−3−

 十一月最後の日――と言っても、大概の人間はそれを粛々と受け止めたりはしない。移ろいやすい日々の中、ふとそれを立ち止まって省みる余裕のある者などそうはいなかった。勿論、広瀬真紀もその一人で、彼女は布団から這い出ると、目に付いたアイドルのカレンダを見て、他愛も無いことを思った。この人のファンなんだけど、破り取らないといけないのよね――時間って無情だわ。

 それが、朝の微かなざわめきの中、差し迫った時刻になると途端に現実味を帯びてくる。父の姿がないことは心配だったけど、泊りがけの仕事は珍しくないし、真希もそこまで心を配らなかった。待ち合わせに遅れない、それが彼女のさしあたっての至上命題だった。

 鞄を抱え、制服と髪型をもう一度だけチェックすると、真希は急いで家を出た。こういう急ぐ時に限ってエレヴェータは下に降りており、それが余計に彼女の心を慌てさせるのだった。

 制服というキィ・ワードが改めて呈示されたことにより、真希の頭に一つのことが思い出される。あの制服を、クリーニング屋に取りに行かないといけない――取り合えず染み抜きはしたけど店員は広範囲に広がった血に疑問を抱かなかっただろうか――真希は改めて不安になった。出した時には別に怪しまれなかったが、広瀬家御用達の店はアルバイト店員も多く、それ故に真希の不安も一入だった。

 血――。

 赤い血、眼前に広がる赤い光景――。

 横たわるにいさんは死にながらわたしに微笑んでいる――。

 唐突に沸いてくる感情を、真希は辛うじて抑える。胃の辺りがむかむかするが、耐え切れない程ではなかった。情緒不安定――そんな言葉が真希の脳裏を過ぎる。振り払った筈のそれは、相変わらず真希の元で深く蠢いているらしかった。

 何故、あんな日に限って日直の番が回ってきたのだろう――そう思うと、真希は自傷的なまでの間の悪さが嫌になる。あと一人、生徒が多ければ――若しくは少なければわたしは事故の現場に居合わせなかったのに。でも、それが考えてもどうしようもない類のことも真希は知っていた。もしも――ということを考えて、良いことのあった試しがない。大概は、過去の自分がどれだけ愚かだったかということを再認識するだけだからだ。

 だから、真希はこれ以上考えることを止めた。思考を中断することには慣れていたし、そんな不安定さを打ち消すような明るい声もそれを後押ししてくれた。

「よっ、おっはよー、真希」

 何時の間にか、待ち合わせ場所に到着していたらしい。三森節子は真希の姿を確認すると、嬉しそうに近寄ってくる。見回すと、いつもならいの一番に待ち合わせ場所に現れる恭崎鈴華の姿がなかった。

「おはよっ、節子。ところで――鈴華はまだ来てないみたいね」

「うん、珍しいね――」

 もしかして、影で煙草を吸っていて出てこれないのではと真希は脇道を探ってみたが、誰の姿も確認できなかった。時計を見ると、もうすぐ八時十分。待ち合わせ場所から学校まで五分くらいなのでまだ余裕なのだが、それでも普段通りでないことが起こると戸惑ってしまう。

 だが、時間に少し遅れたということを除けば鈴華はいつも通りに飄々とした様子でやって来た。鈴華は、真希と節子の二人に向けて、唇を少しだけ歪めてみせる。

「おはよう、御二方――実はちょっと寝坊してね、ははっ」

 もうすぐ遅刻という時分に現れたにも関わらず、鈴華は気にしていない様子だった。或いは、そういうポーズなのかは真希には分からない。今は、何事もなく無事に、鈴華が自分の前にいる、そのことだけで充分だった。

 真希が声をかけようと口を開くと、しかし後方から怒涛のように迫ってくる二つの人間の影に遮られてしまう。それは何より、二人がクラスメートだからだった。折原浩平と長森瑞佳、真希のクラス一のでこぼこコンビは、こちらには目もくれず、風のように駆け抜けて行った。やや唖然とする真希に、しかし鈴華が珍しく神妙な顔をする。

「真希、節子――遅れて来て言い方が少し不遜だと思うけど、どうやらかなり精一杯走らないとまずいようだよ」

 鈴華の言葉は最初、真希には理解不能だった。しかし、浩平と瑞佳がいつも遅刻スレスレで教室に雪崩れ込んでくる、遅刻の生きるボーダラインであることを思い出すと途端に鈴華の言いたいことが分かった。節子も同じ感情を抱いたらしく、元々感情の起伏激しい彼女は顔を蒼く翳らせてさえみせた。

「まずいわね――」真希が一同を代表して呟く。

 三人は同時に肯いた後――脱兎の如く走り始めた。よくよく辺りを見回すと、生徒の影は殆ど見られない。

 結局、真希は息が切れるほど全力で走ることとなり、チャイムと同時に教室へと雪崩れ込んだ頃には息も絶え絶えになっていた。節子はもう、息をする暇もないくらいに肩を上下させていたし、鈴華の方も見た目ほどの余裕はないようだった。

ふと、同条件だった浩平の様子が気になり視線を向けると、疲れてはいるようだが息はそんなに切らせていないようだった。顔も涼やかで、毎朝駆け込んでくる人間は体力も違うのだと、妙なところで真希は感心した。

 運動会の時もいやいや参加したとはいえ、その脚力は陸上部顔負けだった。だが――そのことを差っぴいても、やはり毎朝、心臓の悪い登校をするのは御免だと真希は思う。

「あんたら――何でそんな――飄々としてんのよ」

節子が、まるで這いずる幽鬼のような目線で真希を射捕らえる。

「ダイエットばっかりしてるから、体力が落ちているんだよ、節子君は」

 鈴華のシャーロック・ホームズに似た――それでいてきつい一言に、節子は肩をがっくりと落とした。流石に今は、反論する気力もないらしい。虚ろな目で俯くと、節子は自分の席を求め去って行った。

「――さて、僕達も席に着くとしようか。今日は転校生も来ると言ってたし、いつもよりは面白い一日になるだろうね」

 転校生――鈴華の言葉に先週、担任教師が転校生のあることを話していたことを思い出す。家庭の事情で急遽、引っ越してくることになったと担任は話していた。家庭の事情――真希は、その言葉に暗い思い出しかない。自らの境遇に重なるものをおぼえ、真希は俄然、転校生がどんな人物かどうか気になった。興味を持ったと言っても良い。

 教室も、噂の転校生のことで俄かに活気づいていた。その人物は男である――いや、さる教師方の筋から仕入れた情報によると女である――。何はともあれ、ある意味代わり映えのない学校生活に劇的な変化をもたらすかもしれない存在である。しかも、学期の始めではなく十二月も間近に迫った――急ごしらえの転校生。騒ぎにならない方がおかしかった。

 真希はしかし、俄かに体力が尽きていて今も前方で繰り広げられている話の輪に入ることができなかった。机に突っ伏し、周りの反応を辛うじて拾っていた真希だったが、不意にざわめきが広がり、そして一瞬にして収束していった。担任教師の渡辺が、ざわめく生徒達に厳しい言葉を振り撒きながら、しかし顔はこれから見せるであろう彼らの反応を予見し僅かににやけてもいるように見える。

