―17―

 二十四日、クリスマス・イヴの朝。結局、折原浩平の寝起きはいつもと変わらなかった。長森瑞佳に強引に叩き起こされ、その口癖について不毛な争いを繰り返したりと馬鹿らしいことばかり。世の中ではこの日に慌て、或いは人生をかける勢いで望むものも多い中、浩平は相変わらずの様子で何ら気負うこともなかった。眩いばかりの朝、取りあえず今日も少し急がないとまずそうだが、概ねは日常の始まりに満足していた。

 教室に至り教室の自分の席に座ると、大きな欠伸が一つ出た。ぽかぽかとした陽気は実に眠気を誘うが、終業式なのでそうも行かなかった。そう言えば――終業式という言葉から昨日のことが連想された浩平は、ふと広瀬真希の姿を目で追う。昨日は屋上から飛び降りようとしていたくらいだから大丈夫かなと思ったが、明朗な調子で友人達と会話していた。そこに死を匂わせるものは何もなく、浩平は安心して視線を逸らした。もう一度欠伸をし、それから体育館へと向かう。そこでは校長の決まりきった会話と体格の良い風紀係の長ったらしく説教じみた、それでいて内容がぺらっぺらの話が続き、勿論のこと誰も真面目には聞いていなかった。

これがもし、自分の失敗談を交えた間抜けなものだったりしたら、皆興味と笑みを浮かべて話に聞き入るだろうし、そんな愚は犯すまいという教訓にもなるのに――何度したか分からない欠伸の底で浩平はそんなことを考えていたが、口に出ることはない。再び欠伸しようとしたが、教師の一人に睨みつけられ、口を抑えて思わず愛想笑いを浮かべた。教師は我関せずといった調子で歩いていったので、浩平はほっと溜息を吐き、先程覆い隠していた欠伸をする。

 自分一人が居なくても、世界は変わらずここに有り続けるのだろう。その想像は、何故か浩平を怯えさせる。他愛もない、他の人間も思っている筈のことなのに、自分だけがこうであることに浩平は少し気味悪いものを感じた。それを振り払うように出る欠伸。要するに、愚にもつかない思考が浮かぶくらい、退屈で平和だった。風紀担当の教師が、最近の学生なんて信じられないんだよと心の奥底では思っていることを吐露したに等しい不満をもらし、生徒の不況を買っている。浩平は左から耳に聞き流し、多分一年の中で最も長い一時間は過ぎていった。

 拷問の後、教室に戻る生徒達を待ち受けているのは大量のプリント類、それから二学期の通知表だった。浩平は中を確認し、前学期と対して変わっていないことを確認すると、置きっ放しの教科書やノートを適当に整理し始めた。が、すぐに止めてしまう。どうせ冬休みは課題以外の勉強をする気もなかったし、何より無秩序を極めた机を整理するのは避けたかった。浩平が机の中身と格闘している間にチャイムが鳴り十分間のインタバルが取られる。この日ばかりは誰もが休憩時間などいらないから早く解放してくれと願っているのだが、良くも悪くもマイペースの塊である髭には、生徒の心の叫びは通じない。生徒達は仕方なく、聖誕祭の日をどう過ごすかという話題で盛り上がっていた。浩平は辺りを見回し、女性達の大きな群れをみつける。その中心に長森瑞佳がいることから、今夜のパーティについて話し合っていることは自明だった。

 元々、瑞佳が提唱者ではないパーティだったが、無類の世話好きのせいか誰よりも準備や勧誘などに右往左往していた。相変わらず損な役回りだったが、浩平は口を挟むことはしなかった。浩平は瑞佳が、他人の世話を焼くことが――人の為になるということを誰よりも好む。それがこうじて、毎朝自分の面倒も見てくれるのだと、浩平は信じていた。

 瑞佳の隣には、パーティの雰囲気と大人数の集まりということで頬を紅潮させている七瀬留美の姿もある。彼女も特に用事はないのか、腕を振って瑞佳の誘いに二の句も継ぐ暇なく承諾していた。その二人も含めて、クラスの女子の半分がパーティに参加していた。これに他のクラスも加えるのだから、かなりの大規模になりそうだ。もっとも浩平には関係ない話だった。浩平は、いつもこういう催しなら中心になれそうな女性がいないのに気付き、慌てて視線を巡らす。クラスの端の方で、浩平が思い浮かべていた女性はもう一人――以前、浩平に警句を与えた女性と共に何やら二人で話をしている。どうやら、あの二人はパーティに参加しないようだった。

 真希ともう一人、恭崎鈴華という名前の女性。浩平はその理由を知りたかったが、すぐに野暮だと気付いて口を噤んだ。この時期、同姓の誘いを断るのにそう沢山の理由はない。浩平は視線を逸らし、頬杖をついて休み時間が、ひいては今日の行程が全て終わらないかと苛々していた。何故、苛々するのか分からなかったが、じっとしてはいられない気分だった。そして休憩の後、再び数枚の紙が配られた。そこにあるのは風紀に関する断り書きで、子供ではあるまいにクラスの何人かは冬休みの注意書きを朗読させられる運命にある。浩平はそうならないよう、両手をぐっと握り合わせ、天に祈った。その神通力は何とか通用したらしく、運命は隣に座る住井護の元へ逃げていった。

「えっと――交通規則、歩行者は右側を歩き、車や自転車に気をつけること。信号が赤になったら渡らないこと、スキーやスノーボードを楽しむ場合は事前に準備運動を忘れずに」

 浩平は笑いを堪えながらそれを聞いていたが、それが余りに露骨だったからか、教師に目を付けられてしまった。運命が、再び舞い戻ってきたのだ。浩平は内心、ざまあみろという心構えを隠すよう爽やかに微笑む住井に僅かばかり、殺意を抱きながら立ち上がる。

