一
始まりはあまりにも唐突だった。
霊夢はいつものように朝のお勤めを終え、秋の穏やかな陽気を感じながらゆるりと洗濯物を干していた。夏の名残りはまだ僅かに残っていたが、もはや日差しを恨めしく思うようなこともなく、鼻歌がこぼれるほどの、非常に穏やかな日常だった。
だからいきなり目の前が真っ暗になったとき、最初は立ち眩みでも起こしたのかと思った。低血圧といっても立ち眩みするような体質ではないのだがと思いながら闇が晴れるのをじっと待ったが、いつまで経っても変化がない。
霊夢は半年ほど前に起きた異変の最終局面を思い出し、空に視線を移す。あるはずの太陽はそこになく、月や星の瞬きもどこにも見当たらない。
慌てて家の中に戻り、明かりを求めて電灯を点けようとしたが、何度紐を引いても明滅の兆しすらない。停電でも起きているのかと思い、慌てて棚を探り懐中電灯を取り出そうとした。すると仄かな明かりが外から差し込んできた。霊夢は慌ててもう一度庭に出て、空を見上げる。
そこには白光を放つ信じられないほど巨大な真円が浮かんでいた。黒い影の模様からして月のように見えなくもないが、何らかの錯覚が働いているとしても明らかに異様な大きさである。月がこの郷に向け、落ちてきているのではなないかと危惧したほどだ。しかし巨大な月らしき真円はこれ以上近づくことも離れることもなかった。一瞬にして姿を消し、太陽は消えた時と同じ唐突さで空に取り戻された。魚の群れのような雲がぼんやりと浮かび、なんら異常はないことをわざとらしく訴えているように見えた。
白昼夢でも見てしまったのだろうか。
それとも何らかの異常が空に現れたのだろうか。
それを確かめるには自宅のパソコンから博麗神社のサイトの掲示板を確認すれば良かった。何かが起きていれば書き込まずにはいられない世の中であり、しかも冬から春にかけて起きた二件の異変を解決したのが博麗の巫女であるらしいとの噂がいつの間にか広まってしまったせいか、妖や類する書き込みはまず博麗神社の掲示板にという風潮が出来上がりつつあったのだ。
普段は情報の峻別に鬱陶しくなることこの上なく、しかもサーバ負荷が高くなるから以前使用していた貧弱なレンタルサーバではしばしばサイトが重くなり、一時は博麗神社の巫女は仕事をサボっているのではないかという悪評が一部のアングラサイトでまことしやかに囁かれたもした。重度のネットダイバーである遠子が目敏く見つけて憤慨したのち、異変が起きたらこいつらの個人情報、博麗の異変に対する絶対権限を使って抜いてやれば良いのよなどと悪巧みを吹き込まれもしたが、それは流石に職権濫用だし、風評は放っておけば直に収まることを霊夢はこれまでの経験からよく知っていた。
今回も好き勝手書き込まれているのだろうかと思いながらパソコンを待機状態から立ち上げようとしたが、パソコンの内部からはカリカリカリと起動直後のような慌ただしい音が聞こえてくる。停電のせいで電源が落ちたのだから当然ではあるのだが、予期せぬ終了によるディスクスキャンの時間がいつもよりももどかしく感じられた。
三分ほどしてようやく起動が完了すると、博麗神社のサイトをチェックする……が、のろのろと待機状態を続けたのち、サイトが見当たらないと表示されてしまった。ネットが繋がっているか確認するため、メーラを開いてみたがこれも送受信ともに完了しない。テストプリントをしたらすぐに反応があったから内部のネットワークは生きているらしいが、ルータをチェックしても正常に通信ができるように見える。
そこまで確認したところでようやく原因が分かった。ルータの近くに置いてあった自宅サーバの電源が落ちていたのだ。
だが、これはおかしなことだった。この自宅サーバは霊夢が用意したものではなく、停電が起きてもしばらくは動作できるよう遠子によって設定された特別製だからだ。神社のサイトがいつも重いのは困ると遠子にこぼしたら、よし新しいサーバを立てようなどと目を輝かせながら宣言されてしまったのだ。
遠子の家には今でも十分に使えるスペックのパソコンがいくつも眠っており、若干埃を被っていたパソコンの山から一式を選んで霊夢に神社まで運ばせると、あっという間に配線から設定から済ませてしまった。管理はこっちがリモートでやる、基本的に電源を入れたままで放っておけば良い、停電しても数時間は電気を供給し続ける装置を取り付けたから山の神様どもが気紛れを起こしても問題ないと請け合ってくれた。
緊急時に動かなければならないものが停止しただなんてなんともおかしな話だった。どんな機械も壊れないとは言い切れないが、霊夢の持つ勘のようなものがこれはおかしいとしきりに訴えている。
だが、その気持ちは徐々に薄まっていき、不信に思いながらサーバの電源を入れたところで完全に消えてしまった。もしかすると選択を間違ってしまったかもしれないと後悔するも、時すでに遅し。何かが閃くことを期待して、モニタにずらずらと見慣れぬ文字が通り過ぎるのを黙って見つめていたが、黒背景にログインを求める白い文字が浮かんでスクロールが止まっても何も浮かばなかったので、観念してモニタの電源を切る。
サーバの諸機能が使えることを確認するためパソコンから博麗神社のサイトを表示させると今度はいつもの画面を表示することができたし、メールも受信することができた。サーバが吐いたエラーログの添付されたメールは読むことなく既読にし、遠子宛に転送してから先程の停電に関する情報が何か送られてきていないかを確認する。だがめぼしい情報は見当たらないし、上司からの連絡もなし。
掲示板を覗くと早くもメッセージが書き込まれ始めており、それによると博麗神社のサイトだけでなく様々なサイトに接続できない、繋がっても極めて遅いといった現象が多発している、送ったはずのメールが相手に届かない、そもそもメールサーバが死んでいるなどといった報告がぽつぽつと書き込まれていく。他のサイトでは書き込めないからという理由でやって来た、いわゆる難民と称されるネット民もちょくちょく見受けられた。博麗神社以外のサイトをいくつか表示させてみたが確かに繋がらなかったり、表示に時間がかかるサイトばかりだった。
おかしなことが郷全体のレベルで発生したことは分かる。だが具体的に何が起きたのか分からないし、警戒するべきものを教えてくれるはずの勘も働かない。正確には働き出した勘がぷつりと消えてしまったのだが、どちらにしてもとっかかりがないのは不安なことこの上ない。
「こういうとき、何に当たるべきなのかしら」
口に出せば自然と問題にするべきことが浮かぶと思ったのだが、そう虫の良い話はないらしい。霊夢に思いついたのは過去に似たような事例がないか遠子に訊ねるくらいで、それが正しい方向に進むための行動であるかどうかの自信はなかった。それでも何もしないよりはましだし、自分の勘は色々なものを受け取ることで強く働く傾向があるから、話を聞く行動はおそらくプラスに働くはずだった。
行動の方針を定めたところで電話が鳴り始め、急いで受話器を取ると遠子のいつもより僅かにトーンの高い声が聞こえてきた。付き合いの長い霊夢にはそれだけで彼女がひどく興奮しているのだと分かった。
「ああ良かった、電話は通じるのね」
「どうやらそうみたい。もしかしてさっきの停電の件?」
「ええ、そうよ。何の予告もなく停電になる、太陽が出ているはずなのにまるで夜のように辺りが真っ暗になる。電気はすぐに戻ってきたけれど、パソコンを立ち上げ直してネットに繋いだら大半のサイトが死んでいる、メールもメッセンジャーもろくに機能しないと来たわ。それで神社に設置したサーバのことを思い出して電話したの。神社でも同じことが起きてるの?」
「電源を入れ直してサイトは復活させたし、メールの送受信が可能なことも確認済みよ。前にログが大事って言ってたから遠子のアドレスにまとめて送って置いたわ」
「それはありがたい、後で読んでみる。それで何かが分かるかもしれない……それにしても停電時電源装置を設置していたはずなのに、そちらでも機能しなかったの?」
「そちらもということは、遠子の屋敷にある装置も働かなかったの?」
「ええ、一箇所だけなら電源装置の故障も考えられるけど、霊夢の所でも同じ現象が発生しているし、ネットの状況から見て多くのサーバで同様の故障が発生していると考えられる。ただの停電ではなく、何らかの明確な意図を感じるわね。霊夢は妖怪の山の予定について何か聞いていたりしない?」
遠子が疑っているのは妖怪の山主導で抜き打ちの停電が行われたのかもしれないということだ。おおよそ一年に一度のペースではあるが、いつも働いてくれている機械を休ませる、お世話になっている機械に感謝の気持ちを捧げるという名目で、郷に供給されている電気が一斉に遮断されるのだ。そのありがたみを最大限に知らしめるため、日時はごく一部の関係者を除いて誰にも通知されない。博麗の巫女である霊夢とて例外ではないし、遠子がそれを知らないはずもないのだが、訊ねたくなる気持ちもよく分かる。これまでは停電が起きても電源装置が働かないということはなかったのだから。
「機械を休ませるという方針をより徹底することにしたのかしら」
「パソコンはデリケートなのよ。正式な手続きを取らずシャットダウンすると復旧に色々面倒だし、感謝というよりは虐待に近いわ」
それはパソコンだけでなくあらゆる機械にも言えそうな気はしたが、機械については説明書を読んで扱える程度の知識しかない以上、はっきりした意見を返すことはできなかった。どのみち遠子の怒りはいきなりパソコンを落とされたことに集中しており、他のことに目が入るとは思えなかった。
「まあ、霊夢に手助けが必要でないことはよく分かった。わたしはどんな情報が流れているか確認するため、今からネットの海に……」
「ちょっと待って、待って頂戴!」一方的に電話を切られそうだったので、不躾だと分かっていたが遠子の会話を大声で遮る。「一つ訊きたいことがあるの、パソコンの知識ではなく、遠子が持っている知識を頼みたいのよ。遠子は月についてどれくらい知っているかしら?」
「月、ですって?」遠子の声音は話を遮られた不機嫌というより、驚きと疑惑に彩られているように見えた。「今回の事件に月がどのように関わっていると言うの?」
「それが、停電対応をしていたら辺りが少しだけ明るくなったの。それで外に出てみたら空に月……のようなものが浮かんでいて」
「月のようなもの、ってはっきりしないわね」
「わたしにもよく分からないのよ。暗闇に煌々と輝く様子は月のようにも見えたけど、いつもより大きくてくっきりしていたし、影の付き方も異なっているように見えたわ。本物をそっくり真似たけどどこかちぐはぐとしていて。月の偽物……と言って良いかさえ分からないの」
