第十話
〜死者と事実の挟間〜

54 不確定の排除

「別に驚くほどのことじゃないんじゃないか?」

祐一はわざとらしく大声で以って、場にいる人間の注意を惹き付けた。

「……驚くほどじゃないって、どういうことだ祐一」

舞が不審げな目を祐一に向ける。
他の男性たちも同様に、注意を彼の方へと向けた。

「だって、犬は落ちてるものをよく拾って持っていくだろう?
それにここには理工学部があって、動物実験をやってるところもある筈だ。
つまり、処分し忘れたラットか何かを偶然くわえてただけじゃないかと思うんだが」

祐一がそう言うと、周りを囲んでいた男性たちは一斉にあっと声を発した。

「成程……それは有り得るよな」

男の一人が指を鳴らしながら言った。
そして、他の男性たちは首を何度も振っている。

「……ごめん、こちらの勘違いだったようだった、すまない」

彼は舞や祐一、ラインバッハに向けて大きく頭を下げた。
早とちりだが、潔い相手ではあると祐一は思った。
で、当の本犬であるラインバッハは……機嫌良さそうに尻尾を振っている。

彼らは全員でもう一度頭を下げた後、この場を離れて行った。
その様子を見届けると、舞は再びこのお騒がせ犬の頭を撫で始める。

「……良かったな、怪我もなくて」

舞がそう話しかけると、まるでその言葉が通じたかのように大きく一鳴きした。
それからしばらく背を撫でていたが、やがて舞の方でも気が済んだのか、
立ち上がるとラインバッハに「……じゃあ、私はそろそろ行くから」と声をかけた。

やはり大きく一鳴きすると、ラインバッハはゆっくりとこの場から離れて行く。
その姿を見えなくなるまで見送った祐一と舞。
しかし、舞の方は幸せそうな表情であるのに反して、祐一は思案げな表情を崩さない。
そのことにようやく気付いた舞は、不思議そうに祐一を眺め見た。

「……祐一、どうかしたのか?」

舞の声によって、ふと我に返る祐一。
それからしばし考えた後、こう言った。

「場所を変えよう、少し話したいことがある……ゆっくりと」
「……分かった、じゃあこっち」

二人は陰の射したベンチに腰を掛ける。
七月中旬の陽気は、直射日光には少し厳しいものがあったからだ。
その陽気と休日が重なってか、他にベンチを占有しているものは誰もいなかった。
勿論、祐一にはその方が都合が良い。これから話すのは事件のことだったからだ。

「……で、どうかしたのか?」

舞が促してくるので、祐一は単刀直入に答えた。

「実は今回の事件のことなんだ」
「……何か分かったのか?」

舞の乗り出してくるような言葉に、祐一は静かに首を縦に振った。

「ああ。多分、これで全部説明出来ると思う。けど、余り自信もない。
だから、今から俺の話すことを聞いて、間違っていたら指摘してくれ」

舞は少し考えた後「……わかった」と厳粛に答えた。
その姿を見て、祐一は口を開く。

「実は今回、謎が解けたのはさっきの騒ぎのお蔭なんだ。
つまり、ラインバッハが鼠を加えていたということなんだが、
あれは事件に深く関わってるんだ」

「……えっ、でもあれはもう解決したんじゃ」

「いや……」祐一はそう言いながら首を横に振った。

「あれは嘘っぱちさ。もし実験動物だったとしたら、切り裂かれていたという状況から見て、
既に実験を行った後ってことになるだろ。そんなものを犬がくわえていけるようなところに
置いてったリしないと思う。つまり、あの鼠は別の場所で殺されたんだ。

それで、ラインバッハが鼠をくわえてるのを見たのが、例の事件があった当日のことだろ。
しかも、二つの事件は非常に密接した時間に起きてる。研究室で起きた事件が十二時前、
さっきの男の一人が鼠をくわえたラインバッハを見たのが正午過ぎ。
おまけにここにある生協の建物から文学部棟はかなり近い場所にある。

そう考えると、研究室の事件でずっと不可解だったことが分かる気がしないか?
例の研究室の外に残っていた、人間じゃない血の正体が……」

そこまで言うと、舞も同じことを考えたようだった。

「……鼠の血か?」

「多分、そうだと思う。けど、問題はなんであの時、
ラインバッハが事件現場の近くにいたかってことだよな。偶然……なのか」

そこだけが、祐一の分からないところだった。
それは単なる偶然なのか、或いは何らかの要因があったのかということだ。

その時、舞が何かを思い出したらしく、祐一に変わって口を開く。

「……そうだ、あの時ラインバッハはやって来たサイレンの音を追いかけていた。
あれは事件が起こった場所に向かっていたから、同じ場所に行ったと思う」

「そうか……そういや、サイレンの音に反応して追い掛けたり吼えたりする犬って、
たまにいるからな。だとすると、あの死骸を事件現場付近で拾った可能性が高いってことか」

