姉妹・試読版

 

  一九八八年 六月

 

 

 肌にも髪にもまとわりつくような、厭な雨の降る夜だった。

 こういう時は良くないことが起きると分かっているから、予定を全キャンセルして家にこもることにした。

 そもそもこの湿気では化粧のノリも悪く、髪型も整わないからとても外に出られたものじゃない。時間をかければそれなりに仕立てることもできるが、今夜の予定はその時間をかけるほどの価値すらない。

 クーラーをガンガンに効かせてあつあつの鍋でも作ってやろうかと思ったが、冷蔵庫を開けてすぐにげんなりした。鍋の材料どころかろくな料理を作る材料すら入っていない。

「そもそも発想としておかし過ぎるわよ、鍋だなんて」

 思わず口にするほど馬鹿な話だった。最近はいつも外食かレトルトで、冷蔵庫に入っているのはビールとおつまみ、それから野菜ジュースくらいだと分かっていたはずだ。どうして鍋なんかを作ろうと考えたのか、自分でも不思議だった。

「わたしとしたことが無意識のうちに望郷の念にでもかられたのかしら……ダッサいなあ」

 鍋は父の好きな食べ物だった。普通の家庭なら冬の食べ物だが、うちでは夏でも作っていたほどだ。オイルショックから来る省エネ指向など関係ないと言わんばかりにクーラーをガンガンに利かせ、贅沢こそが人間であることを感じさせてくれると嘯いていた。

 仕事の虫で、あまり構ってくれない父のことを生前はあまり好いていなかった。立派な人だという話は方々から聞かされていたが、一緒に暮らしていれば色々とだらしない点も見えてくる。その評判ゆえ余計な嫌悪感を覚えてしまったのかもしれないし、腹違いの姉がいると知ってからは余計に穢らわしく感じるようになった。ああも惨たらしく死んだ後はそうした感情も嘘のように消え、そう悪くない父だったと思えるようにもなった。娘にとっては死んだ父親だけが良い父親なのかもしれない。

「外に出るつもりはなかったんだけどな」

 過去を思い出すうち、どうしても鍋が食べたくなってきた。良いことはないと分かっていたし、みっともない姿で外出するのはわたしの矜恃に反する。女たるもの家の外に一歩でも出るようなら肌にも心にも壁を築かなければならない。

 しばし迷ったのち、妥協メイクの上からサングラス、マスクを着けて顔を隠すことにした。髪は一つにまとめて帽子で誤魔化す。春用だからと既に箪笥の奥の方に追いやっていた服を取り出して羽織り、膝が隠れるくらいのスカートと丈が長目のソックスを履いて脚のラインをなるべく隠す。男の目線は自然と露出に向けられるから、顔を隠すなら他の部分も満遍なく隠さなければ、少しだらしなくなってきた足回りに注目される。それは何としても避けたかった。

 マンションから歩いて十分のスーパーに着くと湯豆腐の材料を籠に入れ、アイスの棚を断腸の思いで素通りする。いつだって、どれだけ食べたって細いままの姉と違い、食べればそれなりに肉がつく。十代の頃はいくら食べても平気だったけど、ここ数年は油断も隙もあったものではない。ビールは一日一本まで、アイスは週に二度、一日二食で肉はできるだけ控えて野菜と茸を取る。そして適度なエクササイズ、週に一度はジム通い。ここまでしても付き合いで外食が続くと一気に跳ね返ってくる。わたしはもはや無敵の女子中学生でも最強の女子高校生でもないのだ。

 会計を済ませ、荷物を抱えてマンションに戻るとドアの前にみずぼらしい姿の女がしゃがみ込んでいた。傘も差さずに出歩いたのか全身がじっとりと濡れており、上は下着と見間違うほどの薄手のノースリーブ、下はくるぶしまで隠れるようなロングスカートを履いている。悪い男か、はたまたその手の店から慌てて逃げ出したかのような姿で、もしも全く無関係の奴ならとっとと警察に通報していた。でも面倒なことに見覚えがあった。二年前と同じ構図だったし、顔を伏せているからといって実の姉を見間違えたりはしない。

「姉さん、そんなところで何をやってるの?」

 愚問だった。きっと答えは二年前と一緒だ。それでも問いかけずにはいられなかった。他に姉とどうやって会話を始めて良いかが分からなかったから。

 姉はわたしに気付き、顔を上げ、儚げに微笑む。髪はぐしゃぐしゃ、顔も唇も真っ青で、服は言わずもがな、華なんてどこにもない。にも拘わらず姉は美しかった。花がそれだけで美しいように、姉は化粧しなくても着飾らなくてもそれだけであらゆる人の目を惹く。だからかつては素直に羨み、後には憎み、今は……よく分からない。ずっと距離を置いてきて、生き方が交わるのはほんの少しだけだったから。

