"PROLOUGE"
―It's a shadow like wandering heart―
−1−
高村英子は、濃い紺のセーラ服を着ていた。と言っても、彼女のいる場所は学校ではない。この地方では平均的な広さの庭や、障子が外され一時的に大広間と化した居間、そして玄関や入口には夏というのに烏よりも黒い服を着込んだ老若男女が思いそれぞれに集っていた。英子は母が家事の片手間に精を出していた家庭菜園をじっと見つめている。そこには、もう少しで食べ頃となるほどに熟したトマトと胡瓜が規則的に連なっている。母が毎日抜いていた雑草が、よく肥えた土を縫うようにして苦労を嘲るようにして映えてきている。英子は急に憎々しくなって、スコップも使わず素手でぶちぶちと雑草を引きちぎった。本当なら根まで除去しなければならないが、今の英子にはそれで十分だった。兎に角、雑草が視界から消えてしまえば良かった。
一人で庭の隅に蹲っていると、嫌でも他者の同情を引くらしい。英子の一度もあったことのない遠戚らしい老婦人が、ハンカチを目に当てながら声をかけてくる。
「この度は、本当に大変だったねえ。全く、両親一度なんて本当――」
婦人はなおも喋りたてようとしたが、英子の表情を見て厳しく口を噤んだ。
「そう――まだ、慰められるのも辛いの? では、一人でいるのが寂しくなって話相手が欲しいという時は呼んで下さいね。何時でも、話相手くらいにはなりますから」
老婦人は、歳の割に紅潮して健康的な肌をきりっと結び、英子に向けて深く一礼する。その礼儀正しさにあてられ、英子も深く礼を返した。老婦人は、彼女と引き換えに声をかけようとする、これまた見知らぬ夫婦を引きとめ、何やら説得してくれているようだった。そして、夫婦の方も納得したのか英子に一礼して去っていく。彼女も既に背を向けられた夫婦に向かって、再び背を下げた。
ここは落ち着けそうにないなと、英子は立ち上がり今は主なき家へと向かう。玄関では伯母が葬儀参列者の名簿をまとめ、自らも記帳しているところだった。まだ未成年の英子に代わり、通夜や葬儀の式、一切合財を仕切ってくれる伯母夫婦の献身は本当にありがたかった。正直、英子一人では何をして良いのか、そしてどのような感情を表せば良いのか、それさえも分からなかったのだ。伯母夫婦は両親の訃報を聞くなり、矢のように駆けつけそして霊安室で滝のように涙した。二人の姿を見て、ようやく英子もこういう時は泣けば良いことに気付き、派手に一夜を泣き明かした、一度流し始めた涙は留まることなく、干からびてしまうことを危惧するほど流れてようやく止まった。向日葵の掛け布団カヴァには大きな染みができてしまい、その拡がりが不意に小学校一年生の時の記憶を思い出させた。英子が生まれてから最後にしたおねしょの記憶。
いつもは温厚な母もこの時ばかりは結構本気で怒っていて、でも心から怯える英子を見ると優しく頭を撫でてくれた。どんなにしっかりしていても、誰だって一度くらい失敗するものよねと、抱きしめて背中を擦ってくれた。一度くらいの失敗など恐れるなと幼心に教えてくれた母。その鮮明な記憶が蘇り、英子は再び涙を流した。悲しいことの数だけ、涙は湧いてくるのかもしれない。悲しみ疲れた頭の隅で、英子はそんなことを考えていた。そして、気付けば通夜の席にも出ぬままに眠りこけ、ぼうとした頭で朝が過ぎ、何時の間にか葬儀の時間に迫ろうとしている。腕時計を見ると、丁度十一時――葬儀まであと二時間しかなかった。
「あの、伯母さん――すいません。少し疲れたので、部屋で休んで良いですか?」
忙しいことを他者に押し付けることには気が引けたが、罪悪感すらも押し込める精神の虚脱状態が英子の全身を捉えて離そうとしない。生欠伸を噛み殺しながら、英子は上目遣いで優しい伯母の顔を覗き込む。伯母の両目には今もうっすらと涙の跡が張り付いており、疲労の為か肌の調子も悪く目立つ隈がくっきりと浮かんでいた。それでも昨日より厚く塗られた白粉と紅を目立たせることなく、伯母は自然に微笑んだ。心底に潜む、哀しみを隠して。
