3 精神の頂、あるいは愛に全てを【中編】
愛に全てを。そういう気持ちって、とても不思議だと思う。他の人間が目に入らないほど、他者を好きになることは、とても心地良い。隣に眠る谷山裕樹の姿を見ながら、僕は彼女が早く元気になって欲しいと願っている。それは、元気になったらできるからという訳じゃなく、もっと彼女と話をして、触れ合いたいと思っているから。今もくっついて抱き合っているけど、それでも今の僕には足りない。
シートを剥がして、額に手を当てる。熱は大分、下がっているようだけど、まだ少しある。寝息は完全に安定していて、山を完全に超えたことを示していた。後は食欲と、体力が戻ってくれれば良い。そう、簡単な分析を下しているところに、谷山が目覚めていきなり僕の首筋に唇を添える。
「もう、治ったよ。身体の調子良いし、だから今ならできると思うんだよ」できるというのは、性行為を指しているのだとすぐに分かった。「何より、心がもう限界一杯。これ以上我慢したら、私の頭が知識不足の欲求不満で破裂してしまいそう」
谷山はどうやら、僕を研究対象みたいに扱っているようだった。それが愛情と直結している辺り、何だか彼女らしいと思う。そんなことを考えているうちに、唇や舌が僕の首筋を盛んに突付いてきて、ひっきりなしに背筋を震わされる。理性を込めて抗うと、谷山は不満そうな顔を僕に寄越した。
「嘘吐き。元気になったらしてみようって、言ったのに」
「昨日の今日で治るわけないだろ」僕は額をこずく振りをして、そっと撫でる。「あと2, 3日、ゆっくり休んで栄養を取って、体力の回復に努めないと。減らしてどうするんだ」
正論だから逆らえなくて、だから余計に機嫌を悪くしてそっぽを向く。
「私は、橘のことを理解したい」そう言って、僕を強く睨みつける。「そのためにできる、一番分かり易い方法なのに」
「それはどうかな。殆どの人とはそんなことしなくても分かり合えるし、同姓同士じゃその方法は使えないと思うけど」そうする人たちもいるけど、僕はそれをお互いが分かり合うための本質と関係ないと思う。「やっぱり、お互いに沢山話をするのが、分かり合うために最も良い方法じゃないかな」
「セックスすることで、相手のことを理解する助けにはならないかな。ただ、我を忘れてぶつかるだけになってしまい、全然役に立たない?」彼女は首を傾げ、真剣に思考をしているようだった。「お互い真剣に好き合うくらいになると、必要になってくるんじゃないの? それとも単に、生殖行為の練習? でも、子供を産むためだったら最適な時期を狙って何度かすれば良いだけで良いはずなのに、それ以外の目的で積極的に繰り返すよね。どうして?」
さあ、どうしてなのだろう。決して無経験ではない僕にも、その確かな意義は分からなかった。
「私はね、誰かを好きになるってとても良いことだと思うんだ。でも、それなのに大概の想いはいつか移ろったり、憎み合って取り返しのつかないものに変わっていく。何がそれを強くして、何がそれを弱くするのだろうね。どうして愛情は育ち、そして反対に壊れていくんだろう。私はね、それを君と一緒に確かめて生きたい。そして、揺るぎないものにしたいって、とても思う」
谷山は、僕との距離をゆっくりと詰めてくる。だから、警戒してその様子を伺い続ける。
「だからね、言葉を沢山交わしたい。色々なことをして、何が私たちに合っているのか、探す努力をしたい。そのために、早く肌を重ねてみたいって思うんだ」
「全てを同じようにして急ぐ必要はないと思うけど。苦しかったり、疲れたりする中で何かを進めても、上手くいかない気がする。もっと全てが落ち着いてから、ゆっくりとできない?」
「人の想いは、今日と明日で全然違ったりするんだよ」谷山は少し、顔を顰める。「今日何もしないで、明日からの私たちが変わってしまうかもしれない。私にはそれが、怖いんだ」
怖いという言葉が出てきて、僕はそっと頬に触れる。
「僕にも、全てを性急にしたいって欲求はあるよ」今だって、本当はすぐに肌を重ねてみたいという欲求も強く存在する。「でも、谷山は僕にとって大事な人だから。もっとゆっくり、丁寧に育んでみたい。それが、僕の求めること」
