しとやかな薔薇も 棘を出し
おとなしい羊にも おどかしの角がある
ただ 白ゆりだけは 純粋な愛の喜びにひたり
棘も おどしも その輝く美しさを汚さない
[William Brake/The Lilly]
それは、ある晴れた休日の昼下がりだった。
特に理由があったわけでも、待ち構えていたわけでもない。眼前を歩む彼女は、今日の様子を想像させるどのような言葉も口にしていなかったのだから。これは言わば、偶然。全くの偶然である。なのにどうして、こうも運命じみて思えるのだろうか。佐藤聖は、そのようなことを思いながら、三人の子供と歩む少女を目で追う。八歳から十歳くらいという、往々にして扱い辛い年齢が揃っているのだが、少女はその誰からも尊敬され、そして慕われていた。
穢れを脱ぎ捨てたかのような白い肌は、燦々とした太陽の光さえも柔くいなし、腰の辺りまで伸びる髪の毛は羽毛のように緩やかと弾んでいる。子供たちに請われ手を繋ぎ、慈愛に満ちた眼差しを向けるその表情は、学園で見せる憂いた物静かさとは全く方向性が違う。
滅多なことでは動じないという自信のある聖だったが、彼女の在り方には心を惹かれた。暫しの間、黙ってその様子を見つめていたが、不意に向こうでも聖の存在に気付いたのだろう。髪を天使の羽根のように舞わせながら振り返り、その瞳を聖と相対する位置で止めた。
「お姉さま……」
彼女は、聖の登場に心底、驚いているようだった。
「よう志摩子、なかなかに奇遇だな」そして間違いなく奇遇なのだが、彼女の目からは不信がありありと滲み出ている。聖にはその気持ちが、嫌というほど理解できた。「別に他意はない。全くの偶然にして、運命の悪戯なのだよ、これが。いやー、良い天気なものだから。思わず目的も持たずぶらぶら散歩に出かけたのさ」
おちゃらけて言ってみたことで、志摩子は更に疑念を募らせたようだった。しかし、次の瞬間には固い表情を崩していた。
「まあ、どちらにしても……会ってしまったのですから、仕方ないのでしょうね」そりゃそうだ。意図のある無しは関係なく、出会いとはそういうものだ。彼女との出会いにまつわる決して少なくないごたごたの中で改めて、聖はそのことを悟っていた。「それでは、遅くなりましたがお姉さま、ごきげんよう」
裾を整え、深く頭を下げてくる志摩子。学園で挨拶する仕草と変わらぬ儀礼の在り方に、聖は思わず口をすぼめる。
「んー、学園の外だからもっとこう、フランクな挨拶を期待したかったんだけどな」生真面目な志摩子に斯様な臨機応変さを求めるのが無理だとは分かっているのだが、文句だけは言っておく。「まあ良いや。ごきげんよう、志摩子、そして可愛い御子の皆様よ」
本来、子供は余り得意でないのだが、妹の前であるという手前上、最低限の良識人くらいはぶっておこうと思った。しかし、子供というのは得てしてそういうものを平気でぶち壊すものだ。
「なー、しまねえ、この男女って姉ちゃんの知り合い?」
お、男女だと? 聖の聖職者めいた顔が思わずひきつる。心の中に燻り始めた感情の炎を知ってか知らずか、眼前に立つ少年はじろじろと聖を観察し始めた。
「んー、胸はあるしお尻も出てるけど……格好はまるきり男だしなあ」
どうやら、体格的にはきちんと女性しているらしい。聖はほっとする片側で、自分の格好がそんなに男性しているかということを省みる。黒猫のプリントされた長袖のシャツにソフトジーンズといういでたちは、確かに活動的だ。しかし、今時女性ならこれくらいの服装は普通である。寧ろ志摩子のような、膝下まである萌黄色のワンピースなどという、楚々とした服装こそ少数派となっている。
別段、男であることを意識させる要素はどこにもない。だが、子供の瞳は無意識のうちにその少しだけ奥を見据える。少年もまた、聖の気付かぬ男性的な部分を見抜いていたが、そこは無分別で言葉足らずな子供。後に続く言葉が爆弾であることに気付かず、無邪気に火を付けた。
