人格の入れ替わり現象が、いっとう奇妙な夢と共に終了してから数日後。霧雨魔理沙は射命丸文を訪ねるため妖怪の山に向かっていた。魔理沙は最初、博麗神社に行ったのだけれど、霊夢は朝から文の姿を見ていなかった。つまり麓の辺りには出てきていないということだ。何しろ彼女と来たら最近はネタ不足で、山を下りてきたときには何かありませんかと霊夢に声をかけるのが習慣になっているからだ。
「普段から色々嗅ぎ回っていて、嫌でも出会える癖に、会いたいときには会えない。全く天狗というのはどこまでも捻くれてるなあ」
そう愚痴りながら、魔理沙の気持ちはなかなかに浮き立っていた。幻想郷最速とされる天狗を相手に、研究の成果を思う存分試せるからだ。
「幻想郷最速の称号、今日をもってこの霧雨魔理沙のものになるのだ」
にとりが提案した出力方式を先日、あるアイデアによって実現することができたのだ。そのやり方をにとりに見せたところ、目をぱちぱちと瞬かせたのち、防御魔法の強度をもう一段階高めろとだけ言われた。
『これだと最高速に達したとき、人間の体じゃ保たないよ。大雑把なあんたにゃ難しいかもしれないが、加速用魔力との兼ね合いをもう少し調整すればあとは言うことなしだね。これなら天狗の全力だって交わせるに相違ないよ』
もっとも天狗が全力で追いすがって来るとは考えていない。彼らの気質はアリスに近く、全力を出してそれでも叶わなかったらという思いがあるから、どんなに切羽詰まっても手加減することを忘れないのだ。魔理沙からすれば面倒臭いことこの上ない性格である。
まあ、それでも良いとは思う。幻想郷で一番速いという称号も確かに魅力的ではあるけれど、真の目的はそこにはない。天狗との速さ比べすら、魔理沙にとっては通過点に過ぎない。
魔理沙の目標、それは――。
「お、魔理沙さんじゃないですか、こんにちはであります」
内なる闘志を挫くかのような気さくさを込めた声が、下の方から聞こえてきた。見ると最近、文とセットで会うことの多い白狼天狗の歩哨――犬走椛であった。常に剣を帯び、どこか間の抜けた真面目さで心を固めるその姿はどこぞの庭師を思わせるものがある。彼女は耳と尾をぱたぱたさせながら魔理沙に近づいてきた。
「おお、椛か。先日はちょいとばかり世話になったな」
遡ること幾許か、魔理沙はにとりの庵に寄った帰り、守矢神社の蛇と遭遇した。彼女は『今日は河童と天狗の飲み会を掛け持ちなのだよ』と、怖ろしいことをしれっと言いながら豪快に笑い、それから魔理沙を天狗の宴会に誘ったのだ。
『女は度胸、何でもやってみるのさ』
そう言われては断るのも何だか意気地がないようだし、魔理沙は天狗の酒宴とやらに興味があったから、ほいほいとその誘いに付いていったのだが。
「いやはや天狗は蟒蛇揃いと聞いていたが、怖ろしいな。酔い潰れてしまうなんて久しぶりのことだったぜ」挙げ句の果て、魔理沙は目の前にいる歩哨天狗に文の庵まで連れて行ってもらったのだ。相手が相手とはいえ酒に完敗するのは久しぶりであり、魔理沙はそこはかとない無念さを感じていた。「どうにもわたしは人間の恥を曝したくさいぜ」
「いえいえ、天狗の飲みに付いていけるなぞ気骨のある人間だと、大方のものが褒めそやしていましたよ。なかには人間にしておくのが惜しいとか、もう千年若ければ嫁にするのにとか、そんなことを口にするものもおりました」
椛はそれが栄誉であるかのように話すのだけれど、天狗の嫁になるなんて怖ろしいことだと魔理沙は思う。
「お姉様なぞ、人間の領分までちょくちょく顔を出しているから、近いうちにまた誘って欲しいなどと請われる始末。ただ、あまり仲が良くないと断られたそうで、その天狗は随分としょんぼりしていましたね」
どうやら文はことを察してくれたようだ。それにしても天狗界隈でそのような動きがあるなぞ何とも剣呑な話だ。奴らは基本的に飽きっぽいからしばらくすれば忘れるだろうが、しばらくは妖怪の山周辺に近寄らないほうが良さそうだ。これは一刻も早く文を訪ねるか、あてがなければ退散するべきだろう。
「で、そのお姉様は何処にいるのかね。ちょいと用事があるのだけど」
魔理沙が少しばかりのからかいを込めてそう言うと、椛はむっとした顔をする。どうやら文のことを姉と呼んで良いのは自分だけだと感じているらしい。どんな事情があるのか分からないけれど、文はこの歩哨天狗に随分と慕われているようだ。今度まるきり姉妹のようだとからかってやるべきかもしれない。
そんなことを考えている間に、椛の顔がお預けをくらった犬のようにしょんぼりとしてしまった。
「お姉様は何故かよく分からないのですが、庵から一歩も出ようとしないのであります。いつもならば言われなくても色々な場所に飛び出していって、こちらがはらはらするくらいだというのに。実は昨日、お姉様の庵を訪ねたのですが、気難しい顔でやんわりと追い返される始末。こちらには思い当たる節がまるでなくて、何が何やらといった調子でありますよ」
