第五話
〜事件と夜想の挟間(後編)〜
32 閉塞性
「はあ…?」 祐一は気のない声をあげる。そこには他人に諭される時に返す力ない返事と、
疑問があった時に思わず発する同音語とが混在していた。
世田谷も自分で言ってみて恥ずかしくなったのか、きまずい沈黙によって答えを拒否する。
「吸血鬼って、夜な夜な生物の血を求めて徘徊するってやつですよね?
大蒜や十字架に弱くて……でも、陽の光にも弱かったりしちゃったりするんじゃないですか?」
佐祐理が場を取り繕うべく口を開いたが、やはり戸惑いは隠せないようで、
微妙に言葉尻が怪しくなっていた。それでも力なく、精一杯の笑顔を浮かべる。
「……それもある」 舞がポツリと呟いた。
「……吸血鬼はブラム・ストーカー著の『吸血鬼ドラキュラ』で有名になった夜の魔物で、
それから吸血鬼がでてくる沢山の話ができた。大概は陽の光に弱いが、そうでないのもいる。
狼や蝙蝠に変身するのが普通だが、作品によっては蚊や鼠や霧にもなったりする」
抑揚の無い声で話し始める舞だが、祐一には吸血鬼についての講釈より、
舞が何故このようなことに詳しいかということの方が謎だ。
そう言えば、ゲームセンターの時も舞は魔物について語っていた。
「ふえーっ、舞ってこういう話に詳しいの?」
こくり。舞は僅かに得意げに頷いた。
まさか魔物を討つ者だからって、昔からこういう知識を蓄えていたとか……、
祐一の頭にふとそんな考えが過ぎる。舞なら充分にあり得ることだった。
「ま、まあ……」 世田谷刑事は和みかけた空気を押し戻すように話を続ける。
「私だってこんなことは信じてはいないんだが……。
部下の一人が言ったんだよ、吸血鬼なら霧に化けて換気扇から出たのではないかと……な」
警察の意見にしては、余りにもオカルトじみていると祐一は思う。
しかし、祐一はそういう非現実的なものにはむしろ肯定的ですらある。
それは勿論、舞との出会いがあったからなのだが……。
だから、そんな馬鹿らしい考えでも、可能性はあるのではと考えてしまう。
「あのー、それは例え化け物でも無理だと思いますよ」
だが、佐祐理はキッパリと否定した。
「物質って液体や固体から気体になると途方もなく膨張するんですよ。
一立方センチメートルの水は、気体だと一七〇〇立方センチメートルになるらしいんです。
仮にその化け物の体重が十キログラムだとしても、一.七×十の三乗立方メートル、
約十二×十二×十二メートルもの大量の霧が発生することになります。
そんなものが換気扇から出ていたら多分、人の目に触れると思うんです。
それとも窓に面した側は、人通りの全くない通りだったのでしょうか?」
まるで化学の授業をする教師のように、ゆっくりと噛み砕いて説明して見せた佐祐理に、
世田谷は愛想笑いを浮かべながら首を振って見せた。
「いや……事件のあった部屋の窓は駐輪場を挟んで割と大きな歩道があった。
事件のあった時刻にそこを通った人は何人かいたが、そんな大量の霧が噴き出している
シーンをみた者は誰もいなかった、もっとも、私だってこんなことは信じていない」
奇矯な説を出して、それを科学的な論証で即否定されてしまったものとしては、
余程の恥知らずか自信家でない限り、正しい者に迎合せざるを得ない。
硬い表情を浮かべる世田谷にしても、それは同じだったのだろう。
だが、僅かに目の輝きを取り戻した彼は、一つの奇妙な反証を投げかけた。
「ええ、確かに大量の霧が噴き出している場面を見たものはいなかった。
でも、事件のあった時間の前後、何かが窓の方から飛び出すのを見た人がいるんだ。
自転車に乗っていたからはっきりとは見ていないが、間違いなく何かが飛び出したとね」
「でも、それは目の錯覚の可能性だってあるんじゃ……」
先程も霧になって換気扇などから逃げたと言ってのけた刑事だ。
祐一も今度は疑いを込めて、世田谷の方を見た。
しかし、今度の彼は自身満々にそれを否定した。
「いや、それがないことは既に確認済みだ。その証言を元に、
警察は事件のあった窓の外の付近を調べてみた。すると僅かだが、血痕が発見されたんだ。
それは今日の午後だがね……もうすぐ鑑識の報告も出る予定だが、
