第六話 遅い春の訪れ、或いは水面下の悪夢(中編)
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四月二十二日 木曜日
「なぁ、正直に答えて欲しい」
昼休憩も終わりにさしかかった頃、何故か北川潤が相沢祐一の元に、真剣な顔をしてやって来た。そして開口一番にそんなことを言ったので、祐一は少し面食らってしまった。
「答えて欲しければ、三回周って三階の窓から飛び降りろ」
「下らない冗談だな」
「俺は本気だぞ、北川」
すると北川は、何故か寂しげな声で言った。
「相沢、お前俺のこと嫌いか?」
「いや、悪友だと思っている」 これは祐一の本心だった。相沢祐一と北川潤の関係はと問えば、十人に九人はそう言うだろう。
「お前はその悪友に、三階の窓から飛び降りて死ねと言うのか?」
「三階から飛び降りたからといって、死ぬとは限らないだろう」
「……いや、物理学を学んだものなら誰だって致命的な高さだと気付く筈だぞ」
そんなことは、幼稚園児でも下を覗き込めば理解できるだろう。第一、二階から落ちても打ち所が悪ければ死ぬだろう。
いや、例外が一人いたことを祐一は思い出した。
「大丈夫、少なくとも一人は無事だった」
「……それって人間か?」
「ああ、勿論人間だぞ」
川澄舞を見て人間だと思わない奴がいれば、そいつは恐らく地球人ではないだろう。地球人としては、かなりの理想的体型だからな……祐一はそんなことを思った。
「やっぱり相沢俺のこと……って、やめよう、このままでは堂々巡りだ」
北川がげんなりとした顔で言う。祐一としても、これ以上冗談を言いあっても不毛なだけだと判断した。
「で、用件は何だ?」
祐一の言葉に、北川はやけに神妙な顔付きで問い掛けて来た。
「お前の家で、明日の夜花見会をやるというのは本当か?」
「……どうしてお前が、極内輪しか知らない筈のことを知っているんだ?」
祐一は逆に訊き返した。これは何か裏がありそうだと、直感的に感じ取ったからだ。
「い、いや、その……」 北川はお決まり通りに口篭もると、
「いや、水瀬さんがそんなことを話してくれたからだけど……」
祐一は北川のその言葉を噛み砕いていた。如何に同じクラスと(この高校には、三年にクラス替えがない)と言えども、名雪が北川にそんなことを話すとは思えない。
名雪が話すとすれば……そこで祐一は、北川の意図に気付いた。
「成程、そういうことか」
「何を、一人で納得しているんだ?」
北川が怪訝そうな目で祐一を見る。そんな彼に、祐一は内心の笑みを隠しながら答えた。
「名雪と香里が話しているのを、盗み聞きしたな」
その言葉に、北川は僅かに肩を震わせる。
「大方、香里が会に参加するのを聞いて、慌てて俺の所に打診に来たというところだろう、違うか?」
祐一の推論が当たっているのは、北川が最早隠しようのないほどの動揺を表に出していることからも明らかだった。
「い、いや、俺はだな……その、そうだ、香里の妹も参加するって聞いてな、それでどんな人物かを確かめるためであって……」
そんな新聞部並の探求心が北川にないことは、余り長くない付き合いの中でもなんとなく把握していた。しかし……香里に妹がいたことは祐一にも初耳だった。まあ、彼女は自分のことを滅多に話そうとはしない性格(少なくとも祐一には)だから、仕方ないのだろうと祐一は締め括った。
「それで、その妹とやらに自分が好人物であることを印象付けて、香里へのアピールポイントを上げようと思ってるんだろう」
「ふっ、俺もそこまで愚劣な奴ではないぞ」
そう言いつつ、北川の目は泳いでいた。
「まあいい、条件次第ではお前も招待してやっても構わないぞ」
「ほ、本当か、相沢」
祐一の言葉に目を輝かせる北川。そんな北川に祐一はこう言い放った。
「但し、三回周って三階の窓から飛び降りれたらな」
