3 トーク・ウィズ

 まあ、覚悟は決まってしまったってのかね、こういうのを。もう時計を見ると午前を越えてぶっちぎりで午後に突入していた。目が覚めると、俺の身体の上には毛布がかけてあって男物の着替えも用意してあった。勝手に着ろということだろうか、示唆されなくても一着くらい失敬していこうかと思っていたのだが、成程気は利く方らしい。マッハの速さで着込むと、窓を開けて手をかけた。ここが二階の窓だろうが、二十階建てのマンションのてっぺんだろうが俺には関係ない。天使は飛べるからな。ではさようなら――。

 おいさよならだよ、窓を掴んだ手を離せよ右腕、それに左腕っ。幾ら叱咤しても、腕は従ってくれない。否、俺は何故かここを離れることができない。未練? 馬鹿馬鹿しい。そりゃ、多少ツラは良いかもしれないけど、あの体格じゃ食指は動かん。せめてあと十年はかけてじっくり熟成しないとな。もっとも、俺がここに来ることはもうないだろう。神様にたっぷり罰を受けるだろうが、結局は来年からもオーストレイリゥアでサーフィンかまして現地のジャリどもに歓声を浴び、感謝を一身に受け、更に金まで貰えるいつものパターンに戻ってる筈さ。さあ、行こうじゃないか。たまには暇なクリスマス・イヴだってあって然る筈さ、そうだろう。

「えっと、何してるんですか?」

 シット、時既に遅し。野々宮蛍は俺の背後に立ちばっちりと視界に捉えてるじゃありませんか。これじゃ逃亡無理――嘘だね、やろうと思えば小娘の視線くらい乗り越えていけるさああそうさ俺は嘘を吐いてるさ。性的な魅力は感じなくても何かの魅力をこの蛍って少女に感じてるんだよ、文句あるか?

「いやそのだな、寝起きの体操だ」弁明することで逆に言い訳が際立ってしまうのかと心配だったが、蛍は例のエンジェル・スマイルを俺にひたすら向け続けるだけだった。「サンタは身体が資本だからな」

「はあ、そうなんですかー、大変ですね」だから信じるなって。今の俺、露骨に逃げようとしてただろうが。「でも、確かに日本の冬を海パン一枚ですから、体力がないと勤まらない気もします」

――冷静に分析するなよ、そんなこと。いかん、どうも蛍の空気に流されてるようで駄目駄目だ。

「えっと、それで――お目覚めのご気分はいかがですか?」

 にこにこと。何でそんなに上手に笑えるのか、俺にはさっぱり分からない。

「まあ、ぼちぼちだな」

 答えた自分の声がやけに沈んでいたのは、意外だった。これくらい、とうに吹っ切ってるって思ったからな。

 案の定、蛍は考え込むような仕草でうーんうーんと唸り声をあげている。これは本気で何かを考えていると見て良いだろう。俺のことをサンタと信じた上で、一所懸命に考えてるのだ。全く、ここまで間抜けな人間がいるなんて今まで知らなかった。はっきりいって馬鹿だ、阿呆だ。ここまで筋金入りのお人よしだ、きっと箱入りみたいに育てられて苦労なんて一つも知らないのだろう。そう思い、見回した部屋にはどう見ても豪奢な調度品などは皆無だった。絵の一つ、花瓶一本すら見当たらない、簡素な部屋だ。多少、少女趣味が入ってるからここが蛍の部屋だというのは分かるが、至って普通の中流家庭の集合住宅と考えて間違いない。にしても日本人ってのは蜂みたいだな、よくこんな蜂の巣みたいな所に固まって住んでられるもんだ。連帯感が強いのかね? それとも土地の事情か、まあ両方あるんだろうね――地獄の領土を分けてやりたいよ。

「ぼちぼち――ということはつまり、なんでやねんと突っ込んでも返せるくらいは元気になりました?」

「どういう意味かよく分からん」

 何かの暗号か知らないが、規格外の日本語だ――方言だろうか。蛍はというと、至極しょんぼりとしている。余程、快い返事がないことを悲しんでいるようだ――っていうか、俺にはどうして悲しんでるのかわかんねえよ。

