プロローグ 天使との再会と別離

1 6つの断片

First Fragment

暗闇だけが、私の周りを鬱屈と包み込んでいた。光の一筋さえも見えない、宇宙空間にも似た光景が眼前を満たしている。足元が地面かどうかも覚束なく、重力があるのかも分からない場所。そんな場所に、私は立っていた。

今までずっと、涙が流れそうになるのを抑えて耐えていた痛みがなくなっていた。胸を、体を、手足を、全身を万力で押し潰すかのような苦痛が苛んでいたのに。まるで液体窒素で瞬間冷却したみたいに、痛みはぴたりと止んでいた。変わりに広がる、見たこともない別世界。暗黒の園、恐怖の源泉。

私は直感的に理解した。これは、死の情景だ。連綿と続く死という場所に、私は今存在しているのだ。そう意識した瞬間、体が無意識の震えで包まれた。目に見えぬ病魔に怯えていた頃の、それは比ではなかった。もし、私が死んでもそれは安らぎにも似た場所に辿り着くのだと思ってた。しかし、死に安らぎなどなかった。

これから私はどうなるのだろう。ずっと、死んだ人間は永遠にこの場所に存在して行かなければならないのだろうか。それとも、何処かに別の場所があって、この場所はその通過点に過ぎないのだろうか? それを確かめたくて、私は暗闇の中を我武者羅に走った。走りながら、どこにいるかもしれない誰かに向けて大声で叫んでいた。

「誰か、誰かいませんか? 私と同じで、この場所に来ている人を知りませんか?」

しかし、木霊すら返らない空間では声を出すのも虚しいことのように思えた。当然のように、声の波は四方八方、どこをも震わすことはない。

どのくらいの時間が経っただろう。いつまで経っても助けどころか、存在の一つも感じられないに至って、錆び付いていた感情が爆発的に悲しさへと転化した。

「そんな……こんな場所で、一人寂しく永遠に生きていかないといけないんですか? やだ、そんなのやだよ、誰か、誰か助けて……お姉ちゃん、お姉ちゃん……」

一度涙が出ると、それは留まるところを知らず頬を伝い、何処へともなく流れ落ちていく。もう二度と死ぬことのないこの体は、再び死ぬことはない。永遠は永遠としてその完全性を崩すことはない。急速に反転していく精神を、もう一つの私は自覚できてる。本能的に思った。ここに来たら、狂っちゃうのが普通なんだって。

だって、狂ってでもないととてもこの孤独に耐えられない。一人でいることが寂しくないくらい、狂ってしまうしかないのだ。何もかも忘れて、白痴な笑いを浮かべてるしかない。徐々に高鳴る羽虫のような耳鳴りは、きっと私の頭を全部書き換えてる、小さな小さな虫の活動している音なんだと思う。

「……ぇ」

強烈な音に混じり、微かに人の声が聞こえた。でも、多分それは空耳だろう。ここに人がいないということもまた、直感的に分かってる。

「ねえ、ちょっと聞いてるの? ねえ!」

しかし、幻聴にしてはやけに大きな……っ、どうやら幻視症状まででてきたらしい。もう一歩で、私もおしまいなのかな? と思った瞬間、ぱちーんという大きな音と共に、頬に激しい痛みが走った。

「そうやって、闇に身を委ねると本当に死んじゃうよ、それでも良いの?」

声はなおも私に訴えかける。兎の耳を持った10歳くらいの少女が、私を鋭い目で睨みながら二撃目の平手を構えてる。余りに変な光景で、まだ幻視かと疑ったくらいだけど、痛みも本物みたいだったから、ようやく現実の続きだって気付いた。

「あ、えっと……ええ、良く分かりませんけど、すいません」

私がぺこりと頭を下げると、兎少女は優しげな微笑を浮かべた。これで懐中時計を持っていたら「不思議の国のアリス」に出てくる時間兎だなと思い、微笑ましい気分が湧いてきた。

