聖バレンタイン・デイの惨劇
『最も起きて欲しくないと思ったことが、得てして現実となりやすい』
(「マーフィーの法則」より)
二月十三日 日曜日
今日は朝から、気持ち良いくらいの青空だった。雲一つない、そう、散歩するには最高の陽気と言えるだろう……外が凶悪なまでに寒くなければの話だが。
故に相沢祐一も、部屋でのんびり……なんて出来る筈はない。何故なら、彼は受験生だからだ。今日も彼は朝から、彼の学力では少し偏差値の高い地元大学へ合格するために、一心不乱……とまではいかないものの、必死に勉学に励んでいた。
ヒータの利いた部屋、或いはのぼせた頭を覚ますために、祐一はベランダへと出る。その役目を、二月の厳寒の気候は、あっという間に果たしてくれる。五分もすると、祐一はその寒さに体を震わせずには入られないほどになった。
この町に来て一年以上にもなるが、未だにこの寒さにだけは慣れることが出来ない。
「……くん」
何処かから、誰かを呼ぶ声がする。しかしここは二階のベランダ、空耳だろうと祐一は判断した。
「祐一くん」
今度ははっきりと自分を呼ぶ声が聞こえて来た。若い少女の声だ。
「もしかして水瀬家には、家族の者にも知られていない亡霊伝説があるのでは」
祐一は誰もいない空間に向かって、そんなことを呟いてみる。
「……うぐぅ、もしかして無視してる?」
ベランダの端にしがみ付いている人物が、実に悲しそうな声を出す。祐一が振り向くと、そこには月宮あゆの姿があった。というより、祐一は始めから知っていたのだが。
あゆは腕に力を込めると、着地……しようとして湿ったコンクリートに足を滑らせて転んでしまう。
「うぐぅ、痛いよう」
手に抱えていた荷物を庇ったためか、まともに頭をぶつけるあゆ。起き上がったあゆの顔は、鼻とおでこが真っ赤になっていた。
「大丈夫か、あゆ」
流石に派手な音を立てていたため、祐一も心配になって声をかける。
「う、うん、それより……」
そう言って、あゆはリボンや飾り紙でコーティングされた箱をじっと見た。箱は隅っこが少し潰れていたものの、本体は無事のようだ。
「あゆ、何だそれは?」
祐一は当然、疑問に思って尋ねてみる。
「あ、えっと……」 その質問にあゆは少し頬を赤らめて俯いた。
「バレンタイン・デイのプレゼントだよ」
そしてそう口にする。そう言えば今日はバレンタインか、祐一はそんなことを思い……そしてふと、思いとどまった。
「ちょっと待て、あゆ。お前の国では二月十三日がバレンタイン・デイと言うのか?」
祐一の記憶が確かならば、今日は十三日。バレンタインは明日の筈だ。
「これには深い事情があるんだよ」
あゆは神妙な顔付きで、そんなことを口走る。
「何だ? その深い事情ってのは?」 何か明日ではいけない都合があるのだろうか、そんなことを祐一は考えた。
「うん、実はね……明日のためにチョコレートを作ってたんだけど……」
「成程、それで?」 祐一は適当に相槌を打つ。
「上手く出来たから、少しでも早く祐一くんに食べて貰いたいなって思って。それでここまで来たんだよ」
「それから?」
「これでおしまい」
……二人の間に奇妙な沈黙が走る。
「別に深い事情でも何でもなくて、あゆがせっかちなだけじゃないか」
「……そうとも言うかもしれないね」 笑顔で答えるあゆ。
「で、それだけのためにわざわざ家の壁をよじ登って来たと。それは何故だ?」
「だから、祐一くんに早く……」
「やっぱり言わなくていい」 さっきと同じことを話し始めようとしたあゆを、即座に留める祐一。
「とりあえず部屋に入れ。ここじゃ寒いだろ」
「うん、わかったよ」
こうして二人はヒータの利いた部屋へと入った。
そして祐一は早速、包み紙に手をかけ……ようとして、ふと躊躇した。
「このチョコは、本当に食べられるもんなんだろうな」
祐一は一度、あゆの作ったクッキーを見たことがあったが、それは黒の碁石に等しかった。チョコレートが練りこんであるわけで無く、素で真っ黒になったクッキー。予想通りのその味に、胸を悪くしたという悪い思い出がある。
従って、今回もみだりに手をつけるわけにはいかなかったのだ。しかしあゆは胸を張って、