あれが血であることは間違いないことが分かっている」
すると、やはり何者かは外から飛び出したことになるのだろうか……。
しかし、と祐一は考え直す。人間が三階から飛び出せば、間違いなく即死だろう。
それこそ僅かな血痕ではすまないはずだ。
それではロープか何かを使って……とも思ったが、それなら壁を伝ってとかロープを使ってと
証言するだろう。第一、その窓は鍵が掛かっている……。
「ついでに言えば、血痕の残っていた地点をくまなく探したが何も見つからなかった……、
な、こいつは結構な謎だろう。全く、忌々しい……」
世田谷が吐き捨てるように言う。
「で、君たちならどう考える? この奇妙な密室殺人を」
そして、まるでなぞなぞを出す大人のようにぐるりと祐一たちを見回した。
しかし……答えがあるなぞなぞと違って、この事件には明確な答えがない可能性だってある。
結局は院生室にいた二人が共謀して被害者である河合優子を殺害し、
そしらぬ顔でアリバイを証言しあっている……それくらいしか祐一には思い浮かばない。
だから祐一は、疑問を世田谷に直球でぶつけた。
推理小説にでてくる探偵なら、もっと回りくどく聞くのだろうが……。
「院生室にいた二人、雲場と藁苗の二人が共謀したんじゃないですか?」
「まあ、それもあるな」 世田谷は否定しなかった。
「だが、それならどうやってドアに鍵を掛けたんだ?
あのドアに鍵を掛けるには、大涯教授のいる部屋のドアを開けて、
そこにある鍵を使わなければならない。しかし、教授室には鍵が掛かっていて、
二人が中に入るのは不可能だ。それに二人が犯人なら、窓から飛び出した物体はどうする?」
「それは……凶器か何かを……」
「凶器は物置の中にあったナイフだよ。傷痕と照合して一致したから間違いない。
犯行にあれ以外の凶器は何も使われなかった……それは確かだ」
祐一のちっぽけな持論は、世田谷の握っている情報にあっさりと粉砕されてしまう。
「それに動機もない。二人が親しくしていた事実はないようだったしな。
藁苗の方は殆ど研究室の方にすら出てきていなかったらしい」
二人には表だった接点もなかったと言うことだ……、
動機もないことだし、祐一は自らの推論を完全に撤回せざるを得なかった。
その溜息と共に、再び部屋は沈黙に包まれる。
「あの……」 と、不意に佐祐理が沈黙を破った。
「事件の起きた部屋の中で、変わった所はありませんでしたか?」
「幾つかあった……これは言い忘れてたな」
佐祐理の言葉を肯定した後、世田谷は弁解がましく付け加えて見せた。
「事件のあった部屋だが、被害者の血でかなり汚れていた。
まあ、頚動脈が切られたんだから当然だがな……。
それとは別に、窓の鍵に血の付いた指紋が残っていた……指紋は被害者のものだった」
「はあ……そうなんですか?」 佐祐理は僅かに小首を傾げる。
「だとしたら、被害者の河合優子さんが自分で窓に鍵を掛けたんじゃないのですか?」
「それは違う。だとしたら、被害者の血が窓の辺りに相当数付着する筈なんだが、
そんな痕跡はどこにもなかった」
「じゃあ、その指紋はずっと昔についたものである可能性はありませんか?」
「それも無い。流石に時間単位での算出は難しいが、その血が付着してどれくらいかというのは、
調べれば分かるものなんだよ。あの血が付着したのは間違い無く事件の当日だ。
それにあの物置は事件の起きる前日、掃除が行われていた。
掃除に駆り出された人間に話を聞いたんだが、そんな血の痕は存在しなかったと、
口を揃えて証言している」
何だか質問をする度に、疑問と逃げ道が減っているよう気がする。
それに事件の前日、部屋の掃除が行われたというのも考えれば奇妙だと思った。
「部屋の掃除は、誰がやるように言ったんですか?」 祐一は気になって尋ねてみた。
「それが……被害者の河合優子が直々に命じたらしいんだ。
しかも、かなり徹底させた掃除をやらせたらしい……鼠やごきぶり一匹見当たらないようにって。
だから、窓の鍵なんて細かい所も覚えていたらしいんだが……」
また一つ謎が増えた。
被害者の河合優子は何故、事件の前日、自らが死ぬことになる現場を掃除させたのだろうか?