「良かった、正気に戻ったんだね。ここで闇と同化してしまったら、本当に死ぬところだったんだよ」

「闇と同化する?」

「うん。ここは生と死の狭間の世界なの。ここで、死んだ人間たちは生きていた頃の記憶を心地よい闇の中で全部漂白されてしまうの。そして、漂白された魂は、次の輪廻の輪の材料になるんだ。もっとも、輪廻の輪は過去やら未来やらぐちゃぐちゃに絡まってるから、何処に飛ばされるか分からないけど」

兎少女の語った内容は、私には酷く恐ろしいもののように思えた。よく基督教には、天国とかそういう話があるけど、実際には死に至る過程は残酷の一文字しかないようだった。そのことを少女に話すと、少し皮肉な調子で言葉を続けた。

「天国なんて価値観は、宗教が手っ取り早く人間を従えさせる陳腐なものだよ。本能的に、人間は死が恐いのを知ってる。何しろ狂わされた挙句、全てを失っちゃうんだから。宗教はそれに浸け込んで私腹を肥やす詐欺師ばかり。特に一神教、キリスト教はその中でも一番酷いよね。イエスなんて貧相なおっさんの元に、一体どれだけの善良な神や存在が悪魔の烙印を押されてきたか。宗教虐殺、宗教犯罪、異端者狩り、彼らが犯してきたものは限りなく際限なく、そして心底愚かなんだよ。時代が時代なら私も魔女として狩られ、異端審問官なんていう宗教のかさを来たサディストどもに惨殺されてると思うけどね」

私は目の前の少女から紡がれる大人びた、そして最大限の皮肉のこもった知識に目を正しく点にして聞き入るしかなかった。そういえば、誰も入り得ようのない筈のこの場所に存在するというだけでも充分不思議なのに……。

「あ、あなたは一体、何者なんですか?」

「何者、ねえ……ちょっと説明するのは難しいんだよ。仲間では私のことを『言葉』って呼んでる。強いて名前で呼びたいのなら……美坂栞とでも呼んだら良いよ」

「それ、私の名前じゃないですか!」

少女のあどけない、しかし皮肉で苦みたっぷりな口から発せられた言葉は、私を怒らせるには充分だった。けど、少女は悪びれる様子もなく言ってのけた。

「同じだよ。だって、私と君は一つになるんだから」

「一つにって、どういうことですか?」

少女はその質問には答えず、逆に私に向けて一つの質問を飛ばしてきた。

「君は、この世に未練があるかい?」

「えっ……? はい、ええ、勿論ありますけど。全てを失って、このまま消えてしまうのは恐い……本当に恐いです」

「そうだね、この心地よい筈の闇を恐がるってことはそうなんだろうね。正直を言うと私も恐いよ。だから恐い者同士、私と君は一つになる必要がある。私だけじゃ駄目だし、君だけでも駄目。でも、二人の力が合わされば、君だけはこの世に生き続けられるし、私はたまたまそういう力を持ってるんだよ。だから、君に残されてる選択肢は二つだけ。二人して永遠にこの世界に漂い続けるか、私と一つになってここでの全てのことを忘れ、現実の世界で生き続けるか……まあ、敢えて選ぶようなことじゃないと思うよ」

砕けた口調だが、私の心には少しだけ希望という思いが滲んでいた。どうしてかは分からないけど、目の前の少女が嘘を言っているとは思えなかったから。けど、そこで一つの疑問がわく。私は現実世界に戻れたとして、少女の方はどうなるんだろうか。もしかして、二重人格みたいになるとか……。

そんな疑問を見て取ったのか、少女はにこやかな表情を浮かべて喋り始める。

「大丈夫、私は君には干渉しないよ。元々、深く傷付いてるからそんなことできないけどね。うん、そうだね。私がこの世に生命を……仮初めのものであれ受けたのは、多分このためだったんだよ。だから、大丈夫」