「るしふぁーさんは、私のことお嫌いなのですね」

「どうしてそういう結論に達するっ!」っていうかそもそも俺、名前を名乗ったか?「貴様っ、なんで俺の名前を知ってる?」

「だって、ミック=ジャガーが哀れむのはるしふぁーさんなんでしょう? だから、貴方はるしふぁーさんなのでした――うん、今日は推理が冴えてるみたいですね」

 こんなほえほえしてる人間から推理なんて言葉が出てくるとは思わなかったが、しかしその通りなのだから反論できない。

「ああそうさ、俺は神様に闘いを挑んで稲光に追いやられて暗黒に落ちたルシファ様よ」

「――わあ、正解でした」

 凄みを効かしたのにあっさりと受け流しやがる。こいつ、実は俺のこと嫌いだな。

「おい、ルシファだぞ、ルシファ。基督教徒なら知ってるだろうが。神に叛逆を起こした大ふへん者が俺のことだよ。セラフィムの更に上位、サマエルの称号を抱き、かつては十二の輝ける翼さえ備えた存在だったのさ。お前ら人間より、余程各が上なんだよ」

「――わあ、凄いんですね」

 分かってねえ、こいつ俺の凄さ全然分かってねえよ。

「でも、そんなに偉いのに泣きべそかいてましたよねー」

 ぐはっ! こ、このやろー。人の心の傷をざくざくとっ!

「あれは涙じゃないぞ、心の汗さ。そう心の汗なのだよ、ふふはははは」

「つまりは、涙なんですよね?」

 くわーーーーーーーーーっ! そんな純粋な笑みを浮かべて言うな俺がとことん惨めじゃねえかこん畜生っ。しかも念を押すかこいつ、とんでもない奴だ。

「まあ、そんなことはどうでも良い。兎に角、俺は偉いんだ。しかも今日はジャリどもにプレゼントを配りに来た、それはありがたい存在なんだよ分かったかっ」

「――わあ、凄いんですね」さっきと同じ言葉かよ、全然誉められてる気しねえよ。「でも、プレゼントなくしちゃったんですよね」

「――――――――っ!!」

 泣きてえ、マジ泣きてえよこいつ可愛い顔して言うこと鬼だ。折角、吹っ切りかけてたことがずしずし俺のハートに圧し掛かってきやがる。何とか反撃しようにも、プレゼントを失った間抜けなサンタクロースであることに代わりはない。俺にあるのはこの鍛え上げた肉体の美、しかし年頃の少女に理解できるとは思えない。実際、海パン姿の俺を見ても恥らうことすらなかったではないか。

「あのー」

「なんだ、何か他に用か?」

「るしふぁーさんはサンタクロースさんなんですよね」

「ああ、今日だけな」そういって俺は、今時のサンタクロースのシステムって奴を教えてやった。俺にしちゃかなり親切なことだ。「どうだ、分かったか」

「そうですか、人手不足――天使さんの世界も大変なんですねえ。私もお手伝いできれば良いんですけど、流石にオーストラリアの子供が好む玩具を用意することはできないんです――力になれなくて申し訳ありません」

「いや、あんたが畏まる必要ないって」

 まるで、蛍がドジ踏んだみたいにしゅんとした顔をするもんだから、俺はついついフォローしていた。

「まあ、今日は俺が馬鹿だっただけさ。一応、予備の玩具や菓子はどのサンタも持ってるから――今風に言えばフェイル・セイフって奴だな――プレゼントは行き渡るだろうよ。俺は金貰えないけどな」

 金がねえからカジノの親父にも借金払えないし、新年に馬鹿騒ぎすることもできねえ。しかもこんな辺境で、頭が弱いんだか強いんだか分からないジャリと一緒ときた。全くふんだりけったりだ。

 と、算盤勘定やってたら蛍が俺の目を覗き込んでくる。あの犬ちっくな、純粋で俺の穢れをちくちく突付くような柔らかい眼差し。何度よせられても慣れやしねえ。

「なんだ、そんな物欲しそうな目をして。俺は何も持ってないぞこの肉体と高貴なる魂以外はな」

「では、それをいただけないでしょうか、私に」

 ほうほう、俺の肉体と魂ね――ってちょっとまてやコラ!!