「んーあー、静かに――なったようだな。それでは――んー、今日は先週も話した通り、転校生を紹介する――」

 独特のどもり口調で、髭と呼ばれる程に蓄えられた顎鬚を擦りながらゆっくりと言の葉を紡いでいく。そのじれったさに耐えられないのか、何人かの生徒は中腰で担任の様子に一挙手一投足を傾けていた。

「ちなみに、転校生は女の子だぞ」

 と、担任が生徒達の心を見透かしたかのように付け加える。彼も教師生活が長いせいか生徒の望む情報を適切な状況で与えることには慣れていたが、しかしこのクラスにはお祭り好きな男子生徒が多いことを失念していたようだった。

 ひゃっほう! と誰かの叫び声が聞こえたかと思うと、男達の半分以上が手を握り合ったり肩を組んだり、挙句の果てには机の上でブレイクダンスを踊り出したものまでいる。流石に担任も、普段は殆ど出さない大声で静止せざるを得なかった。

 真希は、そんな彼らを馬鹿みたいと思っただけだった。

 ようやく騒ぎも小波程度に落ち着くと、担任はやれやれといった調子で――転校生を呼んだ。彼が手招きし、現れたのは――真希の目から見ても一目で美人と分かるような、見目麗しい女子だった。制服はまだ今のものが届いてないからだろうか――黄色を基調とした涼しげな、どちらかと言えば正統派のセーラ服に近いデザインのものを着ていた。

 真希は、自分の学校の冬服を少し地味だと感じていたから、全く見知らぬ学校の――しかも可愛らしい制服で身を包んでいることを、少し羨ましく思えた。赤いリボンで結ばれた小気味良いテール・ヘアといい、ぱっちりと見開いた少し不安がちな瞳といい、よくドラマである突然の転校生のお約束を充分に満たしていると言えた。美人で、誰からも好かれそうな面持ち――。

 転校生は、強過ぎるほどの注目の視線に最初は怯えていたが、それが好意を含むものであったことに自信を持ったのだろう。極めて軽快な、しかし真希の余り好まないタイプの口調で、まるで定型文を読むような形で淀みなく言い連ねていった。

「七瀬留美です」

 抑揚を抑えた、少ししとやかそうで多分に――他人への媚びが満ちた口調。そんな喋り方が、男は好きなのだろう――留美の容姿も相俟って、それは教師の静止が聞かない程の歓声へと教室の空気を転化させていく。真希は、自己紹介に静聴しながら内心では少し眉を潜めたいのをじっと我慢していた。

 家庭の事情と聞いていたから真希としては親身に接したいと考えていたのだが、七瀬留美の賛美や賞賛をさも愛おしそうに受け止めているのを見ると、その気も失せていった。例え、どんな境遇であろうとも彼女みたいな女性とはあまり仲良くしたくなかった。勿論、第一印象だけで人を決めてはいけないと分かっているのだが、広瀬真希の中に生まれたのが共感ではなく反感であるのは確かだった。

 転校生の紹介と朝礼が終わると、七瀬留美は案の定、男子生徒に取り囲まれていた。中には留美に、純粋に興味と愛着の念を抱いて近付く女子生徒も少なからずいたが、熱狂した男達の体力には叶わず、また留美も彼女らに気を遣わなかったので、少ししてやや憮然とした顔で彼女達は自らの席――或いはグループを作ってひそひそと話し出した。

 真希は別に仲良くしたい気もないし、そんなに男共に気に入られたいなら好きにすれば良いと思ったが、三森節子は憤慨にも似た表情を浮かべて真希の元に近づいてきた。

「何よ、あれ――全く、転校してきた早々、男達に媚び売っちゃって」

 昨夜、彼女が嫌いと公言した――正しくそのタイプが節子の眼前に現れたのだから仕方ないだろうが、真希としては余り早い段階で好き嫌いを決めるのが嫌だったから肯定も否定もしなかった。そんな真希の反応が節子には気に入らないらしく、更に言い募ろうとした所を絶妙なタイミングで鈴華が留めた。

「まあまあ――転校生であれだけの美人となれば人も集まるよ。男というのは大体、容姿の良い女性にハイエナのように擦り寄ってくるものだからね。それに、物珍しさも手伝ってるんだろうし――多分、一番戸惑っているのは七瀬留美だったかな? 彼女自身の筈だよ。相手の調子に合わせて宜しくやるのも、緊張した人間のよくやることではあるし」

「でも――」

 鈴華の理路整然とした口調にも、精神的な嫌悪感が僅かに勝っていたのだろう。節子がなおも抗弁しようとすると、鈴華は節子のおでこを指でこつんと弾いて、今までより少し強い口調で言い含めた。

「節子――君が基本的に良い性質の人間であることは僕が一番知っている。けど、少し好き嫌いの激しい部分があるね――それは明らかに欠点だよ。良いかい、物事の一面だけ捕らえてそれで相手のことを理解できたなんていうのは傲慢だし、嫌悪するというのならそれは身勝手ですらあるんだ。他人を己の主観で留めて理解してはいけないんだよ、決してね」

 明らかに鈴華の論理的な弁が二人の場を支配している。節子は僅かに歯噛みする仕草を見せたが、やがてはあと溜息を吐きいつもの明るい表情に戻る。鈴華は、そんな節子のことをじっと穏やかに見守っていた。

「ああ、もう――何時だって私、鈴華には勝てないんだから。でも――そうよね。確かに一度ばかり、気に食わないことがあったからといって、それでずっと嫌ってしまうのってもしかしたら勿体無いことなのかもしれないのよね――」

 節子が訥々と漏らした言葉――それはそのまま真希の心の中にも跳ね返ってくる。一瞬でも、七瀬留美という女性に謂れのない反感をおぼえた自分を情けなく思った。

 真希が一人、そんなことを考えていると、節子と鈴華のやり取りに興味を持ったのだろうか――それとも単に暇だったのだろうか、夕霧直美と麻見静子の二人が物見たげな視線を浮かべて近付いてきた。

 二人は歓待されるものと思っていたらしいが、節子にとって友情より恋人を取った恨みが微かに残っていたらしい。別にふざけた冗句だと真希は思ったが、兎にも角にも節子は二人に向けてこう言い放った。

「出たわね、この裏切り者たち」

「うあ、いきなりそういうこと言うかな」

 少し髪を茶色く染め、茶ばんだ肌に不似合いな程の白い歯を綻ばせながら、夕霧直美は明るい笑みを浮かべた。

「あ、その――ごめんなさい――」

 反して麻見静子は、真希のいる五人グループの中では唯一、あまり自分の感情を出すのが得意ではない人物だった。背が一四三センチと抜群に小さく、物静かで――だが、鈴華と違って冗談は通じないタイプだ。現に今も、節子が本当に怒ったと信じ、怯えの為か体が少し震えている。

 これではまるで虐めているみたいだと、しかし真希はその成り行きに全く心配を帯びてはいなかった。案の定、節子は随分と慌てた様子で泣き崩れた子供をあやすような口調をもって言い繕ってみせる。

「う、いや、まあ――冗談だってば冗談。大好きな彼と久しぶりのデートだもの、誰が静子を責められようか――責められないわよ。ねっ、ねっ」

 節子は、自分と同じ恋愛興味無し派に属する真希と鈴華に無言の睨みを利かせた。要するに、これ以上、迂闊なことは喋るなという意思表示だ。真希としては面白がって傍観するつもりでいたし、鈴華は黙って苦笑しながら首を振るのみだった。