「ごめんなさい、突然に訪ねてきて。わたし、女苑以外に頼れる人を知らないから」

 そんなの嘘だ。前にここへ来た時も、姉は三月と経たずして新しい男を見つけ結婚していった。姉ならほんの僅かに微笑むだけで誰もがその美しさを愛で、賞賛し、全力で養おうとするだろう。たとえ過去に二度、嫁いだ先が破産して悲惨な結末に追いやられたという事実を知ったとしてもだ。いや、そうした事実があるから尚更のこと、姉を囲おうとする男はいくらでも現れる。なにしろ今は未曾有の好景気、どれだけ使おうとも金は新しく湧いてくる。土地は値上がりを続け、わたしは父が残してくれた不動産を軽く転がすだけで一生遊んで暮らせる金をいとも容易く確保できる。

『日本はかつてアメリカとの戦争に負けたが、いまや経済でアメリカを圧倒しようとしている。ハリウッドもディズニーも近いうち、日本のものになるだろう』

 知り合いの実業家がかつてそう豪語していた。それは流石に吹きすぎだと思ったが、日本の中には一種の万能感のようなものが蔓延しており、今の好況が永遠に続くと信じて疑わない。姉の嫁ぎ先が立て続けに破産したことに関しても、余程の下手を打ったのだろうとたかを括るに違いない。それはわたしにとってありがたいことだった。何故ならば姉を身近には置いていたくないからだ。姉と関わって不幸になった人間をわたしは誰よりも多く知っている。その中には父も、わたしが生涯で唯一本気になった男も含まれる。だからわたしはかつて、姉を誰よりも憎んだのだ。

「入って。まずはお風呂に浸かって頭から足の先まで綺麗に洗うこと。服はわたしのを貸したげる、サイズは合わないと思うけど我慢してね」

「実を言うとお腹がとても空いているのだけど」

 世話になろうという相手に対して図々しい物言いだが、盛大に腹の虫を鳴かせたら溜息しか出なかった。

「こんな季節だけど無性に食べたくなってさ、鍋の材料を買ってきたの。一人じゃ食べきれないかなと思ってたところに姉さんが訪ねて来たのよね。これは天の配剤ってやつかしら?」

 実際にそうとしか思えないタイミングだし、姉は昔から求めるものを誰かに用意してもらえる人だった。それでいて手を差し伸べた相手から運気から根こそぎ奪っていくのだから理不尽というか、もはや人間の域を若干超えている。疫病神とさえ呼べるのかもしれない。

 そんな姉だからきっと喜んでくれると思ったのだが、何故か渋い顔をされた。姉がわがままを言うのはいつものことだが今回は少し勝手が違う様子だった。

「女苑ったら、こんな梅雨らしいじめじめした日にお鍋を食べるようになったんだ」

「クーラーを効かせるから平気よ。姉さんだって子供の頃は美味しそうに食べてたじゃない」

 父の作る鍋をわたしや母よりも嬉しそうに食べていたことをわたしはよく覚えている。だが、姉は申し訳なさそうに首を振るだけだった。

「わたし、カレーが食べたいな」

「えー、鍋よりずっと面倒じゃん」

「ボンカレーで良いよ。ほら、どこかの偉いお医者さんも言ってたじゃない、ボンカレーはどう作っても美味しいって」

「まあ、そりゃあレトルトだからね」

 わたしもレトルトのカレーはよく買って食べるし、それなりに美味しくはあるのだが、久し振りに出会った姉妹が食べるようなものではない。だが、今日に限っては一歩も引こうとせず、仕方なく妥協するしかなかった。

「分かった分かった、買ってくるから留守番お願いね。着替えは適当なものを見繕って頂戴。あと、わたし以外の誰かが訪ねてきても決して出ないこと、良いわね」

「はーい、分かりました」

 姉は小躍りするほど喜び、自作であろうと思しきカレーの歌を歌い始める。さっきまで死にそうな顔をしていたのに、我が姉ながらよく分からない。調子に乗るなと鼻頭に軽いデコピンでも浴びせてやりたかったが、無邪気に喜ぶ姿を見ているととてもではないが、邪険に扱う気にはならなかった。

 この無邪気さが美貌と対を成す姉のもう一つの武器だ。どんなに酷い成績でも、鈍臭くても、憎悪に値する仕打ちを受けても、いつのまにか溶かされてしまう。そして誰も彼もが姉に手を差し伸べようとする。深入りすればするほど破滅への道が待ち受けている災厄の女であってもだ。それにしたって前と同じ理由でわたしの家に転がり込んできたのなら、今回が三度目である。嫁いだ先嫁いだ先が悉く不幸に遭えば少しは己というものを省みても良いはずだが、姉からは誰かを追い込んだのだという後悔も悔恨も伝わってこない。今回もまた少し運が悪かったくらいに考えているのだ。

 我が姉ながらいよいよ救い難い。今度もまた、適当な男を引っ掛けてここから出て行くのだろう。どんなに長くても一年とかからないはずだし、その程度ならここに置いてもまあ何とかなる。姉と一緒にいた期間が長いせいか、わたしはあの不幸体質にある程度の耐性があるのだ。前に滞在していた三ヶ月ほどで起きたのは不動産のトラブルが数件、懇意にしている弁護士事務所の職員が金を持ち逃げした程度で、どれもクリティカルなものではなかった。

