第十二話 連続殺人

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五月五日 水曜日

僅かに西日の指しこむ部屋は、鼈甲飴色に染まっていた。

もう少し経つと、オレンジ色に、或いは夜の色へと世界を変えて行く。

窓の外を漠然と見つめながら、佐祐理は色々なことを考える。

今日は、皆の様子が不自然な程に余所余所しかった。

姿を見ると、目を逸らしてそそくさと立ち去って行く。

勿論、それが何なのかは佐祐理には既に分かっていた。

今日は十九回目の誕生日だから。

嘘を付くのが苦手なのだ、皆。

自分とは違う。

自分に対する嘘、他人に対する嘘。

だが、嘘も或いは必要な時だってある。

今日のような時、或いは……。

佐祐理は昔のことを思い出していた。丁度今頃の時期だ。あの頃の自分を思うと、時々ふと、深い空の色に吸い込まれたいと思う時がある。

前にも今日のようなことがあった。

弟の一弥が、何故か自分のことを他所他所しく避けることがあったのだ。

佐祐理は意味が分からず、その原因を考えようとした。

そしてふと、自分の誕生日が近いことを思い出したのだ。

そのことを言うと一弥は、折角驚かせてあげようと思ったのに……そう、ちょっと寂しそうな顔で言った。

だから佐祐理は、来年からはわざと知らない振りをしようと思った。

けど、来年はなかった……。

そう、その次はなかったから。

ドアの開く音。振り向くと、そこには舞が立っていた。

「どうしたんですかー」 佐祐理は今まで考えていたことを悟られないように、わざと明るい声で言う。

「……来て」 舞は手を取ると、佐祐理を引っ張るようにして進んで行った。

その足がダイニングの所で止まる。

ドアを開ける。

そこには佐祐理の思っていた通りの光景が並んでいた。

イチゴのたっぷり乗ったケーキに、御馳走。華やかな雰囲気と、笑顔で祝福してくれる人たち。

その光景に、佐祐理は驚いた振りをした。

或いは喜んだ振り。

そして本当に、心の底から嬉しいと思った。

 

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五月六日 木曜日

相沢祐一が目を覚まして台所に行くと、倉田佐祐理は既に台所で朝食と弁当の準備をしていた。ダイニングテーブルには、鈴蘭の花が鉢ごと飾られている。

鈴蘭は五月五日の花、つまり佐祐理の誕生花だ。昨日の昼頃、とある花屋を訪ねた舞と祐一は、店員の話を聞かされて、即座にこの花を佐祐理へのプレゼントにすることに決めた。