「あー、分かった。こいつ、ちんちんも付いてるんだ」
その瞬間、聖は自分が少なくとも十は年上の女性であることも名門リリアン女学園の生徒会役員であることも、何より妹の目の前であるということも忘れ、ただただ青少年の躾という一念に支配された。
「ほう、なかなか鋭いね、キミハ」伸ばされた手は一見、賢い頭を撫でるようだったが、少年は騙されない。素早くあとずさり、身構えた。彼はその引きつった笑顔に、己の失言を悟った。「でも、年上の女性に対してそれは少しばかり失礼だと思わないかな?」
まるで機械人形のような棒読み口調がただただ恐ろしいらしく、少年は背を向けて逃げ出そうとした。が、聖の反射神経はそれを上回っていた。
襟をつかみ、無理矢理相対した少年に、聖はリリアン仕込みの微笑を向ける。勿論この場合、相手に恐怖を与える以外の何物をも意図していない。
「礼儀の正しい子供は、私のような女性に対して初対面の時、こう言うものだ。『綺麗で格好良いお姉さま、はじめまして』ってね…………言ってごらん」
少年は、鸚鵡返しに一字一句間違えることなく復誦してみせた。
「綺麗で格好良いお姉さま、初めまして」
うんうんと肯いてから、聖は志摩子の影に隠れる二人の女の子を見る。彼女らは心底怯えていた。
「お姉さま」いつもと変わらないが、しかし僅かにたしなめるような物言い。「関係ない子まで巻き込まないで下さい。子供を意味もなく怯えさせるのは、情操教育に良くないんですよ」
穏やかだが、しかし『ぷんぷん』という擬音が聞こえてきそうな剣幕に、聖は慌てて頭を下げた。普段は物静かだが、本気で怒らすと蓉子の次に怖いと(彼女たちに比べれば祥子の癇癪など、可愛らしいものだ)、聖は思っている。
「分かった分かった、そうまで怒るな皆まで言うな」そして聖は影に隠れる子供の一人に近寄り、目線を同じにするとおでこを撫でながら微笑んだ。そこに暗く淀んだ意志はなく、ひたすらに優しかった。「私は佐藤聖というんだ、よろしくね。で、貴女のお名前は?」
陽光のような笑みと愛撫に、少女は警戒の色を解いた。そして、溌剌とした声で「真賀田四季、八歳」と答えた。そして、姉らしき女の子に殴られた。
「真面目に答えなさいよッ!」鬼のような表情を浮かべたのも束の間、次の瞬間には営業向けのような分かりやすい笑みを浮かべている。聖は、この子将来大物になるな、間違いないと心の中で呟いた。「あー、ごめんなさい。この娘、少し変わってるんです。わたしは雨宮絵理、でこっちが妹の由梨」
「駄目だよ教えちゃ」手遅れながらも、少女は反駁する。「だって、怖かったんだよこのお姉ちゃん。誘拐犯かもしれないじゃない!」
そこまで言われると、聖としてはやるせないとしか思いようがない。涙を流しそうな妹をどう宥めようか頭を回転させていると、お姉ちゃんの方が的確なフォロウを入れてくれた。
「馬鹿ね。この人は、志摩子さんが親しそうに挨拶してたじゃない。だから、悪い人じゃないのよ……多分」
最後の多分は余計だ。そう思ったけれど、聖は口に出さなかった。彼女は雨宮由梨の顔をもう一度、優しく覗きこむ。由梨は志摩子の微笑み顔を見て安堵し、次に聖の固い笑顔を見て再び泣きそうな顔になった。それからもう一度、志摩子の顔を見てしばし、ようやく納得したようだった。
つまり、自分は一欠けらも信用されてないということだ。聖は心の中で溜息を吐く。どうも、自分は小さな子供に好かれないらしい。特別授業である奉仕活動の一環で幼等部を訪れた時も、子供には悉く避けられた。別に渋面を作っていたわけでも、不愉快だオーラを出していたわけでもない。なのに、ただの一人も近寄ってこなかった。蓉子の周りには、保母と見間違うくらいの子供が集まっていたというのに。
