「それでは……私が第一番手ですね」

声の主、美坂栞は蝋燭に照らされ、白い肌がまるで蝋のようだった。その色は些かあどけなさと幼さの残る彼女を、しかし妖美に見せるのにさえ十分過ぎた。

くすくすという笑い声さえも、今は微かに不気味だ。

「でも栞、恐い話を知ってそうなタイプじゃないよな」

祐一が、軽く場を濁す。

すると栞はぷうと頬を膨らませた。

先程まで身に(まと)っていた空気が一気に霧散する。

「私だって、恐い話くらい知ってますよ。もう……馬鹿にしてますね。いいですよ……とっておきの恐いやつを話してあげますから」

「うぐぅ……やめてほしいよ」

あゆはますます涙目で、祐一の方にしがみ付いて来た。

「では、あゆさんは一人で別の部屋にいたらどうですか? その方が、気持ちが楽ですよ」

すると栞はますますむっとし、冷たい視線をあゆに投げかけるのだった。当然の如く震え上がり、ますます祐一との密着度は増していく。比例して謂れのない気まずさも増していった。

「ううっ……一人はもっと嫌だよぅ」

「そうですか……仕方がありませんね」

栞はそう冷たく言い放つと、再び怪談モードに入る。

「では、始めますよ……」

それから大きく息を吸い込み、そして吐き出した。語るに足る迫力を生み出そうとしているのか、それともただの深呼吸か。どのようであれ祐一にできることは、栞の話を真面目に聞いてやることだけだった。

蝋燭が微かに揺らめく。そして、炎が元に戻ったところで……。

第一の語り部はそっと、その胸に秘めた物語を語り始めた。

第一章 闇の棲まう病院・前編

「皆さんも知っての通り、私は体が弱くて幼い頃から入退院を繰り返してきました。当然、病院にいる時間も必然的に長くなってきますよね。だから……病院にまつわる話というのが、幾つか耳に入ってきます。病院は、特に大病院では死が日常的なんです。

事故で死ぬ人、病気で死ぬ人、老いて死ぬ人……そんな死が沢山付いて回るから、必然的に怪談話も生まれてくるんです。例えば霊安室で死体の声が聞こえたとか、誰もいない部屋で歌や音楽が聞こえてくるとか、手術ミスでこの世を去った恨みがましい霊が夜な夜な騒ぐとか……。

でも、それは大体錯覚らしいです。入院していると、大体の人は神経が滅入って来るものなんです。実際、病院生活を体験した人なら分かると思いますが。そう言ったやり場のない鬱屈とした感情や一時の憂鬱が、人に見える筈の無い映像を見せ、聞こえる筈のない物音を生み出す……心理学的には割とありがちなんだそうです。

まあ、これは騒霊話を人から聞き脅えていた私に、お医者さんが話してくれたことなんですが……淀んだ感情というものは、精神に影響を及ぼしやすいんですよ。だから病院にまつわる心霊体験は非常に多いですが、その殆どは心理的作用によるものだと考えていいそうですよ……あゆさん、安心しましたか?」

栞は蝋燭の光越しから、人差し指を口元に当てて、不敵な笑みであゆに話しかけた。

「う、うん……そ、それなら安心だね」

あゆの安心したような表情に、栞は嗜虐的な言葉を投げかけた。

「でもですね……時にはあるんです。心理的錯覚という目くらましに乗じて、人に仇なそうとする悪鬼、幽鬼、悪魔、怨霊……その類です。私、あの時ばかりは本当にやばいと思いました。どういう基準でといわれると答えられないんですが、とにかく本当に危険だということはすぐに分かったんです」

「う、ほ、本当なの、栞さん?」

あゆの言葉に、栞はくすりと笑みを浮かべただけで、他に何も答えなかった。

その反対隣を見ると、あうーっが密かに涙を堪えていた。

流石に元が栞だけあってそれほど迫力は無いが、それでも暗闇が彼女を霊前とした雰囲気へと高めていることは確かだ。

「あれは、私が中学生の時でした。私は体調を崩してしまって、町の大きな病院へと入院しなくてはいけなくなりました。でも、最初のうちこそは私も辛かったんですが、一週間も経つと普段と変わりないくらいに歩けるようになりました。

そうなると、結構病院って退屈なんです。私は症状が症状ということで、外には出してもらえませんでしたし、かといって病院には友達も余りいません。食事も実を言うと、余り美味しくないんです……味が薄いですし、デザートもついてませんから。