「てめえ、この堕天使の中の堕天使の俺を自由にするってのか!」

「はい、自由にしたいと思っています」

 さらっという奴だ清々しくなってくるぜ畜生ざけんな。俺の身体と精神だと? 人間がつけあがりやがって。でも待てよ、それはどういう意味だ考えやがれ俺の脳味噌。つまりは俺のこの溢れんばかりの肉体を好きなようにしたいってことじゃないか。くそっ、こいつ可愛い顔して純粋な笑い方するから人間にしては良い奴かと思っていたのに恐ろしい奴だ。

 俺は鋭く蛍を睨みつけた。流石にかつて、数多三億もの天使凡てに睨みを利かせてきたこの俺の本気には怯んだらしい。でも、蛍の精神は更に上をいっていた。天使の長だった俺がだぞ、一介の人間の余裕に負けちまったんだ。

「今日だけで良いんです。クリスマスが来て、サンタクロースの役目が終わるまで――どれだけの時間があるのですか?」

「サンタの役目はクリスマスが来たと同時に終わる。そこからは神様の時間だからな。俺はまたくそったれな地獄に戻されるのさ」

 時計を見るともう午後二時、もう十時間もない。これで一年間は日の目を拝めないってわけだ――泣けてくるね。何もできず格好悪いまま、それで更には神様に稲光浴びせられて痛い目にあうんだからやってらんねえ。というかもうやけくそだよ畜生、こうなったらやってやる。蛍のプレゼントになってやろうじゃないか。小間使いだろうが性奴だろうが何でもやってやるよ。

「OK、望みはよーく分かった。プレゼントになってやるよ、俺は蛍のプレゼントだ。さあ何をする、何をしても良いし、何処に連れ出しても良いぞ」

「何処にでも?」今までのスロウテンポな喋り方からは考えられないくらいの素早い所作で、蛍は俺に尋ねてきた。「本当に何処にでも連れて行ってくれるんですか?」

「――せめて地球圏にしてくれな」

 俺としての精一杯の冗句だったのだが、蛍は気にしてないようだった。

「分かりました。それでは映画館に行きましょう。それからデパートで買物をして、最後は一緒に美味しいご飯を食べに行くんです。では、善は急げ――ささ、るしふぁーさん、行きましょう」

「ちょ、ちょっと待て」どんな恐ろしいことをされるかと思ったら一緒に映画、買物、そして飯だと? そんなもの――。「そんなの家族や友達と一緒にいきゃ良いだろ。俺なんかを連れて回ったって面白くもなんともないぞ」

「両親は仕事で、今日は帰って来ません」呟きと共に覗く悲しげな表情は、蛍の顔に浮かぶ初めてのものだった。

「でも、友達くらいは――」

「いませんっ、そんなのっ!」

 一瞬、蛍の顔が悪魔のように歪んだ気がした。しかしそれでいて次の瞬間には、照れたようににこにこ笑い始めるのだ。溜息を吐く、単純で頭弱いだけだと思ったら、結構世間の荒波に揉まれて荒んでんじゃないか。ったく、やっぱ人間だ、ここは人間世界だ。仕事仕事――はん、仕事ね。全く、精の出るこった。子供を幸せにすることも忘れて働いて、しかも子供の為とかいって悦に浸ってんだろう。最低の両親だな。

 友人もいないらしい。まあ、あの見ていていらいらいするマイペースじゃ、誰だって苛めたくなるわな。はっきりいって、一番関わりたくないパターンだ。それでいて俺はもう、約束しちまった。だから俺は約束を守らなきゃいけない。いけない? さっさとここから逃げだしゃ良いじゃないか。人間の醜さや汚さなんてもううんざりさ、触れたくもないんだよ。どいつもこいつも、馬鹿みたいに不幸の坂道を転がり落ち続けながら実は幸せなんだと錯覚すらしてやがる。楽園追放の頃から、人間は神様に祈って縋って、人間人間人間だよ畜生がっ! こいつらは天使のように羽根もないから空も飛べないし直ぐに死んじまう。あまつさえ憎みあい、蔑みあい、殺し合い、あの世の入り口をゴタゴタさせやがる、ゴミ同然じゃねえか。こんなのを何で神様は後生大事にすんだよ。

 でも、どうして離れられないんだ?