偽物、と口にした途端、ちりちりと体を灼くような焦燥が全身を駆けていく。サーバの電源を入れたとき消えてしまった勘のようなものが一瞬だけ甦ったかのようだった。だからこれはきっと大事なことなのだと思った。あのとき空に出ていた月は偽物であり、郷に何らかの影響をもたらす可能性がある。あるいは既にもたらしているのかもしれなかった。
そして遠子からも反応がない。霊夢が見た月のようなものについて思うことがあるに違いなかった。
「霊夢、すぐに屋敷に来て。これ、電話越しやメールでやり取りするのは危険だと思うから。もしわたしの記憶が確かならば……」まだ何か言うことがあったように思えたが、遠子はそこで不自然に会話を打ち切った。「とにかく今すぐ来て、お願いよ」
「わたしからも訪ねるつもりだったの、遠子からそう言ってもらえるとありがたいわ。じゃあ、また後で会いましょう」
霊夢は受話器を置き、出立の準備を整える。遅まきながら到来した春が穏やかに過ぎ、夏もいつもの勢いを誇りながらほぼ何事もなく過ぎていった。解放派の活動はこれまで通りだったが、それは日常と呼んで差し支えのないことだ。傍迷惑な異変が二度も続いたのだから、三度目は流石にもう少し後になるのではと楽観しかけていたのだが、それは甘い考えだったらしい。
大きな溜息を一つ、両頬を叩いて気合いを入れ直すと、霊夢は遠子の住む稗田の屋敷に向かうのだった。
稗田の屋敷は流石に紅魔館辺りなどとは比べようもないが、里の一角に居を構えるにしては十分に広く、四方を高い壁に囲まれているから何度訪れても緊張してしまう。霊夢をいつも玄関で迎えてくれる初老の使用人にしても昔は何も気にならなかったのだが、博麗としての技術と格闘の技を身に着けてから改めてその所作を見れば、その一つ一つに無駄がなく、いつも周囲に気を配っているのがよく分かる。霊力を持たず、霊夢のように身体を強化する術を使うこともできないから自力では勝っているが、そういうものを抜きにして格闘で対決したら決して勝てない相手なのだと霊夢は思っている。
どうしてそんなことを考えたのかといえば、いつも通りの動きの中に少しだけぴりぴりとした苛立ちのようなものを感じ取ってしまったからだ。ここに来るまでの短い時間で何かがあったのではないかと不安になり、ちらと顔色をうかがえばそのことをすぐに気取られたらしく、使用人は足を止めて霊夢の方を向き、ぺこりと頭を下げる。
「あのようなことがありまして、お嬢様もご主人様も酷く慌ただしい様子でして。悪いことというのはいつも忙しいとき、大変な時にこそ襲って来るものと相場が決まっておりますから、気が張っていたのです。萎縮させてしまったならわたしの未熟ですね、申し訳ありません」
「別に怖がっているわけではないの。今回は色々なものが噛み合わなくて、だからきっと普段なら気にならないことも気になってしまうのだと思うのだけど」
「今回は特に大事になりそうな予感がするのですか?」
「それすらも分からないの。だからはいともいいえとも言えなくて……」
「わたしの役目は通すべきを通し、それ以外には退いていただくことです。何か起きなくても常に備えていなければならないのですよ」
だから何も分からなくても問題ないということを言いたかったのだろうが、実践するのはとても大変なことだ。自分がそれをやろうとしたらすぐにへばってしまうに違いない。だがいちいち口にするのも気恥ずかしく、その構え方を単純に誉めるのも間違っている気がした。だから霊夢は敬意とともに一つだけ頷き、使用人の後について遠子の部屋の前まで辿り着く。ドアの外からでも微かに打鍵音が聞こえ、ネットでの探索が上手くいっていないことを言葉なく示していた。
そして機嫌の悪い遠子の相手をするのは少し……いや、割と大変だ。使用人は一瞬、ご愁傷様と言いたげな顔を浮かべたがすぐに表情を消し、音を立てず去っていく。霊夢は憂鬱を噛み殺してからドアを開け、部屋の中に入り、作業が終わるのを黙してじっと待つ。ここで下手に声をかけて作業を遮ればいよいよ不機嫌は爆発し、ここに来た意味がなくなってしまうだろう。
幸いにして待つことには慣れていた。博麗神社の巫女は無為な時間を潰すことも仕事の一つだからだ。毎日の家事や訓練、毎月/毎年巡ってくる神事の準備などやることはそれなりにあるが、何時やってくるかもしれない参拝客や厄介事を待つことに時間を費やすことが最も多い立場なのだ。
三十分ほどしてようやく集中が切れたのだろう。腕をうんと伸ばし、うがーと怒った仔猫のような声をあげる。それから背筋を大きく逸らし、そこでようやく霊夢の訪問に気付いたらしく慌てて振り返るとこちらに近付いてきた。
「ようやくのお出ましね、暢気なんだから」いつものことだが霊夢の入室に遠子は全くといって良いほど気付いていない。なんとも大した集中力だった。「ネットであれこれ調べていたのだけど、どこもかしこも復旧で大わらわ、だけどいくつかのことが分かったわ。どうやら今回の事件は山に座する神や妖怪にとっても予想外の事態らしい。まずはこのサイトを見て頂戴」
遠子はそう言ってモニタを指差す。河城重工のサイトトップはサーバがまだ安定しないのかところどころ画像が抜け落ちていたが、本日発生した停電についてというテキストと、文字に張られたリンクはしっかりと表示されていた。
「このサイトもまだ復旧途中らしくてね。何度もアクセスしてようやくリンク先のページが表示できたのだけど」
遠子はタブを切り替え、リンク先のページを表示する。タイトルはリンクされていたテキストと同様であり、マスコットの河童がぺこりと頭を下げているイラストが少しだけ浮き足だった心を落ち着かせてくれた。
そして以下には停電時、ならび電力復旧後の経緯がずらりと記されていた。
本日の午前九時五分から九時八分にかけて発生した停電ですが、既に電力は全地域で復旧済みです。弊社の製品をご利用の方々に多大なご迷惑をおかけいたしましたこと、真にお詫び申し上げます。
停電の影響でサーバダウンが各所で発生しており、ネットやメールが非常に繋がり難い状態となっております。テレビやラジオが停電発生当時、接続困難になったという情報もあります。今後、同様の事態が発生した際には号外の配布、交番や消防署、病院などへの情報掲示なども併せて行っていく予定となっております。
お問い合わせを多くいただいております、停電と同時に空が夜のように真っ暗となった現象についてですが、現在調査中でございます。皆様におきましては同様の現象が発生した場合、決して家から出ることなく自宅待機していただくよう、切にお願い申し上げます。
なお、続報が入りましたらサイトにも掲載いたします。
ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします。
非常に丁寧で抑制の効いた文章であった。そしてだからこそ何も分かっていないのだということがはっきりと伝わってくる。これは取りあえずの苦情を丁寧な物言いによって逸らすためだけに書かれたものだ。異変が起きる前からも妖怪や妖精が巻き起こす厄介事をちまちま解決してきた霊夢には、この手の文章が持つ意味を熟読するまでもなく理解できた。
「犬走や守矢のサイトもほぼ同じ文章が掲載されていたわ。つまり山側は既に統一見解を整えており、苦情処理体制も出来上がっているってことね。ここをつついても知らぬ存ぜぬを通されるばかりで新しい情報は何も得られないでしょう。全くこういうことばかりには手が早いんだから、忌々しいったらありゃしない」
遠子はふんすふんすと鼻息を荒くしながらタブを閉じ、何もしていないのに霊夢の顔をじろりと睨みつけるのだった。
「霊夢、貴方は真っ暗な空に浮かぶ月を見たと言ったわよね」
遠子は目を細め、その真贋を見極めようとしているようだった。長い付き合いだからこんなとき嘘を吐かないことくらい分かってくれても良さそうなものだが、うんともすんとも言わないのではいつまで経っても納得しなさそうだった。
「ええ、月というにはあまりに丸くて大きく、それでいて月としか形容できない代物だった。あんなもの見間違えるはずもない」
「月に関する記述がないか、これもネットで調べてみたけどめぼしいものは見当たらなかったわ。サイトの復旧確認がてら、博麗神社のサイトに設置されている掲示板も確認したのだけどそんなことを言っている人は誰もいなかった。それでも霊夢は巨大な月らしきものを見たと言うのね?」
「あれは夢でなく現実だったし、もし夢の中で見たものだったとしたら現実で見たよりも問題だわ。遠子はわたしが見る夢の意味を知っているわよね?」
「ふむん……現実であれ夢であれ幻であれ、霊夢が見たならそれは何らかの意味を含むと考えるべきか。他の誰も見ていない現象であってさえなお、それは常に正しい」
「そこまで大袈裟なものでもないわよ。夢のほうだって選ばせてくれないし」
「でも見たものについては正しさがある。ではやはり月の偽物は出現していたという前提で話を進めた方が良いわけか」
遠子は視線を霊夢から外し、どこか遠くを見るような素振りを浮かべる。これは遠子が過去に生きた稗田のことを思い出す時に見せる仕草であり、偽物の月が過去にも現れたことを示唆していた。これまでの異変といい、遠子が過去を思い出すとろくなことが起きないし、今回もそのパターンかと思うと少しだけげんなりしてくるのだった。
「げ、また六代前だ。阿求の記憶ってことは絶対ろくなことが起きないのよね」
そして遠子が思い出したのは三度、阿求の時代の出来事だった。最初に弾幕決闘が流行ったのはその時期だが、同じ時代に異変がそこまで集中したとなれば里に住む人間にはさぞかし災難だったのではないかと、今更ながらに同情の気持ちが湧いてくる。
「しかも阿求は何が起きたかを完全には把握してないみたい。複数の勢力が偽りの月を目指し、最終的には永遠亭に集ったとされているけれど、それ以降の記憶が酷く曖昧というか最終的に理解を放棄してしまったみたい」
当時の記憶を持つ遠子がお手上げならば、霊夢から言えることは何もない。辛うじてできることがあるとすれば永遠亭を直接訪ね、住人から詳しく話を聞くことだが、謎の停電から始まった一連の現象がそこに住まう者たちの仕業ならば、素直に話をしてくれるとは思えなかった。
「わたしから言えるのは阿求の時代に突如として偽物の月が空に浮かび、郷の理が乱されたこと。これを一大事と見た妖怪たちが力のある人間と手を組み、時間を止めて夜を永遠としたのち、その一夜をもって事件を解決しようとしたことくらいね」
「ごめん、遠子が何を言っているのかさっぱり分からないわ」
