長く厳しい冬がようやく終わりを告げ、妖怪の山は麓のほうから徐々に春へと移り変わりつつあった。梅は仄かな香りを伴いながら咲き誇り始め、樹上ではウグイスが長閑な泣き声を響き渡らせる。味わい豊かな春の野草や、水気を帯びた筍がぐんぐんと背を伸ばし、その勢いにつられて虫や動物たちもぞくぞくと目覚め始める。春告精が訪れずとも、その変化は一日ごとに至る所から沸き立っていた。
しかしある程度の高さまで来ると冬の名残が目立つようになり、天狗の領分を過ぎて更に上へ向かうと、麓の様子が嘘のように雪が根を張り続けていた。去年までならこのようなところ、決して近寄らずに春の日和を堪能していたのだけど。射命丸文はそんなことを考えながら、日の傾きつつある中を守矢神社へ向かっていた。
敷地の大半を占める湖の中央には、その象徴の一つである巨大な御柱がいくつもそびえ立っており、仰々しくも実に堂々とその力を誇示していた。これらを初めて見たとき、文はかつての支配者たちとよく似た、力の振るいたがりたちを想像したものだ。だからこそ、その直後に現れた彼女を見て、驚いたのだけれど。
そんなことを考えていると、湖の方からお腹に力のこもった高い声が飛んできた。
「あら、文さんじゃありませんか、こんにちは」
早苗が近くにいると分かり、文は飛ぶ足を止めて振り返る。そうして声のしたほうを探ると、遠目に何やら後片付けをしているのが見えた。丁度用事が済んだところだったのか、こちらに合わせてくれたのか。文はそんなことを思いながら、早苗の元に下り立つ。
「こんにちは、早苗さん」挨拶を返しながら、文は早苗の手にした魚籠に視線を寄せる。湖魚の放つ微かな匂いから検討はついていたけれど、礼儀としてお決まりの文句を口にする。「釣果のほうはどうでしたか?」
「上々です」彼女は見栄を張らない性質だから、言葉通りなのだろう。「上手くいかないときは、湖面に衝撃を与えて気絶した魚を獲るんですけどね。今日は調子が良かったようです」
無邪気な人間らしく喜ぶ早苗を見て、文は悪い癖だと思いながら茶々を入れずにはいられなかった。
「そんなことができるなら、最初からやれば良いじゃないですか」
「駄目ですよ、そんなことをしたら湖の魚が怯えやすくなります」獲って食べる癖に、早苗はそんな偽善をさらりと口にする。「心理的重圧は魚の味に悪影響を与えますからね、それは良くありません」
前言撤回、この娘はなかなかにしたたかなようだ。こちらにやって来た当初は精神的に随分と弱々しく、それでいて危険な事柄に不用意な近づき方をするから、見ているこちらのほうが不安になったのだけど。人間の持つ驚くべき適応力を発揮して、今では一種の逞しさすら身につけていた。
ゆるゆると生きることに慣れている自分からすると、その変化は少し激しすぎるような気がするのだけれど。五十年かそこらしか生きられない人間にとっては、それでも遅いのかもしれない。
「今日はもしかして、そちらを届けに?」
そんなことを考えていると、早苗が背中に背負っている籠を指差してきた。
「ええ、少しばかり春のお裾分けに参りました」
すると早苗の顔がぱっと輝く。こんなときに気持ちを隠さないのも彼女らしい。
「明日にでも麓に下りて、春の味覚を取りにいこうと思ってたんです。塩の強い保存食だと食卓にも発展性がなくて、気詰まりしてしまいますからね」
乾物は味がぎゅっと濃縮されていて、だから酒のつまみには良いのだけれど、あまり嗜まない彼女にとっては少しばかり辛いのだろう。衣食住に事欠くことない生活をしてきたから、余計にその思いが強いのかもしれない。
「早速今日の夕餉に使わせてもらいますね。本当にありがとうございます」
「いえいえ、早苗さんには色々とお世話になっていますから。礼なんて不要です」
目下のところ、文は守矢神社のものたちと一番親交が深い。そして半年経った今でも、彼女たちを扱った記事は人気が高いのだ。それに早苗からは、あちら側の出来事を随分と聞かせてもらった。この程度のことでこれほどまでに喜んでもらえるなら、安いにも程があると言えた。