 当の麻見静子は彼氏のことを思い出したのか――淡い桜色に頬を染めていった。こんな弱気で流され易い性格なのに、彼女は真希達の中では最初に彼氏を獲得した。しかも、何処で知り合ったかは存知得ぬところであるが、サッカー部のエースの一人で全校的にも人気のある男子生徒である。

 そして、頬を染めている静子を肘で突付きながらからかっている夕霧直美の彼氏は、彼女自身が路上ナンパで勝ち取ったもの――とは当人の言だった。正に容姿から想像されるタイプの行動力で、間違いなくグループの中では一番、単純な性格をしている。それ故、沈思考型の真希や鈴華はたまに辟易することもあるのだが、最近ではあまり気にしなくなった。二人とも、諦めはかなり早い方だからだ。

 恋愛に心浮つかせている様子を見て、明らかに面白くないと思っているのが節子だった。もっとも、真希から見れば彼女は単に恋愛作用をまだ知らないだけのように見える。だが、節子は敢然として言い張った。

「全く、どいつもこいつも色気付いて。何であんなに皆、恋とか愛とかに憧れるのか私にはさっぱり分からないわよぉ」

 誰が聞いてもその台詞は、明らかに恋愛というものにあぶれた男性の零す愚痴の類であったが、節子は全く気付いていないようだった。

「別に私は憧れてなんかないけどね」

 反論が出るとおもいきや、夕霧直美はあっさりと言い切った。その態度には、愚痴を漏らした節子自身が一番驚いているほどだ。

「ただ、やっぱり数をこなさないと良い男に巡り合えないじゃない。運良く理想の男性に出会えたら別だけどさあ、やっぱりロクでもないのもいるし。それに表面は誠実そうに見えても、男なんて大概セックスのことばっか考えてるって。まあ、私もやってることがやってることだから極論めいてるのは認めるとしてもよ、ちょっと優しくしただけでオッケーのサインとか思って付け上がるしさ、性欲が満たせないと分かると途端に辛く男なんてザラなのよ、ザラ」

 それは――恐らく直美の経験則なのだろう。それは真希にも、そして他の誰の耳にも強い実感を伴い受け止められた。

「全く――恋なんてロクでもないもんなの。そういう意味では節子より、私の方がはっきりと断言できるくらいだし。でもね――やっぱ、それでも止められない、次こそはって思えちゃうのも恋って訳よ。アンダスタン? 皆々様方」

 直美は米国人めいたジェスチャと言葉遣いで皆を見やる。真希はやっぱり、直美のいうことを極論だと思うが、その反面、強いとも感じる。恋して破れて、それでもまた新しい恋を探そうと足掻くことのできるのは強さだ――それも自分にはない類の、力強さ。真希は、もし――有り得ないだろうけど、再び恋をすることがあろうとも強くはいられない。きっと、相手に寄りかかり、離れたくない、別れるのは嫌だと日柄呟き通し、相手を呆れさせてしまうような――そんな弱い恋しかできないという確信が真希にはあった。

「でも、私は――凄く良い人と巡り合えたけど――」

 現在、誰よりも恋愛に深く傾倒しているであろう麻見静子が戸惑うような、それでいて少し反感めいた表情でぽつりと呟いた。その顔は――依然として朱に染まっている。

「はいはい、静子だけは特別なのよね。何しろ本当にらぶらぶなんだからぁ」

 節子が、処置なしという風に言葉を紡ぐ。その言い草に、静子はみるみる心身を萎縮させていった。ただ、それ故に余計、皆には彼女が幸せそうに見えた。

 幸せの空気をそこまで全身に纏われていれば、誰もそれに反論を唱えたりちゃちゃを入れることはできなかった。それに静子はとても純朴で、それでいて気が弱いから何かと損をすることが多い娘だった。せめて、恋愛では理想の男性に巡り合えたとしても文句を言うものはいなかった。鈴華ですら、微笑みのような同情のような視線を静子に向けるだけだった。

「ところで、鈴華はどう思ってるの? いつもいつも恋愛談義になると興味ないって静観してるけど本当の所はどうなのよ。それに――真希も全然そういうことって話してくれないし――真希って意外と奥手? 結構、異性関係には積極的な気もするし」

 直美が顔を真希と鈴華の方に寄せてくる。節子は何か迂闊なことを語られるのを警戒しているのか、とりわけ真希を抱え込む形で両手を広げ、直美の意見に反駁した。

「何を言うのよ――真希はそういうの興味ないわよねぇ? まっ、鈴華は聞かなくても答えは決まってそうだけど」

「そうだね、僕は興味ないよ」

 節子の言葉を受け、鈴華がいつものように平然と答える。

「僕には、そういう人間らしさが生まれつき欠如しているのかもしれないね。或いは、愛なんてはなから信じてない可能性もある。どちらにしろ、僕は百人に問われれば九十九人が冷血漢と答えるような人格破綻者ってことだけは確かだよ。それに、性欲くらい男性に頼らずとも自分で処理できるし」

 鈴華がどういう意味でそう言ったか分からないが、少なくとも真希は目を見開き、今まで静観していたのが嘘のように思わず怒鳴り散らしていた。

「な、なんてこというのよっ! それ、ちょっと――いや、かなり問題あるわよ」

 他の者も真希と同じことを想像したのか、程度の多少に関わらず顔を赤らめていた。流石にその状況で問題発言に築いたのか、鈴華は得意の意地悪そうな笑みを浮かべた。

「ふふっ、格好良い男性を想像して手淫に耽るとでも思ったかい? 残念ながら僕のこの二つの腕は、欲望の為には生まれ出でていないよ。そして僕の心も――望めば全ての欲望から自由になれる。欲望を処理するとはそういうことだね。迂遠なことに考えが及んだ時は――取りあえず、円周率でも数えておくよ」

 鈴華の説明は非常に抽象としており、それでいて些かの淀みもなかったので真希は先程の興奮が一気に醒めてしまった。別に誤解されていようと居まいと鈴華のような人間にとっては何も問題ないのだろうが、何故か彼女は遊びがいのある玩具を見つけたような輝きを持つ瞳の色を損なっていなかった。そして、それが敢然と真希の方に向けられているのを知り、非常な不安を感じた。

 その予感は正しく、鈴華の言葉と共に的中した。

「ところで――そつなく安全地帯に逃れようとしているみたいだけど、真希の方こそ恋愛についてどう思っているのか教えて欲しいね」

 皆が皆、真希の方を興味深そうに覗き込んでくる。恋愛感、感情論――そんなもの、他人に語るのも考えるのもとっくにうんざりしてたけど、ここまで期待されると話したくないとごねる訳にもいかなかった。

「別に――興味ないわよ。恋する予定だって無いのに」

 もし――もし仮にそんなものがあったとしても。真希は決して口に出さなかったけれど――その思いは無理矢理殺して二度と復元できなくなるくらいに引き千切るつもりでいる。恋路の果てにあるものはただ、身を焦がすような諦観だと悟ってしまったから。

 でも、恋する予定がなくても恋することだってあるのよと――まるで何処かのドラマの台詞のようなことを言われるのではないかと真希は心配したが、誰も何も真希への追及に言葉を付け加えるものはいなかった。

 思ったより暗い表情を浮かべたのかもしれない。真希はそんなことを思い、無理して笑顔を浮かべてみせる。誰も、その顔に偽りが浮かんでいることを見抜いていたけれど、深く追求するような友達甲斐のないものは誰もいなかった。