谷山は頭が良い。だから、全てを早急に処理できて落ち着けることが出来る。けど僕は多少普通より早いくらいの回転しかできないから、もっと実感を伴ったものを重ねないと落ち着かない。僕と谷山には最初から、そんな決定的なずれがある。でも、それはお互いに分かってるから。谷山は出来る限りスロウに物事を進めてくれてる。だから僕はできるだけ早い心を育てて、彼女を怖がらせないようにしなければいけない。
「ごめん、僕が普通くらいの頭しか持ってないから、いつもは谷山に付いていけない」溜息交じりの声を、僕はゆっくりと紡いでいく。「今も、もしかしたら失望させてしまったかもしれない。平凡な反応しかできない男だって」
「そんなことない!」谷山の手が、僕の襟首をぎゅっと掴んだ。「平凡だなんて、そんなの間違ってる。だって、橘は私を好きになってくれてる。こんな変わり者で、他者と違う基準で動いてて、妖しい人間で、そんな私を正面から受け止めて大事だって言ってくれた。幸せにしてくれるって、言ってくれたんだ。そんな男の子が、平凡なわけないよ。今だって、私の我侭を受け止めて、それでも間違いだって言ってくれる。そんなことしてくれるの、橘しかいない。君を失ったら私はまた空虚なだけの私に戻って、頭の回転だけが取り得の人間としてしか生きられなくなってしまうよ」
そうして、谷山はまた悲しそうな顔をする。そして僕は初めて、回り過ぎる頭脳が時として、人に重く負担を強いることを、ほんの僅かだけ理解できた。彼女は多分、僕と別れることになる幾つもの可能性を見ているのだろう。
「こんなに苦しくて」彼女は僕を求め、僕は応じてそっと抱きしめる。そうしてこのまま、彼女が喋るに任す。「それでも人間って、他者をこんなにも好きにならずにいられない。獣のように、本能らしく交わって増えることを、自分の中に許さないんだ。作られて、壊れて、受け入れられて、拒絶されて。それでも、人は愛し合わずにいられない。恋は人を狂ったように駆り立て、邁進させ、そして困難と、時に絶望を与える。そう、私たちにもそれは在り得るんだ」
そんなことない。できればそう言いたかったけど、少なくないカップルが失望と憎悪のままに別れるのを見てきた僕にとっては、余りに白々しかった。確かに、谷山の言う通りだ。僕たちにできるのは、それができるだけ壊れないような方法で育んでいくことしかない。何の富も権力も無い高校生同士の二人が、制約だらけの世界でできることなんてたかが知れてる。谷山の思考が僕に伝播し焦燥に駆られたけど、それでも僕は今ここで谷山と肌を重ねなかった。そっと抱きしめ続け、頭を手で櫛づける。幽霊を見たと騒ぐ子供をあやす大人のようにゆっくりと、丁寧に、優しく。そう、愛って見えないということでは幽霊によく似ている。漠然として、あるかどうかも分からない。あるとしたらそれはどんな形をしていて、ないとしたら僕たちは何故、抱き合っているのだろう。谷山の言う、繁殖本能のため。違う、そんな低位の事象ではない。かといって、恋や愛とも確信できない。僕に分かっているのは、僕たちはたった二人であるということだけだ。お互いに家族や領域があるけど、それでもこの世界に僕たちはたった二人で。暗闇の中をボートで漕いで進まなければならない。
それが僕と、谷山が体感している。
おそらくは、恐怖の源なんだろう。
迫り来る圧倒的な矛盾の源なんだろう。
30分後、ようやく落ち着きを取り戻した谷山を連れて、僕はダイニングに向かう。母の、自称するところの熟眠現象から目覚めた後は、多大な食欲を発揮する。運が良ければお零れに預かることができるかもしれない。僕はドアを開け、しかしその考えが甘いことを知った。母は既に後片付けをしており、料理はどこにもない。と、物音に気付いた母が僕と谷山のいる入り口に視線を向ける。母は破顔して、こちらに近づく。谷山は思わず居住まいを正し、深々と頭を下げた。
「えと、私谷山裕樹と言います。昨日より理由あってお邪魔しています」それから、彼女らしくない調子で付け加える。「と言っても、別に橘……くんのことをかどわかすような目的でいるわけではなくて」
「分かっているわ」母は、谷山の手を友好的に握る。「風邪、引いてるんでしょ、息子から聞いたわ。家、というより貴女のご家族に電話してみたのだけど、誰もでなくて。本当は心配している家族のもとに送ってあげたかったのだけど」
谷山は、小さく首を左右に振る。
「すいません、父は今、長期出張中で年度末まで戻ってこないんです」
「じゃあ、お母さんは?」
僕が尋ねると、谷山はあっけらかんと答えた。
「三年前に、死にました」