購買にアイスクリームがあったけど、それも食べないようにって言われていたから……あれは本当に辛かったんですよ。実を言うと、購買のおばちゃんを張り倒して、何個か手に入れようと計画したこともあったんですよ……勿論、冗談ですけどね、クスクスクス。

でも、自分勝手にやって医者や看護婦を困らせるのも悪いなと思って、我侭はいいませんでした。本当ですよ……何回か、アイスクリームが欲しいと頼んだくらいです。そんなの、我侭のうちに入りませんよね。

それで……あれは、入院してから2週間ほど経った日でしたね。私は一人の少年と出会ったんです。

年齢は私よりも二つくらい下でした。私は夜……トイレに行きたくなって、外に出たんです。そうしたら、廊下の方からひょこっ、ひょこっとこちらに向かって来る一つの影があったんです。最初は私、少年のことを幽霊だと思ったんですよ。それくらい闇と同化していて、存在感が希薄だったんです。

ええ……あれは、暗かったからでなく、本当に少年の存在感が希薄だったというのが正しいと思います。彼はぜいぜいと声を荒げながら、必死で走っていました。どう見ても、少年に走る体力があるようには思えませんでした。顔色も悪くて……何より凄く辛そうだったんです。

それでも、少年は何かに抗おうとしてて必死に走っていたんです。私、トイレのことも忘れて咄嗟に駆け寄りました。だって、ただごとじゃありませんよ。重病人が、それでも脅えるようにして、必死で何かから逃げようとしていたんですから。

どうしたんですか……私は少年に近寄ると、そう話しかけました。すると少年は、更に息を荒げて私にこう言ったんです。

『闇が……闇が僕を追いかけて来る。僕を、殺そうとしているんだ……』

その時の少年の顔、私は絶対に忘れられないでしょうね。顔は真っ青で、目は異常なほど落ち窪んで、口や頬はかさかさでした。呼吸は獣のように荒くて、体は骨のように痩せています。もう……少し力を加えれば、すぐにでも死んでしまいそうな……そんな感じでした。

少年は私の前でばったり倒れ込みました。私は急いで看護婦の詰所に駆け込み、事情を話しました。

『栞ちゃん? こんな時間にどうしたの。もう消灯時間は……』

『それが、大変なんです。子供が、私より年下の子供が廊下に倒れてて』

私がそう言うと、詰所にいた看護婦の人たちも急に真剣な顔になりました。それから看護婦さんの手を引いて、少年が倒れている現場まで走ったんです。その時はもう体の動きさえも微弱で、すぐにでも死んでしまいそうな、そんな様子でした。

『この子……また、やったのね……』

一人の看護婦が、ぽつりと呟きます。

『栞ちゃん、ありがとう。あなたは部屋に戻って休みなさい、あとはこちらで何とかするから』

看護婦がきつい口調で言うので、私は従うしかありませんでした。本当は、もう少し話を聞きたかったんですけど、看護婦さんたちが慌ただしく動き出した今では、私は邪魔にしかならないと思って、その日は部屋に戻りました。

でも、その夜はなかなか眠れませんでした。何かに脅える、ぼろぼろの少年。そして看護婦さんの言葉がぐるぐる回って……。目を閉じたら、悪夢が広がりそうで、本当に、恐かったんです。

そのせいか、私は次の日、少し熱を出して寝込んでしまいました。本当なら、少年の部屋を尋ねて、事情を聞いてみたかったんですが、それも出来ませんでした。

次の日、少し元気になった私は、看護婦さんに少年のことを尋ねてみました。

『あの、一昨日の夜のことなんですけど、あの子は大丈夫だったんですか?』

看護婦さんは少し考える仕草を見せましたが、すぐに思い出したらしく、

『ああ、あの子ね……ええ、何とか一命はとりとめたわ。今は大丈夫だから』

私はその言葉にぞっとしました。一命を取り止めた……ということはあの少年はあの夜、間違い無く死の縁にいたということなですから。そんなに体を消耗させてまで、彼は何に逃げていたのか……私には理解できませんでした。