「では、せめてお茶だけでも出させてください。あと、昨日の残り物で良ければおはぎもありますよ」
じいっと視線を寄せてくる早苗を見ていると何となく断りづらくて、文は首を縦に振る。
「では、ご相伴に預からせて頂きますよ」
すると早苗がとても嬉しそうに笑う。過去に色々と、特に取材関連でごたごたがあったけれど、どうやら自分はこの娘に割と好かれているらしい。人間にそのような気持ちを向けられることに文は慣れていなかったけれど、どうやらそんなに悪いものではないらしい。
記事の匂いがしたら手心は加えないにしても、もう少し素直に近づいても良いのかもしれないなと文は思う。
半ば期待はしていたけれど、文は茶だけでなく夕飯も馳走になった。
「いやはや、ごちそうさまでした」
筍ご飯にお吸い物、湖魚と野草の天麩羅に菜の花のおひたしと、春の味覚をふんだんに使った食事に、文は舌鼓を打ちながらぺろりと平らげてしまった。その美味しさと来たら、自分が客であることを忘れてしまいそうになるほどだ。
「大した工夫もない料理ばかりですけどね」
早苗が謙遜すると、上座にずんと腰をおろしていた神奈子が、大袈裟に首を横に振る。
「いやいや、この手の旬ものに余計な手を加えるなんて愚かというものだ。素材の味を活かした料理こそ至高にして究極。早苗はそのことをよく分かってると思うな」
「うんうん、いやそれにしてもゼンマイの天ぷら美味しいねえ」
神奈子と諏訪子がそれぞれに誉めそやすから、早苗は照れ照れしながらしずしずと夕飯の残りに箸をつけ始める。
「なんというか、落ち着く味なんですよね。このような料理を毎日作ってもらえる将来の夫はまことに果報者であると言わざるを得ません」
文が二柱に追従して持ち上げると、早苗はお吸い物を噴き出しそうになった。
「ななな、な、なにを?」「言うんだ!」「あやまれ! わたしたちにあやまれ!」
早苗がごほごほし、俄に怒りをたたえた神奈子と諏訪子が詰め寄ってくる。どうやら守矢の二柱は、早苗を嫁に出す気などさらさらないらしい。これ以上突けば比喩なしで蛇が飛び出てくると判断した文はへらへら笑いを浮かべながら「すいません」と詫び、わざとらしく話題を逸らした。
「そう言えば明日、博麗神社で花見を行うらしいですよ。まだ麓でも五分咲きといったところですが、それくらいの桜もまた風情があるということで、取りあえず飲んでおこうということになったようです」
おそらくこれから一分咲くことにどこかで宴会が行われるのだろう。かつて伊吹萃香は、その力を用いて宴会に人妖を萃めていたようだが、ここではそのようなことをしなくても、集まるときには自然と集まるのだ。天狗の自分にとっては実に歓迎すべき事実である。
そして目の前にいる二柱にとっても同じことであると考え、機嫌取りのために話題としたのだが、驚くべきことに難色を示した。
「明日は河童の集まりに呼ばれているんだよ」
「わたしも似たような感じだね。麓の湖にて第三十四回・蛙サミットが開催されるんだけど、諏訪湖代表として出席しなければいけないんだ」
蛙のサミットがそんなに回数を重ねているものかと疑問に思ったけれど、幻想郷だからどの湖にも知能を経た蛙が存在するのかもしれない。おそらく詮索するだけ無駄であるし、肝心なのは蛇も蛙も酒宴に出席しないということだ。
「早苗さんはどうです? 明日は何か予定でも?」
「いえ、わたしは……」早苗は興味深そうにこちらを窺い、しかし小さく首を横に振った。「神奈子様も諏訪子様も社を空けられるのですから、わたしが詰めてないといけません」
苦しげに眷属としての立場を表すと、神奈子がすぐに助け船を出した。
「わたしは別に構わないよ、行ってくれば良い」
「しかし、社を留守にするのは……」
「これまで新年も含めてずっと開店状態でやってきたんだ。コンビニでもなし、ここいらで休みを入れても良いだろう」
神奈子の言葉に、諏訪子がうんうんと頷く。早苗はなおも迷っていたようだが、二柱の言うことならば問題ないと結論づけたらしい。
