黎明の季節

--Dawn of Winter--

We dreamed many of many branches for the futures.
In the dream, they almost fragiled or collapsed.
Little others couldn't look anymore.
Finally, I Wake up without looking these futures.

(NOW AND THEN...)

−0−

 最初、折原浩平の元に飛び込んで来たのは、悠久の更にその果てまでを臨むような、深い乳白色の雲だった。夕刻が近いのだろうか、地平線に迫る太陽が赤く染まり、雲の隙間から僅かに漏れ出していた。これほど広遠に存する雲なのに、雨の薫りは全く感じない。ただ、そこに雲があるから存在し、そしてそれ故に太陽も存在しているようだった。

 周りにはビルどころか、草木一本すらない。ふと疑問に思い、下を覗くとそこには大地すらなかった。そこで初めて、浩平はこの世界の奇異を身に実感することができた。つい先程まで、自分が存在していた『世界』とは、趣も物理法則も異なる世界。

 奇妙だった。本当なら、地面もないのに墜落も浮遊も上昇もせずに存在すること自体を不思議に思わなければならないのに、不思議とそういう気概は沸いてこない。以前の好奇心や悪戯心は、一体何処に行ってしまったのかと訝しむほど、浩平は落ち着いていた。

 だが、心の底では分かっていた。いや、分かっていなければおかしいというべきだった。この世界は何時からか、浩平の中で生まれ、浩平の中で育ち、そして浩平の中で発現した世界だったからだ。そのことを瞬時に理解していたからこそ、浩平は無意識に追及を止めていた。勿論、彼の究極的な楽観思考もそれを後押ししていただろう。

 地面がなくても存在できるなら、それでも良かった。それで何かが変わる訳でもなく、ここはここなのだから。浩平はそんなことを考えながら、存在しない地面を踏みしめる。まるで、この世界に辿り着いたことを再確認するかのように。

 えいえんのある場所。

 折原浩平はいま、その場所にだけ存在している――。

−1−

 どんなに寝起きの悪い人間にも、目覚めの良い一日というものは存在する。今日の折原浩平が正にそれだった。何の違和感もなく覚醒し、脱力感も疲弊感もなく上半身を起こしてしまうと浩平は首を捻る。

「おかしい、俺がこんなに早く目覚められる筈がないぞ――」

 妙に部屋が暗いのでと不審に思って覗き込んだ時計。故に正確な時間は分からなかったが、まだ六時を五分ほど過ぎた時間帯であることはおぼろげに判別できた。いつもなら、まだ深い眠りに身を投じている時間だ。もしかしたら、夕方の六時かもと思って付けたテレビは、間違いなく朝の六時のニュースをブラウン管を通して発信していた。浩平はテレビを切り、しばし考えてから結論を出す。

「そうか――これは夢だ。俺がこんなに寝起きの良い筈がないからな」

 現実に眠っているのなら、夢の中でも眠らないと損だ。浩平は倒錯した思考を発揮し、先程まで眠りを共にしていたベッドに倒れこみ、素早く布団を被り、目を瞑った。だが、五分経っても十分経っても眠気は襲って来ず、渋々と浩平は体を起こした。

 十一月末の気温は、お世辞にも寝間着一枚で過ごせるほど暖かくもない。特に今日は寒いらしく、剥き出しになった肌から痛むような寒気が入り込んでくる。その痛みで、浩平はようやく今の状況が夢によって生み出された都合良い虚飾ではないことを自覚した。覚醒を促す何の要素も存在しないのに、完全な目覚めが訪れている事実に困惑しながら。

 が、しばらくすると別に困ることでもないことが分かってくる。朝、早く目覚められるということは、それだけ余裕を持って朝の準備ができるということだ。天気予報を見る時間がなく、午後から雨が降ることも知らずに家を飛び出し、土砂降りの帰り道を駆け抜けることもない。朝飯抜きで、午前中一杯、腹を情けなく鳴らすこともない。すると人並み以上に現金な浩平のこと、意味もない昂揚感が体を満たし、数瞬後には登校の準備を始めていた。

 先ず、いつもの習慣で窓を開け、布団を外に干す。まだ太陽は稜線の底に存在し、微かな光だけが僅かだけ空を白く浅く染めていた。正に黎明と表すのに相応しい時間だった。町並みを眺めると、新聞配達員の男性が自転車に乗り、颯爽とアスファルトの道を通り過ぎていくのが見える。籠に重ねられた新聞は少数で、大概の配達を終えたことが浩平の目からも判じられた。

 布団を干し終えると、鞄の中に今日の授業の分の教科書やノートを詰めていく。しかし元々、大抵の教科書を学校の机に放り込んでいる浩平のこと、用意の完了した鞄はとても六時限までの授業があるとは思えない程の薄さだった。

 それから、既に着慣れた感の強い制服に着替える。ワイシャツに緑のネクタイ、白のブレザ、緑のズボン――プレスの筋がきちんと入っているのは二週間に一度、長森家で洗濯、アイロンがけが成されているからだ。

 いつもなら、着替えている横で長森瑞佳の急かし立てる声がひっきりなしに響くのだが、六時半前なら瑞佳でも眠っているかもしれない。浩平の脳裏にふと、今日はこちらから起こしに行ってやろうかという考えが浮かぶが、止めておいた。安眠を妨害されたとなれば明日以降、どのような起こし方をされるか分かったものではないからだ。只でさえ、起こし方が乱暴になっている昨今、これ以上の激しさは浩平としても避けたいところであった。

 長森家襲撃計画が未遂に終わると、浩平は鞄を持ち階下に進む。もしかしたら、叔母の由起子がいるかと思ったが、台所には今日の朝食のおかずと、昼食の学食代があるのみで、肝心の由起子の姿はない。既に出掛けたのだろう――多忙な人だ。本人でもないのに由起子のハードワークぶりに溜息をつくと、浩平は朝食の用意に着手した。既に温もりのない炒り卵と野菜炒めを傍目にパンと珈琲の体裁を整え、数分でそれらを平らげる。食べ終えてから、こんなに急いで食べる必要のないことに気付いた。

 案外、習慣とは直らないものらしい。浩平は残りの時間をどう潰そうか迷ったが、結局、テレビ以外の選択肢は思いつかなかった。アイドルのスキャンダルや凶悪事件には心惹かれるものもあったが、それを下世話にかつ無闇と思想的に話す姿が浩平にはどうしても気に食わない。天気予報を確認し、終日晴天であることが分かったところでテレビの電源を落とし、柄にもなく食器洗いなどもしてみたが、それでも七時を少し過ぎた頃にはやることがなくなってしまった。

 無駄に時間がある時は、過ぎるのもまた緩慢だ。浩平は退屈に耐え切れず、十分もしない内に家を飛び出した。いつもより一時間も早いが、学校の方がまだ暇潰しもできる。クラスメートの一人か二人、捕まえて話でもしていた方が余程ましだった。

 ゆっくりと登校するのは何日ぶりだろうか。格別に緩く進む風景に、浩平は普段の自分が如何にあくせくしていたのかを感じていた。全速力で走っていれば、朝に鳴く雀の声が意外に五月蝿(うるさ)いことも分からないし、通り過ぎていく会社員も学生も意識しない。きっと、急いでいる時には時間内に学校へ辿り着くこと、そのことを絶対目標とした感覚が醸成されるのだろう。今は逆に、色々なものが感じられ過ぎて困るくらいだった。

 薄靄(うすもや)にも似た膜が、早朝の光景をそっと包んでいる。それは、大気がこの街を母のように包んでいるかのようだった。誰もが少しだけ優しくなれそうな、俯瞰(ふかん)の魔術に浩平もかかっていたのかもしれない。やがて、一人の少女をみかけるに至り、抽象は具現へと形を変えつつあった。

 少女は、何かを抱きかかえて泣いていた。同じ高校の制服を着ていたから高校生には間違いなかったが、その一切を排除するような泣き方は寧ろ、浩平の心に強い幼児性すら匂わせた。道端の真ん中で体を投げ出し蹲(うずくま)り、何かをしきりに叫んでいるが、側まで近寄り初めて、浩平には少女の狼狽の理由が理解できた。

 最初に目についたのは、血だった。アスファルトの道路一杯に広がった血は、なにものかの悲惨を浩平の心に植え付けるには充分すぎる量だった。その血溜まりの中心で、少女は一匹の犬を抱きしめ、浩平の接近にすら気付かず咽(むせ)び泣いている。しかし、時折泣き声に混じって聞こえてくる言葉は浩平の予想だにしないものだった。

「にいさんが、にいさんが死んじゃう――」

 にいさん――既に血液を流し切り、世を果てた風に見える仔犬のことを、確かに目の前の少女はにいさんと呼び続け、そして泣き叫んでいた。まるで本当の家族であるかのように、心を込め、愛おしそうに。浩平にはその光景が、幼い頃に聞いた壊れたレコードの声を連想させた。針とレコード、双方に傷がつき、一回転するごとに元の場所に戻り同じ声と音楽を繰り返す、あの不気味さ。少女の絶え間ない呟きは、あの時の壊れたレコードに、とても似ていた。

 何処かが、何か良く分からないけど、少女の大切な何かが壊れている。そしてそれは、少女が抱き続けている仔犬と因果関係を持っているのだ。浩平は直感的に、そう理解した。何故、自分にそんな感性があるのかは分からないけど、少女が壊れていることだけは分かった。

 一瞬、浩平はどうしようか迷った。これは明らかに厄介事だし、ここは通学路だから自分が居なくても後に通りがかる生徒や会社員がどうにかしてくれるかもしれない。それに――浩平は恐かった。正直言うと、目の前の光景が恐かったのだ。それが自分の、どんな体験と根ざしているかは判断が付かない。だが、少女の泣き伏せ方には自分の琴線を揺さぶる何かがある。本当なら、ここから今すぐにでも離れてしまいたかった。本能は、そう命じている。浩平は何度か唾を飲み込んだ――心落ち着かせるため。

 そして、次にはゆっくりと駆け寄っていた。確かに、関わり合いになるのは嫌だったが、だからといって血塗れの少女と仔犬の死骸を目の前にして無視できるほど、浩平は非道な性格ではなかった。それに、好奇心――と言っては語弊があるかもしれないが、同じ学校の生徒だ。興味もあった。

「にいさん、ごめん――ごめんなさい」

 近付くと、少女のか細い叫び声は一層、鮮明となる。

「――だったのに――してたのに、傷つけるつもりなんてなかったのに――」

 傷つけるつもり――その言葉がふと、浩平の耳に引っ掛かる。では、この血塗れの惨劇はこの少女が全てやったこと? しかし、目の前にいるか細い腕の少女がこれらの残虐を実行できたとは、浩平にはどうしても思えなかった。もしかしたら、仔犬をにいさんと呼ぶのと同じ理由だろうか――その意を確かめるためにも、浩平は少女を宥めなければならなかった。

「おい、大丈夫か――何を泣いてるんだ」

 そっとその肩を掴むと、全身を包む痙攣(けいれん)が浩平にも伝わってきた。それだけでも、少女が如何に興奮状態に陥っているかが分かる。浩平の声にも全く反応しない。もう少し強引にした方が良いかなと思い、浩平は強く肩を掴み、半ば怒鳴るようにして少女に問いかけた。