その時、聖は悟った。子供に好かれるという才能は、先天性のものであると。で、どうやら志摩子もその才能を持つ人間の一人であるようだった。当の志摩子はと言えば、聖を見て笑いをかみ殺している。先程のやり取りが余程、面白かったようだ。まあ、志摩子が楽しいなら良いか、と聖は思う。
しかし、そんな寛容を先程の少年がまたもぶち壊してくれた。
こうしたやり取りを続けるうちに少しずつ進んでいたのだが、目的地は少年の家だったらしい。栗山という表札のある家の敷地に飛び込むと、迎えに出ていたであろう恰幅の良い母親の影に隠れ、典型的な捨て台詞を吐いた。
「じゃあな、おかまおんなー、おしりぺんぺーん」
ズボン越しかと思ったら本気で尻を出したので、雨宮姉妹は思わず顔を背けた。聖は、安全地帯に隠れてしまった少年にどう『教育』を加えようかと思案したが、すぐに必要なくなった。
「下品なことやってんじゃないよッ、この馬鹿息子!」
とても気持ちの良い拳骨の音が、秋の青空に響き渡る。少年は頭を擦り、涙目になりながらも家のドアを開けするりと中に入っていった。少年の母親が「あの馬鹿息子が申し訳ありません」と頭を下げる。志摩子は「あれくらいの大きさのお子さんでしたら、普通ですよ」と、受け流すように答えた。そこで、母親の視線が初めて強く志摩子に留まった。
「あら、そう言えばいつもの方じゃないのね?」
「ええ、珠子さんは今日、体調を崩されてまして。私は今回限りの代理として呼ばれたんです。自己紹介が遅れました。私、藤堂志摩子と申します、初めまして」
丁寧な辞儀に、少年の母親もつられて頭を下げる。そして、はあと息を吐く。
「これまた随分と、行儀の良い娘さんだねえ。全く、うちの子にも見習わせたいよ」
貴女もそう思うだろという視線を、志摩子は曖昧に受け流した。
「それで、病気の方は大丈夫なのかい?」
「ええ、普通に風邪を引いただけですから。二、三日もあれば治ると思います。
「そう、それなら良いけど……あの、志摩子さんでしたっけ? 教会に戻ったら『お大事に、そしていつもご苦労様です』と、伝えておいてくれませんか?」
「分かりました。珠子さんもきっと、喜ぶと思います」
その後、いくつか所帯じみたやり取りを交わした後、志摩子はもう一度礼をして少年の家を後にした。その後ろにちっちゃな姉妹が続く。聖は志摩子の横に立ち、ちらと彼女を見た。別に詮索して欲しくないのなら聞く気はなかったが、志摩子は別段躊躇うことなく、語りかけてきた。
「お姉さまは、何故私がここに来て子供の相手をしているのか不思議に思っているのでしょう?」
聖は無言で肯く。この場所から志摩子の家までは結構遠い。実際に訪れたことはないが、生徒会用の連絡表で住所と電話番号はきっちりと把握していた。電車と徒歩を接いで一時間は悠にかかる。
「代理、という言葉が先程の会話の中に出てきたな。それと『珠子さん』なる人物、そして教会という一語。それらを重ね合わせれば、何となく分かる」
つまりは、と聖は心の中で推論を展開する。志摩子が敬虔なキリスト教徒であることを理解しているくらいに近しい知人が、何かの代理を頼んだと。そういうことなのだろう。
志摩子は聖の理解を理解し、足りない部分だけを補うように話の流れを続けた。
「珠子さんは私の通うピアノ教室の先生だった人です。今は教会の牧師様と結婚し、神に従事する傍らで、子供にピアノやオルガンを教えているんです。ですが昨日、流行り風邪にやられてしまったらしくて」
「成程。で、志摩子が代役として抜擢されたわけだ」
「ええ。幼い頃から随分と、親身になって下さった方ですから。こういう形でご恩返しができるというのは嬉しいです。多分、先生は私がキリスト教系の学校に通っているから抜擢したのだと思いますが」
いいや、と聖は心の中で呟く。きっとその珠子さんという人は、志摩子のピアノの腕前をよく理解していたのだろう。そして何より、信頼できる人格であることを分かっているのだろう。それは控え目に謙遜することではなく、堂々と誇って良いことだ。しかし、志摩子が最もそのようなことを望まない人間だということを知っているので、あえて口にはしなかった。