「正月やクリスマスなど、羽目を外すイベントの多い休みであるが、我が高校の生徒の一員として自覚をもった行動をすること。お年玉は使い過ぎないこと、イベントにかこつけて不純な行為を強要したり、誘ったりはしないこと――」

 小学生か、俺は小学生並ですかっ! と叫びたいのを必死に抑えながら、浩平は覚書を最後まで読んだ。髭はもう人を選ぶのが面倒臭いと思ったのか、浩平の交代要員はいなかった。結果、屈辱は全て浩平に集中し勿論、他のクラスメートはほっと胸を撫で下ろしていた。浩平は俄かに顔を赤らめながら席に着き、一つのことを現実逃避気味に考える。正月やクリスマスなどということだが、他に羽目を外すような全国的なイベントが日本に存在したかなと。しかし、浩平に思い当たるところは何一つなかった。そういう意味では、浩平も一般人なのだ。

 それさえ凌げば話も適当な髭の話はどのクラスのどの教師よりも短い。他クラスの羨望を受けながら、学校を後にできるのは一学期に続いて浩平たちのクラスの特権だった。誰もが何処にでも、自由に飛んで行ける。終業式後の学生は得てして皆、そんな錯覚を抱く。浩平もまた、その筈だった。なのに、気付けば磁力に吸い寄せられたように、一所に落ち着いていた。学校すら出ることなく、既に誰も使われなくなった教室に足を伸ばしていた。一昨日までとは違う、明確な一つの理由が浩平の中には生まれていた。明確な約束はしていないけど、彼女は今日もここに現れるのではないかという期待を抱く。また明日、そう――浩平は確かに期待していた。

 陽はまだ高かった。時間はまだまだあると思っていた。折原浩平は今日もこの場所に、広瀬真希が現れると信じて疑わなかった。クリスマスの雰囲気など吹き飛ばすくらい、楽しく遊んで回りたいとも思っていた。何故か、自殺しようとしていた真希。彼女を、浩平は何とか励ましてたいと願っている。自分なりのやり方で良い、せめて気でも紛らわせてやりたいと思っていた。

 しかし、徐々に傾く陽は少しずつ旧軽音楽部の部室を――そして、浩平自身の影を伸ばしつつある。浩平は疑っても見なかったことを、その時初めて疑った。彼女はここに来ないかもしれないと。よく考えれば、場所だって決めてない。もっと悪く思えば、昨日の言葉はは今日の待ち合わせなど何も示唆していなかった。考えれば考えるほど、顔が赤くなる。何て自分勝手で適当で、馬鹿な期待を抱いていたのだろうと、自己嫌悪すらわいてくる。急に馬鹿馬鹿しくなった。浩平は自らに苦笑を浮かべ、教室を躊躇することなく後にする。時間を損したと間抜けな自分に怒りを覚えながらも、明確な言葉を口にしなかった自分が果てしなく間抜けに思えた。

 蒼い蒼い空の下で――浩平はふらふらとただだらしなく歩いていた。街には、家には活気が満ち満ちているというのに、魂が抜けた蝉のような軽さで。このまま空まで飛んでいけたら良いなとまで思うくらいの自分の軽さ。兎に角、体重は確かにある筈なのに軽かった。自分がとんでもなく軽かった。薄く、引き延ばされていくような――その中で冷たい空気の中に拡散し、誰にも知覚されなくなるような――そんな錯覚。イメージとして明確に抱き得た時、浩平は恐ろしくなった。辺りを見回す。周りには誰も居ない。今まで一度も思ったことがなかったのに――嘘だ――浩平は急に寒気を覚えた。何か――良くないものが、喜ばれないものが、体を、心を、包もうと、じわじわ服の隙間から、全身から、迫り来るような、それでいて不定形な何かが――迫ってくる。

 フラッシュバック、今何かが見えて――掴め、ない。伸ばしかけていた手をゆっくりと差し戻し、辺りをもう一度見回す。誰もいない、そう誰もいない。そのことに、今度は安堵した。春を待ち続ける、花を持たぬタンポポがアスファルトを貫いている。何気なく視線をやったその端に、僅かな血の後を見つけた。何か事故でもあったのかなと首を傾げ、浩平は一つのことを不意に思い出す。これは、事故の後だった。名もなき仔犬が息絶えて、それを泣きながら抱きしめていた一人の少女の姿が脳裏に浮かぶ。鬼気迫る表情、悲しみに怯えた顔。浩平は改めて思い返す。彼女が――広瀬真希がそんな表情を浮かべてたのはそれが初めてではなかった。屋上で追い詰めた時、屋上で真希の自殺を止めた時――やっぱり同じ顔をしていた。どうして今まで思い出せなかったのだろう――浩平は自分の鈍感さに呆れながら、改めて血の跡に目をやる。

 浩平は自問する。自分は彼女に対して何をしたいと願っているのか、立ち竦み、そこが最適な場所でないにも関わらず、必死で考える。元々、考えるのが苦手だったので大したことは考えていなかった。けど――やはり、彼女にしたいことは沢山あって、それが今できないことをやっぱり悔しいと思う自分が確かにいる。それは変だろうか? そう思ってしまうのは変だろうか? 自分は変だろうか? 彼女がここにいれば全てが分かってしまいそうな気がするのに、それでいて彼女だけがそこにいない。不完全なパズルのピース、一つだけ失くしてしまって、どうしても見つからない。解答のないミステリィのようなもどかしさ。或いは出演者の欠けたドラマのような。

「あれ、何で折原がこんなところにいるの?」

 普通の連続ドラマだったら、こんな感じに都合よく待ち人が現れて――現れて――そこまで考えた時、浩平は背後から妙な違和感を感じた。声がしたような気がする。浩平は首を傾げた。まさか、そこまで世の中って偶然ばかりじゃないよなと、変なことを思ったりする。

