2 欺瞞の星、あるいは形作られていく感情 【後編】
居酒屋の中では、既に15人ほどの男女が座敷の一角を占拠して、飲めや食えや話せやの大騒ぎをしていた。見たことのある顔もあるし、そうでない者も何人かいる。共通しているのは、彼らが一般的と言われているクリスマスのスタイルに拘泥する気の全くない、ということだ。僕は出来る限りの大声で挨拶し、当然のように歓迎された。彼らにとって、ありきたりの聖夜を過ごさない人間は全て仲間なのだ。
「雪、こっちこっち」
この会の主催をしている女性が、手招きして僕を隣に座らせる。22という年だが高校生のように若々しく、今日も絹のような長髪と柔らかで可愛らしい顔立ちを惜しげもなく披露していた。行動的で、得もすると暴走しそうになる若者たちの手綱を巧みに引いてみせる才覚を持った人で、皆に一目置かれている。彼女は何故か僕を気に入っており、僕も彼女のことをとても好ましく思っている。恋愛感情ではなく、姉に対する敬愛に似ているのだろうか。いつも背筋を張っており、前を見据えて歩いていて、どことなく眩しい。そんなことを考えながら、灰汁を立てて激しく沸騰している鍋から適当に具材を見繕って掬った。起きだちの腹に味噌の匂いは心地良くて、胃が反射的に蠕動する。彼女はくすくすと笑った。
「やっぱり、若い子は胃腸が丈夫で良いわね」そういう彼女は酒精のためか、少しだけ顔を紅くしている。「それにしても、今年も来るなんて思わなかったな。てっきり雪は、彼女を作って有体の聖夜を過ごすのかと思ったけど」
彼女という言葉に、谷山の怜悧でどこか儚げな顔が浮かぶ。僕はそれを振り払うと、言ってやった。
「普通の彼女なんて、僕には絶対できないです」
彼女は疑わしそうな目で僕を見てから、ビールを注ぐ。逸らすようにグラスをあおると、僕は場の空気に馴染もうとする。去年は平気で出来た行為が、今年はとても難しかった。僕は既に凡庸なクリスマスを過ごす側の人間になったのだろうか。追い討ちをかけるよう、彼女の言葉が僕の胸を容赦なく抉る。
「普通でない恋愛なんてね、この世界にはただの一つだってないのよ」
単純だけど、普通でない恋を始めようとして裏切られた僕にはとても重いものだった。強い反発がわき、僕は彼女を無視して、向かい側に座る、もっと単純に物事を楽しめる奴らと騒ぐことにした。思う存分食べて酒を飲んで、忘れてしまおう。谷山裕樹のことも、彼女がもしかしたら駅前噴水広場で待っているかもしれないことも、僕の中から追い出してしまおう。僕は惜しげなく、貯めこんできた話題を一気に解放し、話の輪の中に加わっていった。
でも。
僕の心は必ず一つの事象に行き戻ってしまう。心ここに在らずといった僕を見て他者は興味を失くし、二時間もすると話相手は全て遠ざかっていた。ああもう、言ったとおりだ。僕は一人の女性に気を揉んで苛々するような、普通の恋愛をする体質になってしまっていたらしい。僕は少し迷ってから正直に「これから彼女と待ち合わせなんです」と述べ、照れ隠しするよう一気に飛び出した。何とも情けない姿を曝したのだろう。
背後に冷やかしを感じながら、僕はすっかり冷え込んだ街路をひた走る。予想が当たり、空からは盛んに白いものが落ちてきている。身を寄り合わせ、或いは同じ傘に入り、密着度をあげていくカップルをすり抜け、ひたすら駅前噴水広場に向かう。腕時計を見ると既に2時間、普通の人間ならとうに見捨てて帰る時間だろう。ましてや谷山は、非論理的なことを厭う。少なくとも、僕にはそう見えていた。そうであってくれればと祈る。家で暖を取りながらテレビを見ていてくれれば、罪悪感はおぼえないだろう。残念だという気持ちが残るだけで、僕にも大したダメージは受けない。でも、もし待っていたりでもしたら、僕にはどう声をかけて良いのか分からない。ごめんだろうか、馬鹿だろうか、それとも何か喋ってはいけないのだろうか。至って出来の悪い頭を抱えており、無様にひた走る僕には全く何も分かっていないのだ。