 蛍、お前はどうして恨み一つ、憎しみ一つない笑顔が浮かべられるんだよ?

「さあ、行きましょう。今日は全部、私の奢りです。どーんと、大船に乗ったつもりでいて下さいね」

 さっきまでなら俺は、適当に茶化してただろう。でも、もうそんなことできなかった。こいつを笑うことが、俺は何時の間にかできなくなっていた。何もかもが愚かで、馬鹿馬鹿しくて、気違いめいて見える。蛍だってその範疇内だ。なのに何故、笑い飛ばせない、見下せない。成すがままになっている?

 こいつといると分からないことだらけだ。

 分かることと言えば、蛍の手が随分と暖かかったことだけだった。

4 ウィズ・ユー・フォーエヴァ

 結論から言えば、怖い怖い映画を観て、眺めるだけのショッピングに付き合って、飯を食って、それで俺の残りの時間は潰れた。時計を見るともう、三十分もない。蛍は相変わらず俺の手を握り、離そうとしない。俺のことをそんなに信頼してんのかよ、お前は基督教徒だから知ってんだろ? 俺がどのようにして人間を欺き楽園から追い払ったか。それをお前にしないとも限らないんだぞ。

 しかし、隣を歩く蛍はにこにこと俺の様子を伺っている――やりにくいったらありゃしない。俺は沈黙に耐え切れず、蛍に問いかけていた。

「俺となんかクリスマスの前日を過ごして楽しかったのかよ」

「ええ、とっても」

 蛍は白い息を吐きながらきっぱりと答えた。

「でも映画の時は怖い怖いって言って、殆ど映画観てなかったじゃねえかよ。あんなんで満足できたのか?」

「はい、怖かったけどとても楽しかったですっ」

「――デパートじゃ何も買わなかっただろう」

「でも、綺麗な服は見て回るだけで面白いんですよ」

 俺にはただただ退屈なだけだった。

「飯は貧相なハンバーガーのセットが二人前」

「でも、美味しかったじゃないですか」

 そう、人間世界のジャンクフードも意外といける。これは今回の地上行きで分かった数少ないことだ。で、一番わけの分からない奴が俺の目の前にいる。俺は思わず本音を口にしていた。

「お前は、馬鹿だ」

「ええ、よく言われます」

「――そういう意味じゃない。お前は可愛いんだから、もっと我侭言えば親だって一緒に居てくれる。友達だって、俺にやったように笑いかければ一発でできるに決まってるさ、俺が保証する。なんで俺なんだ? 見ず知らずの怪しい、文句ばっか垂れてる自称堕天使じゃないか」

 言っててこれほど虚しいことはないし、俺が俺の価値をこれほどまで貶めたのも初めてだった。何しろ傲慢の罪で地獄に叩き落された俺だ、自画自賛は慣れているが――くそ、こいつのせいだ。俺が俺であるためのものが、こいつのために全部消えていくじゃないか。そうしたら俺に何が残る? 恐ろしい、今まで考えなかったがそれはとても恐ろしいことじゃねえのか。俺が俺である為のものが無くなれば、俺は俺でなくなってしまう、冗談じゃない。

「でも、少なくとも側にいてくれました。私の側にいてくれました――私だけの天使でいてくれました。るしふぁーさん、歩き話もなんですからあそこのベンチに座りましょう」

 蛍は俺の手を強く引っ張り、強引に俺をベンチへと向かわせる。そこには今までの彼女には感じられなかった剥き出しの人間らしさ――そんなものが感じられた。

「ねえ、るしふぁーさん。天使は生きてて辛いことなんてあるんですか?」

「ふん、自慢じゃないがな。神様の右隣に居た時は、自分がどれだけ主を愛しているのか毎日毎日焦がれるほど考え、苦しんで苦しみ抜いてたよ。翼はその愛と苦しみで真っ赤に燃えてた――遥か昔のことさ」

 そう、忠実な天使でいる時の俺は喜びと共に激しい苦しさも感じていた。その苦しみ、更にはやがて寵愛を受けることとなる人間の嫉妬となり、遂には叛逆に至ったのだ。神様は俺に激しい稲光を浴びせ、地獄に叩き落した。俺がかどわかしたベルゼバやアスタロト、アバドンなんかも一緒くたにして地獄いき。一括りにしてサタンなんて呼ばれる始末。