聖が改めて志摩子の表情を窺うと、実に満ち足りた表情をしているのが分かる。そのことが、聖を落ち着かなくさせた。志摩子は敬虔なキリスト教徒である。もしかしたら充足は、神への対価なき貢献から生まれたものなのかもしれない。聖の心の中に、不安がじっとりと重く圧し掛かる。教会と、従事する彼女の在り方は、否が応にでも一人の存在を思い出させた。
不敬なことだと、聖は自嘲する。リリアン女学園はミッション系、つまりキリスト教を基にした理念の元に成り立っている。信仰するほどにキリスト教を基としている生徒は少ないが、それでも彼の父を疎ましく思うものはいない……自分のようないくつかの例外を除いて。聖は、女学園の中でほぼ唯一、神というものの聖性と善性に疑問を持つ人間だった。
それが、神の娘のような敬虔で美麗な少女を妹にしているというのも、だからある意味で皮肉な話だった。
「それで」きゃいきゃいと、二人の後ろで騒ぐ小さな姉妹を他所に、志摩子は話しかけてくる。「お姉さまはどのような用事でここに?」
「さっきも言っただろ、他意はない。ぶらぶらとしてただけだよ」
「……本当ですか?」
じっと、聖の瞳を見つめる志摩子。どちらとしても、などと軽く流したように見えて、実はしっかりと意識されてたりするのが、聖には何とも面映かった。悪い気分ではないが、心苦しくもあり、何よりも落ち着かない。その真摯さゆえ、交わした視線を逸らすことができなかった。そんな志摩子に対し、聖の心にある抑え難い感情が浮かんでくる。
「私は、何も干渉しないし影響を与える気もない。だからこそ、私たちは共に在る。そうだろ?」志摩子は、こくと肯く。聖は、少し厳しく言葉を繋いだ。「確かに、普段の私は少しばかり不真面目かもしれない。だが、志摩子と交わした約束を忘れるような姉ではない……と自負してるつもりだ。それくらい、分かってくれていると信じてたのに。思ったほど信用されてないんだな、私は」
少しきつ過ぎたかな、とも思う。しかし、何故か感情が先走ってしまったのだ。先程の少年の時は制御できる怒りだったが、今のは制御できない怒り。彼女の何かを変えるような、感情の示し方だった。聖は、自分が先程気にもないといった影響を強く与えていることに思い当たり、慌てて取り繕おうとする。だが、既に遅く志摩子の顔色は可愛そうなほど青く染まっていた。声を出すことすら、叶わぬように見える。
「あ…………」志摩子は、ただの一文字すら口に出すことが苦痛になるくらいの、悔恨に苛まれているようだった。聖は心の中で舌打ちする。心を試すような物言いが、彼女を酷く傷つけてしまうことくらい、とっくの昔に知っていたはずなのに。
でも、ここまで脆いものだとは思わなかったんだ。
思わなかったんだよ。
「ご、ごめん……なさい……」まるで、枯れた井戸から水が沸くように。透明な言葉が、志摩子の口からもれる。透明な雫が、目尻から溢れ出ようとしている。「私、そんなつもりじゃなかった……」
小さく鼻を啜る音がする。こういう時、どうすれば良いのだろう。聖は必死で考える。学期末テストの数倍も、数十倍もの思考を、脳の中でぐるぐると回す。ああ、例えば……と、聖は蓉子の顔を思い浮かべる。彼女なら祥子に、優しくも厳しく「泣いては駄目よ」と言うだろう。それで祥子は毅然とした態度を取り戻すのだ。また、令ならば躊躇うことなく由乃の頭を撫でて目頭の涙を拭うであろう。
でも、自分にはそのどちらもできそうになかった。その心に直接触れたりでもしたら、また何かをしてしまいそうで、同じことを繰り返してしまいそうで、怖い。
とても、怖いのだ。
それでも、聖は辛うじて、最後の理性でハンケチを取り出した。せめて、これで涙を拭って欲しかったから。そしてもう一度、波打つ液体を瞳に滲ませた志摩子を直視する。逃げることだけは、したくなかった。
