二月十五日 月曜日

第三場 祐一の部屋

 張り付く大気など気にならない、暮れなずむ景色なんてどうでも良い。この御し難い感情が、全身を掴んで離さないのだ。どんな陳腐な言葉なんて幾つ重ねても駄目で、どんな態度に表しても想いを伝えきれた気がしなくて、別れてすぐだというのにもう未練がましく引き返したいという思いが募ってしまう。馬鹿みたいに、香里のことが欲しくて堪らなかった。指一本離すのだって苦痛で、いつまでも一つに連なっていたいという感情が消えない。

 ただこの気持ちを中和するためだけに、意識してゆっくりと歩かなければならなかった。しかし、家に戻る頃には外面上の温度が冷え、香里から受けた体温の影響も徐々に消えつつあった。あの、苦しくてそれ以上に快感が迸るようなあのキスの影響も……。

 思い出すと顔が火照ってきて、端から見たら親娘睦まじく暮らす家庭をストークしているみたいだった。何度も繰り返す溜息は、何かに興奮しているとしか思えないのが悲しかった。ようやく脳と胸の動悸が収まってくると、中に入りいつもの挨拶を響かせた。どうも、水瀬家に来てから自然と礼儀正しくなったような気がする。名雪や秋子さんの礼儀正しさが、自然と移ったらしい。

 しかし、一分ほど経っても返事がなかった。何かあったのかと近づいてみると、居間のソファで名雪と秋子さんが二人して眠っていた。秋子さんの肩には毛布がかかっているが、名雪の肩には何もかかっていない。きっと、ソファに横になって眠っている秋子さんに毛布をかけ、そしてその様子を眺めているうちに名雪も眠ってしまったのだろう。俺は自分の部屋に戻ると、毛布を取り再び階下に戻ってそれを名雪の肩にかけてやった。起きている時には正反対に見える二人だが、こうして並んで眠っているとやはり親娘なんだと思う。寝顔がそっくりだ。

 本当なら二人とも運んであげたら良いのだが、こうして仲良く並んでいると引き離すのが悪いように思えてしまう。よく考えれば、ここに来るまでこの家ではずっと二人で過ごしてきたのだ。俺なんてこの光景の中ではイレギュラなのかもしれない。この幸せは尊敬に値する。なんて妙なことを考えながら、俺はダイニングに向かった。いつもなら何かしら良い匂いのするその場所も、今日に限っては何も準備されていない。どうも秋子さんは、夕食の準備をしていなかったようだ。しかし、せっつく腹の虫は最早一秒たりとも我慢を許容してくれるとは思えなかった。

「……しょうがない、今日は自分で作るか」

 よく考えれば最近、秋子さんの好意にいつの間にか頼りっぱなしになっている。今日くらいは、自分で何か作るべきかもしれない。が、俺の料理のレパートリなんて両指で数えられるほどしかないのが悲しいところだ。焼き蕎麦、カレー、野菜炒め、シチュー、ビーフシチュー、チャーハン等……よく考えれば途中までの工程は似通ったものが多いため実質三メニューしかない。しかも、今からでは煮込みものなんて作りようがないので候補は更に絞られた。さて、どちらにするかだ。贅沢を言えば只の炒め物は避けたい。まず炊飯ジャーを覗くと……空だった。次に冷蔵庫を覗くと、そこに燦然と輝く黄金色にも似た麺の色を発見する。メニューは決まった。

 同じ場所から豚ばら肉、キャベツ、もやしを取り出すと早速下ごしらえにかかる。清潔に手入れされたまな板を軽く洗うと、丸々一個のキャベツを半分に解体。芯を繰り抜くと手馴れているとは言えないでも不恰好なキャベツの短冊切りが笊へと貯まっていく。キャベツを切り終わると、次にもやしだが……へたを取る作業は面倒臭いのでパス。最後に豚肉を家でやるより厚く大きく切り、準備が完了する。

 次に、フライパンを取り出すと油を敷き、素早く温めていく。たかが焼き蕎麦と侮るなかれ、そこには悪魔のような繊細さと天使のような大胆さが必要なのだ……って順番が逆か。まあ、天使が繊細かどうかは非常に疑わしいし、人を欺くという点では悪魔の方が余程繊細なのではないだろうか。もっとも、その繊細さに見込まれでもするのは勘弁して欲しいが。

 兎に角、要は強火で一気に炒めるのが吉ということだ。煙が僅かにこもり出したところで、一気に食材をフライパンにぶちまける。水蒸気の強烈に放出される音が響き、凝縮されていた食材の香りが漂い始める。生の時は生臭さや水臭さが目立つそれらが、火を通すと芳しい芳香を発し始めるのだから料理というのは不思議だ。久しぶりに厨房に立ち、立ち込める焼き蕎麦の匂いに触発されたのかそんな思いが頭をついた。