悩ましげに首を傾げる椛を余所に、魔理沙は一人で合点をつけていた。もしかしなくてもあの夜、子供を掠ってきたときのあれこれと関係があるのだろう。第一目的は勝負をふっかけることなのだが、それと同じくらいにあのときのことが気になっていたから、あわよくば話を聞き出そうとも考えていた。
しかし、今の文はそれ以前の状態のようだ。天狗の彼女がそう深刻に考え込むことはないと思いたいが、まるで橋姫のようにその顔を嫉妬に焦がす様を見ているから確信は持てなかった。
速度で勝負と言われて何の痛痒もなく断る文だなんて、想像するだけでぞっとするけれど。そういったものと対峙することも覚悟で庵を訪れなければいけないのかもしれなかった。
「ですからもし、魔理沙さんがお姉様を訪ねることができたならば、あとでこちらにも話を聞かせて頂けるとありがたいのであります」
椛の声にはそうであって欲しいという願いと、そうならないで欲しいという相反した思いが滲んでいるよう魔理沙には思えた。刺々しさはないから恋慕というより仲の良い家族を取られるのが嫌だという感情に近いのかもしれない。どちらにしてもいじましい話ではあった。
「分かった、上手くいくか分からないが約束はしよう」魔理沙は当然のように内心を隠したまま、椛の依頼にあっさりと肯定の返事を寄越す。彼女は九天の滝を警護する天狗たちに広く顔が利き、ここで貸しを作っておけば山のあちこちをうろうろするのに便利だと考えたからだ。「でもあいつのことだから、しばらくしたらけろっとした顔で取材活動を再開する気がするけどな」
「そうだといいんですけどね」
本当にそうだと良いのだけどな。魔理沙は心中の呟きを見せることなく椛との会話を終えると、別の天狗に見つけられて酒宴に掠われないよう、心持ち高度を下げてから目的地に向かう。
幸いなことに他の天狗と出会うことなく、魔理沙は文の庵に辿り着くことができた。
勝負をふっかけるのだから、挨拶は『たのもー』であるべきだ――魔理沙はそんな拘りとともに勢いよく戸を開けようとしたが、反対側から開く気配があったので素早く横に避けた。文が気配を察して出てきたのかと思ったが、すんでのところで早苗だと分かり、魔理沙は木陰へと身を潜めた。その表情はどこか険しく、感情の決壊を何とか土嚢で防いでいるといった感がある。
そのすぐ後から文が飛び出してきて、この場から一刻も早く立ち去ろうとしている早苗の手をがっしりと掴んだ。
「離して下さい、距離を置こうって言ったのは貴女でしょう?」
「あのですね、ちゃんと説明したでしょう? 距離を置くことは必要だし、そのことについて早苗さんはいかなる咎も負っていないのだと」
「そんなの、当然に決まっているじゃないですか!」
「それと誤解しないで欲しいんですが、わたしは別に早苗さんとの関係をご破算にしたいわけじゃ」
「嘘つき。距離を置きたいってそういう意味以外で使うわけがないでしょう? そうやって誤魔化さないでも良いんですよ、わたしには分かってますから」
「分かってないんですよ!」
その言葉と同時、文は早苗の唇に自分のものを強引に押し当てる。早苗は最初のほうだけじたばたともがいていたけれど、やがて熱っぽく調子を合わせ始めた。魔理沙は他人のこういった行為を見たことがなかったから、目を向けるべきなのか逸らして良いのか分からず、結局のところは指の隙間から観察することになってしまった。
二人は実にぎこちない調子で身を離し、すると早苗は遠目からでも分かるような辛い表情を浮かべる。
「そうですよね、こういうことを文さんに刻み込んだのはわたしなんですから。わたしはきっと、怒ったりできないんでしょうね」
「いや、もっと怒って良いですよ。でも、忘れないで欲しいんです」
「人間はすぐに忘れますよ。これから冬が来て、それはとてもとても長いですから、雪解けと共に去る頃にはわたし、きっと文さんのことなんて忘れて、新たに良い人を探しに行きますから」
どこか儚げな笑みは文のことを俄に凍り付かせ、だから早苗のことをこれ以上留めておくことはできなかった。それでも何とか少しでも、その姿を目に焼き付けようとしているのが天狗らしからぬいじましさで。苦い寂寥の気配がようやく遠のき、ほっとしてしまった魔理沙はその息でうっかり木陰を揺らしてしまった。
「獣……というわけじゃなさそうですね」情の強い出来事を見られたからだろう、文の視線は鷹のように鋭く鴉のように貪婪で、魔理沙はぞっとしたものを感じた。「こんな所まで迷い込むような人間など指折るほどの強者であるとはいえ、情にかまけて気配すら追えぬとは不覚ですね。さて、こんな体たらくを見られたとあっちゃ、あっさりと返すわけにはいかないのですが」