少女は兎の耳を僅かに揺らすと、華奢で小さな手を差し伸べる。

「私に任せて、ね」

その瞳は、私に魔法をかけたみたいだった。疑うこともなく、私は自分の手を差し伸べ……そして、世界は急激に白転していった。

「じゃあね、ちょっとの間だったけど、楽しかったよ」

白濁する意識のなかで、僅かにそんな声が聞こえたような気がした。

Second Fragment

完全なる蒼が、眼前を占領している。染料でも流し込んだかのような、深く深く、希望の一欠けらすら見えない完璧な蒼。あたしは今、そこに立ってる。

何故、蒼い空が世界を満たしているのかは分からない。最初からそうだったのかもしれないし、ごく最近からこうなのかもしれない。ただ一つだけ分かるのは、それが死に限りな近い色だということだった。死の色は、あたしにとっていつも果てしなく広がる雲一つない青空なのだ。根拠はないけど、そんな気がした。

かつても、絶望に打ちひしがれながら同じ色の空を眺めていたような気がする。目の前で、大切な人が死んで(それが誰かも何かも思い出せないけど)ゆく姿をあたしは確かに目の当たりにしていた。白、緑、橙、そんな全ての色が命を押し潰す光景。何故、そんな理不尽な光景なのかは分からない。これはイメージ。死とは濃い闇のような蒼で、その執行者は白や緑や橙の従者。

耳ざわりな音がする。

ちりん……。

やめて、その音を出さないで。

ちりん……。

お願いだから、その音をやめてよっ! その音を聞くと、思い出したくないことばかり思い出しちゃう。思い出したくないの、だから放っておいてっ!

ぱんっ、ぱんっ、ぱんっ……。

いやあっ、その音はもっと嫌あっ。恐い、恐い……誰か助けてよ。お願い、じゃないと……じゃないと……。

ぱんっ、ぱんっ、ぱんっ……。

音がする。それは、………さんを殺していく音……。

「やめてええええええええええっっ!!」

あたしは目の前の惨劇を止めたくて、ありったけの声を出して叫んだ。けど、その音はどこにも響き渡ることなくどこかへ消えていく。

必死で息を荒げ、あたしは体全体に広がる脱力感を追い出そうと何度も深呼吸した。けど、悲しい気持ちが後から後から湧いてきて、とても元気にはなれなかった。第一、私は今、とても変な場所にいた。全身、蒼に包まれた奇妙な世界。記憶も心もなんもなくて、名前すらも忘れてずっと一人でこんなところにいる。

一日かもしれないし、もう一ヶ月や一年が経ってるのかもしれない。それ以上の数となると、あたしは覚えてない。思ってることを満足に喋ることもできない。奇妙な微熱が体を包み、辛くてしょうがない。今すぐ、完璧な蒼に身を包まれればとても楽になれるのだろう。けど、何故かそんな気にならない。あたしはこの場所にいなければならない、そしてここを出られる望みにかけなくちゃいけない。理由はわからないけど、そんな思いだけが消えそうな体を孤独な世界に保っていた。

泣こうにも、涙を流す理由さえも思いつかない。とても悲しいことがあったのだ、そしてとても楽しいこともあった。あたしはどちらのために生き、そしてしぶとくここに有り続けているのか分からない。どっちなんだろう? どっちなんだろう?

まあ、いっか。まだ時間はもう少しあるみたいだから、ゆっくりと考えよう。そんなことを考えたあたしの前に、何故か兎の耳を被った少女が立っていた。

「こんにちは、知らない人」

聞き取れるか聞き取れないかの微かな声で、少女は表情一つ変えずにいった。私は、いきなり兎の少女が現れたことに驚きが隠せないでいた。何とか、

「あ、うん、こんにちは」

と言葉を返せたくらいだ。すると少女は分かるか分からないかの曖昧な笑顔を浮かべ、私の手を取った。

「良かった、見つかった」

「見つかったって、あたしのことを探してたって言うの?」

こんな場所に、あたしなんかを探しに来る人なんているんだろうか? しぶとく生きたいと思っていたのは事実だけど、それが多分叶わないだろうこともまたどこかで、理解していたからだ。

