九月の雨はどうして冷たいのだろう?
それは過ぎ行く夏が悲しみの余り流す、涙だから?
それとも……。
あいにくの雨で……
〜As Rain Goes By〜
二学期が始まって最初の休みだというのに、あいにくの雨だった。
線上の飛沫は景色を濡らし、淀んだ空は暗く心に圧し掛かる。
窓から見えるそんな風景を、俺はぼーっと眺めていた。暇だ。
居間のチャンネルを変えては見るが、休日の午前中にやっているような番組に
心惹かれる内容など無く、欠伸混じりの時を過ごしていた。
隣のダイニングでは秋子さんが、紅茶を啜りながら新聞を読んでいる。
飲みませんかと薦められたが、俺は丁重にお断りした。
喉は乾いていない。
微かに勝る眠気もあって、二度寝しようと思った。
睡眠は貯めておくに越したことはない。
俺はそう考え、気だるい体を伸ばして立ち上がった。
こんな陰鬱な日は、何をするにも勢いを付けなければならない。
その時、祐一の怠惰な勢いを遥かに凌ぐ、まるで嵐のような足音が、
二階からこちらに向かって押し寄せて来た。真琴だ、俺には確信があった。
叩き付けるように開けられた扉の向こうに立っていたのは案の定、
僅かに息を切らせた真琴だった。
右手にはトランプを持っている。
保育園で同僚の保母に教わって以来、真琴のお気に入りになっているようだ。
「じゃあ、俺はもう一寝入りしてくるから」
俺は空欠伸をしてみせると、真琴の横を通り過ぎようとした。
勿論、その試みが上手く行く筈も無く、真琴は裾を思い切り引っ張るのだった。
真琴は眉毛を中央に寄せると、明らかな不満を表明してみせる。
「暇ならトランプやろうよ」
「いや、暇じゃない」
俺の態度に、真琴は理解不能と言わんばかりに首を捻った。
「だって、眠るってことは暇なんでしょう?」
真琴の思考はいつも、シンプルで率直だ。
「じゃあ、夜に眠るのは暇だからか? 違うだろう?
眠たいから眠るんだ。そして今、俺は眠いから眠る」
そう言って再び、真琴の横を通り過ぎようとする。
だが、今度は首に両腕を掛け、ぶらさがるような格好で俺の行く手を阻んだ。
咄嗟の反動でよろけそうになったが、持ち前の瞬発力で体勢を立て直す。
「いてっ、何するんだ真琴!!」
「これで目、覚めたでしょう? さっ、トランプトランプ」
確かに目は完全に覚めた。
だが、非常に釈然としない思いと怒りとを内包した俺は、勿論のことただで許す訳が無い。
灼熱の右手で額をわっしと掴み「あうーっ」と言わせた。
真琴は何故か恨みがましい目を俺に向けたまま、拙い手付きでトランプを切り始める。
切るというのは鋏で裁断するのではなく、シャッフルという意味だ。
「けど、真琴は何か二人でやって楽しいゲームを知ってるのか?」
「む、えっと……ババ抜きに七並べに神経衰弱に」
どれも二人では無く、もっと大人数向けの遊びだ。
「じゃあ、私が加わりましょうか?」
真琴とのやり取りを聞いていたのか、新聞を読んでいた秋子さんがダイニングから声をかけた。
勿論、俺も真琴も異存は無い。
「じゃあ、お願いします」
俺がそう言うと、隣から新聞をたたむ音が聞こえた。
それから、何処かに電話を掛けているようだ。
株価がどうのという話だけが、僅かに祐一の耳にも入って来た。
もしかして秋子さんの職業は株のブローカなのかなと考えつつも、
それを聞かない方が良いことは本能、理性全ての合致した意見だった。
真琴の意見で、最初は七並べをやることになった。
確か、最後までジョーカを持っていた者が負けの筈だ。