「そうね、親戚方への御挨拶も粗方終わったんでしょう? だったら一時間程、休んでも良いわよ。もし、英ちゃんを探す方がいたら、きちんと事情も話しておくから。それよりもお腹空いてない? 昨日の夜も何も食べなかったでしょ。辛いけど、辛い時こそせめて体は大切にしないと。仕出し弁当が嫌なら、消化の良いものでも後でお部屋に持っていってあげる。ゆでうどんが数玉残ってたと思うから、月見うどんなんかどうかしら?」
英子の伯母は、英子を気遣うように、そしてその気遣いを途切れさせまいと心掛けるかのように早口でまくし立てる。気疲れしながらそこまで他者に気を配ることができること自体、伯母の性格がいかにできた、大人のものであることかを証明していた。自然とそれは、他者を気遣うことも憂うことも、気丈に振舞うこともできぬ自分へと舞い戻ってくる。先日の先日まで、両親に自分は大人だと文句を垂れていたことを思い出し、英子は死にたいくらいに恥ずかしくなった。大人なら、現状を少しでも良い方向に持っていける筈だ。大人なら、自分を殺すことも知らず他者に心配ばかりかけるような真似などしない筈だ。
相対するほど、英子には己が惨めに思えて仕方がなかった。伯母は悪くないのに、彼女と一緒にいることを急に息苦しく覚え、英子は「いらない」と吐き捨て家に戻り、階段を駆け上がり部屋に飛び込んだ。忘れずに鍵をかけ、ベッドに倒れ込む。目を瞑ると、子守唄が聞こえてきた。母が本当に幼い頃、英子に唄ってくれたもの。幻聴だ、そう心の中で呟いて英子は布団で両耳を塞いだ。けど、歌は聞こえてくる。幼子をゆっくりとあやすような慈愛に満ちた声は、英子の頭蓋の奥から直接響いてきた。
ねんねこ しゃっしゃりませ 寝た子の可愛さ
起きて泣く子の ねんころろ つら憎さ
ねんころろん ねんころろん
「いや、ねえ――嘘でしょ。何で――」
ねんねん ころいちや きょうは 二十五日さ
あすは この子の ねんころろん 宮参り
ねんころろん ねんころろん
「やめてよぉ、そんな――優しい声で――」
宮へ参ったときゃ 何というて 拝むさ
一生この子の ねんころろん まめなよに
ねんころろん ねんころろん
「唄わないでよぉ、私――嫌、嫌、止めてぇっ!!」
橋の下には かもめが 日和るさ
かもめとりたや ねんころろん わしゃこわい
ねんころろん ねんころろん
「やめてよおっ! お母さんは死んだじゃない。私が、私が病院に辿り着いた時にはもう息がなくて――右手は車輪に轢かれて酷くへしゃげていて、胸は大きく陥没してて――」
余りに現実離れした世界からの声を打ち消そうと、英子は声を荒げる。母の死の再確認であることも忘れて、英子は初めて両親の遺体と対面した時の情景を具に出力していった。
「唄えるわけなんかないじゃないっ! 声だって出せる筈ないじゃない。そもそも――死んでる人間には、声一つあげることもできないじゃないのよおっ!!」
遺族のショックを少しでも和らげようと、医師が四苦八苦したであろう手足の縫合跡が余計に生々しかった。父の頭蓋は明らかに形を変え、生前のそれとは比べようもないくらいに変形していた。酷い――高速道路で、四台の玉突きだったと高速道警察隊の隊員が語ってくれたのを僅かに記憶していて――酷い事故だった。新車の慣らし運転にと、久しぶりで夫婦水入らずのドライブに出かけた、その帰り道。幸せに溢れていた両親を直後、地獄が襲ったのだ。正に、比喩すべきもない地獄。
来週は、自動車に乗って家族で旅行する予定だった。英子は素っ気ない振りをしていたが、内心は誰よりも嬉しかった。キャンプの道具をまとめる父よりも、荷物が多いとはしゃぎながらそれを諌める母よりも、三人で一緒の時を共有するのが何よりも楽しみで――指を折って、カレンダには印をつけて――お父さん、お母さん――。
「おとうさん――おかあさん――お、とう、さん――おかあ、さん――嫌だあ、嫌だよおっ! 私、だって――お母さんが大好きだった。お父さんが大好きだった。旅行にでかけたら、沢山沢山、お父さんとお母さんに大好きだって言おうと思ってたのに。その為に、ずっと言葉を飲み込んで我慢してきたのにいっ! 何で、どうして――私、どうしたら良いの? お母さんもお父さんも死んじゃったら、私は誰と生きていったら良いの? こんなのないよ、こんなのってないよおっ!」
