第十二話
〜事実と真実の挟間(後編)〜
60 祭りの前の騒がしさ
ぎこちない間食の会が終了すると、祐一はアルバイトにでかけた。以前にサボった分の
皺寄せが来ているというのが正確なところだ。しかし、レジ打ちをしている最中にも明か
されない事件の真相が気になってしょうがなかった。そのせいで、二度数字の打ち間違
いを犯し、お釣りの間違いも一度やってしまった。
そのせいで、主任に散々の説教を受け、帰宅するのが更に遅れてしまった。
水瀬家に辿り着いたのは午後九時過ぎだったのだが、その時には佐祐理、舞、名雪、
真琴、秋子の五人が居間でテレビを囲んで楽しそうに笑っていた。
「あ、お帰りなさい〜」
最初に祐一の帰宅に気付いた佐祐理が明るい声をかける。それを皮きりにただいまの
大合唱を受ける。週末における帰宅の儀式のようなものだが、年月が経っても気恥ずか
しさというものはなかなか消えないものだ。
まあ、祐一は元々順応性が高いので年頃の女性の集まりにも躊躇なく入り込めるのだ。
「でね、今日は美汐とまたゲームセンターに行ったんだよ。ほら、シールもこんなに」
今日の集まりの中で一番はしゃいでいたのは、現在目下水瀬家のムードメーカ独走中、
謎の記憶喪失居候少女、沢渡真琴だった。
真琴はどうも、あの時の一件以来、美汐と妙に意気投合しているらしく、二人で色々な
ところに遊びに行ったりということを頻繁に聞くようになっていた。もっとも、遊び好きな
妹に仕方なく付き合う姉という構図が容易に想像できて、祐一としては思わず苦笑を漏
らしそうになってしまう。
真琴はポシェットの中から十六分割のプリントシールを何枚も取り出してみせる。様々な
フレームに、真琴と美汐が並んでいる姿が写されていた。真琴が満面の笑みを浮かべて
いるのに比べて、美汐はどこかやり場に困っているような、そんな微妙な笑顔だった。
それから近くの喫茶店によって、チョコレート・パフェを食べたこと。美汐は抹茶ぜんざいを
幸せそうな目で見つめていたこと。駅前に出てウインドウ・ショッピングを楽しんだこと。それ
らの大体を話し終わった後、真琴は大きな欠伸を一つ漏らした。
「はふ……何か眠くなっちゃった」
恐らく、遊び疲れたのだろう。子供っぽい性質はここに初めて来た時からあまり変わってないが、
子供扱いされるのを嫌う真琴のこと、それは祐一の心の中に秘められた。
「うにゅ、わたしも眠い」
真琴の欠伸が伝播したのだろうか、名雪も糸のような目で海月のようにゆらゆらと体を漂わ
せている。これは名雪が完全睡眠モードに入ったことを示している。こうなると、祐一や秋子
であっても名雪を再び覚醒状態に戻すことはあたわない。
「寝ろ」
祐一が短く言い放つと、名雪と真琴はほぼ同時期に頷いた。
「じゃあ、お休み、秋子さん、佐祐理さん、舞」
故意に無視された気がするが、祐一はあえて黙殺した。
「うにゅ……」
名雪には、既に挨拶をする気力すらないようだ。二人は肩を寄り添わせながら、ゆっくりと
二階にある各々の寝室へと戻って行った。
そして、それは解決編の第二幕の開始を示す合図だった。
61 十八年前の真相
「どこから……話しましょうか」
まるで了解事項であったかのように、秋子が口を開く。祐一としてもその言葉は予測済み
だったので、別段に驚くことはなかった。
「えっと、最初からお願いします。俺には何が何だかさっぱり分からない」
祐一がそう言うと、舞も無言で頷いた。逆に佐祐理は曖昧な表情を崩さず、座して沈黙を
守るのみだった。その様子からすると、既に真相をしっているのだろうと祐一は考えた。
「分かりました。でも、何処から話しましょうか……私、こういうのって慣れてなくて。えっと、
つまりね……ナイフの位置が問題だったの。私も昨夜、佐祐理さんに話していてようやく
気付いたんだけど。誰かに話すってことは、考えをまとめるのにとても良いことなんですね。
一人で考え込んでいた時には気付かなかったことが、頭に浮かんで来るんですから」
秋子は祐一たちに向けて、穏やかな微笑を向けて見せた。しかし、次の瞬間には再び真面目