「ちょっと――聞いてる? 生きてるー? それとももしかして露骨に無視してる?」

 だが、錯覚ではないらしかった。浩平がゆっくち振り向くと、そこにはバケツや柄杓など全く統一性のない、それでいて浩平にも覚えのある色々なものを手に持った真希の姿を確認することができる。待ち人来るというより、偶然が重なり過ぎて浩平には少し怖いくらいだった。が、次には真希の持ち物に興味がいく。クリスマス・イヴにわざわざ持ち出すような品物ではないものが、見事に揃っていたからだ。

「ったく、呼ばれたらすぐ返事しなさいよ」

 真希はぶつぶつ文句を言ったが、浩平の視線に気付くと怒りを収め自らを笑うような、或いは全てを暴かれ観念してしまった罪人のように寂しげな微笑を浮かべる。真希は手品のあらためをするかのように、バケツの中身を浩平に見せた。中にはバケツ以上に、浩平の予想だにしないものが入っていた。蝋燭、マッチ、線香、不意に浩平はバケツに収められた花の種類が菊であることを思い出す。

 そしてようやく合点がいった。彼女が何処に行っていたか。死者の弔い――それは如何にも明るいイベント好きそうな真希がパーティに参加しない理由としても十分過ぎる動機だった。誰もが浮かれ騒ぐクリスマス・イヴに彼女は誰か、大切な人を失っている――。浩平には即座に誰だろうか? という疑問がわいた。そして、対する真希は隠そうともせず、浩平の心を読んだかのように、なんでもないといった調子で、あっさりと答える。

「今日はね、兄さんの命日なの」

 兄という言葉の意味を、浩平が噛み砕くには少し時間がかかった。その重大さに気付くには更にもう少しの時間が。それでも、浩平は尋ねずにはいられなかった。

「お前の――兄さんか? だったら凄く、若かったんじゃないのか?」

 年が離れている可能性もあったが、にしたって十年くらいが関の山だとすれば――最高でも二十か二十五くらいしか生きられなかったことになる。それだけでも浩平にとっては衝撃だったが、真希の言葉はそれすらも遥かに上回る衝撃と謎とで満ちていた。

「うん、そうよ。わたしのたった、一個上だった。ついでに言うなら頭も良くて運動もできて優しくて、誰にでも自慢できるような、そんな人だったわ。少なくとも、わたしの代わりになって死んではいけない人だったのは確かだと思うけどね」

「代、わり――?」

 よく分からないけど――浩平にはそれがとても危うく、これ以上ないほど重要なものに思えた。それが、掠れた声のような呟きに密接してしまう。浩平は思わず唾を飲み込んだ。

 しかし、震える真希の口からはしばらく、声一つもれなかった。そして歯型がつくのではと思う程ぎゅっと唇を噛み締め、俯く。沈黙が形容しがたいほどの気まずさを生み、容赦なく皮膚をなぶる冷たい風とまるで重力が増したかのような圧迫感が浩平の体も強く揺さぶっていた。元より、湿っぽい話は得意ではなく、正直逃げたいと言う思いも強かった。しかし、浩平は待った。聞いてしまえば何かが変わることは確実だったが、それでも聞きたかった。そうすることで、真希が何かしら心の和らぎを得られるのなら、優先度は更にあがる。浩平はただ、待ち続けた。

 実際には数分程度だったのかもしれない。しかし、浩平にとってはそれに数倍する時間を感じたし、真希にとっても恐らくはそうだったのだろう。彼女の目にはいくつもの迷いが見えた。しかし、それを覆うほどの決意もまた、深かった。浩平にはどちらを尊重して良いか分からない。

「それを説明するには、ここじゃ不十分だと思う。それに、とても長い話になるわよ。はっきり言わせて貰えれば、楽しくも何ともない話だし、折原のようなやつだったら絶対、不愉快になるに決まってる。もうね、ぐちゃぐちゃのどろどろで、救いようの全くない、苦しくて吐き気がするような、嫌な嫌な話なのよ。それでも――もしここまで言っても折原が、それでも聞きたいって言うのなら、ここで待ってて。荷物を片付けてきたいし、それに――」

「それに――なんだ?」

「折原の気持ちが変わらないのか、試したいから。ははっ、図々しいよね。他人の心を測ろうなんて虫の良いこと言ってさ。けど、そうでもしないと決心がつかない。他人の心を試さないと安心できないくらい、本当はわたし弱いのよ――知ってる?」

 頷きだけはしなかったものの、浩平はもう、そんなこととうの昔に知っていた。言葉では強がってても、目の前の女性に言葉通りの強さはないということくらい。だけど浩平も大して強くないから――何かもっと相応しい言葉があるのではと悩みながら、結局はありふれたものしか口にできない。偽善的だと分かっているけど、それでも浩平は真希を安心させるよう、僅かでも微笑んだ。

「人の心を簡単に強いとか弱いとか、断言はできない。けど――ここで十分か二十分くらい待ってることならできるぞ。まあ、外も寒いしできるだけ急いで貰った方が俺としては助かるんだが」

 浩平のやや飛躍したもの言いに、真希は一瞬、思考を停止させた。しかし、言葉の意味が全身に馴染んでいくと共に、彼女の戸惑いは複雑でいて柔らかな笑みに変わった。

「ん、了解。なるべく急ぐから、その代わり――我侭な言い方だけどさ、逃げちゃ駄目だからね。戻ってきた時、折原がいなかったら――もう口一つ聞いてやらないわよ。ううん、それだけじゃ許さない。毎日毎日、嫌がらせしてやるから。分かってる?」

「分かってるって。そんな、暴漢相手に素手で挑むような真似はしない」

「暴漢ってあんたねえ、人を凶暴性生物みたいに。まあ、こんなことで怒ってもわたしの怒り損なのよね――はあっ。良いわ、じゃあなるべく急ぐから――ああもう全くっ!」

 まるで浩平を無視するようにして、真希は足早に駆けて行く。その姿が凛々しいのか滑稽なのかは分からないけど、何故か無性に――可愛い仕草だなと思った。

 