「どうしたんだ、そんな道端で泣いて――その仔犬、お前の飼い犬なのか、それとも全く関係ないのか? どちらにしてもそんなところでへたり込んでると車が来るし、危ないぞ」 

 塀を隔てた民家にも届くような声を張り上げたにも関わらず、少女は俯いたまま動こうともしなかった。相変わらず、自らの世界に没頭している。幸い、まだ人通りが少ない――浩平は今日、早起きできたことを自分に感謝しながら、少女の手を強引に取り、立ち上がらせようとした。手に粘着性の液体が付着するが、そんなことにかまけてはいられない。鉄臭さと共に巻き起こる嫌悪感よりも、今は少女を何とか平静に戻すことが重要だった。

 が、少女は掴んだ手を強引に振り払った。鋭い気勢と共に。

「いやっ、触らないでよっ。だってにいさんが、にい、さんが――」

 あくまで仔犬をにいさんと呼ぼうとしていた少女――と、振り向いた様に視線が交錯する。浩平はその顔を見て、二重に驚いた。それは、少女の顔が酷く血に塗れていたからだ。彼女は、まるで仔犬に食らい付いたみたいに口の周りが特に真っ赤に染まっていた。まるで恐怖映画のワンシーンを見ているかのような、非現実感が少女を中心として血溜まりを場とし、醸成されている。しかし、浩平が驚いたのはそれだけではなかった。何故なら、目の前の少女は浩平のクラスメートの一人だったからだ。

 広瀬真希――それが、彼女の名前だった。

 生憎、異性間、それもお互いの領域を確立している同士であるので言葉を交わす機会はあまりなかったが、それでも浩平の印象には強く残っていた。いつも、何人もの友人に取り囲まれているリーダ的な存在。ちょっと人を見下した感じもしないでもないが、明るい笑顔で――学校行事などにも積極的に足を踏み入れていく活動的な女性。それが、浩平の持つ広瀬真希という人物の視認像だった。

 理知的で弁が立ち、間違っても取り乱すなんて想像もできない人物だということは、彼女を知る人間なら誰もが頷くところだ。実際、体育祭で上手く楽な役にすり抜けようとしていた浩平を、広瀬真希は弁舌で打ち負かしたことがある。断定的で、自信に満ちた――その姿に正直、浩平は圧倒された。彼女にだけは、できるだけ逆らうまいと密かに心に誓ったほどだ。

 なのに、今の彼女はこんなにも――弱い。何かに打ちひしがれ、取り乱し、自らを喪っていた。酷い妄想の虜にすらなっている。目を真っ赤に腫らし、自信家の彼女など始めから存在しないと全身で訴えてすらいた。普段の彼女と、今の彼女。浩平は、そのギャップに戸惑ってしまった。

 だが、それは真希も同じらしく――浩平のことを焦点も覚束ない瞳で、ぼんやりと眺めていたが、やがてぼそりと呟く。

「あ、れ? どうして、折原がここにいるの?」

「それは、たまたま一時間ほど早く登校してきたからだ。それよりどうし――」

 浩平は真希の質問に答えようとしたが、それを遮るように彼女の言葉が浩平の正気をも覆うように紡がれていく。

「何で――わたし、折原のことなんて知っている訳ないのに――何で知ってるの? わ、わたし――分からない、訳が分からないよ――どうして、どうして折原がここにいるのよっ、居る筈ないのに。だって、たった今、にいさんが、そこで――」

 自分を認識した時は正気に戻ったのかと思ったが、真希の意識は今や混乱の極地にあった。何より、自分が居る筈ないと――そんなことを言われて、何故か浩平は恐くなった。どうしてそんなことを言われるのか分からず、自分がここにいることを無性に示したくて、公平は叫んでいた。まるで熱病に浮かされたかのように、夢中で――それによって相手の心がどう変わってしまうか考えもせずに。

「俺が、何で俺が居たら駄目なんだ――良いか落ち着け、しっかりしろ。俺とお前はクラスメートなんだから、知ってて当然だろ。それに、お前の兄さんが誰だか知らないけど、お前が抱いてるのは人間じゃなくて犬だ。それが――お前の兄さんの訳、ないじゃないか」

 無我夢中で発した言葉。それらのうちの一つ――或いはいくつかだろうか? 浩平には分からなかったけど、不正に動いていた心の動きを指し留め広瀬真希の心は正常へと戻りつつあるようだった。少しつり上がった勝気そうな目に、太陽の反射光以外の光がみるみる宿っていくのを、見ることができたからだ。

 だが、正気に戻るということは今までの狂気を奇異と思うことでもある。当然、真希にもその兆候が現れた。血に塗れた衣服、そして――見ることはできないけどその顔と肌と――。アスファルトにできた血溜まりと、その中心に抱きかかえられた仔犬を見て、真希はうめくようにして顔を背ける。そして、仔犬を――ゴミのように地面へと落としてしまった。まるで、今までの慈悲をなかったことにでもするかのように――彼女の仕草は無慈悲だった。

「ちょっと、何なの、これ――血が――死んでる――あ、ああ――うっ――」

 真希は、手を口元に当てると急いで溝の側まで駆け、そして跪くように顔を寄せた。浩平には最初、彼女が何をしようとしているのか分からなかったが、やがて耳を塞ぎたくなるような呻き声が肺腑(はいふ)を満たし、同時にその理由にも気付いた。彼女は吐いているのだ――目の前の惨状にあてられ、耐え切れず。

 浩平は咄嗟に近寄ると、真希の背をずっと擦った。呻き声と――そしてそれに追随する喉の痛みと、激しい咳が収まるまで。この辺り――酔うまで酒を飲んだ友人を介抱した経験があるのが浩平にとってプラスに働いた。やくざなことでも役に立つことはあるのだなと思いながら、浩平は真希が落ち着くのをずっと待っていた。二人の間を何人かが通り過ぎて行ったようだが、誰も浩平と真希の方に注目しなかった。いや、注目はしただろうが、誰も他に手を差し伸べるものはいなかった。

 そして、微かな咳も苦しげな呼吸も収まったのを見計らい、浩平は改めて声をかける。

「もう――大丈夫か? 気分、悪くないか?」

「――くない」

 真希は緩く、しかし一種の信念をもって首を何度も振った。

「見たくない――もういや、嫌――」

「広瀬――」

 だが、浩平の問い掛けにも彼女は何も語ろうとしない。溝の方にずっと視線を向け、立ち上がることもしない。毅然という言葉が、彼女から全て抜け落ちたかのように。まるで、糸の切れた操り人形のように。辛うじて浩平に分かるのは、血塗れで息絶えている犬の死骸を見ることを極度に恐がっているということだけだった。だから、浩平は――しばし考えた後、犬の死骸を抱きかかえた。

 こんなところに野ざらしにされているのは可哀想だし、せめてもう少し安息できる場所に弔ってやりたかった。ただ、死んだというだけで嫌悪され続けるのは――余りに酷過ぎる。そう考え、ふと眼前で震える人物に嫌悪の――それも剥き出しに近い感情が沸きあがるのを、抑えることができなくなってしまった。何故、急にこんな感情をおぼえるのかは分からない。ただ――真っ先にこうして駆け寄っておきながら、今更見放す広瀬真希という女性の――偽善的な慈悲に腹が立ったのかもしれない。

 ただ、事実として浩平はこれ以上、一言たりとも真希とは正気で会話できそうになかった。口を開けば怒鳴り、詰ってしまう――が、真希の尋常ではない豹変の様からそれもしたくなかった。結局、浩平の取った次善策は仔犬の死骸を抱えたまま黙ってこの場を立ち去ることだった。仔犬さえいなければ、彼女も何れは自らを取り戻せると思ったから。

 浩平は両手で優しく亡骸を抱え、やりきれない気持ちを多分に抱きながらこの場を立ち去ろうとした。その時、背後から涙声にも似た切なげな声が流れてきた。

「ごめん――」

 浩平は、その声に惹かれて足を止める。でも、振り向かなかった。

「その仔、どうするの? ちゃんと、弔ってあげるの?」

「ああ」とだけ、浩平は答えた。それ以上、口にすると本当に――罵声になりそうだったから。

「ごめん、折原――本当なら、それをするのはわたしじゃなきゃいけないのに――」

「分かってる」

 分かってる――浩平はもう一度、心の中で呟いた。でも、広瀬真希にそれができないことは、誰よりも折原浩平が理解していた。理解しているけど――どうしようもない。

 けど、本当に傍観している他に何もできないのかっ!

 その言葉を飲み込むのに、浩平は全精神力を使わなければならなかった。

 けど――。

「本当に――ごめん――」

 その言葉を聞いて、浩平は思わず激情を吐き出した。抑え込もうとして、ずっと食いしばっていた歯からすり抜けた強大な感情の一部を。

「頼むから、もう謝るなっ。それ以上、謝られると本気でお前のこと――詰ってしまう。お前の傷の深さのことなんて全然理解してないのに、俺の主観だけで広瀬のことを、本気で怒鳴ってしまうぞ!」

 どんな理由があろうが、泣きついて慈悲を与えておいて最後には見捨ててしまうなんてそんなの偽善だ。広瀬、お前は最低の偽善者だ、最低の人間だ――。そんな昏い言葉が生まれては消え、消えてはまた生まれようとしていた。浩平の胸に自己嫌悪の念が募る。それだけは、絶対に言いたくなかった。思っただけでも最低なのに、これ以上、最低な人間になりたくなかった。

 浩平の気持ちが真希に伝わったのか――彼女はそれ以上、何も喋らなかった。浩平は仔犬の死骸を抱えたまま、簡単に埋葬できる場所を探した。それも、滅多に人が来ず――間違っても別の存在に蹂躙(じゅうりん)されないような――そんな場所が良い。

 一瞬だけ、真希の顔がどうなっているか知りたいと思ったが、浩平は敢えてそれを打ち消した。そして、考えた挙句、浩平は公園近くの裏山に仔犬を葬ることにした。あの辺りは雑木林で、人も余り近寄らない。心配なのは野犬の類だが、それは深く掘って埋めてしまえば解決するだろう。浩平は素早く頭を巡らせ、数年ぶりに急ぐ用事もないのに学校前の裏山へと足を運んだ。

 この辺りは小学校の頃、浩平とその友人達の格好の遊び場だった。傾度の高い斜面にちっぽけな穴が空いてるのを見て、浩平は当時、こんなことを提案した。「ここに洞窟を掘ろうぜ」と。

 まだ、あの頃は自分の力を過大に思っていた。友人達も乗り気で賛成し、翌日からスコップやシャベル、熊手等を揃えて小さな穴を必死に拡充していった。疲れたら、小遣いを持ち合い買って来たお菓子を頬張り、また掘り続ける。そして一ヶ月ほどで、人一人入ることができるくらいの穴ができた。皆が意気高揚し、何時かは向こう側まで通じるトンネルを掘ろうぜと意気込んでいた次の日――。

 浩平の住んでいる街一帯に記録的な豪雨が降り、浩平達が必死で掘った穴は圧倒的な土砂に覆い尽くされてしまった。洞窟を掘る作業を通して、浩平は結局、一つのことしか学ばなかった。ここにも、どんなに頑張ってもどうしようもならないことがある――。

 そして今、浩平が抱えている子犬もその、どうしようもならないことの一つだった。一つの圧倒的で、残酷な死。両前脚は骨折したのだろう、ほぼ直角に捻じ曲がったまま弛緩している。肋骨も砕けているらしく、固まりつつある血の隙間から覗く犬の手触りは生き物とは思えないくらいの違和感があった。きっと、何処かの車にはねられてしまったのだろう。

 ただ、その表情は激しい苦痛を受けたというのに驚くほど安らかだった。それだけが、浩平には救いに思えた。苦痛に歪んだ顔をしていたら、浩平でも直視するに耐えられなかったかもしれない。それは――死の間際を見てくれた人がいるからだろうか? 広瀬真希という存在がいたから――でも、あいつはお前のこと、死んだ家族の代替物としか思ってなかったんだぞ、それでも幸せなのか?