理由は分からないが、祐一は頭の中にそれを付け加えておいた。
「ナイフの指紋は?」 祐一と間髪入れずに佐祐理が訊いた。
「被害者の指紋だけが出てる。だが、その凶器についても妙なことがあってな。
そのナイフは以前、工作好きだった院生が置いていったらしいんだが、
被害者が誰も使わないなら借りていくと言って、鞄の中に収めていたそうだ。
その光景は、院生室にいた何人かが目撃している」
「つまり、優子さんが何かの目的で所持していたナイフで、刺されたことになるんですね?」
「そうだな……」 少し考えてから世田谷は答える。
「可能性としては、護身用としてナイフを所持していたということだな。
で、もみ合いにでもなったところでナイフを奪われ、逆に滅多刺しにされたと考えられる」
「でも……」 佐祐理は否定的な口調で返した。
「それだと、かなり行き当たりばったりな犯行みたいですよね」
「そう、問題はそこなんだよ」 ポンと手を叩きながら、世田谷は沈んだ顔をしてみせた。
「密室なんて大仰なことをやらかしたのに、凶器は被害者が持っていたのを分捕って、
何て考えられないんだよなあ……。そこが弱いのは認める」
それから何かを思い出したように、もう一度手を叩く。
「それと奇妙なことならもう一つあったな……床に数箇所、刃物で付けた傷があったんだ。
丁度、被害者が倒れていた所の辺りに点々とな。その傷は、被害者に傷を付けた
ナイフと同じものだったという結果がでている」
被害者と犯人がもみ合った跡だろうか……、祐一はその場面を想像してみる。
嫌がる被害者が、謎の人物の襲撃を受けている。
犯人は被害者を地面に押さえ付け、刃を立てる。被害者は首を動かして何とか交わすが、
最後には……その情景はまるで、ホラー映画に出て来るシチュエーションそのものだった。
祐一は首を振るってその情景を否定する。
そして、何とか立ち向かおうとするが、何を聞いて良いのか分からない程の混乱が、
祐一を支配している。この事件は分からないことだらけだ。
33 人間ではないモノ
「死因はナイフによる傷ですよね?」 だが佐祐理の方は、まだ果敢に挑む気力を残していた。
「具体的には……どんな感じだったのですか、余り想像したくないですけど」
「酷いもんだったよ」 世田谷刑事は即答した。
「腹部に数箇所、それから頚動脈をバッサリ。血がかなり広範囲に渡って噴き出していたよ。
現場の警官なんて、吐きそうになっていたくらいだからな」
その気持ちは祐一にも分かる。
以前、春休みの旅行で祐一は不運にも死体を見る羽目になったのだが、
同じ人間の形をしている筈のそれは、不気味な翳を生者に投げかけるのだ。
まるで、人を恐怖に導くオーラを発しているかのように……。
「首や顔を爪で掻き毟ったような痕が無数に付いていた。
相当強い力だったらしく、血がそこからも滲んでいた……」
語尾に近付くに連れ、世田谷は徐々に気勢を声から削いでいった。
「それと、これは後で分かったことなんだが……被害者は覚醒剤を服用していたらしい。
しかも、かなりの常習者だったようだ」
「覚醒剤の常習者?」
祐一は思わず声をあげた。
それは奇妙な様相を呈する事件の中で、逆に現実的に思えたからだ。
「ああ。検死解剖の結果、被害者の体内から覚醒剤の一種であるメタンフェタミンが検出された」
メタンフェタミンといえば、かつて日本ではヒロポンと呼ばれていた薬物だ。
戦後間もなくはメタンフェタミンが非合法品でなかったため、乗用者が多かったと言われている。
現在は麻薬及び覚醒剤取締法による規制の対象となっているイリーガルな薬品だ。