「わたしにもちんぷんかんぷんだし、当時の稗田もそう判断したのでしょう。理解するのを諦め、事件が起きて解決したことだけを慎重に記憶したといった感じね。憶測に走り過ぎれば記憶することがどんどん増えていき、ノイズも比例して多くなる。考えずに切り捨てることは御阿礼の子として生きるなら大事なことだけど、似たようなことが起きたとき、解決する方法を提示できないということが起きてしまうのね」
当時の御阿礼がそう考えたのも分からないではなかった。偽物の月を用意するというだけでも訳が分からないのに、時を停めて一夜のうちに解決しようとした当時の関係者の思考が全く理解できない。力のある妖怪が類稀なき頭脳の果てに引き寄せた手段なのだと推測できるが、そこに至る思考の流れを追跡することができない。
そして遠子も霊夢と同じ結論を出したらしく、すっかりとしょげた様子だった。
「今回ばかりはどうにも相談相手にはなれそうにないわ。過去を知り続けることで現在に生きるものを教導するのが稗田の役割なのにそれができないなんて」
蓄えた知識が通用しないというのは稗田にとってほとんど敗北に等しい。遠子はそのことを本気で悔しがっていた。だが霊夢は何も言わず、悔しがるままにしておいた。
霊夢もこの半年、新たに得た力を使いこなすため精一杯修行をし、自分より上の相手に挑んでは負けを重ねていき、そのたびに喚き散らしたくなるほど悔しくなった。まだ未熟な頃は負けて当然だと思っていた節があり、ひたすらに強くなることを目指せば良かったが、今はそうではない。
博麗が異変を解決するということは、その先に何もない、しくじることができないということだ。前回は魔理沙が助けてくれたし、紫が異変解決の策を授け、美真が支えてくれたけれど、次も同じ幸運が巡ってくるかどうかは分からない。
だから負けることが重く、そして以前よりずっと悔しいのだ。それでいて霊夢は弾幕決闘が嫌いになれず、寧ろ好きになるばかりだった。かつて雷鼓に弾幕決闘を楽しんでいると言われたが、全くもってその通りだった。
失敗して死ぬほど悔しいことは同時に、本人にとって得難いほど楽しい、打ち込みたいことでもある。
遠子が本気で悔しがっているのもきっと同じ理由だ。そして彼女は子供の頃から負けず嫌いだった。霊夢が博麗の巫女になる前からずっと。だから余計に慰めらることができなかった。
「それならわたしが足で情報を取ってくる。永遠亭に行って住人たちに話を聞いてみるとするわ。それで何か分かることも出てくるかもしれない」
「ごめん、今回ばかりはお願いするわ。こちらは引き続き文献に当たってみる。紙もネットも片っ端から、偽物の月を出すなんてふざけた輩の尻尾を必ずつかんでやる」
どうやら遠子は悔しさを次の行動への活力に変えたらしい。だから霊夢も安心して稗田の屋敷を後にし、里の往来に出ると新たな目的地へと向かおうとした。
そのとき再び、世界が暗闇に包まれた。
空を見上げれば、偽物の月がまるで霊夢を挑発するかのような輝きを放っていた。
「計ったように出てくるのね!」
永遠亭なんて行かなくても、あの月に辿り着いて原因を取り除けばきっとこの怪現象も起こらなくなる。そんな激しい気持ちに駆られ、霊夢は人里の中であるにも拘わらず一気に上空へと飛び出す。だが空に近付くにつれ、あの月に辿り着くことはできないという警鐘のようなものが胸の中で鳴り始める。
無理だ、そんなことはできない、不可能だ。
霊夢はそれらの警告を全て無視し、ひたすらに偽物の月を目指す。だがいつまで飛んでも月は近付くことなく、そして前回と同様、予告なくその姿を消してしまった。
そして霊夢は元いた場所で立ち尽くしている己を発見するのだった。ずっと空を目指していたのに、実際は一ミリも空に浮かんでいなかった。
「これは一体、どういうことなの……?」
呟いてみたものの、霊夢に答えを与えてくれるものは誰も現れず、疑問符ばかりが頭を占めていくのだった。
二
迷いの竹林の奥深くには、医を生業にする者たちが暮らす屋敷がある。その名を永遠亭と言い、秘境に暮らす素性もよく分からない集団であるというのに人間たちの評価は概ね高い。彼女たちが販売している薬は色々な症状によく効くからである。行李を背負った薬売りの姿は東の里に住んでいれば知らないものはいないくらいに有名なのだ。北の里や西の里にはあまり現れないし、原料もろくに分からない薬は怖いということであまり広まっていないそうだが、なんとも勿体ない話だと思う。
博麗神社にも頭巾を目深に被った行商人が現れ、定期的に置き薬の様子を見に来るのだが、最近は生傷の絶えないことが多いから重宝させてもらっている。だから永遠亭が元凶というのは些か面食らう話でもあったのだ。彼女たちが月からの来訪者というのは有名な話だが、誰もそんなことは信じておらず、箔をつけるためか何らかのメタファーであると誰もが考えており、霊夢もその例にもれなかった。
霊夢が永遠亭を訪ねるのは今回が初めてではない。案内を願いたいと依頼されることがこれまでに何度かあった。永遠亭は他に手の施しようがない患者が縋る藁としても機能しており、迷いの竹林を超えたいと願う人間が時々現れるのだ。
もちろんあらゆる病気が治るわけではない。老いから来る病となれば痛みを和らげるのが関の山だし、寿命を延ばしたりなくしたりする技を分け与えることは決してなかった。かつて人間の権力者が高圧的な態度でそれを求めた時には、一夜のうちに身の破滅がもたらされた。これは過去の胡乱な昔話ではなく百年ほど前に実際にあったことだ。その逸話は今でも残っており、永遠亭に住まう者たちを決して害してはならないという不文律はいまや不動のものである。
そんな彼女たちだが薬を売ったり病を治したりと人間にとって有益であることは間違いないし、怒らせなければ問題ないという意見が大勢となっている。永遠亭側でも案内人の存在を許可しており、博麗の巫女は代々案内人になる資格を有している。妖怪や不思議に通じている博麗は案内人としてうってつけという判断らしい。
いつもは今泉影狼という人間にわりかし友好的な狼憑きが、幾許かの報酬を受けて竹林を案内する。といっても実際に目的地に進んでいるわけではなく、一定時間歩かせた後で人語を解する妖怪兎が現れ、要件を問うてくるのだ。そして竹林の案内料なんて子供の駄賃と思えるほどの金額を要求する。そこで支払いを即決すれば理由を問うことなく永遠亭に通される。ただし普通に生きていれば一生かけても払えないほどの額であり、大抵はそこで逡巡が生まれる。
大切なのはきちんとした誠意を見せることだ。心を込めて誤魔化すことなく訴えれば、提示した金額に届かなくても訪問者は通される。いきなり値切ろうとしようものなら問答無用で竹林の入口まで強制送還される。
『健康であるとは他に代え難い至宝だというのに、値切ろうという魂胆が気に入らない』
なんてことを永遠亭の遣いである妖怪兎は飄々と口にしていた。そしてそれは主人の意向なのかと訪ねたら口笛を吹き始め、霊夢の問いに答えてくれなかった。おそらくはその妖怪兎独特の考えであり、主人はそのような指示を出していないと考えられた。そして独自の判断が認められるほどその妖怪兎の立場は高いのだ。
「やあやあ、今日は一段と気難しい顔をしているね。悩みごとでもおありかな?」
これから向かう場所のことを考えながら竹林を歩いていると、案内役の妖怪兎がひょっこりと姿を現す。いつもならうんざりするほど歩かせるというのに、今日に限っては気の早いお出ましだった。
「分かっているからこんなに早く出てきたんじゃないの?」
妖怪兎は何も答えることなく、にやにやと笑うだけだった。この状況が面白くて仕方がないらしい。だから霊夢も仕返しのように遠慮なく失礼な質問を投げかける。
「あんたらが変な月を出したり消したり、機械を動かなくしてるんじゃないの?」
牽制の意味も込めて訊ねてみたのだが、からかうような態度は引っ込むばかりか増すばかりである、この妖怪兎が悪戯好きであることは以前からの言動で察してはいたが、異変の疑いをかけられてまでその態度を貫き通すとは余程の胆力か実力を持っているに違いなかった。
「さあてね、考えるのはわたしの仕事じゃない。騒ぎを起こすのもね。とはいえ我が永遠亭の当主代行様には思うところもあるらしい。だからこうして早々の案内と来た。では屋敷までの道を案内しよう、見失って妙なお茶会に迷い込んだりしないようにね」
返事を聞かずぴょんぴょんとはねていく妖怪兎を、霊夢は慌てて追いかける。いつもはゆっくりと歩いて先導していくというのに、今日に限ってはやけに急かしてくる。もしかすると力を計られているのかもしれなかった。いつもの意地悪さからして、この速度に追いつけない程度では話に耳を傾ける価値もないと判断してもおかしくない。
慌てて速度を上げると不意に足を取られて転びそうになる。ぴんと張られた紐に引っかかったと気付き、慌てて手をつこうとするが、そこにあるはずの地面は霊夢を支えてくれなかった。咄嗟に空を飛び、地面に顔を半ばめり込ませたところで霊夢の体がぴたりと静止する。そしてひえっと声をあげそうになった。霊夢は地面にめり込んだのではなく、落とし穴に顔を突っ込んでいたのだ。転ばしの罠に落とし穴の無慈悲なコンボであり、妖怪兎の性格の悪さをはっきりと見せつけられた思いだった。
霊夢は地面に顔を向けたまま浮き上がると、体勢を整えてからおそるおそる地面に着地しようとして、すんでのところでやめた。柔らかい感触を足に感じたからだ。この辺りはきっと落とし穴だらけに違いない。霊夢は空を飛んだまま辺りを見回し、わざわざ見えるぎりぎりの所で待機していた妖怪兎を見つけると再び追跡していく。
念のために二段ほど身体機能を強化してみたのだが、すると眼前に張り巡らされた糸がうっすらと浮かび、罠の執拗さをこれでもかと示した。前方に向けて札を乱射し、糸を根こそぎ薙ぎ払うと検知器代わりの札を周囲に浮かべ、妖怪兎に追い縋る。
手を伸ばせば捕まえることができるところまで接近すると光景ががらりと変化し、見覚えのある屋敷が姿を現した。古式ゆかしいようでいて古びた印象がないのは紅魔館を始めとして力のある神や妖怪が住む所に共通した特徴ではあるが、永遠亭は建っているだけで不尽不滅であることを強く主張しているように見えて、霊夢は訪ねるたびに少しだけ落ち着かない気持ちを覚えるのだった。
妖怪兎はいつの間にか姿を消しており、それでいて目の前にもいた。竹林で追いかけ回したのと異なる妖怪兎が霊夢の目の前に立っていたのだ。
「お久しぶりね、今日は来訪者の護衛というわけではないみたいだけど」
