二月二日 火曜日

第三場 美坂家

 よく結婚式と葬式には親族の数が倍に増えると言うが、それは随分と過少表現だと思う。昨日から今日にかけて美坂家を訪れた親族のうち、三分の二以上は全く知らない人たちだった。こちらとしては会ったことがないし、面識もないのだが、向こうは十年来の知り合いの如く躊躇いもなく話しかけてくる。それでも通夜の席では面識のある親族の人間が大部分を占めていた。通夜と言っても、最近はその慣習通りに夜を通すことは多くない。葬儀の方は葬儀屋が一切合財を用意してくれる。部屋一杯に敷かれた座布団も、絢爛な燈篭も、杉の棺も、全ては引越しのように卒なく仕組まれていった。まるで栞を本当の死に追いやるみたいに。

 本当の死とは何だろう……極めて事務的にセッティングを行う葬儀屋の作業を眺めながら、ふとそんなことを考える。死に段階など存在するわけでもないのに、それはたちの悪い熱病のようになかなか離れようとしない。思わず寝返りをうつ。私は今、自分の部屋で何を考えるでもなく体を横たえている。はっきり言って、親族の前に顔を出すのが億劫だったから。どうせ、微塵も心に響かない慰め文句と同情の視線が集まるに決まっている。通夜の席でも「妹を亡くして可哀想だ」「妹の分までしっかり生きろよ」などという陳腐な台詞を投げかけられたから。今の私には、その言葉が痛い。私に栞の分まで生きる資格などあるのだろうか? 

 思考がぐるぐる回る。天井もぐるぐる回る。このままもっとぐるぐる回って、バターのように溶けてしまえたら良いのに……あの有名な児童文学に出て来る虎のように。

「香里」ドア越しに母の声が聞こえる。「もうすぐ時間だから、早く降りてらっしゃい」

「分かったわ」私は空返事をする。「もう少ししたら降りるから」

「もう……さっきも同じこと言ったじゃないの。親戚の方も香里と話をしたいって人がいるのに」

 母は苛立ちのこもった声を投げかける。だが、私はそれが嫌だからこそ部屋を出たくないのだ。

「あ、それと……相沢さんも来てたわよ」

 相沢……その言葉に反応して、思わず体を起こす。彼がここに来ているということは、最後まで見届けることを決意したのだろう。私は何秒か目を閉じ、開くと同時に立ち上がった。

 皺になった服を軽く整えると、母が待つ廊下に出る。私は喪服など持っていないから、黒のタートルネックのセーターを着ていた。西洋風の制服は、こういう時に困りものだ。別に信仰していない宗教のことを考える必要などないのだけれど……。

「で、相沢君はどこにいるの?」

「玄関の所で待ってるわよ……香里と少し話がしたいって」

 母の口調に、祐一に対する敵愾心は既にない。昨日、父が言ったように相沢君には何の罪もないのだし、私が説明したこともあって母の相沢君に対する悪感情は完全に払拭されていた。思えば、他人を弁護するのにあれほどの情熱を傾けたのは初めてだ。

「でも、本当にもうすぐ始まるから。話は早めに切り上げて来るのよ……分かった?」

「大丈夫よ。私、遅刻したことないのが自慢だから」

 柄にもなくそんな軽口を叩くと、階段を降りて玄関に向かう。相沢君は壁にもたれていたが。私の姿が見えるとゆっくり背を離した。

「よう、久しぶりだな」

 相沢君は僅かに口元を歪めて、手を上げてみせる。

「昨日も会ったような気がするけど……まあ良いわ。それよりも相沢君、学校はどうしたの?」

 ここにいる以上、答えは一つなのだが……。

「サボった、フけたとも言うけどな。勿論、学校にはちゃんと連絡してあるぞ」

「当たり前よ……全く」

 軽く溜息を付く。相沢君なら、学校を休むなぞ後先何も考えずに平然とやってしまう気がしたから。当の相沢君といえば、何故自分が呆れられなければならないのだろうと、そんな疑問に満ちた顔をしていた。

「ま、まあそれはともかくだ」何がともかくなのかは、よく分からない。「香里、調子はどうなんだ?」

「最悪」私は即答した。「顔も知らない親戚に、知った風に悼みの言葉をかけられて頭痛がしてるところ」

 それも理由の一つではあるが、私を本当に不快がらせている原因はもっと別のところにあった。台所に仕出し弁当と一緒に並べられた、麦酒や日本酒の存在。葬式では全てが終わった後に、親族の語らいがあることは香里も知っていた。その過程で酒が多少は入ることも……。だが、栞のことをネタに酒を進めるのかと思うと、私は到底我慢できなかった。しかも、そんな無配慮な人間が少数派でないという絶望的な現実。一層のこと、酒瓶を全て粉々に砕いてしまいたい。そんな人たちなど、熨斗をつけて追い出したいと切に願った。ただ言葉だけの悼み文句を振りかざし、義理を押しつけがましく主張するなら最初から来ないで欲しい……そんなのはこちらから願い下げ。けど、本当は対して価値のないしがらみと常識とがそれを許してくれない。