 それに姉を囲うのはデメリットばかりではない。あの美貌と無邪気さは不幸だけでなく商機をも惹きつける。姉の滞在時に失ったものはそれなりに大きかったが、それからの二年近くで姉の存在を釣り餌にすることで損失を補い得るほどの稼ぎを得ることができた。

 姉はわたしにとってだけは、必ずしも疫病神というわけではない。いや、わたし以外の人間でも姉を利用することは可能である。ただ、深入りさえしなければ良いのだ。でも姉の圧倒的存在感と美貌が老若男女問わず、その心を掴んで離さない。そう、女ですらしばしば姉に惚れる。老いらくの恋を画策した老人を両指に余るほど知っているし、健全な初恋を知るべきである未成年の心を容赦なく掻き回した。わたしの耐性はきっと、他の人間よりも姉への執着が薄いからだ。子供の頃から姉と暮らしており、その影響力と他者を否応なしに不幸へと堕とすイノセントな怪物であることを、わたしは誰よりも熟知している。だから実の姉であるにも拘らず、距離を置いて接することができるのだ。

 

 二度目の買い物を終えて帰ってくると、鍋の材料が全て無造作にゴミ箱へ突っ込まれていた。

「ちょっとちょっと、なにやってんのよ!」

 ざっと確かめたところどれも封は解かれておらず、野菜もビニール袋に入っていたから汚くはなっていないが、この狼藉は捨て置けるはずもない。

 そもそも腹ペコだというのに食べ物を平然と粗末にする姉の思考が全く理解できなかった。姉は独特な性格の持ち主だが、その生い立ちのためか食べ物をとても大切にする。机の上にこぼした食べ物を指で摘んでひょいと口に運ぶような貧乏臭いことをよくして、わたしはその度に顔をしかめていたものだ。

 姉はわたしの抗議を聞きいれることなく、内心の疑問に答えるような行動を取ることもなく、ボンカレーの入った袋を奪い取ると鍋に水を張り、湯を沸かそうとする。

「ご飯を炊いてないのにルゥだけ温めても意味ないわよ」

「えーっ、女苑ったら用意が悪いなあ」

「姉さんったら急に訪ねてくるんだもの、首尾良く全てが用意されてるなんて思わないで」

「そっか……じゃあ、先にお風呂かなあ」

 姉はボンカレーの袋をわたしに預けると、着ているものを一気に脱ぎ捨てて裸になる。

「湯もまだ張ってないんだってば!」

 はしたない姿に慌てて叫ぶも、姉は「シャワーで大丈夫よ!」と返し、風呂場に向かう。いつにも増して子供っぽく、愚かな行動を繰り返す。変人でも最低限の分別は身につけていると思っていたから、姉の行動は大きめの嘆息と小さな失望感を生んだ。

「全く、あんなのでどうやって上流階級の中で生活できてたのかしら……」

 前に流れて来たときはずっと控えめで初日は項垂れるだけだったのに、今回は出会い頭から遠慮を知らない。三度目の夫がよほど甘やかし、頭のネジを外してしまったのだろうか。

 風呂場から鼻歌が聞こえてきて、わたしはふと我に返る。いかなる事情があるとはいえ、腹が減っては戦もできない。わたしは米を研ぎ、炊飯器にセットする。腹の虫につられて小腹が空いてきたけれど、しばらく我慢するしかなかった。

 

 姉はボンカレーをがつがつと平らげ、皿を猫のように舐める。机に落とした食べ物を拾って食べるのと同じくらいにうんざりさせられる仕草だった。父は食べ物を無駄にしないのは良いことさとロマンスグレー特有の渋い声とともに鷹揚な笑いを見せたものだが、わたしと母は顔を見合わせて苦笑いするしかなかった。それでも何も言えなかったのは、姉が依神の家に引き取られるまでその日の食べ物にさえ困窮する生き方をしてきたと知っていたからだ。

「やっぱりボンカレーは美味しいなあ。庶民を優しく包み込んでくれる味がする」

 全方向に喧嘩を売りそうな発言だが、これはいつものことなので気にしない。持ち前の美貌で相殺されるから誰も指摘しないけど、姉はいつだって一言も二言も多いのだ。

「姉さんはこれより美味しいものをいくらでも食べていたでしょう?」

「そうね、でも正直なところわたしには分かりにくい美味しさばかりだったのよ。レトルトカレーのほうがずっと分かりやすくてわたし好み」

 強がりかとも思ったが、嘘はついていないようだった。そして今の発言から、姉が一応は上流階級の作法をなぞって生きてきたことがほんのりと伝わってくる。

「で? 姉さんはカレーの味恋しさに逃げてきたの?」

 離婚ではなく喧嘩なら元の鞘に戻れる可能性はあった。だが姉は犬の尻尾のように髪の毛をぶん回しながら首を横に振るのだった。

「あの人の母親に頭を下げられたの。夫のことを愛しているなら後生だから別れて欲しいって。あの人は最後まで味方してくれるって言ったんだけどさ、なんというか流石に三度目だし、分かっちゃうこともあるよね」