「大丈夫、今回はボクの最高傑作だから。あゆの特製ホワイトチョコレートだよ」
自信満々の声で言った。まああゆは最近、秋子さんに料理を習ったりしているし、多分それなりに食えるものだろう……そう祐一は判断する。
そして包み紙を破り、箱の中身を見る。
形は定番のハート型、少し歪だが、まあ合格点として……この白い斑点みたいなものは何だろうか、祐一は考えてみた。チョコレートの中に混ざった白い斑点、もしかしてホワイトチョコを練りこんでるのではないだろうかとも思った。
しかし微妙に色が変だ。薄い茶色に変色したものがあるのは、いくら何でもおかしいような気がする。
もっと微妙なのは、その匂いだった。ミルクの焦げたような……正確には表現できないが、最も近い匂いだと祐一は思った。そして心の中で呟く。
これは食べられるものなんですか? と。
しかしあゆが期待の眼差しを向けているからには、食べないわけにはいかなかった。祐一は決死の覚悟でチョコの端を一口かじる……。
「おいしい? 祐一君」 そう無邪気な顔で尋ねて来るあゆ。
「あ、ああ……」 祐一にはそれだけ答えるのが精一杯だった。
そのチョコは恐ろしい味だった。まず味がチョコではない。本来のビターな甘味に、胸焼けしそうな焦げの味と、スキムミルクのような、これまた胃に来るような味が口の中で複雑にとろけあって、最悪のハーモニーを奏でていた。
「ちなみにあゆ、このチョコレートはどうやって作ったんだ?」
祐一が口の中に広がる味と格闘しながら言う。するとあゆは、
「えっと、最初に買って来たチョコを鍋に入れて火に掛けて……」
(その辺りから、既に間違っているような……)
「底にこびり付いたやつも含めて丁寧に型に流し込んで……」
(話がやばい方向に進んで行くような気がする……)
「最後にホワイトチョコにするために、市販のコーヒーミルクをたっぷりと入れて……」
「あゆ」 祐一は深くたぎる感情を抑えて、出来るだけ冷静に言った。
「ホワイトチョコはな、チョコレートにミルクを入れて作るんじゃないんだぞ。最初から、白い色をしたチョコなんだ」
「えっ、そうなの?」 あゆが心底驚いた顔で答える。
「……もしかして、美味しくなかった?」
それからあゆは、本当に切なそうな顔と声で祐一に訊いて来る。流石にそんな言い方をされると不味いとは……しかしこの物体をこれ以上食べるのは……祐一は大いなる天秤の上で心を揺らしていた。
しかし長い沈黙は、逆効果だった。
「やっぱり、美味しくなかったんだ……」
二月十四日 月曜日
あれからあゆを宥めるのに昨日の全ての時間と魂を使い果たした祐一は、勉強の遅れを取り戻すべく、自分の机に向かい……と、何やら玄関のドアが開く音がする。そしてパタンと閉まる音。
それから、何も音が聞こえなくなる。家族の人間でも、挨拶くらいはして行く筈だ。祐一は最悪の事態を考えた。
(まさか、泥棒?)
下の階にはここの家主である水瀬秋子がいる筈だ。そんなことを思いつつ、不安になった祐一は階下へと足を運ぶ。玄関を見ると、見慣れない靴が一足あった。
祐一の記憶に間違いが無ければ、それは月宮あゆの靴だ。しかし何であゆが泥棒みたいな真似を? 祐一は不審に思った。
すると台所の方で、何やら物音がするのが聞こえた。祐一は何事かと思い、ダイニングの方へと向かう。
「あっ、祐一……くん?」
そこにはエプロン着姿のあゆがいた。そして台所には、水瀬秋子の姿もある。
「あゆ、そんな格好で何をしてるんだ?」
祐一の問いに、あゆは視線を泳がして何も答えようとしなかった。
しかし部屋に並べられたものを見て、すぐに検討が付く。ボウル、板状のチョコレート、鍋に砂糖、塩、他にも香辛料のようなものが二、三種類。
「それは、その……企業秘密だよ」
秋子の真似をしながら答えるあゆ。
「もしかして昨日失敗したから、秋子さんに手伝って貰おうと思ったとか?」
あゆの肩がびくりと動く。図星のようだった。
「……とにかく、祐一くんはあっちに言ってて」
あゆとは思えない程の怪力を出して、部屋の外に追いたてられる祐一。そしてドアが、大きな音を立てて閉められる。