 しかし、浩平の無言の問いかけに名も無き仔犬が答えることはなかった。

 しばらく適所を探した後、浩平は高台に近い大木の根元に仔犬を埋めることにした。近くに転がっていた枝と、自らの指をシャベル代わりに土を掘る。何度か、爪の間に痛みが走ったが気にせず掘り続けた。何者にも侵されざる、深い深い穴を掘り終えるまで。

 そして、仔犬を埋葬する。土をかける前に浩平は、その小さな肢体を一度だけ目に焼き付けた。死についたものへの、せめてもの供養の意味を込めて。それから、ゆっくりと土をかけていく。僅かに盛り上がった部分に、墓碑としては余りにみずぼらしかったが、シャベル代わりに使った枝を突き立て、最後に手を合わせ――けど、何も祈らなかった。浩平は、神やその類のものに祈ることが嫌いだった。神様なんて、信じたものから馬鹿を見るものだ――それこそが、神について浩平の信じる全てだった。

 全てが終わってしまうと――浩平を襲ったのは徹夜で飲み明かした時にも似た深い脱力感だった。澱(よど)んだ、捉えようのない――もしも許されるならば、このまま家に戻り何もせずに過ごしたかった。が、そんなことをすれば瑞佳に心配される。今日に限っては、余計なことで瑞佳に根掘り葉掘り聞かれるのは避けたかった。浩平は残り少ない気力を振り絞り、裏山から学校の中庭に面する金網へと到達した。あと、どのくらいで開始の予鈴がなるのかは分からないが、ここに来ると体が急いでしまうらしく、浩平はさっさとフェンスを乗り越え校内に入った。

 それから、やや早足で教室まで来たが、時間的にはまだ十五分ほど余裕があった。教室に集まる人の影もまばらで、朝錬を終えたクラスメイトが主だった。まだ長森瑞佳は来ていないし――勿論、広瀬真希の姿もなかった。浩平は軽く挨拶をすると、窓際の自分の席に座り――そこで赤く染まった手を見てぎょっとする。あの時の仔犬の血を、洗い流すのを忘れていたのだ。

 誰かに聞かれると説明が面倒なので、浩平は素早く教室を抜け出し、トイレで血を洗った。鏡を見ると、服にも微かに血が付着していたが――これは、軽い怪我をしたと言えば誤魔化せると判断した。第一、着替えてくる時間もない。そう言えば、彼女の制服には大量の血が着いていたが、制服の予備はあるのだろうか? そんな、愚にもつかないことが何故か、浩平の頭に浮かんだ。

 教室に戻ると、浩平を大声で呼び咎める声がした。

「こうへいっ、何で何も言わずに先に行っちゃったの」

 それが誰だか分かっていたから、浩平は瞬間、肩を竦め、それから何事もなかったかのように振る舞った。内心、手に付いた血に早く気付いて良かったと思いながら。

「今日は何故か、気分が良かったから、ゆっくり歩いて学校に行こうと思ったんだ」

「――はあっ、浩平の頭には私と一緒にゆっくり登校するなんて考えがないんだね」

「ああ、長森と登校するのは急いでいる時だけだからな」

 微妙にずれた会話が交わされた後、瑞佳は少し苦笑しながら、しょうがないなあという風に表情を緩めてみせた。一見すると、恋人同士の痴話喧嘩にも思える会話のやり取りではあったが、少なくとも同じクラスの人間は二人がもう少し微妙な関係であることも、そして浩平と瑞佳のやり取りが日課みたいなものであることも、既知の事項だった。多分、浩平だけがそれに気付いていない。

「まあ良いよ、ちゃんと起きて学校に行ってたなら。でも、浩平の場合、思い付きでどんなことするか分からないから心配なんだよ。ほら、去年の夏休みだって『北国なら夏も涼しい筈だ』って言って、本当に北海道に向かおうとしてたし。結局、札幌で最高気温三十五度だったの、天気予報で見て思い留まってたみたいだけど――」

「馬鹿っ、あれは単なる願望を述べただけであってな――」

 しかし、クラスメートの大半は、折原浩平ならやりかねないと思っている。当の瑞佳は、一度は本気になってみせることも含めて彼一流の冗談であることを見抜いているのだが。そして浩平は、自らの恥部を暴露されたことで慌てていた。が、そのとき丁度、予鈴がなったので浩平はこれ以上の追及をされずにすんだ。午前八時三十分の鐘と共に教室は俄かに慌しさを増し、ギリギリで教室に入ってきた生徒がさも間に合いましたという風な表情で席に着いていった。普段は浩平も同じ立場なのだが、この日はそういう人達を間抜けだなという思いと共に見つめていた。

 そして、朝の朝礼も終わり――ふと思い出したように広瀬真希の席へと視線を沿える。しかし、広瀬真希の席は空いたままだ。今日は休むのかなと浩平は思ったのだが、予想に反して彼女は二時間目の終わりにやってきた。どんな焦燥を称えていると思いきや、真希の顔には澱みらしきものは見えなかった。少し調子が悪くて遅れてやって来たような、それでいて毅然とした表情を浮かべている。そしてそれは、心配顔の友人達が集まるに至って笑顔に変わっていく。晴れやかな、まるで朝のことなどなかったかのような笑顔に。

 浩平はそんな真希の姿に微かな血の匂いも、僅かな悲しみの色をも感じることができない。朝のことはまるで夢であったかのように、時間は平穏と進んでいく。けど――浩平は思い出したように制服のとある部分を凝視する。目立たない程度に残る、血の跡。それは浩平に、あれは決して絵空事ではないよと告げているかのようだった。

 しばし考えてから、浩平はやはり真希に事情を聞いておくべきだと席を立ち、友人達に囲まれた彼女の元へ足を伸ばす。しかし、その中途で不意に浩平の視線は真希のそれと遇に絡まる。その瞬間だけ――彼女は朝方に見せた昏く全てを拒むような瞳に立ち返っていた。それから周りを取り巻く友人達にも気付かない程に、首を何度か横に振った。追求しないでと、彼女はそう言いたいのだ。いくら鈍い浩平と言えど、それくらいは分かる。諦めて、浩平は席に戻り頬杖をつくしかなかった。

 でも――やはり広瀬真希のことが気にかかった。あの鬼気迫る表情、哀しみを帯びた狂気にも似た瞳、何者かの名を呼びながら仔犬をかき抱くその姿、そして慈悲から無慈悲への豹変――あの時、あの場所では何かが――いや、全てが壊れていた。

 その理由を知りたい、と浩平は切実に思う。だが――それとは裏腹に人間には決して踏み込んではいけない心の領域があるのだということも理解していた。容易な覚悟で触れてはいけない、絶対領域。無為に触れればきっと、触れた方も触れられた方も激しく傷ついてしまう心の襞(ひだ)。そういう部分に、浩平は絶対触れたくないと常々思っている。冷徹ではなく、浩平独自の価値観に従って。

 だから、その日の浩平は時々、広瀬真希という存在に視線を沿わせることしかできなかった。彼女の方は、浩平を見向きもしなかったが、意図的に避けていることは明白だった。浩平に、真希は横顔すらまともに向けなかったからだ。

 そして、気が付くと一日の授業は終わっていたが――その頃には浩平も悩むのが馬鹿馬鹿しくなってきた。朝のことを言及されたくないのなら、こちらも忘れたふりして接すれば良い。そうすれば基本的に楽天的な自分のことだ、本当に忘れてしまうだろう。浩平は自分に言い聞かせると、鞄を持ってさっさと教室を出た。久々にゲームセンタにでも行こうかなと算段しながら廊下を抜け、蛍光灯の明滅する階段を下り、簡素なスチール製の下駄箱を臨む。スタートダッシュが成功した所為もあり、まだ帰宅する生徒の影はまばらにしか存在しない。気楽な気分で上履きを下駄箱にしまい、外履きの革靴に足を通している時だった。

「あの――」

 と、弱々しく浩平を呼ぶ声がした。思い当たる声にゆっくり振り向くと、浩平の思ったとおり声の主は広瀬真希だった。急いでここまで来たのだろう、やや癖気味のボブ・ヘアーを大きく揺らし、急いで息を整えている。

「折原――」

 痛々しげな吐息の合間に、真希は言葉を口にする。

「そんな、焦らなくても俺は逃げないぞ。ちょっと呼吸を落ち着けろって」

 そんな仕草が心に余り、浩平は思わず宥めるように言っていた。

「うん――分かったわ――」

 切れ端のような言葉の後、真希は何度も大きく息を吸い、吐いては少しずつ動悸を収めていいった。まるで血流が急速に緩慢としたかのように平常呼吸を取り戻すと、彼女は僅かだけ表情を緩ませた。脆弱(ぜいじゃく)性を必死に隠して、少し見下したような視線を崩さず、彼女は軽く頭を下げた。

「朝のことは、その――迷惑をかけたわね」

 そして、雰囲気に違わぬ少し高圧的な言葉。それは普段の彼女を構成する要素の一つであり、再び謝られると身構えていた浩平にとっては何だか拍子抜けするようなものだった。

「それでさ、あんなことさせといて言うのも何だけど――朝のことはなかったことにしない? 折原は何も見なかった――そういうことにしといて欲しいんだけどさ」

 真希はまるで、ゲームが上手くいかなかったからリセットしない? くらいの極めて軽い気持ちで浩平に言葉をかけてくる。そこには慈悲も偽善すらもなく――都合の悪いことだけ誤魔化して、論うような身勝手さだけが浮かんでいた。朝のことがあるだけに、浩平としては余計に怒りと呆れの気持ちが浮かんで来ざるを得なかった。そして、こんな軽い人間に一日であれ心を奪われていたことを思うと、自分が情けなくさえ思えてきた。どうして、こんな奴を気にかけてしまったんだろう。

「勝手にすれば良いだろ――俺は誰にも話さない」

 浩平は抑揚を乗せずに、ただ単語の羅列をもって真希の提案に答えた。勝手にしろと――内心はそんな思いで満ちていた。

「あ、うん――その、ありがと――」

 その素っ気無さが、逆に真希の気勢を挫いたのだろうか――彼女の口からは辛うじてそんな言葉が漏れた。浩平は殆ど真希の言葉を耳から耳へと受け流し、くるりと背中を向けた。そして靴を整え、少し早足で校門を目指した。この場から、少しでも早く離れてしまいたかったから。