 姉はようやく己の不幸体質に気が付いたらしい。いや、先程の言い回しからして薄々は察していたようだが、見ないふりをしていたということか。そりゃまあ、関わる人全てを破滅させる体質だなんて信じたくはないだろう。その気持ちはまあ、分からないでもない。同情する気はないけれど。

「わたしもこの辺が潮時かな、とも思っていたところだし、まあ良いかなって。あの人がいくら愛してくれても、家族の間がぎくしゃくしたら何の意味もないしさ。慰謝料も出るってことだし、ぱーっと離婚してきちゃった」

 我が姉ながらなんともドライなことだった。前二回の時は一頻り落ち込む素ぶりくらいは見せたものだが。

「わたしは金に困ってないから全額貯めておきなさい。姉さんはいつだって露頭に迷う可能性があるんだから」

「その言い方、わたしが行く先々を不幸にさせるって分かってたみたい」

 姉が恨みがましそうな目でわたしを睨んでくる。わたしに姉の威厳を見せようとしているのかもしれないが残念ながら迫力は全くない。

「流石に三度目だから、偶然とは思えないだけ。二度あることが三度あったなら四度目はもっとあると考えるべきよ」

 もっともらしい言い方で誤魔化すと、姉は細めた目を広げ、尊敬の眼差しを向けてくる。

「女苑は相変わらず頭が良いなあ。わたしと違って賢いし、稼ぐのもとても上手い。実業家になれば良かったのに」

「実業家はなるものじゃなく結婚するものよ。わたしも姉さんに負けないくらいの上玉を捕まえる気でいるんだから」

「へえ、女苑にもようやく春が来そうなのね」

 姉からの興味津々な眼差しが突き刺さる。わたしは愛想笑いを浮かべながら「まあ、そんなところね」と誤魔化す。

 本当は佳い人なんていないし、誰かと結婚する気もない。試そうとはしたけど、新しい家族を作ろうと少しでも仄めかされたら両親の死を思い出して猛烈な吐き気が込み上げてくるのだ。寝物語で口にされて男の体にゲロを盛大にぶちまけたこともある。あれらを見て普通に結婚できる姉がわたしには信じられない。知り合いの精神科医曰く、姉の方が健全らしいけど。

「そういう姉さんには冬がやってきたみたいじゃない」

「わたしはいつだって冬なのよ、きっと」

 いつになく気の利いた返し方だった。会話の主導権を握るのはいつもわたしなのだが、今日はそう簡単にはいかないらしい。

「何があったか聞きたい?」

「姉さんが話したいなら。わたしは今日からまた二人暮らしだってことが分かれば十分よ」

 流石に三度目ともなれば、他人が不幸になる話も聞き飽きるというものだ。

「じゃあやめとく、あんま楽しいことじゃないし。明日からはしばらく楽しいことを考えて過ごすことにする。結婚なんてもうこりごりよ」

 前に転がり込んできた時も姉さんは同じようなことを言ったけど、三ヶ月で新しい男の後に付いて行った。半年後に結婚、だから実質的な結婚生活は一年と少しくらいか。結婚式と披露宴には参加しなかった。仕事が忙しいと嘘を吐いて断ったら、三度目じゃ流石に飽きちゃうかと返され、しつこく声をかけては来なかった。新しい飼い主を見つけたらわたしへの興味は途端になくなってしまうのだ。

 嫌な言い方だが、姉は誰にでも尻尾を振る犬である。自分を養ってくれる人と見たらひょいと惚れる。普通は好きになるから側にいたくなるものだが、姉の場合は全くの逆だ。その感性はしばしば一般的な価値観から逸脱する。見る人によっては知恵遅れの印象を抱かせるのかもしれない。実際に気狂いの美を求めて姉にすり寄ってくる奴らもいる。ろくなことにならないのは目に見えているから、知り合いの伝手を頼って筋者を雇い、処理してもらうのだけど。痴女の美を信奉するような輩にろくなのはいない。魚の餌にでもなる方がまだ有益というものだ。

 そもそも姉は頭と要領が悪いだけで、知恵遅れでもなんでもない。わたしがしっかり教え込めば、中間や期末の試験で赤点を取ることはなかった。二ヶ月遅く生まれて来た妹にがっつりコーチングを受け、なんとかものになるというのは十分に情けないが、ご覧の通りの美貌だし、黙って歩いているだけで男どもがいくらでもちやほやしてくれた。それなのに不思議と女性ウケも悪くなかったのだから、狡いとしか言いようがない。

「眠くなって来ちゃった。わたし、もう寝るね」

 姉は早々に雑誌を畳み、わたしに断ることなくベッドに横たわる。疲れが溜まっていたのか、数分としないうちにすうすうと安らかな寝息を立て始めた。

 時計を見ると午後九時を少し回った頃であり、宵っ張りの暮らしをしているわたしにとってはこれからが本番だが、姉のために部屋を暗くしてあるから何もすることがない。たまには早寝も良いかなと思い、ベッドをちらと見ると姉の口から微かな唸り声が漏れる。悪夢でも見ているのかと思いながら近付き……思わず背筋がぞわりとした。情事の時のような艶のある喘ぎ声を姉が発したからだ。