 水蒸気が爆ぜる音が収まって来ると、遂にメインの蕎麦の番だ。野菜炒めを焼き蕎麦へとグレードアップさせる不思議なアイテムを袋から出すと、湿り気を与えて解し同じくフライパンに落とす。再び沸き立つ水蒸気。だが、実はここからが本番だったりする。如何にして具材の旨みを麺に伝え、均等に混ぜるかによって美味しさがかなり変わってくると言っても過言ではない。ラストスパートとばかり、俺はプロ並にフライパンを踊らせる。少しばかり中身がはみ出て零れたりするが、気になどしたら終わり。魂で混ぜ、魂によって完成させるのだ。

 最後にオタフクソース――ウスターソースは邪道だ――をかけ、火を止めて掻き混ぜる。僅かに焦げたソースもまた、焼き蕎麦の旨味に微妙なアクセントを与える。パーフェクト、俺は心の中でガッツポーズを取るもう一人の自分を感じていた。

「うー、何か良い匂いだお」

 焼き蕎麦作りのテクニックに酔いしれている俺の前に、それを見事にぶち壊す気の抜けた声を伴って名雪が現れる。目がかなり糸に近いから半分眠っているのだろう。

「おう名雪、今夕食が丁度できたところだが食べるか?」

 ようやく完成した一人前の焼き蕎麦を前にして、ようやく寝惚けていた名雪の頭脳が覚醒していった。

「夕食ってお母さんはまだ眠ってるよね……ってええ? 祐一が作ったの?」まるで、座敷童子でも見たかのような驚きようだ。「うわあ知らなかった、意外な特技があるんだあ」

 前言撤回、名雪の頭は全然覚醒していない。

「特技ってお前なあ、焼き蕎麦くらい最近は小学生だって作れるぞ。特技でも何でもないって」

「ふーん、まあそうなのかも。高校でも最近、家庭科の授業ってあるし、蛸とかグロテスクな魚介類を率先して捌いてるのを見たらたのもしいなあって思っちゃうもんね。祐一も魚介類とか平気?」

「ああ、まあな」というか、小さい頃から釣りとかに時々行ってたから魚介類など恐くも何ともない。「烏賊だろうが蛸だろうが、河豚だろうが簡単に捌けるぞ」

「河豚を捌くのは犯罪だと思うよ」名雪の的確なツッコミが入る。全く、こういうときだけ洒落の通じない奴だ。「あ、ちなみにわたしは平気だよ。小さい頃からお母さんの手伝いしてたから」

 そう無邪気に主張する名雪の様子からは、台所に二人して立つ姿が容易に想像できた。

「まあお互いの料理の腕はともかく、折角作ったんだから熱い内に食べてくれ。俺の手料理なんて、そうそう食えたもんじゃないぞ」俺は名雪の前に焼き蕎麦を盛った皿を寄せ、箸を添える。「そう言えば秋子さんは? まだ寝てるのか?」

「うん……わたしが部活から帰った時にはもう寝てたみたい。最近、少し疲れてるようだから今日くらいゆっくり寝かせてあげようと思って。で、夕食の準備をしようと思ったんだけど……」

「お前も眠ったってわけか」

何ともまあ名雪らしく微笑ましいエピソードだ。呆れるよりも何よりも、既に日常と化している眠りの名雪に俺は失笑を漏らさずにはいられなかった。

「うーっ、笑わないでよ」案の定、名雪は拗ねる。「わたしだって、少しは頑張ろうと思ったんだから」

「はいはい、分かってるって」確かに料理に関しては貢献していないが、それでもソファで眠っている秋子さんに毛布をかけてあげたのは名雪なのだ。それだけでも賞賛すべきであろう。「失敗しても、次に頑張れば良いんだから。まだこの先、名誉挽回するチャンスなんていくらでもあるだろ」

「あ、うん……」俺の言葉をどう受け取ったかは分からないが、名雪は俯きながら微かな声をあげた。「そうだね……じゃあ祐一、焼き蕎麦食べても良いかな? 実を言うともう、お腹ぺこぺこ」

 名雪は柔らかな微笑を向けると、箸を手に取り「いただきます」と元気良く一言、慎ましやかに焼き蕎麦を啜り始めた。

「へえ、全体的に火がちゃんと通ってるし、味付けもちゃんとできてる。うん、とても美味しいよ」絶賛を全身に浴びて、些か得意げになる。どうやら俺には名料理人としての資質があるらしい。「あ、でもキャベツの芯が結構混ざってるね……ちゃんと切った? それにもやしもへたを取るともっと美味しくなるかもね」