ちなみに花言葉(これも店員が教えてくれた)は、幸せの再来・幸福・純潔・清らかな愛・繊細……これらは佐祐理の幸福そうな笑顔に相応しいと祐一は思った。

「あっ、おはようございます、祐一さん」

佐祐理は普段の三割増(少なくとも、祐一にはそう見えた)の笑顔を、祐一に向けた……と思うと、次の瞬間には、香ばしい音を立てる鍋の方へと、小走りで向かっていった。

「佐祐理さん、今日は大変そうだな」

いつもなら、もっと余裕が感じられる筈の食卓が、今日に限ってはひどく慌ただしかったのだ。

「ええ、今日のお弁当は自信作ですから」

後ろを向いたままで、そう答える佐祐理。その様子を見て祐一は、やっぱりお弁当のプレゼントは、彼女に入らぬ気遣いと負担をかけてしまったのかなと感じた。

「佐祐理さん、あまり無理して豪勢なお弁当にすることはないから」

祐一がそう言うと、

「ええ、分かってます。今日だけですから」 そう佐祐理は答える。どうやら流石に、自分が無理をしているという自覚は持っていたようだった。

プレゼントが佐祐理への負担になっているわけではないことが分かって、祐一はほっと胸を撫で下ろす。

「……おはよう」

そこに寝惚け眼を擦りながら、我が家のプリンセスこと川澄舞がやって来る。

「おはよう、舞」

「おっ、今日も眠たそうだな」

眠たそうな舞は、どうやら祐一の嗜虐心をくすぐるらしい。舞にちょっかいを出して、チョップのツッコミを返されるのも、既にここでは日課となりつつあった。

まあこんな調子だが、食事当番の時にはきちんと朝一番に起きて、朝食や弁当を作っているのだから不思議だ。

それから間もなくして、テーブルに朝食が並んだ。弁当を作る家庭の場合、その残り物が朝食のおかずとなるのが常なので、必然的に朝食も手の込んだ料理が並ぶことになった。

量も結構多く、寝起きで気だるい胃には少し辛かった。

そんなこともあり、学校に向かう準備がすっかり慌ただしくなってしまう。

「今日の……天気は晴れ時々曇、降水確率は十パーセントです」

天気予報の流れるテレビを横目で見ながら、教科書を鞄に詰める。最近は流石に受験生と言うことで、勉強用具はなるべく持ち帰るようにしていた。

「次のニュースです。昨日起きた、警察官撲殺事件の最新情報についてです。殺害された警官は……駅前交番の巡査長で、携帯していた筈の拳銃が殺害現場から紛失していた所から見て、銃目的の暴漢に襲われ、命を落としたものと警察では見ている模様です」

天気予報に続いて流れる地方ニュースを聞いて、祐一は肩を震わせた。確か……駅前と言えば、この近くだ。あの駅前のベンチで、名雪に二時間も待たされたことは、今でも記憶に新しい。

「死体が発見された廃工場では、現在も多数の捜査員が慌ただしい動きを見せており、また警察では周辺のパトロールを強化すると共に……」

そして画面には、被害者であると思われる人物の顔写真が、半分くらいのスペースを陣取っていた。名前は城恒久、年齢は三十二歳。角張った顔の、何の変哲もない堅物そうな中年の顔に過ぎない。

しかし舞は、その顔を食い入るように眺めていた。

「どうした舞、まさかこの人って、舞の知り合いか何かか?」

その様子を奇妙に思った祐一は、舞に尋ねてみた。

「……この人、二日前に会った」

「二日前って?」 祐一がおうむ返しに訊くと、舞は五月四日の晩のことを詳しく話してくれた。

あの日、大学の友人と別れて水瀬家に戻る途中、川沿いの道を歩いている時に、連れの警官と一緒に、誰かを追い駆けている様子を、たまたま舞が目撃したと言う。

ただその時は、名前も知らず、ただすれ違っただけだったようだ。

「ふーん、成程ね」 結構な偶然もあるものだと、祐一は思った。

「でも、銃を持った危険な奴がこの辺りをうろついてるって、何だかぞっとしないよな」

「ええ、そうですね……気を付けないと」

祐一の言葉に、佐祐理も不安そうに頷く。

「ところで祐一さん、時間の方はいいんですか?」

佐祐理に言われて、祐一は時計を見た。既に八時を少し回り掛けているのを見て、ぎょっとする。

「やばっ、じゃあ佐祐理さん、舞、いってきます」

慌てて飛び出そうとする祐一。すると佐祐理が、

「あ、お弁当忘れてますよ」

そう言って玄関で靴を履いている祐一の元に弁当を持って来た。

「サンキュ、佐祐理さん」

靴を整える間もなく、外に飛び出し、階段を降り、マンションの表玄関へと出る。そして走りながら弁当箱を鞄にしまい、再び全速力で走り出した。

そして、学校には何とか間にあった。ただ昼休憩の時に、ひたすら乙女チックな弁当箱に、北川が大笑いしたという一幕があったが……。

よく考えたら、男物じゃないよな……そう思い、自分の考えが浅はかだったのを少し悔やんだ祐一だった。

 

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五月十三日 木曜日

いつも通り、牛丼屋の皿洗いの仕事を終え、舞は一人素早く帰路に着こうとしていた。本当はレジ係の予定だったのだが、オーナに不適格だと言われて、皿洗いの仕事をすることになったという変遷がある。

『まあ、分からないでもないよな』

そのことに、祐一は全くもって納得したような顔をしていた。

そんなことを考えながら、舞はアルバイト用の自転車置き場へと足を向けた。裏口から外へ出ると、生ゴミなどが置かれているポリタンクがあり、プラスチックの屋根が付いた駐輪場がある。