「実を言うと神経衰弱は苦手なの」 と真琴。
確かに真琴の記憶力はかなり悪そうだ。
かくいう俺も、神経衰弱は余り好きじゃない。
こう、和気藹々と楽しむという雰囲気が希薄なのだ。
どうせなら大富豪やブラックジャックやポーカが良い。
そう思ってみて、好きなゲームが全て賭け事系のゲームであることに気付く。
自らの荒んだ遊戯癖を内省していると、真琴はいつの間にかカードを配り終えていた。
その内の数枚かは表で、無惨にも数字を暴露している。
余り手付きの良くないものが配るとこうなるという典型的な例だ。
「漫画みたいに上手くいかない……」
どうやら漫画に出て来る配り方を真似したらしい。
それでこの惨状なら御の字と言えるのではないだろうか。
俺は手札を整えると、カードを見た。
運良く六や八が揃っている。大方、シャッフリングが甘かったのだろう。
七並べは三パスで強制敗北というルールもある為、これは非常に有利と言えた。
そして祐一の予想通り、「スペードの六早く出しなさいよ」「ハートの八、誰が持ってるのよ」
とことあるごとに叫ぶ真琴の姿が確認された。結果は言わずもがなだ。
「ぜーはー」 真琴は運動でもないのに息を切らしている。余程叫び回った証拠だろう。
第一、出して欲しいカードを口に出した時点で負けは九十パーセント確定しているようなものだ。
だが、祐一はそれを教えるほどお人好しではない。
もっとも秋子さんは真琴に一度忠告したのだが、
それでも叫ぶことをやめなかった。学習能力のないやつだと思う。
真琴は手札のカードを放り投げると、ソファに倒れ込んだ。
「あーもう、何で祐一ばっかり勝つのよ」
そんなことを言われても困るが……。
第一、秋子さんだってずっと勝ち続けているのに文句の一つも漏れない。
これは非常に不公平だと思う。
「真琴」 俺は真琴の肩に手を置いてきっぱり言った。 「お前弱過ぎ」
正直な気持ちを客観的に述べたのだが、真琴にグーで殴られた。
「ふん」 と鼻を鳴らし部屋を出て行く真琴を他所に、俺はじんとくる鼻の痛みに必死で耐えていた。
「さっきのは祐一さんが悪いですよ」
小悪魔のような笑みを浮かべ、頬に手を当てながら秋子さんはきつい一言をぶつけてくる。
「この状況を見ても、秋子さんは……そんなことを言うのですか?」
俺は縋るような目で秋子さんを見た。
秋子さんは表情を崩さずに大きく頷いてみせたのだった……。
ようやくふらふらと降りて来た名雪を加え、昼食は四人で食べた。
残り物の素麺というのが、過ぎ行く夏を如実に語っている。
真琴は食事の最中、一度も顔を合わせようとはしなかった。
怒っているのはみえみえだったが、俺にも鼻にワンパン食らわされた恨みがある。
絶対にこちらからは謝らないと決心を固め、昼食を終えた俺は即座に部屋へと戻った。
それからしばらく、買って来た本を読んでいたが、
終夏の雨は子守唄のように、俺を眠りの縁へと誘って……。
気が付けば、笑点の時間だった。
窓から外を見ると、雨はまだ降り続いている。
溜息の出るような雨。
俺はふらりとベランダに出ると、雨足の強さを確認する。
ベランダから差し出された手は、纏わり付くように湿気を帯びて行く。
見上げれば雲、遠ざかる太陽。
湿り気を帯びた空気が、半袖一枚の体には肌寒く感じる。
夏休みも終わり、大気も夏から秋へと衣変わりしているのだ。
ならば、この雨は過ぎ行く夏が悲しみの余り流す、涙だろうか?
だから、九月の雨はこんなに冷たい?
