プロローグ
雨を降らせるほどではない雲が空を彩り、秋の日差しがさんさんと降り注いでいた。絶好の行楽日和であり、家で穏やかに過ごすのにも快適そのものである。猛夏の名残は既になく、豊かな恵みを約束するかのような好天である。うじうじしていたらそれこそお天道様に笑われようというものだ。
というのに朝から胸のうちが重たいばかりで、家事も修行も全く身が入らない。縁側に腰掛け、好天を恨めしく思いながら溜息を繰り返す始末だ。
今日ばかりではない。ここ数日……久々の実家帰りから戻ってきてこの方、ずっと気分が重いままだ。母がわたしの心情を理解するはずもなく、博麗の巫女という危険を伴う仕事から遠ざけようとするのは予想もついていたが、まさか五年近くやってきたことをあそこまで頭ごなしに否定され、くどくど説教されるとは思ってもみなかった。
母は昔からそうだ。わたしのみならず、家族の誰かが危険な行動を取ろうとしたらすぐに制止し、感情的に否定しようとする。悪い言葉が許されるならば、病的であると表すことに躊躇いを覚えない。母のせいでわたしは普通の子供のように外で遊ぶことすら満足にできなかった。
『母さんのこと、あまり責めないでやってくれ』
辟易するわたしを父はそう言って宥めようとしたけど、納得できるはずもない。他の家で許されていることを許してくれず、理屈もないのだから。そして父も母のヒステリィに似た発言の理由を教えてくれなかった。だから単なる病気で、わたしはその犠牲者だと考えることにした。
いつしかわたしは一刻も早く、家から逃れることを考えるようになっていた。だからある日、博麗神社の社務所から来たという人が訪ねてきて、わたしを巫女として抜擢したときどんなに嬉しかったことか。
母はわたしを躍起になって止めようとした。父も母の味方であり、その年で一人暮らしというのはあまりに時代遅れだし、遠くに行けば友達も悲しむだろうと狡い方法で引き止めようとしてきた。
確かに友達はいたけれど、家から逃げられることに比べたら天秤にかけるまでもなかった。
『このまま一緒に住んでたら、わたしはきっと母さんのことも父さんのことも嫌いになるわ!』
言葉も尽き、諦めと怒りの混じった恫喝によってようやく両親の説得は止んだ。否、理性が剥がれ落ちて感情が剥き出しになったのだ。聞くに耐えない罵詈雑言と嘆きがわたしを容赦なく打った。
あんなにも親に刃向かうなんて、なんて悪い子供に育ったんでしょう。わたしはあなたを大事に育ててきたのに。あなたの○○○○みたいな目に遭わないように、○○に○されないよう万難を排してきたというのに。全てが間違いだったと言うの?
そんなことを口にしていたような気がする。記憶にあまり残っていないのは興奮した母の口調が実に不明瞭で聞き取り辛かったからだし、頭の隅に置いておくことすらはばかられる内容だったからに違いない。
母は心配性なりに、わたしに優しかった。でもその日から恨み言しか口にしなくなった。いつかわたしが正しいと分かる日がする。せいぜい痛い目に遭ってそのことを思い知るが良いと毎日のように口にされた。父は母を宥めるばかりで、わたしの心配をしてくれなかった。
博麗神社に移り、前任者からの引き継ぎが完了して一人暮らしを始めてから、母は何も連絡を寄越さなかったが、父からはメールで便りが来たし、わたしの仕事ぶりを見に直接神社を訪ねてきたこともある。
メールをフィルタで弾いたことも、父を赤の他人と同様の参拝客としてしか扱わなかったことも、責められる筋合いはない。わたしは許されなくても良いから、母のことはいつか許してやって欲しいと言われたとき、死ねという言葉が口から出かけたとしても。
口に出さなかったことは賞賛されて然るべきだ。親は子供を愛するものだとよく言うけど、わたしの両親は愛で子供を傷つける怪物だ。それでも妖怪ではなく人間だから、博麗の巫女となっても退治することはできない。それはとても歯痒いことだと思っている。
「おや、いつになく冥い顔をしているわね」
聞き覚えのある声がわたしを呼び、見覚えのある顔がわたしを間近に覗き込んでいた。その明るく弾んだ声と自信満々の笑顔はどうしようもない過去に沈み込もうとしていたわたしの心を現実に引き戻す。
「天子さんじゃない、随分と久しぶりだけど」
彼女は比那名居天子、わたしに本格的な弾幕決闘と格闘術一般、そして剣のふるい方を教えてくれた師匠であり、わたしが困ったとき相談に乗ってくれた恩人でもある。
神社での仕事が軌道に乗ってからは訪ねてくることもめっきり少なくなり、前に会ったのは雷鼓が主催したコンサートの会場だった。もう二年半も前のことになる。
「最近はずっと忙しかったの?」
「天人はいつも悠々自適、やりたいことをやる。忙しい、なんてものを楽しむのは下界の人間だけよ」
好きで忙しくしている人間なんていないはずだが、天子はそう考えていないらしい。なんとも独善的な考え方だがいちいち憤慨していては人外との付き合いなんてできるはずもない。噂によると昔はもっと性格が酷く、傍若無人が服を着て歩いていると揶揄されたこともあったという。
「とはいえ、下界で色々と起きるから眺めているだけで少しばかり忙しなかったかな。やっぱり弾幕決闘が流行している時期って活気が違うわね」
「眺めていたって、じゃあ郷中がアリで溢れた時もずっと見てたの?」
「地に這う者同士、わちゃわちゃやっていてまるでお祭りみたいだなあと思っていたわ」
あまりにもあっさりと言ってのけるものだから、呆れるべきか怒るべきかさえ分からなかった。どう言い返して良いか分からずにいると、天子は「冗談よ、冗談。霊夢ったらいちいち真面目なんだから」と言いながら気安く頭を撫でられてしまった。
「異変って博麗の巫女やそのフェイカーたちが解決するものだから。そのどちらにもなれなかったら傍観者として見守るよりほかはないのよね。不出来な弟子が心配だからといちいち口や手を出していたら、博麗の巫女に取り入って何を企んでるのかこの野郎と因縁をつけられかねないの。まあ前科数犯だし、自業自得なんだけど」
己の罪業をさらりと笑い倒してから、天子はわたしの隣にどっかりと座り込む。