不敵な物言いから滲む自信に、先程までの戸惑いや憂いなど微塵も感じられず。魔理沙は現状を整理する時間も与えられぬまま、木陰から追い立てられてしまった。
「おやおや、魔理沙さんじゃないですか。河童の器械だけでは飽きたらず、天狗のものにも手を出し始めましたか?」そう言って文は天狗の扇子をどこからともなく取り出してみせる。「それにしても他人の情事をこっそり覗き見だなんて行儀が悪いですね。ことと次第によっては夜摩天並の仕置きを覚悟して頂きたいのですが、何か言うことは?」
「ある、山のようにあるぞ」少しでも黙っていれば、文は言葉なしとして攻撃を仕掛けてくるだろう。魔理沙は機嫌の悪い天狗を宥めるため、滑らかさでない舌をきりきり回す。「このことは決して他に話さないと約束する」
「人間の諺によると、嘘つきは泥棒の始まりらしいですね。つまり泥棒をしている奴は嘘つきと考えて良いわけで」
「いやいや、わたしは盗んでいるわけじゃない。無期限で拝借しているだけだ」
店にある借り物全てはいつか返却すると魔理沙は本気で考えているし、相手が本当に必要としている品物を盗んだことは殆どない。こんなものは泥棒と言えないはずだが、しかし文は遺憾にもそう考えているようだ。
「まあ、そんなことはどうでも良い。わたしがここに来たのは泥棒のためでも、当然ながら出歯亀のためでもない。勝負の申し込みに来たんだ」
「勝負、ですか?」文は口元を団扇で隠し、怪訝そうな眉をこちらに向けてきたが、そのうちに何かピンと来るものがあったらしい。多少の興味を瞳に称え訊ねてきた。「もしや河童と一緒に何やら画策していたことが、形となったのですか?」
「なんだ、そっちのほうでもしっかりチェック入れてたのか」
「わたしは新聞記者ですからね。愉快なことをやっていれば記憶に留めておくこと、やぶさかではありません」
文の言い回しからして自分の試みはそれなりに注目されていたということだ。さほど的を外していないという証左でもあり、魔理沙は心の中で拳を握る。
「だとしたら、いちいち説明しなくても分かるよな」
「ええ。それで、どこからどこまでにします? 魔理沙さんのお好きなようにどうぞ」
文のほうでコースを決められると少々厄介だったから、その申し出はありがたかった。
「山の麓に、スタート地点にうってつけの大木がある。そこから山の頂まで一直線でどうだろう」
その提案に、文は余裕の笑みで返した。元々直線でしか勝負にならないと知りつつ、そんなものどうってことないと言わんばかりで、魔理沙は気後れするものを感じたけれど。にとりのお墨付きがあるのだからと腹を決めた。
麓まで下りる間、文はひたすらに無言だった。いつもは会話を弾ませるタイプだから、魔理沙は余計に気詰まりしてたまらない。あるいはそうすることでこちらの緊張を高めようとしているのかもしれなかった。それならば、こちらからも揺さぶりをかけてやろうと、魔理沙はスタート地点の大木に辿り着いてすぐ、文に声をかけた。
「なあ、単に勝負ってだけじゃ面白くないと思わないか?」
すると文はからかうような視線を魔理沙に向けてきた。
「何かを賭けようって言うんですか? もしやわたしのネタ帳をご所望で?」
「あんなガセばかり書かれてる手帖なぞいらん。そうだな、わたしが勝ったら先ほどの仔細を教えてくれないか」
魔理沙の発言に文は一瞬だけ眉をしかめ、それから揶揄するような言葉を向けてきた。
「へぇ、わたしのことをゴシップ屋と呼んでる癖に、そういうのがお好きなのですね」
「そういうわけじゃない。ただ、お前が嫌がるような条件を提示しただけだ。何しろ飛び切りの本気を見せてもらう必要があるからな」
魔理沙は自分の速さが文の実力のどれくらいに匹敵するかを確かめたかった。全力を出すことは期待していないにしても九割九部の力を吐き出させ、その上で圧倒してみせれば文より速いことを実証できるのではないか。そのためには文にできるだけ力を出させる必要がある。その点で早苗とのやり取りを盗み見てしまったのは、好都合だったと魔理沙は思う。かなり卑怯なやり口だけど、背に腹は代えられない。
それに文と早苗の事情を知りたくもあった。半年ほど前に少しばかり話を聞いただけで、あれからどのように関係が進んだのか、魔理沙は知らない。そのことを聞き出せれば、ある問題を解く助けになるはずだ。二つの意味で魔理沙は負けるわけにはいかなかった。
「では謹んで、受けて立ちましょう」文は自信たっぷりにそう言うと、意地悪く付け加えて見せた。「わたしが勝ったら、同様に貴女の秘密を一つ頂くとしましょう」
どうやら負けられない理由がもう一つ増えたようだった。もし文に負ければ新聞の記事になるようなネタを吸い取られてしまう。魔理沙はより固く気持ちを引き締めると、競争の準備を始めた。
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