鈴仙・優曇華院というのが彼女の名前である。名前すら名乗らないへにゃへにゃ耳の妖怪兎と異なり耳はぴんと伸び、折り目正しく礼儀も整っている。彼女は霊夢が永遠亭の中で唯一まともに話が通じると考えている人物だった。
「まあ、ここに来た理由は何となく察しているわ」そう言って鈴仙は空を指差す。然るに何が起きているのか、薄々察している様子だった。「師匠もだからこそ、博麗の巫女が竹林を訪ねてきたらすぐに通せと言っていたわけだし」
やけに物分かりの良い態度であり、霊夢はすっかり拍子抜けした格好だった。遠子はかつて偽物の月が現れたとき、その元凶は永遠亭にあると言ったけれど、今回はどうも部外者であるらしいことがその態度から見て取れる。無関係の振りをしているだけの可能性はあるし、注意深く動向や態度を観察する必要はあるだろうが、今のところ物々しく力を示す必要もなさそうだった。
霊夢は浮かばせていた札を回収し、身体強化を解いて小さく息をついた。
「あんなものを空一杯に広げ、あまつさえ月を偽するなんてこちらからすれば良い迷惑だし、月兎の部隊を組織して乗り込んでやりましょうかと提案したんだけど、師匠には別の思惑があるみたいでね。もう何百年もの付き合いになるけれど、未だにあの方の考えることはわたしなど思いも及ばない。医術、製薬においては肩を並べる……までは行かなくてもその一端には辿り着いたと思うのだけど」
「鈴仙さんの持ってくる置き薬、よく効くから助かってるわ」少し自信なさそうなので励ますつもりで言ったのだが、ことのほか嬉しかったらしく耳がひょこひょこと機嫌良さそうに動いた。「弾幕決闘が流行っている間はずっとお世話になると思う」
「さもありなん。全く貴方と同じ名前の巫女と来たら、この世界に革命をもたらすツールとしてあの規則を生み出したとしか考えられないのよね。いつだって郷が活気づき、動乱を謳歌するのは弾幕決闘が流行るときなんだもの。それでも二度目以降は、最初に流行った頃より規模もずっと小さく、異変と呼ばれるような出来事も一度ないし二度しか起きなかったのだけど、今回は同じ年だけで二つ、現在進行形で三つ目が起こっているかもしれない。やはり貴方が霊夢だからなのかな」
「今年に入って似たようなことを既に何度か言われたのだけど」
流石に慣れてきたが、かつてはあまり良い気持ちにはなれなかった。偉大な先人を持つというのはそれだけで重圧であり、強い責任を伴うからだ。異変を解決する役割を帯びているのにこんなことを考えるのはよくないのかもしれないが、今年に入って起きた二つの事件がそんな霊夢に少しだけ自信を与えてくれたのだ。
「力量に関しては今後の伸びしろを期待したいところだけど、皆が霊夢霊夢と言って殊更に構うのは貴方の持つこう……なんていうのかな、存在感みたいなものが彼女とよく似ているからだと思う。外見もそっくりだけど、姿形だけが似ているものを持て囃したりはしないものよ。妖怪とは姿形すら伝承や逸話に応じて変えてしまえるものだし、中には息を吸って吐くように化け術を扱う輩もいるのだから」
「そういう気持ちも分かるけど、それを重いと感じることを分かって欲しい」
魔理沙は霊夢の側が妖怪にとって居心地の良い場所であるとフォローしてくれたし、鈴仙が言いたいのも同じようなことであると察せられたが、押しつけられる側としてはたまったものではないし、つい愚痴のようなものが口から飛び出してしまった。
「重いのは良いことよ。それは貴方というふわふわした存在をこの大地にしっかりと繋ぎ止める役目を果たしてくれるのだから。今は重圧としか感じることができないかもしれないけど、その重さこそ霊夢を貴方たらしめるものなのよ。いつも重いばかりだと辛いから、息抜きや友人との気楽な語らいも時には必要だけど」
霊夢の頭に浮かんだのは稗田の屋敷に住む幼い頃からの友人である。あとは半年ほど前、郷に入ってきた魔法使い見習いの姿もはっきりと浮かんでくる。彼女は魔法の森で修行に励む傍ら、時折神社を訪ねては郷のしきたりや慣習、日常でのよしなしごとを話してくれる。二人と会話しているとき、霊夢の心はふわふわと軽くなって楽しい気分でいられるのだ。
もう一つ浮かんだ顔があるけど、それは霊夢の心をすっかり重くしてしまった。重いものが自分を自分たらしめるものならば、いつか彼女とも対峙しなければならないのかもしれない。
「さて、立ち話もなんだし油を売るのもこれくらいにしましょう。師匠……八意様の元に貴方を案内するわ」
鈴仙は屋敷の入口の戸をがらりと開く。次の瞬間にはどこまで続くか分からないほど遠くまで延びた廊下を歩いており、鈴仙は豆粒に見えるほど遠くにいた。そしていくら歩いても追いつくばかりか、逆に遠ざかっていくようだった。かと思えば次にはその背中をごく間近に見ることができ、純和風の屋敷にそぐわないドアノブのついた扉の前で立ち止まっていた。
「最短経路を通ったのだけど、認識できたかしら」
「いいえ、入ったと思ったらあっという間にここへ到着してたわ」
「この感覚を記憶しておくと良いかもしれないわね」
それはどういうことかと訪ねる前に視界がぐにゃりと歪み、次には椅子の上に座っていた。対面には赤半分、青半分の奇妙な色合いをした服に身を包んだ女性がおり、霊夢の戸惑う様をじっと観察している様子だった。
「あの、八意永琳さん、ですよね?」
永遠亭の当主代行を勤める彼女の顔を霊夢は何度か見たことがある。念を押したのは永琳がやけに余所余所しい顔をしていたからだ。
「ええ、その通りよ。ところで貴方、月の使者を最近になって目撃したことはある? 月の裏側に存在する完全なる理想郷についてはご存じ? 機密事項甲〇三六九一号、かつて蓬莱の薬を服用した輝夜なる姫について耳にしたことは? ××××、これが何を意味するかを聞き取れるかしら?」
かと思えば永琳は訳の分からないことを矢継ぎ早に質問してくる。あまりの脈絡のなさに、自分の頭が狂気に浸されているのではないかと疑いそうになったほどだ。
「あの、言っている意味がよく分かりません」
「分からないならそれで良いの。さて、貴方は優曇華の目を見て先程までずっと恐慌を来していたのよ。狂気を与えたわけでもないのに過剰反応を示した原因が彼女には分からなかったみたいね。随分と学を積んだけど、まだまだひよっこってところかしら」
その言い種だと永琳はこの身に何が起きたのかを完全に把握している様子だった。
「かつて高濃度の穢れを短期間で一気に浴びたことがあるのね。その影響下から抜けたのちも貴方の目は若干だけど狂気の様相を呈している。随分と危険なことをしたのね、穢れに慣れていない者にとって、かつて地球に降り注いでいたレベルの穢れを浴びるだけでも狂気に侵される危険があったというのに」
永琳は霊夢に理解できないことをあれこれと並び立てる。そして霊夢が理解していないことも重々承知らしく、より分かりやすい言葉で言い直してくれた。
「貴方は穢れを受け、見えてはいけないものが少しだけよく見えるようになったの。それは貴方が優れた探索者の資格を有しているということで、条件さえそろえば月の狂気が引き起こすような錯誤さえ見抜き、真相を見事に直観するでしょう」
「真相とは偽物の月が現れたり、機械が停止したりする事件の元凶と考えて良いのかしら?」
「ただしそのためにはお膳立てを整える必要があるの。貴方がここに来たのは、かつて郷の空に偽りの月を浮かべたのがわたしであると、誰かに聞かされたからよね?」
「ええ、だからこそ話を聞きに来たのよ。まず確認したいのだけど、今回の件は永遠亭の仕業ではないのよね?」
「当然よ。わたしにはもはや隠すべき者は何もないのだから」
「隠すべきものとはかつてこの屋敷の当主だった輝夜なる月人のこと?」
「そうよ。かつてわたしが全てを擲って仕えた大罪人。優曇華にイナバの名を与えたもの。この永遠亭の主にしてもはや永久に喪われし者」
かつて永遠亭には蓬莱山輝夜なる女性が住んでいた。だが今はもういない。不死の死を迎えてしまったからだ。死なないものが死ぬ方法だなんて霊夢には見当もつかないが目の前にいる薬師は不死の霊薬すら処方してみせるのだから、その死を与える薬すらも創ることができるのかもしれない。だがいま知りたいのはそんなことではない。
「でもかつてのわたしとやっていることはかなり似ている。偽りの月を浮かべることで郷全体の認識を阻害しているの……いえ、かつてとは逆なのかもしれない」
「逆、というのはどういうことなの?」
「月は隠れたがっているのかもしれない。だけど何らかの理由によって完全に姿を隠すことができないから、観測されないように認識を阻害しているのかも。だけど事象としては同じことが起きている。現状、誰もがその原因に辿り着くことができない。それは隠されている状態こそが正常と誤認させられているからなの。これでは異変として成立しようがない。少なくともわたしはそう考え、かつて行動を起こしたの。偽物の月が浮かぶ夜こそ正常である、真であるとして郷全体を欺こうとしたわけ。だから解決者たちは自ら異変を起こしたのよ。騒ぎを起こし、ことをどんどんと大きくすることで偽物の月が異変であるという認識にすり替え、欺き返したの。その計略は見事成功し、わたしたちは夜だというのに白日の下へとさらけ出された。その後はお決まりの弾幕決闘となり、偽りの月は夜明けとともに真実へと到達する。だからあのとき起きた出来事は偽月異変ではなく永夜異変と呼ばれるようになったの。明けない夜に端を発したどんちゃん騒ぎこそが異変の本質を示しているからであり、その認識をもって異変を解決したのだから」
長々と説明してもらったというのに、霊夢には永琳が何を説明しようとしたのかさえろくに理解できなかった。かつて遠子の六代前である稗田阿求が永夜異変について精確な分析ができなかったのも致し方ないと納得するしかなかった。
「何を言っているか分からないという顔ね。これは月の頭脳であるわたしと郷の賢人が交わした知恵のぶつかり合いであり、ただの人間が一度聞いただけで理解できないのも仕方がないことよ。恥ずべきではないし、それは智が確固たる証でもある」
実に遠回しだが、永琳はその頭脳が知恵そのものであると自負してみせた。穏やかな彼女の中に眠るのは才能に対する堂々たる自信なのだ。どうすれば自信を持てるのか、いつも悩んでばかりの霊夢にとってその態度は目映さすら感じるものだった。
「この現象を解決するためにはまず異変が引き起こされなければならないとだけ覚えておけば良いわ。その段取りは貴方の上司である八雲某が整えてくれることでしょう。それまで着々と力を蓄え、高いびきを立てていれば良いのよ」
博麗の巫女は異変を解決する仕事だというのに、異変を起こす側に与するというのはいよいよ本末転倒だ。しかし永琳の話から僅かに理解する限りにおいて、そうするより他に道はなさそうだった。