「そんなに冥い顔をされたら声をかけざるを得ないわよ。悩めることがあるならば、この偉大なる天人様にどーんと相談して頂戴」
拳で胸をどんと叩き、本当の姉のように偉ぶる天子を見ていると、心の奥にある凝りがすっと溶けていく。彼女になら打ち明けて良いと思い、わたしはここ数日抱え続けてきた悩みを溜息のように口にする。
「両親と上手くいってなくて悩んでたの」
「あー、そういう問題かあ」
と思いきや天子の顔色が途端にぎこちなくなる。天子もまた家族関係に悩んだことがあり、上手く解決できなかったのだとその反応から察することができた。
「まあ……話すだけ話してみて。適切な助言や教訓を与えることがもしかしたらできないかもしれないけど、その時は勘弁してくれると助かるわ」
「聞いてくれるだけで十分よ」
どこから話したものか悩んだけど、過去のあれこれをいちいち語ればそれだけで気持ちが後ろ向きになりそうだったから、要点だけを話すことにした。
「この前ね、久々に実家に帰ったの。博麗の巫女の任期がもうすぐ満了になるから、身の振り方を話し合いなさいと上司に言われちゃって」
霊夢はまあ色々と特別だけど、それでも特別扱いするのは極力避けたいというのが紫の主張であり、我が家の家庭環境を察してなおそう提案してきたのだ。
「博麗の巫女に任期満了なんてあるんだ。郷で一番力のある人間がなって、力不足を感じたら次を見つけて引退って流れだと思ってたわ。そもそも霊夢の次って簡単に用意できるものなの? 弾幕決闘が本格流行して異変もばんばん起こってさ、任期満了程度でやめられるものだとはとても思えないのだけど。それとも霊夢はもうやめたいの?」
矢継ぎ早に質問を突きつけられたら本来は戸惑うところだが、ずっと考え続けてきたことである。だから迷うことなく答えることができた。
「任期は五年だけど本人が申請し、上司が承認し、かつ保護者が許可すれば五年間延長できるの。三期以上の継続は人道的に認められないから、十年勤めたら引退する以外の選択肢はないのだけど」
「なるほど、今の幻想郷は博麗の巫女に人権が認められるのね」
「何よその言い方、それではかつての巫女に人権がなかったみたいじゃない」
「みたいじゃなくて実際になかったの。例えば大昔の、あなたと同じ名前の霊夢なんて異変と来たら本人の事情なんて待ったなしだったもの。今の霊夢も第三種緊急事態だっけ? 異変を解決するまで通常業務に戻れない決まりはあるけど、調査を円滑に進めるための超法規的な措置が許可されている。最低限の収入も保証されているわよね?」
当時の巫女は公務員でもなかったし、守矢神社のように個人経営の祭祀者だったと聞いている。天子の言う通り、わたしよりずっと大変だったに違いない。色々と比べられて胸のもやもやを積み重ねてきた時期もあったが、そう考えると同情の余地も大いに湧いてくるというものだ。
「仕事に専念するための仕組みや福利厚生が整っているのは悪いことではない。職業選択の自由、大いに結構。人間の自由なんてわたしには興味がないけど、目の前にいる巫女の自由は気にならないわけでもない」
天子はそこまで口にし、わたしの目をひたと見据える。何らかの覚悟を求められているのだと感じた。
「それで、霊夢はどっちなの? 続けたいの? それともやめたいの?」
「続けたい」
迷うことはなかった。現状を放り出すわけにはいかないという使命感も幾許かは感じているが、それにも増して博麗の巫女という立場に魅力を感じている。弾幕決闘も好きだし、好敵手と呼べる相手もいる。命の危険に晒されるかもしれないが、いま暫くは大空を駆るものでありたい。
「そこまで確固たる決意があるのに冥いならば、己ではどうにもならない箇所に原因があるってことか。そこで家族が絡んでくるというわけね」
「ええ……両親が許可を出してくれないの」
お前が巫女になってから郷は騒がしいばかり、つまりは全く向いてないってことだよ。先代の時も先々代の時も、わたしの記憶にある限りにおいて郷がこんなにも乱れたことはないというのに。
というのが母の言い分だった。父はもっと月並みで、わたしには普通の子供に戻って高校に入学して欲しいと考えている。そして硬軟の違いはあれど、二人ともわたしに許可を出すつもりなどさらさらないのだ。
「霊夢の親は子供の進路に口出しする権利がある、という考えなわけね」
いつも悠々と、天人として振る舞う天子がまるで人間のような嫌悪感を露わにしていた。
「そこまで考えてないと思う。わたしが危険なことをするのが嫌なだけ」
『妖怪退治屋なんてね、もう時代遅れなのよ。霊夢も近いうちに分かる日が来る』
母はわたしを否定できて嬉しいと言わんばかりに、実に厭らしい笑みを浮かべてみせた。わたしの頑張りなんて意味がないのだと知らしめようとしてくるのが耐えられなくて、もうこれ以上は話し合いなどできなくて。
わたしは逃げるように実家を飛び出し、博麗神社に戻ってきたのだ。
「子供が無謀なことをしているならば、親は止める必要がある。でも霊夢は己を知り、十分に注意を払った上で危険に飛び込んでいる。それでも霊夢を子供という理由だけで頑として止めようと言うならば、それはもはや親の行いではない。愚者が足を引っ張っていると言うだけのこと。決して許されることではない」
天子はまるで我が身のことのように、わたしの境遇を痛烈に批判してくれた。実を言えば間違っているのはわたしではないかと迷ってもいたのだが、それもいまや完全に払拭された。前を見ようと決心することができた。
だが、今回に限ればそれだけでは話は進まない。
「両親を説得する以外の方法はないの?」
「紫なら博麗に関する決まりを変更するよう動議をかけることができるし、絶対に必要な人材だからと無理に徴発することもできるみたい。でも例外が簡単に通るようならそもそも決まりを作る意味がなくなるとも言っていたわ」
「人間社会って本当に難儀ねえ。それを押しつけてくる八雲紫も八雲紫だけど。あいつは昔から、妖怪のくせにやけに人間臭いところがあるというか、ルールを作るのが好きな奴だったわよね」
