6 墓碑の国、あるいは救いきれないもの 【4】
すっかり立て付けの窮屈となったドアを、名も無き少女を背負ったままで何とか押し開ける。空気のように軽いと思っていたのも最初のうちだけで、今では肩に腰に圧し掛かる重みが、わたしを強く苛んでいた。自分の部屋に向かうドアも玄関と同様に開け、ベッドに寝かす。服を脱がせることはできないので、今着ているものが皺になるのは我慢してもらおう。風邪を引くことのないよう、わたしは毛布と厚手の掛け布団を順に被せた。耳を寄せると、相変わらず心地良い寝息が聞こえてくる。
厄介なものを背負い込んでしまった。今更ながら気付いてみるが、ここまで来てしまってはどうしようもない。どのみち、わたしには彼女を寒風の中、置き去りにするなんてできなかっただろう。今まで、色々なものを散々置き去りにしたくせに、何故彼女だけ駄目なのか分からないけれど。
いや、本当は分かってる。裕樹を――十七年前に不幸な別離をした女性を、この少女の中に見つけてしまったからだ。容姿立ち振る舞いこそ違うけれど、強がって、でも実は今にも崩れそうに脆くて。わたしは、助けたかったのだと思う、彼女を。それはかつて失敗したものを埋めるための代償行為に過ぎないのだろうか。それとも、大人になった今なら失敗しないとたかを括っているのだろうか。それとも……。
わたしは首を強く横に振る。今、無理して結論にまで辿り着く必要はない。わたしにも、そして少女にもいま暫くの時間が必要に違いないから。
台所に顔を出してみるも、母の姿は見当たらない。母の部屋のドアには『安眠中、絶対に起こすな』のプレートが掲げられており、だから暫くは自分一人でやるしかない。わたしは台所に戻り、救急箱を手に取り、自分の部屋に戻った。そして目立つ箇所に、傷薬を塗った。顔以外で擦りむいてる箇所には絆創膏を張り、どす黒い痣の目立つ箇所には湿布薬を塗る。服の奥にはまだ傷が残っているかもしれないが、肌が剥き出しの部分と違ってばい菌が入ったり、化膿したりという心配はないだろう。肺腑を酷く痛めている様子もなし、このまま眠るに任しても問題ないだろう。
次にわたしは、彼女の持ち物を探す。中には化粧道具一式と香水、明らかに女性らしくない、汚れと皺の目立つハンカチ、ポケットティッシュ、コンパクト、財布などがある。何故か真新しいコンドームが二つ、剥き出しで入っていた。合成ゴムを基調とした、投げ売りされているタイプのものだ。まあ、それはひとまず置いといて、財布の中身を確認する。
中は千円札が数枚、小銭が合わせて600円ほど。カードは余り作らないようで、レンタルビデオ屋のものとスーパーのスタンプカード、ほかスタンプカードと磁気カードが数枚ほど。クレジットカードの類は見当たらない。免許証や学生証といった身分証明の類も所有していないようだ。続いて携帯端末をチェックする――アドレスを検索しようとしたらパスワードを求められた。手帳などの、手書きのメモは一枚もない。
身元なんて簡単に調べられそうだと軽く考えていたが、どうやらそう簡単でもないらしい。国家の基盤が失われつつある現代でも、きちんとした身なりをしているかつ、本当の身元不明なんてそう沢山はいない。
「まあ、目が覚めたら聞けば良いか」
そう結論付けて、広げた荷物を慎重に、バッグにしまった。そして念のためと、紙片をしのばせる。
母に頼まれていた二、三の雑事をこなしていると、低い帯域の唸り声と共に、少女が寝返りを打つ。いつのまにか、布団が半分以上めくれていて、腹の下辺りまでが剥き出しになっている。どうやら寝相があまり良くないらしい。わたしは布団を肩にかけ直してやると、つい思い立って顔を覗きこむ。
