―1―
あの事件から二ヶ月。本当なら二ヶ月前だった筈の訓練の終了は、色々あってこの時期までのびのびとなってしまった。まずユーキが、全治一ヶ月の傷を負っていたこと。私も何回かお見舞いに行ったから分かるけど、包帯の巻かれた姿は痛々しかった。
そう、ここにも私を襲った三人組の子が現れてユーキのことを見舞ってくれたそうだ。いきなり制服姿の学生が現れたって戸惑いの声をあげていたから。
そして、人間に殴られたユーキが人間に対して怯えを見せないか、そして冷静に対処できるかを確かめるテスト。これにやっぱり一ヶ月くらい時間がかかってしまった。それから、私とユーキでの訓練のやり直し。事件があったからなのか、所員の人が総出で見守っていていくれたらしい。流石に、そんなに大勢の人間がついていたなんてその時は分からなかったけど。
私とユーキがゴールに辿り着いたとき、大勢の人間に囲まれてるのを感じて少し戸惑ったくらいだから。そして今日も、同じように大勢の人に囲まれて出発の時を迎えようとしていた。けど、今度はここにはもう戻ってこない。私は自分の力で家まで帰らなければいけないのだ。勿論、付き添いの人はいるけど。
「川名さん、これからも頑張って下さい」
所員の人間を代表してなんだろう。田中さんが声をかけてくる。
「本当ならもっと沢山言いたいことがあるんですが、あえて言いません。私は長い話というのは苦手ですから。しかし、これだけは言わせてください。ユーキは、私たちが手塩をかけて訓練したその結晶の第一号です。だから、こういうことを言うのはプレッシャにしかならないかもしれませんが……」
そこで言葉を切ると、私の手を強く握り締めてくる。
「どうかユーキのこと、宜しくお願いします」
私はどう答えてよいか迷った。正直、こんな沢山の思いをどう受け止めたら良いのかさっぱり分からない。私は散々考えた末、ようやくこれだけ言葉を搾り出すことができた。
「分かりました。至らない私ですけど、皆の頑張りに負けないくらい私も頑張ります。見えない未来を、ユーキと一緒に進んでいきます」
田中所長は手を放すと「そうか……」と一言だけ呟いた。そして、最後にこう言った。
「私は、ここの歴史の第一歩をあなたに託すことができて本当に良かったと思います。お元気で、そしてたまには私や他の所員のことも思い出してください」
私は大きく頷くと、ゆっくり一歩ずつ前に進んでいった。そして、訓練施設の外に一歩足を踏み出す。ここから先は昨日までと違って決まった道じゃない。道は私が作らなければならない。
私にそれができるだろうか?
今はまだ、恐いかもしれない。けど、いつかそれを笑顔で進めるときがきたら……、もっと強く生きられるのだと思う。けど、それはまだ遥か先に潜む問題だろう。だから一歩を踏み出そう。そのために、私は声をあげて進み始めた。
「ユーキ、ゴー」
天高く響いた声とともに歩き出した私たち。また、新しい未来を進んでいくためのスタートを踏み出し進んでいく。これから先、私の向かう未来にはどんなことがあるだろうか?
きっと、再び戸惑い立ち止まってしまうことがあるだろう。その度に、周りの人間に迷惑をかけたり助けて貰ったりするかもしれない。けど、支えてくれる人がいると分かってるから、きっと全てに絶望して閉じこもってしまうことはないだろう。
だから、私は見えない未来を信じて進んでいこうと思う。例え不器用でも、弱くても、自分の足でもって一歩一歩、光ある未来へと。
―二―
あの、嵐のような事件から既に二ヶ月が経つ。灼熱の太陽が世界を焼き、誰もが涼を求めて日陰や冷房を求める時期。俺とみさきの両親は、その摂理に反するように
その燃えるような世界の真ん中にいた。
「なあ、みさきは大丈夫かな?」
みさきの父親が今日何度か目の情けない声をあげる。
「もう、何回言ってるの? みさきなら大丈夫よ」
「大丈夫って、根拠はあるのか? おい?」
「根拠があれば良いってものでもないでしょ。それより浩平君が白い目で見てるわよ」
そう言われて俺の目を見るみさきの父親。俺としては、またかという気分で痴話喧嘩を眺めていただけだ。だが、あっという間にしゅんと黙り込んでしまった。
俺は陽炎の先に見える、何もない空間を凝視した。そこには誰の姿も見えない。が、みさきは必ずこの道から戻ってくるはずだ。
今日は、みさきが盲導犬の訓練を終える日だった。一時期はあんなことになったが、みさきも元気に回復し、しばらくしてユーキも動物病院から退院したのだ。
俺も退院の時は様子を見に行ったが、いつもと変わらぬ調子で目の前に現れていた。勿論、内心がどうなのかは分からない。犬は感情を持たないなんてことはないと思うのだ。犬や猫だって、喜んだり悲しんだり苦しんだり傷ついたりすると思う。けど、目の前の精悍な顔つきからはそんな様子は微塵も感じられなかった。
念のためにテストと再教育が施されたが、ユーキは盲導犬としての気概と知識を何ら失うことなく堂々と立ち振る舞って見せた。だからこそ、俺は安心してみさきの帰還を信じられるのだ。
陽炎が揺らいだ。俺の目に、一人の女性と一匹の犬が映し出される。その姿を見るや否や、俺は少しでも早く愛するものたちに出会うために歩を進めた。流れる汗を拭いもせずに全力疾走で。
「みさきっ!」
躊躇することなく大声で叫ぶと、みさきはユーキに停止の命令を出して歩を止めた。
「えへへ、川名みさき、只今帰って参りました」
はにかみながら、みさきはブイサインを出した。
「大丈夫だった、みさき。疲れてない? 今日はみさきの好きな食べ物、一杯用意したから」
「うん。施設の人にもちゃんと挨拶してきたし。ユーキのことをどうぞ宜しくって、強く手を握られながらそう言われたから少し戸惑ったけど。それよりお母さん、さっき言ったこと本当?」
花より団子。料理に目を輝かせるみさきの姿に、俺は張り詰めていた緊張の糸が一気に切れた。次はどんな声をかけようとか、そんなこと吹き飛んでしまっていた。しかし、次にかける言葉だけは決まっていた。
だから。
俺は万感の思いを込めて、ただ一言。
ただ一言を、無限に広がる空にも伝わるくらいの声で……その言葉を紡いだ。
「お帰り、みさき」と。
これからも、俺たちの未来には色々なことがあるだろう。それは多分、楽しいことばかりじゃなくて。苦しいことや悲しいことも沢山あると思う。けど、みさきと一緒ならきっと乗り越えられる。
見えない未来を信じて、勘違いやすれ違いもあるだろうけど、今よりちょっとずつでも強くなっていけるのだろう。
強いってどういうことだろうか。以前、みさきに聞かれた言葉だ。けど、やっぱり今でも答えは出ない。何かが変わった気がするし、何も変わってない気もする。だから、せめてこのことだけは忘れないようにしよう。
この世に俺を留めてくれる絆を。
川名みさきという女性を、
何があっても守って行こうと。
何があっても、愛し続けようと。
そして願わくば、これから先も光の中を堂々と歩ける人間でありますように。大切な人を守れる人間でありますように。
目の前の愛しい人は、その思いを肯定するかのように輝きに満ちた笑顔を浮かべていた。
[FIN]