そろそろ、駅前の広場が見えてくる。ここにもカップルや馬鹿騒ぎを好むグループが集まり、雪や冷気をかき消すほどの熱気で満ちていた。僕はある一点に目をやる。そこにいる彼女の頭が白いので一瞬、白い帽子かフードでも被っているのではないかと思った。しかし、その密度にはむらがあり、黒い部分が覗いているところもある。そこで初めて、僕には彼女が雪を払わず座り尽くしていることが分かった。何が彼女をそこまで待たしているのだろう。濃い焦燥に足をもつれさせながら、僕は噴水に腰掛ける少女の目の前に立つ。俯き何かに耐えている少女を、僕はすぐ見分けることができた。谷山裕樹だった。
こんなにも遅れたのだ、僕はどんな叱責の言葉も覚悟した。或いは『冗談だと思ってたんだ』と、卑怯な物言いで誤魔化すこともできたのかもしれない。でも、弱々しい姿を曝け出している裕樹を前にして、そんな愚かな想いは、心の中から消えていた。不思議なことに、僕は彼女としっかり向き合いたいと考えた。
やがて、谷山が僕の姿を見つける。その視線が膝から腰、そして胸へと上がっていく。そして目と目が合った時、僕は彼女の表情を完全に知ることとなった。
「やあ、来てくれたね」軽く手を上げて挨拶する谷山の顔は身震いするほどの綺麗な笑顔で、僕は思わず目を逸らしそうになる。でも、開きかけた唇が僕に、どんな行動も許さなかった。「もう少ししなければ来ないと思っていたけど、ずっと早く来てくれた。急いで走って駆けつけてくれた。嬉しいな……とても、嬉しいよ」
僕は思わず戸惑う。谷山は二時間も遅れた僕のことを、喜んでくれている。笑顔で受け入れてくれようとしている。信じられなかった。普通なら、とうに愛想尽かして去ってしまっても良いのに。当然のことのように、僕を求めてくれてる。その細く、多分とても冷たい体で。胸を抗し切れない衝動が走り、僕は谷山の体を強く抱きしめる。その肌は外気のように冷たく、弱々しい。頭には白く冷たいものが積もり、待ち惚けの長さを僕に突きつける。急いでそれらを払ってやると、額に手を当てて……ぞっとした。驚くほどに、熱い。急いで顔の仔細を見やると、風邪の兆候が至る所に確認できた。
「谷山、熱が酷い……」外気に冷やされていない首筋に手を当てると、その高熱が良く分かる。「何やってるんだよ、こんなになるまで。僕なんて待たなくて良いだろ! なんで、こんなことするんだよ……」
「橘が、来ると信じてたから」彼女はさも当然のように、堂々と言ってのけた。「だから、ずっと待ってたんだ。そして、君は実際、ここに来てくれた。それだけだよ」
確信犯的な谷山の言い方に、僕は思わずむっとする。まるで、ここに来るのを計算して待ち続けていたようだけど、僕がここに立ち寄ったのは本当に気まぐれのようなもので。もっと長い時間、雪降る寒さ厳しい夜を独りでいなければならなかったはずなのだ。
「お前、もっと頭良いはずだろ?」言い捨ててしまわなければいけないほど、僕は冷静でなくなっていた。「もっと温かい場所からここを観察して、僕が来たら悪戯者っぽく声をかけてくれれば良かったんだ。もっと賢くて抜け目なくて、気紛れな谷山が良かった。こんなことされたら僕、弱いから……在り来たりな人間だから、どうして良いのか分からなくなるんだよ」
少し距離を置き、谷山の身体を仔細に眺める。薄手の黒いセータに薄茶のパンツを身に着け、首には白を基調としたマフラが巻かれている。それでも雪の降る夜を過ごすには余りにも寒々しく、そんな谷山のことを見ているだけで、辛さが増す。熱を蓄える肉すらろくすっぽ付いてないというのに、佇むだけの二時間を過ごし、風邪まで引いた彼女。僕がどれだけ惨めにさせられてるかなんて、きっと谷山は全然気付いてないんだ。ここでもう一度見捨てて、家に帰ってしまおうか――そんな酷薄な思いが脳裡を巡る。しかし、それすらも彼女に対する想いがどれだけ強いかを再認識させられる一手段に過ぎず、僕は再び彼女との距離を詰める。
今も、谷山が何を考えているのか分からない。結局、僕は騙されているのかもしれないし、反対に大切な関係の一歩を進もうとしているのかもしれない。でも、実をいうとそんなの割とどうでも良かった。僕に必要なのはただ、今の谷山であって、未来がどうなるのかなんて、関係ない。今にも壊れそうな彼女が胸の中で在り続けるよう、何とかしたいだけなんだ。
谷山がぼそりと呟く。僕は、耳を傾ける。