「で、ごたごたあって地獄に落とされて。地獄は地獄で棲みにくくて叶わなくて、それでもまあ苦しいことばかりじゃなかった。神様の右隣に居た時には決して得られないものも得られたのかもしれない。それが何だかは分からないがな。で、何でそんなことを聞く?」

「天使には、悩みなんてないって思ってたからですね」

 蛍はにっこりと、しかしその唇は何かへの侮蔑で歪んでいた。その対象が俺でないことだけは、確かだったが。

「人間って、馬鹿ばかりです」

 と、蛍は表情を変えずにとんでもないことを口にする。

「誰も彼も頭が悪くて、常識に囚われてて救いようがないんですよ。子供は親の金で生きてるくせに、文句ばっかり言って向上しようとする努力すらしません。大人は大人で子供を見下して、所詮子供だから馬鹿だと思ってるんです。るしふぁーさん、私はですね、きっと天才なんですよ。アインシュタインがどこまで正しくて、どこまで間違ってるかちゃんと分かってます。フェルマーの最終定理を、少ない余白で証明する方法も知ってるんです。きっと、もう少ししたら私に分からないことなどなくなるでしょうね。天使や神様だって、きっと証明してしまうんです。るしふぁーさんのことだって、私はもう殆ど分かってるんですよ。貴方は誰よりも愛情が深いから、深く傷つかざるを得ない純粋な精神です。自分をどれだけ大きく見せようとしても、本当は自分がどれだけ小さいか知ってる存在です、違いますか?」

 少女の笑みはあくまでも純粋だった。それは理解という理解を超えたもの、多岐に渡る深い洞察と全てを見通す頭脳を持った人間の軽い戯れのようで――俺なんて軽く弄ばれていた。時代が時代なら、こいつはきっと神様の生まれ変わりという称号すら与えられただろう。しかし、科学万能が謳われている今の世では、蛍は単なる頭の弱い少女に過ぎない。生まれてきたのがちょっとばかり遅すぎたってやつだ。

 きっと最初から俺は蛍にとって、物珍しい観察対象でしかなかったのだ。海パン一丁で海辺に倒れている変な奴だから、ちょっとばかり情けをかけられたのだろう。

 ふん、どうせそうさ。こいつは嫌な女だろうって最初から思ってたんだよ――所詮、人間は人間だろうよ。お前も醜い人間さ、天使と同じくらい醜い存在だ、今分かったよ。

「そうだよそうだよ、お前の分析通り。俺はきっと馬鹿なんだろう、人間と同じくらいに馬鹿なんだろうよ」

「ですね。でも――」

 馬鹿だと言い切られたのに、俺は全くむかつかなかった。ベルゼバが同じことを言ったらお互いが半死にするくらいの殴り合いになると言うのにな。そして蛍は笑顔で、今度は蔑みの心の無い暖かい笑顔、俺が目を覚ました時に浮かべた最高の笑顔を見せてくれたんだ。

「でも、少なくとも側にいてくれました。私の側にいてくれました――私だけの天使でいてくれました」

 彼女は立ち上がり、両手を広げてみせた。くるくると寒空の中を舞い、そして空を手に掴もうと更に大きく広く。蛍はまるでその名前のように儚く、白いコートが水銀灯に照らされて弱々しく光っていた。その姿はおそれを抱くほど綺麗で、壊れそうだった。無邪気で、まるで雪を受け止めようとする子供のようだった。

 誰よりも大人びてみせたかと思えば、次の瞬間には誰よりも子供っぽく純粋で、目を離すのも怖いほどの脆弱な存在へと成り下がっていた。人間には彼女の複雑性など理解できないだろう。しかし俺には分かる。その両方ともが彼女なんだって。天才で、世の中を憎んでて、全てのものを侮蔑せずにはいられなく――それでいて愚鈍で、世の中を愛していて、全てのものを慈しまずにはいられない存在なんだ。

 そして何故、俺はこいつを見て苛々するのかようやく分かった。こいつはきっともう一人の俺だ、堕ちてしまわなかった俺だ。身を焦がすような愛情と相対する憎しみに身を焦がされながら、危ういバランスでこの世界に落とされたのだ。この腐敗と堕落の満ちる地上に。神の愛と憎しみを称え、それでも純粋な存在として在り続けているのだ。