祐一のなかでもやもやとしていた事実がまた一つ解決した。
と同時に、今までの自分の考えが間違っていないと実感する。
続けて祐一は喋り続ける。

「そうなると、その切り裂かれた鼠はどこからやって来たということなんだが……。
いや、鼠を切り裂いた奴はどこでそれを、またどのような道具を使ってやったのか。
そういうことをやるのに最も適した道具は刃物やナイフだよな。

しかも、ここまでズタズタにしたってことは、鼠に関して憎悪か恐怖を抱いてたことになる。
普通、鼠を見つけたってそこまではやらないからな。
となると、こういうことをやった人間の検討がつかないか?」

祐一は話を舞に振った。舞はこれ以上曲がらないくらいに首を傾げ、
それから徐々に首を元に戻し、完全に正面を向いたところでようやく口を開く。

「……川合優子さん?」

「だろうな。彼女は事件のあった前日に物置の掃除をさせた時、
鼠やごきぶり一匹見当たらないようにって言ってたし、
事件の当日にそこから何かが飛び出しているのを何人も目撃してるからな。

舞、吸血鬼は鼠や蚊にも化けるって言ってたよな。彼女がそれを知っていて、
しかも吸血鬼が来るって脅えてるような精神状態だったら、
突然に現れた鼠を何とかして殺そうとしたんじゃないか?

それに、だとしたら物置の床に刃物で付けた傷があるのも納得できる。
あれは床を這いずる鼠を殺そうとして彼女がつけた傷だった。
で、その血のついた手で窓の鍵を触っただろうから、
あそこにだけ川合優子の血がついた指紋が残った」

これが、現場に残された不可解な痕跡に対する祐一の答えだった。

「なんだが、どこかおかしい点は無いか」

祐一の言葉に、舞は少し考えてから首を振った。

「……ないと思う、それで?」

「これで終わりだよ。物置で起きた事件から、他殺の可能性と思われる、
不可解な痕跡が実は川合優子自身がつけたものだと分かった。
だから、考えられることは一つしかない……川合優子は自殺したんだ」

「……自殺?」

「ああ……もしかしたら、あの鼠の一件で妙な妄想が彼女を捉えたのかもしれない。
彼女は覚醒剤を使用していたって、世田谷刑事も話してたし。
彼女は何かが体の中に侵入してくるようなたちの悪い幻覚を見た。
そのせいで体を掻き毟り、挙句の果てには持っていたナイフで腹を刺し、
最後には頚動脈を切り裂いて息絶えた……これが真相だと思う」

壮絶な死に方だが、世田谷刑事もその可能性は否定しなかった。
そういう事例はかなりの数、存在するとも言っていた。
そして、誰も部屋に入れなかったのなら、自分であそこまでのことをやったとしか、
祐一には思えなかったのだ。

「……じゃあ、十八年前の事件も?」

舞が思い出したように言う。
祐一は小さく頷くことで、その言葉を肯定した。

「状況も一緒だし、間違いないと思う。
つまり、幾つかの不確定なことが混ざって殺人に見えただけだろう」

色々なことが、事件を変にややこしくしていたのだ。
オカルトや偶然を取り除けば、事件ははっきりとしてくる。
祐一はようやく悩みの日々から解放されたことに、溜息を一つ付いた。

その時、舞が「……あ!!」と大きな声をあげた。

「えっ、やっぱなんかおかしいところがあったか?」
「……牛丼、まだ全部食べてなかった」

祐一は派手にタイルの地面へとダイブする。

ちなみに、牛丼は既に従業員の手によって片付けられていた……。

 

55 不確定の復活

このような悶着があった後、祐一と舞は下宿先のマンションに戻っていた。
公衆電話だと万が一に聞かれてしまうかもしれないし、
かといって祐一も舞も携帯電話は持っていなかったからだ。

今も事件のことで右往左往している世田谷刑事に先程突き詰めた推理を話し、
彼を喜ばせてやることでようやく日常へと戻れる。
そして、誰もこれ以上、こんな事件のことを考えなくて済む。
祐一はそう考えながら、警察へ電話を掛けた。そして世田谷を呼び出す。