 姉だって人の子である。三度もの結婚を経験しているし、何もしていないなんてことはあり得ない。にも拘らず、わたしは姉の性に酷く狼狽してしまった。もしかすると心のどこかで、姉だけは性と関係のないところで生きていると考えていたところがあったのかもしれない。

 誰との夢を見ているのかという下衆な勘繰りはすぐ、よりおぞましい寝言に掻き消される。

「お願い……いや……やめて……」

 姉は犬のように、誰かに身を任せているのだと思っていた。でも違った。姉は無理に酷いことをされている。そして夢の中であっても逃げられなかったらしい。懇願は不規則な喘ぎとなり、感覚が徐々に速くなっていく。

 わたしは形振り構わず姉の肩を揺する。夢の中で誰も助けてくれないなら、現実のわたしが助けなければならない。

 姉はかっと目を見開き、苦しそうな息を繰り返す。目に流れこもうとする汗を拭い、染みるような痛みに顔をしかめたが、その痛みこそ姉をようやく正気の現実へと引き戻したらしい。そして目の中に浮かぶ涙を払う口実も与えた。姉はごしごしと顔を拭い、大きく二度深呼吸をするとわたしを気遣うように顔を覗き込んでくる。

「どうしたの女苑、怪物でも見かけたって顔してる」

「酷くうなされてたからつい起こしちゃったの。そんなことを言うなんて、怖い怪物に追いかけられる夢でも見たの?」

 誰かに犯される夢を見ていたの? だなんて訊けるはずもない。冗談めかして言うと、姉は力ない笑みを零す。

「巨大な犬に追いかけられる夢を見たの。わたし、子供の頃から大人しい犬にまで吠えられてたの、知ってるでしょ?」

 確かに姉は犬と相性が悪かった。他の誰に対しても大人しい飼い犬が、姉が通る時だけ激しく吠えかかるというのを何度も目にしたことがある。姉は力ない笑いを浮かべながら「わたしの前世は猫か羊だったに違いないわ」なんて軽く口にしたし、わたしはけらけらと笑い飛ばしたものだ。

 でも、頭の中に咄嗟に浮かんだのは子供の頃の思い出ではない。巨大な犬が後ろから姉を犯す淫猥な構図だ。上品ではないと自覚しているが、それにしてもあまりに下劣な発想であり、嫌悪感で胸がムカムカした。

「姉さん、犬っぽいから同類と勘違いされて縄張りに入って来たと思われたんじゃない?」

 なんとなしに漏れた軽口だが、案外的を射ているような気もした。忠義はないが、飼い主とみたら誰でも尻尾を振ってしまうのだから。犬は臭いに敏感だという話はよく聞くが、犬っぽい挙動をそれらなりに理解しているのかもしれない。

 そして犬は上下関係に厳格でもあり、上の相手には逆らえない。姉の気質を巧みに利用して上に乗り、思う存分に弄んだであろう何者かがいるのだ。

「女苑ったらなんてこと言うのよ。全く昔からそうよね、姉に対する敬意が感じられない」

「だったらもう少し姉らしくしてみなさい」

 姉は「善処しまーす」と政治家みたいなことを口にしてからごろりと布団に寝転び、それからおずおずと手を差し出してくる。姉のくせに妹より怖がりで、そのくせホラー映画やホラー小説を怖いもの見たさで目にするから、その度にわたしを呼び寄せて手を握らせる。眠るまで誰かのことを感じていたいのだ。

 わたしは夢に怯える仕方のない姉を揶揄するように大きく息を吐き、細っこくて血管の浮き出た手をそっと握る。ピアノ奏者が羨みそうなくらいに長くて整った五指だが、楽器の腕は全般的にからっきしである。天はなかなか、人に二物を与えてはくれないものらしい。

「お休みなさい。今度はきっと良い夢を見られるわ」

 姉は小さく頷き、そっと目を瞑る。わたしの励ましが功を奏したのか、それとも悪夢すら取り替えられないほどに疲れていたのか。どちらにせよ十分ほどで眠りに就いてくれたのは幸いだった。

 

 今更だが、もっと早くおかしいと気付くべきだった。姉は学生の頃から要領が悪く、大人になってからもその本質は変わっていないし、たまに突拍子のない行動を取ることはあるけれど、目に見えて分かる奇矯さをこうも短い間に繰り返すだなんてこれまで前例がなかったはずだ。

 三度目の嫁ぎ先で何かあったのではないかという疑いが首をもたげてくる。陽気を装わなければならないような酷いことをされたのではないか。姉は話したくないと言ったが、無理矢理にでも聞き出すべきかもしれない。だがわたしの雑誌を勝手に読み、久々の東京見物に心を弾ませていた姉に辛いことを思い出させる真似はしたくなかった。

 姉の心中を慮ってのことではない。取り乱して宥めるような羽目になるのが面倒臭いからだ。幸いにしてわたしには優秀な探偵の知り合いがいる。少しお高いが、金に糸目をつけるようなことはしない。徹底的に探ってもらい、場合によっては落とし前をつける。どんな豪邸に住まい、常にボディーガードから守られているのだとしても、それでも不幸になる方法なんていくらでもあるのだ。

