Air 二次創作小説
空の名前
十年前のあの夏に捧げる
さよならをした世界での、往人と美凪のその後。
逃げ出した世界での遠い未来、終末に射す奇跡のような夏。
二つの『美凪の世界』が織り成す三つの物語。
交錯するはずのないものたちが微かに交わったとき、訪れる小さな救いのお話。
うらびれた港町での不思議な体験も今は遠く、国崎往人は淡々と旅を続けていた。
そんなおり、ふらりと立ち寄った町で、往人は目と耳を疑うようなものと出会う。
「みちる」と同じ読みの「満流」という、うり二つの少女。
この出会いは偶然なのか、それともある種の運命なのか。
そのことを確かめるため、往人は家の素性を探ることを決意する。
彼はまだ、己の旅が最後に差しかかっていることを知らない……。
遠い未来、地球は正体不明の現象にさらされていた。
夏だけを覆う絶望的な暗闇、そこから降り注ぐ、人間だけを苦しめる黒い羽根。
2012年に始まった闇と羽根は人類に大きな疲弊をもたらしていた。
50年ものあいだ続く現象のため、世界から夏が忘れ去られようとしたある日。
これもまた唐突に、夏の太陽が世界を照らし始めた。
夏の復活なのか、それとも最後の夏なのか。
国崎雪人は祖父である往人譲りの気質に衝き動かされ、夏の冒険に飛び出すのだった。
みちるとさよならをし、往人を見送った美凪は、その帰り道に神尾美鈴と出会う。
美凪は弱い自分から一歩踏み出すため、密かに気にしていた彼女と友達になることを決意する。
「また明日」の約束で別れた彼女にはだから、全く新しい日々が始まるはずだった。
しかし観鈴はその場に現れることなく、後日、見知らぬ車に連れて行かれる彼女を目撃する。
よすがを失った美凪は、弱さに苛まれ、過去に囚われ、妄想に怯える日々を送り始める。
そうして二ヶ月が経ったある秋の日、美凪は「観鈴」と唐突な再会を果たす。
彼女の存在を通して美凪は己の心と再度、対峙することになるのだった。
俺は普段、それなりに人のいる町を縫って旅をしている。他人の目が怖くないからだし、住民たちはどこの誰かも分からない輩を無視する術に長けている。人情をかけられるほうが逆に困る。そんなことはとうの昔に分かっていたはずなのに、俺はつい最近、人情が通用するほど人の少ない町に赴いてしまった。
あの町を訪れたのは完全に気の迷いだった。あるいは逃避だった。
酒に酔った背広姿の会社員に芸で生きることを散々にけなされ、挙げ句の果てには就職もできないのは人間の屑だなどと説教されたからだ。それなのに夏目漱石の印刷された紙を一枚、捻ってくれただけでへらへらと笑うことしかできなかった。その日の夜、吐き気のするような嫌悪感に襲われた。実際に少しだけ吐いた。生きることへの誇りはそんなにないけれど、人形劇だけは例外だった。
人情のある場所ならば、俺の劇をきちんと観てくれる奴がいると思った。結論から言えばそれは間違いだったし、間違いでなかったとも言える。そこいらの餓鬼は俺の人形を思い切り蹴り飛ばした反面、純真そうな女子学生が片手で数える程度だが、きちんと観てくれた。
「生米抱えて旅をするわけにはいかないけどな」彼女がお捻り? などでくれたお米券は鞄の一番底にある。いざとなれば換券ショップで売ることもできるが、そうするつもりはなかった。「俺はもしかすると未練がましいのかもしれない」
旅暮らしだったから執着のない生き方をするしかなかった。そのうち俺にはさして執着心がないと考えるようになったけれど、あの町のこと、特に美凪とみちるのことはたまに考える。俺の力と同じくらいに不思議な体験をしたからだ。
何かを想い過ぎれば、現れるものだ。力の副作用かもしれないけれど、俺は稀にそういったものを視る。みちるほどはっきりとして、他者の認識が可能なものは初めて見たけれど、幻でもいて欲しいという気持ちを誰もが持っている。俺は執着心のない奴だから、みちるを引きずっている美凪を見ているのが辛かった。これから死ぬまでずっと抱え続けるのはあまりにも残酷に思えた。俺は無責任と分かっていながら、美凪を励ました。過去と対峙するよう少しだけ促したのだ。
みちるのいない残酷な現実と、みちるのいる幸福な幻想。もしかすると後者のほうが良いのかもしれない。だが、俺は何かに縛られ続けて生きる辛さを知っていた。美凪には俺と同じになって欲しくなかった。