瞬時に僕は、自分の質問が薮蛇であることを理解する。しかし谷山は案外平然とした表情をしていたし、母も表面は普通を装っていた。
「そう」慌てもうろたえもせず、母はじっと谷山の瞳を見つめる。「では今、生活が大変でしょう。炊事洗濯掃除、皆一人でしなければいけない」
「ええ。まあ、父は国同士を股にかけるような人間ですから、生活の方は全く問題なしです。このように、少しばかり体調を崩した時以外は」
谷山はしかし、半歩引いて母から目を逸らす。僕の時は事あるごと集ってきたのに、この差はなんだろうと、釈然としないものを感じながら、隣でフォローもできずに立ち尽くしているしかない。
「子供はね」そうして、母は背筋を張り、谷山の肩にそれぞれの手を乗せる。「こういう時、大人にもっと図々しくなるべきよ。そうじゃない?」
その言葉の柔らかさに、母として今在る女性の、いかに安定してしっかりしているかを見て取る。背は僕より15センチも低いけど、その総体は僕よりも余程、強くて大きい。どうして母は僕より、こんなにも早く、強くなれるのだろう。その振る舞いを、僕はとても羨ましく思った。
「ごめんなさい」谷山はまるで罰を待っている罪人のように俯いて、細々と言葉を紡ぐ。「私は、貴女の良心に卑怯な訴え方をしてしまった。フェアでない、言い方と態度を取ってしまった……」
「人の付き合いが、いつもフェアになることなんて、あった例はあるのかしら?」母は、少しだけ説教するような口調で、谷山を諭す。「人と人、たった二人が付き合うだけで、バランスは何度も崩れようとする。どちらかが寄りかかって、どちらかが寄りかかられるなんてこと、しょっちゅう起きるはずよ。家族でも、友達でも、恋人同士でも、赤の他人でも。人と人が付き合うのに、どちらが得か、どちらが損かなんて考えちゃいけないわ」
そうして、母は何も問わず、何も答えさせず、ただ力強くこう言った。
「だからね。谷山さん、貴女は好きなだけここにいても良いの。そして、好きな時にここを立ち去って良いわ。そうして、貴女がここにいる時、家に入る時はお邪魔しますではなくてただいまと、言うの。そして出かける時はお邪魔しましたではなく、行って来ますと、言うの」母は、谷山にウインクする。「どう、とても簡単なことでしょ」
まるで、何かの小説に出てくるような言葉。なのに全然わざとらしくなく、とても自然に谷山裕樹という存在を、母は受け入れていた。殆ど全く知らないはずの異邦人が、ここに留まることを許してしまう。凄いな、と思った。
谷山は再び、深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
そうして泣きそうな笑顔を僕と母に向け、明るい声を紡いだ。
「それじゃ、夕食にしようか。雪も、お腹は減ってるよね」
僕が肯くと、母は台所に立ち、中くらいの鍋に火をかける。僕たちのために一つだけ残しておいてくれたそれからは、ホワイトクリームの芳ばしい匂いが漂ってくる。牛乳のたっぷり入ったクリームシチュー、母の得意料理の一つだった。
「母さんのシチューは、頬が落ちるくらいに美味しいよ。それに栄養がたっぷり」
「へえ、それは楽しみ」
10分ほどして並べられたシチューには玉蜀黍と玉葱がたっぷり入っていて、食欲をそそる。興味深げに一口頬張り、無条件で「美味しい!」と声をあげる谷山を見て、母はくすくすと笑った。
「おかわりはまだあるから、遠慮せずにどうぞ。専用に買ってきたフランスパンもあるけど、どう?」
谷山は正しく遠慮せずに肯き、それから病気が快復しそうにあることを示す食欲を見せる。かくいう僕も余りご飯を食べていなかったから、久しぶりの食事を胃腸に染み込ませるよう、シチューとパンを平らげた。
夕食が終わり、僕は風呂に入って身体をさっぱり洗い流した。20分ほどであがり自室に戻ると丁度、谷山がパジャマを羽織りなおしているところだった。どうやら母に身体を拭いて貰っていたらしく、洗面器に張られた少しにごったお湯と清潔なタオルが母の手の中に収まっていた。
「じゃあ、二人とも、お休み」そして僕とすれ違いざま、そっと耳元に囁いた。「邪魔しないから」
反論する前に母は立ち去っていて、僕は怒りのやり場所を無くしてしまった。
「なんだ、もっと早く来てくれれば良かったのに」横から声をかけてくる谷山が脇に挟んでいるのは体温計だろうか。「そうしたら、喜んで見せてあげたのに」