覚醒剤は名の通り、服用すると強い覚醒作用が表れる。
頭がすっきりし、一時的に頭や体の働きが良くなるように感じられるようになるのだ。
しかし、薬が切れると強い中毒症状が発現する。
軽度の症状だと喉の異常な渇き、思考の欠落及び短絡化等。
重度の症状になると、知能障害や幻覚、幻聴といった症状に苦しむことになる。
これらは全て高校の保険体育の受け売りなのだが……と祐一は心の中で付け加える。
その知識のお蔭で、祐一の心の中にある考えがまとまりつつあった。
「ちょっと待った……確か覚醒剤を常用すると幻覚を見たりするって、
漫画で読んだことがあるんだが……、その中に虫が体に這いずり回るような感覚に襲われて、
血が出るまで体中を掻き毟ったりするような描写があったぞ」
となると結局は、自殺なのではないだろうか? というのが祐一の結論だった。
他殺に見えるのは結局、覚醒剤の副作用で奇矯な幻覚を見て錯乱した結果、
持っていたナイフで自分を刺して死んでしまっただけなのではとも解釈できる。
「確かに……」 世田谷は肯定とも否定とも取れる返答を返した。
「虫が皮膚を這ったり、体中の穴から侵入するようなバッドトリップのせいで、
ナイフを使って自分で体を滅多刺しにしたり、飛び降り自殺を計ったりする例は少なくない。
少なくないが……やはり私には自殺とは思えないんだ」
世田谷は祐一に言われても尚、自殺の可能性を否定した。
しかし、その目には意固地な……論理的な感情とは相反するような何かが、
光を灯しているような……祐一にはそう思えて仕方が無い。
勿論、彼の言うことも分からないでは無いが、密室という状況なら、自殺と考えるのが自然だ。
少なくとも、刑事という職種ならば……。
「もしかして……」 祐一が疑問を渦巻かせている側で、佐祐理は覗き込むようにして問うた。
「世田谷さん、他殺という考えはもしかして、警察では少数派なのではないですか?」
佐祐理の言葉に、世田谷は見苦しいほど顔を引きつらせた。
それが図星であることは、祐一でなくても分かっただろう。
世田谷は俯いたまま、何も答えない。
それを追い立てるように、佐祐理の鋭い言葉が飛んだ。
「では、貴方は……自殺を無理矢理他殺に仕立てる為にこちら側を巻き込んだのですか?」
「……違う」 世田谷は力なく呟いた。そこに刑事としての威厳は微塵も感じられない。
「違うんだよ。今回の事件も、決して自殺なんかじゃないんだ」
彼は目をテーブルの方に落とした。テーブルの上を爪で何度か叩くと、重苦しく口を開いた。
「実はな、十八年も前に今回の事件と状況が酷似した事件が起きたんだ。
それが殺人だということは疑いようのないことだった」
「同じような事件が十八年前にも?」 祐一は思わず声をあげていた。
「ああ……。事件が起きたのは十八年前。場所は桐谷邸という、西洋建築の家だった。
桐谷隆司、被害者の名前だが、彼はS大学の教授で中世西洋史を専攻していた。
彼が殺されたのは1981年5月14日、じとじとと一日中雨の降り続けていた日だ……」
世田谷は当時を回顧するためだろう……軽く目を瞑った。
それからしばらくの間を置いて、言葉を続ける。
「被害者の奇声にも似た悲鳴を聞きつけたのは被害者の妻、桐谷宗子だった。
彼女は夫に夕食を届けようとしていたそうだが、そのショックでトレイを落としてしまったらしい。
その音を聞きつけた佐々木勉、彼は桐谷家の書生、つまりは居候みたいなものだったのだが、
彼が部屋から飛び出して来たんだ。そして、二人で隆司の部屋をノックしたが返事が無い。
