1 不定な夜、あるいはさよならネバーランド 【後編】
帰省の流れとは逆方向の列車だったので、僕と谷山は余裕で座ることができた。「橘はやっぱり頭が良いね」缶で手を温めながらの誉め言葉は、少しばかり滑稽だった。僕は彼女に流されただけなのだから。
「誰にも文句を言われず座って話し込むのに、がらがらの電車は結構うってつけだろ? 乗り物酔いし易い体質の人間だったら話は別だけど」プルタップをぎこちない手つきで開け、中身を一口飲んで喉を潤してから、言葉を続ける。「橘は修学旅行の時に平気そうだったから、問題ないだろうと判断したんだけど」
「何気に観察してんだな、僕のこと」いつも回りに興味ないというスタンスで生きているように見えたから、僕のような空気の存在が認識されていたのは驚きだった。「そうやって、クラスの皆を逆観察してるの?」
「まさか。君だけ特別」何故? 訊こうとするより、谷山の声の方が早く届いた。「だって、私は橘のことが好きだから」
今度は動転しなかった、と思う。それにしたって、こうも直接「好き」と言われるのはむず痒い。中学生のとき、憧れの上級生に付き合って欲しいと言った時は顔を真っ赤にしながら「好き」と言ったけど、それ以来、戯れくらいにしか用いたことはない。好きとか愛してるって、割と打算で言えるから。結局のところ、信用できない。谷山の「好き」も、僕のそれと同程度だろうか。彼女の精神構造なら、ありそうだった。気の利いた言葉が出てこない僕に、彼女は尚も話しかけてくる。
「夜の電車って、なんか非現実的だよね」谷山は、そっと顔を寄せてくる。「二人で駆け落ちしよっか、南十字星の見えるところまで」
彼女は、僕の驚く顔を見るのが気に入ってしまったのだろうか。暫く惑っていたが、南十字星という言葉に、僕は強い不安をおぼえた。宮沢賢治の最有名作、銀河鉄道の夜だ。白鳥座の始発駅より旅立つジョバンニとカンパネルラが、死出の旅路を逝く銀河鉄道の終着駅。それこそが、南十字星なのだ。殆ど見ず知らずの僕を誘った理由が、正しくそこにあるとしたら? 谷山にただ着いて行くだけで良いのだろうか。気もそぞろな僕に、彼女は腹を抑えて笑ってみせた。
「深い意味なんてないよ。大体どうして私が死なないといけないの? 頭が良くて、運動も出来て、人をそこそこ振り向かせるくらいには美貌を持っているのに、勿体無い」
そこまで言うかと思ったが、谷山の言は全て過度でも過少でもない。謙遜せず、己を誇ってみせる彼女の姿は、僕に随分と好ましく映った。でも、自信満々そうに見える人間が数時間後に骸を曝している可能性も、ないとは言い切れない。僕の友人の一人に、凄く陽気な奴がいた。ある日、彼は僕を夕食に誘った。酒を飲んでいる時の彼はいつにも増して躁めいており、ひっきりなしに僕の背中をばしばし叩いていた。流石に耐え切れなくなって注意すると、彼は少し寂しげな笑みを浮かべて悪いと言った。別れた三時間後、別の女友達から彼が自殺したことを知った。投身自殺だった。屋上にはごめんなさいとだけ書かれた紙が置いてあり、靴は履いたままだったらしい。それが僕のせいであったとは思いたくないけど、引き金にはなったのだろう。後日、彼には酷い躁鬱の気があることを知った。免罪とするにはあまりにちっぽけな事実だった。彼の死で僕の得た教訓は二つある。一つ目に、人は簡単に死にたがる。そして二つ目は、どんな理由であれ人を死に追いやった人間は、後悔せずにいられないということだ。それ以来、僕は人の死にそうな雰囲気に少しだけ敏感となれた。
そして僕は、谷山にも僅かばかりの死を感じた。死後、精神がどう変節していくのかは分からない。でも、白鳥座から南十字星へと至る比喩化された死の行程を、通り過ぎてしまうような気がしてならなかった。谷山は生きているのだろうか。僕は谷山の手に触れる。彼女は間違いなく、ここにいる。そして、僕もここにいる。二人は空席の目立つ鈍行列車の一角で、ちっぽけな自分として確かにいるのだ。橘、と彼女が僕を呼ぶ。「私は、君のことが好きだよ」