「橘は、優しいね」ぞくぞくするような声の後、唇が耳元にそっと触れる。こんなに背筋が心地良く震えるキスは初めてだった。「私は、君を翻弄して、騙して、利用して、今も混乱させてるのに。それでも本気で、私のことを心配してくれる。風邪、大丈夫かって……身体、平気かって訊いてくれる。優しく、抱きしめてくれてる」
熱のこもった頬が、僕の冷たい頬にぴたりと付けられる。不意打ち気味な行動に少しばかり慌てたけど、すぐに温かい雫が頬を伝いだし、僕は何も出来ずに戸惑うことしかできない。
「ごめんね」どうして謝られるのかが、理解できない。そんな僕を助けるよう、谷山の言葉が流れてゆく。「私は私が思う限りにおいて橘のことを好きでいるけど、それでも橘が私を好きでいてくれるようにはできないと思うから」
そんなの、僕が谷山を嫌う理由にはならない。今、彼女が苦しんでいるのは僕が約束を軽んじて放り投げたせいであり、責められる所以も、涙を流して許しを乞われる筋合いもないはずなのだ。谷山は昨日のように強気で、僕を叱責したあと振り回せば良いだけであって。泣いてなんか、欲しくない。ただそれだけを、伝えたい。本当ならば、言葉で気持ちを伝えたかったのだけど、即物的で苛立っている僕にはもう少し素早く、確かな接続が、必要だった。究極的には肌を重ねたかったのだけど、人通りの多い場所で始めたとあっては単なる獣だ。僕はほんの少しだけ理性的で経験則のある行為を、求めた。
僕は、昨日もそうしたように、谷山とキスをする。昨日のように挨拶するような気持ちではなく、彼女の心をもっと感じることが出来るように。その、小さくて柔らかく、がさがさな表面に気持ちを寄せていく。最初は戸惑いを見せていた彼女だけど、すぐに行為を合わせてきた。小さく頼りない背中を擦りながら、角度を少しずつ変え、念入りに二つの唇を繋ぎ合わせてみる。少しばかりぎこちなくも情熱的な所作は、賢しさと疚しさを取り除いてくれたようだった。
「大丈夫だから」
何が大丈夫なのかは、分からない。でも、そう言って谷山を安心させてあげたかった。
「僕は、ここにいるから」
どちらかの言葉が、谷山を安心させたのだろう。胸の中でくたりと、その力を抜いた。最初、僕は頼られているのだろうと思ったのだが、やがて何かのせいで気を失っているのではないかと思うようになった。すると考えられるのは谷山の身を包む高熱で、僕は感情と対極の問題に曝されてしまった。彼女をどこか、暖の取れる場所に運ばなければならない。最初に思い浮かんだのは谷山の家だったけど、僕は彼女の家がどこか知らない。となると選択肢は一つしかなかった。問題がないと言ったら嘘になるけど、母が同じ屋根の下にあるのだから、過ちを侵す気にはならないだろうと、自分を納得させる。僕は谷山を背負い、その軽さにびっくりした。以前に母を背負ったとき、その加重で少しふらふらしたけど、谷山を背負った僕は平然と歩いている。母が45キロ――実際は鯖読んでるだろうから、あと5キロくらいは余分に見ておかないといけないが――と言っていたから、それよりも10キロは確実に痩せているだろう。下手したら30キロないかもしれない。それくらいに軽く、僕は一瞬幻想小説じみた恐怖に捉われもした。即ち、肩甲骨に名残でない天使の証拠があるのではないか。実際、さっきまでの谷山はそれくらい存在感がなかったのだ。
そんな谷山を背負うこと15分、僕は自宅まで辿り着いていた。背負う手の片方をポケットに入れ、鍵を取り出す。それから背部の重みをもう一度意識する。これから女性を、それも心から大事にしたいと思う人を中に入れる。彼女を傷つけたり苦しめたりすることは絶対に駄目だと己に戒め、僕は鍵を開けた。電気をつけ、明瞭になった廊下を伝い、部屋の中へ。片付けてはいるつもりだったけど、女性が加わると乱雑に見えてくるから不思議だ。でも、今はちっぽけな印象に構っている暇などない。谷山を丁寧に寝かせると、記憶を辿って救急箱と氷枕用のゴム製枕を探り出す。それから匙加減で氷と水を加え、タオルを巻いてそれなりに見える氷枕を完成させた。細心の注意を払って谷山の頭の下に押し込むと、冷却用ジェルシートを額に張る。本当は解熱剤も飲ませたかったけど、体質の問題があるといけないので、手をつけずにおいた。