俺は柄にも無く、そんなことを思った。
夕食はビーフ・シチューだった。
キッチンとダイニングには、トマトとビーフの香ばしい匂いが漂っている。
夕食の時も、真琴は俺と目を合わせようとしなかった。
思ったよりも根が深い。
しかも、夕食後に真琴は再びトランプに誘い始めたのだが、
「名雪、秋子さん、トランプやろうよ」
そこに俺の名前は無かった。
明らかに蚊帳の外に追い出そうという、真琴の悪意が感じられる。
それは真琴と目を合わせた時に見せたあっかんべえが如実に示していた。
これではまるで、小学生の苛めだ。
だが、そんなことで参るほど俺は愚かでは無い。
ダイニングでババ抜きに興じる三人を他所に、俺は一人テレビのある居間へと向かった。
名雪からは「祐一もやらないの?」と誘われたが、丁重に断った。
これは、俺と真琴の意地の戦いなのだ。
いつから意地の戦いになったのかは知らないが……。
とにかく、こっちはテレビをみることにする。
日曜の夜ならば、面白い番組もやっているだろう。
「わっ、ババを引いた」 真琴の声が聞こえる。
こちらは波平が鰹を叱っているシーンだ。
「じゃーん、上がりぃ」
「わっ、真琴が一番だあ」 真琴の誇らしげな声と、名雪の驚く声が聞こえる。
こちらは城島が冷凍トラックの中に入って怪しげなポーズを取っている。
少し、向こう側が羨ましいと思った。
いや、羨ましくなんてないぞ。
そう魂を入れ換えると、再び自分の部屋へと篭った。
あそこなら、ダイニングからのざわめきも聞こえてこまい。
だが、部屋に戻ると雨の音ばかりが耳に付いて、余計に陰鬱な気分になる。
擦り切れた笑い所満載の漫画本も、使い古された漫才のように虚しい。
耳にこびりつくほど聴いたCDをプレイヤにかけて雨の音を打ち消すと、
俺はベッドにごろりと横になる。全然眠たくなかった。
第一、名雪ではあるまいし午後八時なんて睡眠時間では無いのだ。
と、心の中で力説してみる。
すると廊下の方から、CDの音に混じって僅かに足音が聞こえる。
名雪はもう就寝時間のようだ。
しばらくすると、今度は破壊的な駆け音が廊下を席巻した。
音の裁断を繰り返しつつ、最後に響いたのは俺の部屋のドアをおもいきり開ける音だった。
真琴の頭にノックという文字は無い。
「ねえ」 と真琴は猫撫で声を出す。これは間違いなく、こちらの機嫌を伺っている時だ。
俺は寝返りを打ち、真琴に背を向けた。
所謂拗ねた振りというやつだが、実際に拗ねていたかもしれなかった。
だとしたら、俺も随分と子供だなと思う。
自分の心すらままならぬのだから。
真琴はそんなことを知ってか知らずか、そうっとベッドまで近寄ると俺の肩を揺さぶった。
「あう……ごめんってばあ」
そう言って、揺さぶる速度を強くする真琴。
まあ、素直に謝っているのだから許してやろうと思う。
本音では、真琴よりは大人でありたいと考えているからだが、
口に出すと関係がこじれるばかりかまた鼻に拳を入れられそうなので黙っておく。
体の向きを反転させると、真琴は手に一冊の本を持っていた。
蛙のパジャマを着てほくほくと湯気を立てている所を見ると、一番風呂に入ったのだろう。
「で、何の用だ?」 まだ不機嫌であるかのように答える俺。
「えっと、まあ機嫌を直してよう……えへへ」
真琴の屈託無い笑顔の裏には、下心が隠されていると見て良い。
「えっとね、今日は本を読んで欲しいの」
「漫画か?」
と即断すると、真琴は首を大きく振った。
湿った髪の毛から、僅かに雫が飛び散る。
「今日はねえ、文字だけの本なんだから。小説ってやつよ」
別に小説を読むというだけで、そんなに威張らなくてもと思う。