今までは幸せだった。
だから、これからも幸せな筈だった。
英子は今まで、この帰結が誤りであることなど疑いもしなかった。幸せなところには、引き続いて幸せだけがやってくる。輪のようにゆったりとした、それでも満ち満ちた幸せに溢れ、おとぎ話の主人公達のように幸せと暮らすことができると、頑なに信じていた。
けど、幸せは崩れてしまった。
母も父も死に、英子は天涯孤独の身となった。彼女は自問する。悲しみに咽び、それでもたった一つのこと――触れてはならないものを探り、心は新たな結を生み出す。
幸せは崩れてしまった。
だから、もう二度と幸せな時は訪れない――。
それが、英子の心に張り詰めた最後の糸を――切った。
少女は幽鬼のように、存在感なくふらりと立ち上がる。
そして、歩きながらぼそぼそと呟き始めた。
「そんなの――嫌」
虚ろな瞳で、誰に聞かせるともなく――。
声は部屋に満ち、そして一瞬で消えていく。
「嫌――そんなものは嫌――」
英子は、己に言い聞かせるように言葉を紡いでいく。
「こんな幸せでないのは嫌――」
嫌悪は、すりかえられ――。
「こんな辛い現実なんて嘘――」
嘘に、なっていく――。
「こんな、世界なんて、全て、全て嘘で――」
嘘になって――。
「全部、嘘――」
塗り固められて――。
「そう――嘘――なの――よ――」
彼女は最後にうっすらと、乾いた笑みを浮かべ――。
呪文の詠唱の如き、流麗な言を世界に流した。
「この夏だけが――真実の夏、それ以外は全て、嘘――」
そして、彼女は落ちていく。
夏が始まる場所へと。
−2−
燦然と輝く白い白い太陽が、空を地球の御主人気取りで陣取っている。流れ来る汗すら端から蒸発させてしまいそうな、強烈な熱気が辺りを包んでいる。遠方に立ち込める陽炎は、黒く墨塗りした和紙に虫眼鏡の光を当てたかのような揺らめきと煤煙にも似た瞬きを生み出していた。
片手を額に翳し、恨めしそうに空を見る。夏の大王を遮蔽する唯一の存在である雲の群れは、遥か彼方で王様の威厳を恐れるかのようにゆっくりと動いていた。これでは、涼など期待できそうもない。午前中の涼しいうちから、自分でも殊勝に思うがゆっくり勉強しようと家を出たが、この天気では多少遅かろうと早かろうと何の解決にもなりそうにない。藤崎隆は軽く溜息を吐くと、進路を反転して家に、ひいては自らの部屋に戻ろうと決意を覆す。あそこならクーラを切ったばかりで、今から戻って直ぐ風量を最大にすれば快適な環境を引き続き維持できそうだった。しかし、藤崎にとってそれは今日一日の勉強を放棄するということに他ならない。藤崎の部屋には漫画やゲームが山ほどとは言えなくとも、一日を怠けて過ごさせるくらいにはあった。現に、積みっ放しでプレイしていないゲームは半ダースに至る。昨日、参考書に紛れて本屋で購入してきた漫画もまだ手付かずだった。
誘惑が心をもたげてくると、藤崎は容易に己を戒めることができない。彼は勉強道具の入った灰と黒のナップサックを背負い直し、出鱈目に文字を羅列した辛うじてファッションと呼べるような柄の入ったシャツで、全身の皮膚に空気を送り込んだ。それでも数瞬後には、滲む汗がシャツを不快に肌へと貼り付かせていく。ハンカチで汗を拭っても、それは湧き水のように留まることを知らない。うんざりだと言わんばかりに動かした視線の先には、決して広いとは言えない芝生で川の字に並んでへばっている犬と猫と烏の姿があった。つまりは――天敵関係を忘れるほどの致命的な暑さということだ。藤崎はうんざりとしながら、今朝の天気予報を思い出していた。最高気温は都内で三十五度――冗談ではなかった。藤崎でなくても、今この街の気温が三十五度を超えていることは容易に知れた。
ふうと声に出る程に大きな溜息を吐き、藤崎は歩き始める。彼は、この先に続く道が堕落に続くことを知っている。家に戻っても、自分が勉強を早々で切り上げてゲームや漫画に走ってしまうことを、誰ならぬ自らが最もよく理解している。しかし、理解していても止められなかった。分かっていた、この楽な方に走ってしまう性格のせいでどれだけ損をしてきたか。そして、これからも損をし続けるということが。でも、藤崎には勉強を苦痛以外の何物にも感じることができなかった。