 だが、真希の目から浩平が消えるであろうその直前。彼女は精一杯の気力を振り絞り、浩平を呼び止めていた。

「お、折原っ――」

 その声を受け、浩平は反射的に足を止める。

「その、ごめん――もう一つだけ聞きたいことがあるの」

 真希の声を受け、浩平はぴたりと足を止めた。もし、つまらないことだったら答えず即座に立ち去る気概を整えて。が、真希の言葉は先ほどまでの口調では考えられない慈しみをもった、ある質問だった。

「お墓――あの仔のお墓の場所――を教えて欲しいの」

 浩平は、驚き交じりに後ろを振り返る。その視界に写る広瀬真希の姿は、朝と同じように弱々しく見えた。

「それだけ教えてくれたら、もう全部忘れて良いから。わたしのことなんて、気にかけずにいてくれて良いからさ――あつかましいお願いだって分かってる、何を今更って思うでしょうけど、でも――お願い、折原っ!」

 真希は、浩平に向かって深々と頭を下げる。その態度は、先ほどの軽薄そうなおじぎとは比べ物にならないほど丁重で、拙かった。拙いだけに、余計に思いが真剣に見えた。そして、それだけの仕草で浩平には広瀬真希という女性が全く分からなくなってしまった。明るく軽薄そうで何処にもいそうな女子高生像と、深く昏い澱みを持つ幼児にも似た危うさを持つ女性像と――どちらが本物の彼女なのだろう。浩平は、頭が地面を向いており気付かれないのを良いことに、真希のことを深く凝視した。その本質を見破ろうと、目を大きく見開いて。だが、浩平の行為が成功という結果を伴って報われることはなかった。ただ、見えざる厚い壁のようなものだけ、自らの心に見出したくらいだ。

 取りあえずは、下がったままの頭を元の、対等な位置に戻すことが先決だと判断し、浩平は声をかけた。

「そんな、頭なんて下げるなよ。気になるんだろ、だったら今から連れてってやるからさ」

その言葉に、真希は俄か瞳を輝かせ、浩平の顔を覗き込んできた。

「良いの、本当に――」

「嫌と言ってもお前の性格なら食い下がるんだろ。それに、俺ももう一度くらい、墓前に手を合わせておきたいと思ってたから。もう一人くらい増えたって、構いはしない」

 自分の気持ちをどう表現したら良いか分からず、浩平はやや突き放すように答えた。真希はしばらくどう答えたら良いかも分からず立ち竦んでいたが、やがて少しだけ甘い笑顔を見せた。人を見下すではない、ただの、笑顔を。

「折原――ありがとう、それと――ごめんね」

 浩平は、その言葉に一つ頷きを返すだけだった。ただ確かだったのは、もう広瀬真希を疎むような精神反応は完全に折原浩平の中から取り去られていたということだ。それが何の影響かを知るのに、浩平はまだもう少しの時間を必要とするのであるが。

 この日は、何にも憂いを寄せず――或いは憂いを寄せぬ振りをして、二人はただ歩いた。少し遠回りになるが、再び校門から中庭を抜け、フェンスを乗り越えると目立って仕様がない。一人なら良いが、後隣に広瀬真希がいるとなると、それはできなかった。

 二人はただ目的地まで黙って歩いた。通学路を抜け、公園を横切り、あの裏山に。今日の今日だけあって、目印の殆どない雑木林であっても記憶は驚くほど鮮明だった。やがて木碑というには余りにみずぼらしい墓標の立てられた場所へと辿り着く。ここが仔犬の埋葬場所だと悟ったのだろう、真希は腐葉土の大地に膝を付き、そっと手を合わせた。目を瞑り、彼女は何をどのような存在に祈っているのだろうか? 浩平はそのことを無性に気にしつつも、捧げられた深い祈りのために口を噤んでいた。

そして、真希が立ち上がった時、浩平は素直に聞いた。祈りを捧げた、その場所、その存在を。

「別に何も祈ってないけど――だって、神様なんかに祈ってもしょうがないじゃん。ただ、こうするのが礼儀だって思っただけ」

「そっか――」

 彼女は素っ気無く誤魔化しただけなのだろうが、浩平にはその答えで満足だった。そして、半ば直感的に理解した。広瀬真希という女性もまた、自分と同じように神様など信じられない――そんな深い痛みを伴う体験をしたことがあるのだと。だが、浩平はそのことを問い質そうとは微塵も思わなかった。彼女は忘れてと――触れられたくないと言ってるから。そして、これから先、真希と大きな接点がなければ、その理由を聞く機会は訪れないだろうと確信した。それでも浩平が尋ねなかったのは――彼自身の自覚しない紳士性によるものが大きかった。

 そして浩平は真希と、挨拶も交わさずに別れた。ただの一言――さよならとだけでも声をかけてしまうとその仕草、今まで知らなかった緩さや弱さ、そして絶妙のバランスで垣間見せた笑顔を、きっと忘れることができないだろうから。

 結局、浩平は当初の予定通りゲームセンタに向かい、二時間近くをゲーム筐体に囲まれて過ごした。その、半強制的な娯楽の中で浩平の今日の印象は急速に薄れつつあった。いや、故意に薄くしていったというのが正解なのかもしれない。そのためのゲーム、そして没頭。小遣いの数分の一かを使い果たし、帰宅する。誰も居ない空間、台所に転がっているレトルト食品を適当に温めて食べた。浩平は、そんな生活を一つも嫌だとは思っていない、寧ろ、毎日自由を享受できて嬉しいとさえ思っているのだ。

 しかし――今日だけは何故か、いつもの夕食がとても味気なく感じた。そのままの気分で風呂に入り、ベッドに横たわると鞄の中身も今日の学習内容も確認しないで眠ることにした。週末なので急いで宿題をする必要はなかったし、いざとなったら瑞佳に頼もうと浩平は思った。今日は寝よう、眠って自分らしくない感情を全て洗い流してしまおう――。ある種の防御機構だろうか、その試みは浩平にとって即座の眠りを誘発した。浩平は全くそれに抗わなかった。眠りに落ちる瞬間、最後にもう一度だけ広瀬真希のあの笑顔が浮かんだ時も――。

 折原浩平は、何一つ躊躇(ためら)うことはなかった。

−2−

 久々、十時前に起きた休日の朝。既に目を灼くに足る光量をもって、太陽は燦々(さんさん)と照り輝いていた。カーテンから漏れる光に刺激を受け、広瀬真希は目を覚ました。いつものように布団でぐずることもなく、多少貧血気味ではあったものの、気分は良好だ。布団から上半身だけ起こし、真希は精一杯の伸びをして、それから身体をゆっくりと解した。

 それでも惚とした頭はすぐには働かず、生来の布団虫的傾向もあって、真希はそれからまるまる十五分間、布団の中で思考をも届かぬ無心の中で過ごした。全身は目立たぬよう、徐々に血流を身体に巡らせていく。それに伴い、心身が軽い活動を欲し始めた。見えない合図に従い、真希はゆっくりと立ち上がりフローリングの床へと足を下す。微かに躊躇いをおぼえる冷たさだったが、その感覚は頭脳を明敏としこれから成すべきことを真希の頭に伝達してくれた。

 皺となったパジャマを無造作に伸ばすと、真希は自室を出て洗面場に向かった。居間の方からは、規則よく掃除機のけたたましい音が聞こえてくる。きっと父の希春(きはる)が掃除機をかけているのだろう。そんなことを思いながら、真希は洗面台と対峙し、自分の顔を映し出す。やはりというか、他所様には見せられないくらいに跳ね上がった髪の毛を見て、毎日のことながら硬く癖のある髪質を恨ましく思う。

 変なところだけ父に似てしまったのだと、最近では真希も諦め気味だった。この、少し挑みがちでそれでいて柔らかな目も、低いながら整った鼻元も、リップクリームをつけなくても乾燥や肌切れ一つ起こさない控えめな唇も全て母に似たのに。真希は自分のことを美人とは思っていないが、若い世代がよく自らに持ちうる美醜の類のコンプレックスも殆ど持っていない。ただ、もう少し柔らかい髪質であったら良いなと常々思っている。

 今日はクラスの友人達と遊びに行くので、特に念入りにとはいかないまでもみっともないくらいには顔元に気を遣った。幸い、睡眠をたっぷり取ったお蔭か瞼も腫れていないし隈も全く目立たない。後は、この爆発的な髪型をどうにかすれば良いだけだと分かると、真希は天敵の一つと正面から向かい合った。

 ハードさには定評のある女性用ムースを両手一杯に広げ、丹念に塗り伸ばしていく。そして、そこからブラシ付きドライヤで続けざまに攻勢をかけ一気に固めてしまう。この辺りは手馴れたもので、十分もするとやや独特ではあるがボリュームは適度に抑えられたボブ・ヘアーが見事に完成した。真希はその調伏具合を見てそれなりに納得した。だが、やはり満足に操れない髪の毛に、ひとりごちてもみるのだった。

「はあ――。やっぱり、もうちょっと髪の毛、伸ばそうかなあ」

 ムースで固められた髪を一掴み――嘆息する。その後、ついでのように歯を磨き、ダイニングに向かうと、ちょうど掃除中の希春と遭遇した。家族の常、真希が希春に軽く頭を下げ挨拶をすると、希春は丁度掃除を終えたのだろう――掃除機を止めてこちらを向いた。

「父さん、おはよう」

 希春はしばらく真希の姿形を眺め回し、それから少しばかり苦笑してみせた。

「おはよう、真希。今日もまた、洗面所で奮闘してたようだな」

 真希はその一言に、ほんのりと頬を赤く染めた。その指摘が図星だったからだ。それにしても、掃除しながらよくドライヤの音を聞き分けられるものだと感心する。それに限らず、希春は真希の細かいところまでをよく見ていた。やはり――この家にいる唯一の家族だからだろうか。そう考えると、暖かく見守られていることが嬉しくもあり、同時に過去の幾つかのことが思い出され、悲しい気分にもなるのだった。

 三年前、広瀬真希は家族の一人を――思い出すのも辛い惨劇で失った。交通事故――しかも不注意に飛び出した真希を庇うという、最悪の形だった。年子で、それも周りに冷やかされるほど仲が良かったため、一時期真希は悲愴にくれた。目を覚ませば全ての現実が自らを苛んでいるようで、しかも追随する感情が一層、真希を苛んだ。

 結局、そのごたごたで希春は同じくバツイチの所以で知り合った二人目の妻、昭子と離縁することとなり、真希の姉もその後ののっぴきならないごたごたで広瀬家の暮らすマンションから離れていった。そんな訳で、広瀬真希は父とたった二人で暮らしている。幸い、父は二度の離婚にも再びの息子の死別にも耐え、真希を影から日向から支えてくれていたから、かつても現在も真希はそこまで憂うことなく日常を過ごせている。そのことで、真希は希春に感謝してもしきれない程の感情を抱いていた。

 勿論、過保護の所以だと真希は考えているが、時折部屋を無断で詮索するのには少し――いや、かなり釘を刺しておいた。こう見えてももう十六なのだから、幼児のように子供扱いするのは止めて欲しかったが、世の思春期の女性に比べたら真希は男親に寛容のある方だったし、彼女自分でもそう思っている。友人の中には正に、男親を蛇蠍(だかつ)の如く嫌っている者もいるのだから。