『でも、なんで体が悪いのに、あんなことをしたんですか?』

私が何気なく尋ねると、看護婦さんははあっと息を一つ吐きました。

『さあ……それは私にも先生にもよく分からないの。ただ、ここ数週間の間で三度、彼は部屋から飛び出そうとしたわ。変な言葉を叫びながら』

『それって、闇が僕を殺そうとしているとか……そんな台詞じゃありませんでしたか?』

『そう……栞ちゃんも聞いたのね。うん……多分、病院生活が長いから、一種のノイローゼか何かだとは思うんだけど……それにしたって、あんな体の状態で走るなんて自殺行為よ』

そこまで話して、看護婦さんははっと口を噤みました。他の患者の情報について、無意識のうちにぺらぺらと話していたことに気付いたからでしょう。だから、私はそれ以上のことを聞くことはできませんでした。でも……心の中には言いようのない不安がぐるぐると渦巻いていました。

体の具合が悪いのに、まるで脅えるようにして何者かから逃げようとする少年……何だか、他人事のように思えなかったから。何とかできないかなと思い始めていました。それで、体調が完全に戻ってから、少年の入院している部屋を探すことにしました。

これは、看護婦さんに聞いたらすぐに教えてくれました。友達になりたいと嘘を言って、頼み込んだんです。看護婦さんも、同い年の遊び相手がいた方が良いと考えたのかもしれません。すぐに部屋番号を教えてくれました。

半分は嘘じゃないですよ……半分、嘘を付いたのかもしれませんけど。

私が部屋を訪れた時には、幾らか元気を取り戻していたようでした。そうでなければ、看護婦さんが部屋番号を教えてくれる筈はないですけどね。少年は私のことを覚えていてくれたようで……縋るような目を私に向けて来ました。

『助けて、お姉ちゃん……僕を助けて……』

私に向けた、第一声がそれでした。

助けて……。

ほとんど面識のない私に向けて、いきなり助けてだなんて……いくらなんでも、少し変だと思いました。私のそんな考えとは裏腹に、少年は言葉を続けました。

『助けて……闇が僕を殺そうとしてるんだ。父さんも、母さんも、看護婦さんも、お医者さんも、みんな信じてくれないんだよ。恐いんだよ……闇の中で、闇がにやりと口を開いて笑ってる……』

私は、助けを求める少年の目を見て、思わずぞっとしました。目は、無気味なほどに虚ろで、虚空を向いて……顔はひきつり、涙が筋となって頬を伝ってました。とても十歳かそこらの男の子の表情とは思えない、暗く淀んだ、身の毛もよだつ訴えでした。

その時の気分が分かりますか? もう、すぐにでも逃げ出したかったんです。その少年の言っていることが余りに不気味で、その少年自体も不気味で……まるで、異世界に放り込まれたかのように、部屋の中の空気は張り付いていて……。

『お姉ちゃんは、僕を信じてくれるよねえ……。信じてるよ、お姉ちゃんは僕のことを信じてる。そうだよね、信じてるよね、信じてよ、信じてよ、信じてるよね、信じてよ、信じてよ……』

まるで壊れたテープレコーダみたいに、少年は虚ろな声を張り上げつづけました。その声は確実に、狂気の色が増していって……もう、私はその時、震えることしかできませんでした。

『信じてよ、信じてよ……信じろよ、信じろよ、なあ、信じてよ、信じろよ』

少年は、体から伸びているコードを外すと、こちらに向かって来て……。

『信じろって言ってるんだよ……ねえ、お願いだから……』

何故、どうして……そんなに恐い顔をするの?

『いや、来ないで……』

掠れた声は、それだけしか発することができなくて……。

少年が手を私の体にかけようとしたその時、運良く定期検診にやってきたお医者さんと看護婦が部屋に入ってきました。二人は急いで少年を私から引き離しました。

『離せよ。お姉ちゃんは僕の言うことを信じてくれたんだ。もう少しで信じてくれたんだ』

まるで駄々をこねる幼稚園児のように、少年は看護婦に羽交い締めにされながらも叫び続けていました。何かに憑り付かれている……そうとしか思えないような状況だったんです。

結局、私は看護婦さんに追い出されるような形で部屋を出ました。

それに正直いって、私もあの部屋にはいたくありませんでしたしね。

その日は何もする気力も無くて、一日中ベッドでじっとしていました。

でも、何もすることが無いと、思い出すのはあの少年の形相と金切り声だけで……。

耳を塞ぐようにして、その日は過ぎていきました。

夜を残して。

そう、本当に恐かったのはその日の夜だったんです……」

 

後編へ続く

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