小学校の頃はまだ、計算が母親の手伝いに結びついた。理科の実験が下らない遊びを沢山生み出した。社会の授業が街の探検競争に早変わりした。だから藤崎も我こぞって勉強し、気付いてみれば学年でも両手で数えられるくらいの成績になっていた。両親は鳶が鷹を産んだと喜んだ。小学校六年生の時、担任は都内でも有名な私立進学系中学を薦め、藤崎は気が向かないながらもゲーム半分で答案と向き合い、あっさり通ってしまった。良い中学に合格したのだから、もっと面白いことと向き合えるに違いないとわくわくしたものだ。
しかし、なまじ進学校などに入ったのが間違いの元だった。教師は高校、ひいては大学まで視野に入れろと盛んに囃し立て、何の役に立つのかも分からないままに大量の数学問題を渡され、解かされた。この数式の意味はと尋ねると、学年担任は鋭い目付きで藤崎を睨みつけた後、こう言い放った。「下らない事を聞くな」と。
社会は暗記科目になっていた。理科は科学と名前を変え、実験など毛ほどもない読書と究解の時間に堕していた。国語は出題者の意図を汲み取ることを練習する為の下らない選択肢選びと、一生に一度も使わないような漢字の練習の場所。半年もしないうちに、藤崎は心底うんざりとした気持ちになっていた。今まで、親に薦められても手すら出さなかった漫画を、暇つぶしの為に読み耽るようになった。勉学から逃避する為に、適当なゲームを手当たり次第にプレイし始めた。成績はどんどんと下降線を描き始め、卒業間近にはごく平均の点数しか取れなくなっていた。それでも、何の因果かは分からないが適当に選んだ進学系の高校に合格した。
高校の勉強は中学以上に下らなかった。下らなかったが、自分に一抹の望みをかけている両親のことを考えると底まで落ちることもできず、最低限の勉強だけこなしてのらりくらりと切り抜ける。成績はいつしか、下から数えた方が早くなっていた。藤崎にとって、今や殆ど全てのものが無意味になっていた。次元をたった一つ増やし、その変わりに楽しさが決定的に薄れたゲーム群。絵が綺麗なだけで、面白みも感動も山場すらもない漫画。描写が稚拙でいきなり最強のキャラクタが出てきて作者の自慰のように悪者を薙ぎ倒すライト・ファンタジィ系小説の氾濫。どれも、これも下らない。辛うじて、勉強よりは楽しいから藤崎の箸に引っ掛かっているだけだった。
内に閉じこもるのにも飽きて、藤崎は時々外にも遊びに出た。両親は、勉強の為だと言えば幾らでも金を出してくれる。我ながら最低なことをしていると思いながら、物欲に流されてしまう自分を戒める気も毛頭なかった。貰った金で、藤崎は適当な友人と遊んで回った。ゲームセンタやカラオケの場合もあったし、もう少し進んだ男友達になると適当な女との出会いの場所をセットしてくれることもあった。藤崎の通う高校は名前だけでステイタスらしく、名前を出すだけで下着か洋服か分からないファッションの女子高生が幾らでも寄ってくる。彼女達は揃って馬鹿だったから、適当に中学生程度の知識を披露するだけで手を叩いて賢いだの天才だの言ってくれる。ここで大抵の奴らは喜んだが、藤崎は喜べなかった。何しろ、彼女達須らく分数の掛け算すらロクにできないのだ。例えば、テナガザルに天才だと呼ばれても嬉しくもなんとも無い――藤崎の気持ちもそれに良く似ていた。
先ずは軽く居酒屋で飲み、カラオケである程度お互いに唾を付け合った後、幾つかのカップルに分裂しそれぞれの場所に消えていく。藤崎もその例外ではなく、惰性で引き寄せた女と二人で夜の街をしばし歩いた。勿論、目的は散歩などではなくラブホテルを探すことだ。初体験は今では名前も覚えていない、少し太り気味の女だった。アダルトビデオでは、女は喘ぎ声をあげたり激しく感じたりというのが普通のようだが、現実はそうはいかないようだった。色んなところを触っても舐めても感じるどころかくすぐったがるばかりで、挿れてもとろけるような快感など浮かんで来ず、湿る気配もない膣内は動かすごとに痛いだけだった。結局、藤崎は密かに思い焦がれている同級生の女性の乱れた姿を想像して、女性の膣口を使って自慰に耽った。女は初体験ではなかったし、精子は全て直前出ししたから、藤崎の心には何の罪悪感も浮かばなかった。当然、セックスした後は気まずくなって、電話番号を聞くどころか言葉一つ発しなかった。けど、後悔は微塵も無かった。