「まあ――恋に生きるも人の夢だし、恋に生きぬも人の夢なのだよ。命短し、されど僕達は生きている。取りあえずはこれで充分じゃないかな。さて――恋愛論等という堅苦しい談義は止めて、もっと気楽なことを話そうじゃないか」

 沈滞しかけた空気を巧みに読み取ってか、鈴華がまるで賢人のような口調で無理矢理一つの話題に蓋をする。真希は、元々その恋愛談義を振ったのが鈴華であることも忘れ、そのフォローに心の中で感謝の言葉を呟いた。

「じゃあさ、昨日のドラマって見た? やっぱり岸谷五郎って格好良いよね。あの、渋くってそれでいて気さくなところとかさぁ」

 歩調を合わせるように、節子が新しい話題を提供してくれる。真希は先程の罪滅ぼしのつもりで、日曜九時のドラマの話題からテレビ番組全般の評論に至るまで忙しなく口を動かした。

 一度だけ、ふと気になり七瀬留美の様子を伺ったが――男子生徒に囲まれていることも、そしてそれに八方美人な調子で応えていることも真希の心を揺るがすことはなかった。

 話に夢中になっている間に休み時間が過ぎ、適度に退屈な授業が始まる。重要なことはノートに書き込み、教科書と時折、比較してみせる単純作業。天井に染み付いた汚れや、机に刻まれた無為なメッセージに目を奪われることしばし、丁度一時間目終了を示すチャイムが鳴り響く。真希は起立の声に条件反射的に立ち上がった。

 その時――余り耳に心地良くない音が教室を駆け抜けた。続いて、微かな呻き声。真希が俄かに驚いて教室を見回すと音の出所はすぐに分かった。椅子に括りつけた髪の毛、少しあらぬ方向に傾いている首、そして涙目の七瀬留美――そこで真希は華に紛れて影のように、しかし純粋な子供のようにはしゃいだ顔を浮かべる男子生徒の方に目をやった。

 そして、真希は思い切り深い溜息を吐く。恐らく、浩平に注視したクラスの者の全員が同じような行動を取っただろうと、真希は痛切に感じた。如何に珍しいもの好きとはいえ、こうも早く折原浩平の毒牙にかかろうとは、流石の真希も予想はしなかったが。教師の気遣いに、留美は髪の毛を解き健気にも問題ないことを必死に示していた。

 教師が教壇を去ると、留美は一瞬、怒りを言葉に込めて爆発させる。が、次の瞬間にはおしとやかそうな物腰と口調に戻り、浩平のことをやんわりと嗜めた。真希は、自分ならグーで殴るかもしれないと思ったから、留美の辛抱強さには少し感心した。

 そのすぐ後、これ以上ない程の呆れ顔を浮かべた長森瑞佳がまるで母親のように浩平を注意していた。しかし、浩平はあまり反省する様子もなく瑞佳を丸め込むと、どことなく嬉しそうな顔で思案を開始したようだった。

「――流石は折原浩平、彼はいつも僕の思いも寄らぬことをしてくれるね」

 何時の間にか真希の席の側にいる鈴華が、心底楽しげな様子で浩平を眺めていた。彼女は折原浩平の悪戯に多大なシンパシィを抱いている。元々、性根が似ているのだろうと真希は分析しているが、そのうち鈴華も自分にあのような奇矯めいた悪戯をやらかさないかと――目を輝かせて浩平を見やる鈴華を見る度に思う。

「わたし、やっぱり髪伸ばすの止めるわ――」

 昨日は髪質を気にして伸ばそうかなと計画していた真希だが、七瀬留美の無残な姿を目の当たりにして更に強い志を保てるほど、頑固ではない。浩平の魔の手が及ぶ可能性など零に等しいと分かっていても、真希は一気に長髪への情熱が冷めてしまった。

「賢明だね」

 鈴華が紳士的な笑みを浮かべ、真希に同意する。そして、自らに半信半疑と存在していた感情は、その後、散々浩平に弄ばれる留美の哀れな様相を見守るに従い、これ以上ない程の確信をもって真希の中に根付いた。

 真希としては、心奪われることの連続であったため、十一月最後の日はいつもと比べて早いスピードで過ぎていった。最後という言葉に微かな不安を覚えたが、真希は十二月二十四日が近付くからだと自分に言い訳する。

 教室を見ると、掃除も終わった教室には殆ど人が残っていなかった。ある者は部活に、ある者は帰宅や寄り道の途へと着き、非常に閑散としていた。掃除を終えたばかりで微かに射す西日が物悲しく教室を照らしている。埃が硝子の欠片のように光り、しかし鬱陶しく舞い散り拡散していく。窓の外からは運動部の威勢良い掛け声が、耳を掠めていった。

 麻見静子は、サッカー部が久々に休みということで真っ先に恋人の元に走っていった。夕霧直美も放課後前のホームルーム前後、引っ切り無しに携帯電話のメールを盛んに交換しており、野暮用ができたからとさっさと帰っていった。恋する者は得てして他人に裂く情が薄くなってしまう――節子はそれ故に恋を嫌悪している。或いは――もしかしたら昔、恋ゆえに友情を酷い形で失ったことがあるのかもしれない。想像するのは簡単だが、真希には確かめる気概はなかった。

 それが、節子の精神の決定的な弱点だとしたら――彼女との中が決定的に壊れてしまう。それが、真希には恐かった。人の心が壊れる様を、真希はもう二度と見たくないと思っている。特に、こんな――妙に哀れで、過去へと心を繋ぐような夕焼けの支配する日には。不意に真希の中で精神は反転する。しばし、彼女の心は過去の中にだけあった。

 

 真希が、七歳の時だった。

 じゃあ、いってくるから――。

 真希が聞いた最初の母、そして最も大好きだった人――広瀬裕子の最後の言葉だった。まるで、近所のスーパ・マーケットに買物に行くような仕草と静謐にも似た笑みを浮かべ、家を後にしたまま広瀬裕子は戻って来なかった、永遠に。

 物言わぬ骸との対面を果たすまで、真希は母の最後の言葉の意味を取り違えていた。行ってくるではなく、逝ってくると裕子は真希に伝えたのだ。

 投身自殺だった。

 希春は葬儀の時、溺愛していた妻を亡くし悲嘆に暮れていた。

 姉の美晴の変容は、更に輪をかけて酷かった。裕子が死んだ直後は比較的に元気も残っていたが、時を経るごとにその容態は酷くなる一方だった。希春がまがりなりにも健康と、活動力を取り戻すのと反比例するように、美晴の失調は加速度的に高まっていった。

 裕子の死から半年ほど、ある晴れた日の朝だった。真希が友達の家に遊びに行こうとすると、マンション下の公園で蹲っている美晴の姿を見つけた。彼女は、雌蟷螂に食べられる雄蟷螂をじっと眺めていた。真希が何をしているのと尋ねると、美晴は暗い顔でぽつりと一言、こう漏らした。

 食物連鎖――。

 真希が食物連鎖って何? と聞くと、美晴は強い者が弱い者を食べることだよと言った。強い者はいつも弱い者に食べられるんだとも、言った。

 そして、美晴は真希を見て笑った。何かが吹っ切れたような、妙に明るい笑顔。美晴は食べられている雄蟷螂ごと雌蟷螂を足で踏み潰すと家に戻って行った。真希は、久しぶりに美晴の明るい笑顔が見られたので良かったと思い、そのまま友達の家に向かった。