「まあ、悪いことではないと思うけど。それに博麗の巫女が極力ルールに縛られないための最低限の決まりごとだってことは理解しているの」
規約を読め、ルールを知悉してこそ最大限に利用することができるとは紫の言であり、博麗神社の事務処理を一手に引き受けてくれる橙の言でもある。橙の使役者である藍とは数度だけ顔を合わせた限りだが、きっと同じことを口にするはずだ。八雲とはルールを重視する性質を持つ妖怪の姓(かばね)なのだろう。
「面倒にも理由があるってことか。それもまた面倒だけどねえ……」
天子は渋い柿でも食ったかのような表情を浮かべたが、いきなり悪戯を思いついた子供のような無邪気さを露わにし、ずいと顔を近付けてきた。
「あのさ、第三種緊急事態ってあるじゃない。その際には博麗の巫女があらゆる決まりに優先できるのよね?」
天子の言わんとすることはすぐに理解できた。わたしもその可能性を考えなかったわけではないからだ。
「異変ってそう簡単に都合良く起きるわけじゃないのよ。だからこそ紫も両親を説得するように言ったわけで」
「それがあるのよ、これから起きるホットな異変が」
猛烈に嫌な予感がしたし、天子の口をすぐに止めるべきだと考えたが、猶予は与えられなかった。天子は素早く立ち上がると大袈裟に両腕を広げてみせた。
「今日ここに来た本当の目的なんだけど、霊夢に宣言することだったの。このわたし、比那名居天子が郷中を揺るがす異変を起こす。解決できるものならしてみなさいと」
「えっと、冗談よね? わたしを励ますつもりならばそれは逆効果としか……」
「本気の本気、大本気よ。でもね、霊夢が気に病む必要はない。わたしはわたしの目的のために異変を起こすから、霊夢は解決がてら自分のために利用すれば良い」
どうやら天子はわたしを助けるために言っているわけではないらしい。本気で何か事件を起こそうとしている。それならばわたしは巫女として異変を解決するため、元凶である目の前の天人、我が師匠を止めなければならない。
「事件を起こすと宣言した相手をやすやす見逃すとでも思うわけ?」
「霊夢こそろくに装備もない状態でわたしを止めることができると思ってるんだ。それはちょっと甘いんじゃないかな? 個人としてのわたしは霊夢に甘いけれど、天人としてのわたしはそうじゃないのよ」
天子への返答は言葉ではなく、いざという時のために隠し持っている針と札である。出し惜しみはなし、全弾命中させたのち捕縛するつもりだった。
だが、その目論見は上手くいかなかった。針は全て弾かれ、札は届く前に蒸発してしまったからだ。天子の体からいつの間にか赤いオーラのようなものが立ちこめており、対峙しているだけで気圧されそうだった。
「徒手でもこれくらいはできるのよ。さあ霊夢、これから始まるのは訓練でもリハーサルでもない、かつて郷中を震撼させたこのわたしが起こす最新の異変よ。その時が訪れるのを楽しみにしていて頂戴」
天子はそう言い残し、空を飛ぶでもなく悠々と徒歩で、鳥居を潜って神社を後にする。
残されたわたしは問題が解決するどころか新たな問題が発生したことで、頭を抱えるよりほかなかった。
一
《新たなアイドルグループをプロデュースするため、まずは期待の新人をスカウトしましょう》
そんな煽り文句とともにスカウト画面が表示され、一回スカウトするのボタンが中央付近に表示される。意を決して画面をタップするとまずはシルエットが表示され、スポットライトが舞台を駆け巡る演出が発生し、シルエットにライトが集中してアイドルが表示される。
スカウト結果、SR博麗霊夢。
目的のアイドルが無課金で引けるかどうかどうかひやひやしたが、今回は運が味方してくれたようだった。
達成はしたが、アニメ調で描かれた友人の姿にわたしは軽く目眩を覚えそうになった。
「これ、アイドルをやってた時に売り出されたグッズイラストの流用ですよね……」
博麗神社では半年ほど前にある理由からアイドルグループを結成する必要があり、周知のためほぼ版権フリーでグッズを作成、販売することを許可した。かくいうわたしもグループの一員としてグッズを作成されてしまい、歌って踊ってをやっていたこともあり、里に出ると一時期は歌のお姉さんと色々な人に指さされる始末だった。
郷のため友人のため一時の恥を我慢したのに、その恥が未だにネットの海をたゆたい、ゲームの一部として使用されている。最初にネットでアニメ調になったわたしがスカウトされているスクリーンショットを見た時には、この世から消える方法を真剣に考えたほどだ。
一晩経ったら少しだけ気力が回復したから、ケータイにアプリをダウンロードして真偽を確かめることにしたわけだが、結果はご覧の有様だった。
「わたしはあと三百年は生きないといけないから、いま消える訳にはいかないんですよ」
だからこのゲームを何とかしなければならない。可能なら頒布を差し止め、最低でもファンタのメンバーをこのゲームから削除してもらう。とはいえ版権フリー扱いのものを取り下げろと言っても聞いてくれるとは思えない。
「こんなことをやる時点でデベロッパーの良心に訴えるなんて無理筋でしょうし」
開発元を確認したところ、鬼神(おにがみ)カンパニーという聞いたことのないゲームメーカーだった。会社の公式サイトを調べてみたが当たり障りのない内容で、夢と希望に溢れた作品をお届けしたいというきらきらした目標が掲げられていた。
「何が夢と希望ですか!」
思わず声を張り上げ、手で口を塞ぐ。森の奥で一人暮らしをしていると、どうにも独り言が増えてしょうがない。向こう側の世界にいる頃からその傾向はあったが、最近は更に酷くなっており、気を付ける必要があった。
怒りを抑え、連絡先を調べてみると専用のお問い合わせフォームが存在し、会社情報には電話番号とメールアドレスも記載されてある。
我が家には電話回線もネット回線もないが、河童の開発した通信機器が設置されているためどちらも問題なく使用できる。アイドル騒動で河童たちの音頭を取った河城にとりという名の河童が、かつて独立祝いと称して我が家を訪ね、世話を焼いてくれたのだ。出世払いでも良いですかと言ったらその辺りは気にしなくて良いと言ってくれた。