それからも藤崎は女を数回抱いたが、燃えるような感情や爆発するような快感など一度も味わえなかった。快感をある程度引き出すことには慣れてきても、それだけだった。余り人には言えない女性遍歴の後、藤崎は恋愛もセックスも所詮はこの程度だとたかを括って、それからは女を抱くことも合コンに出ることもなく、再び内生の日々を過ごしていた。
何もかもが退屈で、一日が過ぎることに露悪的な感情がいや増していくのを感じる。全てに対して斜に構え、この世に大したことなんて何もないと決め付ける日々。楽ではあるが、退屈でもあり――それでいて、胸の奥からちりちりと微かに燃える火の燻るような感覚が込み上げてくる。その度に、このままではいけないという焦燥がわくのだが、藤崎はそれを行動に移したことが一度もなかった。それが運命の分岐点と分かっていても、背を向けてしまう。世界などたかがしれていると気取った振りして、適当に生きていくのが楽だった。一所懸命という言葉を、何時の間にか苦痛に思っている自分がいて、所詮は命すら懸けられない人間なのだと消沈し、無意識に空を仰ぐ。
鬱陶しいくらいの夏、全てを灼き尽くすかのような熱気。全てがうざったくて、そう思っている自分を情けなく思える自分を見出すが、それも空を見続けている内にゆっくりと消えていく。後には抜け殻のような人間が残り、藤崎はとても安定的とは思えぬ安堵を覚えながら、ふっきるようにして透明な熱気の漂う前方へと視線を戻す。
目の前が異様に真っ白い。眩暈だ、と気付いた時にはもう己の体を制御することはできなかった。藤崎は何とか受身だけは取りながらも、前のめりに倒れ、意識を失った。最後にもう一度、全身がぐにゃりと歪んだ気がしたが――藤崎は気に止めない。ただ、暗い暗い意識の底へと見を委ねていった。
−3−
目の前が、白い。
視界が物凄く、不明瞭だった。
遠くから僅かにヒグラシの鳴き声が聞こえ、僕はようやく今が太陽の季節であることを思い出す。見上げると、僕の直下にそれはあった。化け物じゃないかって思えるくらいの陽炎が、視界一杯に広がり、僕は気を失いそうになる。しかし、ここで倒れては間違いなく死だと直観し、顔を左右に振って気合を入れた。
背中の荷物が、肩に食い込む。荷物――荷物? 僕は荷物なんて持っていただろうか? しかし、現にずっしりと重い感覚が両の肩甲骨を圧迫している。意識してみると、それは途端に重さを増していく――そんな錯覚を覚えた。
背負い直すと、リュックの重さと登山でもしようかというくらいの大きさが認識できる。僕は額に手を当て、何かないかと辺りを見回した。しかし、僕の目に映るのは数多の雑草に覆い尽くされた線路と、左右に広がる雑木林だけだった。民家も田畑もなく、道は完全な一本道。首を捻り後方を望むと、行く道と等しく続く線路と林が続いていた。
ふと、僕は線路の中心を歩き続けていたことに気付いた。列車が来たら大変だと慌てて端に避けたが、よくよく観察してみるとレールは少なくとも数年間、全く整備されていないようだった。
「どうやら廃線となった線路の跡みたいだな――」
呟いてみて、僕の体にはどっと疲労感が押し寄せた。電車が廃線になるほどの地方、しかも見渡す限り民家一つない。つまりは、掛け値なしの田舎というやつだ。恐らく、もう暫く歩かないと人間の住む痕跡すら見出せないだろう。そう考えると、目の前にある唯一の人工物が滑稽に見えて仕方がなかった。もう、二度と出番の訪れることのない線路は、やがて人工物より遥かに強壮で貪欲な雑草に飲み込まれてしまうのだろう。
陽の熱に促され、額から眉間へ、つうと汗が流れる。生温くて、しかも微量が右目に入ったらしく、猛烈な目と鼻の痒みに僕は思わず顔をかきむしり、そしてみっともなく両手で覆った。唇を舐めると、乾燥した汗から精製された塩が口内を満たし、余計に喉が渇く。
流石にやばいな、と思った。
物も水も豊富に満ちているこの国で、ようやく己の運命を表すに足る言葉に行き着いてしまったからだ。
「このままじゃ、行き倒れる――」