(もう秘密でも何でもないんだがな……)
そんなことを考えながら、祐一は仕方なく二階へと戻って行った。今度は秋子さんが手伝うから大丈夫だろう……そんなことを考えながら。
二時間後、参考書を見ながらボーっとしていた祐一の部屋をノックする音が聞こえた。
「あゆだろ、入っていいぞ」
祐一の言葉に、ひょこっと姿を現すあゆ。
「よく分かったね、凄いよ」
そんなことは絶対に無い……そう思いながらも、説明が面倒くさいので祐一は何も言わなかった。
「で、なんか用か?」
用件が何かは既に決まりきっているような気もしたが、取りあえず訊いてみる祐一。
「祐一くん、ちょっと台所に来て欲しいんだけど」
「わかった」 祐一はそう答えると、如何にも楽しげなあゆの背を見ながら階段を降りる……と、あゆの背が見えなくなる。途端に轟音。
「うぐぅ、痛いよう」 涙目でお尻を擦るあゆ。
「階段でスキップしてたら、転ぶのも当たり前だろう」
ちなみに昨日も寸分違わず同じことを言っていたが、取りあえずは気にしないことにする。
負傷したあゆは、それでも何とか歩き出した。
「大丈夫か、あゆ」
「う、うん、大丈夫」
少し声が震えているようだが、大丈夫なようだった。
ダイニングに入ると、そこにはチョコレートの甘い匂いが充満していた。そしてテーブルの真ん中には、やはり綺麗にトッピングされた箱が一つ、如何にも今回の主役のように置かれてある。
「あら、祐一さん」
台所から出て来た水瀬秋子が、まるで祐一の姿を初めて見かけたかのように言う。勿論、あゆに合わせているのだろうと、祐一は思った。
あゆはテーブルの所まで歩いて行くと、置かれていた箱を手に取った。そして改めて、祐一の方に向き直る。
「祐一くん、昨日はちょっと失敗したけど……」
ちょっとどころの失敗じゃなかったが、それは敢えて口に出さないでおく。
「今日は上手く出来たと思うから、バレンタインのチョコレート」
あゆはドキッとするような真面目な顔で、祐一を見つめた。
「あ、ああ、ありがとう」
そんな動揺を隠すように、少し大雑把に箱を手に取る祐一。
「じゃあ、早速食べて見て」
チョコレートを受け取った途端、いつもの調子に戻るあゆ。
今度のチョコレートは、形もきちんとしたハート型だった。匂いも、甘い良い香り。特別やばそうな雰囲気はない。後は塩と砂糖を間違えているくらいだが……いくら何でもそんなベタなことはしないだろうと祐一は思った。勿論、一抹の不安は残してあるが。
祐一はおそるおそるそれをかじる。
「どう、祐一くん」
あゆの心配そうな言葉に、祐一は笑顔を返した。
「うん、美味しい。流石に秋子さんが作っただけのことはある」
「それ、ボクが作ったのに……」
「秋子さん、デザートを作るのも上手なんですね」
祐一はわざと、秋子に話題を振る。
「違いますよ、それはあゆちゃんが作ったんです。私は作り方を教えてあげただけですから」
頬に手を当てて、微笑みながら言葉を返す。彼女には、祐一の言ったことが冗談だと言うことも承知の上で言っているのだろう……そう感じた。
「本当か、あゆ。二人で共謀して、嘘を付いてるんじゃないのか?」
「うぐぅ、違うもん……」
拗ねたような顔をして、こちらを睨むあゆに、流石にからかい過ぎたかなと思う祐一だった。
「ありがとうな、あゆ」
祐一はもう一口、チョコをかじると、あゆの頭にポンっと手を当てる。
「……う、うん」
あゆは顔を赤くして、俯くようにして頷いた。
「じゃあ、全部食べてくれる?」
あゆは目を輝かせて、祐一に訊いて来る。しかし祐一は、甘いものがあまり好きではない。
「全部はちょっと……俺、甘いものは苦手で」
その時、水瀬秋子の目がキラリと光った。
「甘くないのも、ありますよ」
「甘くない……」
「もの……」
祐一とあゆは、不器用に首を折り曲げた。そして不安げに見つめ合った。
聖バレンタイン・デイの惨劇が、これから始まる……。
あとがきだよもん
時期柄、皆さんが書きそうなバレンタイン・デイのお話です。
故に直球ではなく、変化球で攻めてみました。
二人がどうなったかは書きませんでしたが、それは皆さんの想像に任せると言うことで……。