こうして不毛な争いは、昼休憩が終わるまで延々と続いた。
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「で、やっぱりこれもそうなのか?」
「ええ、間違いない……と思いますが、今までとは手口が違いますね」
神田はその言葉に頷いた。今までの五匹と違って、今回殺害された犬は注射器によって毒物を投与するという方法で殺害されていた。
使用された毒物は硝酸ストリキニーネ、保健所に捕獲された引き取り手のないペットを殺す時などに用いられる、強毒性の物質……。
「これが六番目の犠牲者、いや昨日の報告が確かならば七番目の犠牲者か……」
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四月二十三日 金曜日
川澄舞が、この日水瀬家に着いたのは四時半過ぎだった。講義が終わって、自転車を全速力で漕いでやって来たのだ。自転車は大学への通学用、或いは移動用に購入したものだった。
しかし、舞は少し前まで自転車に乗れなかった。
『お前、大学生にもなって自転車にも乗れないのか?』
祐一が馬鹿にしたように言っていたのを思い出す。
『じゃあ、一緒に練習しましょう。舞が乗れるようになるまで』
こうして佐祐理と祐一が特訓してくれたお蔭で、その日の夕方には何とか補助輪無しで乗りこなせるようになった。そのことに、祐一は驚いていたようだ。普通なら、そんなに早く乗りこなせるようにはならないというのが、祐一の言い分だった。
慣れると、自転車も便利なものだと舞は思う。
「いらっしゃい、舞さん」
玄関で出迎えてくれたのは、水瀬秋子だった。その背に隠れているのは、沢渡真琴。どうやら自分は、彼女には余り好かれていないようだな……そう考えていた。
その一因は、自分が剣を振り回す危ない人間だとおもわれていることにあるようだった。舞と真琴には一度だけだが面識があったのだ。
舞としては誤解を解いて仲良くしたいのだが、真琴の方で舞を避けているような節が見受けられた。佐祐理のように朗らかな笑顔で接することが出来れば良いと思っているのだが、自分にはそれが出来ない。何故だかは分からない。
表情が笑顔を忘れてしまったのかもしれないし、或いはそういう感情が希薄なのかもしれない。余り笑うことをして来ない生き方だったから?
しかし、その辺りは次第になんとかなるだろう……祐一はそんなことを言っていた。笑うこと? それとも真琴と仲良くできること?
『両方だよ』 そう祐一は言った。
「……こんにちは」
舞はそう答えると、台所の方に向かう。お花見のためのお弁当を作るために、部活やアルバイトで遅くなる名雪や佐祐理に代わって舞が料理を手伝うことになっていた。
別に桜を眺めるだけなら、部屋からでもいいのではないかと思ったが、
『その方が、雰囲気があって楽しいじゃないですか』
そう水瀬秋子は答えた。舞はその様子を想像して見る。薄ピンク色の花びらをつけた桜の下で、満天の空を眺めながら、皆で楽しく食事する。
確かに、その方が楽しいだろうな……と、舞は思った。
台所に向かうと、そこから美味しそうな匂いが漂って来る。多分、既に料理の準備に入っていたのだろう。そう言えば、秋子も真琴もエプロンを身に着けている。
舞は持って来た荷物の中からウサギの柄がプリントされた愛用のエプロンを取り出すと、台所に立った。調理はあらかた終了しているらしく、後は仕上げと盛り付けだけ。
おにぎり、卵焼き、肉団子、いもや椎茸、南瓜といった野菜の天麩羅、ジャガイモと人参の煮物、ハンバーグ、ウインナー……色採りどりの具が、次々と弁当箱の中に収まっていく。
九人分とはいえ、その量は全員で食べても余るのではないかというくらいの量だった。何しろおにぎりだけで、弁当箱二つ分入っていたのだから。
結局、お弁当の準備が終わったのは五時半を少し回った所だった。