「では明日、時間になったら迎えに行きますよ」そこまで口にして、文はふと良いことを思いつく。「もしよろしければ、もう少し時間を空けてもらって良いですか?」
「えっと、それは構いませんが」何故か早苗は怪訝そうな視線を文に寄せる。「どのような用向きで?」
「他意はありません。少しばかり二人でお出かけしたり、話したりできればなあと」
「それって、取材とかそういうもの抜きでですか?」
「ええ」と、文は考えなしに答える。「何か都合の悪いことでも?」
すると早苗は何か言いかけ、それから弱々しく口を噤んでしまった。そのため神奈子と諏訪子の視線が大挙して文に押し寄せ、ぴりぴりとした空気が食卓に広がり始めた。
ここは三十六計に勝る手段を取るべきだと、文は疾く立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。
「では、わたしはこれで。また機会がありましたら、春の食べものを持って来ますね」
そう言って文はそろりと部屋を抜け、なるべく足音を立てないよう守矢の居殿を後にする。どうやら藪蛇から逃げ出したようだと大きく息をつくと、不意に背後から声がかかった。
「あの、すいません。神奈子様や諏訪子様を誤解させるような態度を取ってしまって。あとで二柱にはきちんと説明しておきますから」
「いやいや、気にしないでください。元々ここには、春の味覚を届けに来ただけですし。ご相伴に預かった上、だらだらと長居しては礼にもとりますから」
文がにっこり笑うと早苗は目をぱちくりさせ、それから少し伏し目がちに訊ねてきた。
「あのですね、先ほどの話はどれくらい本当なんですか?」
「先ほどのと言われますと?」
「いえ、他愛のない話をしたいとか、その辺りです」
どうやら早苗には、ぼんやりとだが目論見を読まれていたらしい。だから文はあっさりぶっちゃけてしまった。
「以前、早苗さんと飛んだときのこと、覚えてますか?」
文が幻想郷一とも言える速度で飛べるのは、風を繰るのが上手いからだ。風に乗って加速し、できるだけ抵抗を排し、弾丸のように空を駆る。だから早苗の、風祝という称号とその能力を聞いたときからずっと考えていたのだ。元々からある風に加え、早苗から創み出される力を上乗せすれば、光のように疾く飛べるのではないかと。
一ヶ月ほど前に文がそれとなく早苗の考えを誘導し、一度試みることができたのだけれど、思い通りの結果が出せたにも関わらず、文の中には不満が燻っていた。何故なら早苗の繰る風を操りきれず、墜落という体たらくを曝してしまったからだ。そのときから文はいつかリベンジしたいと考えていた。
「もう一度、挑戦したいんですよ。より早く、今度は天にも届くくらいに」
すると早苗は何故か落胆するような様子を見せたが、首は縦に振ってくれた。
「良いですよ、あれはわたしにとっても貴重な体験でしたし。あちらにある絶叫系の乗り物って、安全第一だから速度が限られてて詰まらないですが、あれは心底肝がひやっとして素晴らしかったです」
絶叫系というのがどのようなものか文には分からないけれど、早苗が速さに一種の飢えを感じているのだということは分かった。
「では、早苗さんに飛び切りの速さを味わせてあげましょう。乞うご期待あれ」
そう言っておどけてみせると、早苗はくすくすと笑みをもらす。人間とは嗤うものであり、笑われるのは好きでないのだけど、早苗だと何故かあまり気にならないし、許してしまえるのだった。不思議なことだと文は思う。
早苗はしばらくの間、楽しみを噛みしめていたけれど、どのような心変わりがあったのか急に息をつく。人間の機微なんて疎いにも程があるから、どうして機嫌を損ねてしまったのかがいまいち分からない。
「あの、わたし何か変なことを言いましたか?」
「いえ、そうじゃなくて」早苗は曖昧に誤魔化そうとして、しかし頬をぷうと膨らませて答えてくれた。「わたし、文さんの語りって好きなんですよ。時々法螺……もとい、大袈裟すぎて実感がわかないですけど、こちらのことを面白可笑しく知ることができますから」
その言い方に、文はふむりと心の中で頷く。口実ありきで話をされたのが気に入らなかったらしい。だから文は機嫌を取るように、言葉を重ねる。