―18―

 空がこんなにも蒼かった。白の聖夜は期待できないが、数多潤いを満たす空気と祭の気配とが、僅かに鳥肌立つ皮膚に感じられる。吸い込む息は果てしなく爽やかで、肺が穏やかに冷やされていった。もう一度、深呼吸する。広瀬真希は誰にともなく肯くと、笑顔を浮かべる子供達や大人達の中を一人、沈んだ面持ちで歩いていく。

 右手に荷物の収納されたプラスティックのバケツを持ち、真希は商店街から少し外れた道を、人を避けるようにして進んだ。閑散とした道と、やがて現れる車一台通れるかくらいの山道。合わせて三十分ほど歩くと、小奇麗な寺社を中心として威風堂々とした墓石から、粗末な石を何個か積んだくらいの古い墓まで、巧みに配置された墓所へと辿り着く。ここに、真希が兄と呼んで慕った広瀬賢が不完全ながらも眠っている。勿論、母と馴染んだ広瀬裕子や、生まれてくる筈だった弟も同様だった。広瀬家之墓と碑されている通り、真希の死んだ先祖や家族がここには集まっている。

 先ず、寺社の水道より水を汲み墓の前まで運ぶ。それから熊手で辺りの雑草を集め、裏返して均す。続いて、すっかり枯れてしまい面影もない菊の花束を抜き、埃に汚れた墓を汲んできた水とタオルを使ってゆっくり磨いていく。年代物だからぴかぴかまでとは行かないが、申し訳がたつくらいには綺麗になったところで、一対の新しい花束を死者たちに捧げ直した。蝋燭を一本立て、マッチで火を付ける。そこから火を貰う形で線香に点火し、予め解してある地面にそれを突き刺した。

 最後に、真希は手を合わせ、そっと目を瞑る。そして祈った。いつもより沢山、それこそ他には目もくれないほど、一心不乱に。そうしなければ、これから自分がしようとするかもしれないことに対して、申し訳が立たないと思った。それは三年間、或いはそれよりもずっと前から悩んできた様々な事象に対する決着だった。歯を食い縛り、虚勢を張り、或いは気が狂いそうになるほど苦しんで、色々な人と出会い、友人達に励まされ、大切だとこれから思いたい人に背中を押されて、ようやく出た結論。真希は、心地安らぐ線香の匂いと自らの決意により言葉を紡ぐ。ゆっくりと、途切れないように――嗚咽がもれないように――。

「ごめんね、わたし――やっぱりそっちには行けない。こっち側でまだ、生きたいの。かあさんはもしかしたら悲しむかもしれない。にいさんは寂しいっていうかもしれない。それにもしかしたら、生きて一度も、何も交わすことのなかった弟にも会えるのかもしれない。でも、こっちにも無くしたくない生活があるの――かけがえのない大事な友達がいるのよ――」

 決して泣くまいと思ったのに、それでも真希の瞳からはゆっくりと涙が零れていく。それでも、言葉が潰えることはない。

「それに、わたし――わたしね――」

 真希はそれを口にしようとしたが、嗚咽に紛れて誰の耳にもそれは伝わらない。そのことに気付かず、真希は両膝を付き、蝋燭の炎をじっと見つめ続けていた。

「だから、向こう側の世界には行けない――さようなら、できないのよ。ごめん、本当にごめんね。許してとは言えないけど、認めてなんて言えないけどさ――せめて――見逃して。文句や小言なら、わたしが死んだらたっぷり受けるから――これからもわたしが生きることを、許して下さい。本当に、ただ、本当にそれだけだから――」

 卑怯だということは分かっていた。いくら問い掛けても言葉が返ってくることはなく、結局は自分で自分を納得させてしまうだけだってことも十分、理解している。涙すらもただのパフォーマンスに過ぎず、結局は自分だけが得をするということも分かっている。卑しくて、醜い行為だって――それでも、吹っ切りたかった。悲しいのは――大事な人が死んだのだから仕方がない。寧ろ、悲しく思えないのは怖いことだ。それは、自らをも貶めるのと等価なのだから。けど、それ以外のものを、真希はこの場所に残して行きたかった。狂気も、絶望も、悪夢も――ここで終わりにしたい。時には思い出にも耽るだろう。しかしそれ以外の時は、目の前や隣で微笑んでくれる大切な人を――穏やかな日常をもっと感じていたかった。だから、真希はさよならする。けど、さよならするのはこの世界ではない。この世と、向こう側の世界との絆に、真希は最後にそっと呟く。

「だから今は――さようなら。ごめんなさい――そして――ありがとう」

 跪く真希の頭の中に、雑多に満ちた思考が次々と過ぎていく。まだ戸惑うことも多かったが、真希は無理矢理に立ち上がり、最後に黙して一礼すると、荷物を手に持ち墓所を後にした。そして、涙の跡を拭うため、真新しいタオルを水に濡らして顔をごしごし拭く。萎みかけた心に、少しだけど張りが取り戻せたような気がした。真希は最後、寺社の主に挨拶をし元来た道を戻り始める。冬の清冽な空気にそぐわないほど、真希の心は重たかった。人恋しさが募るが、帰っても父は商戦の真っ只中で帰ってなどいないことは分かりきっていた。かといって、一度断ったパーティにちゃっかり紛れ込むのも気が引ける。要するに、真希には居場所がなかった。少なくとも、如何ともし難い感情を共有し、そうでなくても紛らわせてくれる人間には誰も、思い当たらない。最後の一人も、真希はわざとらしく大声に出して封殺する。

「流石に、四日連続って訳にも――行かないだろうし」

 二十一日の放課後、古びた部室で浩平を見つけたのは偶然。二十二日、そして二十三日。軽音楽部の部室を訪ねたのは偶然ではない。それは極めて意識的な行動だという自覚は十分にあった。つまり――偶然は二度は期待してはいけないということだ。真希の経験からいって、どんなに幸運でも偶然が近い時期に二度、重なったことはなかった。もし、重なるのだとしたらそれは運命なのだろう。抗う抗わざるを関係なく、偶然を越えた何かの結び付きがあるのかもしれない。非科学的だと思いながら、真希は憂鬱な思いを抱きながら住宅街の脇道を縫い、ようやく少し広い道に出る。