『濃い魔力が常に漂う特殊環境化で暮らす人間というのは珍しいからね。極限の環境で正常に作動する機械を開発するための情報を得るのにうってつけと言える』
要するにモニターであり、相応の成果を得ているからお金は必要ないというわけだ。魔法で稼ぐのは存外に難しく、辻占いやマジックアイテムの卸がようやく軌道に乗り始めたばかりのわたしにとってはありがたい話だった。
電話機に手を合わせてなむなむと拝んでから掲載されている番号にかけると『この電話は大変込み合っておりますと』と繰り返すばかりで一向に繋がる様子がない。何度かけても結果は同じだった。
嫌な予感を覚えながらメールを送ってみたが、指定されたメールアドレスは存在しないという旨の自動返信メールが返ってきた。お問い合わせフォームは散々待たせた挙げ句、時間内に処理できませんでした、お手数ですが再送をお願いしますという画面が表示された。
ぺこりと頭を下げる角の生えた少女のデフォルメキャラは可愛らしいが、それとこれとは話が別だ。
そんなことではないかと思ったが、サイトに掲載されている連絡先はどれもろくに繋がらない。機能している体裁を見せているが、実際はどれだけ時間をかけても無駄なのだろう。薄々察してはいたが、思っていたよりもずっと不誠実な会社だ。
アプリのダウンロードページに記載されている電話番号はサイト掲載のものと同じ、メールアドレスは会社サイトと異なるものが乗っており、アドレスが存在しないと自動返信されてくることはなかったが、これまでの反応からして返事をくれるとは思えない。できることと言えば低評価を付けて嫌がらせをするくらいだが、最高評価が大多数を占めており、僅かな低評価は徹底的にアンチ扱いされてほぼ封殺されている状況だった。あからさまにサクラ臭いがネットの評価を見る限り非常に良くできたアプリのようで、回線の高速化に完全対応したリッチな作りとして辛口のゲーム評論家からも称賛されていた。
「付け入る隙くらいいくらでもあると思ったのに、意外と隙がない……」
結果が十分に伴った狡賢さであり、わたし一人の力ではどうしようもできない。魔理沙に相談すれば良い案を出してくれるかもしれないが、あの人はわたしがアイドルだったことを始終面白がっていた。ゲーム用アプリにわたしのイラストが使われていると知ったら、助けてくれるどころか妨害してくる可能性もある。
良い案がないか更にネットを探していると、アングラと称される掲示板サイトの片隅に使えそうな情報が掲載されているのを見つけることができた。
スカウトの排出率不正疑惑……つまり掲載されているようなピックアップが実は行われていないのではないかと仄めかす内容だった。
ネット回線の高速化に伴い、高解像度のイラストを売りにしたこの手のゲームが最近はぽつぽつ出始めているが、本体を無料で配信する代わりにガチャと呼称されるくじ引き要素によって収益を得る仕組みになっている。その根幹に問題があるとなればどれほど優れたゲームであっても継続は不可能である。
ただ、掲示板に立てられたスレッドの流れを見る限り、きちんと統計を取ったわけではなく個人の主観による憶測が大半を占めており、時折貼られているガチャの結果を見ても試行回数が少ないため参考にならない。
不正疑惑を確たるものにするためには実際にゲーム内でのガチャを繰り返し統計を取る必要がある。だが、わたしの収入で千回、二千回と有料ガチャを引くことはできない。生活費が消えるなんて生やさしいものではなく、膨大な借金が嵩んでしまう。
そこまでするのは割に合わないし、結果として不正はなかったとなればいよいよ丸損である。
「せめて情報分野に詳しい知り合いがいれば……」
稗田の現当主は相談に乗ってくれるかもしれないし、河城にとりも話を聞いてくれるかもしれない。この二人のうちどちらに頼るべきなのか決めかねていると、ドアを二つこんこんとノックする音が聞こえてきた。
我が家をよく訪ねてくる者のうち、きちんとノックしてうかがいを立ててくるのは佳苗しかいない。今日は別段、会う約束もしてなかったし、東の里に顔を出したついでに寄ってくれたのかもしれない。気を取り直してドアを開けると、奇妙ないでたちの子供がぽつんと立っていた。歯車を意匠にした帽子を被り、全体的に無機質さを感じさせる服装を身にまとっており、表情も乏しく子供らしさが感じられなかった。
全く知らない相手ではない。紅魔館の地下に暮らしている魔法使いの話を聞いていると、時折本棚の陰からこっそり覗いているのを見かけることがある。あの子は誰なんですかと訊いたら、座敷わらしのようなものだから害はないと言われただけだった。
パチュリー・ノーレッジは病弱のためか、はたまたそういう教育方針なのか、魔法に関係ないことだとしばしば説明を端折ることがある。だから自分で調べるしかなく、パチュリー以外の住人に話を聞き、十六夜咲夜がメイド長として館に定着するまで美鈴の代わりに雇われ門番をやっていた妖怪の家まで足を運んだりして、ようやくどういう存在かを知ることができた。
「ピー子さんでしたっけ? 他に正式な名前があればそう呼ぶに吝かでないですが」
彼女は元々意志を持った器械だったが、幻想郷にやって来て早々に異変を起こし、その過程で付喪神となり、手足を持つ存在として顕現した。わたしの住んでいる世界とも別の平行世界からやって来た存在であり、実を言うと一度じっくりと話をしてみたかったのだが、わたしから近付くと素早く逃げていくので対話は半ば諦めていた。
そんな彼女が自分から訊ねてくるのは渡りに船が戸惑いも感じた。どうして今日なのだろうか。単なる気紛れというわけではなさそうだが。
「機種番号、固有の認識コードは持っているけど人間には覚えにくいでしょう? ピー子で良いわ。そういうあなたは霧雨美真で良いの? 本当の名前ではないと伝え聞いているのだけど」
「古い名前はかつての世界に置き去りにしてきました。今のわたしに他の名前はありません」
ピー子が頷いたのは認識を同じにするという意味合いなのだろう。わたしたちはお互い、方向を失った鯨のようにこの世界へ打ち上げられたのち、自由に泳げる海があることを改めて教えられた同士なのだ。
