この日、橘敬介は夕食を外で食べた帰りだった。
その顔は僅かに上機嫌で、笑みさえ浮かんでいる。
その理由は……明日、神尾晴子に会うためであった。
地理的に言えば、数十キロの隔たりというところだろうか。
それでも自動車やバスを使えば一時間ほどで辿り着ける程度のものだ。
そのような隔たりは交通網の発達した現代において、無きに等しい。
但し、彼女が敬介を歓待する確率はゼロに等しい。
それも当然だと敬介は思う。
自分は晴子から、最も大切なものを奪おうとしていたのだから。
ただ、血の繋がった実の父親であるというだけで。
今では、それがどんなに愚かしい行為か自分なりに分かっているつもりだ。
そこには複雑な背景がある。
十数年も前のことだ。最愛の妻である郁子が死んだ。
敬介にはその面影を持つ娘の顔を見ることさえ辛かった。
それくらい、敬介にとっては衝撃度の高い出来事だったのだ、郁子の死は。
その衝撃から逃れる為に、敬介は娘を親戚に押し付けた。
正確に言えば、まだ二十歳にも満たない晴子に。
その彼女も、言わば貧乏籤を引かされた形に過ぎなかった。
ただ、郁子の実の妹であるという一点を以って……ただそれだけだった。
働き詰めの毎日で、段々とその衝撃からも立ち直ってきた。
働くことで、他のことは考えないようにしたというのが本当のところだ。
娘……観鈴のことは気になったが、仕事の充実感は敬介を捕らえて放さなかった。
血の繋がった父娘なのだから大丈夫だろう。そんな根拠のない自信を持っていたのだ。
しかし、それが全くの勘違いであることを敬介は思い知らされた。
何よりも深い、血よりも強い家族の絆を晴子と観鈴にとことんまで見せつけられたからだ。
そして、今までの自分がいかに矮小で偏狭であったかも思い知った。
その温かさと強さを見て、家族とはこういうものだと敬介は理解できた。
何よりも、弱さばかりが鼻についた晴子の変貌ぶりが胸を打ったのだ。
子供を産んだことがないにも関わらず、それは正しく母親の顔だった。
郁子が赤ん坊の観鈴に向けていた慈愛に満ちた視線。
自分が最も輝いていた頃の記憶が、晴子の表情とダブる。
あの日の海辺の出来事は、忘れろと言っても忘れることはできない。
それから数日して、気丈さを振る舞う晴子からの電話があった。
その声はただ一言……『観鈴が死んだ』という事実だけを告げた。
それだけで敬介には全てが理解できた。
二人の間に何があったかは分からない。
だが、敬介は近い将来そうなることを何となく肌で感じていた。
だから、余り驚かなかった。
敬介は葬儀には参加するよと言って電話を切った。
きっと晴子は我慢していた分、今は一人で泣いているだろうと思った。
そして、敬介自身も泣いていた。
感情は殆ど湧かなかったのに、何故か涙だけは止まらなかった。
次の日、敬介は神尾家を訪れた。
彼女はやはり泣いていた。
観鈴を抱きしめ、ただひたすら泣いていた。
一体、どのくらいの時間、彼女は泣いていたのだろうか。
それを考えるだけで、敬介は居た堪れない気分になった。
埋葬の手配は敬介が行った。
葬儀は開かず、ただ荼毘にだけ伏した。
煩わしいことは一切、行わなかった。
敬介が一番苦労したのは、亡骸に覆い被さる晴子を説得することだった。
罵声を浴びせられた。
頬を何度も叩かれた。
だが、晴子の味わった苦しみの何百分の一の痛みすらないのだろう。
だから、敬介はそれらを黙って受けた。
それから晴子は、敬介に縋り再び涙を流した。
強く掴みかかれるものなら何でも良かったのだろう、恐らく。
敬介がいなかったら、それは家の柱か何かが代行した筈だ。
偶然、晴子の一番側にいたから彼女は縋ったに過ぎないのだ。
敬介の役目は、無機的に佇む柱と同義だった。
晴子は結局、何も話しかけてはくれなかった。
帰る時に一言「ありがとうな」とだけ言った。
敬介が「また来ても良いかな」と聞くと、
晴子は「あほ、あんたのようなんには二度と来てほしないわ」と言った。
その返答は悲しかったが、憎まれ口を叩けるのなら大丈夫だと思った。
晴子はこれからも強く生きていける。
敬介の中にはそんな確信があった。
それから晴子は保母になった。
その行動原理が何から来ているかは分からない。
代償行為なのかもしれないし、真っ当な生活を営むために選んだ職というだけかもしれない。
どちらにせよ、家を訪れてもほぼ門前払いにされる敬介には、その心理は測り得ない。
いつかは話して欲しいと思いながら、それは淡い期待でしか無いことを敬介は自覚している。
結局のところ……敬介は天を仰ぎながら思う。
自分は晴子にどういう感情を抱いているのだろうか。
好意? それとは違う気がする。
最も近い感情を選ぶとすれば、尊敬だろうか。
でも、それすら曖昧だ……完全には定義できない。
明日だってろくに相手されないことを承知で、晴子の元を訪れようとしている。
自分のしていることが馬鹿な行為だとは敬介も自覚していた。
それでも自らの行動を止めないのは……、
多分、馬鹿なことをしてみたいからだと敬介は直感的に思った。
スマートに割り切って生きて来過ぎてきた自分への戒め。
或いは……馬鹿をとことんまでやった結果を見てみたいのかもしれない。
それは結局、どういう結果を望んでいるののだろうか。
考えてみるが、敬介の頭には何も浮かんで来ない。
目的なしに動いている、それも珍しいことだ。
それも含めて、馬鹿だということなのだろう。
そう思うと、ふと腹の底から笑い声をあげたくなった。
ここが天下の往来でなければ、それこそ大声で笑っていた。
自分が馬鹿だと思うことが、こんなに愉快だとは思わなかった。
敬介は愉快な気分で月を見た。
月光は淡く、まるで腐敗した地上を清めるかのように世界を照らしている。
その残像に、敬介はきらびやかに舞う羽の姿を見たような気がした。
ふと、晴子も同じ月を見ているのかなと敬介は思った。
そう考えると、やっぱり可笑しかった。
今度は声を立てて笑う。
不審に思うやつがいるだろうが、構うものか。
敬介はそう考えながら、しばらくの間、偲び笑いを漏らした。
月光は、一人の人間を愉しく狂わせていた…。
それもまた、月の魔力。