SECOND PART

----AFFECTION----

 

―3―

闇の中を盆踊りしながら、紅い布を全身に靡かせ闘牛に追いかけられる――そんな支離滅裂でとても疲れる夢を見た。現実でも疲れて、夢の中でも疲れるなんて酷過ぎる、夢の中の人間とは思えないほど冷静な思考を取り戻した時、私は遇に目覚めた。

意識は取り戻せたものの、視界は未だぼんやりとしている。まるで初冬の早朝に臨む、林野を覆う霧のように。頭は目覚めているのに、体が一つも動かせない。それが金縛り状態であると判じた時、意識が一度に弾けた。きっと幽霊だ、幽霊が憑りついていて、だからあんなに奇妙な夢を見たんだ。途端に恐慌をきたし、何も考えられなくなった。

逃れようにも体は動かない。僅かに瞼の端を必死に動かし、微かに揺れる人影に助けを乞う。しかし、ここでまた途轍もない想像を浮かべてしまった。怪談物語では、人間と思って近付いたら妖怪等の類であるということが連としてある――。

「あら、目を覚ましたのね――って、何で私のことをそんな怯えるような目で見るの? 大丈夫、ここは保健室よ――だから、貴女が慌てるようなことは何もないの」

目の前にいる白衣の女性は、優しそうな――困ったような視線を向けている。見た目は普通の人間だが、しかし金縛り状態だということは、やっぱり何か憑りついてるに違いない。徐々にこちらに近寄ってくるのに、指一本動かせないのが恐くて堪らなかった。

「だーかーら、何でそんなに警戒心露わな顔をしてるの。別に人攫いとかそういうんじゃないって――ああ、もうどうやって説明したら良いかな。よく周りを見渡して――小学校の頃から代わり映えのない普通の保健室の光景でしょ」

白衣の女性に諭されて、私は眼球が動く範囲で部屋をもう一度眺め回した。確かに薬の沢山入った棚がいくつも並んでいるし、ベッドや身長・体重計の形も見られる。しかも窓から流れ込む光から、今がまだ昼間だということも分かった。幽霊なんて出る訳がない。

私が納得したような表情を浮かべると、それを受けて女性が優雅な笑みを返し、再び語り始める。

「ね、納得した? 貴女はね、通学路で急に倒れたの。それで、ここの学校の先輩が親切にもここまで運んでくれたの。余程、緊張したのか疲れたのか知らないけど――ところでまだあなたの名前を伺ってないわよね。えっと、かみづきみおさん――かな?」

違うの違うの。

私の名前はこうづきみお。でも、今はその間違いを正す手段がない。体が動かないから、どのような手段をも使うことができない。ただ、微かに動く瞳と顔の筋肉で、必死に違うと訴えた。その努力が通じたのか、白衣の女性はぽんと手を打つ。

「何だか、違うって訴えてるようね――じゃあ、こうづきと読むのかしら」

今度は目一杯の肯定を、全身に込めた。

「成程――こうづきさんね。私はここの高校で保険医をやってる鴻薙美香って言うの。これからももしかしたら、色々と会う機会があるかもしれないから、紹介しておくわね」

こうなぎみか、先生か――どのような漢字を書くか興味があったけど、今はそれより大事なことがある。どうして、幽霊が原因でないのに金縛り状態なのだろう。鴻薙先生も私が身動き一つせず、また一言も喋らないことに、ようやく疑問を呈し始めた。

「ところで貴女――先程から全然動けないけど、どうしたの? もしかして、疲れ過ぎて体が動かない? まあ、今日のようなことがあって、登校初日で緊張してたってわけなら、金縛りみたいな症状がでてくることもあるでしょうけど。手も動かない?」

私は首を本当に僅かだけ動かした。そして、鴻薙先生がいつも聞かれることを問うてこないことを疑問に思う。私と初めて会う人は皆、体が動かないより先に――声がどうして出ないのかということを尋ねてくるから。中には、ずっと喋らないことに「礼儀のなってない子供だ」と怒り出す人もいるから、尚更、不思議だった。

疑問であるが故の沈静を肯定と受け取ったのか、鴻薙先生は神妙な面持ちを示す。

「そう――まあ、担任にはもう伝えてあるから。後で様子を見に来るかもしれないわね。それと、ここに運んできた深山って娘も。その状態じゃ、入学式にもホームルームにも出られないだろうし。ご両親には連絡を入れてないけど、連絡しておく?」

両親――の言葉。私は動かない身体で必死に否定した。

「――分かったわ、まあ心配かけたくないっていう気持ちも分かるしね。夕方まではずっといるから、回復するまでここで寝てて良いけど、夕方になっても調子が戻らない時は両親に連絡を入れる――これで良いかしら」

それは、誰が聞いても妥当な選択なんだろう。私は『両親』にあまり心配をかけたくないし、迷惑させるのも嫌だ。けど、ここでごねてもしょうがないから渋々、肯定の態度を見せた。鴻薙先生は怪訝に思っただろうが、仕様がないだろう。

「じゃあ、私は向こうの机で仕事してるから。上月さんは、ゆっくり休んでるように」

そう言われるのと、再び目を閉じて意識を眠りの中へ落としたのとはほぼ同時だったと思う。それから二時間程、今度は夢を見ない眠りを享受することができた。目が覚めると、金縛りは嘘のように無く、代わりに目の前には一人の女性が立っていた。それは朝、私が高校への道標へと後を付けていた人だった。