な表情で話を続けるのだった。
「で、続きなんですが……あの時、佐々木さんと宗子さんが部屋に入った時、ナイフは二人の
目の見える所に落ちていた筈なんです。宗一郎さんの話では、彼女は自分の目の見える範囲
にナイフが落ちているのを見ていたそうですから」
そう言えば、そんな描写だったような……祐一は心の中で反芻していた。
「けど、警察がナイフを発見した時にそれはベッドの下にあったんです。だから、ナイフを見る
ことができる筈がないんです」
「あ、確かにそう言えば……でも、どうして?」
「それはね祐一さん、ナイフが勝手に動く訳がないから誰かがそれを動かしたのよ。じゃあ、
それができたのは誰でしょうか。宗一郎さんは二階にいて、事件のあった部屋から飛び出して
きた佐々木さんとほぼ通路の中間地点で遭遇しています。だから、二人とも部屋にあったナイフ
を動かすことはできません。それができたのは、一人部屋に残っていた宗子さん……だけです。
彼女がナイフを動かしたのは何故でしょうか? そもそもこの事件は少し複雑な経緯を示して
ます。あの日の夜、桐谷家でどのようなことが起こったのでしょうか?
発端は、桐谷隆司さんがあることを決心したことから始まります。そのために、机に散らかった
書類や論文などを全て机の棚の中に整理しておいておいた。隆司さんは、一見乱雑に見える
状況を彼なりに整頓された状況であると公言していました。だから、散らかってるように見えても
彼にしてみれば十分に整理された状況だったの。そして、日記に自分が死ぬ理由……極めて
奇妙な、自分が死ぬ理由を書き残した文章も同じく収めておいた。全て、自分の血で塗れてし
まうことを恐れたためだと思います。
それが覚醒剤のせいなのか、強過ぎる思い込みのせいなのか、隆司さんは自分が吸血鬼に
なるという強迫観念に襲われて自殺を決意したんです」
「自分が吸血鬼になるって、そんなことを本気で信じられるものなんですか?」
祐一はその結論が突飛に思えて思わず尋ねてしまった。
「元々、吸血鬼というのは血液嗜好症という病名で正式に存在するんですよ。それに覚醒剤の
禁断症状の中には自分が異形のものに蝕まれたり、異形のものになったりという症状もないこ
とはないらしいですし。とにかく、そのために隆司さんは身辺整理を行い、最後は吸血鬼や悪霊
を滅すると信じられている銀色のナイフで自らの腹と喉を切り裂いたんです。普通の人間なら、
最初の痛みだけで力尽きるでしょうけど、隆司さんは覚醒剤の常用者だったので、痛覚について
非常に鈍感となっていたと考えられます。だから、何箇所も刺すことはできます。
そこに、鍵を打ち破って佐々木さんと宗子さんがやってきた。鍵は自殺を邪魔されないために、
隆司さんが予めかけていたものだと思います。部屋に突入する寸前に聞こえた金属音というのは
彼がナイフを床に落とす音だったのでしょう。また、彼にはナイフを処分する必要などなかったの
ですから、ナイフは突入して来た二人の目に見えるところにあったのでしょう。もっとも、佐々木さん
は動転していてそこまで確かめる余裕がなかったのでしょう。ここまでが第一部です。
ここまでで、腹部と咽頭部に刺し傷のある状況というものが作り上げられたのです。しかし、背部に
達する傷は自殺では絶対に存在しない傷です。つまり、背中の傷を刺した人間による惨劇の第二
部が存在するんですよ」
そこまで聞くに至って、祐一にもようやく犯人の固有名詞がはっきりと頭に浮かんで来た。
「じゃあ、桐谷宗子が落ちていたナイフで背中を刺したんですか?」
「はい。時間的に考えると、それしか考えられませんよね。もしかしたら、瀕死の状態である隆司
さんから自殺の動機、決定的な恐怖を誘う言葉を聞いたのかもしれません。恐らく、吸血鬼がど
うかということでしょう……彼女はうわごとのようにそんなことを喋っていましたから。
そして、彼女は背中を何度か刺して止めをさしたんです。彼女が殺したかというと、そのままでも
隆司さんは息絶えたでしょう。けど、彼女は止めを刺すことで言わば自殺を助けたことになります。