「良いなあ、真希は父さんが大当たりでさあ。五十近いのにお腹もすっきりしてるし、最前線で優良企業の管理職としてバリバリ働いてるしおまけに家庭的で。うちの父さんなんて、休日はいつもぐうたらして娘の前でも簡単に屁をするしさあ、酒に酔うと途端に説教臭くなってもううざいのなんのって――もう、真希の父親と変えてもらいたいよぅ」

 そう零していたのが誰だか、今となっては真希も思い出せないが、少なくとも普通より恵まれていることは確かだった。かつて、荒み切った家庭生活を通過したことを鑑みても。だからこそ真希は表層上、暗い素振りは見せなかった。幸せなのに辛い顔をしてしまったら、自分より辛い思いをしている人間に対して失礼なことになるからと言い聞かせて。特に、真希が殺したとさえ言えるかもしれない一人の存在のことを思って。

 だから、今も真希は哀しみにしばし心捉われていたことを隠し、希春に笑顔を見せた。

「今日は朝から元気が良いな。普段は休日だと、昼近くまで眠そうな顔をしてるのに――そう言えば、今日は昼から友人達と遊びに行くんだったかな?」

「うん、もうすぐ期末試験だし命の洗濯ってわけ――まあ、そう言い出したのは友人の方なんだけどね。集合してすぐ昼食だから、朝食は軽いものだけ摘んどく。それと、帰りは八時くらいになるけど――良い?」

 真希の言葉に、希春は厳しく考える――仕草をしてから、ゆっくりと肯いた。

「高校生の帰宅としてはまあ、妥当なところだと思わなければならないんだろうな。まあ良いさ、ゆっくりと楽しんで来なさい。それで、私はもうすぐ会社に出ないといけないんだ。帰宅は九時頃になるから、戸締りは宜しく。夕食は、冷蔵庫に材料が揃っているから適当に何か作って食べておいて欲しい――それともう一つ、身体には気をつけろよ」

 希春は動作に違い機敏な口調を真希に送ると、忙しなくダイニングを出ていった。日曜日まで出勤とは大変だなと思いながら、真希は少し遅めの朝食の準備を始めた。と言っても、前日に買っておいたクリームパンと希春が入れておいてくれた珈琲だけだから、準備は一分もせずにすんだ。

 パンを一口齧(かじ)り、最近ようやくブラックで飲めるようになって来た珈琲を啜る。自ら四十の手習いと言い張る希春のブレンドは、起きだちの俄かに重い胃袋を押し開け、心に張りを持たせてくれる。真希は、父の淹れてくれた珈琲が好きだった。パンと珈琲を交互に口にし、ゆっくりと十分ほどかけて朝食を完した。その時丁度、希春がアイロン筋のきちんと入った灰のスーツに身を固め、ダイニングに再び姿を現した。とても、十分そこらで整えたとは思えないほどのきちんとした身なりだった。

「じゃあ、行ってくるからな」

 真希は希春の言葉にいってらっしゃいと返したが、既に彼は玄関を出ていた。真希は思わずふうと息をつき、それから食器を洗い片付け、部屋に戻る。エアコンをオンにすると、枕元にあるリモコンを操作しテレビを付けた。早く目覚めた時、真希は惰性のようにとあるバラエティ番組の総集編を見ることにしている。ミーハという訳ではないが、大なり小なり世を騒がせている芸能人の奮闘する姿を見るのは楽しいものだ。

 テレビを傍目で観賞しながら、真希は今日着ていく服の選定にかかっていた。ファッションにはあまり興味はないが、服はそれなりに揃えているしコーディネイトには毎回、それなりの時間がかかる。三十分ほど迷った末、活動し易さを重視し下はソフトジーンズを履き、上はレモン色の長袖ブラウスとミルク色のベストを着た。最後に、最近買ったお気に入りの耳飾りを身に着ける。改めて鏡を覗くが、なかなかさまになっているようで安心した。

 あとは、希春に買って貰った鞄に財布やハンカチ等を詰め、時間が来るまでテレビを見ながら待った。集合は十二時半、場所は商店街のBOSSバーガ。そこで昼食を摘んでからゲームセンタ、続いてカラオケとくりだす予定だった。とりあえず、残りの時間まで真希はテレビを見ながら過ごすことにした。下る映像を眺めながら、自分はいつからこうして、時間を無為に無駄にすることを覚えたのだろうと真希は考える。

 それは多分――三年前の事故の所為だろう。真希はいつしかテレビから再び、昏い思念へと没頭していく。

 凄く仲の良い兄妹だね――。家族からも周りからも俄かに揶揄されるほど、広瀬真希は広瀬賢(まさる)と仲が良かった。真希は兄として随分と賢のことを慕っていたし、賢もいつも真希のことを大事にしていた。そのことは、真希にとってこれまでも、そしてこれからも訪れないだろう僥倖(ぎょうこう)だと思っている。

 広瀬賢はある意味、真希の理想の男性像だった。やや幼げで優しそうな瞳、やや中性的な面立ちで同学年の異性の人気を強く集めていた。疾れば快活、語れば明朗、計れば明敏――実質、異性同性関わらず、彼を嫌いな人間はいない程だった。勿論、嫉妬深い一部の人間が無いことばかりを吹聴したりもしたが、何れも心ある者たちによって潰えていった。

 当然、真希も賢の属する家族の一員であるというだけで随分ともてはやされた。あんな兄がいたら良いだろうな――あんな兄貴欲しかったなと、賛辞を浴びると真希はまるで自分のことのように嬉しくなった。頬が紅潮しさえもした。休日は商店街に買物にでかけたり、映画を見に行ったり、テレビゲームに興じたり――その全ての記憶が宝石のように瞬き、どんなヴェールをかけて眺めた世界も優しく暖かいもののように感じられた。真希は、このような幸福がずっと続くであろうと思っていた。理想の兄妹という形が、何処までも――。

 あの時までは――。

 けたたましい動制音が響き、真希はつと現実に引き戻される。軽い恐慌状態に陥り、辺りを見回すが音の源は容易に知れた。テレビ番組で車のブレーキ実験映像が流されており、その音がスピーカを通して真希の耳にも流れてきただけだ。バラエティ番組の一環なのだろうか――一般スタジオ見学者のざわめきが、騒々しくも続いている。真希は瞬時に乾いた喉を潤すためゆっくり喉を鳴らし、それから何度も深呼吸した。胸が異様に苦しい。いくら呼吸しても酸素が足りない気がする。

 しばらくすると落ち着いてきたが、最初の数分間は息をすることしかできなかった。今も胸の動悸は激しく、動揺の気持ちを如実に示していた。また――駄目なのだろうか、と真希は思う。いや、聖夜の近付くたびに襲う虚無感、感情の穏やかならざる起伏は昨年と比べて遥かに増していた。頻度は以前と比べて低いのだが、感情の反応は顕著だった。

 特に一昨日の朝。感情が制御できなくなったのは、三年近く前の事故の直後、少なくとも平穏な暮らしを取り戻してからは初めてだった。仔犬が轢き逃げされたその光景が、余りにも賢の死を喚起させるものだったのがいけなかったのかもしれない。気が付くと、禽獣(きんじゅう)と賢の幻影を重ね、真希は滂沱(ぼうだ)していた。激昂し、年端も行かぬ子供のように咽いでいた。

 あの時――彼が通りかかってくれなければ、と思うと真希はぞっとする。もしかしたら、深い自失へと身を任せていたかもしれない。二度と戻れない、捉われの世界の中へと。そして自動的に、思考は彼へと移る。とあるクラスメートの彼へと。

 折原浩平――それが、彼の名前だった。

 万年遅刻症の浩平が何故、一昨日に限ってあんな早い時間に通学していたのかは分からない。多分、彼一流の気紛れだと真希は思った。何しろ、奇抜な行動と周りが嘆息するほどの祭好きでクラスどころか学年――若しくは校内でさえその名を轟かしめているのだから。その気紛れの一端に、真希は運良く交わったのだろう。

 浩平は真希を根気よく諭し、毅然とした態度で正気と狂気のボーダを知らしめてくれた。それのみならず、正気の世界へと真希を引き戻してくれさえした。そして、自我を取り戻した後、取り乱し汚らしい振る舞いをした時も浩平は真希を叱らなかった。ただ、真希の心も知らずに罵ってしまうのが嫌だと怒鳴りつけただけだった。

 優しい人だなと、真希は改めて感じた。改めてというのは、そう感じる機会が以前にもあったということだが、敢えてそのことは思い出さなかった。何となく、癪に思える出来事でもあったからだ。ただ、広瀬真希にとって折原浩平は、優しさが暖かいものであることを教えてくれる数少ない存在だった。

 それは、他の皆にも伝播しているのだろうか――浩平はクラスでもかなりの人気者だった。何か教師達が恐々とする催しを企む時は、いつも浩平と彼の友人で住井護が先鞭を取り、場を賑わしていた。勉強もスポーツも桁が外れて上手い訳ではないが、お祭騒ぎでの潜在能力は皆の知るところだった。期待を(良い意味でも悪い意味でも)裏切らない男――浩平はそんな異名さえ持っていた。

 男性にも人気はあるが、負けず劣らず女性からの人気も高かった。真希の友人の中にも、折原浩平を好きだと言って憚らない者がいる。確かに髪型は不精に整えているだけなのだが妙に決まっており、目付きは少し鋭いけど恐いほどでもない。容姿はまあ、格好良いと言っても差し支えない類に入っており、真希にも充分に肯けるものだった。

 広瀬真希はここ数日、賢のことと同じくらい、浩平のことを思いに巡らせていた。と言っても、ロマンティックな理由ではない。自分の弱いところを知られ、はたして浩平が今後、どんな態度を示すかどうかが心配だったのだ。正直言って、過度な同情を受けるのは嫌だった。できることなら、今のままが一番良いのだが――真希は思案し、だが答えは出ずに結局、同じ所へ回帰する。

 遊んで、歌って、忘れてしまおう。

 真希は両の頬をぴしゃりと叩き、ベランダに出て外の空気を吸った。肌寒いが心地良い初冬の空気が、肺腑を空気と安息で満たしてくれた。

 思考の靄が薄れると、真希はテレビ番組の残りを全て見終えてから出かける準備をした。水道と瓦斯(がす)のチェック、窓の施錠チェックをすまし、最後に玄関のドアに鍵をかける。七〇一、七階左端の部屋が広瀬家の現在住居だった。

 エレヴェータは近いのだが、一階に降りてしまっては意味がない。急いで七階に呼び出し、足を鳴らすこと何度か――到着したエレヴェータに乗り込み、踵の僅かにへこんだ茶色の革靴をとんとんと叩いた。広瀬真希は早足で歩き始めた。コートもいらぬ麗らかな陽気に、子供達が戯れ駆ける。鳥が遥か上空を、颯爽(さっそう)と舞っていた。十二月も間近に迫り、生き物達に束の間の安らぎを与える小春日和。不健康な遊戯に耽ろうとしている自分が、疚しいものであるかのように思えた。