何やら奇妙な音が聞こえるというので、二人でドアを破った。
ドアは木製のもので、数度の体当たりによって壊れるような脆いものだった。
すると、中には喉を切り裂かれて、それでもふらふらと部屋を徘徊し続ける隆司の姿があった。
彼は鮮血を部屋中に撒き散らし、最後には崩れるようにしてその場に倒れたらしい。
その姿を見てようやく我に返った二人は警察に事の顛末を連絡。
事件が警察の知る所となった……というわけだ」
微妙に端折られた説明だったが、今、説明された十八年前の事件と、
今回起こった事件が微妙に似ていることは何となく分かる。
発見のタイミング、人数、そして施錠されたドア、逃げ場の無い部屋、
喉や腹に傷を負い、それでも何かに固執するかのように動き続けた被害者……。
「で、その桐谷隆司の部屋だが、窓すら無い部屋だった。
換気扇が唯一付いているくらいの、本当に質素な部屋だ。
あるとすれば本棚が大小一つずつに、ライトの置かれた机とベッドくらい。
人の隠れる所すら存在しないその部屋で、しかし桐谷隆司は確実に殺されていた」
世田谷は末尾を「殺されていた」ときっぱり言い切った。
つまりはその事実に、強い確信を抱いているということだ。
「死因は大量出血によるショック死。凶器はナイフで、被害者の桐谷隆司は喉に腹部を三箇所、
更には背胸部を三箇所、合計七箇所の傷を受けていた」
「背胸部ですか……」 佐祐理が難しい顔をして、考え込む。
背胸部と言えば、すなわち背中の上部辺りだ。そこがいかに、
自らの手でナイフを突き立て難い場所であることは祐一にも検討がつく。
「……確かに難しい」 舞が手投をナイフに見立てて、背骨の辺りを突っついて見せる。
何だか、妙に緊張感の無い光景だった。
「そう。自殺ならば、背中に複数箇所の刺し傷があるなんて考えられない。
しかもナイフは指紋が拭い取られていた……柄には誰の指紋も付いていなかった。
河合優子の事件が自殺か他殺かは断定できないにしても、
これが殺人事件だってのは疑いようの事実だってことだ。
しかも、唯一の逃走路である筈のドアには鍵が掛かっていた。
勿論、隠し通路なんてものも存在しない……つまりは密室殺人と言うやつだよ」
密室密室密室。
今回の事件には全て、この言葉がまとわりついていると祐一は思った。
何かにつれて、この言葉を中心に回る事実が事件を複雑にしている。
そして、謎が解けない故の不気味さも内包していた。
「しかもだ。被害者の机には日記帳兼メモ帳のようなものが残されていたんだ。
その最後のページにこう記されていた……『私はやはり吸血鬼だったのだ』とね。
だから当時、警察内では『吸血鬼の密室』事件という二つ名まで存在したんだよ」
「吸血鬼の密室……」 その非現実的な事件名を、祐一は思わず口にしていた。
「それで、その事件は結局解決したんですか?」
「だとしたら、私だってわざわざ他人の事件を聞いたりしないよ。
事件は……殺人事件としてすら処理されなかった。結局、最後は自殺ということになったんだ。
もし、殺人として公表されたならば、もっと特番で大きく取り扱われる筈だから、
君たちだってその存在くらいは知っているに違いない。しかし、そうではないだろう?」
諧謔的な微笑を浮かべる世田谷。
「それは、何故だ? それよりも、そんなことがまかり通るものなのか?」
祐一は思わず、強い口調を露わにしていた。
確かに最近、警察の不祥事なども耳にする。
実際、以前に舞を襲った悪漢も警察官だった。
それでも幼い頃からの習慣で、祐一は警察のことを完全には疑えない。
だから、事実を警察自体が捻じ曲げたことが祐一には理解できなかった。