一組の布団を持って、母が再び現れる。手早くそれを床に引き終わったとき、丁度体温計のなる音がした。そのメモリを観察し、36.8度と言うと、彼女は嬉しそうに視線とVマークを寄越した。正直、僕の心臓はとくりと鳴った。谷山の病気は殆ど完治している。今日の晩にでも、事に及んで良いのだ。勿論、谷山は喜んでするだろうし、そうなると後は僕の覚悟の決め方だけになってしまう。それは、とても酷な選択だった。
沈黙を紛らわせるため、テレビを付けようと思ったのだけど、その前に谷山が話しかけてくる。
「橘のお母さんって、善い人だね」無邪気な語り口から、母のことを本気で誉めているのが感じ取れた。「あんなに善い人、私のママを除いたら初めてだよ」
ママ。母ではなく、ママ。きっと谷山は生きていた頃、母親をそう呼んでいたのだろう。その瞳は幼げに隙だらけで、どんなにか心を許した存在であるかを如実に示していた。
「その、聞いて良いのか分からないけど」弱気な僕は前置きをしてから、探るように言葉を紡ぐ。「谷山のお母さんって、何故死んだの?」
僕の母親は元気で仕事しているのに、谷山の母親はもういない。それがとても、僕の興味を惹いた。彼女の内面を抉る質問だったかもしれないけど、それを留めることはできなかった。
「膵臓癌」谷山は溜息のような声を出す。「転移が早くて、しかもママはその時35歳だったから、広がるのはあっという間だった。痛みも、苦しみもとても強くて、最期の頃はもう、誰のことも分からないくらいに痛みと鎮痛剤、抗癌剤に侵されてた。痛い、痛い、苦しい、憎いって。耳を塞ぐ私を嘲笑うように、それは脳の中に入ってきて散々かき乱したよ。私は、病院の隅で涙を堪えてそれでも泣いた。ママの憎しみの中に私も入っている、そのことが理解できたから」
淡々と語るから、その凄絶さが僕には理解できなかった。それでも、幼い頃の谷山がどんなにか苦しみ、抑揚が利くがため殆ど完全に、心の奥底に隠して生きてきたかは分かる。話しながら抑えることも、流れていることさえも分からない涙を頬に伝わせながら、彼女は話を続ける。
「で、すぐに最期の時が来て。私と父と、親戚が数名病室に呼び出された。痛みから解放されたのかママの瞳は虚ろながらに優しげで、実際に意識はなかった。混濁して、朦朧としていたんだ」遠い瞳が、僕の瞳を強く射抜く。「でも死ぬ数分前、ママは僅かだけ口を開いた。私はそっと耳をそばだてる。ママの口は、ただ一つの言葉を繰り返し発していた。『大好き、みんな大好きよ』って。蝋燭の焔のような微笑を浮かべながら。ママは全てを愛し、だから私のことも愛してくれた。こんなに嬉しくて悔しくて、哀しかったことはないよ」
みんな大好き。死ぬ間際にそう思える人って、実は結構いる。死ぬ前には数々の脳内麻薬が分泌されて、多幸感がいやというほど増幅されるらしい。死に対する防衛機構というのが通説のようだ。谷山はそれを知っていたから、嬉しい以外の気持ちも抱いているに違いない。嬉しいのはきっと『好き』という言葉が聞けたことで、悔しいというのはそれが本心かどうか確かめる術を持たなかったから、そして哀しいのは……大好きなママが死んだからだろう。そう言えば、谷山が23日の夜、母親のことを理解したいと言っていたのを思い出す。それはきっと、そういうことなのだろう。
「結局、私は最期のママを理解できなかった。そして、今も理解できてない。それは私が今まで生きてきた中で一番の、そして恐らく唯一の心残り、だと思うよ」
谷山はぐしぐし顔を擦ると、恐ろしい事実を聞くような表情で僕に訊ねてくる。
「橘のお父さんは、いないの?」
成程、次は僕の番か。無言で小さく肯くと、僕は「と言っても、谷山のお母さんほど劇的じゃないけどね」と付け加え、淡々と話し始める。
「僕がとっても幼い頃に交通事故で死んだんだ。居眠り運転してたトラックに正面衝突されての、何の意味もない死に方だったって」そう語ってくれた母の口調は表面を皮肉で固め、そして絶望的な内面を放射していた。そうとでも言わなければ、とても相対化して話すことなどできなかったんだと思う。「その運転手、任意保険に入ってなかったからロクな支払い能力もなくって。だから母さんは、僕を育てるのにとても苦労したんだと思う。再婚の話も何度かあったけど、結局母は全てを断った。一人だけとても良い仲の男性がいて、今も友達のように付き合っているけど、性的なものを匂わせたことは一度もない。それは多分、けじめなんだと思う。亡き父への、そして僕への」