自転車に鍵を指し込むと、スタンドを倒してバックさせた……と、タイヤに奇妙な違和感を感じて、ふと立ち止まる。

スタンドを立てて自転車を固定し、タイヤの方に屈みこむと、それはぺしゃんこに潰れていた。前輪も、後輪も、何故かパンクしていたのだ。ここに来た時には、そんなことは無かったのに……。

そんなことを考えていると、ふと背後に奇妙な気配を感じた。何か、嫌な予感。舞はかつての習慣から、咄嗟に意識を張り詰める。

その数瞬後に聞こえて来た、弾けるような重低音を、体を転がすようにして避けた。感じた嫌な予感が、殺気だと分かったからだ。

その反動で自転車が倒れたが、舞は気にせず襲撃者の方を向いた。全身を濃い茶色のコートで包んでおり、体格はよく分からない。

それに深く帽子を被っており、色付きの眼鏡とマスクで顔を覆っているため、その形すら分からない。

右手には細い電撃の迸る、奇妙な形の物体を持っていた。バチバチと、黄白色の火花の音が、静かな夜の裏道に響き渡る。

あの武器は危険だ、舞は即座にそう判断した。しかしコートを着たそいつは、一つ舌打ちを漏らすと、素早く身を翻して、夜の闇の中へと消えて行った……。

 

−43−

「襲われた?」

祐一は夕食中、まるで世間話でもするかのように語り出した舞の言葉に、思わず大声で怒鳴り返した。

「そんなこと、まるで大根を八百屋で買って来るようにあっさりと言うなよ」

ショッキングな出来事に、思わず声の調子が上がる。佐祐理は佐祐理で、ぽかんと口を開けて驚きを表していた。

「……八百屋で大根なんて買ってない」 そんな様子にも関わらず、淡々と言い返す舞。

「それは例え話だ。それより、なんでそんな大切なことを言わないんだ」

その言葉で、祐一はさっと血がのぼってしまった。舞が襲われたと聞いて、少し動転したのかもしれない。

「……怪我はなかったから」 そんな祐一の感情を冷やすかのような舞の声。

「本当に、大丈夫なの?」

佐祐理は少し潤んだ目で、舞の方を見た。その言葉に、舞はこくりと頷く。

どうも、舞は身の危険に対して鈍感なところがあるようだ。そして、それは多分、舞が長い間危険に曝され続けて来たからだ……そう祐一は思った。

しかし今回は、魔物なんて非人間的なものではない。恐らくは、悪意を持って舞を狙った何者か……多分、変質者か何か……。

舞くらいの美人ならば、或いはそういう不埒なことを考える輩がいるかもしれない。そう考えて祐一は、背筋に寒いものが走るような気色悪さを感じた。

「で、何処で、誰に襲われたんだ? 顔は見たのか?」

「……顔は分からない、マスクに色付きの眼鏡と帽子で隠してたから。それで、電気の出る棒を使って襲い掛かって来た」

電気の出る棒……その言葉に、祐一はピンとくるものがあった。よくドラマなどで見る、スタンガンというやつではないだろうか。

「スタンガン……ですね」 佐祐理も同じことを考えていたのだろう……いつもの柔和そうな笑顔を隠して言った。

「それで舞は、警察に届けたんですか?」 佐祐理の言葉に、当然のことながら舞は首を振った。

自分が襲われたことを、酒の肴(この食卓に酒はないのだが)のように言う舞のことだ、被害届は勿論、警察にすら連絡していないことは、容易に窺いしれた。

「とにかく、警察には届けた方がいいと、佐祐理は思います。今日はもう遅いですから、明日にでも」

「そうだな、俺もそれが一番良いと思う」

「……分かった」

取りあえず、それでこの場は決着が着いた。それで、いつも通り遅めの夕食を終え、祐一は一足先で風呂に入ることにした。時計を見ると、もうすぐ十時になる。これから風呂に入って、それから望む、望まざるに関わらず、勉強のコーチを受けることになるのだ。