 商店街の入り口では、幾つかの店が共同で大きな杉の木にディスプレイを施していた。夜になるとまたたくであろう、七色のランプ照明、雪を模した真綿等、様々な飾りがデコレートされている。一際大きい脚立の上に上り、プレディクション・スターを掲げているのは商店街でも長身で有名な古書屋の一人息子だ。真希はそんな奮闘劇を眺めながら、徐々に増しゆく聖静祭の雰囲気に心萎えていく自分を感じていた。否が応でも、三年前の冬の出来事の欠片で街は埋め尽くされていく。

 早く行こうと、真希は思った。これ以上、弱い自分を自覚するのが恐かったから。腕時計を見ると、時刻は十二時二十分。真希の友人達は、一人を除いて時間にルーズだったから丁度良い時間の筈だった。しかし、待ち合わせ場所に辿り着いてみて、真希はもっとここに来ておくべきだったと後悔した。

 真希は、BOSSバーガの前で煙草を吹かす、明らかに未成年風の人物のそれを奪い取り、足で揉み消し徹底的に踏み潰した。そして、真希は半ば激昂の表情を剥き出しにし、目の前の人物を詰った。

「こらあっ、鈴華(すずか)。あんた何やってんのっ!!」

 真希は腕を両腰にあて、仁王の如く恭崎(きょうざき)鈴華を睨み付けると、激しく言葉を飛ばした。

「仮にも未成年でしょうに、何を堂々と公衆の面前で煙草吹かしてるの。誰かに見つかって教師にでもばれたら、洒落にならないわよ」

 真希は怒鳴りつけてから、何度か息を荒く吐いた。元より恭崎鈴華が非常識な人間であることは真希も重々、承知していたが流石に公衆の面前で煙草を吸ってるのを見かけるのは初めてだった。真希は鈴華の将来を思い必死で止めたのだが、しかし目の前の彼女は飄々としていた。

「問題ない――」

 男性っぽい風貌に違わぬ、ハスキィな声だった。いつもらしからぬ口調からして鈴華は誰かの口癖か何かを真似たのだろうが、真希にはそれが何か分からない。彼女は真希の剣幕に口元を僅かに緩ませ、それから子供をあやすように真希の頭をぽんぽんと撫でた。

「僕の喫煙は、もう家族にも教師にも黙認されてるからね。勝手にしろ、早死にしてもしらないぞと――散々警句を浴びせられたけど。ふふっ、我ながら嫌われ者だよね」

 鈴華は、飄々とした言葉遣いで真希をいなす。だが、口では誰にも負けない自負を持っている真希も、鈴華の風貌と雰囲気に負けじと言い返す。

「そんなの、わたしだって知ってるわ。問題なのは、歳末、商店街には見回りの警官がよくやってくるということなんじゃない? いくら背が高くて大人びた風貌だからって、未成年と見抜かれない謂れはないの――どう、これを聞いてもわたしの目の前でもう一本吸ってみる?」

 真希は言い終え、勝ち誇ったように笑う。流石の鈴華もそれに気圧されたのか、はたまたポーズなのか、肩を竦めて首を振って見せた。相変わらずの微笑を浮かべたままで。

「うん、確かにそれは盲点だったよ。真希、君には名探偵の素質があるかもね」

 負けを認め誉め称える鈴華の表情には、些かの曇りもない。やはり、先ほどの狼狽はポーズだったのだと思いながら、真希は思わず漏らした。

「ったく、真顔で嘘吐くのが上手いんだから。それにしたって、もうちょっとお洒落できないの? だからあんた、よく男と間違われるのよ――」

 真希はそう零してから、鈴華の服装や髪型をチェックする。髪の毛は自分で切っているのだろう――てんで長さはバラバラ、普段から石鹸で洗っている所為もありひどく乱れている。まるでサッカーの中田英寿選手が身につけるようなダーク・イエロゥの色が入った眼鏡を着用しており、服装は申し訳程度に森林の絵が入ったシャツの上にジージャン、下はジーンズを履いていた。それでいて、一七〇もある身長とあいまれば鈴華のことを男性と見間違う人間がいてもおかしくない。

 それでいて間違いなく、身体も心も恭崎鈴華は女性に属していた。真希はそのことをよく熟知しており、もう少しくらいファッションに気を遣えば――ついでにあと爪の一欠けらくらい愛想をよくすれば誰もが彼女の魅力に気付くのにと、常日頃から悔しく思っている。

 しかし、鈴華は彼女の潜在的ファンには極めて冷淡だった。真希がかつて、一際強い口調でイメージチェンジを進めた時、鈴華はこう言い返したことがある。

『そうかな――。ちょっとくらい奇矯な振る舞いをしたくらいで、まるで腫れ物に触るような接し方をする人間に僕は媚なんか売りたくないね。僕は、ありのままの僕を慕ってくれる極少数の人たちが周りにいればそれで十分だよ。例えば真希や節子のような、ね』

 流石に、そんな殺し文句を囁かれては真希もこれ以上、容姿上の問題についてとやかく議論することもできなかった。しかし、一応は目に余り過ぎたら指摘することも真希は忘れなかった。もしかしたら――万が一の可能性ではあるけれど、鈴華が考えを改めてくれるかもしれないからだ。

 だが、今日も鈴華は涼しい顔でこう答えるのみだった。

「面倒い――」

 真希が小さく溜息を吐くと、鈴華は彼女を宥めるように言葉を紡いだ。

「でも、まあその気持ちは嬉しいよ。何だかんだいって、いつも僕のことを気にかけてくれるのは真希だけだから。それに、真希の面倒を見るのは楽しいしね」

「面倒見るって――鈴華、あんたわたしのこと、どう思ってるのよ」

「愛玩動物」

「あ、あいがんどうぶつぅ!?」

 鈴華のあっさりとした口調に、真希は眩暈のする思いだった。手玉に取られているのは自覚しているにしても余りに人間の尊厳を無視した言い方だった。その狼狽ようが想像以上に顕著だったのか、鈴華は慌てて訂正した。

「あ、うそうそ。大事な友達だって思ってるから」

「――ったく、あんたが言うと冗談と思えないのよ」

 鈴華の性格を一部なりとも把握している真希としては、余計にそう思えるのだった。

「そんなことないって。僕が真希のこと一筋だってのはよく知ってるだろ。ああ、もし僕が男だったらこの焦がれる思いを以って報われない恋に生きるんだろうね」

 言いながら、鈴華はぎゅうと強く真希の体を抱擁する。突然の行動に、真希は露出狂に襲われた女性のように大声を張り上げた。

「こ、こら鈴華っ! こんなとこで誤解されるような行動取らないの。他の人ならともかく、あんただと洒落にならないんだからね」

「あ、それもそうだね」

 真希の必死の抗議に、鈴華はそう呟いてからあっさりと真希を解放した。

「――鈴華、あんた絶対に確信犯だったでしょ」

 まだ僅かに火照った頬を自覚しながら、真希は目を細めて鈴華を睨み付けた。が、当の彼女は動じる様子もない。まったく、どうしてこんな奴と友達になったのだろう――真希はそのけちの付き始めが何時か必死に考えたが、すぐには思い出せなかった。それほど、鈴華の印象が強く、自分の側にいるのが当たり前になっているからだろう。

 ただ、いつも他愛のない言い争いをしているが、鈴華は真希にとって大切な友人だ。何だかんだあっても、困ったことがあると真っ先に相談するのは彼女のところだし、そういう時だけは鈴華も真面目に相談を取り合ってくれた。そして、必ず最後に一言、添えてくれるのだ。もう少し、気楽に行こうよと。

 確かに、鈴華は変人で策略家でフル活用すればどんな天才をも凌駕できる天才を持っているのに、その頭脳をロクなことに使わない。おまけに服装はルーズだし性格も悪い。だが、悪い奴ではない。少なくとも真希は、そのことを知っている。

 鈴華の良さを皆に分かって貰いたいと思う反面、時には彼女を独占してしまいたいという欲求も生じてしまう。つまりは――と真希は思う。つまり、恭崎鈴華という女性は、自分の平板な頭脳で推し量れるほど単純ではないということだ。

 からかいにも似た笑顔の底で鈴華は、自分のことをからかうと面白い奴だと考えているのだろう。真希は尋ねてもはぐらかされるであろう問いを胸に秘めながら、くすりと微笑んだ。きっと、自分は鈴華にからかわれるのが嫌いではないのだ。

 真希がそんなことを考えていると、鈴華は今までより少し穏やかな口調で真希に話題を振ってきた。

「そう言えばさ、一昨日にゲームセンタで折原を見つけたよ。もっとも、こっちは僕の方には全然、気付いてない風だったけどね」

 折原――その名前に、真希の心が僅かに揺れる。真希はその動揺を隠すように、素早く言葉を返す。

「そう――折原って確か、鈴華のお気に入りの男子だよね。この前もあいつのこと、好きだって言ってたし」

 何時か、浩平が馬鹿なことを――あれは机と椅子を何段積み上げられるか試してみようとした時のことだろうか――やった後、真希のグループで噂しあっていた時に、鈴華がふと漏らした言葉だ。「僕は折原のこと、好きだな」と、鈴華はあっさり言ってみせたのだ。

 その後、グループの中で少しばかり騒ぎになったので真希もよく覚えていた。ええ、でも長森さんがいるじゃん――確かに面は良いし面白いけど。グループで一番の姦し屋、三森節子が小声で囁いた。それに、行動が奇矯すぎるし――彼氏にするにはちょっと癖が強過ぎ。そう言う意味じゃ、鈴華も――それから長森さんも変わってるよね。

 その、些か失礼な言い草に、しかし鈴華は穏やかに「そうだね」と返しただけだった。が、少なくとも真希のグループでは、恭崎鈴華が折原浩平に好意を持っているというのが共通の認識だった。

 だが、鈴華はあっさりとそれを肯定し、それから否定した。

「うん。僕は折原のことが好きだよ。見てて飽きないし、始終色々とやってくれるからね。でも、真希が思っているような意味じゃないよ。僕は健全な男女の恋愛関係には興味ないんだ――あんなものを至上している人間の気持ちも分からないね。恋が強さだ、素晴らしさと訴える人間は所詮、それ以外の強さを知らないんだよ。僕に言わせれば――そういう人間は須らく弱いね――脆弱だよ」

 鈴華は辛辣な意見を真希に浴びせた。その気持ち、訴えたいものは真希にも何となく分かる。恋が生む強さというのは、強さの中のほんの一欠けらでしかない。それを全てと錯覚すれば、僅かばかりの苦難に苛まれた時にすら容易に瓦解する。恋は弱いものだと自覚していないものが、驚くほどこの世には――特に日本には多い。しかし、そうでなければどうして、日本では三分足らずに一組の夫婦が離婚などするだろうか?