そう。
情けないことに僕は、行き倒れへの恐怖に怯えなければならなかった。
事態は非常に不良好。
陽光だけが恨めしい位に盛んで、今ならアルジェリアの狂熱的な太陽に当てられ殺人を犯した『異邦人』の主人公の気持ちが、少しだけ分かるような気がする。夏が、僕をこぞって処刑にしようとしているかのような錯覚。僕は、だらしなく膝を付き横へ倒れ込んだ。熱された石や線路、雑草までもが強烈な熱を放っていた。力が徐々に失われていく。
「嗚呼、僕は――こんなところで、死ぬのか?」
ならば、せめて荷物くらいは肩から下ろして楽になろう――肩から外したリュックサックを見て、僕はその中身のことについて全く失念していたことに気付いた。
僕は荷物にかじりつくと、震える手でチャックを開けていく。
「そうだ、これだけ重いんだ。きっと食糧や水も入ってるに違いない。いや、そうじゃなきゃ僕はとうとう馬鹿だ。阿呆で、間抜けで頓馬だ。そして僕は頓馬ではない、だから中身は――」
水分不足で血液濃度が上がり、しかもただ一つの希望を目の前にして僕はいつもの自分を保てないくらいに浮かれていた。でも、仕方ないだろう。これは地上に捨てられた哀れな人間に残された、唯一の命綱なのだ。僕はチャックを壊さんばかりに開け放ち、中身を白日の下に曝す。
ごと、ごとん。
大きな音がして、リュックからはたった二個だけ大きな塊が姿を見せた。そこには『新潟産コシヒカリ、十キログラム』と、目立つようにプリントしてある。僕は、顎が外れんばかりに口をぱっくりと開いた。余りにも余りな展開に、脳が灼きつけて働かない。
「こ、米袋が――二つ――だけ?」
出来の悪い夢を見ているかのように、不条理な光景だった。米袋を前にして、絶望に顔を歪める男が一人――箸にも棒にもかかりそうにない。それでいて、全身を苛む痛みはとても夢だと思えない。確かに白米は食糧だ。しかし――それも水があってのことだ。そして、始終見渡す限り、水の気配など微塵も感じない。額に流れる汗を貯めていたら、その前に必ず干乾びてしまう。僕は、唯一の筏を壊された漂流民そのものだった。
いや、死ぬだけならまだマシだ。米俵二つだけ抱えて野垂れ死にした若者の屍体が発見されたりでもしたら――末代までの恥にすらなりかねない。それだけは嫌だった。
米をリュックサックに入れ直すと、僕は最後の力を振り絞って立ち上がる。数分前と比べても体力は落ちていたが、何処かのテレビの珍ニュースのネタになるのだけは勘弁して欲しい。
「大丈夫、大丈夫だ。きっと、民家か――小川くらいはある――と良いなあ」
希望的観測も素直に肯定できないほど、意気消沈しているらしかった。しかし、現状では歩く他に道はない。どちらが進むでどちらが戻るかは分からないけど、道があるなら進まなければならなかった。それが――人の性なのだから。
足取りも重く、僕はただ太陽にのみ急かされとぼとぼと歩き始める。
死は、着実に僕の下へと近付きつつあった。
−4−
飛行機を降り、祖国に比べれば余りに適当でおざなりな搭乗者検査を潜り抜けると、女性は表面上は顔色一つ崩さず日本の大地を踏みしめた。とは言っても、空港の様子は祖国と大して変わらないらしい。各国からの訪問客や来賓は、土産物屋を物色しロビィで搭乗までの一息をついている。日本から外国へと旅行に出かける家族は、それにも増して多く見られた。しかし、彼女はそのどちらにも属さない人間だった。いや、例えどちらかに属する人間だと彼女が主張しても、日常がそれを認めないだろう。
牧師服にデザインの似た細身のスーツ。引き締められたウェストとヒップの形を嫌味なく強調するスラックス。高級なにかわで磨かれた靴。明らかにサイズの合わない縁の付いた帽子。全てを射抜くような鋭く、そして深い瞳。腰下まで雑然と伸ばされ、しかし上質な絹のようにしなやかな髪の毛。そのどれまでもが、烏の濡れ羽の如き黒をしていた。外見上の特徴を並び立てると出張帰りの堅い賃金労働者に見えなくもないが、内面と何よりも人を惹きつけかねない容姿、場にそぐわない奇矯さと魅力がそれを明らかに否定していた。