「これがいま、わたしの答えられる全て。もっと単純な正解を語ることもできるけど、それはやめておくことにするわ」
永琳が正解を語るならば、偽りの月にまつわる事件はより簡単に解決できるはずだ。それを避ける理由が霊夢には一つしか思い浮かばなかった。
「貴方は今回の事件が同族、つまり月の宇宙人の手によるものだと考えているの? 同士討ちをしたくないから、これ以上の手や知識は貸さないと?」
「それは分からない。月がかつて使っていたのとよく似た錯誤を操ってはいるけれど、この加速する幻想郷にまで届く一矢を撃って来たのかもしれないし、全く関係ないのかもしれない。どちらにしろこれは幻想郷が解決する問題だとわたしは考える。永遠亭は何百年、何千年と郷で暮らしてきても結局のところ異邦人なの。人の病や傷に効く薬を作ることはできても郷の病や傷を癒すそれを作ることはできない。それは貴方を始めとした郷に暮らす者たちの手によって作られるべきだと思っているし、叶えば良いと心の底から願っているのよ」
永琳の話すことには分からないことが多く、信頼に値するかどうかを判断する頭脳さえも霊夢は持ち合わせていない。だがこのとき浮かべた慈愛に満ちた笑顔を見て、霊夢は疑いの気持ちを抱くことができなかった。
異邦人とは言ったが、それでも彼女の心は郷にある。かつては月の宇宙人だったかもしれないが、今はれっきとした郷の住人なのだ。永遠亭に住む者たちの心を安らかにするためにも、今回の件は解決されなければならないのだろう。
「健闘を祈るわ。解決の暁には屋敷の者たちも誘って頂戴」
そう言って永琳はお猪口を手に取り、くいと飲み干す振りをする。その仕草が霊夢の考えを肯定しているように思えた。
永琳の部屋を後にすると入口に鈴仙が立っており、霊夢に視線を向けようとしてふいと目を逸らす。失礼な行動でないと分かったのは彼女の顔が不安に歪んでいたからだ。
「良かった、すっかり正気なのね。わたしの眼を見た途端にすっかりと度を失い、ぼんやりと立ち尽くしてしまったからどうしたのかと心配したのよ。どうやら師匠がすっかり治してくれたみたいだけど」
「わたしは短期間に穢れを浴び過ぎたと言っていたわ」
鈴仙はその説明だけで合点がいったらしく、霊夢に目を合わせないようにしながら全身をくまなく観察する。
「ああ、だから狂気を受けやすい体質になっているのね。今の幻想郷にそんな体質は滅多に生まれないと思うのだけど……そんな穢れを一体どこで浴びたのかしら?」
覚えがないと言いかけ、霊夢は半年ほど前に交わした紫との会話を思い出す。彼女は郷から陽光を簒奪した鉄の龍が浴びせてきた光に強い穢れが含まれていたのではないかと話してくれたのだ。露骨に話を逸らされたため詳しい事情は訊けなかったのだが。
そのことを説明すると鈴仙は得心げに頷くのだった。
「鉄の龍……ああ、あの妖化した電気機関車のことね。なるほど、妖化するほどの穢れを浴びた道具ならば人間を狂気にかかりやすくなるほどの穢れを浴びせることもできるのかもしれない。道具が付喪神とならないで妖化するなんて随分と不思議な現象だけど異なる世界の技術ならばそんなことも可能なのかしら」
「紫は向こうの世界に存在していた月の仕業じゃないかと言ってたけど」
霊夢は紫の推測と美真が話してくれた向こうの世界について、かいつまんで説明する。これもあまり理解しているわけではないし、途方のない話だから全てを信じているわけではないのだが、鈴仙は口元に手を当て、深く俯いてしまった。一考に値すると判断したに違いなかった。
「そう言えばかつて技術省で働いていた月兎が、夢物語として話してくれたことがあったわ。太陽を覆う殻を建造し、そのエネルギーを余すことなく利用するための方法が過去に模索されたことがあるのだと。こちら側の月は斯様にドラスティックな方針を認めることはなかったけど、それを実行した世界も存在するのかもしれない。太陽系の資源をかき集め、まずはリングを作る。それを基にして徐々に勢力範囲の拡大を行い、最後には太陽を覆い尽くしてしまうほどの球を形成する。その月兎は太陽を覆う殻を天の外蓑、地上人が書いた小説ではダイソンスフィアと呼称していたはずだけど……あら、どうしたのかしら。目の前で盆踊りをしている人たちが輪を描いています、みたいな表情をして」
「あんた、気をつけて話さないと人が死ぬわよ」
パチュリーもそうだが、凡人の頭脳を無視した話を平然と展開するのは長寿を持つ妖怪の悪い癖だ。そして鈴仙はそのことに少しだけ自覚を持っているようだった。
「あはは、ごめんごめん。つい興が乗っちゃったみたい。まあ、太陽のエネルギーを利用するために建設される超巨大構造物だということが理解できていれば良いわ。その建造計画はこちら側だと実践はされなかったわけね。その代わり……」
そこで鈴仙は途端に話を止め、誤魔化すような笑みを浮かべる。彼女もまた霊夢に話せないことを秘めており、いくら訊ねても引き出すことができないのだ。何度目かの反応だから慣れてしまったが、それでも心の中にもやもやが募るのを抑えられなかった。そんな霊夢の気持ちを読んだように、鈴仙は気遣うような表情を浮かべるのだった。
「ごめんね、意地悪してるわけじゃないの。でもそのことを知ったら、もう二度と日常には戻れなくなるの。霊夢は今でこそ博麗の巫女だけど、引退して普通の人間に戻る時が来る。みんなそのことを慮ってくれているのよ」
だからいきなりそんなことを言われても困ってしまう。妖怪は人間に内緒の秘密を持っている悪い奴だとしてくれたほうがずっと楽だったのに、今更優しさだなんて言葉を出されてもどうしようもない。
「何かに変わってしまうというのは、時に取り返しがつかないことを生み出してしまう。人が妖と化すのはその最たる例だし、より取り返しのつかないことだってある。例えば……」
「永遠に死ねない体になるとか? でもその人は死んだのよね? それは取り返しのつかないことが取り返しされたことを意味するんじゃないの?」霊夢の指摘に鈴仙はぎくりと肩を震わせる。嫌がる相手の傷を抉るなんてしたくなかったけど、ここははっきりと言っておきたかった。そうしなければこれから先もずっと、もやもやを抱え続けたままになってしまいそうだったからだ。「取り返しのつかないことでも取り返されることがある。全てを知ってもわたしは変わらないかもしれない。隠すことは優しさと言ったけど、それは残酷さとは言わないの?」
「じゃあわたしも言ってやるわ。霊夢はこの世界のことを知ってなお変わらないでいられるほど強くはないの。もし何もかもを知りたいならば、世界を敵に回してもなお確固たる強さを身につけなさい。でもそれは何よりも難しいことなの。人間はそれを実践できる生き物だけどそれでも難しい。もしかすると一生、手に入れることができないかもしれない」
世界を敵に回してでも得られる強さだなんてあまりに大層過ぎて、霊夢にはその実感すら湧かなかった。圧倒的な強さを持つ存在ならいくつも思い浮かべることはできるが、鈴仙の言う強さとは能力の強さとは全く別のことであるように思われた。そしてそれはこの世界から永久に失われてしまった永遠亭の当主ともおそらく無関係ではないのだろう。鈴仙のどこか辛そうな表情がそのことを言葉なく示していた。
「でも、まずは目の前の問題を解決しなければ。師匠にその方法を教わったのでしょう?」
「わたしにはよく分からなかったけど、何をやれば良いかは教えてもらえた」
まさか果報は寝て待て、みたいなことを言われるとは思わなかったけれど。
「それは良かったわね。師匠がはっきりと理解できる言葉を使うのって結構珍しいのよ。余程機嫌が良かったのか、霊夢のことを気に入ったのか、それとも月に似た技術を使っているのが気に入らなかったのかも。ああ見えて誇り高い方だから」
鈴仙は相変わらず目を逸らしていたが、今だけは霊夢の目を見ないようにするのではなく、後ろめたいことを隠したかったからではないかと、そんなことを考えてしまった。
もしかしたら永琳は自分を思い通りに動かすため、何らかの操りを仕掛けたのだろうか。鈴仙はそのことを知りながら、師匠の命であるから口にできないのかもしれない。
だが霊夢にはそれが何かも分からなかったし、今は与えられたヒントに従うしか道はなさそうだった。
三
東風谷早苗はその日、地下に通じるエレベーターに乗り、地底の奥深くに建設された間欠泉地下センターに向かっていた。頻発する怪現象の原因を探るためである。といってもセンターの管理人が粗相を起こしたと疑っていたわけではない。むしろ原因として最もあり得なさそうだから後回しにしていたのだが、他を当たっても手がかりの一片さえ得られなかったので正に藁をも縋る思いで訪問したのだった。
もしも郷に電気を供給する仕組みが整って間もなくの頃であったならば、早苗は真っ先に地下へ向かっていたはずだ。管理人である霊烏路空は八咫烏の力を備えるだけの素地を持っていたが、力に呑まれて性格が豹変した挙げ句に地底で騒ぎを起こしたという前科を持っており、巫女によって調伏された後もその忘れっぽさと脳天気さで異変までは行かなくても様々な騒ぎを起こしてきた。
だが数百年の時を経たいま、落ち着きのない性格であることに変わりはないが、度を外さないだけの十分な理性を獲得している。それに妖怪にしては珍しく素直なところがあり、正当な対価と評価を与えればそれを蔑ろにすることはない。彼女の主である古明地さとりは許可なく空に力を授け、利用しようとしたことでかつては守矢を酷く疑っていたが、覚ゆえに物分かりも早く、空が力に見合った役割を得られることも歓迎してくれた。こちらが裏切らない限りは地底も裏切らないという約定を交わしており、そして守矢の側でさとりや地底に属する者を裏切ったことは一度もない。
それでも地底に住む者たちは気難しがり屋が多いから、こちらの意図しないものを汲み取って機嫌を悪くするということは考えられるし、それがさとりの耳に届いた結果として電力の安定供給を盾に交渉を仕掛けてきたと考えられないことはない。そして空は神奈子から授けられた力を使っているといっても、さとりの命令に逆らうことはない。
「それが真相ならば、やりやすいんですけどね」
さとりは相手の心を読むという厄介な能力の持ち主だが、こちらに二心がないならば彼女ほど話が通じる者はいない。無駄な疑惑を抱くこともないから然るべき交渉を行い、妥協点を提示するだけで良い。