祐一が風呂場に向かった時、舞と佐祐理はリビングの方へと向かっていた。既に先程の話はなかったかのように、明るい雰囲気だった。

しかし祐一が寝間着に着替えてリビングの方へ向かうと、二人はテレビの方に目をやり、何か深刻そうな顔をしていた。

「どうしたんだ、二人とも。そんな暗い顔して……」

祐一も二人の視線に気付き、テレビの方へと目を向ける。

それは一つの事件だった。線路を横切るようにして走る駅前の地下通路で、とある元暴力団の団員が、頭を殴られて殺されているのを、今朝通り掛かった通勤者によって発見された……というものだった。

警察の方では、暴力団の抗争関係の可能性が高いと見て、捜査を進めている模様……そんなことを、キャスターが淡々と伝えていた。

確かに物騒な事件だが、それは舞や佐祐理に関係のある話とは思えなかったからだ。

「舞が、この人の顔を、見たことがあるって言うんです」

佐祐理の言葉は、祐一にとって寝耳に水だった。まさか暴力団員に知り合いがいるとは、到底考えられなかったからだ。

しかし、その次の佐祐理の言葉は、祐一の予想とは全く違ったものだった。

「それで、どこでって尋ねたら、五月四日の夜だって」

「五月四日?」

「ええ。以前、警官が殺害された事件がありましたよね」

その話なら、祐一もおぼろげにだが覚えていた。確か、死体が発見される数日前に、その警官が何者かを追跡しているのを、舞が見掛けていたとか、そういう話だった筈だ。

「この男の人、同じ時刻に同じ場所にいたって、舞が言うんです」

そう言って、テレビを指差す佐祐理。

「同じ場所って……今朝殺害されたって奴がか?」

「……間違い無い、と思う」 佐祐理に代わって、舞が答える。

「……私のいる場所から、橋を挟んで斜向かいにいた。ライターを使っている時、顔が見えたから間違い無い」

そして、確信的な口調で言った。

「……色付きのサングラスに、コートを着ていた」

その特徴に、祐一は思い当たる所があった。それは、夕食の時に舞が話してくれた襲撃者の服装だ。

「それってもしかしたら、舞を襲った奴と同じなんじゃ!」

祐一は強い口調で舞に訊いたが、舞は曖昧に首を動かすだけだった。

「……それは、分からない」

それにしても……五月四日の晩だろうか。何者かを追う警官が二人、何故かその場にいた元暴力団の男、そして偶然居合わせた舞。その内の二人は既に殺され、舞もまた命を狙われた可能性がある。

「じゃあ、その追跡していた何者かが、あの現場にいた人間を皆殺しにしようとしている?」

それは或いは、変質者に狙われていると言うよりも余計に背筋が寒くなるような、そんな考えだった。だとしたら、そいつは警官から奪い取った拳銃を持っている……ということになる。

「それは分かりません」 佐祐理は冷静に答えた。

「全ては偶然という可能性もあります。けど、祐一さんが言ったことも否定は出来ません。どちらにしても、舞の身に危険が及んだこと、そしてこれからも及ぶ可能性があるかもしれない……これだけは言えると思います」

「そうだな……」 佐祐理の意見に、祐一は全面的に賛同した。やはり大切なのは、舞を危険から守るということだ。

たとえ人並み外れた運動能力を持つ舞でも、拳銃やスタンガンの一撃を食らえば、無事でいられる保証などどこにもない。

「でも、具体的にはどうすればいいんだ?」

祐一に思い浮かぶのは、警察に話して然るべき護衛を付けてもらうということだけだ。しかし佐祐理には、それよりも進んだ考えがあるようだった。

「そうですね……まず、舞は絶対一人にしないこと。少なくとも二人、出来ればなるべく三人一緒に行動するようにした方が良いですね。後は、舞が見た警官のもう一人の方を探し出して、詳しく話を訊くこと、でしょうか。