最早、戦艦は沈没寸前というところまで来た時。
援護は聖の足に、酷い鈍痛となって現れた。
「痛てえっ!」
痛みよりも寧ろ、その衝撃自体に驚き、聖は声をあげる。右足を思い切り踏んづける感触がした。誰かと思って見ると、例の姉妹の片割れ……妹の由梨が、聖をきっと睨みつけていた。
「やっぱり悪い奴だ!」少女はびくびくしながらも、聖に精一杯立ち向かっていた。ぐいと強引に割り込み、志摩子を守るようにして立ちはだかる姿はとても拙いが、聖には何よりも不可分な壁に思えた。本当、何という大きく超え難い壁なのだろう……。「お姉ちゃんを泣かせたな! 志摩子お姉ちゃんを苛めたな!」
「こら、やめなさい」
静止する姉の絵理の手を、由梨は鋭く払った。番犬のように歯を剥き出しにして唸る彼女に、聖は自分の仕出かしてしまったことの重さを思った。
志摩子……と心の中で呟きながらその姿を追うと、彼女は番犬のようにして構えていた小さな少女の頭を優しく撫でている。先程まで泣きそうだったというのに、今は理想的な保護者の笑みを浮かべていた。
「私は、別に苛められてないから大丈夫よ」
しかし、気弱だが一度決めたら頑固そうな女の子から、顔の険しさは取れない。
「でも、志摩子お姉ちゃん泣きそうだったよ。この人が酷いことをしたからでしょ?」
本当なら反論したいところだが、事実酷いことをしている聖としては何も言えない。そんな彼女の代わりに、志摩子が絶妙のフォローをする。
「そうね、確かに私は……少しばかり厳しいことを言われたけど」一瞬、間を置いたのは正直に言おうか誤魔化そうか迷ったからだろう。そして志摩子は、性分に従い正直に気持ちを述べた。「でも、それは私が間違ったことをしたからなの。由梨ちゃんも、間違ったことやいけないことをしたらお母さんやお姉ちゃんに怒られるでしょう? そうしたら、相手が正しいと分かっていても苦しいなって思うでしょう?」
志摩子のあやすような口調に、少女はいつしか牙を収め、じっと聞き入っている。そして、大きくまっすぐと肯いた。
「だから、このお姉ちゃんは悪くないの」
志摩子の口から出た言葉だから、何とか納得しようとしているのは分かる。でも、やはり涙を流しそうになったという事実は拭い去れないようだった。何度も聖と志摩子を交互に見つめ、ようやく心に整理がついたのだろう。聖に、ぺこりと頭をさげた。
「ごめんなさい」
しゅんとした顔つきで、少女は聖を見上げた。
「間違えて、ごめんなさい。それと、足を踏んじゃってごめんなさい」
悪いと思ったから、きちんと謝る。それは子供っぽい、とても真っ直ぐで一途な心だった。それは聖のような心の持ち主に、殊更よく届く。怒りも悔恨も今だけは去り、この善良なる少女を優しく撫でてあげたいという気持ちで一杯になった。
ひんやりとした手が、子供の熱を帯びた額に当てられる。そして、ゆっくりと混ぜっ返していく。少女は最初、戸惑っていたが、やがて目を細め、心地良さを受け止めてくれた。
「良いよ、別に大して痛くなかったし。大好きなお姉ちゃんを泣かせようとしたんだ、許せなくなって当然だと思う。だから、気にしないで良いよ」
聖の許しに、少女の顔がぱっと明るくなる。「ありがとう」と。素直な礼の言葉が、心の中にすうと響いた。
背を伸ばし、前を見据えると四人は再び歩き出した。家に着くまで、聖の左手は由梨という少女が占有していた。子供には好かれない性質だけど、この娘だけには気に入られたらしい。同じく、絵理の手を繋ぐ志摩子の後姿を見て、聖は思わず苦笑する。まるで、年の離れた姉妹が二組で歩いているようだったから。
そして、五分も歩いただろうか。姉妹の苗字と同じ表札の家に辿り着いた。呼び鈴を押すと帰りを待ち受けていただろう母親が、間を置くことなく飛び出してきた。社交辞令は志摩子に任せ、聖は手を繋ぐ少女に視線を合わせた。