 姉の鼻やおでこを軽くつついて反応がないことを確認すると、わたしは探偵に電話をかける。二十コール鳴らし、留守かと諦めかけたところでようやく電話が繋がり、気怠そうながらがら声が受話器の向こうから聞こえてきた。

「こちら、天堂探偵事務所です。申し訳ありませんが本日の業務は終了いたしました」

 留守電のメッセージではなく、本人が喋っている。いつもながらふざけた奴だ。背後から聞こえてくるじゃらじゃら音から察するに、どうやら面子を集めて麻雀をやっているらしい。

「もしもし、わたしだけど」

「なんだ、女苑か。言ってくれればすぐに出たのに」

「無茶言わないでよ。それより仕事を一つ頼みたいのだけど良いかしら?」

「代打ちなら現在休業中だ。どうにも運が乗らなくてね」

「あんた、自分の本業をなんだと思っているのよ」

「もちろん自由人さ。求められるままになんでもやる。犯罪沙汰だけはご勘弁だけどね」

 嘘をつけと心の中で呟いてから、わたしはさっさと本題を切り出した。こいつの軽口に付き合っていたら時間がいくらあっても足りないからだ。

「素行調査を依頼したいの。できるかしら?」

「女王様の仰せの通りに」女苑という名前に託けて、彼はわたしのことを女王様呼ばわりする。他の奴なら許さないが、何かと頼りになる奴だから仕方なく許してやっている。「報酬次第で、それこそ総理大臣や新聞社の会長でもみっちり調べてしんぜよう。愛車がとうとうオシャカになりそうで、先立つ物がいくらあっても足りないんだ」

「そこまで難易度の高い依頼じゃないから安心して。というかさ、金も運もないのに打ってるんじゃないわよ」

「レートの低い身内麻雀だから大丈夫。いわゆる運気の調整ってやつさ」

 どんなことがあっても麻雀から離れられないのは本当に救いようがない。わたしの知る中では五指に入るほどの腕前だが、入れ込み過ぎる性格のせいか定期的に身を持ち崩しかねないほど大敗するのだ。腕はあるのに博打下手というのは腕がないよりもなおたちが悪い。金で思いのままに動く駒になってくれるからわたしとしてはありがたいのだけど。

「はいはい。それで頼みたいことなんだけど……」

 わたしは姉の三度目の嫁ぎ先について、掻い摘まんだ話をする。それだけで探偵は十も二十も察したようだった。

「ああ、あそこの経営者一族か。ずっと順風満帆だったのにここ一年であり得ない程のトラブル続きだったから座敷童に逃げられたんじゃないかとまことしやかに囁かれていたものだが、なるほどなるほど。疫病神が入り込んでいたか」

 姉を疫病神呼ばわりされるのは腹立たしいが事実だからしょうがないし、共通認識があれば話も進めやすい。彼の分かりやすい無礼さは物差しの役目も果たしているわけだし、慇懃無礼に振る舞われるのもそれはそれで癇に触るから好きなように喋らせるしかない。

「協議離婚が成立したらしく、行く当てがなくてうちに転がり込んできたのだけど、どうも調子がおかしくてね」

「えげつない嫁いびり、性癖のねじ曲がった夫、類稀な美貌に欲望を向ける類縁……そういったものをご所望で?」

「事実だけを寄越せば良いわ」

「本人がいるなら直接訊けば良いのに」

「変に取り乱されたら面倒だし、姉さんから直接訊くのは色々と不都合もあるしね」

「例えば落とし前を付ける必要があった場合とか?」

 いちいちこちらの思考に先回りしてくるのがなんとも小賢しい。だから大抵の麻雀には勝つし、小賢しさが通用しない相手には大敗するのだ。

「姉さんもここに至ってようやく自分の体質に気付いた様子だし、不幸があってもその影響だと思ってくれそうだけど。万が一ということもある」

「紫苑の前ではあくまでも良い妹でいたいってことか。涙ぐましいねえ」

「そういうんじゃないの、誤解しないで」

 女だてらに土地転がしをやっていれば、男なら決して遭うことのない類の恫喝や侮辱と対面することがある。それをいちいち許していては成り立つものも成り立たないし、身内の不幸を看過すればそれだけで侮られかねない。わたしはわたしのために、姉が酷い目に遭わされていたならば落とし前をつけなければならない。

「明日から麻雀抜きできっちり調査しなさい。くれぐれも言っておくけど、事実だけを報告すること。良いわね?」

 彼が行う探偵にはしばしば脚色が伴う。事実を探り出すのではなくストーリーありきで伏線を配置し、真実という体でクライアントに解決をお出しする。ゆえに真っ当な探偵を頼むならその辺りをきっちり言い含める必要があるのだ。

「了解、明日から女苑のために『探偵』をやるよ」

「任せたわ。着手金は明日振り込んどく、調査費用の請求はいつも通りに」

 調査費用は依頼の完遂後、回されてきた請求書に即払いとなる。麻雀で負けた分を補填するため少し吹っかけてくるかもしれないが、それも含めて満額支払う予定だ。

 当面の用事はこれで完了である。調査結果によっては後日、始末屋に声をかける必要もある。探偵と違い、あいつらは女に全く敬意を示さないから極力関わり合いたくないのだが、背に腹はかえられない。