 ショクモツレンサ――。

 ツヨイモノハイツモ、ヨワイモノニタベラレル――。

 

 情念の余りの昏さに――真希はまるで悪夢から覚めたかのように目を見開いた。何時の間にか喉がからからに渇き、額からは汗が流れ出ている。真希は無性に水が――それも寒厳と冷えた純粋な水が欲しくなった。冷水の生成機が体育館の前にあることを思い出し、真希はそこまで早足で進んだ。水道の雑味の強く生温い水は、真希に何ら飲水の欲求を与えなかった。冷たい水、水が欲しい――。

 たった数十メートルの距離も、今の真希にはオアシスを求める旅人のように遠く彼方に思えた。内耳に強い雑音が渦巻き、離れない。ようやく水飲み場に辿り着き、咽るように水を飲むとしかし、動悸は嘘のように静まっていった。軽い脱水症状か熱中症に陥っていたのかもしれない――真希はもう一度ゆっくりと水を胃に流し込むと、何度も深呼吸して新鮮な空気を肺腑に送り込む。それで、残っていた憂鬱も昏い思考も消えた。

 まだ微かに霞みのかかる視界に、ふと真希の見覚えのある顔が映し出される。髪を儚げに揺らし、陰鬱な表情を浮かべて彼女――七瀬留美は、武道場をじっと眺めていた。武道場の中からは、畳を打つ激しい音や一撃必殺の気合を込めた威勢の良い掛け声がひっきりなしと外まで響いてくる。真希は、何も考えず七瀬留美に声をかけていた。

「七瀬さん、よね。何、見てんの?」

 別に大声を出した訳でも、不意を打った訳でもないのに留美はひどく慌てた様子で辺りを見回し、それから真希の顔を見て大きく一つ息を吐いた。その様子は真希が可哀想に思えるほど慌てていて、それ故に不信感が強く募るのだった。

「もしかして、武道系に興味があったりするんだ?」

 だとしたら、外見とは裏腹に意外と豪胆なのかもしれない。今朝、留美が見せた一瞬の剣幕を思い出し想像したのだが、留美の言葉と態度がそれを裏切った。留美は一瞬、戸惑いの表情を見せたが、次には他人にへつらうような笑顔と媚びるような甘たるい声を以って手を強く振って否定した。

「そ、そんなことないわよ。あんな――あんな泥臭くて野蛮なスポーツ、あたしに似あわないと思うし――」

 明らかに真希から逃げるように、留美はそそくさと背を向ける。

「じゃあ――あたし、まだ用事があるから」

 そして、早足でこの場から立ち去ってしまった。残された真希は、一度は不干渉を保とうと思っていた留美への嫌悪感が再び心の中に沸き立つのを感じていた。武道を馬鹿にし、泥臭いと言い切れる傲慢さが真希の琴線に触れたからだ。毎日、己の技量を磨くものに対して、留美の言葉は明らかに冒涜的だった。

 留美という女性は他人の努力、気遣いを簡単に無碍とできる人間なのだ――そして、他人に媚びることで誤魔化し、その場を乗り切ろうとする。少なくとも、広瀬真希は七瀬留美という女性をそのように判じた。

 不愉快は――しかも、御し難いそれは一度心に沈着してしまうと拭い去ることができない。真希は、留美への不満を燻らせながら帰宅の途へ着いた。

 真希はしばらくの間、留美の態度に対する不満で心を満たしていたが、ふと疑問に思い心を傾げて自問する。今まで、留美以上にむかつく態度を取った人間は少なからずいたのに、そんな人たちよりも自分は留美のことを疎んでいる。何故だろうか――。

 商店街を過ぎ、夕暮れも近付く住宅街の細い町並みで不意に立ち止まり、真希は嫌悪感の原因を羅列する。しかしいくら思いを巡らせても網にかかるものはなかった。それならばと、真希は無理矢理、嫌悪の情を押し込んだ。

『物事の一面だけ捕らえてそれで相手のことを理解できたなんていうのは傲慢だし、嫌悪するというのならそれは身勝手ですらある』――鈴華の言葉を、真希は彼女なりに強い訓戒として心に刻んでいた。

 だが、それで真希の心が晴れた訳ではなく、彼女はいわば七瀬留美に対する根拠のない判決を先送りしただけだった。

 真希が己の感情の底辺を知るには、まだもう少しの時間が必要であった。

−4−

 藪を突付いて蛇を出す――そんな諺を、折原浩平が今日ほど実感したことはなかった。発端は――彼の友人である住井護の女子生徒ランキングなどという馬鹿馬鹿しい企画の書かれた紙をうっかり七瀬留美に渡したことだった。それを、乙女とは何か根本的に勘違いしている感のある留美が真面目に受け止め、そして浩平は半強制的に協力せざるを得なくなった。

 そして来るべき第一ラウンドはすぐにやって来た。留美――ひいては浩平の列に英和訳の順番が回ってきたのだ。留美は、これに答えることができないと自分に対する評価が下がってしまうと惑い、浩平に助力を求めた。浩平は、男性の持ち得る一般的な価値観としてあまり賢すぎる女性を好きでないから、賢才ぶりを発揮するのは効果的でないと思った。寧ろ、分かりませんと甘えた口調で、舌でもぺろりと出した方が男性に対する受けは良くなると浩平は今でも信じている。

 が、浩平自身は例えばブラウン管の中で芸能人がそんなことをしているとむかつく性質だし、留美の直向さを見ていると茶化すようなことも言えなかった。浩平は直前まで結果を捻り出すのに苦労した訳だが、何とか正解を導き出すことができた。留美が感謝の意を表す姿を見てほっとすると共に、まさかこんな修羅場がもう一度回ってくるとは考えもしていなかった。

 その予期せざる試練が留美に、ひいては浩平に振りかかったのは午後の授業である。不意打ちの好きな現国教師が、感じの抜き打ちテストなるものを実施したのだ。やはり、この順位が人気投票に影響すると考えた留美は、再び浩平に助力を求めた。

 浩平はカンニングという最終手段まで使い――何とか長森瑞佳と同じ順位にまで漕ぎつけることに成功した。住井にランキングの順位を聞いたところでは、転校生という物珍しさもプラスの要因に働きトップ独走中とのことだった。

 頭を使うことが一日に集中し、久々充実した学校生活を過ごした浩平は思考にかかった霧を振り払うかのように大きく背伸びをし、教室を出た。突付いた藪から――蛇が飛び出して来たのは正にその瞬間だった。

「やあ、こんにちは」

 正門前で待ち伏せしていたのだろうか――実に良いタイミングで一人の女子生徒が飛び出してきた。浩平はその女性に見覚えがあったが、名前までは覚えていなかった。クラスメートですら名前も把握していない女子生徒が殆どであったから、話もロクにしない人間は基本的に浩平の記憶領域から抜け落ちている。だが、それにも関わらず――浩平は目の前の女子生徒の登場に何か漣めいた不安を感じた。

 自分のことを見ても、合点の行く表情を見せない浩平に、彼女は苦笑いにも似た表情を浮かべた。そして、やれやれといった調子で首を振る。

「その顔じゃ、僕の名前は覚えて貰っていないようだね。現代国語の時間では、散々――僕の答案用紙を盗み見したくせにね」

 くすくすと笑う女性に――しかし浩平はこれ以上ないほど狼狽していた。見覚えがある、嫌な予感がすると思ったら、彼女は浩平の斜め前にいる女子生徒だった。短髪で長身で目立つ要素は満載なのに、いつも空気と溶け込むように存在しているからついつい忘れてしまう、彼女はそんな存在だった。恭崎鈴華――混乱した思考が不意に、彼女の名前と属性とを浩平に蘇らせた。