だから、自殺幇助という殺害行為になるのだと思いますが……。
彼女はハンカチ越しに柄を掴むと、これは指紋を付けないというより血でべとついているから
直に柄を握ると力がこもらないという理由でしょう。しかし、そのために指紋は凶器からは発見
されなかったのだと思います。指紋が付いてれば、犯人はすぐわかったでしょうから。
その行為によって返り血がついた筈ですが、既に血を浴びていたので警察にも咎められません。
そして、宗子さんは凶器を自分の元から遠ざけたいという心理からベッドの方に放り投げました。
これで、完全な密室の中の殺人事件が完成したんです。それが現実の価値観と違う、余りに
突飛な心理状態の中で起こったために誰も真相を看破することができなかったのだと思います。
そして半年後、宗子さんは自室で首を吊って自殺します。多分、罪の意識に苛まれてのことだ
ったんでしょう……」
62 事件の終わり
秋子は話を終えた後、両手をテーブルに乗せて黙っていた。舞は先程の話を整理しようとして
いるのか、辺りにしきりに視線を這わせていた。祐一もしばらく同じような状況だったが、やが
てその中から活火山の噴火のように一つの出来事が浮かんでくる。
「そうか、だから秋子さんは名雪の前でこの事件のことを話すのを躊躇ったんだ」
名雪には面識が微塵もないとはいえ、表面上は祖母が祖父を殺したに等しい状況なのだ。
流石にそのことを話すには酷だろう。
「でも、犯人が分かったんだから……事件の背景も詳しく世間に知らされるんじゃないですか?」
結局、そうなったら今更隠したところでどうにもならない。しかし、秋子はゆっくりと首を振った。
「それはね、心配しなくても良いの。もう事件自体は時効を迎えているし、警察でも証拠がない
のに自殺を他殺に翻したりはしないでしょうね。世間体を重んじる職場ですから。それに、世田
谷さんは自分が納得できれば良い……他人に話したりもしないと約束してくれました。だから、
この事件のことが世間に広まることはありませんよ」
成程、それなら心配する必要はないということだ。事件の謎も全て解明されたし、これで自分的
には一件落着だ。祐一は思わず息を付く。しかし、それを遮るように舞がぽつりと呟いた。
「……佐祐理はどうして分かったの。秋子さんが関係あるってことに」
祐一もそのことは聞いていなかった。確かにそれも、非常に不思議な点だ。
「佐祐理にも確信はなかったんですよ」 最初に佐祐理はそう前置きをする。「けど、昨夜に秋子
さんが言ったんです。研究室で起きた事件を『確か大学生がナイフでずたずたに切り裂かれた
事件だ』って……。でも、その日の朝のニュースでは自殺か他殺か事故かも分からないと確かに
報道していました。その夜のニュースでも進展はありません。
なのに、秋子さんは事件のことをああも簡単に他殺だと断定する言い方をした……それで、おか
しいなって思ったんです。もしかしたら、過去の事件に巻き込まれた人たちの中に秋子さんの
友人がいて、事件のことを詳しく話したんじゃないかなって。
それで、夜中に密かに秋子さんを訪ねて訊いてみたんです。流石に宗一郎さんが秋子さんの
死別した夫だったとは佐祐理にも分かりませんでしたけど……。それで、十八年前の事件のこ
とを詳しく聞いたんです。結局、事件を解決したのは佐祐理ではありませんでしたけどね」
そう言うと、舞は納得した風に何度も頷いてみせた。逆に祐一はといえばその科白に全く覚えが
なく、首を傾げるだけだった。
「あ、祐一さんは知らない筈ですよ。祐一さんが帰ってくるほんの少し前の出来事ですから。ふう、
でも秘密を守り通すことについては結構自信があるのに、あんな言葉であそこまで推理されたん
じゃ、私には勝ち目がないわね」
秋子が声を漏らすほどの笑みを浮かべる。
「そっか、じゃあ今度から佐祐理さんには迂闊な嘘をつけないなあ」
祐一がわざとそう冗談を言うと、佐祐理はわざとらしく頬を膨らませてみせた。
「あっ、じゃあ祐一さんは佐祐理に嘘をついたことがあるんですね。佐祐理は悲しいです」
「……祐一、嘘は良くない」