 否、長年秋子さんの味に親しんできた名雪の評価は辛かった。だが、二度は同じ徹は踏まない。俺はそう誓うと秋子さんと俺の分の焼き蕎麦を一気に畳み上げた。キャベツの芯はちゃんと除いたし、もやしのへたもちゃんと取った。こうして俺の焼き蕎麦は、より完璧に近付いたというわけだ……何か名雪を実験台にしたみたいだが。

「よし、じゃあ夕食ができたから秋子さんを起こしてきてくれないか?」声をかけると、名雪は素早く立ち上がる。「うん、分かった。祐一が料理を作ったって言ったらきっと驚くと思うよ」

 まさかそんなことはと思ったが、二分後に戻ってきた秋子さんの顔は驚きの表情で満ちていた。

「まあ、今日の夕飯は祐一さんが作ってくれたんですか?」正に意外なことでどうして良いのかという顔をしている。「ごめんなさい、私が眠ってたせいで……名雪も祐一さんも気を使ってくれたのね」

「いえ、たまにはこうして料理の腕を披露しないとこの黄金の腕が錆付いてしまいますが故に……」

気を遣わせたくなくて、わざとらし過ぎる言い回しをしてしまい、却って墓穴を掘った。が、そこまでまずくもなかったらしい。秋子さんは文字通り腹を抱えると、耐え難いといった様子でくすくすと笑い出した。

「ふふ、祐一さんさっきの言葉使いは凄く変でしたよ」

「うっ、そんなに変でしたか?」

 大笑いされながら言われると、流石に少し……いやかなり恥ずかしかったりする。でも、秋子さんに笑われるのなら別に良いかなと思う。水瀬家の家長として、そして尊敬すべき一人の大人として彼女にはいつも笑顔でいて欲しいのだ。そのためなら、例え道化師になろうとも構わなかった。

「うん。今時あの言い回しはないと思うよ」

 名雪が加勢したので、とうとう俺は完璧に変な人となってしまう。いや、それは元からか……。

「え、えっと……早くしないと料理が冷めないか?」

 俺が口足らずな繕いを返すと、ようやく名雪と秋子さんも笑いを止める。そして顔を見合わせると、ほぼ同時に料理に手を付け始めた。何だかんだ言っても、評価の気になる俺は秋子さんの食事風景をじっと見守っていた。そして途中で箸を置くと鶴の一声。

「なかなか美味しいですよ、祐一さん」

 秋子さんに誉められた……きっとどのような料理を出しても誉めてくれただろうが、それでも労いの言葉はとても嬉しかった。その言葉を確認すると、ようやく俺も夕食に入った。大粒の汗と賞賛とを受けて食する焼き蕎麦は、いつものものより数段上手く感じられた。涙が出そうなほどの幸せな光景、その中に俺がいられるのは贅沢なのだろう。どんな幸せよりも不変に思える水瀬家という空間……だからこそ俺は、どん底のような悲しみを乗り越えることができたのだ。この光景を維持するためならば、俺はこのささやかな力を捧げたいと思った。

 食事が終わり、家でCDを聴こうとしてふと香里に言われていた洋楽のCDを借りてくるのを忘れたことに気付いた。何しろあれから、香里のこととキスのことししか考えられなかったのだ……憶えていられる筈などない。思い出すと再び、胸の中を灼熱の炎のよな感情が駆け巡る。ほんの僅か離れただけなのに、この寂寥感は何だろう。あれだけ抱き合い、沢山のキスを交わし、お互いの舌を絡め取るような印象的な行為を共有したにも関わらず、もう今は足りなく思えた。全てが足りない、香里と居たい。体でも心でも、一つに繋がっていたい。足りないものは全部、補い合いたい。何故、こんなに狂おしい感情が生まれるかその理由も分からぬまま、ただ香里のことだけがあっという間に頭のほぼ全てを占めていった。

 ベッドに寝転がり、香里の姿を想像する。たちまちお互いの体を抱き締め合い、キスを交わす。そしてもっと一つになるために……いけない、これじゃ単なる妄想だ。俺は必死に首を振ってそれを追い払おうとする。その時、実に悪いタイミングで名雪が入ってきた。

「祐一……何してるの?」

 ベッドに横たわり悶え転げ、首を横に振っているシーン……名雪にそう突っ込まれても仕方のないことを俺はしていた。ああ、何て間の悪いと思いながら、声だけは冷静に名雪へと向かう。

「……ちょっとしたエクササイズだ。それより名雪、何の用だ?」

「うん、香里から電話」

「香里から?」今までの浮わついた感覚も何のその、俺は素早く上半身を起こしていた。「で、何の用だって?」

「ううん、理由は聞いてないけど」

 普通だった、となると香里は何のために電話をかけてきたのだろう? もしかしてCDのことだろうか……いきなりの出来事に首を傾げながら、俺は下に降りると保留を解除して受話器を取った。