「そう言えば――この辺よね」

 抜け殻のような真希の元に、本当に――本当に偶然だけど手を差し伸べてくれた男性の優しさに改めて気付かされた場所。そう思って、真希は急に可笑しくなった。偶然はここで、既に起きている。軽音楽部の部室の出来事はは偶然の二度目だったことに気付いた。ならば、もう一度くらい起こっても不思議はない。寧ろ、そうならないと間違っている気さえした。

 何か別のものが支配しているのかもしれないと思えるくらいの世界。だから、歩くその先に浩平の姿を見ても真希は驚かなかった。そっと近付き、許される範囲の単純さで真希は声をかける。不完全な心にたった一つ、しかし重要なピースがはまった時に感じる、虚脱感にも似た嬉しさを胸に抱きながら――。

 

―19―

 息を切らせながら全力で走ってくる広瀬真希をようやく落ち着かせると、折原浩平はふらふらと歩き出した彼女の後ろ姿を追い、いつもより明らかにゆっくりと歩き出した。クリスマス雰囲気で、学生から大人から子供から、皆が浮かれ気分ではしゃぎ回る日。少し古びたサンタクロースの衣装には、商店街の歴史を感じさせた。もしかしたら親子二代に渡って着回されているのかもしれないと、愚にもつかない想像が浮かぶ。同時に、こんな騒ぎをみて見ぬふりをして我関せずとしている自分が救い難い捻くれもののようにも思えてきた。

 目立つ形で初々しいカップルが、手を繋いで時折意味ありげな視線を合わせながら歩いていく。そんな光景を横目で見ながら、浩平は疲れも取れ足早になっていく真希の後を、辛抱強く何も喋らず、先程のカップルのように手も繋がず、距離をおいてただ付いていく。商店街を通り過ぎ、道なりに住宅が目立ってくる。このままでは駅前に出るなと考えながら、浩平は彼女が何を話すだろうかと拙い頭を振り絞っていた。

 ほぼ純粋な思考の時間も過ぎ、続いて浩平は何時の間にか辿り着いた駅前通りの光景を目に灼きつけていた。商店街と比べてデパートのような高い建物やビルが多く、高級ブティックや洋服店もあり、どちらかと言えば金銭的な余裕がある、親密度もより高い恋人達がその一日、或いは一夜を迎えるために集っていた。勿論、それだけではなく子供にせがまれてデパートの中に消えていく家族も沢山見られたし、サンタクロースもビラ配りや呼び込みに余念がない。商店街とは客層も何もかも、全てが異なっている。それでいて、クリスマス・イヴという一端をもって二つの場所は今日に限って等しかった。

 それにしても、何処まで行くのだろうか――辛抱の辛の字くらいしかない浩平の中で、そろそろ我慢の第一段階が切れようとした時、真希もまた唐突に足を止めた。目的の場所かと思ったが、単に信号待ちなだけだった。苛々と周りを見回していると、遠目に少し高価そうな他所着の並ぶブティックがあり、真希はそれを苦しそうに、しかし切なげに眺めていた。信号が青になると、ここに限って真希は左右を何度も確認し、ようやく横断歩道を渡り始める。そして、反対側の歩道に辿り着いたところで、大きく息を一つ吐いた。素早く振り向くその仕草に、浩平は直観に頼らずともここが目的の場所と知ることができた。

「ここ、よ――」

 浩平は、真希が指差すその一点をじっと見つめる。表面上は何の変哲もなく、問い返そうと思ったところで、浩平はほんの僅か――僅かだけど、痕跡の残り続けている、車道と歩道の合間、たった数滴染みこんだ茶色い斑点を見つけた。

「まだ、残ってる――しぶとい、本当、しぶと過ぎて嫌になっちゃう」

 真希は浩平と同じ場所で同じものを見ると、その場所にも浩平にも目を合わさず、そもそもどの現実とも視線を合わせようとせず、それでもたった一つの焦点を結んでいた。浩平には何故か、その場所が何処か分かる。彼女はきっと、過去にあるものを凝視しているのだ。真希は今でない場所に思いを馳せながら、それでもぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始める。

 話を聞く内、浩平は徐々に真希の話へと引き込まれていった。不注意で兄を死なせてしまったこと。脳が灼き切れそうなほど狂い、でも結局は狂いきれず、死ぬこともできないことをひたすら悲しみ続けたクリスマス・イヴのこと。そしてクリスマス、基督教で憎しみを捨てろと説かれている日、焦げ付くような憎しみで母親に殺されかけたこと。そんな母親を殴り殺そうとした父親のこと。そして――ただ一人優しい、と信じていた姉のこと。真希の話は更に続く。姉のこと、最初の母親のこと、流産で死んだ子供、その衝撃で自殺した最初の母親、半狂状態となった姉、表面上は冷静だった父、仮面の家族、爆発、利己的簒奪――彼女の語るその過去は、まるで出来の悪い悪夢のように歪んでいて、そのどれもがひたすらに真希を傷付けていた。少なくとも――彼女は傷ついてきた。

 クリスマス・イヴの夜――。広瀬真希が、折原浩平に語った話とは正しくそのようなものだった。しかし、ここではまだその全ては語らない。物語には、それを語るのに最も相応しい時がある。今はそれを語る時でもないし、真希もまたそれ以上、浩平に追及されることを臨まなかった。そして許さなかった。真希は無理に笑顔を作ると、浩平の手を強く握った。そして、浩平に行き先さえ告げず、走り出す。浩平はまだ真希の話で戸惑っていたから、明らかに足がもつれ気味だった。