彫りの深い顔立ちは明らかに日本人の定型から離れており、頬にところどころ浮かぶそばかすは何処か、西洋の典型的で純朴な少女を思わせる。年齢は西洋人が日本人より大人びていることを差し引いても――いや、だからこそ余計に幼く見えた。スーツ姿も彼女を大人に見せる効果を微塵も生んではいない。全てがミスマッチで、それでいて表情は空港に存在する誰よりも真剣だった。僅かに桃色の紅を塗った口を引き締め、女性は颯爽と空港を進む。その仕草は、日本人に決して作り得ぬタイプの優雅さを醸しており、滑稽にも関わらずそれは一種の美であった。
しかし、クーラの利いた空港施設を抜け、炎天下の下に飛び出すと、毅然とした雰囲気も途端に崩れる。女は不快そうに顔を歪め、そこにいる筈もない上官に届くかの勢いで文句を言い連ねた。余りに早口でまくし立てた為、誰も聞き取ることはできなかったが、もしネイティブと同レベルのリスニング能力を持っている者がいれば、即座に顔を顰めたことだろう。
「It is too heat like homeland, and how humid it is! The director just said so that.It is completely terrific! Shit, Shit off like madness pigs! Damn it!」
そして、物珍しそうに異国人を眺めていた中年の男性を殺さんばかりの鋭い殺気で睨みつけた。そうなると外国人にはもともと弱い日本人のこと、慌てて逃げ出していく。女性はそれを二、三度繰り返して周りの人間を退散させた後、肩に下げたボストンバックをものともしない速度でタクシー乗り場まで駆けた。運転手は外国人であることを一瞬だけ訝ったが、空港で仕事をしているだけに他よりは慣れているらしかった。
「Please put this bag into the suitcase」
鍵を開け、トランクを示す運転手に、女はあからさまに乱暴な仕草でそれを押し込み、ずかずかと後部座席に陣取る。目を丸くしている運転手に、女はなおも続ける。
「Go to the hotel where British are most pleased, please.And of course, Afternoon tea is always prepared at three, and no charges.」
女の攻勢に、まくし立てられた運転手は完全に混乱していた。プリーズと二回言ったような気がしたのと、英国人ということだけは聞き取れたのだが、相変わらずの早口で日本人はおろか英国人にも理解しがたい、それでいて理不尽な内容だった。女は、英国のタクシー運転手の一流どころは涼しい顔してで仏蘭西語や独逸語を話して見せるのに情けないと思いながら、女は溜息をついて日本語で言い直す。それもよくあるたどたどしい口調ではなく、完全にネイティブと変わりのない流麗な日本語でだ。
「英国人に一番評判のホテルに案内して貰えない? 勿論、午後の紅茶がいつも用意してあって、それは言うまでもないことだけど、無料のところね」
「――は、はあ。それで、具体的にはどのような名前のホテルで?」
運転手の問いかけも最もだったが、女はあからさまに腹を立てた。
「もう、だったら良いわ。兎に角、外国人のあしらいには適当に慣れてそうな場所は? ここから最も近い都市は何処? そこの駅で良いから降ろして頂戴。後は在所の警官に尋ねるから」
慌てて二つ返事をすると、運転手は急いでエンジンを吹かし、軽快とは言えないまでもなかなかの出だしで走り出した。女はもう一度溜息を吐くと、これからのことを考えて思わず目を細める。運転手はその顔を見て思わずぞっとした。娘にも変わらぬ年齢であろう女性のものであるのに、何故か心を恐怖で満たされるかのような、威圧感に満ちた表情。特に黒曜石にも似た深みのある瞳は、角度と虹彩の比率を変え鋭い光すら放ったかのような錯覚を与える。運転手にはまるで、娘にせがまれて同伴した映画の――肉食爬虫類のように見えた。