その人が何の被害も受けていなければ、それは単なる変質者の仕業である可能性が高いですし、その人物も命の危険に曝されていたとしたら……」

「その時は、何者かが組織的に目撃者を消そうと考えている可能性が高い……」

祐一の言葉に、佐祐理は神妙そうに頷いた。

「でも、そのもう一人の警官っていうのは、どうやって探すんだ?」

「そうですね……まず、殺された警官、確か城恒久という名前だったと思いますが、彼の勤めていた交番、確か駅前でしたよね……そこを尋ねてみるんです。もしかしたら、同じ交番に勤めている方かもしれないし、そうでなくても何らかの手掛かりは得ることが出来ます」

 

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五月十四日 金曜日

次の日、校門の手前で、佐祐理と舞と合流した祐一は、早速昨晩のことを行動に移すことにした。

駅前の交番は駅舎の最も右端、白を基調とした清潔そうな一角だった。手前には巡回用の自転車が数台置かれており、窓越しには制服を着た警官の姿が数人見える。

例え疾しいことがなくとも、何となく中へ入るのが躊躇される空間を、それらは醸し出していた。

しかし、今はそんなことを考えている場合でもなかった。祐一は、舞、佐祐理と顔を見合わせてほぼ同時に頷くと、意を決してドアを開ける。

「あの〜、すいません」 祐一が声を掛けると、一人の警官がこちらに向かって来た。が、その目が舞の方に向けられると、その若い警官は僅かに驚きの表情を見せた。

「……この人」 舞が、目の前の警官を視線で指し示してそう言った。ではこの人が、五月四日の夜に不審人物を追跡していたもう一人の警官なのだろう……そう祐一は思った。

「君、確かあの時の……」 その警官の方でも舞のことは覚えていたらしく、探るような目を舞に向けた。

「どうした、その人たち、お前の知り合いか?」

内輪めいた話をしていること不審を抱いたのか、奥にいる警官の一人がそう尋ねて来る。

「あ、実は例の日に丁度、現場にいた女性がいたと、先日報告しましたよね。それが……」

若い警官は、舞を手で差すと、

「彼女なんです」 そう一言付け加えた。

「成程……それでそちらの二人は友人か兄弟か何かで?」

「ええ、そうです」 奥にいる警官の問いに、祐一はそう答えた。

「で、今日は何の用ですか? 僕はここに勤務している梨本というものです。あ……どうぞ、椅子にお掛けになって下さい」

梨本警官はそう言うと、奥の方からパイプ椅子を三脚持って来た。そしてそれを彼の机の前に並べると、何やらメモのようなものを取り出して、席に付いた。

それからは祐一が代表して、舞の身に降りかかった危険、五月四日の夜に現場で謎の人物を目撃したこと、そして彼が五月十三日の早朝に死体で発見された人物であるということ……それらを、出来るだけ詳しく述べた。

「ふむ、不審人物ね……そんな奴を見ていたのなら、もう少し早くこちらに届けて欲しかったんだが……」

梨本警官はは祐一の話を聞き終わると、そう言って軽い溜息を吐いた。

「……ごめんなさい」 その言葉に、舞が深く頭を下げる。すると梨本警官は、慌てて手を振った。

「いや、別に責めてる訳じゃないよ。しかし、君も何者かに襲われたのかい?」

「君も……ということは、おまわりさんも誰かに襲われたってことですか?」

その言葉に驚いた佐祐理が、慌てて尋ね返すと、梨本警官は深く頷いた。

「ああ、最初は城巡査部長が殺された次の日だったかな? 夜勤で周辺を巡回していたら、棒を持った奴に襲われたんだ。その時は、見回り中の警官が来てくれたんで、何とか助かったんだが……。