 奇跡だった。

 奇跡を身に纏った少女が目の前にいた。

 でも、でもだよ。やっぱ俺は思うわけだ。そして神に叛逆したのと同じくらいの速さで蛍の元に駆け寄り、その身をぎゅうっと抱きしめた。その瞬間、俺達は恋に落ちたんだ。

「やっぱり、お前は馬鹿だ」

「ええ、よく言われます」

 馬鹿じゃないとやっていけない、こんな世界は間違ってる。彼女を遠ざけ、虐げ、孤独にしかしより純粋な存在に陥れている人間どもなんて間違っている。間違ってるんだ。

「畜生っ!」

 俺は思わず叫んでいた。ここまで蛍を理解しているのは俺だけなのに、俺は蛍を救えない。あと十分もしないうちに俺は消えてしまう。

 俺は無力にも、蛍を抱きしめることしかできないんだ。

 お互いの体温を感じていられる時間は刻一刻と迫っている。この一瞬が永遠になるのなら、俺は喜んで羽根を毟り、心臓だって抉り出してやるのに。それでも時は止まらない。白状するが二万年も生きてきて、時が足りないと思ったのはこれが初めてだった。だから俺は取り乱してた。何かしなければならないことは分かっているのに――。

 すると、不意に蛍は身体を離し、妙なことを聞いてきた。

「るしふぁーさんは――昔々、アダムとイヴを堕落させたんですよね」

「――っ、今はそんなことどうでも」

「答えてくださいっ!」

 蛍も時間がないのは分かっているのだろう、声からは余裕とスロウテンポが抜けていた。きっとその質問は彼女にとって大切なものに他ならないに違いない。俺は殊勝にも、彼女の問いに素直に答えたのさ。

「ああ、そうさ。俺が教えてやったのさ、禁断の果実の味を」

 たわわに実るそれは、人間に宿る完全性を知恵と感情とで不完全なものとする罠だった。そして暗黒サイドに引き込み、滅ぼそうとした。でも、そいつはとんでもない副作用を生んだ。お互いを愛おみ、新たな実を体内に宿す術だ。結局その為に人間は生み、増え、救いとは一番遠い所にいるのだ。遠い遠い昔の失楽園のお話、人間の最初の罪の話さ。俺はそのことを、実はずっと気にしていた。人間が結局、天使より下になったのか上になったのか。

 しかし、蛍はそんなこと考えてなかった。俺の瞳をじっと見据え、そしていけしゃあしゃあとこういってのけた。俺には思いもつかない、あの一言をだ。

「では、貴方のお陰で人と人は愛し合うようになったのですね」

 正直にいえばその言葉は、神様の稲光を浴びたよりもショックだったね。俺が成したことは人間に堕落ではなく、愛を広めたと。そう、蛍は言うんだ。荒唐無稽、そして反基督教的だ。使徒のくせにこいつは――。

 でも、俺はその時に初めて、救われた気持ちになった。神様やその従者達のどのような甘い言葉も俺のことを変えなかったのに、こいつはたった一言で俺を救ってくれたのさ。俺は改めて蛍を見つめ返した。やばかった、くらくら来た。俺は決してロリコンじゃないっていうのに、もう直視できないほど蛍のことを好きになってたんだ。

 そして、俺は自分の成すべきことを知った。俺のできることは、蛍に、俺の広めたところの愛を、誰よりも強く、愛しいという想いを込めて、伝えることだった。

 俺の覚悟を察したのか、蛍はすっと目を細めた。さあ、あいつは受け入れてるぞ。やるんだ、初心な餓鬼じゃないくせに、怖がるな、時間がないんだぞ、さあ、さあ――。

 二万年も生きてきたというのに、俺はその距離を零にする為に精神の全てを使い切ってしまった。自分が蛍の言うとおり、何よりも弱い存在であることを自覚しながら、俺は蛍に心からのキスを捧げたんだ。

 と同時にどこかで教会の鐘が鳴った。同じくして俺の意識も深い深い霧の中に落ちていく。目覚めたら地獄で借金取りに追われるなと考えつつ、最後に思い浮かべたのは蛍の顔と、そう言えば地上に似たような童話があったなあという感慨深い思いだけだった。