「お、おい、どこ行くんだ?」

「何処にも行かない。わたしが行きたいと思ったところにいくんだからね。それまでは走るの。走って走って――折原と一緒に走るのよっ!」

 街中を、カップルや家族の群れをぬいつつあてもなく走っていく二人。余りに滑稽で、でも周りからすれば恋人同士がはしゃいでいるとしか見えないような光景だったけど、それぞれの胸に過ぎる思いははるかに複雑だった。友情とか恋情とか愛情とか、そんな一言では片付けられないような感情が渦巻き、不確定が故に戸惑い、馬鹿げた行為に過ぎないのに止められない。

 最初は何とか宥めようと、幾つか口を開いてみたのだが、そのうち浩平自身も面倒臭くなった。走るのには慣れていたし、走りたければ走れば良いと投げやりな気分に溢れていたから。それに、少なくとも考えるより、何も考えず走った方が楽だった。吹っ切れたように駅前から、商店街の方角へと引き返し、まるでラストスパートをかけるマラソン選手のように、まるで疲れを知らないかの如く二人は尚も走る。しかし、魔法はそう長くは続かない。商店街の一歩手前で、真希は突然膝から崩れ落ち、道なりに続く塀に寄りかかった。まるで電池の切れかかったおもちゃのように、動きはぎこちなくたまに正常に動いたりする不安定な仕草。浩平は息を整えながらも、真希のもう片方の支えとなり、そっと見守っていた。

 しかし、いつもより人通りが多くじろじろと観察されていることに気付くと、少しいたたまれない気持ちにもなってくる。最低限、人目のつかないところを確保しなければならないと思い、浩平は真希に尋ねかける。

「なあ、もうちょっと落ち着いて休める場所に行かないか? 近くの公園でも良いし、商店街のベンチでも良いし、どこかジャンク・フードの店でも――多分、ゆっくり座って休んだ方が良いぞ」

 だが、真希はまだ本当にしんどいらしく、呼吸音以外のなにものも響いてこない。ああ、女の子を泣かしてるとか、こら、そんなこと言っちゃ駄目でしょとか、割合堂々とした口調で言う親子連れや、くすくす笑うカップルに僅かな殺意を抱いたりしたけれど、それでも浩平は真希のことだけをそっと――少しだけ顔を赤くしながらも珍しく己の気持ちを維持していた。目の前の女性が心配で、目を離したら二度と届かないところまで飛んでいくのではないかという、果てのない恐怖。何故、怖れを抱くのか自分でも理解できなかったが、一人にするのは怖かった。何というか、彼女が他人のような気がしない。何処か、深い部分で繋がっているような気がして、それを切り離したら自分も終わってしまいそうだった。目に見えない強迫観念、しかしそれ以上に深い友愛の情。

 それから、五分ほど見守っていただろうか――真希は再び浩平の手を取り、歩き出す。はしゃぎ過ぎて迷子になり、ようやく両親に発見されてしゅんとなっている子供のように元気なく、それでも何とか己を励まそうと奮闘している姿が浩平には痛いほど分かる。その痛さが、こちらにも伝播してくるようだった。浩平も同じようなことをした記憶がある。学校の先生にこっぴどく叱られて、暗く塞ぎこんでいる自分が嫌で、自分が正しくないのが情けなくて、故意に明るく振舞ったことがあった。笑えば、本当に楽しい気分になれるんじゃないかって。大騒ぎすれば、憂鬱なんて吹き飛んでしまうんじゃないかって、そんな馬鹿なことばかり考えていた。

「ねえ、折原――なにそんな暗い顔してんのよ」

 浩平が俯いて昔のことを考えていると、真希がつまんなさそうに顔を覗き込んでくる。そして、浩平の意図を全く察することなく、彼女は一件のカラオケ屋を指差した。

「ほら、ぱーっと歌って、嫌なことは全部忘れようよ。わたし、こう見えても歌は凄く上手いんだから。友達にもいつも言われててさ、だから折原もきっと驚くと思うよ」

 ぐいぐいと手を引っ張ってくるから、浩平には抗いようがない。けど、何か――このままじゃいけないって気がする。ただ受容に任せて、このまま目の前の女性に全てを委ねるのは、間違っているような気がして仕方がない。間違っているのに、何をしたら良いか分からなかった。浩平は思わずもらしそうになった苦笑を辛うじて収める。間違っていると気付いていても何もできなかった真希を、浩平はひどい論調で詰ったことを思い出したのだ。

 店員は、二つだけ空いていた部屋の一つを世話すると、別に頼まれても居ないのにボックスの前までやってきて、大きな声で挨拶をする。コンビニとかでも思うのだが、サービス業の人間が不必要にかまってきたり大声を出したりするのが、浩平には鬱陶しかった。とても重要なことで悩んでいたから尚更だ。個室に入ると、真希はリモコンを操り番号を入力して立て続け、何曲も一気に入力した。得意の曲かは知らないが、少なくとも半端じゃないくらい歌い込んでいるのは浩平にも理解できた。

 伴奏が流れ始める。楽しい歌を殊更明るく歌うのだから、そして錯覚でも本当に彼女が明るく思えてしまう。浩平は成程、これなら上手だと言われるわけだと、溜息を吐いた。しかも、二十分ほどぶっ通しで歌ったというのに、声質一つ変わらない。ある意味、鋼鉄に近い喉が、不当に使われていく。そして、浩平は不意に悟った。ここは、広瀬真希の最も得意な――サッカーで言うならホームグランドに近い場所であることを。ここでは全ての言葉が無駄になる。言葉で語っても、何もかもが虚しくなる。

 しかし、歌で彼女に勝てる気など浩平には今や消え失せていた。結局、何をやっても無駄で――何もできないまま今年は過ぎていく。来年はあっても――もう、彼女との絆など一欠けらも残らないような気がした。焦燥が、透き通った綺麗な歌声によりますます掻き立てられる。浩平は初めて知った。こんなちっぽけなことで、無力感をこうも感じるなんて――今までは思いもよらなかった。力を持つ歌、力のない自分。狭い室内に歌だけが通り過ぎて行く。