「ば、ばれてたのか――」

 浩平としては巧妙にあれをやってのけたつもりだったから、突然の指摘に浩平は思わず後ずさりした。口封じ――という物騒な言葉さえ心の中に浮かんだ。浩平の心理に浮かんだ危険な色を鈴華が読み取ったのかは分からないが、彼女はまるで話すことが楽しくて堪らない様子だった。相変わらずの笑顔を崩さぬままに鈴華は言葉を続ける。

「他の人にばれないのが不思議なくらいだったよ。もっとも、あんなに堂々としていれば逆にカンニングと他人の目には移らないのかもね。賢明な大臣は何処に手紙を隠したか――百五十年前の思考遊戯がこうして現実世界で実証されていることはとても面白いね」

「大臣が――何だって?」

 どんな意味があるのか浩平にはさっぱり分からず、思わず強く尋ね返していた。しかし、それは左程重要なことではなく、鈴華は少しがっかりしてみせただけだった。

「やれやれ、ポゥの有名作品だよ。まあ、そんなことはどうでも良いけどね。ここで僕が君を待ち伏せていたのは、個人的に少し君と話がしてみたかったからだよ、折原浩平君」

「個人的に、話――条件次第では見逃してくれるってことか?」

「成程、なかなか頭の回転が良いね。けど、そんな瑣末事はどうでも良いのさ。僕は君と、七瀬留美君がカンニングした件で教師達に告げ口する気はないよ。事を無意味に荒立てたって面白くない、君にとっても、僕にとってもね」

 事を荒立てる気はないと、鈴華は言った。それは浩平にとって喜ばしい出来事なのだが、それにも関わらず鈴華の態度や口調から滲み出る何とも言えない違和感は消えない。曖昧な、何事とも取らせない鈴華の物言いも、その傾向を助長していた。まるで、小さい頃にビデオで見たエルキュール何とかという探偵みたいだと思いながら、浩平は鈴華を凝視する。大きな図体と、それ以上に深遠でありそうな頭脳が何を秘めているのか、浩平は何としてでも読み取るつもりでいた。

 しかし、鈴華は浩平の興奮をいなすように表情を和らげた。そして鞄から、缶入りの珈琲を二本取り出す。

「ほら、珈琲でも飲みながら――そうだ、中庭にベンチがあったよね。そこで、ゆっくり腰を落ち着かせた方が良いと僕は思うね。長い話って訳ではないけど、かといって短い話でもないから。もしかして、砂糖やミルクが入ってると駄目なのかな? それとも――最初から、僕の話を聞くつもりがないのかな?」

 鈴華の喋りには屈託がなく、浩平に危害を加えようとしている風には見えなかった。彼女は今のところ、実に友好的に浩平に接していた。かといって、浩平が鈴華の全てを信じた訳ではない。鈴華が何を切り出すか以前として浩平には不明であり、招待を断ればカンニングのことを盾にされるのも目に見えたからだ。

「甘い物は好きだから珈琲は別に気にならないが――何を話すかはとても気になる。それに、聞きたくないと言っても無駄なんだろ?」

「うん――やっぱり頭の回転は早いね。それにとても独特だ――普通、こういう時いの一番に珈琲のことを言及する人なんてそうはいない。折原浩平君、君は筋金入りの変わり者だよ――想像していた通りの人物だ」

 浩平は早く本題に移りたかったのだが、鈴華は一人で興奮しているようだった。それにしても――筋金入りの変わり者と評された挙句、こうも喜ばれるのは何とも言えぬ複雑な気持ちを浩平の中に宿した。もう少し要約すると、喜んで良いのか悲しんだ方が良いのか浩平には判断がつきかねた。

「まあこれ以上、立ち話もなんだからさっさと行こうか」

 鈴華は、まるで付いてくるのが当たり前の如く躊躇わず前を向き、そして中庭のベンチまで一度も振り返ろうとしなかった。天邪鬼な浩平はそのことに一縷の反発心を抱いたが、今までの鈴華の挙動から元からの変え難い性格なのだと判断するとそれもすぐに消えた。浩平も一応、変な人間という自覚はあるが、目の前の女性――恭崎鈴華には勝てないという確信がある。

 鈴華と浩平は並んでどっかりと腰を降ろす。珈琲を受け取ると、浩平は何も言わず一気にそれを半分ほど飲み干した。既に購入されてから時間が経っていたであろう珈琲は、人肌に近い温度にまで下がっていたが、余り珈琲の味を気にしない浩平にはどうでも良いことだった。それよりも今は、鈴華の話が気になっていた。

 鈴華は案外に上品と珈琲を啜ると、上機嫌に口を滑らせた。

「やっぱりカフェインは人間の一番の友人だね。覚醒作用はあるけどニコチンのように中毒性はないし、いつも一定の作用を与えてくれる。珈琲こそ、人間の見出した最も賢い飲み物だと思わないかい、折原浩平君」

「――なんか、実際に煙草を吸ってるみたいな物言いだな」

 実感のこもった表情といい、嗜好物質を求める時の微かに浮かぶ物憂い表情といい、鈴華の態度は喫煙者のそれにしか見えなかった。

「うん、吸ってるよ」

 鈴華はあっさり肯定し、ポケットの中からジッポのライタを颯爽と取り出してみせた。その、素早く火を付ける動作といい使い込まれた感じといい、鈴華が少なくとも数年来の愛煙家であることは浩平にも見て取れた。そして、鈴華が自分と同じ年齢であることに今更ながら気付き、思わず間の抜けたことを尋ねていた。

「なあ、高校生っていうのは大抵、未成年じゃなかったっけ?」

「もしかしなくても未成年だね」

「――良いのかよ。今から弱み握って脅そうって時に、自分から弱味を見せたりして。普通、煙草吸ってるのがばれたら無期停学だぞ」

 浩平がする必要もない忠告をすると、しかし鈴華は全く動じる様子を見せなかった。寧ろ、予定通りに事が運んだ策士が見せる恍惚さえ浩平には感じられた。

「ふふっ、別に僕は君を脅す気はないよ。だからこうして君と同じ分、弱味という名のカードを敢えてここで切って見せたのさ。折原浩平君、僕は君と対等の立場で話したいと思っているからね。さて――これで安心できたかな?」

 いかにも大胆不敵、かつ何かを未だに隠蔽しているという根拠のない確信、そして浩平など到底叶いそうもない余裕に満ち溢れた自信。表層では鈴華と同じ位置に立っていることを認めたにしろ、心の奥底で浩平はどうしても納得できないものを感じる。立ち回りが余りに最適化され過ぎていて、相手の意のままに動かされているような気がした。

 浩平は自らに強いた気構えを崩さぬまま、固く強く肯く。そんな浩平の態度も計算済みであるように、恭崎鈴華は口火を開いた。

「では――本題に移ろう。本当は君と私事でとっくりと話をしたいけど、君はそれを望んでいないだろうからね。折原浩平君、君は七瀬留美という女性をどう思ってる?」

 いきなりの核心をついた質問に、浩平は些か戸惑った。自分が七瀬留美をどう思っているか――何故、恭崎鈴華という女性がそのようなことを聞いてくるのか、浩平には全く心辺りがなかった。とはいえ、何も答えないというのも癪なので浩平は思い当たる限りのことを思考から引き出し、並べ、一つの意志としてまとめる作業を試みた。