「でも、相沢君が来てくれて少しは和らいだかな?」

 それは多分、本心だと思う。実際、彼と話していると心のもやもやが自然と氷解していくのを感じる。それに、知り合いが一人増えたというだけで安心できる。

「そうか、それなら良いけど……」相沢君は頬を少し掻くと、左足を軸にしてくるりとこちらを向いた。「ところでもう行かなくていいのか? 香里の母親の話だと、もうすぐ時間だって……」

「あっ、そうね……」私は今思い出したふりをしてみせた。「じゃあ行きましょうか、母さんもそろそろ痺れを切らしてるだろうし」

 私と相沢君は既に親戚で埋め尽された八畳間に向かう。今は中央の襖を取り除いて、二つの部屋を一つにしているので実質は十四畳間だが。相沢君は狭い廊下を、きょろきょろと見回しながらついてくる。そう言えば、相沢君がこの家を訪れるのは初めてだ。

 例の部屋まで来ると、私は少し躊躇してから襖を開けた。音と共に、何十人という単位の人々の目が一点に集中する。

 部屋に入り、すぐ左手には仏壇と棺が並んでいる。眼前では長く垂れ下がった数珠を持ち、意匠の施された袈裟を着た僧侶がいた。頭は綺麗に刈られ、無心の眼差しで柩を見やっている。そこから部屋を超え中庭に至るまで等間隔で人が並び、正座して式が始まるのを静かに待っていた。部屋は焼香の煙でむせ、鼻腔をくすぐる僅かな香りが鼻を刺激した。私は父の隣、相沢君は最も中庭沿いの席に正座する。それを狙い図ったかのように、背後から四十過ぎくらいの見知らぬ男性が声をかけてきた。

「香里ちゃん、今回は残念だったね」そう声をかけるのが優しさだと思っているのだろう。男性は義務感に満ちた様子だった。「けど、あまり落ち込んじゃ駄目だよ」

 余計なお世話だ……と私は心の中で毒ついた。なおも独善的な言葉を紡ごうとする口を封じるようにして、父が立ち上がる。

「皆さん、今日は遠方から娘のために起こし頂き、有り難う御座います」父は大きく頭を下げた。「これほどの人たちに囲まれて、栞もさぞ喜んでいると思います」

 そうだろうか? 私なら、こんな意味もない集まりなど頼まれても願い下げだ。実際、その言葉が父の本心でないことは、僅かに歪んだ眉間から分かる。父は我慢しなければならないことがあると、必ずその癖を出すことを私は知っていた。

「栞は強い娘でした。重い病に苦しんでも、決して弱音を吐くことなくいつも笑顔の絶えない……太陽のような子です。こんなに若くして、親よりも先に逝ってしまったことが、私には本当に悔しくて仕方がありません」

感極まったのだろう、父は人前で涙を流すことを止めようともしなかった。その涙に貰われ、何人かが嗚咽や涙を流し始める。だが、私の目からは一滴の感情すら湧いて来ない。

「それでは、これから……決して短い時間ではありませんが……一緒に娘のことを、悼んでやって貰えれば幸いです……」

 父はへたり込むように着席すると、ズボンのポケットからハンカチを取り出し、目頭を拭った。次に僧侶が悼みの言葉を述べ、それから読経を始める。南無妙法蓮華経……数珠を擦り合わせながら、まず柩に向かって三度唱えた。その文句を聞いて、ようやくうちが日蓮宗の檀家であることを思い出した。それからさっぱり理解できない経をつらつらと唱し、再び南無妙法蓮華経が、今度は声高に唱えられる。一文字ごとに魂魄を込めたその叫びは、ただ数文字のそれを言い終えるのに数分もの時間がかかっていた。それを数回繰り返す。その間に焼香の鉢が回って来る。私は百草を儀礼通りに掲げると、僅かに赤色の熱を放つ炭へとそれを撒く。隣の人も、またその隣の人も同じ動作で焼香を捧げていった。その中に響く経は、私を心持ち厳かな気分にさせる。古来、宗教儀式というものは人を厳粛にさせるものだ。精霊信仰も基督教のミサも、回教の聖地へ向けた礼拝もその意味では余り変わらないのだろう。そこには茶化したり、蔑ろにできない不可思議な感情が、しかも群集心理が生まれる。私も数珠を両手で持ち、ただ儀式の進行を表情を殺して見守っていた。

でも……この儀式が終わったからと言って、何が変わるのだろうか? 宗教家が主張するように、正式な死の儀式を通して魂は安らかなる場所へと向かうと考えているのだろうか? それとも、慣例化された儀式を行うことで取りあえずの達成感と満足感を得ようとしているだけなのだろうか?