「手伝ってくれてありがとう、舞さん」
作業も終わってダイニングの椅子に腰掛けた舞に、秋子がそう声を掛ける。
「……私は大したことはしていない」
料理の大半を作ったのは、多分家にいた二人なのだろう。
「ねえ、真琴は?」 秋子の言葉に、真琴が心配そうにその顔を覗き込む。
「真琴もよく頑張ったわよ」
秋子の声に、ぱっと顔を輝かせる真琴。こうして見ると、本当の親子のように見える。とても微笑ましい、或いは可愛らしい情景だと舞は思った。
その時、チャイムの鳴る音が聞こえて来た。
「あら、どなたかしら……」
そう言いながら、秋子は小走りで玄関の方へと向かった。そしてすぐにこちらの方へと戻って来る。傍らには舞の知らない女の人が二人……いや、一人は祐一のクラスで一瞬だが見たことがあった。
向こうでも舞のことには気付いたみたいで、「ああ、あの時の……」、そういった表情をしている。彼女は片手に、何か重そうな物を持っていた。
「名雪はまだ帰ってないんですか? 香里さん」
「ええ、多分、部活動で遅くなっているんだと思います」
髪にウエイブがかかった女の人(香里と呼ばれていた)が、そう答えた。その様子から見て、名雪と彼女の間には深い面識があるのだろうと、舞は考えた。
「で、そちらの方が妹さんね」
「初めまして、美坂栞と言います」
美坂栞と名乗った少女は、肩まで伸びた髪を揺らしながら行儀良くお辞儀をした。首を覆う形の白いセータに黒と赤のスカート、その上から格子模様のストールを羽織り、肌は透き通るように白い。
と、その目が舞の所で止まる。
「えっと、あなたはなんという名前なんでしょうか?」
栞は驚き半分、期待半分といった様子でこちらを見ていた。
「……川澄舞」
自己紹介した後も、栞はずっと舞の方を見ている。そのことで、香里が声を掛ける。
「どうしたの、栞」
「……いや、何でもないんです。その、きっと私の勘違いですから」
栞は小さく首を振ると、今度は秋子の方に向かって小さくお辞儀をする。
「こんにちは、栞ちゃん。私は名雪の母で……」
「秋子さん、ですよね。お姉ちゃんから話は聞いてます。今日は、えっと、お招き頂きありがとうございます」
栞はたどたどしい口調で述べた。その言葉に秋子は、
「特に大したおもてなしは出来ませんけど」
頬に手を当てながらそう答えた。
「全く、慣れない敬語なんか使うから、秋子さん笑ってるわよ」
香里が呆れたような顔で言うと、栞は上目使いに香里の方を見て、
「あっ、お姉ちゃん、ひどいです。折角練習して来たのに」
そう、拗ねたような表情をしながら言った。
「こんにちは」 家の外で、誰かの声が聞こえたような気がする。
「ふふ、仲が良いわね」 秋子がこれ以上無いような幸せそうな笑みを浮かべる。彼女は他の人が幸せなのを見ていると、幸せなのではないのだろうか……そう舞は思う。そして、それはとても素敵なことだ。
「こんにちは」 再び、家の外で誰かが呼ぶような声が聞こえたような気がした。
「そんなこと……」 香里が何故か寂しそうな顔をして言おうとすると、
「そうですよ」 栞がその右腕を掴んで、満面の笑みでそう言った。
「あのー……」 やはり、幻聴ではないようだ。舞が玄関のドアを開けると、そこには男の人が一人、寂しそうに立っていた。
「やっと気付いてくれた……」 そう呟く男に、全員の注目が集まる。
「北川君、なんであなたがここにいるの?」
香里は心底意外……といった様子で大声を出した。
「祐一さんが呼んだんですよ」 そんな香里に、秋子はあっさりと答える。
「………奴、こんな………………がいる………(注1)」
北川と呼ばれた人物は何か呟いたようだが、舞にも全ては聞き取れなかった。
「初めまして、相沢の悪友で北川と言います」 北川はさっと回りを見渡すと、軽く頭を下げた。
「……普通、自分から悪友って名乗るかしら」 美坂香里がジト目で北川の方を見る。
