「だお~~」

制服姿の名雪が妙な声をあげながら、
半分眠った状態でパンをぱくついている。
水瀬家ではいつもの光景だ。
しかし……全ては遅すぎた。

「わあっ、もう8時20分?」

玄関で時計を確認した名雪が思わずそう叫ぶ。
この時間では全力疾走しても間に合わない。
しかし、焦った頭と体は同時に動いてくれない。

「100メートル7秒で走れば間に合いますよ」

そんな名雪の様子を、頬に手を当てながら見ている秋子。
その台詞に悪気はないと思うのだが……。

「そんなの無理だよ~」

焦っているのにわざわざ返答する名雪も名雪だったが……。

「それじゃ、いってきます」

踵の潰れた靴に無理矢理足を入れると、
爪先をトントンと何度も叩きながら、全速力で走っていく。
秋子はその様子を微笑みと共に見ていたが、
やがて一つのことに気付く。

「あ、そう言えば昼からの降水確率、70%だったんですけど……」

今から走れば追い付け無いこともないのだが……。

「まあ、祐一さんがいるから大丈夫ですよね」

何が大丈夫かは……さておき。
この日、遅刻した名雪が石橋に怒られたことだけは付け加えておこう。

 

それは雨のように甘い日で……
~It Is a Sweet Rainy Day~

 

窓に貼り付く雨粒。
空の青を全て封じ込めた薄暗い雲は、
白い糸のような水を延々と吐き出し続けている。

緩慢な雨のそれと同じように、
午後一番の授業も退屈なものだった。

(結構降ってるな……秋子さんの言った通りだ)

先程から教師が喋っている内容は全て耳から入り、
脳を介さずにしてもう片一方の耳から出ていく。
耳というデバイスの、それは無駄遣いだ。

暇だったので、一つちょっとした想像をしてみる。

「新しいジャムができたんですけど……」

却下。
祐一は即座にその想像を闇の中に葬り去った。

「それで相沢祐一君」

律儀にも祐一のことをフルネームで呼ぶ声。
窓に向けた目を反対側に向けると……。
そこには何時の間にか、教師が立っていた。

「何をそんなに黄昏てるのかね」
「あ、いや、その……」

当然、気の利いた返事など思い付くわけも無く……。

「では相沢君、93ページの6行目から訳してみろ」

名指しされた挙句、対策も練ってない問題を当てる。
教師からしてみれば、他の生徒への見せしめという所だろう。
祐一は心の中で溜息を付きながら思った。

(くそう、ついてないなあ)

祐一は心の中で毒つきながら、教科書に目を通した。

(なになに、The Party Was……)

何処かで見た英文なのだが、思い出せない。
それは前世の記憶か、遥か遠くにいる心の友の記憶か……。
電波に導かれるままにして、祐一は答えた。

「そのパーティは三人のチアガールに壊滅させられた」

祐一の迷訳は、クラス中を爆笑の渦に巻き込んだ……。


そして放課後。
机に顔を埋めていた祐一は、
まるで気の抜けた狼の吼えるような声をあげた。

「う~ん、やっと放課後かあ」

思えばロクなことが無かったような一日だったが、
放課後が来ればそんなことも吹き飛んでしまう。

「ゆういち~、おはよう~」

祐一の声に呼応するように、名雪が机から顔をあげる。
目をごしごしと擦りながらぼーっとしてるのは、
何となく猫チックだと祐一は常々思っていたりもする。

「じゃあ、帰るか」
「えっと、放課後は部活だから……」

寝惚けてる……。
そんな名雪の目を覚ますために、頬を軽く引っ張ってやる。

「今日は、部活休みだから一緒に帰ると言ってたじゃないか」
「ふえ~、ふぉうふぁっふぁふぇ~」
「よし、じゃあ帰るぞ」
「あっ、でもまだ6時間目が……」
「名雪、もう放課後だ……」

祐一は呆れ混じりの声で言った……。

 

「うわ~、結構降ってるなあ」

教室の窓越しからでも雨が降っているのは分かったが、
直に見てみると結構な雨量だ。
線のように細い雨だが、沢山集まれば白滝くらいにはなる。

祐一が傘を差して外に出ようとすると、
名雪は俯いたままで雨を恨めしそうに見ていた。

「どうした、名雪」
「うん、わたし、傘忘れて来ちゃって」
「忘れた? 秋子さんから何も言われなかったのか?」
「えっと……あははは」

名雪は照れを隠すように笑い声をあげる。
その様子を見て、祐一は石橋に怒られている名雪の姿を思い出した。

「慌てて出てきたせいで、頭からすっぽり抜けていたってわけだ」
「流石祐一、名推理だね」
「馬鹿、そんなの小学生だって分かるぞ」

一人は傘を差したままで。
もう一人は傘を持たぬまま。
通り過ぎる生徒を目で見送りながら、
二人は白滝のような雨をじっと眺めていた。

「ということで祐一~」

名雪が祐一の方を上目遣いでそっと見上げる。
その瞳には期待とか色々な感情が混ざっていた。

「傘に入れて~」
「断る」

祐一の言葉に、名雪は目を一回瞬かせると頬を膨らませた。

「う~、わたしが雨で濡れても良いって言うの?」
「そんなこと言ったってだな。相合傘というのは恥ずかしいぞ」
「わたしは恥ずかしくないけどな~」

それはお前が鈍感だからだ……と言おうとしてやめた。

「それに二人だと狭いだろ。俺は商店街までダッシュするから、
 名雪がこの傘使えよ」

とにかく恥ずかしいことこの上ないそれだけは、
なんとしても防ぎたいと思っていたのだが……。

「大丈夫だよ。こうすれば……」

名雪は自信たっぷりに言うと、祐一の腕に自分の腕をするりと絡ませた。

「これだけくっついてれば、二人でも平気だよ」
「馬鹿、こんな所で……」

目にも止まらぬ早さで腕を振り解くと、半歩の間合いを取る。

「う~、祐一が避けた~」
「馬鹿、学校の中じゃ恥ずかしいだろ。知り合いとか沢山いて」

祐一が言うと、名雪は顔をぐいっと近づけて悪戯っぽく言った。

「じゃあ……学校を出てからならいいんだね」
「そ、そういうわけじゃ……」
「うん。じゃあ早く帰ろうよ」

言いながら名雪は、祐一の腕を取って歩き始める。

「馬鹿、学校の中じゃ駄目だって……」

祐一の言葉に、名雪は意も介せぬ様子でどんどん進んで行く。
祐一は何とか振り解こうとしたが……。

「♪~」

名雪の心底嬉しそうな顔を見ていると、そんなことが些細なことに思えてくる。
心が暖かくなる。
例え、傘の外は冷たい雨に溢れていても……。

「祐一~」
「ん?」
「たまには、雨が降ってもいいよね」
「……そうだな」

名雪の笑顔につられて、祐一も微笑み返す。
重なり合うような二つの影は、
ゆっくりと、ゆっくりと、幸せを噛み締めるように歩を進める。
何かと憂鬱になる季節。
しかし、今日だけは雨よりも甘い日。

雨に味があるかは分からないけれど……。

おしまい


時節ものSS第二弾です~。
じっとりとした梅雨という季節の清涼剤となれば……。

というか私には、これ以上のらぶらぶぱわあを出せません。
ギップル回路が作動してしまうので……。

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