 頭の中がもやもやしてたまらず、わたしは棚の奥深くに隠しておいた煙草とライターを取り出すとベランダに出る。現物を隠し持っているのだからなんちゃって禁煙だが、今回は割と成功に近いところまで来ていたのだ。その証拠に先程まで煙草を隠していたことさえ思い出せなかった。でも駄目だった。姉のことで頭がぐちゃぐちゃ過ぎて、煙草で吹き飛ばしでもしない限りまともでいられる自信がなかった。

 なかなか点かないライターに苛々し、ようやく火が灯ったと思ったら煙草を取り落とし、思わず舌打ちする。二本目を慎重に着火、煙草を咥えてからゆっくり吸い込むと頭の中が一気に澄み渡り、煙とともに深い息をつく。半分も吸わないうちに火をもみ消し、すぐに次へ。気が付いたら半箱なくなっており、慌てて箱を潰してから部屋に戻る。吸ってない煙草をゴミ箱に捨て、歯を磨いてからマウスウォッシュで咥内を丹念に洗うとようやく気持ち悪い感覚が遠ざかり、代わって頭痛が襲ってきた。

 クーラーのタイマーを一時間にセットし、ソファーに横たわると何もかけずに目を瞑る。適度にひんやりとした風が体に染み、頭痛が和らいで少しずつ眠くなってきた。よくクーラーは体に悪いから利用しないと言う人がいるけど、暑いのを我慢して眠るほうが体に悪いに決まってる。堕落と言われようが、わたしはクーラーやヒーターを否定する気はなかった。

 ジリジリと微かに音を立てるタイマーもまた、わたしを睡魔に誘った。

 

 

 翌朝、わたしと姉は最寄駅の側に立つデパートに向かうことにした。品揃えも店員も中途半端だがそこそこ高級なものを雑に揃えるなら十分に用が足りる。ここで姉の日用品、洋服を買い込むつもりだった。

「前の時も同じ店に来たよね。女苑ったらわたしのことそっちのけで買い物ばかりしててさ、普段はしっかりしてても根は妹なんだなって思ったのよね」

 今回と違い、酷く落ち込んでいたから頼りなさげに振る舞っただけだ。姉はこの手の機微が全く通じないし、天然で返してくる。

「わたしだってこの二年で成長したの。姉さんを放ってどこかへ行ったりなんてしません」

 本当かなあと言いたげな姉の視線を無視し、まずは生活必需品を手早く籠の中に放り込んでいく。それから婦人服売場のある階に移動し、姉の普段着を見繕う。背が高くて細いからどんな服でも似合いますねえという店員のお世辞を適度に受け流し、外に出ても恥ずかしくない夏物上下を数着ずつ、それから下着を五セットほど。姉のセンスも一応確認してみたけど、安物で色もデザインもとっぽいものばかり選ぶからわたしがコーディネイトしてやるしかなかった。派手だし、スカート丈が短すぎると言われたが、当世風の流行だと言って押し通した。

 それから化粧品売場に行き、ファンデーション、口紅、白粉からチークに至るまで最高級でけばけばしくなるよう揃えてやった。こちらも姉の抗議は断固無視である。

 派手な服に化粧を用意するのには大きな理由がある。姉はなんといっても顔が良い。ことに素朴な姿をしていればその良さが際立ってくる。濃い目の化粧を施すことで逆にその魅力を隠し、派手な服と露出によって分散させることで衆目からの視線を何とかかわすことができるのだ。現にいま、姉の顔にはかなり濃い目で不似合いなメイクを施してある。それでもたまに視線で追いかけてくる男性がいるから本当に厄介なことこの上ない。

 都会にいれば並大抵の美貌では注目されないが、姉は数少ない例外の一人である。自衛しなければその美貌が蜜に群がる昆虫の如く色々なものを引き寄せてしまう。それが益虫なら良いが、害虫だと目も当てられないことになる。これまでその美貌をあらゆる方向から誉めそやされてきたにも関わらず、姉はあまりにも無頓着なのだ。誉められるのが当たり前になっているからなのか、その美貌によって次の飼い主を探そうという甘い考えが頭の中にあるのか。どちらにしてもわたしの家に住まう限り、余計な争いを持ち込ませるつもりはない。わたし流の派手さに付き合ってもらうつもりだった。

 最後に食材と調味料を買い込むため、地下の食料品売場に足を運ぶ。

 一人暮らしの時はレトルトで適当に済ませてきたけど、姉がいる時だけはちゃんと料理をする。しっかりしているところを見せたいわけではなく、姉は食べられるものがあると後先考えず、お腹一杯になるまで食べようとする悪い癖があるのだ。前回の居候の際にそのことを痛感させられたから、調理しなければ食べられないものだけが冷蔵庫に残るようにしている。そうすれば勿体ないと感じるのか、きちんと一人前を作って食べてくれるし、時々はわたしの分を残して待っていてくれる。レトルトやお総菜、菓子の類はその日に食べる分だけ、だから姉がいると健康的な生活となり、体型も自然と理想に近い形をキープできる。そういう意味でも姉はわたしにとって疫病神というだけの存在ではない。それでも扱いはすこぶる難しいのだけど。

