝息を立てている。

「ここに置いて帰ったらいけないですよね」

「それはまずいよ〜」

確かにそうだ。

それに、私の肩に顔を乗せている彼女の姿を見ると、どうにも放っておけない。

「うふふふ、ちーちゃんだなんて……もう」

柏木さんが寝言を言う。

「ちーちゃんって、この人のことかな?」

「うん、そうだと思う」

だとすると、見ているのは夫の夢?

「夢にまで見るなんて、この人、夫のことを愛してるんだね」

「うん……そうですね」

私は……どうなのだろうか。

私は……すぐにでも結婚したいと思っていた。

そうすれば、幸せになれると思ったから。

でも……向こうは違ったのかもしれない。

そのことで、もしかしたら私は……知らずに追い詰めていたのかもしれない。

責任感が強いから。

優しいから。

だから。

そう。

本当は、ただ一言の言葉で良いのに……。

「水瀬さん、何考えてたの?」

長森さんが尋ねる。

「ん、いや……色々とね」

「私も……色々」

幸せそうな柏木さんを挟んで、私たちは空を見つめていた。

「雨、やんでるね」 と長森さん。

「ずっと前からやんでましたよ」 と私。

「そうだね……ずっと前から……」

長森さんはそう言うと、すくっと立ちあがった。

「私、帰るよ。帰って、話し合ってみる」

「私も……」

そう、まずは話すこと。

思いというものは口に出さなければ伝わらないから……。

[エピローグに続く]