「うん……正確には違うけど、ここでこうして出会えたってことはあなたがその探している人なんだと思うよ」

少女は、また意味の分からないことを言う。あたしは記憶もないし、馬鹿だからあまり難しいことを言われると分からなくなる。

「私の、いや私たちの因果律の最も近しい場所の一つにあなたがいたということだから。だから、あなたは探しものの一つ。それが、力を持っていたものの望みなの。周りが少しでも幸せになるようにと、力をふるった……彼女らしいよね」

彼女? って一体、誰だろう? 大体、目の前にいる人物は誰だろう?

「あたしには訳が分からないよ。それに第一、君は誰なの?」

首を傾げながら訊ねると、少女は少しだけ考えてから意味不明の答えを返した。

「えっと、私たちの中では『記憶』って呼ばれてる」

キオク……その名前に、私はある種の期待を感じた。

「記憶ってことは、もしかして君があたしの無くなった記憶を知ってるってこと?」

しかし、少女は寂しげに首を振るのみだった。

「ううん。私の記憶はただ、私の記憶しか持ってないから。でも、その手助けはできるかもしれない。私は『記憶』だから」 「本当? それって、どうやってやるの?」 「簡単。私と一つになるの。生きたいって強く思ってるなら、簡単にできるから。あなたは、本当に生きたいって願ってる?」

そう言われて、あたしは即座に肯いた。理由は分からないけど、あたしには生きてやらなければならないことがあるような気がする。生きていて、幸せだったような気がする。だから、私は大声で訴えた。

「思ってる。君と一つになれば良いの? もう一度、生きていられるならあたしは……お願いだから」

涙が零れる。長い間、悲しいことばかり思い出してたのに流れなかった涙が、頬を幾筋も伝って落ちていく。

「泣かないで。じゃあ行こう、あなたが待ってる世界に。幸せが沢山ある世界に。辛いこともあるかもしれないけど、あなたならきっと希望を失わずに生きていけるよ。もう会うことはないと思うけど、私はあなたの側にずっといるから」

その瞬間、蒼に包まれていた世界は粉々に砕け散った。

Third Fragment

紅い、紅い世界の終わりだった。夕焼けよりも紅い、ルビーを辺り一面に散らしたような無機質な紅が全てを満たしていた。目の前には、無残に切り倒された大木の面影がある。ボクのせいで、命を断たれてしまった可哀想な木。

「ごめんね、ボクのせいで……ごめんね……」

涙は強い風と共に流れ、冬の光景へと消えていった。その一滴が硝子玉のように光り、刹那虹色の輝きをみせた。けど、それはもうない。まるで、ボクのことを現しているようだった。

そう、今ならボクは理解してる。祐一くんと走り回り、騒いだり、ご飯を一緒に食べたり、映画も見に行った楽しい日々。それは、ボクという名の幻想の中にしか存在しなかった。最後の命の煌きが、ボクに楽しい夢を見せてくれただけなんだ。

だから、最後はこの場所に戻って来たんだ。ボクが、七年前、木から落ちた場所。祐一くんの前で、血に塗れた世界を初めて体験したあの日。墜落、そして鳥になったかのような素敵な浮遊感は、次に衝撃と痛みに変わった。

呆然と、けど悲しい顔でボクを見つめる祐一くん。その時、約束したよね。あの約束、守りたかったけど、本当に守りたかったけど駄目だったみたい。

「もう、消えるのかな?」

世界は、徐々に薄まりつつあった。全てが紅に包まれると、もうすぐボクは死ぬのかもしれない。でも、しょうがないよね……ボク、本当はもっと早くこうなる運命だったんだから。でも、もしも願いが叶うなら夢と同じように祐一くんと遊びたかったな。