物思いに耽っているうち、エレベーターが最下層に到着する。そこにあるのはかつて旧地獄の動力源であった地獄炉を改造した、核融合によって発生する莫大なエネルギーを電気に変換するための装置だ。その名も幻想郷製太陽炉第一号、通称サブタレイニアン・ローズ。現在、郷でいくつか稼働している太陽炉の一つである。プロトタイプであるためか、後に製造されたものと違って神的/魔的/妖的な要素が節操なく組み込まれており、その外観は河童の趣味嗜好が剥き出しとなっている。早苗も設計には一枚噛んでおり、過去に起きた騒動と相まって時を経ても記憶との間に齟齬をきたすことはない。
レガシーなその造りと遥かな過去を懐かしんでいると、遠くからぱたぱたと慌ただしい足音が聞こえてくる。微かに混じる羽ばたき音から、早苗には誰が接近しているかすぐに分かった。
「お久しぶり、えっと……初めましてじゃない人!」
過去に会ったことがあるのは覚えているが、顔や名前をど忘れしているらしい。前に訪れたのは十年近くも前なのだから、誰だか何となく覚えているだけでも御の字なのだろう。そう結論づけ、早苗は気さくな調子で自己紹介を行う。
「東風谷早苗です。守矢神社の三柱の一つ、と言えば思い出してもらえるかしら」
「ああ、そっかそっか神奈子様と同じ神社に奉られてる人だ。十年と一ヶ月七日ぶりだっけ? お久しぶり!」
「名前や顔を忘れるのに、なんで正確な時間は覚えてるんですか!」
「数字は覚えるの楽だもの」ついツッコミを入れてしまうが、空はさして気にする様子もなく自信ありげに答える。「でも顔を覚えるのは苦手。さとり様は一度会ったことのある人の顔は決して忘れないと言うから、本当に凄いよね」
主を称揚するその様は実に無邪気で、何かを言いつけられている様子はない。これは大外れだなとすぐに分かったが、かといってすぐに立ち去るのも味気ない。空の方では話したいことがありそうだし、少しだけなら付き合うことにした。
「最近、調子はどうかしら?」
「いつも通りに絶好調よ、それより貴方こそ顔色が悪いけど大丈夫? 風邪とか引いてない? それならこの辺りに漂っている元気な水素一杯の空気が体に良いよ。わたしが頼めばもっと元気にしてあげられるけど」
太陽を司る神を宿す空なら効果があるのかもしれないが、早苗の疲れや眠気を取る効能はない。だが気遣われているのを無碍に断るわけのも気が引けた。
「最近少し寝不足なの、効き目があるならお願いしようかしら」
適当な理由をでっち上げてお願いすると、空は右手の制御棒を何度か上下に振る。何かが変わったようには思えなかったが、早苗に期待するような眼差しを向けてくるからきっと変化が起きているのだろう。早苗はわざとらしく微笑み、元気になったことを強調してみせた。
「どうやら水素のほうでも早苗を好きみたい、なんとか元気づけようとしてくれてるよ。水素に好かれる人に悪い奴はいないから早苗は信用できるかな。さとり様は疑わしいと言ったけど、前にもそれで悪い奴を追い払うことができたし」
早苗は喜んで良いのか分からずに苦笑しかけ、空の言葉の中に引っかかる言い回しがあることに気付く。
「前にもということは、わたしの他にも誰かがここにやって来たのかしら?」
「うん、核融合炉の周りを探ったり変な動きをしてたよ。どんな奴だったかなあ……」
雑談を交わして終わりのつもりだったが、思いも寄らぬところから事件解決への糸口らしきものがやってきたらしい。早苗は逸る心を抑えながら、記憶を手繰ろうとしている空の様子をじっと見守る。ここで声をかけるなどしたらぷつりと記憶が途切れる可能性があるし、予断が植え付けられてありもしないことを思い出すこともある。他者から話を聞き出すならば、余程の急場でない限りは思い出すまでじっと待つ方が良いのだ。
その甲斐あって、空は十分ほど己の記憶と格闘したのちぽつぽつと話を始めてくれた。
「今から十九時間くらい前のことだけど、えっと……ああそうそう、その不審者だけど触覚のようなものが生えてた」
触覚が生えているなら妖怪の可能性が高い。だが触覚持ちは妖怪なら割と珍しくない特徴でもある。翼持ち程ではないが、正体を特定するまでは至らない。なおも記憶が蘇るのを待つことしばし、空はぽんと手を打った。
「あとね、追い出そうとしたら光る虫を放って抵抗してきた。変なことをするやつだなと思ったな。顔はあまり覚えてないけど、あいつはきっと虫使いに違いない」
そこまで聞かされたら早苗でなくても触覚持ちの正体にぴんと来るものは多いはずだった。虫使い、それも光る虫を操るとなれば該当者は一人しかいない。不審者の正体はリグル・ナイトバグを名乗る虫の妖怪に違いなかった。
彼女は幻想機械解放同盟に身を寄せている食客妖怪の一人であり、その力を専ら益体もない嫌がらせのために使い、妖精を除けばいつもいの一番で巫女に追い払われている。各地に根城を持つ妖怪のように強い力を持たず、確固たる信条を持たない木っ端妖怪の一人であり、妖精より扱いやすいからと使い走りにされているとの話を聞いたこともある。
今回の事件とどう繋がってくるのか現状ではよく分からなかったが、このことは一応、心の隅にでも置いておくことにした。
「どうやらきちんと仕事をしているようですね、これからも励んでください」
「うん、しっかりとわたしに任せるが良いよ」
奇妙で尊大な物言いだったが、空が口にすると全く嫌みなところがなく、信頼されるのが嬉しいと言わんばかりだった。長い年を経てなお屈折せず、素直であるというのは美徳の一つであり、すっかり神としてねじ曲がった早苗にとってその在り方は少しだけ羨ましかった。
「あっ、そうだ。神奈子様に会ったらまた将棋の相手をしようと言ってくれないかな。ここにやって来る河童と来たらみんなてんで弱くて楽しめないんだもの」
早苗はその言葉に目をぱちくりとさせてしまった。河童は将棋の打ち手として全体的に優れた種族であり、人間ならいくつも冠を持っている名人でもなければ太刀打ちできないはずなのに、そんな河童をあっさりねじ伏せられると宣言したからだ。神奈子はそんな河童相手にも勝利を取れる数少ない打ち手であり、だから将棋の神様として奉られることもある。それほどの相手でなければ楽しめないとなると、空もまた規格外の打ち手であるということになる。
「分かりました、話してみますよ」
空が嘘を吐くとは思わなかったが、俄に信じ難い話である。神奈子に訊けば分かることだし、他に考えることもあったから早苗はこの件はひとまず保留としておいた。
間欠泉センターを後にし、地上に出ると早苗は少し迷ったのち博麗神社へと向かう。といっても霊夢に先程得た情報を話すわけではなく、守矢の分社がある一番近い場所だったからだ。今回の件に開放派が絡んでいるとなれば、いち早く報告する必要があると感じていた。
少し前までだったら捨て置いたが、彼女たちの行動はいまや早苗たち山の重鎮にとって無視できないものとなっている。西の湖に突如として現れた歯車の塔、魔法の森に現れた鉄の龍、ともに彼女たちは真っ先に辿り着いているからだ。それに結界の管理人である八雲紫からもあいつらの動向に注意しろと直々に連絡があった。
「あの子は少しまめ過ぎるのが玉に瑕かな」
早苗が郷にやって来た頃に出会った紫はもっとどっしり構えていたし、誤解されることさえ逆手に取ることのできる、いわゆる黒幕体質の妖怪だった。対して今の紫はいちいち甲斐甲斐しく、各方面への対処と配慮を怠らない。式神を上手く使ってもっと楽をすることもできるはずなのに、いちいち出張っては陣頭指揮を取りたがる。
「わたしも人のことは言えませんけどね」
地下間欠泉センターの調査だって、常勤の河童に命じれば済む話だった。それでも無性にそわそわしてしまい、こうして自分で足を運んでしまった。
「まあ、どっしり構える仕事は神奈子様や諏訪子様が見事にこなしていますし、わたしが動く分にはさして格も下がらないでしょう」
それで良しとして早苗は神社の側まで来ると、霊夢が外に出ていないか、風を操って気配をそっとうかがう。庭にいる様子だから少し待とうかと思ったら、風を通して何者かと会話しているのが聞こえて来た。霊夢は何やら怒っている様子であり、早苗はそっと聞き耳を立て、会話の一部始終を盗み聞きすることにした。割と短気な性格ではあったが、いつ参拝客が訪れて来るかも分からない境内で怒鳴り散らすのは珍しい。だから余程の相手か、もしかしたら逢引の果ての修羅場ではないかと勘繰ったのだ。
『あんた、一体何を企んでいるのよ!』
『あら、企むとはまた随分な言い方ですこと。わたしはただ幾許かの助言を与えに来ただけだというのに』
霊夢の話し相手の声に早苗の心臓がどくりと音を立てる。長らく出会うことのなかった昔馴染みだと分かったからだ。しかし懐かしさは全く感じなかった。それどころか胸中に満ちるのは戸惑いばかりだった。何故ならば彼女はとうの昔に喪われた存在だからだ。
『変な機械を次々と呼び寄せて、わたしがあたふたとするのを楽しんでいるのね。そこに直りなさい、今からその性根を叩き直してやるわ』
『あらあら、怖いことを言うのね。最近の巫女は妖怪に濡れ衣を着せてまで退治しようとするのかしら』
『濡れ衣ではないと言うならば証拠を示しなさい』
霊夢の剣幕に、話し相手はしばらく無言だった。早苗が想像している通りの相手ならば、虚偽であれ詭弁であれすぐにでも用意できるはずなのだが、沈黙を保つということは声だけそっくりの偽物なのだろうか。それとも巫女の前だから勿体ぶっているのか。どちらにせよ、沈黙は霊夢が痺れを切らす前に破られた。
『被告が無罪であることを証明する必要はないのだけど、今回は特別よ。なにしろ可愛い霊夢の言うことなのだから』
『あんたの言う霊夢はわたしじゃない』霊夢の切り返しに、話し相手の声がぴたりと止まる。『お前はあのちっちゃな紫の前に八雲紫をやっていた妖怪に違いない。かつての霊夢が生きていた時に悪いことを沢山したのでしょう?』
『あら、悪いことをしたって何故分かるの?』
『もちろん勘に決まってるけど、今回ははっきり当たっていると確信するわ。だってあんたの前に立っているだけでこんなにも腹立たしいんだもの』
それは違うと言いたかったが、盗み聞きをしている以上は口出しできない。もどかしく思いながら更に様子をうかがっていると、紫を名乗る妖怪はいきなり爆弾発言を放って来た。
『わたしはこの異変の元凶を知っている。それを貴方に教えてあげると言ったら少しは信用してくれるかしら』
早苗は思わずごくりと唾を飲む。彼女がもし旧いほうの紫だとしたら一筋縄ではいかないし、ここであっさり本当のことを喋るとも思えない。だが早苗はもしかしたらがあるかもしれないと考えていた。紫とかつて霊夢を名乗った博麗の仲を知っているからだ。今の霊夢はかつての霊夢とよく似ており、妖は気負わずに過去を思い出せる環境を好む傾向にある。八雲紫ほどの妖怪といっても手心を加える可能性は十分にあった。