 多分、両方なのだと思う。初めの方は大切な人を亡くした人間たちの希望観測的論であり、後の方は形骸化した思考の持ち主に対する建前的論なのだろう。

 結局、人が死んでどこに向かうのかなんて誰にも分からない。もしかしたら最後の審判によって、天国と地獄に振り分けられるのかもしれないし、来世に向けて安息の時を過ごすのかもしれない。或いは単なる蛋白質と無機物の塊になるに過ぎないのかもしれない。そして、人は最後の考えに至ることを避けるがために様々な死生観を持っている。誰も、自らの生が死にとって何も意味することがないとは考えたくない筈だ。最近はニヒリスティックにそう吹聴して回ることが格好良いと考えている者もいるが、きっとそういう人間こそ死ぬ間際になって苦しみのたうち回るのだろう。死を無意味とすることは、決して格好良い感情論ではないと私は思っている。

 そして……ふと考える。栞は死ぬ前に自らの死に対する確固たる確信を見つけ得たのだろうか? 私はそうだと信じる。そうでなければ、あのように安らかな顔で死んでいくことなどできない。

 響く読経の中で、様々な考えが頭を巡る。どうも、私は無心で人の死を悼むことができない人間らしい。ふと、僧侶の方に目を移すと、無心に経を唱えているからだろう……ごま塩頭からは大量の汗が吹き出していた。彼らは正しい祈りを伝えるためだけに修行を続け、そして今も何かに向かって祈り続けている。父と母は目を伏せ、数珠をひっきりなしに打ち鳴らしていた。相沢君はどうしているのかなと思ったが、この状況では後ろを振り向く訳にもいかない。結局、その様子を伺うことはできなかった。

 一際、念の強くこもった声が部屋中を震わせるように響き渡る。それから初動と同じく数珠を擦り合わせながら南無妙法蓮華経を三度唱えると、手を畳に付き、そこを軸とするようにこちらの方を向いた。謝辞の言葉を述べ軽く頭を下げると、僧侶は日蓮宗の死生論について軽く語り始めた。日蓮宗において現世と常世は区別されておらず、それらは同一の世界に存在するらしい。現世と常世はその存在を対にしながら、同一の次元に存在する……それが日蓮宗における死生論だと語った。数学で言えば、実数と虚数の関係に近いなと思う。同じ世界に存在していながら、現世の人々はその影しか見ることができないからだ。葬儀を行うのは、やはり魂を安らかに安息の場所へと導くためらしい。そして、それがなされなかった魂は現世に近い部分を迷い続けることになる。これが浮遊霊や自縛霊の正体ということだ。僧侶の話を聞いていると、漠然とだが日蓮宗の教えというものが理解できたような気がしてくる。もっとも、理解できるように説法するのもまた、僧侶の特技なのだろうが。

 一仕切り弁舌が終わると、最後に柩に向かって最後の黙祷を行い、それからゆっくりと立ち上がった。黒と白の帯が施された封筒を母が手渡す。おそらく祝儀だろう。僧侶はそれを恭しく受け取ると、一礼して懐に収めた。

「では皆さん、彼女に現世で最後の挨拶を……」

 僧侶は部屋の隅に移ると、葬儀の参加者にそう促した。父と母に続いて、私も柩の小窓から栞の姿を覗き見る。色採りどりの菊に囲まれ、眠るようにして鎮座する栞からは、どのような死の色をも感じとることはできない。強いて言えば、僅かに全体の雰囲気が蒼ざめて見えるくらいだった。それから親族たちが次々と柩を見やっていく。相沢君は一番後ろの席に座っていたため、柩を見やるのも最後だった。彼は僅かに顔を近づけ、それから目を伏せて僅かに頭を下げた。それからしばらく感慨深げに栞を見つめ、それから席を立った。

 最後の挨拶が済むと、柩は霊柩車に載せられ、そこから一気に火葬場まで運ばれる。そこまでついて行くのは故人と本当に親しかった家族、或いは親族だけだ。それに、どうせここにいる全員を運ぶような乗り物など手配されていない。火葬場に向かうのは私と両親を除けば叔母の家族くらいだった。

「相沢君、貴方はどうするの?」

「さあ、どうしようかな……」私の言葉に相沢君は素っ気無く答える。どうやら本当に、何も考えていないようだった。「最後まで見届けるということなら、香里と一緒に行くってことになるけど」

「だったら話は早いわ……うちの車は四人乗りだから。それに母さんも、相沢君に昨日のこと謝りたいって話してたし……」

「そうか……じゃあ、世話になる」

 話が終わると丁度、柩が家族や親族の手によって運び出されようとしていた。柩を全員で運び出すのは昔からの慣わしらしい。私と相沢君も端を持ち、僅かだが柩を支えた。

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