今度は、不思議なほど信じられた。でも、何故僕なのだろう。谷山なら、本気になれば僕のようなぱっとしない人間など歯牙にもかけられない程の男性を射止めることだってできるだろうに。僕は訊ねずにいられなかった。
「どうして、僕なの?」
「分からない」なんとも投げやりな物言いだった。「変な奴だって思いながら、時々君を見てた。で、気付いたら何となく好きになってた。今は、キスしたいと思うくらいには好きだな」
「どの辺りが変なの?」
変という単語は、谷山の専売特許みたいなものだ。僕にも多少は当てはまるけど、彼女に言われるほど逸脱してはいないはずだ。強いて言えば、少しばかり風変わりな価値観を持っているだけ。それは今時の中学生や高校生、下手すると小学生までもが持ち合わせている恋愛観、友情観の一形態でしかない。境界線を柔軟に操る能力は、緩やかな墜落に彩られた世界で広まりつつある。より先鋭的なコミュニケイションを取るための手段として。谷山にはそれが奇妙に見えるのだろうか。でも、答えはもっとシンプルだった。
「だって、橘は私に諂わないし、蔑すみもしないから」確かに、僕は谷山を単に凄い奴だなとしか思っていなかった。そして、屈折した思いでしか彼女を捉えられないクラスメイトを軽蔑していた。ただそれだけのことで、谷山は僕を好きになってくれたのだろうか。疑問に思っている僕の手を強く握りながら、彼女は苦々しく棘交じりの言葉を吐き出す。「日本人って才能の如何を問わず、謙虚してる人間しか認めないんだよ。私が、一番偉くて当然という顔をしているから、クラスの皆はもう少し歩み寄れよ、実力以下に見えるよう努力しろよと無言で急き立てる、馬鹿みたい」一瞬浮かんだ意地悪な顔は、僕の前で労りに消えていく。「でも、橘は私を私のままで見ていた。口には出さなかったけど、とても嬉しかったんだ」
それは感謝される類のことではない。120円と書かれた飲料水の自販機に、120円入れてボタンを押したら品物が出てくるのと同じくらい、僕にとっては当然のことだった。相手を実力通りに見るというのは、見ず知らずの人間同士が友意を育んでいく、最も初歩的な段階の一つに過ぎない。僕はそれを実践しているだけだ。そんなどうでも良いことを考えているうちに、谷山は決断を迫ってくる。それは僕の心という爆弾に、無断で火をつける行為だった。
「ねえ、橘は私のこと好き?」
「分からない」意趣返しする気ではなく、本当に分からなかった。僕は、谷山とどのような関係を築きたいのだろう。幾ら考えてみても言葉は浮かばず、無言がただ中空を漂うのみ。だから、情動に身を委ねて好き勝手に言ってやった。「僕は、谷山のことを好ましく思ってる。けど、キスしたいほど好きだとは思ってない。谷山が僕を見てきたほどに、僕は谷山を見ていないんだ。もう少し、谷山を知る時間が欲しい。でも、誤解して欲しくないのは、別に嫌いってわけじゃなくて」
「何を言いたいのかは、分かるよ」分かってるなら訊くなと言いたかったが、彼女の舌回りが僕の一歩先を進んで巧みに遮る。「じゃあ、橘がキスしたいくらいに私を好きになったら、キスしてくれる?」僕は二の句を継がせぬほど素早く肯いた。すると、谷山は議論をもう一段階進めて問うてくる。「セックスしたいくらい好きになったら、してくれる?」
少し躊躇ってから、僕はうんと答えた。正直言って、未だに分からないところが多い。でも、谷山が僕と同じような境界線の操り方をするのは分かった。僕たちがもっと仲を深めれば、退屈で叫びたくなるような学校や気だるげな夜までの放課後の中で、お互い補えあえるだろう。それは酷く魅力的な話だった。僕はもう一度、谷山の手を握り締める。彼女は寂しげに微笑みながら、そっと呟く。
「私は、幻じゃないよ」
それでも僕は、もう一度確認せずにはいられなかったのだ。