『嘘を吐いたら針千本投げつけるわよ』
『うふふ、良いわ。では答えを教えてあげる。この郷で幾度となく繰り返されている太陽の消失、ならびに機械の異常停止を引き起こしているのは……ずばり、月なのよ』
あまりに当たり前のことを口にしたからだろう。生まれた沈黙はしばらく続き、早苗の心中に失望の二文字が徐々に広がっていく。
守矢神社でも月らしき球体は何度か観測されており、早苗も一度ならずそこへ辿り着こうとした。だがいくら試しても到達できなかった。だからこそ手掛かりを求めて太陽炉の管理状況を一つずつ確認して回ったのだ。最初から月を目指すことができたら苦労はしない。
『まさか、それだけなの?』
沈黙から立ち直った霊夢がようやく口を開く。早苗もその場にいたら間違いなく霊夢に加勢していたはずだった。
『ええ、かつて偽りの月が空に浮かんだとき皆がやったように夜を永遠のものとし、その一夜をもって月を異変の元凶とするの。その儀式を行うのにうってつけの日はいまや目前に迫っている。良いこと霊夢、この現代に永夜異変をもう一度始めるのよ。そのためのお膳立ては着々と整えられつつある』
『それって一体どういう……あっ、もう!』
霊夢の憤りぶりからして、紫は姿を消したらしい。早苗のよく知る人をくったような神出鬼没ぶりである。
欲を言えばもう少し色々と聞きたいこともあったが、あの月を何らかの要と考え、巫女を差し向けたがっていると分かっただけでも十分な収穫だった。
「それにしても永夜異変とは……その頃はまだ郷にいなかったからあまり知らないのよね」
兎にも角にも奇妙な事件であったこと、その中心に永遠亭があったことくらいは知っているが、当時の書籍を追っても何が起きたかはっきりしなかったのだ。あの八意永琳が立てた計画なのだから複雑かつ壮大で当然だし、異変の解決として取られた方法も実に独創的でかつ生半可な理解を許さないところがあった。
稗田の屋敷で改めて、当時の縁起を借りようかなと思ったが、すぐに気が変わった。教えてくれそうな存在が背後に現れたからだ。
「聡いのは耳だけではないのね。神様が板について、ゴシップにも油断することがない」
くすくすと、紫が微かに笑い声を立てる。ジョークを口にしたつもりのようだが、早苗にはさっぱり理解できなかった。
「それで、巫女をけしかけて何をするつもりですか? 何も知らない彼女を死地に向かわせるつもりならば、少々お灸を据えなければなりませんが」
弾幕から遠ざかっていたことに加え、あの八雲紫が相手となればそれも難しいことだが、霊夢につく悪い虫は追い払わなければならない。
「遠慮しますわ。残念ながら今のわたしでは七百年近くも信仰を集めて気力十分な神には到底敵いませんもの」
そんなまさかと思いながら振り向き、かつて境界の賢人と呼ばれた妖怪の姿を久々に目に映そうとした。そこにいるのは無数の境界をはらんだ魔人であるはずだった。
「お久しぶり……あら、どうしたのかしら。随分と驚いているけれど、わたしの惨めな姿がそんなに可笑しいかしら」
「……七百年でもそこまでしか回復しなかったの?」
姿形こそ八雲紫だが、そこにいるのは継ぎ接ぎの体を境界によって繋ぎ合わせたとても不安定な存在だった。その痛ましさに思わず目を細めてしまうほどだったが、紫はそんな様子にも頓着する素振りは見せなかった。
「一度は最小単位で分解されたんだもの、ここまで回復しただけでも僥倖と思わなければ」
「最低限の力を振るえるところまで回復したからこそ、己の力を示そうと再び表舞台に現れたいうことですか?」
口にしてみてすぐにありえなさそうだと考えたのだが、紫は不敵な笑みをもって早苗の推測と心情をかき乱そうとしてきた。
「名代がこれまで立派に勤めを果たしてくれたから、誰彼煩わされることなく休暇を取ることができたわ。正直言うと七百年程度では足りないのだけど……何しろ数千年も休みなく勤めを果たしてきたわけだし、死ぬほど痛い目に遭ったし。あと三百年くらいは有給をいただきたいところね」
「では存分にお休みになってください。あちこちに波乱を振り撒くのは、特にあのお騒がせ集団に与することはやめていただきたいものです」
「お騒がせ集団ぶりならばかつての貴方たちも大概だったけど」
「茶化さないでください。奇妙な機械を次々と呼び寄せ、それを解放派に真っ先に手に入れさせようと情報を与えているのでしょう?」
これまでずっと謎だったことも、彼女が裏で糸を引いているならば一応は納得できる。だがそんなことをする動機が早苗にはまるで分からない。八雲紫は動機なしに何かをする妖怪ではなく、裏に秘め事を張り巡らせているはずだった。
「何のためにそんなことをするのですか? これも答えによってはきつい仕置きを与える必要があります」
「ふむ、まあ別に隠すほどのことでもないから言うけれど、わたしは天下の擾乱というものをやりたいの。ほら、わたしったら散々黒幕黒幕と言われ続けてきたじゃない。実際は異変の元凶だったことなんて一度もないのに。それはなんとも忸怩たるものがあると今更ながらに思ったわけ。どう? 納得していただいたかしら」
涼し気な口調でそんなことを言われても信用できるものではないが、紫は誰にでも信じてもらえると言わんばかりの態度をもって早苗を挑発するのだった。
「だからわたし、これからは黒幕系妖怪を目指すことにしました。よろしくお願いしますわ」
早苗は答えの代わりに無言で御幣を構える。亡き者にするまではいかないにしても、境界を操るその力を十全に振るえない程度には痛めつけておく必要があると感じたからだ。
「あらあら怖いこと。かつてはアスパルテームのように甘い娘っ子だったというのに」
「その言葉、甘んじて受け入れますよ。そして今のわたしは性質の悪い古狸を退治するのに何ら憐憫を覚えません。その身に苦い痛みをたっぷりと味わわせてあげます。あるいは何か申し開きすることがありますか?」
「わたしが致命的に害されれば、世界の秘密が詳らかにされることになるわね」
誰もが慎重に避けて通るべきことを紫はさらりと口にする。それを盾にされると早苗には何もすることができない。
「ごめんなさいね、この手の脅迫は本来スマートさに欠けて好みではないのだけど」
早苗は御幣を構えたまま歯噛みし、それから振り上げた武器をそっと下ろす。それをやられるくらいなら、まだ機械を次々と呼び出されて郷を乱されるほうがましだ。
「約束が違いますよ。それはあと三百年は明かされないはずなのに」
恨み言の一つでも口にしたくなるくらいには納得がいかなかった。千年というのは目の前にいる彼女が出した条件だからだ。科学の発展を慎重に御し、自然と科学、人間と人外の調和が取れた郷を築くのに千年かかるだろうというのが彼女の見積もりだった。
対する紫の答えには、溜息のような失望が現れていた。
「たった三百年、と言いたいところね」
その言い方で早苗には紫が何をしでかそうとしているのか、何となく察しがついた。彼女は守矢の仕事にけちをつけようとしているのだ。
「貴方の言わんとすることは理解できました。ここで調伏できないのがつくづく残念ですよ」
早苗が嫌がる様子を見ても紫はにやにやと猫のように笑うだけだった。性格が悪いとはかつて常々思っていたが、それを改めて突きつけられた形だった。
「さて、双方の見解を示し合わせたところで本題と行きましょうか」
「本題……先程までの話は前座程度ってわけですね」
「退屈はしなかったでしょう?」紫は悪びれずにそう言うと、その顔から笑みをすうと消した。それだけで早苗の背筋が自然にぴんと伸びる。「あんなことを言っておいてなんだけど、今回の件はわたしの与り知らぬところで起きているの。あれは侵入を一切気付かせることなくするりと忍び込み、また手出しをすることができない状況なの」
「あの月に対するアプローチならわたしも試みましたが叶いませんでした。目指そうとすると欺かれるんです」
上昇しているという感覚は確かにあるのに、ふと気がつくと地面に立ち尽くしているのだ。普通に空を飛ぶことはできるのに、あの月を目指すような行動を少しでも取ると、途端にキャンセルを食らう。性質としては迷いの竹林にかかっている惑わしに近いものがあり、五感にダイレクトな妨害を仕掛けてくるのだと予想されたが、解除の目処は立っていないというのが現状だった。
「かつて郷に張られていた結界も同種のものだったし、あの程度の錯誤なら今のわたしでも突破するのはわけもない。それでも辿り着くことができなかったの。ほとんど必然と言って良いような偶然が次々と降りかかり、どうしても接近できない。あれには二重の誤魔化しがかけられているに違いない。もう一人の紫も突入には失敗したらしいし、彼女が有している式神をけしかけても同様の結果に終わった。こちらが動くだけでは状況の動かしようがなさそうなの」
「だから巫女をけしかけようとしてるんですか?」
「その通りよ。あの子はわたしの愛した霊夢ほどではないけれど、真相に向けてあらゆるものを貫き通す力がある。それにこの郷で祭りを起こすならば、博麗の巫女がその中心に立たない道理はない。もちろん守矢の巫女も賑やかし程度で参加する分には歓迎するけど」
「風祝です。あの子は……まだ早いと思うのだけど」
「年の近い霊夢があれほど活躍しているのに早いも何もないでしょう。それに祭りは騒がしければ騒がしいほど良いの。かつて月にまつわる異変が起きた時、そうだったように」
紫は一瞬だけ遠い所に視線を寄せる。過去を覗き見るその視線は幾許かの喜びと、そして数倍の寂しさに彩られているように見えた。
「やることが一つしかないならば、せめて過程だけでも楽しまなければ。それがこの郷の流儀だと思うのだけど」
それについては早苗も紫の意見に同感だった。そんな場所だからこそ早苗はかつてここで居場所を見つけることができたのだ。
「分かりました。わたしからも打診してみます」
それに早苗も内心では過保護ではないかと思い始めていたのだ。しかし他の二柱は何故か風祝が異変に関わろうとするのを許さない。
身内に対してある程度の優しさは見せるものの、必要と感じれば風祝を調査に遣わせるし、危険な場所へ赴くように指示をすることも躊躇わなかったのだから、過去を振り返っても類を見ないほど優秀な風祝を、たとえ年端もいかないと言えど使わないはずがない。だから何らかの意図があるのだと思い、早苗もこれまで強くは具申せずにいた。
「だが、貴方の思い通りに動くとは考えないことです。あとは郷に仇なす動きを見せたら、先程の脅しなど障子紙一枚程もその身を護らないと心得なさい」