無為に眠りを貪るその姿を見ていると、目鼻立ち整った、年相応の可愛らしさが浮かび上がってくる。ところどころ腫れ上がった頬が少し痛々しいけれど、それも徐々に収まってきていた。と、まるで機械にスイッチが入ったかのように、その目が開いた。彼女はわたしのことをじっと見つめたあと、苦笑の形に唇をゆがめた。
「貴方って本当に、化石だったのね」
化石――ああ、理由もなく情動に駆られて人助けをする人間のことか。残念ながらわたしは、そこまで高尚ではない。わたしは今を生きる人間で、化石ではない。卑劣で、気弱で、無力な、一個に過ぎない。でも、そのことを敢えて教える義務などない。わたしを善良な、御しやすい人間と思っているのならば、そう思わせておこう。
「調子はどう? 傷は、痛むところない?」
彼女は身体を動かそうとして、顔をしかめる。それから肌がむき出しになっている箇所の、治療の跡を目ざとくみつけた。
「これ、貴方が?」肯くと、彼女は先程より僅かだけ打ち解けた様子だった。「なるたけ傷は残らないように気を付けたんだけどさ、ほら、青春の情動を持て余してる奴らって、無意味に執拗だから。それは兎も角、手当てしてくれてありがとう」
彼女は心持ち、頭を下げると、意外としっかりした調子で立ち上がる。鞄から何も失われていないことを確かめると、小さく息をつき、愛想笑いを向けた。それは疑ってごめんとも、世話してくれてありがとうとも、どちらとも取れる気さくさだった。わたしは苦笑で、それに答えた。蓮っ葉なところはあっても、意外と律儀らしい。
「じゃあ、あたしはもう行くね。本当は何か、対価を払うべきなんだろうけど」
「別に良いよ。見返りを求めて、手を差し伸べたわけじゃない」
ふぅん、と疑わしげに向ける眼差しは、どこかわざとらしかった。どうやら意識して疑わないといけないくらいには、信じて貰えたらしい。
「やっぱり化石だなあ」彼女はくすくすと笑い、それから割と真剣な微笑みをわたしに向けた。「でもあたし、そういうのは嫌いじゃなかったよ、ありがとね」
どこか面映い。誤解はされたくない筈なのに、自分のことを素直に受け取ってもらえると、何故か胸の奥がちりちりとして落ち着かなくなる。
彼女は背を向け、扉を開けようと――そこで、動きがぴたりと止まった。
「本当に、ありがと」
わたしが声をかける前に、彼女はダッシュで廊下を駆け抜け、家を出た。彼女は本当に、謝辞の言葉だけを口にしたかったのだろうか。いや、そんなわけない。
彼女はやはり、行くあてがないんだと思う。どこにも行けなくて、でも見ず知らずの人間に頼るのは躊躇われて。何が無くても、それでも外に向かうしかないと、決意してしまったのだろう。
今のわたしに、彼女を引き止めることはできない。しかし、少なくとも初対面ではなくなった。そして、彼女のバッグにはわたしのしのばせた紙片がある。そこにはわたしの携帯の電話番号を書いてある。彼女は近いうちに、それに気付いてくれるだろう。そして困ったとき、わたしを訪ねてくれるかもしれない。
わたしは親切にする。彼女は少しだけ、わたしを信用してくれる――この繰り返しになるだろう。あるいはわたしを体よく利用して、距離は全く縮まらないかもしれない。
でも、わたしはそれでも構わない。彼女は、大人を利用することを知るべきなのだ。そしてわたしは、利用されるべき、利用しがいのある人間でなければいけない。わたしにそれができるだろうか?