5 フォーエヴァ・ラヴ

 さて、目覚めるとここは地獄だった――筈なのに、目を開けると、蛍が目の前にいる。あれ、何でお前ここにいるんだよ。まさか俺を追って地獄に来たとか馬鹿なことじゃねえだろうな。

「――おい蛍、お前なんで地獄に来た?」

 俺は本気で怒ったたんだぜ。それなのに蛍と来たら、俺のことをまるで仕様の無い子供のように優しく微笑みかけるだけだった。

「ここはまだ地上ですよ。嘘吐き、クリスマスになったら消えるって言ったじゃないですか。それなのに、るしふぁーさんはまだここにいますよ。このことをどう説明するんですかっ!」

 はっきり言って、俺、一番、理解不能。

 辺りを見回すと、そこは俺と蛍がさっきまで座っていた公園とベンチで、俺はぐったりと横たわっていただけなんだよ。ったく、神様が回収し損ねたかね。

「分からん。蛍、お前天才なんだから考えてくれよ」

「うーん、私がですかー? 困りましたねえ」

 本気で困っているように見えるのだが、その頭の中ではびゅんびゅんとシナプスや電波がいきかっているのだろう。数秒後に蛍はぽんと手を叩いた。

「あ、きっとるしふぁーさんが私のプレゼントになったからですよ」

――何だって?

「サンタさんはいなくなっても、プレゼントはなくならないでしょう? それと同じで、サンタはいなくなるけどプレゼントになったるしふぁーさんはなくならなかったんですよ」

 おお成程、って良いのかよそんなアバウトで。天使足りないんだろ? 勝手に減らしたら来年てんてこまいだぞ。そんなことを心配していたが、直ぐに瑣末事へと落とし込むような事態が勃発した。蛍がぽろぽろ涙を流してるではないか。

 俺はぎゅっと蛍を抱きしめてやった。何しろプレゼントだというのに、ロクなことしてやれなかったからな。せめてこれくらいのことはしないと、元サンタの名折れって奴だ、そうだろう? それに泣いてる蛍を見るのが初めてで動転したってこともある。

「ほらほら、泣くな泣くな」

「泣いてないです、これは心の汗ですっ!」

 俺の言い訳ぱくりやがった。まあ、良いか。蛍が言うのなら涙じゃなく汗なんだろう。それで良い、蛍はいつも正しい。俺の中の法則その一、今決定。

 それにしてもなんだまあ、べたなドラマの最終回みたいなオチだなあ。奇跡が起きて俺、人間になって終わり? めでたしめでたし? そんな馬鹿な、きっと何か裏があるに決まってる。それに、愚かな人間の一員となって暮らしてかなきゃいけない。となりゃあ結構、ヘヴィなんじゃないのか?

 でもまあ良いか。取りあえずは蛍が側にいて、抱きしめてるだけで本望さ。トラブルなんてそれから考える、今までの俺だってそうだったじゃないか。

 だから叫ぼう、愛の言葉を。幸い、今日はクリスマス。人間どもが愛を交し合う日だ。だから俺もまあ、人間のやり方に従ってみようじゃないか。

 俺は夜空の公園に声を響かせた。

「蛍ーーっ! 愛してるぞーーっ!」

 そして彼女は耳を近づけないくらいと分からないくらいの小さな声で、照れながら言ってくれたんだ。

「私もです」

――ってな。

[THE END OF "SYMPATHY FOR THE DEVIL FOREVER"]


[あとがき]

どうでしたでしょうか。クリスマス特別企画として、ジョン=ミルトン著『失楽園』の二次創作小説『聖夜に捧げる堕天使の物語』をお送りしました。

↑いや、上記は嘘ですが、こういう荒唐無稽なサンタクロースのラヴ・コメディがあっても良いのではないでしょうか?

えっ、これの何処がラヴコメですって?

――愛があれば(断言っ

ともあれ、クリスマスのネタとしてはとびきり冒涜的だったとは思います。色々と幸せなものに込められた怨念がひしひしと伝わってくることでしょう、フフフ。

それでは、縁があればまた別の物語でお会いしましょう。

[TO ORIGINAL INDEX] [TO STORY INDEX]