「ふふ、承知したわ。それでは、伝えることも伝えたことだし、わたしはこれでお暇したいのだけど」
「その前に一つだけ聞かせて欲しいことがあります。貴方は今回の騒動を起こした元凶に心当たりがあるのですか?」
半ば勘のようなものだったが、紫はそのことを自分に隠しているのではないかと感じたのだ。
「辿り着くことはできなかったと言いますが、その正体を目にすることくらいはできたとわたしは考えています。それすらも教えてもらえないと言うのですか?」
「予断を与えたくないの。貴方の言う通り、わたしは月ではない形のものを見た。それは虚飾のない姿であるかもしれないけれど、わたしを欺き、郷全てを欺くものであるかもしれない。意地悪するわけではなく、罠を怖れてのことなのよ。分かって頂戴」
胡散臭いことこの上ない相手だというのに、早苗は紫をそこまで疑うことができなかった。言葉の端々から二心のないことを無意識に感じているのか、それとも早苗の勘が正しいと訴えているのか。どちらにしても早苗は頷く以外の行動を取ることはできなかった。信用できるにしろできないにしろ、ここで首根っこをつかんでいくら振り回しても情報を得ることはできそうにない。ならば彼女の言うことにひとまずは乗っかってみようと思ったのだ。
「健闘を祈るわ。はてさて、鬼が出るか邪が出るか、それとももっとへんてこなものが出てくるのかしらね」
紫は他人事のようなことを残し、するりと姿を消す。この胡散臭さ、胡乱さはかつての紫そのものであり、だとしたら彼女の言葉を丸ごと信じるのはやはり危険なのかもしれない。なんともままならない気持ちにさせられる存在だった。
早苗は強引に気持ちを切り替えると再び聞き耳を立て、霊夢が分社の近くにいないことを確認すると入口を開き、戸を潜る。己が分かたれ、ばらばらになる気持ち悪い感覚に耐えることしばし、早苗は守矢神社に辿り着く。まだ秋も始まったばかりだが、妖怪の山の中腹ともなると気温も随分と低く、二柱の動きもはっきりと鈍くなる。案の定、二柱は暖房の効いた部屋でぬくぬくとした面持ちを浮かべていた。
こんな時だというのに暢気なことだがこの腰の重さに呆れていては守矢の風祝は勤まらない。早苗はとっくの昔に引退した身だが、二柱のこのような姿を見るたびかつての気持ちが少しだけ甦ってくるのだった。
「おや早苗じゃないか。障子戸を早く閉めておくれよ、風が入ってきてしまう」
諏訪子の言葉に神奈子は同意するように強く頷く。早苗は言う通りにしてから「少しお時間をよろしいでしょうか?」とうかがいを立てる。立場の上では同じ守矢の柱なのだから畏まる必要は全くないのだが、数百年の時を経た今でも早苗は二柱への敬意を失っていない。そのだらしなさに溜息をつきたくなることはあるが、それはそれ、これはこれである。
早苗は正座して背筋を伸ばし、二柱に相対してから事の次第をかくかくじかじかと語る。
「ふむ、現在活動中の太陽炉は全て正常。河童の水上発電所も問題なしか。まあ、さして疑ってはなかったけど。インフラの安定度はかつての日本と比べても遜色ない、ないし上回るように作られているし、原因不明の故障が頻発するなんて普通ではありえない」
神奈子の意見には早苗も異論はない。諏訪子もいつもならば些細なことで神奈子の逆を張ろうとするのだが、今回はそれすらもなかった。だから電気系統に故障がないというのは前提として良さそうだった。
「電力の供給いかんに拘わらず、機械のほうが止まっていると考えて良いようだね。それもまた同じくらい奇妙な現象だが」訝しげな様子の神奈子に変わり、今度は諏訪子が早苗に質問を飛ばしてきた。「以前の報告によれば、止まる機械とそうでない機械があったみたいだけど」
諏訪子の質問に、早苗はこれまで報告のあった停止、ないしその見込みがあるとされる機械を読み上げていく。
「カメラ、ビデオデッキ、ビデオカメラ、これらは新品の電池や満タンまで充電されたバッテリーを装填していても全く動きませんでした。河童からの報告によれば電子望遠鏡の類も作動しなかったみたいですね。あとは電気仕掛けでない望遠鏡や双眼鏡も使えなくなっています。それから蛍光灯、懐中電灯、街灯も全滅しましたし、電話もほぼ不通となるようです。テレビやラジオは動く時もあるけど挙動は極めて不安定。パソコン、サーバ、停電時電源装置の停止が巻き起こした惨状は神奈子様も諏訪子様も既にご存知の通りかと」
サーバが停止するごとに河童がてんてこまいになり、昼夜を問わず連日の対応も甲斐なく、幻想郷に構築されたネットは徐々に死につつある。文がネットにニュースを投稿できないとぶつくさ言っていたし、早苗もそれで幾許かの不利益を被っている。
「冷蔵庫、電子レンジ、オーブンといった調理機器は問題なく動いています。洗濯機、乾燥機、掃除機も問題なし。工場の機械もコンピュータ管理されてないものは動き続けたという報告を受けています。特筆すべきは医療機関などの人命に関わるような事象を管理する施設の機械は、用途が限定されていればコンピュータ制御でも動いていたということです」
それは不幸中の幸いだが、同時にこの現象が決して自然現象ではなく、意志をもって引き起こされていることを明確に示していた。
「雑な括りとなるが、観測や分析、情報の拡散を実施するような機械を止めたいという意志を朧気ながら感じるね」
早苗は諏訪子の意見に同意半分、疑問半分といったところだった。傾向は分かってもその意図が分からないのだ。人命に配慮されている辺りは友好的であるとも言えるが、それなら早々にこちら側との接触を図りに来ても良いはずだ。それができないのは何らかの後ろ暗い事情があるに違いないというのが早苗の見立てだった。
「わたしも神奈子もまたぞろ解放派の悪戯か、それにしてもやり口が酷いから今回ばかりはきつくとっちめなければいけないと思っていたけど……まさか隠居したはずのスキマ妖怪がしゃしゃり出てきて、月を目指せだの祭りを開けだのと言い出すとは」
「しかも彼女が御しきれない事象となれば、いよいよ面倒なことが起きていると考えるべきだな。偽物の月、永遠亭の周囲を覆う竹林に似た認識阻害型の結界、となれば月の仕業を疑ってもみたくなるが」
「しかし神奈子様、月だなんて!」かつての郷ならともかく遷移を果たしたこの郷に月の影響力が及ぶだなんて、少なくとも早苗には考えられなかった。「凋落の果て、置き去りにされたあいつらに一体、何ができましょう」
「確かに凋落したが……だからこそ最後の一糸をこの時代にまで放ってきたとも考えられる。月は不穢の楽園にて超科学が台頭するもう一つの幻想郷であったことを忘れてはならないよ」
神奈子の厳しい言葉に、早苗は項垂れるように俯く。
「もちろん、あのスキマ妖怪が嘘や出鱈目を語っている可能性も十分に考えられる。ただ他に手の打ちようがないのだから、こちらとしては祭りとやらに乗っかるしかないだろう。主導権を握れないのは忌々しい限りだが」
「なあに、それなら強引に主導権を握り返してやれば良いのさ。かつて神奈子が中央からやってきて、政をわたしから分捕ったように」
神奈子は一瞬だけこの野郎と言いたげな怒りを示したが、軽く息を吐いていなす。諏訪子はけろけろと蝦蟇じみた笑い声を立て、場の緊張もようやく少しずつほぐれていった。
あのことを話すなら今だと思い、早苗は宿題を持ってくるのを忘れた生徒のようにおずおずと手を上げる。
「あの、一つよろしいですか。あの子についてはどのように扱いましょうか」
紫は当代の風祝である佳苗を担ぎ出して欲しそうなことを口にしていた。だからどうしても話し合わなければならない一件だったが、二柱はこれまで佳苗がいくら嘆願しても、早苗がそろそろと仄めかしてもまだ早いの一点張りで、聞く耳を持っていなかったし、説得は難儀すると考えていた。
「調査に必要なら連れて行くと良い」
だから神奈子より拍子抜けな答えが返ってきて頭の中が真っ白になってしまった。
「ん、早苗ったらどうしたの? 許可が出たんだからもっと喜べば良いのにさ」
しかも諏訪子まで同意見であると知り、早苗はいよいよ困惑するしかなくなっていた。
「いや、だってこれまで散々反対してきたじゃないですか」
「そりゃそうだ、未熟な上に危なっかしいときたらそれなりの腕前を持っていたとしても、妖怪退治や異変解決なんて出せるものかね」
「しかもあの子の信仰は守矢になかった。いくら畏まった態度を取られたところで、それでは守矢の特攻隊長……もとい風祝として出せるはずもないというものだ」
神奈子の言い方も辛辣だが、諏訪子の信仰がないという分析は更に手厳しいものだった。だが佳苗の本質を残酷なほどに指摘していることは早苗にもよく分かっていた。
彼女が本当になりたかったのは守矢の風祝ではなく、博麗の巫女だ。それは郷で最も霊力の強い人間だと認められることであり、将来の風祝という定まったレールから逸脱する数少ない方法の一つだった。だが選ばれたのは佳苗ではなく、霊夢の名を継いだ彼女であった。その事実に佳苗は強い衝撃を覚え、そしてその原因を自分以外に求めるようになってしまった。きっと彼女の周りが下手な慰め方をしたのだろう。
佳苗が守矢神社にやって来たとき、そうした感情はすでに完成していた。だからずっと佳苗にとって守矢神社、ひいては妖怪の山全体が緩やかな牢獄のようなものだった。早苗がいくら宥めても改善されることはなく、半年くらい前まではずっと気まずい関係が続いて来たのだ。
「しかしここ半年の間に状況は一気に改善された。自分だけを信仰していた彼女が、早苗だけでなくわたしや諏訪子を信仰するようになった」
「やはりあの年頃の少女は年の近い友人というのが一番の薬なんだねえ」
それは一種の天啓に近いものだった。半年ほど前、春を奪う機械とともにやって来た少女が佳苗の友人になってくれたのだ。早苗はこれまでずっと、博麗の巫女とのわだかまりを解くよう努めてきたので、棚からぼた餅のような解決に複雑な気持ちを覚えてしまったが、すぐにこれもよしと考え直すことにした。縁というものは神様にすら計り知れないところがあるし、それがお互いにとって良いものならば素直に認めるべきなのだ。かつて早苗も己の縁を受け入れてくれた人がいたからこそこうして今も柱の一つとして存在している。
「彼女の所に行ってこう伝えてやりなさい。貴方の初陣は守矢の三柱が最大限に祝福するものになるでしょう、とね」
早苗は不敵な笑みとともに大きく頷く。正直なところ少しだけ心配だったが、他の二柱が許したのに自分だけ止めるのはいかにも情けない態度だったから、それは口に出さずにおいた。
そのときちょうど、外から佳苗の元気な「ただいま!」の声が聞こえてくる。だから早苗も席を立ち、朗報を伝えに向かうのだった。