「まかり通るんだよ」 世田谷はきっぱりと答えた。
「当時、警察では様々な意見が飛び交った。私が勤めていた小さな市警だけじゃなく、
県警のお偉いがたまでこぞって持論を展開した。中には結構なミステリィ・フリークだっていたさ。
けど、誰も納得の行く解答が得られなかった……私も含めてね。
密室殺人が起きて、犯人もトリックすら分からないのでは警察の名折れだ……、
そんな考えが大多数を占めた。かくして事件は日の目を見ること無く三年前に時効を迎えたんだ
今、あの事件が殺人だとを知っているのは警察に古くからいる人物か、事件の容疑者だけさ」
言葉と共に、みるみる世田谷の表情が険しくなる。
「私はね、事件について自らの信念を曲げないのが唯一の自慢だ。
勿論、迷宮入りとなった事件もいくつかあるが、私は信念を曲げた捜査をしたことはない。
ただ一度、その十八年前の事件のことを除いてな。
私はあの事件によって、長くわだかまり続けてきた感情を打ち消したいんだよ。
そのためなら……私は魂を悪魔にだって売ってみせる」
そう言って見せた世田谷の顔は、一瞬、凶悪犯のように歪んで見えた。
少なくとも、祐一にはそう見えたのだ。
そして、今回の事件に固着する理由も分かったような気がした。
世田谷が固執しているのは、現在に起こった事件に投影されている過去の事件なのだ。
「だから、今回起きた事件は私にとって最後のチャンスなんだ。
偶然か必然か、同じ場所で起きた二つの事件を……」
「あの、ちょっと待って下さい」 先程まで俯き、何かを考えていた佐祐理が思わず口を開く。
「同じ場所って……事件の起きた場所は大学と屋敷で全く違うのでしょう?」
「ああ、話してなかったな……。事件が起きた後、しばらくして土地は売りに出されることになる。
その後は二度持ち主が変わり、結局、土地は国によって接収されることになったんだ。
桐谷邸やその周辺の土地を買い占め建てられたのは……、
川澄くんや倉田くんが通うS大学の新校舎群なんだよ」
「えっ……」 何故か、祐一の頭に奇妙な違和感が走った。
祐一だって、そんな事実は知らなかった筈なのだ。
それなのに……何故、それ程の違和感が無く受け入れられるのだろうか?
「……どうした、祐一。変な顔して」 舞が思索に溺れた祐一に、怪訝気に声を掛けた。
「……ひょっとこみたいな顔だった」
「そう、か?」 ならば、自分の顔は余程酷かったに違いない。
祐一はそう思いながら、両頬をぴしゃりと叩いた。
佐祐理はそんな祐一と舞のやり取りを見て、僅かに笑みを見せる。それから口元を引き締めた。
「それは……本当なのですか?」
「倉田君、私は冗談の言う所は弁えている。それは事実なんだ。
事実だからこそ、恐ろしいのかもしれないがね」
「そうですね……」 佐祐理は否定をしなかった。
それは事実が恐いことを心の奥で知っている悲しい目だ。
「十八年前の事件のことを教えて下さい」
しかし、その目を見せたのは一瞬だった。
「その方が、可能性が限定されている分だけ、考えやすいと思うんです」
「そうだな……」 世田谷はしばらく考え込んで後、そう呟いた。
「事件があった時、桐谷家にいたのはたったの三人だ。先程言った、被害者である桐谷隆司の妻、
桐谷宗子。被害者の家に居候をしていた佐々木勉。そしてもう一人、隆司と宗子の一人息子で、
桐谷宗一郎という人物がいた。彼は二階で勉強していると証言していたがね……」
そこで意味ありげに話を切った後、世田谷はあっさり過ぎる言ってのけた。
「その桐谷宗一郎こそが、犯人さ」
「犯人……!?」