一日中、はしゃぎまわって、へとへとになるくらい走り回って。

疲れ切った体ととっておきの笑顔で、ボクは言うんだ。

祐一くん、また明日ねって。

そんなことを考えてると、唐突に悲しくなってきた。覚悟はしてたのに、涙が溢れてしょうがなかった。ボクは、思わず叫んでた。

「やだ、いやだ。ボク、もう一度祐一くんと会いたかった。あって、一緒に鯛焼きを食べたかったのに。約束、まだ叶えてないのに、嘘つきになっちゃうよ……」

「そう、あなたもずっと待ってたんだ」

みっともなく泣いてる僕の前に、いきなりそんな言葉が返ってくる。ボクは何とか涙を堪えると、その少女に声をかけた。

「うぐっ……キミは、誰? もしかして、天使さん?」

兎の耳をつけてるし、羽根もないけどボクにはその少女がまるで天使に見えた。

けど、少女は首を振った。

「違うよ。えっと、名前……一応、私たちの間では『命』って呼ばれてる。どうして私がそう呼ばれるのかは分からないけど。それで、月宮さんだよね? じゃあ、君もそうなんだ。彼女の望む世界の一つに、君は含まれてるんだ。だから、私は君を救うことができると思う」

「本当? じゃあ、もう一度走ったり鯛焼きを食べたりできるの?」

「うん。ただ、そのためには私と一つになるっていう条件があるけど。私、今は深い傷を負ってるから、でもあなたの命を現実の世界に戻すことはできると思う」

「それって、どうやってやるの?」

「簡単だよ。ただ、生きたいって強く祈って私の手を握ってくれれば良いから」

「うん、分かったよ。でも、キミは消えてしまうんじゃないの?」

少女の口調から考えると、そうじゃないかって思った。もう一度、この世界に戻れるのは嬉しいけど、それで誰かが犠牲になるのは嫌だと思ったから。

「それは平気。私は元々、この世界に生まれてくる存在じゃなかったから。それに、今から考えれば私はそのために生まれてきたような気もするの。だから、気にしないで。それに表には出ないけど、私はずっとあなたのそばにいるから」

よく分からなかった。少女は、そんなボクの手を強く握りしめ、そして言ってくれた。

「さあ、祈って。君は、まだ生きなくてはいけないんだよ」

暖かい手、安らぐ手。そんな温もりに包まれて、私は即座に理解した。ああ、一つになるってこういうことなんだなって。だから、ボクは祈った。沢山、祈った。もう一度、祐一くんのいる世界に戻れますようにって、祈ったんだ。

そして、長い長い紅の季節は終わりを告げた。

Fourth Fragment

黄金色の聖域こそが、私の存在する全てだった。いつまでもいつまでも、来るものをただ待ち、魔物を追いかけ狩り続ける日々。それだけのために生きていた。

腹部が痛む。自分で自分に剣を突き刺したのだから、当然だろう。けど、これでもう苦しむものは誰もいない。誰も、他の者を傷つけることはないのだ。

「本当に……そう思ってる?」

霞む私の視界に辛うじて入ってきたのは、私と同じように兎の耳当てをつけた少女だった。そして、私はその正体を知っている。私が魔物と呼んで、追い掛け回していた存在だ。私が死んでも、まだ彼女は居続けるのだろうか?

「ううん、そんなことはないよ。私ももう、限界だもの」

私の心を読んだのか、相手はそう答えを返す。

「それよりも、あなたは本当にそう思ってる? 舞が死ねば、誰も傷付かないとでも思ってるの? 佐祐理も祐一もきっと悲しむよ」

「……そうだと思う。けど、人間なんていつか忘れる。私が魔物を狩る意味を半分忘れてたように、祐一が私のことを忘れてたように。私のことも……何れ忘れる」

三人が一緒でいる時が楽しいと思ったこともあった。けど、佐祐理が傷付き祐一が酷い目に合い、尚且つ厄病の原因である自分が生きていてはいけないのだ。私の存在は、きっと誰かを傷つける。これまでも、そしてこれからも。それに……祐一と佐祐理なら大丈夫だろう。