正直、確信はできない。でも、努力だけはすることにしよう。
わたしは今まで彼女が眠っていた布団に寝転がる。微かな血と、薬と、彼女自身の匂い。暴力は年頃の少女の匂いを、こうも邪悪に染め上げてしまうのだろうか。そんなことを感じるほど、心に痛い匂いだった。そしてこの匂いは日夜、どこかで撒き散らされているのだ。でも、わたしに助けることのできる可能性のある少女は今のところ、たった一人だけだ。他にもわたしと同じような化石とやらがいて、少女を傷つけずに保護しようと考えている大人はいるかもしれない。それでも、無力に死に行く子供に比べたら微々たるものだろう。
大人だって、平気で餓死する時代だ。正義と考えられていたものが悉く解体され、弱者を救済するシステムは急速に解体されつつある。人を救うシステムなんて今も昔もなかったと言えばそれまでだが、少なくとも21世紀に入った頃は、餓死がニュースで取り上げられるほど重大な事件だったのだ。福祉は生活底辺の底上げ、並び充足に少なからず、役立っていた。今では救国を唱えて堂々としているのは、カルト教団か原理主義者くらいのものだ。
この辺りでも『救国の光』と呼ばれる基督教系カルトが、幅を利かせている。富裕信者の"布施"によって、治安維持の為の自警団結成、公共設備投資などの相互扶助システムを確立することで、他の教団との戦いを生き抜き、広範な支持を得ることに成功した教団だ。国が放棄した公共を代理している、と言えば聞こえは良いだろう。しかし、彼らには一貫した大きな暗闇がある。犯罪者はおろか、ホームレスやストレートチルドレンといった罪なき底辺を、公共の福祉と治安を著しく害するという理由で、相手の事情を慮らず、容赦なく殺害するのだ。わたしは信者の一群が、路上生活者たちを積み重ね、嬉々として焼いている場面を一度ならず見かけたことがある。皮膚が焦げ、脂の爆ぜる音が引っ切り無しに聞こえる中を、円を組み、罵るような視線を向ける彼らに、ぞっとしないものを感じたものだ。それはどこか、原始の時代にも似て野蛮で、そこに文明の色を感じることはできなかった。彼らに金を払わないと水もガスも出なくなるから仕方なく毎月布施を渡しているけれど、その思想に順ずる気はさらさらない。
また、もう少し遠方――海沿いに近い街では『赤い霧』と呼ばれる原理主義者たちが暗躍している。彼らは、日本を再び強い国にする為、軟弱な政府滅ぶべしの趣旨で活動している。が、やっていることは金持ち屋敷の略奪と、公共施設への爆弾テロ、『救国の光』関連施設に対する自爆テロの三つに限定される。略奪は資金確保のため、公共施設の爆破は旧態の悪しき日本を象徴するものである故、救国の光への自爆テロは、教団が犯罪者絶対許すまじの精神で動き、赤い霧の団員を特に敵対視し、火にくべるからだ。彼らもまた、路上生活者たちを狩る。なけなしの資金を奪うため、あるいは即席の戦力を確保するため。前者には大人が狙われ、後者には子供が狙われる。何故なら、金を持っているのは大人で、脳を洗いつくすには子供の方が都合が良いからだ。
二つの組織は暗に激しく対立している。一方が歪んだ秩序の代弁者として、一方が歪んだ混沌の代弁者として。しかしまだ、わたしの住む辺りはマシなほうだ。ホームレスやストリートチルドレンだって、最低でもゴミとしては扱われる。人の命がゴミ屑以下の場所なんて、今の日本にはいくらでもある。もっとも、命なんて全てが豊かだった時代から、ゴミ屑同然に軽かったのだろうけれど。その軽さに耐えられない、弱い人間が勝手に、命は貴い、地球よりも重いと、勝手に決めつけただけ。なんとも、傲慢なことだ。
それでも今は、その傲慢ささえどこか懐かしい。
名もなき少女が駆け出していったのは正に、そんなところだ。かつてのわたしならば、脇目もふらず追いかけていったのだろうけれど。今のわたしには、成り行きをじりじりとして待つことしかできない。これが大人になるということだろうか、それとも臆病になるということだろうか――多分、後者だろう。
わたしはすっかり、臆病になってしまった。人に想いを示すことも、示されることも、できるだけ遠ざけておきたいと心の底から願っている。それでいて、密かに切望してもいる。
わたしはこのままでいるべきだろうか。それとも……。
答えを出すのに、夜は余りにも短過ぎる。