「あ、もしもし、代わったけど」

――相沢君、こんばんは。

 少し切なげな香里の声に、心拍数が一気に上がるのを感じる。声だけだというのに、先程の想像も相俟り緊張して仕方がない。ありえないことだと分かっていても、受話器越しに感情が読まれているのではないかとさえ考えてしまう。

「あ、おお、こんばんは。で、何の用なんだ?」

 俺は香里に抱いていた猥雑な妄想を頭から追い出すと、できるだけ日常生活から抜け出たことを象徴するような声をあげる。が、初っ端の躓きがその計画を半壊させてしまった。そして次の香里の言葉が、残りの半分を壊した。

――……声が聞きたくて。

 声が聞きたい、それはつまり俺の声を聞きたいと言っているのだろうか? 漠然とした考えを、香里の次の言葉が後押しする。

――明日までとても耐えられそうになくて、どうしても相沢君の声が聞きたくて。本当は今すぐにでも会いたい、抱きしめたい……けど、それはできないからせめて電話だけでもって思って。

 泣きそうな香里の声。電話線を通され伝わってくる、強い想い。そこまで、思い詰めるようにして俺のことを想ってくれている香里。姿が見えないだけに、言葉しか伝えることができないのが余計にもどかしかった。胸が強く疼き、香里への想いがまた一段と強まるのを感じる。底なしの沼のように募る恋情が、一切の理性的な思考と羞恥心を奪おうとしていた。事実、後から考えれば気障だなと思われる言葉さえ簡単に口にできた。そう、こんな風に。

「えっと、そっか……俺も香里の声が聞けて嬉しいな。うん……はあ、どうも電話には慣れてないから何を話したら良いのかさっぱり分からない。香里は何か、話のネタとかあるか?」

 馬鹿みたいに舞い上がって、話のネタすら思いつかない。

――話ね……。

 それはどうやら香里も同じようで、しばらく経ってから発せられた言葉は小学生でも振らないような話題だった。

――明日は良い天気かしら。

 けど、そんな話題でさえ面白可笑しく話せる自分に、また自分の意外な一面を知ることができた。

「そうだな、まあ予報では晴れって言ってるし、信じてやっても良いんじゃないのか」

 根拠はないが、明日が晴れると言い切ってしまえば絶対に晴れそうな、そんな魔力を持っている人間にさえ思えたのだ。こんなにも身近にある幸せ、香里と言葉を通い合わすだけでこんなにもハッピィになれる自分がむず痒く、そして何より嬉しかった。

――そうよね……うん、じゃあ明日晴れたら一緒に学校まで行こ。私が相沢君の通学路の途中で待ってるから。

 大して身のある会話もなく、俺たちの会話は収束に入る。が、それでも十分に満足だった。明日、また香里と会える……そう考えただけでも一生分の運を使い果たしたような僥倖をおぼえる。

「ん、分かった。じゃあまた明日、学校でな」

 精一杯の明るさで別れの言葉を述べると、それに負けない様子で香里も言葉を返す。

――うん、バイバイ、相沢君。

 しばらくその言葉の余韻に浸ってから、俺は受話器を置いた。俺は堪えきれずに階段を駆け上がると、再び自分の部屋にこもりベッドを何度もじたばた往復した。落ち着きのない恋に、ひどく振り回されている気がするが、嫌な感じではなかった。恋をしていると考えるのは凄く楽しいことだし、相手が香里であると思うだけでもう、体中を熱い血が巡り回るのを感じるのだ。こんなの俺のキャラクタじゃないと思いながらも、止められない。

 ただ、少し変だなとは思う。栞の時には、もう少し落ち着きのある態度で臨めていた。それが今はこの有様だ。これが愛情の差でないことは、俺にもはっきりと意識できる。より強く愛しているから、感情を持て余す程に心焦がしているわけではない。どちらも同じ、強く激しい心の形だ。栞と接する時の兄めいた、包み込むような愛情もまた愛なら、香里と接する時に抱く貪欲にお互いを求め一つになることを強烈に願うそれも違う愛の形。競合しないように、俺の頭の中で生きている……それはありがたいことだった。

 けど、冷静に考えてみたところでこの奇妙な状況は収められそうになかった。やはり香里を一分一秒でも放したくないし、もっと強く繋がっていたい。抱擁より、キスより、より二人が一つに繋がる方法があるのならば、俺は躊躇いもなくそれを試すだろう。それは、恐らく……いや、きっと……。

 再び猥雑な妄想に走る俺を何とか留めようとしたが、より克明な形で脳の中に現れた香里の肢体は、俺の悶鬱とした気持ちをある方法で昇華させることに何の警鐘も鳴らさなかった。

 俺は立ち上がり、机の上からティッシュを数枚抜き取ると、邪な妄想を抱きながら三度ベッドに寝転がった……。

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