手を蛍光灯に翳し、僕はその影を見る。影を全て遮っている手を、僕に照らし合わせて。僕は16年間、母の光を全て奪い取って来たのだと思う。本当はもっと、好き勝手だってできたのに。
「だから僕は、早く家を出たいんだ。独立して、母さんに迷惑をかけないようにする。その為の努力も、いくつかしてるしね」と言って、僕は資格試験の参考書を指差す。「実を言うと本当は、高校にだって通う気はなかったんだ。でもそう言ったら母さん、凄く怒って。わたしは義務で僕を育ててるんじゃないって言ってくれた。家族だからとは言わなかったけど、でもそれで逆に、なんか重たい荷物がすーっと肩から抜けたような気がした」
そうして語り終えた僕は、沈黙をおく。少しして、谷山がとても眩しそうな笑みで僕を見つめてきた。
「そっか」谷山が納得したように、肯く。「だから、橘はそうなんだね」
そう、というのが何かは抽象的過ぎて分からないけど、彼女は僕を羨ましがっているようだった。片やいつも家にいて、片や殆ど家にいない片親。どちらが幸せで、どちらが不幸かなんて測ることはできないし、測っちゃいけないことだけど、僕は谷山の視線を幸福な人間の義務として受け止め続けた。と、その声が安堵の色を滲ませる。
「でも、良かった。君が高校に通ってくれて」
「どうして?」
そう訊くと、谷山は本気で怒る仕草を見せた。
「じゃないと私たちは今こうして、出会うこともなかったじゃない」ああそうか、と僕は納得しつつ、激する谷山の言葉を追う。「それはとても大切なことだよ。それとも橘は、私なんて会えなければそれでも構わなかった、くらいにしか思ってないの?」
僕は慌てて首を振る。すると谷山は逡巡してから、布団に座る僕の胸に飛び込んできた。余りにも唐突で、僕は押し倒されるようにして、仰向けに倒れてしまう。睨みつける僕に、谷山は甘えるような仕草で答える。
「ベッドの感触はもう飽きたよ」いけしゃあしゃあと言い放つ谷山に、僕は少しだけむっとする。「今は、床に引かれた布団の感触を味わいたい気分」
「じゃあ、僕はいらないの?」だから僕は怒った振りをして、彼女を振り解く。「だったら、僕は慣れたベッドの方で眠るから」
つれなくしてベッドに寝転がろうとすると、谷山がまるで寂しそうな犬のようにして縮こまっていて、強烈な罪悪感に苛まれる。谷山が僕に意地悪しても別段問題はないけど、僕が谷山に意地悪するのは拙いらしい。不平等だと思ったけど、そこで母の言葉を思い出す。人間付き合いに、平等なんてことは有り得ないのだ。我侭を言う相手がいて、それを適度に受け止められる僕がいる。ならば僕のすべきことは、僕のできることをすることではないだろうか。
そう自分に言い訳して、僕はベッドから降り、谷山のことをそっと抱きしめる。
「ごめんね」彼女の声が、甘く僕の心を早立たせる。「私はこういう人間で、直ぐには自分を変えられそうにないんだ。だから、君のその優しさが、私には嬉しくて……」
「良いよ」声に詰まる谷山を、僕は許容して、腕の力を強くする。「僕にだったら谷山は、どんな我侭を言っても良いんだ。叶えられないことは無理だけど、出来る限りのことをする人間でいるつもりだから」
そういうことを言う時点で、駄目なくらい惚れているってことを白状したようなものだけど。僕には恋愛の駆け引きなんてできそうにないし、好きだってことを隠すつもりも出し惜しむつもりもない。
だから、僕は何回でも何十回でも、谷山に好きだって言えるし。抱きしめることが出来るし、キスしたいって思う。
そして。
「私は今、風邪で少ししんどいけど」そう言ってから、真剣に笑う。「至って健康な、普通の女の子として扱ってくれないかな」
答える代わりに、僕はそっとキスをしてから谷山の体を横たえた。そして重なるように屈みこむ。柔らかな緊張の中で、僕たちは静かに頷きあう。お互いの失ったものを語り合ったからだろうか。二人の中にある空洞を埋めあいたいという願望が、僕の中で燃えるようにたぎっていて、抑えることができない。
彼女の声が、聞こえる。「私は、貴方になりたい」
そうだね。「僕も、君になりたいって、思う」
それがスイッチを入れる合言葉みたいに、お互いの想いを示す。
何もかも、忘れてしまうくらいに。
僕たちは、互いを強く求め合っているんだって、分かった。