取りあえず、やれるだけのことはした。後は朝になるのを待って……いや、その前に谷山の親に連絡をいれないといけない。よく考えれば、最初からそうすれば良かったのだ。僕は女性に頼られて騎士気取りで、親のことにさえ考えが及んでいなかった。本当ならば真っ先に思いつくはずのことを忘れていたのは、やはりどこかに下心があったのだろう。今更ながら思いついた最善の方法に自嘲しながら、谷山の連絡先を探す。人の持ち物を無断で探すのは気が引けたけど、緊急時なのだから許されるだろう。さて、どのように名乗れば良いだろうか。最も無難で当たりも良いクラスメイトが思い浮かんだところで、番号をプッシュしていく。090で始まるということは携帯のようだが、どうも電波が入らない所にいるのか電源を切っているらしく、何度かけても反応がない。二十分おきに三度かけたのだけど、やはり電話に出る気配すらなく、僕は連絡をつけるのを諦めた。ふと思いついて一学期の最初に貰った連絡網を見たのだけど、同じ番号しか載っていない。どうやら谷山の家は設置電話を取り付けていないようだった。
これはどうしようもないと思い、僕はとうとう自分の電話機を放り投げ、何度目かになる谷山の元へ近づく。先程に比べて寝息は健やかになってきており、熱も心なしか下がっているようだった。それでも胸の上下は相変わらず激しく、脈も早い。頬の目立つ赤みは、彼女をチャーミングに見せていた。指でそっと、頬に触る。やっぱり、栄養状況が良くない。もしかして、ダイエットしているのだろうか。それとも、彼女の負う何らかの悩みがストレスとなって表面に出てきているのだろうか。これは直観だけど、何となく後者のような気がした。僕といる時にはきちんと食べているし、普段も全く食べていないというわけではない。普段の昼食を見ても、標準の高校生より栄養素には気をつけているように感じる。毎日牛乳を飲んでいる女子高生なんて、今日びそう沢山はいないのだ。
髪に触れ、それからもう一度頬を撫でる。眼鏡を外して横たわる谷山はどことなく幼げに見え、可愛らしい。思わず、指で唇をそっと撫でる。少し罪悪感をおぼえながら、もう一度。少し度を越したと思い離そうとすると、不意に指が湿ったものに包まれる。寝ぼけているのか、谷山が僕の指を咥え舐めているのだった。その一種変わった気持ち良さに、思わず陶酔しそうになり、慌てて引き抜く。こんなの、許しちゃいけない。そう自分を律しながらも、水音を立てて口元を離れた指先に心臓を高鳴らせる。しかし、それも谷山が苦しそうな寝言を口にするまでだった。
「ん……ぁ、ごめ……さい、きちんと、するから……」誰かに謝るような声と共に、水音が大きくなっていく。まるで、何かを熱心に舐めているような。「おね……、だから、ゆる……」
苦しげに何かを吸い上げたり、舐めたりする音。紅く火照っていく肌、荒くなっていく息遣いに、僕は嫌なものを感じる。考えたくはなかったけど、夢の中で谷山は、屈辱的な行為を強制されているようだったのだ。逡巡した後、僕は彼女を揺り起こした。例え夢の中であっても、苦しむ姿を見たくなかったし、正直言えば誰かに犯されていると想像している自分が嫌で堪らなかった。
その間に、僕はあることを考えていた。昨夜谷山と出会った時、意識させられたこと。既に、他の男性と肌を重ねた経験があるという事実。彼女の夢の中に他の男性が潜んでいるという現実は、想っていたよりも僕を慌てさせている。肯定すると言い切ったくせに、僕は谷山の一側面を否定したくてしょうがなかった。意味なくやっているわけじゃないと推測できても、他の男性と寝ているのだという事実を突きつけられたら、きっと僕は気が変になるくらいに嫉妬するに違いないのだ。取り乱して、谷山を責めたりするかもしれない。僕にはそのことが何より怖かった。そんなことで彼女を傷つけることがあったら、とても嫌だな、と思う。
気付かないうちに夢は消えていたのか、谷山の寝息が落ち着いてくる。このまま起こさないようにできたら良いなと思ったが、僕の加減が悪かったのか、うっすらと目を覚ましてしまった。彼女は焦点を合わせているのか、目をすっと細める。それで僕の姿を確認できたのだろう。顔を顰め、静かに確信を訊ねてくる。
「もしかして、心配かけた?」