「だからそれは言葉の綾だって。そんな軽蔑した目で……って、ああ、くそう」
祐一は、舞と佐祐理の両者から寄せられる視線に完全にたじたじになっていた。特に舞は
本気にしているらしく、祐一としてもどうして良いか分からない状態だ。
そして助けを求めるようにさまよった視線の先の聖母は……。
「祐一さん、もてもてですね」
極上の微笑と言葉を贈るのみで、救いの手は差し伸べてくれなったのである……。
まあ、何はともあれ……祐一は美女二人の視線に挟まれながら思った。これで怪奇と多くの
謎に包まれた事件も本当の意味でフィナーレを迎えたのだ。
「ああ、もう分かったよ。これからもう絶対、嘘はつきません。これで良いだろ」
祐一は半ばやけくそで叫んだが、悪い気分ではなかった。
63 追記
翌週の月曜日、七月十九日の夜に世田谷刑事から電話があった。
事件について、後に祐一の手に入った情報はごく僅かだった。但し、その中に祐一を驚かせた
事実があった。桐谷隆司が使用していた麻薬、それが白谷という人物が元締めの覚醒剤販売
組織から流れて来たという事実だ。
十七年前に起きた悲劇の殺人劇、そして四ヶ月程前に起きたスキーロッジでの複雑怪奇な三
重殺人事件に関連がある……それを聞いた時、流石に祐一は運命の悪戯に慄然とせざる
を得なかったものだ。
「それにしても、君らが水瀬さんと深い関係にあるとは知らなかったなあ。それならそうと、早く
言って貰えれば良かったのに」
はっきり言わなかったのはそっちだろう……その言葉を祐一はかろうじて飲み込んだ。
「まっ、君たちの協力のお蔭で助かったよ。また難解な事件があったら、君らに手伝って貰おう
かな。君らはそういう運命の星にうまれたんじゃないのかい?」
「冗談じゃないですよ。流血騒ぎとか、避けたいって思ってるんですから。俺も舞も佐祐理さんも。
だから、変な事件が起こったからってもうこちらに持ってこないで下さいよ」
「そっか……まあ、それも良しだ。じゃあ、もう二度と会わないことを祈って」
そして、電話は切れた。
「祐一さん、警察の方からですか?」
既に料理の並んだテーブルに座った佐祐理が声をかけてくる。
「ああ、御協力感謝しますってことだった。もう、事件を持ってくることもないってさ。それより
佐祐理さん、今日はもうお腹が減って減って……」
「はーい、今からご飯をよそいますから」
一方の舞といえば、既に黙々と食事を始めている。
「それで、佐祐理さんと舞はいつから夏休みなんだ?」
「えっと、佐祐理は二十八日までテストです。舞は二十九日だったっけ?」
「……そう、二十九日まで」
舞は箸を加えたままで答える。どうやら学部が違うとテスト期間も違うようだ。
「ふーん、じゃあ佐祐理さん。二十八日はテスト終了のお祝いにパーっと繰り出し……」
その言葉は祐一のおふざけだったのだが、舞にそれが通じるわけなどなく……。
怒りのこもった全力ちょっぷをぽかりとお見舞いされてしまった。
「わっ、いてえ。冗談だって、冗談。本当は……そうだな、盆明けでもどこかに行かないか。
水瀬家の人とか仲の良い奴を誘って海なんか」
祐一が本当の目的を持ち出すと、舞はようやくチョップをやめた。
「あっ、それ楽しそうですね。舞も海、行きたいよね」
「……ああ、海は行ったことがないから一度行ってみたい」
「そっか……舞は海にいったことないか」祐一は舞の顔をじっと眺める。
「だったら、海の楽しさをしっかり教えないといけないな」
祐一の言葉に、舞は少し照れたのかふいと顔を背けた。
が、そのすぐ後に小さい声で言ったのである。
「……分かった、期待している」
しかし、残念ながら祐一たちのささやかな願いが叶うことはなかった。
何故なら、八月中旬から下旬にかけてこれまでの規模を遥かに上回る未曾有の殺人事件に
巻き込まれることになるからである。そして、それは祐一にとって七年前の悲しい思い出と向
き合うことになる、舞にとっては自らの存在意義を試されることになる、佐祐理にとっては最も
苦渋の選択を迫らされることとなる事件となったのだが……。
それは、また別の物語となる。