その二日後に、差し出し人不明の封筒が届いたんだ。それで不審に思って慎重に開けてみると……封筒一杯に剃刀が詰まっていた」

そのことを、深刻そうな表情で話す梨本警官。

「それって、ただの剃刀レターってやつじゃないですか?」

祐一が尋ねると、

「手紙なんて入っていなかったよ。それにその剃刀、毒がたっぷり塗ってあってね、刃で傷を付けると、そこから毒が体に入り込むような細工がされていたんだ」

毒物を塗った刃で殺人……どこか漫画チックな方法だと祐一は思う。それと同時に、そんなことが現実に起こり得るのかと考えて、戦慄のようなものが走った。

「で、その毒物っていうのは何だったんですか?」

「えっと、それは……」 そこまで話して、梨本警官は口を噤んだ。

「ごめんけど、それは捜査上の秘密というやつで答えられないんだよ」

捜査上の秘密……祐一は現実世界で初めて、そんな台詞を聞いたような気がした。

「じゃあ、城という警官が殺された事件と、梨本さんが殺されかけた事件、それに舞が襲われた事件は、同一人物による犯行なんでしょうか」

佐祐理の言葉に、梨本警官は曖昧に首を振るのみだった。

「多分、そうだと思う。詳しくは聞いてないけど、上の方の命令で当分の間、僕の分の夜勤は免除するってことになったし、目撃人物のことで何度か質問も受けたから」

「そう言えば、あの日の夜に何者かを追い駆けてましたよね。おまわりさんも不審人物を見たんですか?」

「ああ、でも顔や形までは分からない。その人、足元まであるコートを身につけていたし、僕が見たのは脇道から飛び出して素早く走り去るそいつの後姿だけだったから」

祐一と佐祐理は、思わず目を合わせた。また、コートの怪人物だ。だとしたら、そいつこそが今回の殺人事件の真犯人なのだろうか?

「それから間もなくして、城巡査部長が慌てた様子で飛び出して来たんだ。随分慌てている様子だから、僕が何があったのか尋ねると、不審な人物が飛び出して来なかったか……って、逆に訊いて来た。

だから僕が、歩いて来た方向とは反対側の方に走って行ったと報告すると、有無を言わさずついて来いって言われて、一緒に走り出したんです。それから一本道をしばらく走って、やがて川沿いの道へと出た。

僕と巡査部長は橋を渡り、更に不審人物を追跡しようとした。そこで……えーと川澄さんだったかな? 君の姿を見掛けたんだ。

それから相談して、僕は現場に戻り、巡査部長は追跡を続行した……というわけです」

梨本警官は、事務報告するような口調で、祐一たちに話してくれた。

「でもいいんですか? 事件のことをそんなに詳しく話しても」

祐一が訊くと、彼はあっさりとこう返した。

「別に構わないよ。その時のことは地図付きで、スポーツ新聞や週刊誌なんかでも公表されてることだからね」

成程、それなら問題はないわけだ……そう祐一は考えた。

「じゃあ城っていう巡査部長の人ですか? その人は不審人物の顔なんかを見たんですか?」

「いや、彼も顔とかは見てないようだった。僕の聞いたところでは、巡査部長は裏口から出ようとするそいつを見かけたんだけど、そこは通りの道に出るすぐ近くだったから、ライトを当てた時には、既に角を曲がったあとだったらしい。

それに巡査部長は、目が良くないんだ。特に夜になると、ほとんど見えない。それで結局、逃亡者の正体については何も分からないってのが、正直なところらしいんだけど……」

そう言う梨本警官の声は、多少自信無さげだった。

「目が悪いって、彼は眼鏡とかかけてなかったんですか?」

佐祐理が質問すると、梨本警官は大きく溜息を吐いた。

「ええ、巡査部長はそう言った類のものが嫌いだったんだ。けど、別に犯人逮捕に関して困ることはないだろうって、大声で笑いながら話してました」

「困ることがない……というのは?」

「ええ、巡査部長は武道、特に空手ではアマチュア大会の上位にも入賞したって腕前でした。確か空手が四段、柔道と剣道が二段だったかな?」

「成程、確かにそれ程の武芸の達人なら、目が悪くても困らないでしょうね」

佐祐理は納得げに頷いた。

「でも、その怪人物って、一体何を仕出かしたんですか?」

祐一は、さっきまでの話で一番気になっていたことを切り出した。

「例のペット連続殺害事件だよ。僕が現場に戻ってみると、そこには毒物を注射された無惨な飼い犬が、横たわっていたんだ……どうしたんだ君たち、何か心当たりでもあるのかい」