 即座にそんな考えが浮かぶほど、真希は恋愛にはシヴィアな女性だった。少なくとも、盲信はしてない。だからこそ――次の鈴華の言葉は真希をうろたえさせた。

「それに――折原にそういう感情を抱いているのは寧ろ――真希の方じゃないの?」

 もう少しで間抜けな声を漏らしそうになるほど、真希は首を傾げた。どういう筋道を辿れば、わたしが折原浩平に好意を持っていると――そういう結論になるのだろう。真希は半ば怒るような気持ちで、思わず鈴華に尋ねていた。

「ちょっと――どうしてそうなるのよ。わたしは別にあんな奴、どうとでも思ってないわ。そりゃ、面白い奴だしいざとなったら役に立つけどさ――別に好意なんて抱いてないわよ。ましてや恋愛感情なんて――」

 真希は、誰よりも自分が一番、異性に恋愛感情などこれ以上持ち得ないことを知っている。淡い初恋が無残な形で散った時、広瀬真希は――。

 もう恋なんてしない――と誓ったのだから。

 しかし、そんな真希の抗弁にも戸惑いにも鈴華は全く動じず、ただ言葉を続けた。

「そう? 真希って随分、折原に甘いと思ったから、そうじゃないかって。ほら、真希は好きな奴には甘いだろう? 僕に接するみたいにさ」

 と、胸を張って答える鈴華に、ようやく真希は彼女の言いたいことが分かった気がした。要は恋愛感情ではなく、ただ好きか嫌いか――それを聞いただけだったのだ。そういう感情というのも、恋愛感情ではなく快不快の類なのだ。しかし、それでも何処か納得できないものがあった。

「だったらまあ、嫌いって訳じゃないけどさ――わたし、いつ折原に甘くした?」

「うーん、例えばさ。体育祭が終わった後、折原にだけ労いの言葉をかけてたよ」

「それは、皆が面倒臭がって引き受けてくれなかったリレーや着せ替え競争を引き受けたからじゃない。敬意の言葉を示すのは当然のことよ」

「そうかな――元々、折原は大したことをしてなかったんだから、特に義理立てするようなこともないように思える。それに文化祭の時、真希は折原に一番最初に差し入れを配っていただろ」

「それこそ単なる偶然よ。そんな他愛のない仕草だけで、人の思いを決めないで欲しいわ。そういうの、鈴華の好きそうな表現をすると『森を見て木を見ない』って言うんじゃない」

 真希がそう断じると、何故か鈴華はクスクスと笑い出した。

「真希、それを言うなら『木を見て森を見ない』だよ。まあ、かのアガサ・クリスティが彼女の嫌うところのエルキュール・ポアロに『森のせいで木を見つけることができない』と言わせたことはあるけど。まあ、感情云々の話題は忘れようか。お互い、苦手な話でもあるようだしね」

 最初に振ったのはどっちよ――と心の中で叫びながら、その提案はありがたかったので、真希はすぐに条件を飲んだ。

「さて――そろそろ三十五分か。もうすぐ、節子も来て良い頃かな?」

 鈴華がわざとらしく腕時計を見るのと、小走りに三森節子が近づいてきたのはほぼ同時だった。本当なら、広瀬真希のグループはあと二人、いつもクラスでは五人で行動しているのだが、今日集まったのは真希と鈴華、そして三森節子の三人だけだった。ちなみに、期末試験の前に命の洗濯をと、真希たちを誘った本人でもある。

 真希は、塞ぎがちな気持ちを吹き飛ばしたい気分だったし、鈴華は真希が行くならと二つ返事で肯定した。そして、この場に不在の二人――夕霧直美と麻見静子は、揃って恋人との逢瀬を選んだ。その決断に三森節子は――ああ、やっぱり恋人の前では友情なんて無力なのかしら、恋なんて何れは儚く散ってしまうものなのに、と劇作風に嘆いていた。勿論、夕霧直美と麻美静子の居ない所で、ではあるが。

 節子は鈴華とは全く正反対に近い性質の持主だった。真希のグループでは一番よく喋り、所謂俗っぽい知識も豊富に持ち合わせていた。流行の歌謡曲、タレント、TV番組に至り、漫画や小説、とにかく雑知識の塊のような人間で、そこから発せられる話題には限りがないと思わせるほどだ。

「うっす、二人とも、おはよう――いや、もうこんにちはかな?」

 節子は遠くから手を振り、ぶんぶんとその存在を主張する。はっきり言って、真希はもうこれ以上、目立ちたくなかったのだが、堂々と煙草を吸われるよりはと考え直し、あと少しの恥ずかしさも我慢することにした。手の動きに沿い、真希がいつも羨む柔らかい髪質の黒髪がさらりと舞う。ラベンダ色のセータに、膝までの市松模様のスカートという姿は、節子としては随分、慎ましやかなものだった。

 多分、総合的に見ると節子のようなタイプの人間が真希のグループ内に限れば一番もてるのだろうが、彼女自身は鈴華と同じく男には現在、頓着しないらしかった。専ら、真希や鈴華達とカラオケやゲーム、或いはウィンドウ・ショッピングに興ずるのが好きで、休日のレジャ網は全て三森節子の元より発信されている。基本的に、恋愛より友情の響きを大切にする義侠派故に、真希や鈴華とは特に気が合った。

「じゃあ、早速ハンバーガでも摘もうか――もう私、朝も何も食べてなくてお腹ぺこぺこなのよぅ。二人もそうでしょ?」

「生憎、僕は三度の食事は欠かさないんだ。でも、お腹が空いてるのは事実だね」

「わたしも、鈴華に同じね」

 鈴華と真希がほぼ同時に答えると、節子は頬を緩く膨らませた。

「ぶうぶう、それじゃ私だけ不規則な生活してるみたいじゃない」

 節子は悪くもないのに抗議の声をあげたが、一際大きくお腹を鳴らしたので、たちまち膨らませていた頬を染め、それから誤魔化すように目の前のハンバーガ・ショップを指差した。

「――ま、まあそれはどうでも良いことよね。さあ、昼食にしましょ」

 そう言い、一人大袈裟な動作で店内に入る姿を見て真希は相変わらずだなと思う。ただ、ああいう切り替えの早さが節子の良いところでもあった。実際、真希のグループのリーダは自分だと思われてるが、それは恭崎鈴華、三森節子という二つの強烈な個性の持主から慕われているということが大きかった。勿論、それだけで充分、広瀬真希はリーダの資格を持ち得ている訳だが。

 三森節子はもう一度、店の入り口で手招きしている真希と鈴華を呼ぶ。二人は顔を見合わせ、お互いに僅かだけ綻んだ表情を確認すると、節子の後を追った。遅れて来たのに、詫びもせずに笑顔で誤魔化すのには、もうとっくに慣れていたので何も言わなかった。

 食事時の混雑もあり、三人が各々の昼食を確保できたのは一時五分前だった。真希はチーズバーガのセットにアップルタルト、鈴華はダブルバーガのセットにチキンナゲット、節子はてりやきバーガのセットを注文した。

「あんたら、スタイル良いからって食べ過ぎ」

 メニューの差に、再び節子が不満を漏らす。別に、真希は今日くらいスタイル云々ということを抜きにして楽しもうと思っていただけなのだが、それは年頃の女性の考えではないと節子は訴えたいらしい。

「人間、欲する時に食べるのが一番。太るのは、欲しない時に食べるから。簡単なことだよ」

 チキンナゲットを咀嚼しながら、鈴華がシンプルな考えを述べる。

「それができたら苦労しないよぅ――やっぱり間食もしたくなるじゃん」

 俗なものなど何もない簡素さと、正しく現代風の俗っぽさ。このやり取りからするだけで、鈴華と節子が如何に対極な存在かは真希でなくても即座に理解できるだろう。それでいて、二人ともお互い一目置いてるのだから人間関係なんて分からないものだ。その二人から一目置かれているのだから人のことは言えないのだが、真希は常々、二人の関係をそう断じている。

「まあまあ――こういう時くらいスタイルのことは忘れてさ、楽しく食べなきゃ損よ。ほら節子、そんなに物欲しそうな目をしない。わたしのタルト、半分分けたげるから」

「本当? まあ、確かに気心許せる友人と飲み食いするんだから、包み隠すことなく食べたいって、実のところ思ってたのよねぇ」

 全く、図々しいというか遠慮がないというか――。真希が苦笑にも似た笑みを浮かべると、隣から鈴華が声をかけてくる。

「真希、僕には分けてくれないの?」

「あんたはチキンナゲットがあるでしょ。それを食べてなさい――ったく、もう」

 真希はせめてあと半分のタルトは死守せねばと思い、鈴華を大声で牽制した。鈴華はやれやれと肩を竦め、行儀作法などまるでないような大口でハンバーガに齧りつく。

 結局、真希はタルトの四分の三を奪われ、しかも横から鈴華にポテトを三分の一ほど掠め取られたりもしたが、もう怒るだけ無駄だと思った。スタイルだ、粗食だと言いながら、鈴華も節子も結局は男子顔負けに食べる。三人の中では、真希が一番小食だった。

 忙しない昼食が終わると、一も二もなくゲームセンタに向かい、節子のたっての願いでプリント・シールを何枚か撮った。ブームがまだ下火の頃から彼女は所謂、プリクラに凝っており、ことあるごとに真希や鈴華を誘うのだった。

「そんな、同じ顔ばっかり撮ってどうするのよ」

 ほぼ、手帳一杯を埋め尽くしたプリント・シールを見て、節子は初歩的なことだよワトソンくんと言わんばかりに、指を何度か左右に揺らした。

「ふふっ、甘いわね。こういうのは画一的にならないよう構図とかメッセージとか少しずつ変えてるの。それに、シールの数だけ友情も深まってくの。だから、もう真希のことなんてラブラブなんだからあ」

 節子は妙なハイテンションで、真希を抱きしめてくる。

「ちょ、ちょっと――何であんた、鈴華と同じ行動パターンなの!」

「それはきっと、鈴華と同じくらいに真希のことを好きだからだよぉ」

 異性に抱きしめられるのは嫌だが、かといって同姓に抱きしめられるのも好きというわけではない真希は、頬っぺたを思い切り引っ張り、怯んだ隙に抜け出した。

「うぅ、頬を思い切り引っ張ったぁ」

「自業自得よっ!」

 真希はゲームセンタの喧騒に負けないくらいの大声で怒鳴り、溜息を吐いた。辺りを見回すと、鈴華の姿が何時の間にかない。すると、少し離れたダンスゲームの筐体の前に、歓声と羨みの声が集中し出した。真希には、その様子ですぐに鈴華がそこにいると分かり、まだ少し頬を膨らませている節子と共に、喧騒の中心へと飛び込んだ。

 鈴華は、既に真希の動きの案じ得ぬ世界で音楽に合わせてステップを踏んでいた。BPM220どころか、そもそもハイ・スピードですらクリアできない真希は、その動きに見惚れるしかなかった。

「うわあ、鈴華の動きって相変わらず決まってるぅ」

 節子が口笛で囃し立てると、鈴華のステップはますます速度を増していく。皆が見守る中で、鈴華は約十五分かけて三曲をほぼ完璧に踊り切った。周りからは大きな歓声が漏れ、しかし当の鈴華は汗を滲ませ僅かに息を荒げている程度だった。

 そして、真希と節子に向かってぐっと親指を立ててみせた。その仕草はラフな格好と相俟って、ただただ格好良かった。

 その後、クレーン・キャッチャや心理ゲーム等で三者三様が盛り上がり、三時頃にゲームセンタを出ると、その足で今度はカラオケに向かう。真希はカラオケが好きだったし、鈴華と節子もそれに劣らず歌は上手なので、最後はカラオケで歌い明かすのがセオリィだった。万が一でも仕損じることのないように、予約も万全だった。