「だから、舞は死ぬんだね」

私の心を読んだのか、彼女は言う。彼女もまた私なのだから、それは容易いということなのだろうか? きっとそうだろう。

「……死ぬ。私の罪は、死をもってだけ償われるから」

「違うよ。どんな罪だって、死んで償えるような罪なんてないんだから。ただ、罪を受けた人間が、ざまをみろといって胸を撫で下ろすだけ。でも、あなたにざまをみろと蔑む人がいる? 祐一や佐祐理がそんなことをするの? 舞は二人をそんな冷たい存在としか捉えてなかったの?」

「そんなことはない!!」

叫び声は、殆ど声にならず腹の痛みへと消えた。でも、私は祐一と佐祐理のことを大事な親友だと思ってる。けど……、やっぱり駄目だ。

「……駄目。貴方なら、私の力を知ってる。私の力の一部なんだから。だから、私が力を持ってこの世に存在することの危険なことも知ってる筈」

「知ってるよ、多分、舞以上に。私が……いや、私たちがどれだけ危険なのか。子供の頃、母親が生き返れば良いと思った。そして、その願いは叶えられたよね。子供の頃、魔物が生まれれば良いと思った。そして、その願いは叶えられたよね。思ったことを全て創造し、そして破壊できる。きっと、舞が祈れば全ての人間が平和に暮らすことができる。舞が怒れば、全ての存在を破壊することができる。それがどういうことか、分かってるよね」

私は小さく肯いた。例えば、ほんの気紛れで私を取り巻く世界が嫌いだと思ってしまえば、本当にそうなるかもしれない。人間は存在を思考するだけだが、私は思考で存在をすることができる。子供の頃は、単純に強い力だとしか思ってなかったけど。

「……そう。だから、私はいたら危険。いるだけで、危険なんだ」

「そうだね。私たちを捨てても、結局、何の意味もなかった。舞は周りの人を傷つけてばかり。でもね、それは私たちを魔物と規定したからなんだよ。私たちはプログラム、悲しいプログラム。舞のために、ただ魔物となって戦う力の欠片。それは、舞が力を間違った方向で使ったから。けど、私は舞のこと、恨んでるけどその半面でとても優しい人だってことも分かってる。だって、私は舞の一部だから。

だから、本当はその力をどう使うべきなのかも本当は知ってると思う。私を拒絶することじゃない選択が、正しいことだって知ってると思う」

そうなのだろうか? 私がまた力を得てもやることなんてない。強いて言えば、私と私の周りにいる人間が幸せであるようにと祈るだけだ。

「それで良いんだよ。そして、それは私がいてもいなくてもできる。けど、舞がいなければそれはできないんだよ。言ってる意味、分かる?」

分かる、ような気がする。

「……だから、私に生きろと言うのか?」

祐一と佐祐理がいれば、私はこの世界を憎むことはないだろう。誰も、憎むことはないだろう。多分、少しばかりの喧嘩はすると思う。祐一は馬鹿だから。けど、そんな世界なら私は生きていたい。そんな場所を、私は望みたい。

「……祐一と佐祐理と、私はいても良いのか?」

「うん」

少女は、ありったけの笑顔で答えた。だから、私は彼女を受け入れることができた。私が彼女の手を取ると、弱々しい力で抱きついてきた。

「十年ぶり、なんだね。舞、本当は私、悲しかった。舞と離れててとても悲しかった」

少女は涙を流すことはなかったが、私には泣いてるように思えた。だから、ずっと私は彼女の、まいの頭を撫で続けた。その身体は、すうっと溶け込むようにして私の中に入り込んでいく。昔、少しだけみたアニメのように……。

黄金色の風景は、ようやく十年という時を取り戻そうとしていた。『心』は、私と共に世界を歩むのだ。そして、私は祈った。今度こそ、私と私の周りにいる人たちが幸せになれますように、と。