 そして熟考の後――といっても実時間にすれば数秒のことだったが――浩平は幾つかの疑問を残しながら言い切る。

「からかうと面白い奴――かな?」

 一息でまとめたにしては的を得たものだと浩平は自己満足する。だが、その評を聞いた鈴華はまるで壊れた機械のようにげらげらと笑い始めた。その勢いの強さに、浩平は彼女の気が違えてしまったかと危ぶんだ。

「あは、あははっ、あははははっ――いや、確かにそうだ。あそこまでからかいがいのある人間なんてそうはいない。浩平君、その意見は正に的を得てるよ」

 何がそんなに可笑しいのだろう――浩平は自分が笑われている気さえして鈴華を訝しむような視線を向けた。が、鈴華の笑いはまるで些細なバグであったかのように、或いは間違った感情スイッチを押したかのように、ある一瞬を境にぴたりと収まった。そして次に現れたのは、至極真面目な表情と態度だった。

「それもあるね。だが、それを七瀬留美を評するファクタとして捉えている人間は殆どいない。恐らく、僕と君くらいのものだろう。大概の者に、七瀬留美という女性はこう移っている。とても可愛くて――それこそ君の親しい長森瑞佳君並にだ――しかも抜群に人当たりが良い。八方美人で、特に異性への受けはとても良い。彼女のシンパも、急速にクラス内に形成されつつある。転校生ということを差し引いても、彼女はとても目立つ存在だ」

 鈴華の意見に、浩平はたった一つの部分を除いてまあ妥当な線と受け止めることができた。そして、その一つも敢えて指摘する類のものではなかったから、浩平は無言で次の言葉を促す。鈴華は浩平の心理を読み取り、ぴしゃりと言い放った。

「――だからこそ、彼女はとても危険だ」

「危険?」

 確かに暴力的で危険な奴には変わりないが、浩平には改めて指摘されることのないもののように思えた。しかし、鈴華の次の言葉は流石に浩平の想像を越えていた。

「危険だよ。世の中には良い目立ち方と悪い目立ち方がある。例えば、君の目立ち方は良い目立ち方と言えるね。だが――七瀬留美君の目立ち方は悪い方だよ。鈍感な君には分からないだろうけど、ある種の人間には自然と反感を芽生えさせる確率が極めて高いんだ。だから、彼女に言い聞かせて欲しい。人気投票で一位を狙うのは勝手だけど、目立とうとするのはそれくらいで留めておいた方が良いってね」

「ふーん、そんなものなのか――って、何でお前が人気投票のこと知ってるんだよ」

 人気投票は男子のうちで秘密裏に行われていることだから、鈴華がその存在を知っていることが浩平には不思議だった。

「あれで隠してるつもりかい? 女子の殆どはそれを知ってるし、誰が一位になるかそれこそ男子の分からないところでひそひそと話しているんだよ。元々、女性の方が情報ネットワークの網は広いということを、男性はもっと知っておくべきだね」

 浩平は鈴華のその一言に、したたか打ちのめされた。これでは、じっと影から留美を支えていた自分が馬鹿みたいだった。

「だが、それ故に――今後、七瀬留美君に反感が更に集まるのは必死だね」

「反感って――何でだよ。七瀬は別に悪いことはやってないだろ」

 浩平の知る限り、留美が他人の反感を買うようなことをしている場面に出くわしたことは一度もない。誰にでも馬鹿が付くほど丁重で、時にボロは出るけどそれは浩平にだけだ。そして、当の浩平はそんな留美に反感など覚えていないのだから、誰かが留美を恨んでいるなど、浩平には思いもよらぬことだった。

 しかし、鈴華は浩平のそんな認識を嘲笑うかのように言葉を続ける。

「人間は嫉妬深い生き物だよ。特に女性は同姓の美貌において、時にはこれ以上とない醜さに満ちた嫉妬の感情を噴き出すことがある。現に、転校してきて数日経つのに七瀬留美君には同姓の友達が一人もいない。それが、彼女がいかに悪いタイプの目立ち方をしているか、如実に示していると思わないかい?」

 そんなことはない――と言おうとして、浩平はふと黙り込んでしまう。確かに転校してからの数日間、彼女が長森瑞佳以外の女子生徒と親しげに話している場面を一度も見たことがないという事実に行き当たったからだ。

「けど――それは七瀬が悪い訳じゃないだろ?」

「無論――だが、人間の感情はそんな簡単には割り切れない。理性より嫌悪が先行することだって大いに有り得るんだよ――残念なことにね。そして折原浩平君、君の存在が事態をよりややこしくしてる」

 浩平は自らを名指しされ、思わず反論しようとする。しかし、鈴華の闊達な弁舌の方が僅かに勝っていた。そして、彼女は浩平に断言した。

「はっきり言おうか? 君は七瀬留美君と距離を置いた方が良いね。でなければ、きっと彼女は酷い目にあう。これは推測でも注意でもない。最早、警告の域だよ。如何に七瀬留美君が君にとって楽しい玩具であっても、彼女は――人間なのだから」

「ちょ、ちょっと待てよ。それ――どういう意味だ?」

 推測、注意、そして警告――。不穏当な単語の連続に、思わず浩平は声を張り上げていた。今の鈴華の言い分だけでは、全く意味が分からない。せめてもう少し、納得のいく答えが欲しかった。自分の心を納得させられる答えを。

 しかし、鈴華は何も答えず素早く立ち上がると浩平に背を向けた。

「そのままの意味だよ。君は、あの世話焼きの幼馴染みとつるんでいるのが一番お似合いだし、すぐにそうしないといけないってことさ。そして願わくば、君が僕の忠告を聞き入れてくれることを祈るよ。僕は滅多に人には忠告しない――こうして君に介入するのも、僕が君のことを好きだからということを覚えておいて欲しいね。それじゃあまた明日、学校で」

 そして、残った珈琲を全て飲み干すと鈴華はそのまま背を向けずに立ち去ってしまった。後には狸に化かされたように表情を凍りつかせた浩平だけが残される。彼は、先程までの鈴華の言葉を自分なりに反芻していた。あの勿体ぶった口調、そして警告。七瀬留美と一緒にいると、彼女が不幸になるというとびきり不穏当な宣告に、浩平は得も知れぬ昏い感情の迸りのような者を感じた。それが恭崎鈴華という自信家の口からでたものであるが故に尚更。

 だが、生来の天邪鬼で通っている浩平は鈴華の言いなりになること――そして彼女の論旨を受け入れることを頑として認めなかった。留美とつるむことは嫌いではなかったし、何より瑞佳の名前が出されたことが浩平の反発心を煽った。鈴華はこの点だけにおいては、折原浩平の人格において大きな考え違いをしていた。浩平にとって長森瑞佳との関係を強く邪推されることはどのような機会であれ大きな反発の火種となるのだった。

 浩平は鈴華の人格と警句に、だから引かれるものはあったにしてもわざと黙殺した。別に七瀬も俺も悪いことはしていないと、浩平は何度も自らの旨に言い聞かせ、鈴華に続いて中庭を後にする。残った珈琲は既に救いようのないほど冷えていたが、浩平は我慢して飲み干した。