 いつもテンションの高い店員に導かれ、防音壁で覆われた薄暗い空間に飛び込むと、まずは飲み物を注文した。

「あ、僕は生中」鈴華が上機嫌に言う。

「私はライムサワー」追随し、節子が明るい声を張り上げる。

「――あ、すいません六号室ですけど――はい、コーラ三つでお願いします」

「真希のファシスト」

「ぶうぶう」

 真希は二人の言い分をしっかりと無視し、勝手にコーラを頼むと、素早く選曲を始める。二人は声を揃えて不満を漏らしていたが、真希が一瞥するとそれもすぐに収まった。しかし、節子は別の意味で再びきゃいきゃいと騒ぎ始めた。

「あ、真希――ドリカム歌ってよ、ドリカム。ほら、ついこの前に新曲が出たじゃん」

 Dreams Come Trueのファンだと公言して憚らない節子が早速リクエストを飛ばす。

「あれ、発売されたの二十六日でしょ。入ってるの?」

 新譜の方を何ページか広げてみるとしかし、真希の心配は杞憂であることが分かる。発売日とほぼ同時で有名アーティストの曲は解禁になるらしく、真希は改めて最近のカラオケ機器の対応の早さに驚いた。

「ほら、ここにあるよ。Winter Song――歌ってみてよぅ」

 節子が、真希の見ているのと同じページを指差し服を掴んではしゃぎ回す。

「うーん、一応メロディは全部覚えてるけど、歌詞が全部英語だから歌えないかも。というか、あんたが歌えば良いのに」

「私、英語、苦手だから。それにさあ、この前カラオケに来た時もセリーヌ・ディオンとか上手に歌ってたじゃん。真希の声ってさ、ハイトーンな部分が凄くセクシィなの――聴いててぞくっとするくらい」

 女性にセクシィと言われるのはあまり嬉しくなかったが、歌をせがまれるのは嫌じゃなかったので、真希は敢えてリクエストに乗ることにした。マイクを一つ受け取り、一瞬エコーと耳障りなハウリングに顔を顰めたが、それも位置や角度を調整することで収まった。後には一瞬の静寂と――そして、清涼感にも似た音楽が流れ始める。

 前奏を経て流れ始める伴奏、表示される歌詞と――そしてこの部屋の全てに対し、真希は引き絞った弓を放つように声を発した。幾つもの喧騒が、自らの声を通じて収束し一体化していく、何とも言えぬ恍惚感を味わいながら、声はますます響きを増していく。やはり、鬱屈とした気分を吹き晴らすのはこれが一番だと思いながら、真希は暫くの時間、自分の声とそれが生み出す感情とに酔いしれた。

 そして、メロディがフェード・アウトし終わると同時に、両隣から拍手が巻き起こる。調子に乗って――いや、確信犯的に拍手ボタンを何度も押している鈴華の所為だ。

「こら、そこっ! リモコンで遊ばない」

「いや、僕は単純に賞賛してるんだよ。ただ、拍手すると手が痛いから」

 普通、それは賞賛とは言わないのではないのかと真希はつくづく思ったが、これもいつものことなので追求はしなかった。もしかすると、鈴華は存外に照れ屋なのかもしれないと考えると、逆に微笑ましくすら思えるのだった。

「真希の歌は本当に上手いと思うよ。練習して身に着ける声とは、何処か違うところを持ってる。僕もそれなりに歌は上手いと自負してるし、節子も姦しい曲を歌わせればとことんまで歌って踊って弾けてみせる」

「姦しいって、どういうことよぅ――私はね、これでも慎ましい歌が得意なつもりなのにぃ」

 鈴華はまあまあと、数少ない公聴者を宥め、言葉を続ける。

「でも――真希の歌って、そう聴いてるとぞくっとするっていうか酷く壊れ易そうっていうか。聴いててどうしても放っておけないんだ。誰もが注目し、歌われている曲の行末を見守ってしまう――それは間違いなく才能だよ。まるで――そう、真希自身が壊れてしまいそうな――そんな錯覚すら覚えるね」

 鈴華は不意に真希の側に近寄ると、いきなり抱きしめて頬擦りを始めた。

「あ、でもしょうがないよね。こんなに可愛いんだもの。ほら、可愛いものほど壊れ易いって言うし」

「お、同じパターンを繰り返すなっ!」

「あ、鈴華ずるい――私も頬擦りしたいよぉ」

 真希は得も知れぬ悪寒を感じ、鈴華の抱擁をはね除ける。

「ったく――少しは加減しなさいっていうのよ――」

 ぶつぶつと零しながら、真希は鈴華を強く睨み付けた。だが、当の彼女はあまり反省した様子は見せない。結局、仕方ないなあと真希が怒りの矛先を収めてしまうのが常套だった。

「二番、Every Little ThingのFeel My Heartを歌いまーすっ」

 何時の間にリモコンを操作していたのだろう――スピーカからはELTのポップでキュートなイメージの曲が流れ始めてくる。節子はそのメロディに合わせ、足をリズミカルに動かしていた。そこで、真希も鈴華もカラオケとは戦いと気付いたのだろう――目を皿のようにして曲目を探り始めた。誰も彼もが二曲、三曲と連続して平気で歌う声力の持主ゆえ、あっという間に曲予約は満杯になり、矢のように四時間が過ぎていった。

 

 カラオケ・ボックスの外に出ると、外はもう真っ暗だった。レース・カーテンのような薄雲が、三日月の輪郭を巧みに隠し、商店街に瞬く夜光灯だけが夜を僅かに照らしている。三人は上気した頬と気持ちを吐き出すため何度か深呼吸し、商店街の入り口で別れることになった。

「じゃあ、また明日、学校でね」

 節子は、やって来た時と同じくらいの忙しなさで闇夜の道へと消えていった。それを二人で見送ると、真希は鈴華と同じ道を歩き始めた。歌い尽くし、それなりに満足そうな顔をしている真希を見て、鈴華はシニカルではない優しげな笑みを初めて浮かべた。

「良かった」

「ん、良かったって――何よ」

 屈託なく微笑む鈴華を見て、また何かを企んでいるのではと真希は身構えた。が、鈴華の口から漏れでた言葉は、真希の思いもよらざるものだった。

「真希が元気そうになって。最近、塞ぎこんでることが多くてちょっと気になってたんだ。多分、節子が命の洗濯と言って皆を誘ったのも、真希のことがあったからだよ。元気がないよ、心配だよって僕には毎日漏らしてたからね。きっと、真希を元気付ける意図があってのことだと思うね。もっとも、節子は恥ずかしがって絶対に認めないと思うけど」

 鈴華は最後に、仕様がないよねと言いたげに首を振った。彼女のそれは多分に推測を含んでいるのだろうけど、真希にはそれが真実なのだと確信していた。鈴華の推察は何を拠り所にしているのか、そしてどのような思考パターンを持っているかは謎だが、極めて高い精度を誇る。勿論、無闇に人の心を穿り返すようなことはしないが――鈴華は自分の知るより多くのことを知っているのだと、真希は思っている。

「まあ、何だかんだ言ってこの世界は随分、住みづらいものだよ」

 まるでそれが経験則であるかのように、鈴華は語る。

「だからこそね――たまには馬鹿をやったり、そんなことも必要なんだ。もう少し、気楽に行ったって――自分中心に物事を考えても良いんだよ、真希は。もっとも、僕くらいお気楽過ぎても逆に問題なんだけどね、ふふっ」

 励ましなのか、ただ鈴華の気紛れなのかそれは真希には分からない。だが――その一言で、僅かでも自分の胸に痞えていたものを取り除けたと感じた。少し――楽になった。

「ん――言われなくても、あんたみたいなお気楽にはそうそうなれないわよ。でも、まあ――肝に命じとくわ」

「うーん、何気に酷い言い草だけど――誉め言葉と受け止めておくことにしよう」

 言葉とは裏腹に、相変わらず泰然としている鈴華。彼女と他愛ない会話を交わしているうち、知らずとそれぞれの家路への分岐点へと到達したようだった。

「それじゃあ鈴華、また明日。それと――色々、気を遣ってくれてサンキュ」

 真希は、最後に感謝の気持ちを漏らすと大きく手を振り友にしばしの別れを告げる。初冬の冷たい風にも負けない程の熱を帯びた心を凍らせないよう、真希は駆け足で帰った。笑顔は何時の間にか頬を緩め、鬱屈とした気持ちが和らいだことを確かに感じていた。

 家に戻ると真希の予想通り、鍵はかかったままだった。シリンダ錠のそれを開けると、自室に鞄を放り込み、夕食の準備を始める。といっても、心身共に疲弊していたので、貯蔵棚にしまわれていたレトルト・カレーに留めておいた。明日からはもう少し真面目に料理を作ると自分に言い訳をし、鍋にたっぷり湯を沸かす。簡単な付け合せをと、レタスとサラダをガラス製の冷たい器に盛り、愛用のサラダ・ドレッシングを取り出した。

 父用の、少し辛めに味付けされたそれは真希には少しきつかったが、ご飯の量と水、そしてサラダで何とか相殺した。そして、風呂の準備でもしようと思っていたところに、自室の電話が鳴る音が聞こえた。

 多分、節子だろうと思い、取った電話からは案の定、節子のけたたましい声が流れて来る。彼女は今日の些細な楽しみのことを本当に楽しそうに語った後、男数人に囲まれて媚びを売りながらちやほや歩く女性に対する怒りを新たにまくし立て始めた。

「そうなんだぁ、真希が別れた後、そういうのに出会ってさあ。全く――ああだから世の女は全部、男に媚売って生きてるんだって思われるのよねぇ。私さあ、ああいう女だけは大っ嫌いっ。ねえ、真希もそう思うでしょ」

 真希ははいはいと、節子を宥めた後、今日は楽しかったよと一言添えて電話を切った。少し、好き嫌いが激しいきらいがあるのよねえ節子って――。真希は彼女の数少ない欠点を思い息を吐くと、風呂の準備を始めた。といっても、シャワーで軽く流すだけだから別に用意も何もないのだが。

 今日はうんと熱したシャワーでさっと全身を流し、髪の毛をおざなり程度に洗ってから下着だけを着込んで浴室を出た。そして自室に戻り、うんとヒータを効かせた部屋の中で、姿見に自らの姿を写す。

 ウェストは問題ないけど、欲を言えばあと二、三センチ――かな?

 もう少し食べた方が良いかなと思ってるなんて知られたら、節子に怒られるかな?

 そんなことを考えていると、真希の顔に自然と笑みが沸いてくる。けど、少し肌寒く思えて真希は急いでパジャマを着た。

 それから丹念に、特にボリュームを抑えることに気遣いドライヤをかける。少しだけ残っていた宿題を済ませると、丁度九時だった。ここから日曜ドラマ、日テレのバラエティ、惰性でニュース番組とチャンネルを移り渡るのが真希の日課で、少し疲れていたもののその本分には逆らわなかった。

 全ての灯りとヒータを落とし、そっと目を閉じたのは日も替わり少ししてからだった。いつもなら、ここで胡乱な思考に長時間耽るのだが、疲労した頭脳は真希を安らかに、静かな眠りへと誘ってくれた。

 この日、仕事が長引いたのだろうか――希春は家に帰って来なかった。

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