もしかして、この人が私をここまで運んできてくれたのだろうか――。

そして、目の前の女性の態度はそれを肯定するような感じだった。

「良かった――いきなりぐったりと寄りかかってきたから、心配したのよ。でも、その様子なら大丈夫そうね」

それは、まるで面倒見の悪い妹を気遣うような口調だった。

 

―4―

案外、元気そうな彼女の様子に安堵しながら、私は至って気楽げに声をかけた。なのに全力で首を振って、元気なことを肯定しようとするわ、まるで命の恩人のような目で見られるわで、私は少し――いや、かなり戸惑ってしまった。

「えっと、かみづきさんだったっけ?」

少女はぶんぶんと首を横に振る。

「じゃあ、こうづきさんで良いのね?」

すると、今度は満面の笑みを浮かべながら肯定した。私は漏れる苦笑を必死に隠しながら、自己紹介する。

「私は深山雪見――ここの高校の三年生よ。まあ、これからお世話するかどうかは分からないけど――宜しく」

そう挨拶をすると、上月さんは辺りをきょろきょろと見回し始めた。その視線はやがて、彼女の持っていた鞄に行き当たる。ふらつく身体でベッドから飛び出すと、鞄から濃緑色のスケッチブックを取り出した。他愛もない言葉や挨拶ばかりが書かれていて、朝の時も疑問をもった代物だ。

上月さんは、そこにマジックで何か書き連ねると、まるで挨拶をするように差し出した。そこには大きく『上月澪』と書いてある。

「ええ――上月、さんよね?」

私が疑問に思っている間にも、上月さんは次のページに何かを書き付けけていた。

『こちらこそ、よろしくなの』

私がメッセージを見終えるのを確認して、上月さんは実に行儀よく頭を下げた。これが、彼女なりの挨拶だったと気付くと同時に、何故こんなことをするか、その理由も何となくだが分かった。

「もしかして貴女、喋れないの?」

その言葉に、上月さんは大きく一度肯いた。成程、だからスケッチブックにはあれほどの日常に満ちた言葉が書き連ねてあったわけだ。そして、相手に思いを伝えることに何の手抜きも、そして衒いも見せていないことに、私は好感を覚えた。それだけでも、上月澪という人間の、素直さと直向さが感じられる。

或いは、その姿に親友の姿を重ねたのかもしれない。彼女も上月さんとは違う種類のハンデを抱えているが、直向きで明るい笑顔を絶やさない素敵な女性だから。

そのことを上月さんは知らないせいだろう。逆に、私が喋れないという事実を平然と受け止めていることに疑問を持ったようだった。

『驚かないの?』

「ええ。それとも、大袈裟に驚いて欲しかった?」

意地悪く言ってみると、上月さんは本当に嫌そうに首を横に振った。

「ふふ、冗談よ。そんなこと、私はしないから」

すると、彼女は本当に嬉しそうな笑顔を浮かべる。本当に表情の豊かな娘だ。そして、身振り手振りや仕草も本当に可愛い。今時、ストライプのリボンをつけているのも珍しいと思う。まるで小学生のようだ――と言ったら、上月さんは怒るだろうか?

でも――これは演劇部に属している故の視観だろう。舞台で何かを演じさせたら、さぞ映えるだろうという、確信めいた感情が胸の中に生まれていた。それこそ、喋れないというハンデなど埋めて余りあるくらいに。

ぼうっとそんなことを考えていたからだろう。こちらが何も言わないからかもしれないが、上月さんは覗き込むような視線と共に尋ねてきた。

『あの、これから何か用事はありますか?』

私? と指差すと、上月さんはこくこくと肯いた。

「ええ、部活があるけどまだ時間の余裕はあるわ。もしかして、何か頼みたいことでもあるの?」

訊くと、上月さんはそうだと言わんばかりに次のメッセージを送った。

『案内して欲しいところがあるの』

「もしかして、学校の中?」

『全部じゃないの――二箇所だけ』

二箇所だけ――私は該当しそうな場所を幾つか考えた。一箇所は恐らく上月さんがこれから一年過ごす教室だろう。けど、もう一箇所については何も思い当たらない。

「何処に行きたいの?」

その言葉に、上月さんは行き先を先程よりも大きいサイズで描いた。余程、彼女なりに思い入れのあるのだろう。が、その行き先を見て私は絶句した。

『私の教室と、

    演劇部の部室』

こういうのを、天の配剤と言うのだろうか。

それこそ凄い巡り合わせだけど、上月さんは案内人に最適な人物を既に探り当てていたこととなる。私は私で、そのことに運命的なものを感じずにはいられなかった。運命なんて殆ど信じない、私だけど――。

上月さんは、私がはいと肯いてくれるかどうか、ずっと不安だったのだろう。怯えた兎のように、潤んだ瞳でこちらを見やっていた。私は――もう、ずっと何処かに置いてきた筈の悪戯心が胸にわいてくるのを抑えられなかった。それでも、表面は冷静を装った。

「分かったわ。上月さんさえ良ければ、今から案内してあげるけど、どう?」

彼女の反応は、顕著だった。スケッチブックに急いで『ありがとうございます』と書き付けると、何度も何度も頭を下げた。これでは、軽い悪戯を仕組もうとしている私が悪い人間みたいだ。けど、私は上月さんの反応を見てみたかった。

演劇部の部室に入った時、私がそこの部長だと知った時の彼女の顔を――。

私と上月さんは、最後に保険医の鴻薙先生に頭を下げてから部屋を後にする。隣ではしゃぐ彼女を見ながら、内心では私も馬鹿みたいに浮かれていた。

こんなに浮かれた気分になるのは、久しぶりだった。

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