それから、僕たちは列車の中で、色々と興味深い話題について弁を闘わせた。幻という言葉から、谷山はウイリアム・ブレイクについて語り始める。
ブレイクは、天界の存在を幻視したというエピソードが先ずに異彩を放つ作家だ。陰鬱なキャンパスに描かれた地獄のような天界は、見るものを釘付けてにしてやまず、彼の言葉は天国と地獄を同一たらしめた。それほどの力を持ちながら、過去の数多くの画家の例にもれず、生前は殆ど評価されなかったらしい。19世紀の後半から20世紀初頭にかけて再評価がなされ、今では欧米を中心として様々な画家に影響を与えている。また、小説の中核としてオマージュされることもしばしばで、例えばトマス・ハリスの『レッド・ドラゴン』に出てくる殺人鬼は《大いなる赤き竜と日をまとう女》というブレイクの絵に憧憬し、昂じて殺人に身を染めるようになる。SFのオールタイムにしばしば選ばれる、アルフレッド・ベスターの『虎よ! 虎よ!』が、ブレイクの詩である《The Tiger》に触発されて書かれた作品であることは余りにも有名だし、現在進行中ファンタジィの最高峰と呼ばれ絶賛されている『Alvin Maker』シリーズも、ブレイクの詩を核としている。有名作家がこぞって取り上げるほどにイマジネイティヴで、元となる詩の奥深さゆえに、多くの傑作を輩出している。
谷山は憚ることなく僕の知っている作品、知らない作品を織り交ぜ取り出して、ブレイクという詩人の凄さについて熱っぽく語ってくれた。少し辟易させられる部分もあったけど、読書は好きだし、ブレイクについては好ましく思っているので、谷山が意見を同としていることは嬉しい。それにしても、彼女が情熱的であることには驚いた。教室ではどんな話題が出てきても決して興味を示さなかったのに。もっとも、ブレイクを誰か知るものがクラスの中にいるとは思えなかった。精々、単語帳を見ずに意味をすらすら答えて得意がるか、FFの石化呪文だろととぼけて見せるのが関の山だろう。もしかしたら谷山の好意発言は、ブレイク好きという共通項によってもたらされているのかもしれない。つまり谷山は、趣味の合う人間と話したいだけ――これはいかにもありそうだった。どちらにしても、谷山が僕を良い話し相手と思ってくれているなら、それはとても光栄なことだった。彼女が話していて退屈しないくらいにはスパイスの効いた性格だという、歪んだ証明に他ならないからだ。
話が『Alvin Maker』からその作者であるオースン・S・カードの話題に移ると、谷山は一つの存在を自分の理想だと告白した。
「私はね、死者の代弁者になりたいんだ」
死者の代弁者。それはどこか不吉なものを含むもので、しかし僕にとっても魅力的に聞こえた。幼い頃、戦争ごっこに明け暮れていたエンダー・ウィッギンという中年が、死者の代弁者を名乗り、壊れかけた家族をまとめ、遂に異種族と協定を結ぶまでを描いた、SFの傑作だ。実を言うと、僕の一番好きな小説だった。
「どうして谷山は、死者の代弁者になりたいの?」
興味本位に訊かない方が良いと思うけど、死者の代弁者を目指すという言葉は僕にとって、抗いがたい問いかけへの魅力に満ちていたのだ。谷山はシニカルな笑みを浮かべて、曖昧な答えを返した。
「分かってあげたい人が、いるから」
谷山のいう分かってあげたい人が誰なのかは分からない。でも、僕にとっての疑問は完全に解消されていた。分かってあげたい人がいる、だから死者の代弁者になる。その論理は僕にとって、好きな人がいるからキスをするのと同じくらい、はっきりとした道筋だった。僕はこれ以上、何も言わなかった。
やがて終着駅に着き、僕と谷山は反対側に停泊している列車へと乗り込んだ。まるで、時刻表ミステリにでてくる爛れた関係のカップルみたいだなと思い、心の中で笑いをもらす。折り返しの列車内でも他愛のない話は続いたが、あと一駅というところで突然、棚上げにしていた大きな事象への疑問が首をもたげてきて、好奇心を抑えきれなくなった。恐らく、ここで訊かなければという強迫観念が僕の中でじわじわと育っていたのだろう。その爆発は谷山裕樹という女性に向けられ、酷く無慈悲に放たれた。