しかし、取りあえず北川という人物像が強く印象付けられたことだけは間違い無かった。
「後は……名雪と祐一さんと佐祐理さんね」
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「すいません、じゃあ今日は早めに上がらせて頂きます」
倉田佐祐理がアルバイト先のオーナに言う。店の時計を眺めると、七時を二分程回ったところだった。
「はい、ご苦労様です……えっと、倉田さんは今日、家族でお花見なんですってね」
オーナはにこにこしながら訊き返してくる。年は六十三、頭髪は既に真っ白で、丸っこい眼鏡を掛けている。それは昔、佐祐理が見た小説に出て来る登場人物に良く似ていた。
西洋の片田舎に住む、編物とケーキ作りが趣味のオールド・ミス。愛嬌があって笑顔が朗らかで、性格もその顔に負けないくらい柔和、村の人の相談をいつも受けるような人柄の良い人物だった。
目の前にいる老婦人も、国こそ違うものの同じような雰囲気と性格を持った人だった。ただ小説と違うのは、彼女がケーキ作りをその生業としていることだけ。
店は平屋立てで、敷地は十坪を少し超えるくらいだが、学校の下校時には決まって行列が出来るほど繁盛している。佐祐理も焼き立てのケーキを貰ったことがあるが、ふんわりとした生地ととろけるような甘味は、佐祐理が食べたどんなケーキと比べても遜色が無かったほどだ。
しかも安価であるから、この店が繁盛するのも当然のことだと佐祐理は思う。
しかし、その繁盛ぶり故に一人では店を切り盛りすることが出来なくなった。それで、佐祐理ともう一人(こちらは週に三回の勤務だ)が雇われたのだった。
最初は様々な所から飛んでくる注文に戸惑ったりもしたものの、今では大分、注文の捌き方のコツも分かって来た。よく注文されるものには、短い言葉で認識できるような呼び名を用意しておくと良いようだ。
「ええ、そうです」 佐祐理が答えると、オーナは何かを思い出すように目を瞑った。
「お花見ね……私も若い頃はよく友人と一緒に近くの山に出掛けたものよ」
「はえー、そうなんですか」
「ええ、まだ戦後まもなくで娯楽も少なかった時期ですから。お弁当を持ちあって、桜の花びらが舞い散る中で食べたことは、今でも覚えているわ」
オーナの言葉に、佐祐理はその光景を思い浮かべていた。満天の桜、薄ピンク色の花びらのシャワー、山の良い香りに、土の匂い。いつか、舞と祐一とで弁当を持ってピクニックに出掛けるのも楽しいかな……そう佐祐理は思った。
「あっ、いけない……倉田さんは急いでるんですよね。でも、少し待ってもらえますか」
オーナはそう言うと、冷蔵庫の中から箱詰めのケーキを一つ取り出した。
「これ、今日余ったケーキなんだけど、良かったら持っていって頂戴」
「えっ、でも悪いです……」
佐祐理がそう言うと、オーナは首を振った。
「どうせ、今日捨ててしまうんですもの。だったら、楽しい会の席で食べてもらう方が、このケーキも報われますから」
オーナはただでさえ細い目を更に細めると、穏やかな笑顔でそう返した。佐祐理は深々と頭を下げると、ケーキを丁重に受け取った。そして店から出口前で、
「本当にありがとうございました。佐祐理のためにわざわざケーキを残して頂いて」
そう言って、もう一度頭を下げた。
「じゃあ、夜道には気を付けて下さいね。最近はこの辺りも、特に物騒ですから」
物騒というのは、例のペット連続殺害のことを言っているのだろう。そう言えばニュースで、今日も新しい事件が起こったと言っていたことを、佐祐理は思い出していた。
「はい、十分に気を付けます」
佐祐理は店を出ると、自転車に飛び乗った。今からなら、七時半には水瀬家に到着するだろう。佐祐理はペダルを漕ぐ足に力を込めた。
(注1)…「相沢の奴、こんなに美人の知人がいるなんて」、と北川は言いたかったのです。