彼の声は思いの他、弾んでいた。

「何だ相沢君か、どうした? 事件の謎が解けたのか?
こっちも分かったことがあるんだよ。まず例の人間じゃない血液のことだが……」

「鼠の血だったんだろ?」

祐一が先手を打ってそう答えると、世田谷はふうと息をついた。
受話器越しに聞こえてくる声には、僅かな驚きが見える。

「ふむ、となると君たちは研究室で起きた事件の謎を解き明かしたと見えるね」
「ああ、多分間違いないと思う」

そう言って、祐一は先程の推理を世田谷にも話してみせた。

「そうか……成程、現代の事件は自殺だったと。
いや、ありがとう。これで全部の謎が解けた、すっきりしたよ。
現代の事件の謎が解け、そして十八年前の事件の犯人も解明した……と」

「え!? 今、何て言いましたか?」

祐一は耳を疑った。

十八年前の事件の犯人……それは桐谷邸で起きた事件が他殺であったと言っているのだ。
しかし、祐一の考えではあの事件も現代の事件と同じ成り立ちである筈だったのだ。
そして、何よりもその謎が既に世田谷には解けているということが祐一を驚かせた。

「他殺って……それに何で犯人が分かったんですか?
十八年も悩んで来た事件だと、前に話してたじゃないですか?」

祐一が戸惑い気味に問いかけると、受話器からは気まずい声が漏れる。

「いや、まあその謎を解いたのは私じゃないんだよ……」

「じゃあ、誰かに聞いたって……もしかして佐祐理さん?」

祐一がそのことを聞いて、真っ先に思い付いたのは彼女の名前だった。
しかし、世田谷はそれを否定する。

「いや、彼女じゃないよ。このことを教えてくれたのは……」

 

56 驚愕の事実

「……え!?」

祐一はその人物の名前を聞いた時、自分の耳を疑った。
何故、こんなところでそんな名前が出てくるのか祐一には理解できなかった。

「冗談だろ? そんな馬鹿なことが……」
「こんな時に冗談なんか言うか。とにかく、これで私を縛っていた事件も解決されたわけだ。
君たちにも感謝……」

祐一はその言葉の全てを聞く前に電話を切った。
そんなこと、聞いている暇などなかった。
今は、一刻も早く行かなければならない場所があるからだ。

「舞、行くぞ」

「……行くって、どこへ?」

舞がそう尋ねるが、祐一は何も言わずに部屋を飛び出していた。
それほど、電話で聞かされた事実は祐一にとって不可解で衝撃的だった。

「……あ、待って祐一」

舞がそう叫んだが、祐一の耳には届かなかった……。


あとがき

ようやく問題編のラスト、第十話が公開できました。
総計300KB強……このシリーズはおろか、今までの長編の中でも、
最も長くなったこの話ですが、ようやく一区切りつきました。

Kanonに関係ない話が続いたり、血生臭い事件だったり、
訳の分からない登場人物の行動に頭悩まされたり……。
ともかく、このような長い話に付きあって頂きありがとうございます。

今回は、第十話で提示された二つの問いに答えてもらいます。

1 十八年前の桐谷邸で桐谷隆二を殺害したのは誰か?
2 桐谷隆司の部屋の密室状況はどのようにして作られたのか?

頑張って考えて下さい。
謎は解けた〜!! という方があったらメールを送って貰えると嬉しいです。
なお、掲示板にはネタバレになるような推理は書き込まないようお願いします。

メールはこちら→maskman@muc.biglobe.ne.jp

他にも色々と謎を織り込んであるので、そちらも考えてみてください。
特に世田谷刑事に十八年前の真相を教えた人物とか、
佐祐理の突然の豹変の理由などはかなり巧妙に伏線を貼っています。
ちなみに〆切りは2001年1月31日です。

一応述べておくと、今回の話は単体でも謎に迫れるように伏線は貼ってあります。
それとは別に、以前に載せた話の中にも今回の事件の伏線が幾つか貼りました。
クロスや御神楽でこういうのをやっているのを見て、私も是非やってみたいと思っていたのが、
約一年近くの時間を超えてようやく実現したことになります。

あとはとにかく、密室と怪奇をごてごてに混ぜ合わせた内容にしました。
Kanon自体、超状現象の上に成り立っている世界なので、
こういう魔物とか吸血鬼などの存在も無理なく入ったと思います。
勿論、ミステリなのでそういう解決はないのですが……。

今回はキャラクタ同士の掛け合いもかなり書けましたし……。
前の話で辟易された方も、今回は割とすんなり入れた……、
ら良いなあと希望観測的に思っています。

とまあ、少し長くなりましたがどうか皆さんも謎について考えて見て下さい。
それでは、解答編で会いましょう。

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