それに読むのは俺なのだ。
表紙を見ると西洋風挿絵でフリルの服を着た少女と、時計を持った兎の姿が見える。
表紙には「不思議の国のアリス」と書かれてあり、
申し訳程度に「Alice In Wonderland」と原題が示されてあった。
児童文学の代表作……真琴には相応しいと思う。
「別に俺が朗読しなくても良いだろ」
「うーん……でも、文字ばっかりだと眠くなっちゃう……」
成程、と俺は心の中で手を打った。
「仕方ないな」 俺は腰を上げ、真琴の隣に座った。
「ところで何処まで読んだんだ?」
「えっと……アリスが深い穴に落ちるまで」
まだ殆ど進んでいなかった。
児童文学と言っても、不思議の国のアリスは百五十ページ以上ある。
これでは、読むのに一ヶ月はかかるだろう。
俺は本を受け取ると、早速……。
「祐一さん、お風呂に入りませんか?」
邪魔が入った。
風呂から上がると、真琴は不思議の国のアリスを枕に眠っていた。
多分、自分で少しでも進めようとして根が尽きたのだろう。
だが眠りは浅く、頬を少し引っ張っただけで起きた。
「あっ、眠っちゃってた……」
真琴は俺の持つ本を見ると、はあと溜息を付く。
どうやら、自分の不甲斐なさは理解しているようだ。
「何で文字ばっかりの本って、こんなに眠くなるんだろう」
子供だからと言おうとしたが、子供扱いされるのをとみに嫌う真琴、
それは心の中のみの言葉となった。
「まあ、気にするなって。じゃあ読むぞ。アリスは……」
俺は肩にもたれかかる真琴の顎をくすぐったいと思いながら、
情景を思い浮かべることができるくらいのスロウなペースで読み進めていった。
兎が走り、怪しげなお茶会、針鼠のゴルフラウンド、グリフォンの語らい、奇天烈裁判。
読み終わった時には、既に一日が終わろうとしていた。
短い話でも、声に出すとそれなりに時間がかかるものだ。
「ああ、面白かった」 真琴は満足げな顔を見せる。
「食べるだけで伸びたり縮んだりできる茸なんて、あったら良いと思わない?」
「そうか? 単に面倒くさいだけだろ」
「むう、祐一は夢がないんだから」
確かに。摩訶不思議なことに心ときめかすことがないという点では、
夢など深秋の霧の如く霧散してしまっているのだろう。
耳を澄ませると、窓を打つ雨の音が聞こえる。
俺はベッドに身を任せると、未だ興奮の余韻冷めぬ真琴に尋ねた。
「真琴……九月の雨は何で冷たいと思う?」
不意に、真琴だったらどう答えるだろうか、そう思ったのだ。
「うーん……」 真琴は首を捻った。
「秋になるためじゃないかな? ずっと夏だと飽きるから、ちょっと世界を冷やしてみるの」
「じゃあ、夏はどうなるんだ?」
「夏は……また来るんだよ。夏が恋しくなった頃に。春がいつか巡って来るように」
だとしたら九月の雨は過ぎ行く夏を惜しむ涙ではなく、
久々に訪れる秋を慈しむ、そんな涙なのだろうか?
だとしたら、それは冷たい雨だけど悲しくは無い。
秋はもう、側まで来ている。
冬や、春や、夏と同じように、俺は隣にいる少女と素敵な思い出を作って行けるのだろうか。
出来ると思う。それは確信に近かった。
「真琴」 俺は彼女の名前を呼ぶと、包み込むように抱きしめた。
真琴は瞬間、怯えるように体を竦ませたが、やがて胸の中に体を委ねる。
優しく耳朶を打つ雨音を聴きながら、俺と真琴はしばらくそのままでいた。
二学期が始まって最初の休みは、あいにくの雨だった。
けど、そんなに退屈な日でもなかった。
そんな平穏な一日。
あとがき
九月の雨に打たれてふと思い付いた、そんな話です。
それ以上の言葉は要りません。
[EXIT]