全てを拒絶するかのような気配をたたえ、少女は流れる異国の景色すら視界に入れず、はしゃぐこともなくじっと前を見据えている。視界の先に目で視えるものはなく、ただ心の先と対峙していた。氷の如き切っ先を、女は未だ顔も知らぬ人物へと合わせる。彼か彼女か、名前も知らぬ人物に、自分は命を傾けるのか――かつて、己に課した問いかけを、もう一度繰り返す。勿論、答えは是だ。あの時、たった一つの躊躇の為に全てを失ったあの過ちを繰り返してはいけない。そして長官も、だからこそ私を日本の地へ送ったのだろう。女は端整な和製人形のような表情で、ただ怒りと焦燥だけをゆらゆらと全身に依らせていた。
運転手は、怖くもあったが生来の好奇心もまた強く、無性に後部座席を陣取る女性と話してみたいという欲求にかられる。しかし、意を決する直前、再びあの瞳に呑まれて男は口を噤んだ。後には車の走行音と、それにも優る車内の沈黙だけが後の全てであった。勿論、運転手が尋ねても女は何も答えなかっただろうし、もし正直に答えたとしても運転手はその意味を塵一つほど信じることはなかっただろう。男は日本と世界を繋ぐ窓口にしがみつきながら、何処までも常識と科学法則というものだけを信じて疑わない人間だったから。
だが、女の方は違う。彼女はただ異形と非常識を以ってこの世に依り、そして再び対峙するであろう存在を処理する為に遣わされたものだった。女は日本という東方の島国に再び降り立ったことを喜びもし、呪わしくも思っている。占い師の予言、そして調停者の真言は彼女にこう告げた。日本の地に『世界破壊者』の能力を持つ者が現れ、その力を振るい続けていると。
呪わしくもあり――そして、何より面白かった。『世界破壊者』の処理は女にとって全ての事象に優先されるものであったが、しかしそれはもう一つの予言でもあった。即ち、魂までも分かり合える存在との邂逅、或いは再会。因果がどのように回っても『世界破壊者』以外に、彼女の心を満たすものがないことも、また事実だった。
女は唇を僅かに歪める。その表情は笑っているようでもあり、そして何かを嘆いているようでもあった。その、とても人間的ではない面持ちをバックミラー越しに覗き見てしまい、運転手は思わず体を震わせた。心なしか車内の温度が下がったような気がしたが、運転手は敢えてクーラのかけ過ぎだと決め付ける。外は茹だるような熱気に包まれているというのに、そこだけは何故か、無性に、寒かった。まるで乾いた雪のような冷たさ――。
「ねえ」と、不意に少女の口から言葉がもれる。運転手は鋭く背筋を強張らせる。何かまた、理不尽な要求をされるかと思ったからだ。しかし、女性の質問は如何にも日本の気質を知らぬ異国人の典型的なそれだった。
「日本には、雨の季節があるって聞いたけど、本当かしら?」
「ええ――まあ、六月から七月にかけてほぼ全国的にそういう時期が訪れます。その時期に、日本の土地は一気に雨の恵みを受け取るんですよ」
もっとも、タクシーの運転手などに言わせれば、見通しが悪いは客足は遠ざかるであまり歓迎できたものではない。だが、その本音も期待に満ちた眼差しを浮かべる異邦の客に向かって吐かれることはなかった。女は全く残念がってない口調で、しかし社交辞令を述べる。
「そう、残念――でも、だとしたらここはまだ紛い物ではなく、本物なのね。あの、ただ――――――のみが支配するあの――」
少女は更に何かを口走ったようだが、排気音と女の声の小ささが互いを打ち消しあい、情報のない雑音へとそれは変節した。それから、二人の間に会話はなく、ただ道なりの道を進む景色を漠然と眺めるのみだった。そして、明らかに規模の違う街中を走り抜けることしばし、タクシーはJR千葉駅でその動きを止めた。女は日本語で礼を述べた後、表示料金を支払い、車外へと出てゆっくりと鈍った全身を伸ばす。トランクから荷物を降ろし、塵を払った。その姿はやはり幼くとも優雅で、それでいてそのまま儚き影へと消えゆくような危うさを秘めている。
彼女は歩きながら、麗しき少女の声で歌を口ずさむ。
それは、それだけで彼女を表す言葉で、彼女自身だった。
Rain, rain, go away,
Come again another day,
Little harry wants to play.
熱のこもり始めた髪をかきあげ、彼女は空を見あげる。そこにはまだ、本格的な隆盛を誇る太陽が孤独に孤高に、そして危うく輝いていた――。