「そうだよ。この犯罪が実行可能だった筈の人間は一人しかいないんだ。
桐谷宗子と佐々木勉は被害者の声がしてから、ずっと一緒に行動していた。
その日は一日中雨が降っていたが、外から侵入した形跡は全く見当たらなかったんだ。
つまり、内部犯行と考えれば……犯人は彼しかいないんだよ」
確かに世田谷の話す通りなら……その宗一郎という人物にしか犯行は不可能だ。
祐一の拙い頭でも、それくらいは分かる。だが……。
「そうとも限らないのではないか」と言おうとしたその直前、
ダイニングに携帯電話の着信音らしき音楽が響いた。
「はい、もしもし世田谷だが……」 世田谷はポケットから携帯を取り出した。
「ふむ、鑑識の結果が出た……はあ? 本当か? 分かった、すぐ署まで戻る」
そう言って、通信をカットする。
世田谷は両手を拝むように合わせると、席を立った。
「悪い。緊急事態が起きた……私は警察に戻らなくてはいけない」
「警察……何か事件ですか?」 佐祐理が心配そうに覗き込む。
「事件だった方がもっとマシだったよ。今しがた、河合優子殺害現場の真下に残っていた
血痕について、鑑識の詳しい結果が出たんだが……その血は被害者のものではなかった。
それだけじゃない……いいか、良く聞けよ。その血は……人間のものではなかった!!」
「……人間の血ではない?」
舞がボソリと呟く。しかし、その問いに答えを返してくれる刑事は既にそこにはいない。
彼はそれだけを言い残すと、さっさと部屋を出ていってしまった。
人間じゃない……その言葉の意味を、祐一は必死に模索していた。
だとすれば、人間では無い……かつて舞が戦っていた人外の魔物が、
人の知恵を嘲笑うように密室事件を起こしていったとでも言うのだろうか?
祐一はそんな思いを必死で振り払おうとしたが、到底できるものではなかった。
何かを考えようとしても、祐一たちに与えられた情報は余りに拙過ぎた。
何かが間違っている……しかし祐一にはその間違いを是正する力が無い。
「人間じゃない存在……そんなものが本当に存在するのかな?」
するんだよと言い掛けて、祐一は何とかそれを押し留める。
佐祐理の問い掛け、それはすなわち祐一や舞が内包する問い掛けでもあった。
でも、人間じゃない存在が犯人だとしたらそれは祐一の出る幕では無い。
それは……と思いかけて、祐一はぐっと心に潜める。
例え舞のような少女の領分だとしても、再び舞をそんな危険に合わせる訳にはいかない。
祐一の思いは、冷厳なる事実と共に胸に落ちていった。
気まずい沈黙と入れ替わりに、夜想は収束する。
その日は眠りの時まで、各々が異様な事件について思いを巡らせていた。
答えの出ることのない問いを……。
あとがき
今回は全編、事件、事件、事件です。
もうこれ以上ないってほどに、事実と推論との突き合わせです。
こういう展開になると、キャラクタの特性を維持できていません。
それは私の文章力が未熟だからです……はい。
次回の「夜想と過去の挟間」は前・後編……或いは前・中・後編になるかもしれません。
というのも挿入すべきエピソードが幾つか追加されてしまったからで……。
これもボトムアップ系の文章を作るが故の、弊害かもしれません。
現在五話まで、これでも全体の話の分量からして半分以下です。
総容量が164KB強……概算で350KB近い文章量になると思います。
シリーズを通すと800KBを超える文章量です。SSでこんな長い話は、そう沢山は無いでしょう。
それだけは、自慢しても良いかもしれません……。
それでは、また早い時期に……。
できれば感想も貰えると嬉しい……。