「今日はどうしてここに?」
「雑談」
ピー子はその二語だけを口にし、じっと見上げてくる。彼女が情報器械をベースにした付喪神なら雑談などという不明確な目的で行動するはずもない。それに彼女は確か大気を著しく汚染しようとした罪で河童に目をつけられており、見つかればただでは済まされないと聞いている。ここには河城にとりが姿を現す可能性があるからピー子にとっては決して安泰の場所じゃない。
それらの危険を推してここまで来たならば大きな理由があるはずだ。それはわたしが彼女とどう話し、どう結論をつけるかで大きく変わってくる内容なのだ。ゆえに今は雑談としか定義できないということなのだろう。
気後れはしたが、何を話すかには興味があるし、それに彼女は情報器械の付喪神である。排出率不正疑惑が本当かどうか、課金をしなくても解析する方法があるのではないか。
好奇心と打算が入り交じり、わたしはピー子を我が家に招き入れたのだった。
二
ピー子と雑談を交わした数日後、わたしは師匠である魔理沙の家を訪れていた。ある疑問を古くから幻想郷の住人である魔理沙にぶつけるためだ。
家の中は相変わらずごちゃごちゃしており、訪ねるや否や魔理沙はわたしに助けを求めてきた。掃除に洗濯、散らかった本や書類の片付け。一緒に住んでいた頃はわたしが一手に引き受けていたのだが、その時にどうやら甘やかし過ぎたらしい。いくら居候の身だとしても、掃除の習慣を忘れさせてはいけなかった。
「年を取ると色々なことが億劫になって、片付けをする気力もなくなるんだ。やらなければいけないと分かってはいるんだがね」
ばばむさいことを口にする魔理沙を駆り立て、ほぼ半日かけて家中の掃除を済ませ、溜まっていた洗濯物をまとめて洗濯機に放り込み、数少ない日照地にまとめて干す。台所だけは清潔だったが、これは魔理沙が食を捨てており、ものを食べる必要がほとんどないからだ。わたしと暮らしている時は一緒に食べていたが、本来なら僅かな魔力を取り入れるだけで大丈夫だと聞いている。代謝がないから臭いもほとんどしない。もっともこれは魔理沙だけでなく、アリスもパチュリーも、長生の妖怪はみんなそうだ。長く生きると生き物からは臭いが失われていくらしい。最低でもあと三百年は生きようというプランを立てているわたしだが、折りに連れて寿命を克服した生き物の非人間性を突きつけられると若干、怯むものはある。
「何もしなければ、化石になってしまいますよ」
これは半ば比喩で、半ば比喩ではない。徒に生きるだけでは、やがて化石当然の生き物になる。魔理沙が七百年余も生きてきてなお溌剌としているのは、己をしっかり保っているからだ。わたしが食を捨て、虫を捨てるならば三百年後だけでなく、より先を見据えた半永久的な目標を立てるべきなのだろう。それを見出すことでわたしはようやく寿命を捨て、魔女の道に旅立てる。食や虫を捨てるほどの大層な魔法使いではなく、失敗して人間の寿命で死ぬ確率のほうが高いけれど、夢破れた時のことはあまり考えたくなかった。わたしはネガティブだから、失敗したときのことを考えると上手くいくものも駄目になってしまう。
「何かはしてるさ。実を言うとわたしの方から美真の家を訪ねる予定だってあった。でもまずは美真がわたしを訪ねた目的から片付けようじゃないか」
家内を少しだけましにしてから勝手知ったる台所でお茶を淹れ、一息つきながら話していると、魔理沙からそう切り出された。そこでわたしは本来の目的をすっかり忘れていたことを思い出した。
「その顔はやっぱり忘れてたな。しっかりしているように見えて、割と肝心なところがよく抜けてるよな」
「魔理沙さんが普段から家の掃除をきちんとしていたら、抜けるようなことはありませんでした!」
抗弁したが、魔理沙の指摘が正しいのも確かであり。頬の熱を誤魔化すために手でぺしぺしと叩いてから魔理沙を恨めしそうに睨みつけると、拝むように手を合わされた。宗教が発達しなかったわたしの世界では馴染みのない仕草だが、手を合わせる文化を知らないわたしでもそこに謝罪の意がこもっていることは最初から理解できた。なんとも不思議な仕草だなあと思い、脱線に気付き慌てて隅に追いやる。こうした思考の移動が魔理沙の指摘する抜けに繋がっているのだが、この性格はなかなか直せない。
気持ちを切り替えるために茶を幾分か含み、ゆっくりと飲み下してから、記憶と言葉を整える。
「魔理沙さんに聞きたいのは、異変についてです」
異変という言葉を聞いた途端、これまで楽しそうだった魔理沙の表情がすっと引き締まる。前々からことあるごとに感じるものではあったが、この郷の人間にとって異変は特別な意味を持つ言葉なのだ。
かつて、わたし自身が異変の対象であったことは非常に危うい状況だったのだ。そうと察しながらわたしを庇ってくれた魔理沙もまた、ただですまなかったかもしれない。今の魔理沙を見るとそれがよく分かる。
「かつての異変の主がまた今更だな。もしかして、人里でちくりと棘でも刺されたか?」
「そういうわけではなく、定義が気になったんです。半年前に起きたアイドル騒ぎですが、妖精が守矢主導のもと、徒党を組んで活動を始めたことは摩多羅隠岐奈と名乗る賢人によって異変相当の扱いとされました。ですがその発端となる四季の乱れは自然現象という扱いでした。わたしからすればどちらも異変と呼ぶべき変化なのですが、この二つの違いはどこにあるのでしょうか?」
わたしの質問に、魔理沙はなんだそんなことかといった顔をする。もっと深刻な話を切り出されると考えていたらしい。実を言えばそれは正しいのだが、いきなり確信を切り出したら警戒されると思い、周囲から固めていくことにしたのだ。その判断は間違っていなかったらしい。
「実を言えば異変に明確な定義はないんだ。隠岐奈の起こした四季の乱れも最初にやらかした時は原因不明の怪現象として異変扱いされていた。自然現象の一種であると判明したのは異変の黒幕である隠岐奈自身が明かしたことだ。その言い分にしても信用できるものではなし、誰も覆すことができず否定もしなかったから、結果として自然現象の扱いになったわけだな」