「じゃあ、ここでばいばいだな」
すると、少し悲しそうな顔をした後、由梨は自分からその手を離した。そして、離した手を精一杯に振ってみせた。
「じゃあね、優しいお姉さん」
優しい……か。そんな言葉をかけられたのは本当、久しぶりだ。聖が気を良くして手を振り返すと、由梨はもじもじしながら付け加えた。
「それと……あまり、志摩子お姉ちゃんに厳しいこと、言わないでね」
「……ああ、約束する」
まさか、八歳児に気を遣われるとは思わなかった。そんなに見ていて危うげな関係なのだろうか、自分と志摩子は。そんなことを考えているうちに、話は終わったらしい。最後にもう一度、小さな姉妹に手を振ると、聖は志摩子と二人だけで歩き始める。だが、先程のやり取りの後では何となく気まずかった。
「あの……」辛うじて、志摩子が小さな声を紡ぎだす。「皆を送り届けたら、一度報告に戻らないといけないのですが」
「ああ、例の珠子さんね」
今、病床にある志摩子の師。そのイメージは聖に、華奢で可憐な中年女性を思わせた。白い百合が似合いそうな、そんなイメージだ。
「ええ」と肯く志摩子。その後に続く沈黙が重く、かと言ってどのような言葉をかけて良いのかが分からない。何度か『語りかけてくれテレパシー』を飛ばしたが、志摩子の脳に受信装置は存在しないらしく、微妙に視線を逸らされたまま、無視された。また、志摩子も聖に目線を送り続けていたが、聖は沈黙を守った。
こういう不器用なところが、似ているとは分かっていたけど。それが負の方向に重なるとこうももどかしいとは。頭を掻き毟りたくなるのを必死で抑え、何とか会話のきっかけを作ろうと試みる。例えば、塀の上を歩くぶち猫から話題を膨らませるにはどうすれば良いか、とか。例えば、実はわたしフライマンタを見たことがあるんだけどどう思う? とか。
いざという時に限って上手く働かない頭が嫌になる。移る風景、行き交う人々、初秋の穏やかな空気さえも、二人の間を埋めるどのような効果ももたらさない。結局、どのように拙くても、言葉にするしかないのだ。思考がそこに行き着いた聖は、意を決して話しかけようとする。しかし、ほんの少しだけ遅かった。
「着きました」と志摩子が言う。目的地に着いたのだ。
前を見ると、そこには申し分のないほど純粋で素朴な教会が立っていた。煉瓦で形作られ、所々に採光用の円筒窓が備え付けられた二階建ての建造物。屋根には青銅の十字架がそびえ、神のために作られた建物であることを象徴している。無骨な釘で彩られた両開きの正門は開かれており、それは何者をも受け入れるキリスト教の根本精神を示しているようだった。中からは僅かに、礼拝堂の様子が伺える。一杯に詰めて十人入れるかどうかの小さな場所だったが、凛として荘厳な面持ちは見て取れた。
敬虔深い志摩子は、畏敬の念で建物を見つめている。聖にしても、ここまでイメージを喚起するキリスト教建造物は珍しかったので、思わず仰ぎ見てしまった。正に、迷える子羊たちのための場所だ。
「さあ、行きましょう」
志摩子に促され、聖は正門から教会に入ろうとした。
「いえ、そちらではなく裏に回るんです。正門は礼拝堂にしか通じてませんから」
どうやら、牧師館の役割も兼ねているらしい。写真部の彼女なら趣き深い様子を巧みなアングルで写し撮るのだろうなと。少しだけ、そのようなことを思う。しかし、直ぐに前を歩く志摩子のことへと比重が傾いていく。とうとう、何の言葉もかけられなかった。後悔を想いながら、やって来た裏門。正門には及ばずとも、西洋の重々しい雰囲気を表すには十分すぎる釘使いと色合いだった。
何が、出てくるのだろう。
そう考えるのも束の間、志摩子は物怖じすることなく扉をノックした。
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