Fifth Fragment

白い、痛い、寒い。

絶望という、隔離された空間だけが依然として私を苛み続けている。入り口も出口もなく、希望も真実もなく、ただ白に覆われた世界だけが全てを満たしている。それは、かつてこいつが抱いていた絶望の檻だった。

救われることなく、
癒されることなく、
己のことを責め続ける世界。

私は、他の奴らと違って完全に同化してしまうのは嫌だった。『力』として生まれた私だから、それを行使することは当然のことだ。けど、うかつだった。こちらが精神をいただくには、こいつの傷は浅すぎたのだ。結果、運悪くこんなところに閉じ込められた。

畜生。どうして私だけがこんな目に合わないといけないんだ。他の奴らは幸せに生きてるっていうのに、私だけ終わりない遊戯の内で永遠とも続く追いかけっこを繰り返している。

気が狂いそうだった。こんな世界なんて、壊れてしまえば良いんだ。この世界だけじゃない。全ての世界が私を拒んでいる。

だったら。

壊してしまえば良い。

簡単だ。

とても、簡単なことだ。

そのためには、何としてでもここを出てやる。隙をついて、ここから抜け出してやる。その方法は……そう、私は『力』なのだ。

求める時に、それは生まれる。

Sixth Fragment

十年前、一つの館が建てられた。

新鋭の実力派デザイナによって設計されたこの館は、その形と庭園の樹木の配置によって四枚の羽根を形作っていた。

西洋風ゴシック建築を元にした、シンメトリィを保ったその館の門をくぐると、玄関上方に羽根の生えた四枚の天使像を見ることができる。その左右対称性を崩さぬよう、天使は両の手に同じ槍を持ち、聖刻の穿たれた鎧を纏い下界を厳然と見下ろしている。

中に入ると、白を基調とした絨毯と豪奢なシャンデリア、そして左右奥に延びた通路と階段とが入ったものの目を釘付けにする。しかし、それ以上に目を引いたのが、一枚の絵だった。

そこには玄関の天使像によく似た絵が描かれていた。天使は四つの惨劇を怜悧な目で見据え、その背後には更なる大きな存在の影が不吉なまでに覆っていた。一番左には大地に縛り付けられ、片方の羽根をもがれた天使が鎖によって大地に戒められていた。

のみならず、その身体は首に刺された剣によっても戒められていた。その剣は、同時に多くの人間をも穿ち貫き重ね、それが黄土色を基調とした土色の光景に更なる死を沿えていた。

その隣には、紫色に濁った水を飲み悶絶する天使の姿があった。沢山の人間がその水を飲み、同時に地獄のような苦しみを称えている。その雨も川に注いだ水と同じ毒の色をしており、打たれたものを容赦なく苛んでいた。

その隣には、空が不可思議な球形によって満たされているのが分かった。天使はその球形に押し潰され、空に逃れたものたちもまた、全員死んでいた。

一番右には、業火に身を焼かれ崩れ落ちる四番目の天使の姿があった。建物に逃れた人間も同時に燃やし尽くされ、街は完膚なきまでに叩き潰されていた。その左右両端には、雄雄しい表情の天使が矢を携え、粛々とそれを放っていた。

その絵のタイトルは天使の消える街。

約100年前、基督教絵師によって描かれた一枚の黙示録画。

この絵に、人を狂わす不吉な力があったのか、
或いは、館にその力があったのか、
単に偶然が重なっただけなのか、
それは誰にも分からない。

館を抜け、更に奥へと進むとそこには規則正しく並べられた樹木と中心に据えられた噴水がある。そしてその一番奥には、大きな墓碑が立っていた。周りには墓の眠り主であった女性の好きな、メイフラワーが咲き誇っている。

死者が何を思っていたのか、それは分からない。墓碑銘には、ただ名前と生涯にカウントされた年齢が掘り込まれていた。墓碑銘に刻む言葉はただ、無。何も、語りはしない。

ただ、辺りを覆う花だけが初夏の風に吹かれ、ささやかに揺れていた……。


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