ピー子はわたしに、幻想郷に起きる異変の定義が分からないと零していたがなんのことはない。そんなものは最初から存在しないのだ。
「個人の主観以上のものは何もないと?」
「わたしはそう考えているが、敢えて理屈をつけようと思えばつけられなくもない。異変とは郷の基盤を揺るがす、不可逆的な現象群に指定されることが多い。先程も言ったようにそれが全てではないけどな」
「自然現象などの不可逆ではない出来事が異変扱いされることもあるわけですね。その逆で自然現象と思われていたことが実は異変だったという例も?」
「逆例ならそれこそ、お前の相棒が起こした異変が正にそうだったじゃないか。最初は四季の乱れかと思いきや、実は光を吸い尽くす機械の起こした問題だった。発覚こそ遅れるが、そうした例はいずれ異変として処理される」
「なるほど……後に異変と判明する場合、どのみち異変としてカウントされるから議論する意味はないと」
「そういうことだが、どうも納得できないという顔をしているな。遠慮なく言ってみると良い」
「妙なことを言うと笑ったりしませんか?」
「そりゃ、妙なことを言えば笑うよ。傾聴に値するようだったら真剣に耳を傾ける。美真のプレゼン次第だな」
魔理沙の発言はなかなかに手厳しい。私生活においてはややずぼら、魔法についても上手くできれば褒めてくれるし、駄目でも次があるさと励ましてくれるが、ふとこうした厳しさが顔を覗かせる。鷹揚で何でも許すように見えて一本の筋が通っているのだ。
何度も理屈を確認した。通るだろうとは思っているが、価値ありと考えてくれるかどうかは分からない。わたしの言葉と理屈に力があると信じるしかなかった。
「四季の乱れは隠岐奈さんの言う通り、自然と収まりました。でも、不可逆となってしまったものが一つあります。ネットの回線速度です」
わたしの指摘に魔理沙の眉がぴくりと動く。興味の虫が騒いだときの反応の一つだ。然るにわたしの指摘は傾聴の価値があるらしい。
「四季祭りもアイドル騒ぎも全ては摩多羅隠岐奈の掌の上だったと言いたいわけだ。でも四季祭りは六十年に一度のサイクルを欠かすことなく、七百年以上も行われてきた祭だ。いくら隠岐奈の計画とはいえ、ネット回線を高速化するという目的のためだけにそこまで迂遠な計画を立てるとは思えない。色々と疑わしい奴だが、あの祭りは郷に四季を認識させるという目的しか含んでいないと思うよ。それとも美真はわたしや他の賢者さえも知らない情報を何か、つかんでいるとでも?」
「情報の仕入先は明かせませんが、ネットの回線が高速化された直後から郷の中を行き交う情報の量が一気に増大しているんです」
「それはネットが高速化されたからなのでは?」
「それにしては変化があまりに早過ぎるんです。まるでネットの高速化を手ぐすね引いて待ち受けていた奴らがいるかのような増大の仕方だと言っていました」
魔理沙はふうむと、気の乗らない相槌を打つ。
「パチュリーほど酷くはないが、わたしも最新の技術を余すことなく把握しているわけではないんだ。美真は技術の申し子であり、わたしよりもネットを中心とした技術にずっと詳しい。そんなお前が危惧するべきと言うならば、分からないなりに耳を傾ける用意はある」
その言葉を聞いて、わたしは内心に安堵する。気が乗らないのではなく、わたしの話を理解できないなりに、どう受け止めれば良いかという悩みが口に出ただけらしい。
「情報源が気になるところだが、それはさておこう。隠岐奈が今も暗躍を続けているとなれば憂慮すべき事態だ。なにしろあいつは幻想郷を創った賢者の一人であり、その気になれば郷を壊して一から創り直すことさえ可能らしい。いくらか盛っているとは思うが実力者であることは間違いない。わたし一人では手に余るな……情報源氏はどのような情報が行き来しているかを明かしてくれたのか?」
「分からないそうです。情報源曰く、公開鍵暗号の計算量的安全性は突破できるが、完全なワンタイムパッド式の暗号を実現されたらお手上げだ、とのことでしたが」
「……すまん、日本語で話してくれ」
「原理的に解読不可能な暗号を使用しての通信が行われているんです。回線の高速化とほぼ同時に増大した情報の大半にはこの暗号が利用されており、どんなに計算量の高いパソコンであっても解読用の鍵を予想できず、中身を読み取ることができません」
「暗号と復号の理屈ならわたしにも少しは分かる。どうやってるかは想像もできないが、暗号に使う鍵を予測できない形で都度生成し、使い回しせずに捨ててるってことか。そこまで厳密な方式で秘密の通信を使い、ネットの管理者たちにさえ読み取れない情報を日々やり取りしている……まるで悪巧みをしているかのようだな」
わたしもピー子の話を聞き、同じ結論に至った。だからこそ魔理沙に相談をしに来たのだ。
「ネットを解析しても問題を解決することはできません。根がどこにあるかは分かりませんが、わたしはこれから大量の暗号通信を行っている何者かを突き止めるために動くつもりです」
「そしてわたしにも協力して欲しいってことか?」
「わたしの意見が妥当であると判定して欲しかっただけですが、そうしてもらえると助かります。正直なところ、わたしだけでは手に余りますから。実を言うと霊夢さんや佳苗にも協力を仰ぐつもりでして」
二人とも巫女が忙しいから協力してもらえるかどうかは微妙なところだが、常日頃から異変や問題に近い所にいる彼女たちなら不審な動きをつかんでいるかもしれない。そこから根っこに辿り着くことができればと考えたのだ。
「悪巧みの得意な知り合いは枚挙に暇がない。蛇の道は蛇と言うし、ぴんと来る奴もいるかもしれない。美真の話した件に心当たりがないかどうか聞いておこう」
魔理沙も蛇の道を知る蛇の一人だが、その顔からして善良な魔法使いであると信じ切っている節がある。なんとも呆れるようなふてぶてしさだが、今のわたしにはそのような図太さと精神の強靱さが何よりも求められる。
普段なら見習いたくないが、今回だけはしっかりと見習うつもりだった。