 

 次の日、浩平の助力かどうか分からない励ましと――そして多分に披露された七瀬留美の魅力によって、留美は人気投票で一位を取ることに成功した。途中、留美がお腹を壊すという最大の危機には見舞われたが、それも浩平の機転で回避することに成功したのだった。

 彼女はそれこそ、まるで本当に乙女になれたかのように喜び、浩平とそれを分かち合った。その屈託ない姿を見ていると、留美が他人の反感を買うような性格でないと確信することができた。

 その日の放課後である。再び恭崎鈴華が珈琲を二本持ち、しかし昨日より底意地の悪い笑顔を浮かべて校門に立っていた。浩平は誘われるように再び中庭に向かい、昨日と同じように並んで腰掛けた。

「どうやら、七瀬留美君は人気投票で一位を取れたようだね――おめでとう」

 全然、めでたく思っていないことは鈴華の冷めた口調から一目瞭然だった。昨日といい今日といい、この女は何を主張したいのか浩平はやはり真意を量りかねていた。すると、鈴華はまだ気付いてないのかと言いたげに、浩平をある事実へと誘導した。

「ところで――五時間目の授業は大変だったね。ずっとお腹の調子が悪いようだったけど、首尾良く耐えられたみたいで良かったよ。ところで、これからは食事に気をつけるよう七瀬留美君に言っておいた方が良いね。いつ、どんな食べ物に変なものを混ぜられてるか――分かったものではないし」

 鈴華は身を震わす仕草を見せ、それから昨日も覗かせた不敵な笑みを表情に帯びた。浩平は最初、何を言いたいのか分からなかったが、すぐに許容できない事実が含まれていることに気付いた。

「もしかして――お前がやったのか?」

 浩平は、俄かに怒りを込めた声で鈴華を問い詰める。が、彼女はやはり柳の如く怒りも――そしてどのような感情もすり抜けるように、浩平の言葉を受け流した。

「さあ――それを馬鹿正直にいうほど僕もお人好しじゃない。けど、一つだけヒントをあげようか――僕は七瀬留美君の朝食や夕食には一切、手を触れることはできない。そして僕は彼女の昼食に何も細工をすることはできなかった。空間的にも、時間的にもね。では、僕は如何にしてそれを成し遂げただろうか――」

「つまりは――何もやってないってことなのか?」

 鈴華の言葉は大層思わせぶりだったが、総合すると鈴華は留美に何も手を下していないという結論が浩平の中に導き出された。

「やっぱり、君は何も分かってないよ――折原浩平君」

 浩平のあまりに断定的な結論の出し方に、鈴華は初めて怒りらしき感情を滲ませた。それは、必死で考え出した数学の問題に生徒が即座に答えはないといって憤慨する――そんな教師の反応によく似ていた。

「僕は君に警告して、君はそれを聞かなかった。だから、僕はちょっとだけ強い出方をさせて貰っている――それだけのことだよ。けどね、君が態度を改めなければ七瀬留美君には近いうち、今日の奇禍とは比べ物にならないほどの人災が訪れるってことは間違いなく言えるだろうね。そして――これ以上、僕の警告に耳を傾けないなら僕はもう何もしない。元々、他人に介在するのが嫌いなんだ。本当は――別に静観しておいて事態が窮極的に拗れるのをただ見守っていても良かったんだよ。その意味を――もう一度だけ考えて欲しいね」

 鈴華は浩平に恩を着せるかのような、断定的で厳しい言葉を投げ付ける。一瞬、激しい反感と怒りが浩平の中に生まれたが、しかしそれも鈴華の意表を突く行為によって雲散霧消してしまった。彼女は――浩平に強く頭を下げたのだ。しかも、これ以上ないほどの丁重な仕草で。もしかしたら留美に下剤を盛ったかもしれないのに、浩平はそれだけで鈴華に対する悪感情を全て忘れてしまった。それだけ、彼女の一礼は力を持っていた。

「僕にできるのはこれくらいだ。後は君が判断して行動して欲しい、それも賢明な行動をね――折原浩平君」

 まるで逃げるような足取りで、鈴華はこの場を立ち去ろうとする。浩平はその前に、一つだけ聞いておきたいことがあった。恐らく最も重要なこと。

「それで――お前は七瀬に何かしたのか?」

「それくらい、自分で考えてみたらどうだい? 何でも、尋ねたらそれに相応しい情報が手に入ると思うのならその考えは改めた方が良いね。もっと情報には禁欲に――そして自分で考えることだよ」

 ある意味では負け惜しみのような言葉を残して、鈴華は今度こそ浩平の視界からその映像を消した。浩平には、まるで鈴華が霧のようにして姿を消したかのような錯覚を覚えた。目を擦り、幻像を払拭した後においても浩平の頭の中には様々な疑問が渦巻いていた。自ら、七瀬留美に下剤を盛ったと告白するかのような鈴華の主張。そして、再び予告された七瀬留美に対する災禍。

 浩平には鈴華の考えが全く分からなかった。今となっては彼女を怒らせず、もう少し話を聞きだすべきだったと後悔している。あの調子では、鈴華はあれ以上、何事をも語ってくれそうになかった。

 それに何より――今考えるととてもはっきりしているのだが、誰も七瀬留美の昼食に下剤を投入することなどできないことに浩平は気付く。何しろ、留美と一緒に昼食を取ったのだからそれは確からしいことのように思えた。

 でも、彼女なら――浩平は鈴華の不敵な笑みを思い出す。何か、人知を絶する方法で下剤を盛ることもできたのではないだろうか――そんな邪推が浩平を支配する。

 だが結局、恭崎鈴華から託された予言や仄めかしのの類は一晩考えた挙句、浩平は何一つ受け入れないことに決めた。鈴華の言葉は酷く曖昧なものであったし、浩平は強く自らの慣性に訴えるものがない限り、例え神の言葉であろうとも信じない。

 それに次の日から一人ではあったが、留美と積極的に会話を交わす女子生徒が現れ、なおのこと浩平には鈴華の言葉が単なる杞憂に思えたのだった。そして浩平自身、移り気なところがあったため、しばらくは留美との関わりも薄いものとなった。これは別に鈴華の忠告を聞いた訳ではなく、浩平自身の意志だった。

 平穏で寒くはあるが麗らかな日差しと日常に没し、浩平はいつしか鈴華が提出した謎のこともすっかり忘れ、毎日を恙無く過ごしていた。

 それ故、浩平は留美とその女子生徒の交流が数日しか続かなかったことも――そして最後に二人が会話を交わした時、女子生徒が殺意にも似た憎しみの視線を留美に叩きつけたことを浩平は知らなかった。

 浩平の存知得ぬところで、一部の女子生徒から七瀬留美に対する悪感情は暴発寸前まで高められていた。そして、それが歪な方向に爆発することも――その一員の中心に広瀬真希がいることも、事態が現実のものとなるまで浩平には知る由もなかったのだった。

 黎明の季節は過ぎ去り、誰の元にも本格的な冬が訪れようとしている。体を底冷えさせるような寒波と――心の凍て付くような真実の冬が。そして誰も、聖夜の鐘楼の音が不吉の足音などということには気付かない。

 そう、誰も――気付かなかった。

FACTOR01, "DAWN OF WINTER" IS OVERD.
CONTINUE TO PHASE02 AND FACTOR02.

[PREV PAGE] [SS INDEX] [NEXT PAGE]