「俺は旅に生きることを、辛いと感じていたんだな」母の遺言と己の力に従い、放浪して生きるのは当然だと考えていたはずだ。青春を謳歌することはできなかったけれど、些細なことだと切り捨てた。「俺はずっと、翼を持つものを求めてきた。どこにいるのかも分からない幻想を、疑いながら迷いながらも追い求めてきた。それが力を持つものの役割であると母から言われてきたし、流れる生き方は魅力的だった」
あの駅で暮らすうち、変わってしまったのだ。一所にいる心地良さを知ってしまったから、俺は最早迷わずには旅を進められない。
思考の行き場に困り、俺は鰯の群れめいた雲のかかる秋の空をじっと見つめる。寄る辺なくぼんやりと過ごすのには慣れている。
神尾さんが移転療養のために引っ越したことを、わたしは新学期最初の朝礼で聞かされました。覚悟はしていたのですが、公式の場で聞かされると予想以上の動揺がはしりました。
教室は一瞬だけ騒がしくなり、すぐにひそひそ声へと変わりました。休みがちであった理由への合点が主でしたが、もっと暗いことを囁きあっている女子もいました。無視、悪戯、中傷、その他諸々。いなくなってせいせいしたとある女子生徒が言い、同じグループの女子が皆で頷き合いました。
クラスの中で神尾さんの安否をほんの少しだけでも気にしたのはわたしだけのようでした。そのわたしとて、純粋に心配しているわけではありません。あの日の光景を目にしていたから、たまたま気になっていただけのことです。それに、わたしは彼女のことを密かに怖れていました。国崎さんと仲が良かったからです。
男は素直で純情な女に惹かれると言います。神尾さんは可愛らしく天真爛漫な娘でした。対するわたしは愛想がなく、言葉の巡りも遅く、噂が確かならば真性の変人なのだそうです。
頭が良い、顔も綺麗、スタイルも良い、なのにいつもむすりとしてただ一人、友達を作ることなく、許可されてもいない部活に打ち込んでいる。まるで異星人のようだ。大いなる誤解まみれの評判ですが、わたしは斯様に怖れられていました。どんなに変わり者の旅人でも、わたしを選ぶなどということはあり得ないように思いました。
実際のところ、国崎さんは誰も選ばずに町を出ていきました。彼の求めるものは、あらゆるものに優先したからです。寂しかったですが、ほっとする気持ちもありました。彼が近くに居続ければ、みちるとの思い出を過度にこぼしてしまうという予感があったからです。恋かどうかはさておき、わたしの側にいてくれる力強い異性を無視することはできなかったでしょう。わたしは宇宙人ではなく、人間の女性でした。
閑話休題。神尾さんは遠くに行ってしまいました。それでもわたしにさほどの悲観はありませんでした。最後に出会ったとき、彼女はそれなりに元気であり、命に別状があるとは考えられませんでした。交わした約束はいずれ果たされるのだと信じていました。
ぼんやりと考えごとをしているうち、学活が終了しました。今日は始業式なので、そのまま終了です。夏休みが終わったといってもだから、夏の解放感は完全には消えていませんでした。わたしはプリントを鞄にしまい、教室を出ました。廊下を進み、階段を下り、靴箱で上履きと靴を交換します。校庭を抜けて正門、そこでゆっくりと振り返り、学舎を一望します。
キリスト教系の学舎であるためか、校舎は煉瓦の目立つ瀟洒な造りとなっています。体育館、武道館、屋内プールは他の高校とさほど変わりありませんが、校舎と同じ煉瓦造りの教会は学舎に建つには珍しい施設でしょう。校庭も広く、設備も整っています。文武ともに多くの淑女女傑を生み出したことで有名だそうですが、さもありなん。競争率は数倍、ただし地元枠があるため同地区内の女子にとってはさして難関ではありません。神尾さんが宜しくない立場にいた理由の一つが、この受験格差にあることは疑いようがありません。わたしも一歩間違えば、同じ憂き目にあっていたでしょう。神は万能のはずなのですが、案外と細かいものをぽろぽろと取りこぼすものです。神学者曰く、神の行いを人間の尺度で測ってはならないそうですが。
わたしはふと、幼い頃を思い出しました。神のことを知ったわたしは学校付きの牧師にある質問をしたのです。
神様は我が子たちである人間の名前を間違えることがあるのですか?
対する牧師の答えはこうでした。
『我らが善き隣人であるならば、神は決してその名を取り違えることはないでしょう』
ここは世界の果だ。
引き返す以外に道はない。あるいは……。