「となるとわたしの用事は全てが片付いてからのほうが良いかな。完全な私事都合だし」
「時間をそこまで取らないなら良いですよ」
協力してくれるのだし、師匠が困っているならば手を貸してあげたかった。魔法だけでなくここでの暮らし方を教えてくれた恩人だし、返すべき借りはいくらでもある。
「フレンドコードの交換をお願いしたくてね。実は最近、あるゲームを始めたんだが」
魔理沙は新調したばかりのケータイを取り出し、画面を操作してゲームを起動させる。フレンドコードという言葉を聞いたときから嫌な予感はしていたが、画面にはレジェンド・オブ・アイドルのタイトルが表示されていた。
「えっと、魔理沙さんはどういう理由でこのゲームを始めたのですか?」
「魔法教室の友人に勧められたんだよ」
「魔法、教室……?」
魔理沙は郷にその名を轟かせる魔法使いであり、今更誰かに師事するような立場ではない。ましてや魔法の教室に通う必要などないはずだ。訝しく思っていると、魔理沙は照れ臭そうに頭を掻いた。
「実はコモンマジックを習ってるんだ。少し前までは現代魔法と呼ばれていたんだけど、今はそう言うらしいな」
「ああ、そういうことですね。魔理沙さんたら、かつては興味ないって言ってたくせに」
コモンマジックとは専用のアプリ経由で使用する魔法全般を指す。画面に表示された魔法陣を基に電子回路を疑似的な魔術回路と認識させ、誰でも魔法を使用できるというのが売りである。
わたしもいくつかのアプリをダウンロードして使ってみたが、魔理沙から学んだ魔法に比べればできることは非常に限られている。だが、手軽さで言えば圧倒的な軍配が上がる。普通の人が魔法というものを気軽に体験するなら用途としては十分だし、ネットの高速化に伴い魔法陣の種類も多様化している。従来の魔術大系を書き換えるほどのものではないにしろ、補完してより便利に使うための媒体にできるため、かねてより研究を進めていた代物だ。
「従来の魔法にいちいちケチをつけてくるのが気に入らなかったけど、自分の知らない魔法があれば知恵を拝借するのが霧雨流だ。最近はオンラインでもオフラインでも講座が乱立しているし、少しばかり変装して週一で通っているというわけだ」
「そこでできた友人に紹介されたと」
「ああ。やってみると非常によくできててさ、音ゲーもプロデュースも楽しくて睡眠を忘れそうになる。ちなみにこれがいまプロデュースしているグループ」
おそるおそる覗き込んだが、わたしを含めファンタのメンバーは誰もいない。それはないと薄々気付いてはいたが、わたしをからかう意図はないらしい。
「美真は流行に聡いし、やってるんじゃないかなと思い、声をかけたわけだ。強いフレンドがいると有利だしな」
「ごめんなさい、ゲームには疎いんですよ。レジェンド・オブ・アイドルでしたっけ? 今日初めて聞きました」
わたしが引いたキャラは霊夢だけである。フレンド登録をしたらファンタのメンバーも引けることが間違いなく魔理沙にばれる。
いつかは知られるかもしれないが、今日である必要は全くない。だから知らぬ存ぜぬで押し通した。
「そうか、そりゃ残念。でも面白いゲームだから、息抜きしたいときにでも遊んでみると良いよ」
「えっと、前向きに善処します……」
曖昧な答えを返すと、わたしはこれ以上の藪蛇を出さないよう、すぐにでも自宅に戻るつもりだった。
そのとき、ぐらりと視界が揺らいだ。地面が小刻みに揺れ、少しずつ激しくなっていく。
「地震ですね。そんなに大きくはないみたいですが」
体感で震度三といったところだろうか。幻想郷に来てから初めての地震なので最初こそ身構えたが、警戒にも避難にも程遠い代物だった。
だが魔理沙はそう考えていないようだった。楽しそうにゲームの話をしていたのが嘘であるかのように、いつになく気難しい顔をしていた。
「地震とは妙だな。天変地異の類は起こらないように調節しているはずなんだが……」
「四季が再現されているのだから、地震も起きるものだと思っていました。そうじゃないんですか?」
「ああ。調節が上手くいってないのか、それとも誰かが故意にやったのか」
「地震って故意に起こせるものなんですか?」
わたしがかつていた世界だと、地震兵器なるものが都市伝説として語られることが稀にあった程度だ。それも莫大なエネルギーを操るなど現在の技術では開発できるはずがないという専門家の意見によって一蹴されていた。
「前にやらかした奴がいる。比那名居天子とかいうお騒がせ天人だ。えっと、あいつがかつて地震を起こした時にはまず何をやったかな……何かの建物をぶっ壊したはずなんだが、思い出せん。ええい、年は取りたくないな!」
魔理沙は素早く席を立つと、若者としか思えない足取りで家の外に出る。わたしも後を追い、空に浮かぶと遙か遠く、東の里に視界を向ける。幻想郷において建物が並ぶ場所といえばなんといっても人里である。
魔理沙の姿は空にない。どうやら別の場所を探しに行ったらしい。思い当たる節のないわたしは、このまま東の里に向かうしかなかった。
里の側まで寄ってみても倒壊した建物は見当たらない。代わりに目立ったのはそこかしこで派手に取り乱す人たちである。この世の終わりだと喚いたり、どうすれば良いのだと警察や自警団にくってかかったりと、まるで地震という天変地異を今日初めて知ったかのようだ。
「魔理沙さんは地震が起きないよう調節していると言っていた。それはつまり、普通の寿命を持つ郷の人間で地震に遭遇した経験のある人は誰もいないということ。それなら取り乱すのも仕方がないか」
なんとかしたかったが、わたしの魔法は地震で取り乱す人たちに慰めを与えることはできない。大したことのない揺れと説得しても届くことはないだろう。二年近くをこの郷で暮らしてなお、わたしは異邦人なのだから。
無力感に苛まれながら里の様子を眺めているうち、一つの変化が訪れた。貫頭衣に似た奇妙な出で立ちを身にまとった人の集団がどこからともなく現れ、堂々とした態度で騒ぎを収め始めたのだ。気になって風を使った聞き耳を立ててみると、彼ら/彼女らは「月光魔術教団」を名乗っており、どんなに罵声や怒りを浴びせられてもびくともしなかった。何かの教えを強く信じているであろう、確信の表情があった。