「どうしたの、ぼーっとして。歌、どうだった? 折原はわたし――の歌、好き?」

 ああ嫌いだ、そんな嬉しくもないのに、楽しくないのに嬉しそうに、楽しそうに歌っているお前の歌なんて大嫌いだ。しかし、浩平にはそこまで相手を踏み躙る言葉を吐くことができない。それが最後の機会だったのかもしれないのに、最後だったのかもしれないのに――。

「ああ、上手いよ――心に、染みるくらいに、上手かった」

 だから、途轍もなく悲しかった。たった一人の人間さえ、救えない自分が。

「本当? ありがと、折原――ねえ、折原は何か歌わないの? こういうとこ、よく来てそうじゃん。結構、持ち歌とかあるんでしょ?」

 勿論、沢山あった。普通に歌える曲なら。しかし、どんな愛の歌も勇気の歌も意味をなさない。何が、歌には力がある――魔力があるだ。これほど沢山の歌があるにも関わらず、何も誰も救ってくれないじゃないか! 浩平は心の中で叫び、リストブックをぺらぺらとめくっていく。既に日本の曲は通り過ぎ、米国の曲がずらりと並んでいるページまで辿り着いていた。そして、あるバンドの名前を目にした時、そのページをめくる手がふと止まった。中学の時、英国で最も有名なバンドへの傾倒が興じて、英語も大して分からぬ中学生に歌わされた幾つかの曲が頭を過ぎり、浩平は惰性で目に付いた番号を打ち込んでいた。

 微かに賛美歌を思わせる音楽と共に流れてきたのは、浩平だけでなく日本人でも知らない者はいないと思えるほどの曲だった。あの教師もこの曲はお気に入りで、何度も何度も歌わされた。刷り込み広告のように、けど今だけはそれが役に立った。浩平はマイクを手に持ち、立ち上がる。

 それは、聞く人が聞けば――そして、二人の陥った状況からすれば何て陳腐な曲だろうと思ったに違いなかった。The BeatlesのLet It Be――なすがままに、あるがままに、おもうがままにと何度も歌い、囁かれ続け――浩平は歌い終わった後、無駄だと決め付けていた言葉を――駄目であるかもしれない言葉を、やっぱり言葉にしようと心に決めた。駄目であったらどうしようと恐れて閉じ込めてきた言葉を、ゆっくり、優しく、彼女を傷付けないように語り始める。

「なあ、俺――広瀬に言っておきたいことがある」

「ん、なに? もしかして、デュエットしたいとかそういう誘い?」

 真希は、浩平の余りに真摯な言葉と表情から逃げるように明るく声をかける。浩平はそれを無慈悲に、言葉強く遮った。

「何で、そうやって無理して明るく振舞おうとするんだ? 本当は笑ってなんかいたくないんだろ? 楽しくなんかないんだろ?」

「違うっ! わたしは浩平といて楽しいの。良いじゃない、今日はクリスマス・イヴなのよ。皆があんなに楽しくしてる中で、わたしだけが毎年、頭がおかしくなるほど苦しんで、悩んで――もうそんなの限界なのよっ! 今年くらい、良いじゃない――」

「それは間違ってる、広瀬は間違ってる。記念日なんて――クリスマスなんて、勝手に押し付けられた価値観なんて関係ないんだ。楽しいことなら、友達と他愛のないことで笑いあったり、ゲームで楽しんだり、カラオケで憂さ晴らしたりなんて、何時だってできるだろ? でも――どうやったって誕生日も、命日も変わらないんだ。そんな大事な日を蔑ろにしちゃいけない。カラオケだったら、明日でも明後日でも俺が付き合ってやる。広瀬の行きたい所、何処でも連れてってやる。楽しいことは何時でも楽しめる――けど、泣きたい時って言うのは滅多にないんだ。泣きたいっていう時、泣けないと本当に後悔するんだ。分かってるのか?」

「五月蝿い五月蝿い五月蝿いっ! そんなの分かってるわよ。でも――嫌なの、もう一人は嫌なの。こんな惨めな気持ちになってまで、一人でいるなんてもう――嫌なのよおっ。わたしは折原にいて欲しいから、だから――だって、そうでもしないと、楽しくないと、折原がわたしの側なんかに、いてくれるわけ、ないじゃない――」

 真希は机を何度も叩きながら、浩平を睨みつける。でも――全然、怖くなかった。彼女が何を望んでいるか、分かったから。何が間違いか、ようやくわかったから。そして何より――睨まれていても誰よりも、望まれていることが分かったから。

「俺は――そういう見返りを求めて広瀬と一緒にいるわけじゃない。昨日も言っただろ、悲しい時は俺によりかかっても良いって。泣きたいんなら今、泣いたって良いんだ。俺はずっと側にいるから――広瀬が良いって言うまで、側にいるから。苦しいなら俺に文句を言えば良いんだ。頼りになるか分からないけど、聞いてやるくらいならできる。それじゃ駄目か? まだ寂しいか?」

 浩平の訴えに、真希はぶんぶんと首を振る。

「そんなことない。ないけどさ――人が泣いてるのを見てるだけって退屈よ」

「構わない」

「構わないの?」

 浩平ははっきりと肯く。

 真希は僅かに目を伏せた。

「寂しかったの」

「ああ」

「本当は、一人は嫌だった。誰か、側にいて欲しかった」

「うん、その気持ちはよく分かる」

「でも、そんな我侭言えなかった。悲しいから側にいてなんて、いくらなんでも図々し過ぎて、誰にも言えなかった。とうさんは仕事で忙しいから、どうしようもなかった」

「――そっか、仕事じゃどうしようもないな」

 浩平も、クリスマス・イヴに働き回っている叔母を身に持つから、家に一人きりでいることの寂しさについてはよく分かっていた。諦めるしかないということも。

「でも、やっぱり――泣くのでも誰かが側にいて欲しかった」

「ああ」

「――折原、ありがと」

「――なんだ、唐突に」

「わたし――折原みたいに言ってくれる人、今まで誰もいなかった。寂しい時、側で泣いていても良いよなんて言ってくれる人、誰もいなかったんだ」

 浩平は思った。それは、自分が真希のことを深く理解しているわけではないからだ。それに、シンパシィを感じていてもやはり、最後には他人事だ。だから、簡単に甘い言葉が吐けるんだ。