「そういえばさ。谷山はなんで、売春してるの?」
彼女の顔が能面のようにすっと、色を失っていく。明らかに僕は谷山にとって、平凡で下らない質問をしたのだ。心の中は瞬時に羞恥で覆われた。情けなくて、叫びたくて堪らなかった。
「意味なんてないよ」冷淡過ぎるその口調は、いつも教室にいる時と同じで、厚い壁を感じさせる素っ気無いものだった。「援助交際と抜かして体を売ってるような女性が、深い意味を考えていないのと同じで、私にも特に深い理由なんてないんだ。強いて言えば、自分をどれくらいの値段で取引できるのかという実験」
それが嘘だと分かっていたけど、僕は何も言わなかった。
「橘は、売春してる女って嫌い?」
「気にならないというわけじゃないけど、嫌いにはならないよ」それは僕の偽らざる本心だった。多少なりとも不愉快にさせたのだから、本音をもって答えるのがフェアなやり方だと思ったからだ。「谷山の価値は、そんなことでは失われない。他の奴らがどんなに否定したとしても、僕は谷山のことを肯定すると思う」
谷山の唇が、無音の言葉を発する。僕には彼女が「ごめんね」と言ったような気がしたけど、本当のところは分からない。人間は論理機械じゃない。谷山のように論理的な女性だって、全ての感情を完璧に操作して生きることなんてできないのだ。進んで話したいこともあるし、問われたくないこともある。
それから更に数分が経ち、僕たちの住む街の駅名を車掌が読み上げる。もう直ぐ谷山とのデートとも終わりかなと少しばかり寂しさを感じ始めた頃、谷山がそっと声をかけてきた。「ねえ橘、キスしようよ」僕は既に、キスしたいほど彼女が好きだったので、肯いてからそっと唇を寄せた。谷山の唇はかさかさに乾いており、刺々しくて痛い。何とも彼女らしいと思った。
「谷山、お前もうちょっと栄養を取った方が良いよ。あと、リップクリームを付けることも勧める」
「善処するよ」政治家の答弁宜しく、余り乗り気でなさそうな谷山の言葉に、僕は溜息を吐く。「それにしても、橘の唇は柔らかくて温かいね。まるで、女の子みたい」
僕にキスする女性は皆、揃って同じことを言う。少しばかり屈辱だ。そうでなくても、ちょっとばかり厄介な名前を親につけられてるというのに。そんな僕の心を見透かしたかのような谷山の瞳が、意地悪くも向けられる。
「やっぱ、女の子みたいな名前を付けられてるから?」
僕は無言ででこぴんを食らわせた。少しばかりの本気を込めたが、それは蒸し返すなという警告も込めてのことだ。事実、谷山は頭を擦り、恨めしそうな表情で僕を見ている。
「女性に問答無用で暴力を振るうのは感心できないね」
「人が気にしていることを、知ってて穿るのはもっと感心できない」
それは今さっき、僕が谷山にやったことだ。つまり、手厳しい意趣返し。そのことに気付き、僕の怒りは一気に霧散してしまった。そして、お腹の底から笑う。彼女も同じように、笑い始めた。
「良かった。気付いてくれないのかと思ったよ」そして、どうでも良いと言った風に付け加えた。「もう二度と、キスしてくれないかと心配した」
僕は、谷山の頬にそっと手を添えた。ここにも栄養が足りてないのか、肌は精彩を欠いて鈍く、脆げに思える。どうして君は、そんなに脆そうなんだ。涙が出そうなくらい、触れてるのが怖い。鉄のように堅いと思っていた少女。それが僕の手の中で、こんなにも弱々しい。
手を離し、頭をそっと撫でる。谷山は目を細め、心地良さそうに微笑んだ。
「私は、橘のことが好きだよ」
分かっているという代わりに、僕は谷山をそっと抱きしめる。腰だけでなく全身が細いのだと、その時気付いた。根拠も糞もないけど、僕には彼女が心の中で泣いているように思えた。
泣いているように、思えたんだ。