「姉さんは何か食べたいものある?」

「女苑が作るものだったら何でも美味しいから任せる」一応リクエストを取ると案の定、判断に困る答えを返してくる。前回も姉は同じことを言ってきた。「あ、鍋は駄目、あれだけは拒否するから」

 と思いきや、今回は追加で注文を付けてくる。

「昔は鍋好きだったのに嫌いになったのね。もしかして、嫁ぎ先の誰かが鍋暴君だった?」

 鍋将軍を拗らせた年輩の男性をわたしはよくこう呼んでいるし、あの手合いに何度か遭遇したせいで、外食で鍋を頼むのはできるだけ避けるようにしている。同じような手合いに悩まされたのだと推測したのだが、はたして姉は勢いよく何度も頷くのだった。

「具を入れる順番、灰汁を取るタイミングと厳しく指定してきてさ。女苑がそういうのじゃないってのは知ってるけど」

「うんざりってことか。それならしばらくは避けたほうが良いわね」

「夏は嫌、秋も深まってきてからなら大丈夫、だと思う」

 よく分からない指定だったが、時間を置けばトラウマも抜けるということなのかもしれない。わたしは親指と人差し指で丸を作ると、姉の好物の一つであるハンバーグの材料を籠に入れていく。後ろからこっそり菓子を入れていく姉の動きはまあ、見て見ない振りをすることにした。

 

 買い物帰りに銀行へ寄り、探偵に着手金を振り込んでから公衆電話で連絡を取る。今日は本当に留守電だったので「女苑より、着手金を振り込んだので確認よろしく」と吹き込んで受話器を置く。

「女苑って仕事熱心なのね。買い物の合間に仕事の電話だなんて」

 いつの間にか姉が聞き耳を立てていた。ここで探偵という言葉を使っていたら紫苑は根掘り葉掘り聞いてきたかもしれない。内心の動揺を誤魔化すため、わたしは分かりやすく偉ぶって見せた。

「今は猫も杓子も不動産でしょう? 商機はどんな時でも舞い込んでくるのよ」

 嘘を吐いたが、あながち出鱈目を口にしたわけではない。日本中の至るところで土地の値段は上がり続け、それでも法人個人を問わずに多くの者が土地を欲しがっている。欲を言えば常時連絡が取れるようにしておきたいし、電電公社製の携帯電話を買おうと思ったこともある。だが重い上にデザインが無骨過ぎ、とても買う気にならなかった。より小型化され、デザインが洗練されたら流行すること間違いなしと豪語していた知人もいたが、こんなものが流行るとは露ほども思えない。よく考えてみれば、日本はどこにでも公衆電話が設置されているから携帯電話など不要である。

「女苑はしっかり大人をしてて偉いなあ」

「それを言うなら既婚者である姉さんのほうが余程大人よ。わたしは父さんの遺産でたまたま上手く暮らせているだけなんだから」

 一生遊んで暮らすことのできるお金が作れるのにたまたまと言うのは謙遜かもしれないが、わたし自身の努力なんて雀の涙くらいのものだ。父に不動産投資の類稀な才能があり、その影響で優秀な知り合いに恵まれていたから娘のわたしもその恩恵に預かれているというだけで。

「わたしはふらふらとしてるだけよ。惚れっぽくて、相手も惚れてくれるから上手くいくというだけ。それももう三度もご破算になってる」

「じゃあ、わたしたちは大人じゃないのかもしれない。たまたま運良く生きられているだけの、ただの子供かもね」

 ほんの冗談のつもりだった。相応の背丈に胸回りも乏しく、お尻もぺたんこだから高校生、下手すると中学生にさえ間違われることのあるわたしだが、二十歳を超えてから酒で度を外したことは一度もない。公共の場ではきっちり大人として振る舞えるし、礼節とけじめには人一倍厳しいほうだ。姉にしたって子供扱いされるのが嬉しい年頃ではないはずだから、あっさり否定してくれるのだと思っていた。

「なら、早く大人になりたいな。どうしたらなれるんだろうね」

 本気で受け止められるとは思わず、言葉に詰まってしまった。代わりに動いてくれたのは手で、そいつは自然と姉のおでこをぴんと弾いていた。

「いたた、いきなり何するのよ!」

「ばぁか、冗談に、決まってるでしょう!」言葉がようやく手に追いついてくれた。「わたしも姉さんも十分に大人よ。背を伸ばして堂々と歩けば良いの」

 わたしは改めて背筋をぴんと伸ばし、大袈裟に手を振って歩き始める。だから姉の姿は見えなかったが、こう言ってもなお猫背のままであることは容易に想像がついた。

 でも少しは自信を持ってくれたらしい。三百六十五歩のマーチが後ろから聞こえてきたからだ。いつもなら恥ずかしいからやめさせるのだが、今日だけは止めなかった。姉の歌がわたしを存外、愉快な気持ちにさせてくれたからだ。

 こうしてわたしと姉、二人の共同生活が始まった。