わたしはそれらの顔に心当たりがあった。太陽を巡るリングを信奉する祭祀者たちが、同じような顔をして堂々と教えを説いていたのだ。
リングが単なるまやかしであり、星の鉱物資源を収集するためだけの代物であると、今のわたしは知っている。地球の遙か上にある者たちが、リングを完成させるために都合の良い教えを信じ込ませていたのだ。
彼ら/彼女らからはリングの信奉者たちと同じ臭いを感じる。誰かが都合の良い教えを信じ込ませ、信徒を上手く道具として利用している。地震に怯えることなく、今回の件を利用して信奉者を増やそうとしている節すらある。
確信があるわけではない。だが、後ろ暗い秘密の通信を行っているのはあいつらなのではないかという、直観のようなものが背筋を貫いた。
それが正しいか否かは別として、リングの信奉者たちと似ている集団ならば見過ごすことはできない。
わたしは教団員たちの流れを、なおも目で追っていく。すると幹部らしきフードを被った人物にうががいを立て、あるいは報告する姿を目撃することができた。彼ら/彼女らはその幹部の前に立つと仰々しくケータイを掲げ。
「人の世と偉大なる魔術のために!」
そんなことを口にする。これが魔術教団の教義、人身を束ねる要なのだろう。
「つきの様、我らを正しい道に導き賜え!」
あの幹部はどうやら「つきの」という名字らしい。名前かもしれないが、どちらかというと名字のほうがしっくり来る。月野、月之、月乃……どう読むのだろうか。
そんなことを考えているうち、つきのと呼ばれた幹部らしき人物がフードを取り、顔を晒す。壮年の男性を予想していたが、わたしと同い年くらいの眼鏡をかけた少女だった。
「乱れた心に安寧を与えるのです。人は何者にも負けない万物の霊長であることをじっくりと話して聞かせてあげなさい。そう、我々は地震に怯える必要はない。我々はもはや何も恐れる必要はない。神も妖怪も、全ては人の下となる。もちろん、古典的な魔女など恐るるに値しない」
彼女は空を見上げ、不敵な笑みを浮かべる。聞き耳を立てていることなど、とうの昔に見抜いていたのだ。潮時と見てその場を離れ、魔法の森の上空まで戻ってみると、魔理沙が慌てて近付いてきた。
「思い出した、博麗神社だよ!」
そしていきなりなことを口にし、肩を揺すってきた。
「落ち着いてください、どうしたんですか藪から棒に」
「最初に壊れされた建物だよ! あの異変は博麗神社の倒壊から始まり、天人の度重なる討伐によって終わった。だから急いで神社の様子を見に行かないと!」
正直なところ、月光魔術教団とつきの様のことで頭が一杯だった。それでも博麗神社が、霊夢が危ないと聞いては放っておけず、全速力をもって神社の上空に到達する。
わたしと魔理沙を待ち受けていたのは拍子抜けするような光景だった。博麗神社は健在であり、地上では霊夢と紫が何やら言い争っていた。
「どうする? 聞き耳でも立ててみるか?」
そうしたいのはやまやまだったが、先程聞き耳を立てて大失敗をしたばかりである。友人の喧嘩なこともあり、何もせず争いの終わるのを待つことにした。
「ふむふむ、やはり比那名居天子が事件に関わっているらしいな。しかも以前とは話が違うらしい」
わたしの配慮などどこ吹く風、魔理沙は霊夢と紫の会話を平然と聞き耳していた。
「どうやら天子は霊夢が追うことになったらしい。わたしたちも手伝うことはできるが、どうする?」
暗号通信の件で霊夢に協力を仰ぐなら、ここで手を貸すのが筋である。だが、わたしにはどうしても探らなければならない事情ができてしまった。
「それは難しいという顔をしてるな。まあ良いさ、誰もが同じ問題を追わなければならないという理由はない」
「すみません、やらなければならないことができてしまって」少し迷ったが、相手は魔術教団を名乗る集団だ。魔理沙に訊けば分かることもあるかもしれないと思い、率直な疑問を口にする。「魔理沙さんは月光魔術教団というものをご存じですか?」
「いや、聞いたことはないな。魔術教団という響きから察するに、わたしや美真と同族ってことになるが」
「人間は万物の霊長であることを思い出し、神や妖怪を下に置くと宣言していました」
「ふうむ、それは邪教というか、郷では決して許容されない教えだな。そんなものが流行っているとしたら……同じ宗教者ならば何か知っているかもしれないな」
「宗教者と言えば命蓮寺の住職とか、神霊廟の仙人とか、その辺りですかね?」
「あとは守矢神社に、一応は博麗神社も範疇内だが、あそこはもう宗教の組織ではなく公共の組織だからな。おそらくは参考にならんだろう。とまれ、三勢力とも信仰を集めることに力を入れているから、郷に奇妙な教えが広まっているようなら何かつかんでいるだろう」
ここからだと命蓮寺が一番近い。心情的には友人のいる守矢神社を訪れたいが、あそこは距離もあるし、魔術教団を名乗っているならば魔法使いの住職に聞くのが筋でもある。それに実を言うと、命蓮寺の住職には少し興味があった。魔理沙だけでなくアリスやパチュリーまで、彼女のことを魔法使いの一種の理想だと言っていたからだ。身体強化の魔術にも長けており、食や虫を捨てるための知識を得られるかもしれない。
最優先はあくまでも月光魔術教団の情報を得ることだが、いくつか追加の知識を得るための脱線なら許されるのではないか……いや、駄目だ駄目だ。脱線すると我を忘れ、やるべきことが抜けてしまうのを先程、魔理沙に指摘されたばかりではないか。
「気になることもいくつかあるし、わたしもわたしで別行動を取りたい。ただし情報の共有だけは密にしよう。一日に一度、分かったことは共有する。不確かなことでもなんでもだ。美真は整理できないことを整理できるまで潜めておく癖があるけど、未知の異変や事件では整理できていない剥き出しの情報こそ重要になるからな」
「分かりました、気をつけます」
やはり魔理沙はわたしのことをよく見ている。情報を溜め込まないと胸のうちに言い聞かせてから、わたしは魔理沙と別れ、魔術教団の情報を手に入れるため、命蓮寺に向かうのだった。