余程驚いた顔をしていたのだろうか、梨本警官は怪訝そうな顔で訊き返してきた。

確かに祐一は驚いていた。近隣を騒がす、ペット連続殺害犯。水瀬家に迷い込んで来た猫の足を、無残な方法で切り裂いたかもしれない人物。

奇妙な所で接点が出て来たな……そう祐一は考えた。

「いえ、別に……それで警察は今回の事件を、偶然現場を目撃されたその犯人が、口封じのために犯している殺人だと考えているんですか?」

「そうかもしれないね、たださっきも言ったけど、僕は詳しいことは聞いていないから。もっとも、上層部は確信的な口調で述べていたから、そうなんじゃないかなと。それくらいしか、僕には言えないよ」

祐一の問いに対する梨本警官の答えは、はっきりしないものだった。

「取りあえず、君たちが話してくれたことは、捜査本部の方に伝えておく。それでもしかしたら、後日警察の方から呼び出しがあるかもしれないから。後は被害届の方だけど……」

その後、被害届と書かれた紙に住所や電話番号などを詳しく書き込んだ紙を提出し、祐一は舞と佐祐理と一緒に、交番を後にした。

「……一体、どういうことなんだろう」

祐一は歩きながら、思わずそう口に出していた。

まず五月四日の夜、警官二人が逃げる不審人物を追跡していた。そしてその近くに、舞と元暴力団の男がいた。警官一人と元暴力団の男が殺されて、もう一人の警官、さっきの梨本って人と舞は命を狙われ、殺されかけた。

それは最近、この界隈を騒がすペット連続殺害犯であり、そいつは目撃者を片っ端から消そうとしている。少なくとも警察の方では、そう考えている可能性が高い。

「舞はあの時、不審人物を見たんですか?」

佐祐理が尋ねると、舞は首を振った。

「……いや、誰も見なかった」 舞は少し考えた後、そう答える。確か以前も、そう話していた筈だ。

「誰も見ていないなら、なんで舞が狙われないといけないんだ?」

「犯人は、見られたと思っている……それで殺すには充分だと思っているのかもしれません」

「それじゃあ、単なる勘違いで舞は狙われてるってことなのか?」

祐一が少し声を荒げて言うと、佐祐理は小さく頷いた。

「とにかく、今は舞の身を最優先に行動するしかありませんね。警察が犯人を逮捕してくれるまでは」

佐祐理の言葉に、祐一は何か歯痒いものを感じた。

「じゃあ、これからも舞が危険に曝される可能性があるっていうのか? 犯人が捕まるまで、俺たちはてぐすねをひいて待っているしかないのか?」

「そう……ですね。今回のような事件は、警察の数と機動力こそが、もっとも有効な手段な筈ですから。少なくとも、心理科学捜査が受け入れられていない日本では」

佐祐理が溜息のような声で言う。

良くも悪くも自分たちは一般市民なんだな……そんな無力感に、祐一は暗い気分で歩き始めた。

その中で、今までの話を聞いていた舞は、全く変わらぬ様子で言った。

「……私なら大丈夫。自分の身は自分で守れるし、佐祐理も祐一も一緒だから」

祐一は驚いた。

命を狙われたと言うのに、舞は他人のことを気遣っているのだから。

「……だから、二人とも元気を出して」

そして、励まそうとしている。

どんな時でも、舞は舞なのだ。

強くて弱くて鈍感で馬鹿で、冷静そうな顔をして限りなく優しくて……。

そして、そんな優しさに触れたものを嫌でも惹き付ける……。

「祐一さん……」 佐祐理の呼ぶ声に振り向くと、彼女は目を妙な色に輝かせていた。

そして息を大きく吸うと、声を細めて話し始める。

「佐祐理は決めました。やっぱり、警察が解決するまで待ってなんかいられません」

その瞳に宿る色は、決意、そして……怒り? とにかく強い感情だ。少なくとも祐一は、佐祐理がそんな感情を表に出しているのを見たことがなかった。

大切な親友に危害を加えようとしているものへの怒り。

そして、それは祐一も同様だった。

「そうだな、俺も同意見だ。けど……どうやって?」

そうは思うものの、祐一には何のアイデアも浮かんで来なかったのだ。

だが佐祐理には考えがあるらしく、快活な笑みを浮かべた。

「大丈夫です。それについては、佐祐理に考えがありますから」


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