こういうとき、ドラマの主人公なら気の利いた言葉をかけて女性を安心させるのだろう。でも、僕にはそんなことできなかった。ただ、黙って肯くだけ。それでも谷山は寛容に微笑み、それから気疲れの溜息を吐いた。彼女といると、僕がどんなに情けない人間なのかを認識させられる。
必要以上に黙っている僕から、谷山は更に何かを感じ取ったらしく、先程よりもそっと声を潜めて囁く。
「声に、出てたの?」
その一言で、彼女が夢を覚えていること、そして僕に対する後ろめたさを感じていること、その両方を理解できた。僕はそっと、谷山の頬を撫でる。今度はさっきより上手くできたと思う。それでも彼女には足りなかったらしく、先程よりも鋭い口調を浴びせてくる。
「私のこと、見損なった?」僕は否定したけど、谷山の心は収まらないようだった。「こういうことできる女性だって、軽蔑したくなった?」
「しないよ。そんなこと、しない」
谷山の気持ちが今、僕に真っ直ぐ向いている。それが、痛いほどに、分かるから。そして、彼女を軽蔑できるくらいに偉い僕でもないから。何より、ここにいる貴女が好きだから。
言葉にできないのが、もどかしい。僕の想いの十分の一でも伝えることが出来れば、彼女を少しでも安心させることができるはずなのに。全然、僕の中に出てこない。
「じゃあ、私の側にいて」谷山が、布団の中から両手を伸ばす。「何も喋らなくて良いから。ただ、私を抱きしめて、一番近くに居てくれれば良いんだ」
それは、少しばかり辛い要求だった。谷山を布団の中で抱きしめて、何もしないでいるのは精神的にも生理的にも欲求が募りそうだから。でも、仔犬のように弱々しく僕を求める彼女を見てしまっては、もう逆らえない。どのみち、谷山の眠る布団は僕に所有権を認められているものだ。そう開き直って、招かれるままに布団に潜り、彼女を抱きしめる。仄かに香る彼女の匂いが驚くほどに目立ち、僕は意識して自分を抑えなければいけなかった。弱っている谷山を、直情に任せて襲うなんてしたくなかったのだ。幸い、緩みきった彼女の表情が、僕を善き道へと導いてくれたようで、性衝動の類が蘇ることはなかった。ただ眼前の存在が愛おしくて、時々髪の毛を梳いたり頬に触れたりする。すると不意に、谷山が話しかけてきた。
「ねえ、橘。私はもしかして、余り魅力がない方なのかな」突然の言葉に、僕は首を傾げる。「普通、こういう時はさ、我慢できなくなった男が襲い掛かってくるとか、そういうイベントがあるんじゃないの?」
「風邪で苦しんでる女性を、抱く趣味なんてない」僕は失笑を抑えながら、谷山の頭を軽く叩く。「変なことは考えなくて良いから、谷山は体を休めることに専念して、良いね」
まさか、重病人の谷山から男の生理現象について心配されるとは思わなかった。
「橘が私を抱かないのは、私が魅力的じゃないからじゃないの?」
「うん」寧ろ、大事に思っているからそうしないのだ。「僕はその……谷山のことを、大事にしたいから」
照れ臭い言葉の世界に、沈黙が重く落ちる。暫くしてそれを払ったのは、彼女のか細い声だった。
「私……」谷山は、僕を抱きしめる手の力を少しだけ強くする。「私、これからも橘の望まないことをするかもしれない。信じられない、疑わしいって思う時があるかもしれない。でも、信じて欲しいんだ。私の、心に偽りはないから。私は橘のことが好きだから」
それから、慌てるようにして、もう一度繰り返す。
「本当に、好きだから……」
僕の戸惑いを他所に、谷山が再び泣き始める。彼女はこんなに、泣き虫だったのだろうか。それとも強がりの彼女をこんなにも泣かしているものが、世界には存在するのだろうか。
真実がどうなのか分からないけど、でも僕は谷山の気持ちを抱きしめたい。
信じろって言うなら、どこまでだって信じる。
疑うなって言うならば、何があっても疑わない。
僕は谷山に、側にいて欲しい。
できるならば、その心を知りたい。
それができないならばせめて、その苦しみの一欠けらだけでも僕にくれないだろうか。
僕は喜んで、その欠片を僕にするから。
谷山が健やかな眠りに落ちるまで、僕はずっとそんなことを考えながら、眠れない夜を過ごした。
そして日を超えて数時間ほど経ち、ようやく緩い眠気が襲い始める。僕は委ねるようにして谷山の隣でゆっくりと眠りに落ちていった。