「秘め事があったのは確かですが、普通にお話したいとも思っていましたよ」
「別に言い訳しなくても良いんですよ」
「いやいや、言い訳じゃありませんよ。早苗さんみたいな可愛い方とお話ができる機会、見逃すはずがない」
半ば冗談、半ば本音を口にすると、早苗は頬の色を分かりやすく赤く染め。しかし次の瞬間にはさっと俯いてしまった。
「冗談はやめてください」その口調からは頑なな冷たさのようなものが滲んでいて。だから割と本気で怒っているのが分かった。「そういうの、おためごかしって言うんですよ」
「いや、わたしは割と正直なところを口にしたんですけどねえ」いやはや、何とも信用のないことだ。「まあ天狗の言うことだから、浮ついて聞こえるのはしょうがありませんけど」
ほんの少しだけ卑下してみせると、早苗は目をぱちぱちとさせ、しかし文に視線を合わせてくれなかった。しばしの沈黙が冬をふんだんに残した早夜の大気に溶け、気まずさの霧が立ち込める。こういった感じが文は苦手だったけれど、ここで三十六計とばかりに空気を断ち切って逃げ出すわけにもいかず。新聞を作るためなら我慢なんて苦じゃないのに、どうしてなのだろうと考えながら、早苗の言葉を待った。
「やっぱり、わたしが可愛いなんて嘘ですよ」自分を強く否定しながら、早苗の言葉にはどこかさばさばとしたものがあった。「わたしだってこんな年だから、好きになった人くらいいます。でも想いが届いたことなんて一度もありませんでしたから。路傍の石ころなんですよ。わたしはそこいらに落ちているだけの、何かでしかないんです」
そう言って、早苗はしょぼんとしてしまう。文はこういうときフォローするのがあまり得意ではないし、面倒臭いのは嫌だったから、励ましの言葉をかけたりしなかった。そっと早苗の頭をかき混ぜ、誤魔化した。
「拗ねない拗ねない。人間なんだから、いくら元が良くても巡り合わせの悪さでどうとでもなります。次はきっと、想いが叶いますよ」
文がそう請け負うと、早苗はなおも唇を尖らせていたけれど。心が沈み込んだ状態からは辛うじて抜け出せたようだ。
「もう、子供扱いしないでください」
「わたしからすれば、ほぼ全ての人間は子供に等しいですよ」
だからといって人間のことを本当に子供みたく考えているわけではないのだけれど。
「ふぅん、要するに人間の機嫌を取り慣れてるってことですよね。どれくらい生きてるか知らないけど、恋の場数も随分と踏んでいるんでしょうね」
文は人間の機嫌を取ったことなどほとんどないし、人間の定義する恋なんて当然ながら体験したことはない。それどころか永い年月を生きてきて、同じ種族にすら劣情を抱いたことがない。かつて人間との争いで俄に数が減ったときでさえ、文はそのような気持ちを得られなかった。多分そういったことに対して不感症なのだろう。
当然ながら、今の早苗にそのようなことを話せるはずもなく。
「まあ、恋の手管手筈が知りたければ、気軽に訊いてください」
何だか酷い墓穴を掘った予感がしたのだけれど、やっと早苗が笑ってくれたから良いかなという気になる。
「では明日、昼頃に窺いますよ。神社での飲み会は夕方からですし、それで十分に間に合うでしょう」
早苗は分かったとばかりに頷く。文はさよならの挨拶と共に夜闇へと飛び出し、視界の定まらぬ中を浮かれた速さで進んでいく。文は烏天狗だから、夜を駆るのが少しだけ苦手だ。だからいつもは千里眼の能力を持つ白狼天狗を伴うのだけれど、今夜はそんなことしなくても疾く飛べた。潰えたと思った風と速度への再戦が叶い、高揚していたから。
前回は唐突だったから失敗したけれど。今回は早苗の風に乗り切って、第二宇宙速度すら超えて見せよう。文はそんなことを考えながら一人、闇夜の中をくすくすと笑う。
物知りの人間などが近くにいたら、鵺の鳴き声とでも勘違いしたかもしれない。それくらい、色々な感情と質の混ざり合った笑い声だった。
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