「それは、感謝される類のことじゃない」

「それでも、良いの。わたしには――嬉しかった」

 浩平はまだ反論したい気分だったが、真希が良いというから黙っていた。

「折原」

 再び、彼女は彼の名前を呼ぶ。

「今からわたし、思い切り泣くと思う。涙と涎と鼻水を流しながら、きっととんでもなく無様で意地汚く、泣くんだと思う。それでも――わたしのこと、見ていてくれる?」

「ああ、見てる」

「わたし――ごめん、それだけはやっぱり嫌」

 なら、どうすれば良いのだろうか。真剣に悩む浩平の元に、真希がそっと近付いてくる。そして、片手でつかめそうなほど小さな顔を、浩平の胸に添えた。

「馬鹿――女が泣いてる時、男は普通、こうしてくれるもんでしょ」

 浩平は返事をしようとしたが、動転していてとてもそんな気分にはなれなかった。ただ、髪の毛が思ったより良い匂いで、頭が真っ白で、勢いだけで真希の頭をかき抱いた。

 そして、彼女は泣き始めた。最初は激しく、そして緩やかな曲線をもって静かに、しかし深い感情を全身に抱いて。浩平は、最初の頃こそ頭を撫でたり声をかけたりと色々フォローしていたが、そのうち馬鹿らしくなった。

 いつまでも、果てしなく続きそうな優しい空間。薄暗く、けばけばしい光が照らし、画面は延々と新曲情報を流し続けている。隣からは防音壁越しに楽しそうな歌声が聞こえ――それも、何か別世界のような感じだった。

 余りに非現実で、でも抱きしめている彼女の存在だけは驚くほど現実で――それだけが世界だった。たった二人だけの世界――永遠に続く――しかし、須らくこの世に永遠はない。二人の長い抱擁を邪魔したのは、電話のコール音だった。十分前になれば、店員が必ずかけてくる無粋なそれが、二人の意識を立ち返らせる。二人は気恥ずかしそうに視線を合わせ、それから同時に肯いて退室の旨を伝える。外に出ると、既に夕陽の姿すら何処にもなかった。それでも商店街はいつもにないほどの熱気に満ちており、浩平と真希もそれに促される形でゆっくりと歩いていた。涙の筋や、赤く腫れた真希の顔はきっと目立っただろうが、浩平は気にしなかった。

 そしていつしか、いつも二人を隔てるあの分岐路まで辿り着いていた。

「今日は、いつもありがとって言ってる気がするけど――本当にありがと。本当に――折原が居てくれて良かった。折原が、この世界にいてくれて、本当に良かった――」

「大袈裟だなあ――困ってる奴に手を差し伸べるのは当然のことだ。別に俺じゃなくても、お前の友達だって我侭言えば聞いてくれるって。何も俺だけが特別って訳じゃない。だから恩に感じる必要もないし――いつものようにさよなら、それで良いさ」

「それは――わたしは――ううん、やっぱ良いや。じゃあねっ、折原。今度は新学期だから、明日学校になんか来るんじゃないわよ」

「広瀬こそな――じゃあ、また新学期。お互い、五体無事な姿で」

「はいはい、分かってるわよ。じゃあね、折原――あ、ちょっと待って。あと五秒だけ、わたしに時間を頂戴」

「五秒?」

 たったそれだけの時間で何をしようとするのか、浩平には理解できない。勿論、理解できる筈もなかった。真希はその隙を狙って、唇をそっと浩平の頬に添えた。

「これは――感謝の気持ち。わたしの――現段階での、精一杯だからねっ!」

 そう言ってから、真希は照れ臭そうに夜の靄へと姿を消していく。浩平は情けないことに、柔らかいものが触れた頬をそっと、包むように撫でることしかできなかった。柔らかく暖かく、胸を打つもの。浩平はそっと、心臓に手を当てる。

 しかし、浩平はその痛みを確認しただけで自身も家へと歩き出した。普通のドラマならば、こういう場面で恋愛感情が芽生えたりするのかもしれない。けど、現実はもう少しだけ複雑だった。折原浩平と広瀬真希。二人はそれぞれに鈍感であり、そして御しがたい何かが恋愛へと向かう心を阻んでいた。だから、キスしても抱きしめても、どんなに仲良く見えても、どうしても越えることのできない一線がある。

 それは後に二人を、別の理由で苦しめることになるのだが――少なくとも浩平の意識にあるのは、如何様なことでもない。思考は浩平の照れ症によって見事に遮断されていた。

 冬の容赦なく冷たい、身を切るような風がすべてのものを切り裂こうと躍起になっている。恩寵は全てに平等であるが、また困難も全ての人間に平等に吹き荒れる。浩平の全身も既に、一つの例外もないままに冷え切っていた。それでいて、頬に微かな温もりを感じて――浩平は戸惑いを逃がそうと空を見上げる。

 吐き出した溜息が、空中に拡散していく。

 濃紺の空から、たった一粒だけ白い何かが舞い落ちてきたような気がして――。

 浩平は暫く、上を向いたまま動かなかった。

 新たな白い雪を期待して――。

 しかし、いくら待っても新しい雪を望むことはできなかった。

 己の心を臨むことができないのと同じよう――。

 望むことができなかった。

FACTOR02, "CHRISTMAS NIGHT" IS OVERD.
CONTINUE TO PHASE03 AND FACTOR03.

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